2022年04月30日

向いている方向

https://news.yahoo.co.jp/articles/94597d0c4fead54224237d4db60c182eda8fb0f7
ロシア訪問が先は「間違い」 ゼレンスキー氏、国連総長を批判
4/24(日) 11:45配信
AFP=時事

【AFP=時事】国連(UN)のアントニオ・グテレス(Antonio Guterres)事務総長が26日にロシアを、28日にウクライナを訪問する予定となっていることについて、ウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)大統領は23日、ウクライナの前にロシアを訪問するのは「間違い」だと批判した。

 ゼレンスキー氏は記者団に「まずロシアに行き、それからウクライナに来るのは単純に間違っている」とし、「この順番には正義も論理もない」と述べた。

 さらに「戦争はウクライナで起きており、モスクワの路上に遺体はない。まずウクライナに来て、現地の人々や占領の結果を見るのが筋だろう」と指摘。キーウ周辺だけでも民間人の死者は1000人を超えていると付け加えた。


(以下略)
すでに全日程が終わった訪問の話なので取り上げるには今更感があるでしょうが、ゼレンスキー・ウクライナ大統領が「向いている方向」に疑問を持たざるを得ません。

まずウクライナに来て、現地の人々や占領の結果を見」ることを求めるゼレンスキー大統領の狙いは差し詰め、国連を自国陣営に巻き込んでロシア対して自国利益に資する譲歩を要求してほしいといったところなのでしょう。ウクライナは国際世論を味方につけるほかに勝ち目はありません。しかし、この戦争で今真っ先に取り組まなければならない事柄は、停戦でも終戦でもなく民間人の退避です。すでに深刻な被害が出ています。どちらが侵略国であるかという問題はさておき、これ以上の民間人の被害・犠牲を何としてでも避けなければなりません

もちろん、戦争終結が一番ですが、そもそも戦争は政治の延長線上に起こるものであるため、それを終わらせるためには幾つもの政治的なハードルを超える必要があります。一朝一夕に実現するものではありません。そんな中でも民間人の命は脅かされ続けています優先順位においても情勢判断においても戦争を終わらせることよりも民間人退避を実現させることを先行させるべきでしょう。

民間人退避実現のためには侵攻した側であるロシアの協力が不可欠です。ウクライナ政府が民間人退避に取り組んでこなかったとは言いませんが、しかし、ロシア政府はウクライナ政府を「ネオナチ」と呼んでおりどこまで本気の交渉相手と見なしているか測り難いところです。現に民間人退避は遅々として進んではいません。ロシアとウクライナとの両国交渉に任せているだけでは民間人退避の実現には不足であると言わざるを得ないでしょう。

まずウクライナに来て、現地の人々や占領の結果を見」なければ民間人退避の必要性が認識ではないほどは国連組織も無能ではありません。それを見ることで出てくる所感は「侵略者に対する憎悪」であり復讐の決意になるので、むしろ民間人退避が後背に押しやられることになりかねません。

このように考えれば、グテレス・国連事務総長がまずロシアを訪問して民間人退避問題についてプーチン・ロシア大統領と直談判することは取り立てて不自然な流れではなく、一刻を争っている現状においてはむしろ順当であるとさえ言えるように思われます

グテレス事務総長が先にロシアを訪問することを批判するゼレンスキー大統領は「民間人退避」よりも「侵略者を撃退して祖国防衛の戦争に勝利すること」を上位に置いているように思えてなりません。もちろん一国の為政者として後者を追求することは当然でしょうが、前者を実現させた上で後者を追求すべきことであるはずです。当ブログでは3月6日づけ記事において、この戦争に関する日本世論の反応について「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」傾向がみられると指摘しました。為政者は、「十年百年の大計」を考えつつも「生活者の一分一秒」を軽視してはならないとも述べました。「十年百年の大計」のために「生活者の一分一秒」を軽視することは生活者を捨て駒扱いすることです。

また、「侵略者を撃退して祖国防衛の戦争に勝利すること」を追求するためにこそ民間人退避には力を入れて取り組む必要があるはずです。西側諸国の軍事援助を受けて心置きなく徹底的に戦ってロシア軍を国境の外に駆逐するためには、戦闘区域から民間人を退避させる必要があるはずです。

民間人の被害について連日「ロシアによる戦争犯罪」と非難しているゼレンスキー大統領。ロシア軍への徹底抗戦の決意が固いゼレンスキー大統領。これ以上、戦争犯罪の被害者を生まないためにも徹底的な反撃戦を展開するためにも民間人退避は必要であるはずです。しかし、そのための現実的で具体的な段取りを取ろうとすると批判する――ゼレンスキー大統領が「向いている方向」は、正直な感想として私には理解しがたいところです。ぜひとも私の勉強不足・理解不足であってほしいとさえ思います。
ラベル:国際「秩序」
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2022年04月29日

朝鮮人民革命軍創建90周年慶祝閲兵式

http://uriminzokkiri.com/index.php?lang=jpn&ptype=cforev&stype=2&ctype=3&mtype=view&no=40582
金正恩総書記が朝鮮人民革命軍創建90周年慶祝閲兵式で演説を行う

【平壌4月26日発朝鮮中央通信】敬愛する金正恩総書記は、チュチェ111(2022)年4月25日、朝鮮人民革命軍創建90周年慶祝閲兵式で演説を行った。

その全文は、次の通り。

(中略)
人民軍内の全ての党組織と政治機関は思想革命に引き続き力を入れ、軍人大衆の革命思想の培養、精神力の培養に総力を集中しなければなりません。

思想と信念の強兵を育成することを最優先し、全ての将兵をひたすら党中央の革命思想と意志通りに戦い、徹底した階級意識と不屈の戦闘精神を体質化し、党中央が定めた標的の中心から寸分の狂いもなく、たった一度の不発も知らない思想的近衛兵に育て上げなければなりません。

また、人民軍の戦闘力を非常に向上させるための軍事・技術強兵化を強力に推し進めなければなりません。

世界の軍事力の発展趨勢と急変する今の戦争の様相は、われわれの軍隊を軍事・技術的により速く近代化することを求めています。

軍近代化のスローガンを高く掲げて、人民軍を高度の軍事・技術力を備えた強兵に強化・発展させることに全力を尽くさなければなりません。

軍事人材育成システムの近代化を推し進めて、各級の軍種・兵種部隊を巧みに指揮・統率できる有能な指揮官をより多く育成し、作戦・戦闘訓練の近代化の水準を高めて、全軍の全ての部隊、区分隊をいかなる戦闘任務をも円滑に遂行できるように育て上げなければなりません。

国防科学部門と軍需工業部門では新世代先端武装装備を引き続き開発し、実戦配備して人民軍の軍事的威力を絶えず向上させなければなりません。

特に国力の象徴であり、われわれの軍事力の基本をなす核戦力を質と量の両面から強化して、いかなる戦争状況の下でそれぞれの作戦の目的や任務に従って、さまざまな手段をもって核戦闘能力を発揮できるようにすべきです。

現情勢は、共和国武力の現代性と軍事・技術的強勢を恒久的に確実に保証するためのより積極的な措置を講じることを促しています。

われわれは、激変する政治・軍事情勢と今後のあらゆる危機に備えて、われわれが揺るぎなく歩んできた自衛的かつ近代的な武力建設の道をより速く、より力強く進むでしょうし、特にわが国家が保有している核戦力を最大の速度で一層強化・発展させるための措置を引き続き講じていくでしょう。

われわれの核戦力の基本的使命は戦争を抑止することですが、この地でわれわれが決して望まない状況が醸成される場合にまで、われわれの核が戦争防止という一つの使命にだけ束縛されているわけにはいきません。

いかなる勢力であれ、わが国家の根本的利益を侵奪しようとするならば、われわれの核戦力は意外なその第二の使命を断固果たさざるを得ないでしょう。

共和国の核戦力は、いつでもその責任ある使命と特有の抑止力を稼動できるように徹底的に準備していなければなりません。

同志の皆さん、人民軍の将兵諸君!

今、われわれの武力はどんな戦いにも自信を持って対応できる準備を整えています。

いかなる勢力でも朝鮮民主主義人民共和国との軍事対決を企図するならば、彼らは掃滅されるでしょう。

英雄的な朝鮮人民軍を中核とする朝鮮民主主義人民共和国の全ての武力は、常に自己の偉業に対する確信を持ち、自信に満ちてあらゆる挑戦に立ち向かって勇敢に突き進むべきであり、人民の安寧と尊厳、幸福を守る聖なる使命を忠実に果たし、無敵の軍事的強勢を堅持してわれわれの社会主義の発展をしっかり保証しなければなりません。

共和国武力の将兵諸君!

皆さんの胸に革命烈士の熱い血と貴い精神が力強く脈打ち、革命武力が朝鮮労働党の思想と意志、わが国家と人民の力の体現者として常に革命の陣頭に立っている限り、朝鮮式社会主義の偉業は今後も永遠に必勝不敗でしょう。

朝鮮人民軍と全ての共和国武力の指揮官・兵士諸君!

偉大なわが人民の安寧と幸福のために、

偉大なわが国家の無限の栄光と勝利のために力強く闘っていきましょう。

偉大なわれわれの革命的武力万歳!

偉大なわが祖国―朝鮮民主主義人民共和国万歳!
朝鮮人民革命軍創建90周年慶祝閲兵式でのキム・ジョンウン元帥様演説。2点注目したいと思います。

まず、「思想と信念の強兵を育成することを最優先し、全ての将兵をひたすら党中央の革命思想と意志通りに戦い、徹底した階級意識と不屈の戦闘精神を体質化し、党中央が定めた標的の中心から寸分の狂いもなく、たった一度の不発も知らない思想的近衛兵に育て上げなければなりません。また、人民軍の戦闘力を非常に向上させるための軍事・技術強兵化を強力に推し進めなければなりません。」というご指摘に注目したいと思います。

人間存在が客観的条件に規定される側面と人間存在自身が客観的条件を変革してゆく側面をバランスよく考慮をしコンパクトに表現された金言的ご指摘です。竹槍でB29を撃ち落とすわけではなく念仏で平和を保持するわけでもないビジョン。客観条件決定論でもなく精神論でもないビジョン。これぞ主体的唯物論というべき端的なご指摘です。

また、「いかなる勢力であれ、わが国家の根本的利益を侵奪しようとするならば、われわれの核戦力は意外なその第二の使命を断固果たさざるを得ないでしょう」という指摘にも注目せざるを得ないでしょう。

西側の連中はこのことを「先制攻撃論」などと曲解し騒ぎ立てつつ「敵基地攻撃能力」改め「反撃能力」と称して自らの帝国主義的な攻撃武力保持を正当化しそうなところですが、元帥様の「わが国家の根本的利益を侵奪」というくだりに明らかであるとおり、共和国は一貫して「体制の防衛・維持」を目的としています。共和国にとっての「わが国家の根本的利益」とは朝鮮労働党体制の維持以外の何物でもありません。レーニンが『帝国主義論』で明らかにし、キム・ジョンイル総書記が『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』でアップデートしたとおり、帝国主義は常にフロンティアを探し続けなければならず、それは膨張主義的になりがちのものであることと対照的です。

ところで閲兵式の軍人行進。以前と比べるにガチョウ足行進の度合いがそれほどでもなくなってきたように思います。印象としては、かつてはレーニン廟衛兵レベルのガチョウ足更新であったところ、中国人民解放軍レベルのガチョウ足になってきたように思われます。この意図やどこに?
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2022年04月25日

점령 못할 요새가 없으며 뚫지 못할 난관이란 없다

http://uriminzokkiri.com/index.php?ptype=cgisas&mtype=view&no=1226263
주체111(2022)년 4월 25일 《로동신문》
혁명가요에 맥박치는 백두의 칼바람정신 천만심장을 끓게 한다

경애하는 김정은동지께서는 다음과 같이 말씀하시였다.

《죽어도 살아도 내 나라, 내 민족을 위하여 만난을 헤치며 싸워 승리한 항일혁명선렬들의 필승의 신념과 불굴의 기개가 오늘 우리 천만군민의 심장마다에 그대로 맥박쳐야 합니다.》

항일혁명투쟁시기에 창작된 혁명가요는 우리 당의 귀중한 혁명적재부이다.

위대한 수령님께서는 한편의 시가 천만사람의 가슴을 격동시키며 총칼이 미치지 못하는 곳에서는 혁명의 노래가 적의 심장을 꿰뚫을수 있다는것을 통찰하시고 항일혁명투쟁시기 혁명적인 노래창작에 깊은 관심을 돌리시였다.

위대한 수령님께서는 친히 불후의 고전적명작 《반일전가》를 비롯한 작품들을 창작하시였으며 유격대원들의 불굴의 신념과 의지를 반영한 가요창작을 세심히 이끌어주시였다.

하여 혁명가요들은 높은 정치성과 혁명성, 전투성이 보장된 그야말로 천만자루의 총검을 대신하는 작품들로 창작되였다. 혁명가요는 조국해방위업을 실현하고 천만인민이 혁명의 년대마다에 승리와 영광을 떨치는데 크게 이바지하여왔다.

현시기 천만의 가슴마다에 백두의 혁명정신, 백두의 칼바람정신을 심어주는데서 혁명가요는 커다란 위력을 발휘하고있다.

(中略)
혁명가요는 또한 우리 인민으로 하여금 높은 혁명성과 애국심을 발휘해나갈수 있게 하는 삶과 투쟁의 귀중한 활력소이다.

혁명가요에는 혁명적신념과 투철한 계급의식에 대한 주제도 있으며 조국과 인민에 대한 사랑, 혁명적동지애와 락관주의 등이 반영되여있다.

혁명가의 신념이 얼마나 투철해야 하는가를 가르쳐주는 조선혁명의 영원한 주제가와도 같은 《적기가》,

《비겁한자야 갈라면 가라 우리들은 붉은기를 지키리라》는 구절은 백두의 칼바람이 느껴지는 그야말로 명구절이다. 백두의 칼바람은 혁명가들에게는 혁명적신념을 벼려주고 기적과 승리를 가져다주는 따스한 바람이지만 혁명의 배신자, 변절자들에게는 돌풍이 되여 철추를 내리는 날카로운 바람이다. 혁명가요 《적기가》는 백두의 칼바람정신을 뼈속깊이 새긴 전사는 혁명의 붉은기를 끝까지 지키지만 신념과 의지가 떨떨한자는 혁명의 길을 끝까지 갈수 없다는 사상을 명백히 밝히고있다.

《혁명가》, 《메데가》를 비롯한 혁명가요들은 제국주의자들과 계급적원쑤들과는 비타협적인 투쟁을 벌려야 하며 그 길에서 추호의 동요나 주저도 몰라야 한다는 내용을 담고있는것으로 하여 천만인민의 반제계급의식을 서리발처럼 벼리여준다.

혁명가요를 부르면 계급의식을 흐리게 하는 그 어떤 잡사상이 깃들수 없고 남에 대한 의존심이 싹틀수 없으며 당이 요구하고 혁명에 필요한것이라면 한몸이 열쪼각, 백쪼각 나도 기어이 해내고야말 투지와 용맹으로 심장을 끓이게 된다.

혁명가요에 맥박치는 백두의 칼바람정신으로 심장을 끓일 때 점령 못할 요새가 없으며 뚫지 못할 난관이란 없다.

항일혁명선렬들의 넋을 이어받은 우리 인민에게 있어서 백두의 칼바람정신이야말로 사회주의건설의 새 승리를 이룩해나갈수 있게 하는 위력한 사상정신적무기이다.

모든 일군들과 당원들과 근로자들이여, 백두에서 개척된 주체혁명위업을 기어이 완수해야 할 성스러운 사명과 임무를 깊이 새기고 혁명가요를 투쟁의 진군가로 높이 울리며 용기백배 힘차게 나아가자.
朝鮮人民革命軍創建90年の日に公開された『労働新聞』記事。≪혁명가요에 맥박치는 백두의 칼바람정신으로 심장을 끓일 때 점령 못할 요새가 없으며 뚫지 못할 난관이란 없다≫というくだりはチュチェ革命を考えるうえで重要な指摘であり、≪백두의 칼바람정신이야말로 사회주의건설의 새 승리를 이룩해나갈수 있게 하는 위력한 사상정신적무기이다≫というくだりは共和国の政治を「音楽政治」として歌謡歌詞から党の意図や方向性を探ろうとする当ブログの立場として注目したいものです。
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2022年04月24日

ロシアが孤立しているとは言い難い現状は、自己中心的な天狗状態に陥っている日本世論の現状への痛撃

https://www.jiji.com/jc/article?k=2022040900232
ロシアの責任転嫁にほころび 犠牲判明で「ウクライナの仕業」
2022年04月09日13時39分

 親ロシア派との戦闘が続くウクライナ東部ドネツク州で、政府軍が支配するクラマトルスクの鉄道駅に8日、弾道ミサイルが撃ち込まれた。民間人に多数の犠牲者が出たと分かると、ロシアのメディアは「ウクライナ軍のミサイル」と報道。ただ、主張には早くもほころびが見える。

(以下略)
少し前の記事ですが、よくよく読んでみると興味深い内容です。

ロシアは日本にとって「敵性国家」であるがゆえに日本では政府もメディアもウクライナの徹底抗戦姿勢を支持する立場を公式的な立場としています。TBS系『報道特集』の「ウクライナ国営放送日本語版」っぷり(4月10日づけ「TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだまま:「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBS『報道特集』と金平茂紀氏」参照)は極端であるとはいえ、程度の差こそあれ似たり寄ったりなところです。

この記事も「ロシアの責任転嫁にほころび」というタイトルが示すように、クラマトルスクの鉄道駅への攻撃に関するロシア側主張の不自然さを指摘することが主題です。しかし興味深いことに、次のくだりを挿入してきたあたり、「新たな戦争犯罪」と断ずるウクライナ・ゼレンスキー大統領の見解(「ゼレンスキー大統領「新たな戦争犯罪だ」駅にミサイル着弾、50人以上が死亡」4/9(土) 20:00配信 日テレNEWS)すなわちウクライナの公式発表とそれに追随する米ホワイトハウス発表を暗に否定する内容にもなっています
「ウクライナ軍が集結しているクラマトルスクの駅を10分前に攻撃した」。着弾当初、複数の親ロシア派ニュースは通信アプリ「テレグラム」でこぞって戦果として伝えた。しかし、避難民に死傷者が出ているのが判明し、不自然な形で削除。ロシアのメディアはウクライナ軍の仕業であると宣伝し始めた。
 
地元記者の間では、2014年にドネツク州の親ロシア派支配地域上空でマレーシア航空機が撃墜され、乗客乗員298人が死亡した事件との類似性を指摘する声が上がる。この時、旅客機と判明するまで、親ロシア派幹部は「ウクライナ軍機を撃墜した」と誇り、これが間違いだと分かると、ウクライナ側への責任転嫁を図った。
ゼレンスキー大統領はロシアの「故意」を強調していますが、時事通信記事の上掲部分は「間違い」であることを示唆しています。「間違いだから問題ない」ということには勿論なりませんが、故意の場合と間違った場合では非難の度合いはまったく異なるものです。

この記事は「絶対悪ロシアに対する絶対正義ウクライナの徹底抗戦」という「正しい」筋書きからは逸脱する今時珍しい記事と言えるでしょう。

日本を含む西側諸国は一貫してウクライナ支持の立場を貫いています。特に今回の戦争は情報戦・世論戦が非常に盛んですから、ウクライナ政府の公式発表が肯定的にクローズアップされる機会が非常に多いところです。しかし、一つ一つを拾ってみると西側諸国は必ずしも一枚岩ではありません

たとえば開戦初期にあったザポロジエ原発攻撃。原発に対する攻撃ということでウクライナ政府は強く非難し国際世論も色めき立ちましたが、アメリカは早々にロシアによる原子炉攻撃の証拠は確認していない(「米、ロシアによる原子炉攻撃の証拠確認せず ウクライナ原発」 2022年03月05日(土)02時45分)と述べてこの話を終わらせてしまいました。あるいは、アゾフ連隊が主張した「化学兵器使用」の件も「何も確認できない」として「我々は何が起きたかを突き止めるため、同盟国とやりとりしている」と述べるにとどまっています(「“化学兵器使用”米「同盟国と真相究明を進める」」4/13(水) 11:01配信 日テレNEWS)。そして最近もあった「ロシアのウクライナ侵攻は始まりに過ぎない。ロシアは他の国も占領しようとしている」といった類の発言(「ゼレンスキー氏「ロシア、他国占領も」 黒海沿岸の制圧意図を警戒」4/23(土) 21:10配信 毎日新聞)は毎回、武器供与でお茶を濁されています。開戦から2か月経っても何処も表立っては参戦せず、経済封鎖にしても中途半端なものに留まっています。ウクライナはことあるごとにロシア軍の攻撃の外道さを強調する発表を繰り返していますが、西側諸国は必ずしもすべてについて付き合っているわけではありません。この溝は結構深いものがあります。

「国際世論」とやらにスコープを拡大するとますます足並みは揃ってはいません。国連人権理事会でのロシアの資格停止決議では、賛成多数という結果にはなったもののロシア軍の即時撤退や人道状況の改善を求めた過去2回の総会決議とは打って変わって棄権国が激増しました(「ロシア、国連人権理事会を脱退へ…資格停止決議賛成93・反対24・棄権58」)。つい先日のG20に至っては「国際世論」という言葉を好んでやまない日本メディアが異例にも「分断」という言葉を使わざるを得ないほどになっています(「ロシア排除で分断露呈 米など途中退席、共同声明見送り G20財務相・中銀総裁会議」4/21(木) 5:07配信 時事通信)。インドの一貫したロシアへの配慮姿勢にいたっては、さすがにインドを中国やベネズエラなどと同列視するわけにもいかないので言及機会が激減してきました。

4月18日づけBS−TBS「報道1930」は「親米の中東までも“離反”孤立するのはロシアか…アメリカ側か」という興味深い内容を報じています。
https://www.youtube.com/watch?v=ItJHfelSJ44
21分20秒あたりから、親米国を含め中東で対ロシア制裁に加わっている国はひとつもなくサウジアラビアでさえ対米戦略上の都合でロシアとの関係性を強化しているといいます。中東を抜きにして「国際社会」とは到底言えません。必ずしも、我々が見ている風景とですね、世界全体の中でプーチン大統領が置かれている立場、あるいは中東から見た今回の戦争の風景というのは、だいぶ違うかもしれない」という番組中発言は異例的。BSとはいえ日本メディアでこんな指摘が出てくるとは思いませんでした。もはやそう言うほかないのでしょう。

日本メディアで出てくる「国際社会」というものが実態としてはアメリカと幾つかの追随国に過ぎないことは、私は「北朝鮮」報道を通して既に知っていました(小学生が親に流行りものを買うようにねだるときに言う「みんな」と同じレベルの言葉――せいぜい仲良し数人程度――に過ぎない)が、今回、この「国際社会」なるものの実態がいかなるモノであるのかが白日の下に晒されたように思います。ロシアのような大国の場合、事実を捻じ曲げて「孤立」の演出を押し通すことはできません。

常々不思議に思ってきたのですが、日本メディアで出てくる「国際社会」論によると「世界にはロクでもない国が多い」ということになり、とくに東アジアには「ロクでもない国が多い」ということになりますが、日本世論は一瞬でも「もしかして自分たちのほうがズレているのでは?」とは思わないのでしょうか? 世界には200か国近くあります。日本周辺にも多くの国々があります。「アメリカと日本を含む幾つかの追随国だけが正しくてマトモな『国際社会』のメンバーで、東アジアの日本以外の国々をはじめとする世界各国はどれもこれもロクでもない国ばかり」という理解は、幾ら何でも自己中心的であり天狗になり過ぎています。

ロシアが孤立しているとは言い難い現状は、自己中心的な天狗状態に陥っている日本世論の現状への痛撃になるでしょう。日本世論の根底にはアジア蔑視があります。「アジアにおいて日本は筆頭国・一等国、朝中『韓』よりは格上」という思い上がりがあります。しかしさすがに中東やアフリカなどの親ロ的な国々までも「ロクでなし」扱いはできなかったのでしょう。
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2022年04月15日

本当に国のことを思うということは如何なることであるか、同志愛と革命的義理の在り方はどうあるべきか:キム・イルソン同志生誕110周年

4月15日は太陽節、偉大な首領:キム・イルソン同志生誕110周年の名節です。

若くして祖国の解放に身を挺し生涯をただ一途に社会主義建設に捧げた偉大な首領様。その業績は朝鮮革命と朝鮮民主主義人民共和国の歴史と共にいまも輝き続けています。首領様の業績はあまりにも多いものですが、私は今日、祖国を取り戻すために首領様が満州に渡るという決断を下したこと及び祖国を取り戻すにあたって首領様が何よりも同志の獲得を重視したことについて取り上げたいと思います。

■本当に国のことを思うということは如何なることであるか
周知のとおり、首領様は代々愛国的な家庭に生を受けられました。革命運動に従事していた父:キム・ヒョンジク先生の背中を見て育った首領様は自然と祖国の独立革命を志すに至りました。回顧録『世紀とともに』によると、キム・ヒョンジク先生が革命運動において重要な人物であったことから一家は日帝官憲に目を付けられ、常に監視と抑圧を受けていたといいます。その過程で一家は満洲へ渡られました。その後、「日帝に奪われた国を取り戻すためには自分の国をよく知らなければならない」とした父の教育方針のため、首領様は単身ピョンヤンの彰徳学校に入学するため帰国するも、チュチェ14(1925)年1月、父が再び日帝警察に逮捕されたという思いがけない知らせをうけた首領様は「祖国の悲惨な現実を目の前に描き見、朝鮮が独立しなければ再び帰ってはくるまい、と悲壮な誓いを立て」て再び渡満されました。

2度の渡満における首領様の心情は『世紀とともに』で回顧されています。また同書では当時亡国の民と化していた朝鮮人民の民族心情も繰り返し表現されています。とりわけ、チュチェ14(1925)年1月の渡満時の心情について次のように回顧されています。(P103〜)
このように2年をすごし、彰徳学校の卒業を数か月後にひかえたある日、外祖父から、父が再び日帝警察に逮捕されたという思いがけない知らせを聞いた。天が崩れ落ちる思いだった。わたしは激しい憤怒と敵愾心に襲われた。チルゴルでも万景台でも、大人たちは顔色を変え、わたしの様子をうかがった。

わたしは父の敵、わたしたち一家の敵、朝鮮民族の敵を討つために生命を賭してたたかおうと決心し、出発の準備をした。

わたしが八道溝へ行くといいだしたとき、母の実家では、学校を卒業してから行くようにと勧めた。万景台の祖父もわたしをいろいろと説得した。何か月かすれば学校も卒業だし、天気も暖かくなるから、そのときに行くようにというのだった。

わたしはそうすることができなかった。父に不幸が襲ったのに、わたしがどうして安閑とここで勉強をつづけていられようか。一刻も早く行き、幼い弟たちを連れて苦労している母を助けなければならない、わたしはこれからどこへ行こうとも無駄には死ぬまいと思った。

(中略)
万景台を発ってから13 日目の夕方、葡坪に到着した。わたしは渡し場に着いてからもすぐには鴨緑江を渡る気になれず、土手の上にたたずんでいた。八道溝へ渡ろうにも、わたしが通ってきた祖国の山河がしきりにまぶたに浮かんで、わたしを引き止めるのだった。

わたしが故郷を発つとき、しおり戸の外でわたしの手をなで、上着の襟を合わせてくれ、吹雪を心配して目をうるませた祖母や祖父の姿がまざまざと脳裏によみがえって、歩みを移すことができなかった。

土手を越えて川を渡ったら、とめどなく涙があふれでそうに思えた。冷たい風が吹き荒れる国境に立ち、苦しみもだえる祖国の山河をふりかえって見ると、なつかしい故郷へ、故郷の家へ駆けもどりたい衝動に駆られた。

(中略)
祖国の息づまるような現実を見たわたしは、朝鮮民族はもっぱらたたかいによってのみ日帝を駆逐し、独立した祖国で幸せに暮らせるということを確信した。

祖国を一刻も早く取りもどし、それらすべてを永遠にわれわれのもの、朝鮮のものにしたいという願望がわたしの胸に炎のように燃えさかった。

わたしは警官の目を避けて、葡坪渡し場の下手の方にもう少し下りてゆき、早瀬のあたりで鴨緑江の氷の上へ重い足を踏み出した。幅が30 メートルそこそこの川を渡れば八道溝の市街があり、その川沿いの通りにわたしの家があった。しかし、わたしは川を渡ることができなかった。祖国を離れたらいつまた、この川を渡ってこられるだろうかという思いが胸をえぐった。

(中略)
朝鮮よ、朝鮮よ、わたしはおまえのそばを離れてゆく。おまえと離れてはしばしも生きていけないわたしだが、おまえを取りもどすため鴨緑江を渡ってゆくのだ。鴨緑江を渡れば他国だが、他国に行ったとておまえを忘れられようか。朝鮮よ、わたしを待っていてくれ。

こんなことを考えながら、再び『鴨緑江の歌』をうたった。

わたしはその歌をうたいながら、いつまたこの地を踏むことができるだろうか、わたしが生まれ育ち、祖先の墓があるこの地に再び帰る日は、いったい、いつのことであろうか、こう思うと幼い心にも悲しみをおさえることができなかった。わたしはそのとき、祖国の悲惨な現実を目の前に描き見、朝鮮が独立しなければ再び帰ってはくるまい、と悲壮な誓いを立てたのである。
首領様の愛国精神・救国精神と、そうであるが故の渡満にかかる断腸の思いとが凝縮された上掲引用部分。祖国を、朝鮮を取り戻すためにこそ首領様は異国の地である中国・満州に渡らなければなりませんでした

いまウクライナの地でロシアとウクライナが死闘を繰り広げています。ロシア軍が徐々に制圧地域を広げているものの、依然としてウクライナ軍は徹底抗戦の構えを崩してはいません。ロシアは日本にとって「敵性国家」であるがゆえに日本では政府もメディアもウクライナの徹底抗戦姿勢を支持する立場を公式的な立場としています。また、「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」、「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」及び「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」という因習的な風潮ゆえに、本土決戦一億玉砕的な徹底抗戦論が世論において幅を利かせています。

とりわけそれが顕著に表れたのが3月3日と4日に展開された、元大阪市長・弁護士・コメンテーターの橋下徹氏とアパグループの論文コンクールでキャリアをスタートさせたアンドリー・グレンコ氏との議論をめぐる世論反応でした。当ブログでは3月13日づけ「最悪の場合「ベルリン市街戦」に至る日本世論、歴史に学んでいるように見えて経験に学ぶ愚者たる日本世論」及び4月3日づけ「ダック・スピーチ的「橋下話法」に敗れたる橋下徹氏、現実の戦況に厳しい批判を受けたるアンドリー・グレンコ氏」で取り上げました。橋下氏批判の言説としては、たとえば早稲田大学教授の有馬哲夫氏は「亡国の民の心情を想像せよ」と檄を飛ばして橋下氏を批判しました。また、戦場ジャーナリストの佐藤和孝氏は「日本で上がる「ウクライナは白旗あげたらいい」の声に戦場ジャーナリストが現地から激怒した理由」(2022/03/13 11:00 AERA)で橋下氏を念頭に次のように語っています。
 日本のどこかの評論家だかで、「ウクライナは白旗をあげたらいい」と言った人がいるんでしょう。大馬鹿者ですよ。だったらウクライナに来て、みんなにそう言いなさいと思う。

 自分の国、文化や歴史がなくなるんですよ。安全圏で何もわかっていない、命を懸けたこともない人がこれから命を懸けようとしている人たちに向かって言える言葉じゃない。

 この国はロシアに踏みにじられてきました。ソ連崩壊でようやく独立国家になったのに、またそのときに戻ってしまう。そうならないために血を流すことを彼らは厭わない。ゼレンスキーも含め、名もない人たちの気概がこの国を勇気づけているんです。

 なのに、「10年後にはプーチンが死んでいるだろうから、その後、国に帰ったらいい」なんて馬鹿なことを言っている。このままだと、10年でこの国はなくなるんです。腹の底から怒りを覚えます。
このままだと、10年でこの国はなくなる」――この危機感は確かに深刻なものです。しかし、首領様の決断を踏まえると一所懸命的な徹底抗戦、死守戦が祖国防衛のための唯一の道といわんばかりの言説は、事実に反する凝り固まった思い込みであるように思えてなりません

上掲の『世紀とともに』の引用部分、とくに「朝鮮よ、朝鮮よ、わたしはおまえのそばを離れてゆく。おまえと離れてはしばしも生きていけないわたしだが、おまえを取りもどすため鴨緑江を渡ってゆくのだ」のくだりを読めば明らかであるとおり、祖国を取り戻すためには朝鮮を離れるほかに道はなく、首領様は断腸の思いで渡満されたのでした。そして「キム・イルソン将軍の歌」で≪만주벌 눈바람아 이야기하라≫とうたわれているように、満州という異国の地を根拠地として20年間戦い抜き、ついに解放の日を迎えられたのです。たしかに抗日武装闘争によって日帝統治に終止符が打たれたわけではありませんが、植民者に対する抵抗の気概を示したという点において民族史に不滅の業績を刻んだことは間違いのない事実であります。

このように考えたとき、「侵略者と戦う」といえば本土決戦一億玉砕的な徹底抗戦が唯一の道であるというふうに凝り固まってしまっている日本的発想の硬直性が非常に著しいと言わざるを得ないのではないでしょうか?

関連して首領様は次のようにも指摘されています。(P205)
崔益鉉が対馬で食を断って国に殉じたとき、彼の夫人は3 年の喪に服したのち自決して夫のあとを追ったという。

人倫上それは、国には忠誠をつくし、夫には貞節をつくす至上の道理だと評価されるであろう。

しかし、ここで考えてみるべき問題がある。誰もがみな死を選ぶならば、誰が敵を討ち、誰が国を守るのかということである。
日本的発想は「散華」を好みますが、花と散ってしまうような戦い方が愛国的な戦いなのでしょうか? 愛国の名を借りた「悲劇のヒロイン・ワタシ」的な自己満足に過ぎないように思えてなりません。本当に国のことを思うということは如何なることであるのでしょうか? 首領様の革命歴史はこのことを問いかけているように思われます。

■同志愛と革命的義理の在り方はどうあるべきか
次に、祖国を取り戻すにあたって首領様が何よりも同志の獲得を重視したことについて取り上げたいと思います。

同志獲得の重視も父:キム・ヒョンジク先生の背中を見ることで首領様が学び取ったことであると言えます。回顧録『世紀とともに』では、力添えをしてくれる同志たちに恵まれているキム・ヒョンジク先生の姿が紙幅を割いて記されています。たとえば次のようなくだりがあります(P140〜P143)
その日、父は友と友情について長時間話した。

…お父さんは同志を得ることから闘争をはじめた。金や拳銃を手に入れることから独立運動をはじめる人もいるが、お父さんはどこへ行っても、すぐれた同志を求めた。すぐれた同志は天から降ったり地から湧いたりするものではない。金や宝石を掘るように努力して自分で見つけ、はぐくまなければならない。だからお父さんは一生涯、朝鮮と満州の広野を足が棒になるほど歩きまわったのだ。お母さんもそれで始終、客の接待に努め、いつも腹をすかして苦労した。

国と民衆を思う真情があれば、りっぱな同志はいくらでも得られる。要は志であり、心構えである。金はなくても志さえ通ずれば、同志になれるのだ。百万の金をもってしても得られない友情を一杯のおこげ湯や一粒のジャガイモで得られるのも、みなそのためである。

お父さんは財産家でもなければ、勢力家でもないが、りっぱな友人をたくさんもっている。それが財産といえるなら、お父さんは財産のなかでも最大の財産を持っているわけだ。

お父さんは同志のためならなにも惜しまなかった。だから、同志たちも命を賭してお父さんを守ってくれた。お父さんがこれまでいろいろな困難にうちかって祖国の解放運動に献身できたのは、同志たちがお父さんに私心のない援助をよせてくれたからだ…

父は病床にあっても、懐かしく思い出されるのが友人であるといい、多くのりっぱな同志と交わるよう、重ねて強調した。

「同志のために死ねる人であってこそ、りっぱな同志が得られるのだ」

そのときの父の言葉は、いまもわたしの脳裏に深く焼きついている。

(中略)
「志遠」の思想、三つの覚悟、同志獲得の思想、2 挺の拳銃――これが父から譲りうけた遺産の全部であった。それらはきびしい困難
と犠牲を前提にして残された遺産であった。けれども、わたしにとってこれ以上貴い遺産はなかった。
「同志愛」――この言葉はまさに朝鮮革命における重要なキーワードです。抗日武装闘争の紐帯であり社会政治的生命体論の中核の一つである同志愛を欠かすことはできません。

以前から表明しているとおり、私は同志愛と革命的義理を中核とする社会政治的生命体論に魅力を感じています。同志愛と革命的義理は、自由と平等を前提としつつそれとは質的に上位にある人間関係であるといいます。同志愛と革命的義理の実現を追求することは、初期マルクスが追い求めた人倫の回復にも通ずるものがあると私は考えています。

また、社会の主体は首領・党・人民大衆が組織的に一心団結した社会政治的生命体であると言えます。個人はいかに天才的であっても脳味噌一個・腕二本・脚二本で出来得る仕事の範囲は限定的です。社会システムは個人に対して巨大です。社会的な課題は個人レベルの課題とは質的にまったく異るのでその解決方法も異なってくるものです。社会が一つの生命体のごとく有機的に組織されて協業することで達成されうる成果は個人的努力を遥かに超えます。社会システムの変革のためには、それに見合ったレベルの主体を構築して対応する必要があるのです。マルクスは『資本論』で社会的分業の下での協業についてかなりの紙幅を割いて分析していますが、非常に鋭い視点です。

もちろん、正直言って同志愛と革命的義理を中核とする社会政治的生命体論は概念として完全に固まり切ったものとは言えず、まだ詰めるところは多くあるように思われます。また、伝統的な人間関係色濃い朝鮮文化圏における同志愛と革命的義理の関係を、ブルジョア的な「自由」化が進んでいる現代日本にそのまま移植できるとは思っていません。同志愛と革命的義理の原理を現代日本に合わせて「調整」する必要があります。

当ブログでは引き続き、首領様の貴い経験に基づきつつ同志愛と革命的義理の在り方にかかる思索を展開してまいりたいと考えています。

また、近頃更新が途切れ途切れになっているようになかなか思うように時間が取れないでおりますが、ここ最近、同志の力添えによって限られた時間内で思索が急速に深まっております。鋭い読者様であれば、当ブログの表現・記述内容に既に表れているのを見抜いておられるのではないでしょうか? 近しい思想傾向でありながらも完全に一致しているわけではなく、専門分野及び切り口もよい意味で微妙に異なる同志との議論は思想深化にとって大変な助けになっております。

この同志とは、すでに当ブログの共同管理者というべき深いレベルに更新実務的にも思想的にも達しております。同志愛と革命的義理の在り方について実践の輪を広げてまいりたいとも考えております。
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2022年04月10日

TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだまま:「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBS『報道特集』と金平茂紀氏

https://news.yahoo.co.jp/articles/f1b4da4311e831354a558f21f86c4593587581d3
金平茂紀氏「頭がクラクラした」感情的なやり取りも「報道特集」露大使を1時間取材
4/9(土) 19:26配信
デイリースポーツ

 ジャーナリストの金平茂紀氏が9日放送のTBS「報道特集」に出演。ミハイル・ガルージン駐日ロシア大使にインタビューした様子を放送し、「頭がクラクラした」と感想を述べた。

 金平氏がガルージン大使を取材したのは7日で1時間以上行ったという。ガルージン大使は一貫してロシアはウクライナの軍事施設のみを攻撃し、民間施設は攻撃していないと主張。ロシア大使館が編集したというブチャでの映像を提示し「遺体もがれきもない」と話した。病院や学校が砲撃にあったと追及されると「一般人が追い出され、軍事施設になった」と言い放ち、金平氏と口論寸前となる場面もあった。

 スタジオで取材を振り返った金平氏は、「かなり感情的なやり取りになった場面もあった」と明かした。特に、ガルージン大使が「特に『民間人の被害は自作自演。でっち上げ』という言葉を目の前で実際に聞いていると頭がクラクラして、正直言って鈍い衝撃があって、不条理という言葉が心に浮かんだ」と感想を言葉にした。


(以下略)
ジャーナリストの金平茂紀氏は今回、「頭がクラクラした」したそうですが、私は金平氏が出演するTBS系『報道特集』の「ウクライナ国営放送日本語版」っぷりに開戦以来ずっと「クラクラ」し続けています

この1か月あまりの日本における戦況報道は、「ウクライナ国営放送の戦意高揚モノか?」と思わずにはいられないシロモノ溢れかえっていました。キエフやオデッサでバリケードを作ったり土嚢を積み上げたりする市民の姿を報じる記事を見て私は、Der Untergang(邦題;ヒトラー最期の12日間)のワンシーンを思い出さざるを得ませんでした。ベルリン市街戦直前に88ミリ砲の前で意気揚々とソ連赤軍戦車撃破の決意を述べる少年少女と、その甘い見通しに激怒して帰宅するよう叱り飛ばす、おそらく従軍経験のある壮年男性とのやり取りのシーンです。

その中で特に驚いたのが、金平氏の『報道特集』3月12日及び3月26日の放送回。フジ・サンケイ系ならまだしも、普段のリベラルなTBSの報道姿勢とは真逆の、きっとウクライナ政府が見せつけたいと思っているであろう「美しき挙国一致」の姿が何らの批判的視点もなく公共電波に流されていたのです。「北朝鮮報道」であれば、共和国側の案内員の説明にほとんど揚げ足取りのようなくだらないナレーションを入れて「これこそが批判的ジャーナリズムだ」などと宣っているのに、ゼレンスキー大統領に忖度した訳です。

3月12日放送回(「特集アーカイブ 日本人ジャーナリストが見た首都キエフの今 (2022/03/12)」で視聴可能)は、ちょうどキエフ攻略秒読みと皆が思っていた頃合いだったこともあり、市民がバリケードを設営したり土嚢を積み上げたりする姿を放映していました。普通の神経を持つ人であれば、これから始まるであろう戦闘に不安がないはずがありませんが、非常に戦意が高く勇ましい「市民の声」だけが放映されていました。プロパガンダ臭しかしません。

そもそも、あのタイミングでの取材で現地の真の姿を本当に撮れると思っていたのでしょうか? 今回の戦争においては、ウクライナは国際世論を味方につけて援助を引き出さなければ勝ち目はありません。プロパガンダを発信する動機に満ち満ちているわけです。そんな背景のもとでの「決戦直前の地」の取材にウクライナ当局が関与していないはずがありません。また、とりわけ今回の戦争の相手はロシア。弱みを握ったり買収したりしたジャーナリストを使って偵察させることくらい当然にやることは、かつてソビエト連邦で「兄弟国」としてやってきた経験からよくよく知っているはず。自由な取材行動は二重の意味であり得ないはずです。

せめて、プロパガンダ臭の満ち満ちた現地取材を中和するようなコメントをスタジオあるいはナレーションで差し込めばよかったものを、いっさいありませんでした。これがもし「ピョンヤン現地取材」であれば、「顔が引きつっていた」とか「勇ましいことを言ってはいるが、かなりの食糧不足のさなかである」いった、ほとんど揚げ足取りのような印象操作的なナレーションが必ず挿入されているであろうところです。

3月26日放送回(「特集アーカイブ 深刻化するウクライナ人道危機・最前線緊急レポート (2022/03/26)」で視聴可能)に至っては、「ウクライナ危機の”原点”」とする特集の中で、「市民の団結(が)ロシアに抵抗」というテロップを出した直後に、あるウクライナ人画家の「多くの人が協力すれば大きな力になることを知った。マイダン革命の後、ウクライナ国民はどんな敵に対しても恐れることはなくなった」という、おそらくゼレンスキー氏が100点満点を付けるであろう発言を無批判的に報じました

今回のインタビューは「虐殺は「自作自演のでっち上げ」民間人の死者は「ウクライナ政府の無責任な政策の犠牲者」駐日ロシア大使が語った“認識”【報道特集】」(4/10(日) 13:20配信 TBS系(JNN))で一部文字起こしされていますが、そのなかで「ウクライナでは、マンションがミサイルの攻撃を受けたりショッピングモールが爆撃されたりするなど数々の民間施設が被害を受けている」というくだりがあります。このうち、マンションに対する攻撃についていえば、軍事ライターのJSF氏が次のような記事を発表しています。
https://news.yahoo.co.jp/byline/obiekt/20220304-00284973
ロシアとウクライナのプロパガンダ合戦、ミサイルの正体について
JSF軍事/生き物ライター
3/4(金) 23:22

 戦争になると敵味方の双方がプロパガンダ合戦を始めます。独裁的な国ほどプロパガンダの嘘が酷くなる傾向がありますが、民主的な国でも全く嘘を吐かないとは限りません。

 現在行われているウクライナ戦争でもロシアとウクライナのプロパガンダ合戦が幾つも行われています。此処では駐日ロシア大使が提示した2つの事例を検証してみたいと思います。

ガルージン大使は、ハリコフの庁舎への攻撃について「おそらくウクライナ軍による誤射だ」と述べた。さらに、ウクライナの首都・キエフでアパートの一部が破壊されたことについて「我々の軍の専門家や国防省の発表によると、ウクライナの対空防御の関係のミサイル誤射だと確認した」と述べた。

出典:駐日ロシア大使が主張「ハリコフ庁舎攻撃はウクライナの誤射」 占拠の意図なしと強調:FNN(2022年3月2日)

※ハリコフ(ハルキウ)、キエフ(キーウ)。

 結論を先に言えばハルキウ庁舎攻撃はロシアの主張が間違っていることがほぼ確定、キーウ高層アパート攻撃はウクライナの主張が間違っている可能性が高いでしょう。

(中略)
 空対地ロケット弾は地対空ミサイルよりも固体燃料ロケットモーターの推進剤がかなり少ないので燃焼時間が非常に短く、燃焼中の輝きが見えて白煙を出しているなら発射直後であるはずですが、発射母機である戦闘機は映っていません。この日の戦闘機の目撃例もありません。

 高層アパート着弾の動画を見る限り、固体燃料ロケットモーターが燃焼している輝きは強く、吐き出される白煙の量も多く、地対空ミサイルのように見えます。

 そうなるとミサイルの形状がはっきり判明しないので断言はできませんが、キーウの高層アパートへ着弾したミサイルは、付近に配備されたウクライナ軍の地対空ミサイルがうっかり誤射してしまった可能性が高くなります。

(以下略)
開戦早々のキエフの民生施設に対するミサイル攻撃ということで、TBSを含めこの報道は非常に大きく取り上げられましたが、軍事的に解析するとこのような可能性があるわけです(ちなみにJSF氏が事実を曲げてまでロシアの肩を持つなんてことはあり得ないので、むしろ信憑性があるというるでしょう)。しかし、このことを日本メディアで報じたところがあったでしょうか? ガルージン駐日大使の抗弁も苦しいところがありますが、金平氏には引き続きクラクラせざるを得ないところです。

私がとりわけ許しがたいのは、3月12日放送回で、誰もこれからの首都決戦への不安を口にしなかったことに番組が触れなかった点にあります。もちろん、ウクライナ政府の景気のいい宣伝に乗せられて威勢のいいことを本気で口にしている市民は大勢いたでしょう。しかし、本当は不安と恐怖でいっぱいなのに、外国人ジャーナリストには口が裂けても本音を言えなかった市民だっていたはずです。

ジャーナリズムというものは、こういう無言の本音を掘り起こすところにその使命があるのではないのでしょうか? 政府公式発表なら公式ルートでいくらでも入ってきます。公式発表を垂れ流すだけなら民営メディアなど必要ありません。同じことしか言わないなら一つで十分です。いくつもあっても非効率でしかありません。言論の自由が存在する意義・多様なチャネルが存在する意義とはいったい何なのでしょうか? 民営メディアの存在意義とは何なのでしょうか? 少なくとも私は、公式発表から見えてこない別の切り口を民営メディアが提供してくれると信じてきました。信頼してきました。

かつて筑紫哲也氏は、オウム事件に関連してTBSのジャーナリズムは死んだと指摘しました。情報源を秘匿せず結果的に情報源が殺害されたTBSビデオ問題。情報源の秘匿はジャーナリズムの根本です。これが守られなければスクープは生まれ得ません。また、筑紫氏はジャナーリズムの命は「信頼」にあるとも言いました。このことは、今も昔も未来永劫変わらないことでしょう。

そう考えると、「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBSにジャーナリズムの根本は、オウムビデオ問題とは別の意味ではあるものの、やはり根付いているとはいえず、また、市民が民営メディアを求め、それを信頼している動機にも根ざしていないと言わざるを得ないものです。TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだままだと言わざるを得ないでしょう。
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2022年04月07日

民間人疎開にかかる橋下氏の主張の正当性が証明され、さらに事実上、世論動向が橋下氏の主張に近づき始めている

ロシアのウクライナ侵攻では、戦線がキエフ攻略からドンバス攻略に移ってきたといいます。ロシア軍のどうしようもない兵站のヘボさは短期的には解決し得ないものなので、キエフ市街戦は難しいものと思われます。戦線は移動しました(※後述追記的注釈に続く)。

そして・・・戦いの傷跡残るキエフ郊外で恐れていた事態が現実のものになってしまったという報が飛び込んできています。民間人の犠牲です。組織的なものなのか戦場特有の異常な精神状況に置かれた兵士の暴走なのかはわかりませんが、ロシア軍兵士の行いであると考えるのが順当なところでありましょう。戦争の必然的帰結であると言っても過言ではない非戦闘員・民間人の死傷がウクライナの地でも再現されてしまいました。私が知る限り、数か月以上続いた戦争において民間人の犠牲がなかった戦争はありません。もちろん、今わかっていることは少ないところですが、ロシア政府が厳しく非難されるのは道理でしょう。

こうなるからこそ、非戦闘員・民間人は一刻も早く疎開しなければならないのです。マトモな人間は戦場で正気を保つことはできません。精神的におかしくなって疑心暗鬼に駆られるものです。丸腰の非戦闘員・民間人は、軍用武器を持った「狂人」からは一刻も早く離れる必要があります

この点、ウクライナ政府の戦争指導は最悪の部類に入るモノでした。過去記事でも書いたとおり、疎開させるどころか、ある年齢層の男性の出国を禁じたり民間人に火炎瓶の作り方や投擲の仕方を指南したりするという、およそマトモな軍隊はやらないようなことをやったのです。以前の記事でも書いたように、ロシア兵の疑心暗鬼を掻き立てるような非常に危険な呼びかけです。そして日本メディアを始めとする西側メディアは、これを「国民一丸となって侵略者に立ち向かうウクライナの軍民」を持て囃してきました。

率直に言ってウクライナ政府は民間人の疎開に注力しているとは言い難いものです。やっているうちに入らないように思われます。それに割くリソースが足りないのかも知れませんが、いまも、ドンバス地方で決戦が行われようとしておりウクライナ軍が精鋭部隊を配置して厳重な迎撃体制を構築しているというときに、いまだ同地方には多くの非戦闘員・民間人が取り残されているといいます。

奇しくも、橋下・グレンコ論争における橋下氏の主張の正当性が証明された形になっています。橋下氏は「自らの意志で戦闘に参加する軍人・戦闘員は尊い、しかし非戦闘員・民間人は退避すべきだ」「徹底抗戦を唱道して避難することが悪であるような空気を作るべきではない」と一貫して主張してきました。ちなみに、これに対してグレンコ氏は、退避禁止と戦闘への強制参加を混同した上で「退避禁止は、ガレキ処理などのための要員確保のためであり、無理矢理武器を持たせて戦わせている訳ではない」と抗弁していました。

世論の大勢は、グレンコ氏擁護または、グレンコ氏の主張の劣化コピーでした。こうした退避・疎開禁止ないし消極性の結果がいまの惨状です。私は過去記事で「いつまたミサイルが飛んで来るかも分からない地域に民間人を止め置くこと自体が問題」「武器を持たせて無理に戦わせてはいないから問題ないというわけではない」と述べたものです。

幸いにしてようやく日本世論においても、民間人を巻き込んでいるマウリポリの戦いが深刻化したあたりから、「戦場のど真ん中に民間人を置き去りにするのは危ないし、ロシア軍撃退のためには邪魔だな」とか「民間人を脱出させないといけないな」といった認識が広まり始めてきたように思われます。フランスによるマウリポリ救出作戦計画のニュースや、数千の民間人が辛くもマウリポリから脱出できたといったニュースが朗報扱いされています。決して「敵前逃亡だ」などという反応にはなっていません。「逃げる」とか「退避する」とかいう言葉には依然としてアレルギー反応があるものの、「脱出」に対してはそれほどは反発がないのです。

もとより徹底抗戦と民間人の疎開は両立し得るものです。徹底抗戦するからといって戦場に民間人が残る道理はありません。しかし、徹底抗戦論は往々にして「一億火の玉」論に行きつくものです。橋下氏は一貫して、徹底抗戦と民間人の疎開は両立するという立場に立ちつつ徹底抗戦一辺倒になると「一億火の玉」的になってしまうことを懸念してきたわけです。「ウクライナは無条件降伏しろ」などとは言ってきませんでした。

現状は、民間人疎開にかかる橋下氏の主張の正当性が証明され、さらに事実上、世論動向が橋下氏の主張に近づき始めていると言えるでしょう

(※後述追記的注釈)
ここにおいて留意すべきは、プーチン大統領の開戦演説を思い起こすに、ドンバスの解放やウクライナ政府の非ナチ化などは当初から俎上に上がっていたものの、ゼレンスキー大統領の排除などは直接的には言及がなかったことです。もちろん、ゼレンスキー氏に代わって子飼いの操り人形にすげ替えられればラッキーだったのでしょうが、それは戦争目標達成においては必ずしも必要なことではありません

実際のところ、キエフ攻略・市街戦説を騒いでいたのは主に西側メディアでした。いつの間にか我々は、キエフ攻略が戦争遂行上の絶対不可欠な要素と思い込んでいたように思われます。しかし、戦争目標達成のためには必ずしもキエフを手中に収める必要はありません。戦争は目標達成のために行うモノであり、完全勝利は必ずしも必要ではないのです。

日本世論は、数十年レベルの以前から「戦略的勝利:戦争目標達成」と「戦術的勝利:完全勝利」とが混同しているように思われます。たとえば、ノモンハン事件。「日本軍よりも赤軍の被害のほうが大きかった! 空の戦いにおいては日本陸軍航空隊の97式戦闘機はソ連赤色空軍ののИ−15、И−16を圧倒した!」という抗弁が罷りとおっています。しかし、ノモンハン事件で戦争目標を達成したのはソ連でした。あるいは、冬戦争。「フィンランド民主共和国」なる傀儡政権を打ち立てた点、ソ連はフィンランドの征服を当初は視野に入れていたと思われるものの、フィンランド軍の徹底抗戦によってその願望は成就しませんでした。フィンランド軍はよく戦いました。しかし、その講和条約を見るに、冬戦争の勝者はソ連という他ありません。にもかかわらず、単なる戦術的勝敗を以って冬戦争の戦略的勝敗をフィンランドのものとみなす主張が罷り通っています。
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2022年04月03日

ダック・スピーチ的「橋下話法」に敗れたる橋下徹氏、現実の戦況に厳しい批判を受けたるアンドリー・グレンコ氏

弁護士でコメンテーターの橋下徹氏と、アパグループの論文コンクールでキャリアをスタートさせたアンドリー・グレンコ氏(本業は日本文学研究で、国際政治学は専門外。アパの論文コンクールで「国際政治学者」扱いなら、田母神俊雄氏なんてその道の権威になってしまうw)との論争について引き続き取り上げたいと思います。

■主張を正確に理解してもらえない橋下氏
あの論争以降、似たような論争や一方的なコラムが雨後の筍のように出てきましたが、どれを取っても橋下・グレンコ論争を越える内容ではなく、むしろ劣化コピーというべきものでした。

橋下氏の主張は必ずしも降伏を促すものではなく、徹底抗戦一辺倒になることを避けるよう、非戦闘員の思いをも汲み上げるよう求めるものでした。しかし、雨後の筍の多く(ほとんど?)は、大義だの文化だの、生身の人間たちの生活を省みているとはとても思えないもの、ヒロイズムやロマンチシズムに浸った立場から橋下氏の主張に批判や「反論」を試みるものでした。あるいは、単純に橋下氏の主張を正確に理解していない言説もかなり多く見受けられました。

たとえば、3月13日づけ記事で取り上げた有馬哲夫・早稲田大学教授の批判に対して橋下氏は、Twitterで次のように反批判しています。
https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1502442338701828101
いざ戦争が始まってしまうと、論理的な思考ができなくなる典型やな。特に命の安全が保障されている学者は。俺はウクライナに無条件降伏をしろとは言っていない。

終始、政治の知恵で解決すべき。ウクライナだけに負担を負わすのではなくNATOとロシアで政治的妥結をはかるべきという主張だ。戦争が始まると戦え一択の思考になってしまい、その他の主張は全く受け付けなくなる典型だな。プーチン政権を倒すのがベストだが、西側諸国がやるのは経済制裁のみ。

いったい、いつまでウクライナに血を流させるんだ?今も毎日ウクライナ人の命が奪われている。プーチンのウクライナ中立化・非武装化の要望は結局、NATOとロシアの安全保障の問題だろ?そこを、きちっと話をつけないからウクライナに悲惨なしわ寄せが来てしまった。

この戦争の本質を理解しNATOも責任を感じるならウクライナだけに負担を押し付けるのはおかしいと気付くはず。ロシアとの戦争を避けるためNATOは軍事介入できない。であればウクライナが絶対に飲めないロシアの要求をNATOが引き取って、NATOとロシアで安全保障の枠組みについて政治的妥結をはかるべきだ

(中略)
過去の歴史を引き合いに、ロシアの蛮行の恐れを防ぐためには戦うしかないという主張も理解できる。しかしそれは戦地で命をかけて戦っている戦士の言い分だ。命が保証されている日本人が言うことではない。戦地では死の恐怖が目の前に晒され、苦痛にうめいている非戦闘員のウクライナ人がたくさんいる。

彼ら彼女らの全員が将来のロシアの蛮行を防ぐために、自分の命を投げ打つ、この苦しみを受け入れると考えているのか、それともとにかく今目の前にある恐怖から逃れたいと考えているのか。それは安全な日本からは分からないことだ。言えることは戦闘員は命をかけて戦っているので敬意を表する。

しかし額に拳銃を突きつけられたような非戦闘員が、逃げたい、生き残りたいという思いを持っていたとするならその意思も最大限に尊重すべきだ。それが戦う一択は危険という僕の持論だ。そもそもウクライナだけを犠牲にしているという認識があるのか。

(以下略)
いざ戦争が始まってしまうと、論理的な思考ができなくなる典型」とまで言われてしまっている有馬教授。たしかに橋下氏は「降伏しろ」とだけ言っているわけではありません。もちろん、降伏することも「選択肢の一つとしてあり得る」という立場ですが、「直ちにそうするべきだ」とまでは言っていないのです。このことは、橋下氏の発言を筋道立てて読み解けば、普通の読解力があれば直ちに分かることであります。しかし、それがまったく通じていません。それゆえ、「橋下徹「ロシア軍叩き潰すしかない」に“手のひら返し”と批判」(3/26(土) 6:08配信 女性自身)という記事まで出てくる始末です。

橋下氏が「直ちに降伏するべきだ」と言っていると思い込んでいる人たちは、橋下氏のツイートを飛ばし飛ばしにしか読んでいないものと思われます。しっかり文章として文脈に沿って読んでいないものと思われます。

■ダック・スピーク的「橋下話法」で成り上がり、それに敗れた橋下氏
橋下徹という男は、『1984年』でいうところのダック・スピーク、つまり持論をまくし立て畳み掛ける話法で今の地位を築き上げてきた男です。彼との議論において名だたる評論家やジャーナリストたちが彼の勢いに負けて上手く切り返せず「論破」されてきました(実際には相手の言葉尻を捉えた揚げ足取りのようなケースが珍しくない)。しかし今回は、橋下徹その人がダック・スピーク的「橋下話法」に敗れたといえるのではないでしょうか? 相手の主張の文脈を無視してガアガアとアヒルのようにまくし立ててきた男が、いま自らも持論を正確に理解してもらえず、言ってもいないことを「言った」として非難されているのです。

Twitterというものは、ダック・スピークに非常に向いたものであります。というよりも、あの文字数制限においてマトモに論理を立てることは困難であると言うべきでしょう。Twitterは長文仕様ではありません。そして昨今では、TwitterどころかYouTubeを情報収集のメインにしている人まで増えてきているといいます。この手に人々について、次のような興味深い分析があります。
https://twitter.com/Doctor_Carp/status/1410243301366665217
世の中には実際に文章の理解能力に乏しくて、小説や新聞は文字が多くて嫌だ、テレビやYouTubeでないと難しい、みたいな方々が大人でも存在しているのは把握しています。理解できない時に文章だと気軽に飛ばせませんが、動画では分からない時でも勝手に次に進めてくれますからね。

そうした方々がきちんとした日本語で他人にも理解できるツイートやリプをするのは難しいのでしょうけども、それってTwitter向いてないのでYouTubeでも見てた方が良いと思うんですよね。なんでTwitter続けてるんでしょうか。
つまり、長文仕様ではないSNSが流行り、そして長文に頭がついていけない人々が増えているというわけです。

橋下氏が言い負かされていることについて、「ザマァ」という気持ちがないといえばウソになります。しかし、彼が言い負かされている今日の日本社会の現状は、危機的なものがあると言わざるを得ないように思われます。

■現実から手痛い批判を受けるグレンコ氏や有馬教授
それでは、グレンコ氏や有馬教授、その他橋下氏批判者らが「正しい」と言えるでしょうか? 橋下氏は「橋下話法」に敗れましたが、グレンコ氏らは現実から手痛い批判を受けています

3月20日づけ読売新聞『避難先にも招集令状「まさか自分の元に」…ウクライナは総動員体制、家族離散も』、21日づけFNN「“脱出”相次ぐウクライナ男性 箱に隠れ出国 女装で拘束も」、27日づけAFP通信「ウクライナ人の半数「武器を手に戦う」 世論調査」などを見るに、「挙国一致的にロシア軍を迎え撃とうとするウクライナの軍民」というイメージとは異なる現実が続々と報じられています

グレンコ氏は、国外退避できる人はどんどん国外退避すべきだと主張する橋下氏との論争の中で「今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」(「ウクライナ出身の政治学者グレンコ氏 橋下氏に反論「ゼレンスキー大統領の支持率は国民の90%なので」」2022年3月7日 12:06 スポニチ)などと述べて「国民の自発的性」を強調していました。

大統領への支持と大統領の具体的な政策への賛同との違いを分かっていないあたりが「いかにもアパだな」と言わざるを得ません。たとえば、いま日本では岸田内閣の支持率は50パーセントを超えていますが、では目下の国政最重要課題である新型コロナウィルス対応において50パーセント超の人々が岸田首相の政策に無条件大賛成しているかといえば、そんなことはありません。日帝的な国家総動員体制にロマンチシズムを感じるようなアパの手合いには分からないのかもしれませんが、総論は賛成であっても各論とりわけ自分自身に関係することについては必ずしも政府方針に白紙委任しているわけではないのが常です。

現にウクライナにおいても、ゼレンスキー大統領への支持率が90パーセントではあるものの、「武器を手に戦う」と言明するのは50パーセント程度、そして出国禁止命令が出ている男性国民からも脱出を試みるものが続出しているわけです。現実はグレンコ氏が考えているほどは一致団結していないのです。

また、グレンコ氏の主張に則れば、ゼレンスキー大統領を支持しない10パーセント程度の人々の思いは無視して構わないということになってしまいます。これもまた「いかにもアパだな」と言わざるを得ないところです。大義を優先するあまり、全体主義に堕しているわけです。

■全体主義化する徹底抗戦論。語るに落ちるとはこのこと
今この瞬間もウクライナの地に留まっているウクライナの人々(つまり、「橋下徹さんと激論を交わした政治評論家と政治学者が皮肉『僕の考えた正しい当事者論』はいらないし妄想」とはいうものの、日本滞在歴が長く今も日本にいるグレンコ氏も除く)は、自分たちの生活ために戦っているのであって、決して「民主主義の防波堤」として人類史的な意味を背負って戦っているわけではありません。「力による現状変更の悪しき前例を作らないため」に戦っているわけもありません。まして、ヒロイズムやロマンチシズムのために戦っているわけがありません。このことはすなわち、武器を置くときも自分たちのために置くということであります。また、ウクライナは4000万人ほどの人口を抱えているわけですが、このことはすなわち、彼の地には4000万通りの個性があるということであります。4000万人ひとりひとりそれぞれの「自分のため」があるということです。

ロマンチシズムやヒロイズムに浸ったグレンコ氏や有馬教授らは、この事実を軽視、ないしは見落としています。彼らは「ウクライナ国民」という「デカい主語」で語っています。しかし、ウクライナ国民という「実体」があるわけではありません。一人ひとりの個性を持った生身の人間が属性としてウクライナ国民に分類されているに過ぎません。「ウクライナ国民は〜」というのは、あくまでも統計学的処理の上でのみ語り得るものです。

統計学的に分析する際に注意すべきは、この分析によって見えてくるのは、あくまでも集合的な傾向であり個別の事情ではないということです。ひとりひとりの個人を尊重する立場に立てば、統計学的な分析のみを以って政策を語ってはいけないはずです。その失敗例が、計画経済でした。計画経済は国家統計に基づき需給計算を行って生産計画を決定したものでしたが、そこにおいては最低限の需要は満たせたものの消費財生産につきものである細々とした需要に機敏に対応できませんでした。

余談ですが、朝鮮民主主義人民共和国においては、政治活動とは対人事業であるという認識のもと膝を突き合わせて対話することが非常に重視されているところです。あれほどまでに対話によって国家政策を徹底しようとする国は他にないでしょう。それでも政府の施策に反対する人は一定数いると推測されます。まして共和国以外の国では、統計処理的な意味で「国民の支持」と言っているにすぎないものと思われます。

その点、グレンコ氏はいかにもアパらしく、「今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」などと宣って恥をさらしています大統領への支持と大統領の具体的な政策への賛同とを混同しています。現実は、ゼレンスキー大統領への支持率が90パーセントではあるものの、「武器を手に戦う」と言明するのは50パーセント程度、そして出国禁止命令が出ている男性国民からも脱出を試みるものが続出しています。グレンコ氏らの見立てに対して現実は手痛い批判を加えているわけです。また、グレンコ氏は「支持率90パーセント」を誇らしく提示することで残り10パーセントに属する「少数派」を無視する全体主義的な立場を自ら鮮明にしているのです。

橋下氏は、徹底抗戦論者が全体主義化することを懸念しています。まさにグレンコ氏のことです。さすがはアパ。程度が低い。語るに落ちるとはこのことです。

■「ウクライナ人の思いを尊重する」の思わぬ効用
かくして橋下・グレンコ論争は、総じてグレンコ氏を支持する徹底抗戦論者が頭数において優勢ですが、ここ最近立て続けに報じられている「ウクライナ国民にも、さまざまな考え方や思いがある」という報道への世論動向においては、「ウクライナ人の思いを尊重する」という形であまり反発の意見が出てきていないことは幸いです

もともと「ウクライナ人の思いを尊重する」は、橋下氏を黙らせるために議論自体を打ち切ろうとして編み出されたものです。橋下・グレンコ論争直後の3月7日、クイズ番組では博識をフル活用して大活躍するが、情報番組では無難なことしか言わないお笑い芸人のカズレーザーさんが「どこを妥協点にするかはウクライナの人々の判断だ」と述べた(「カズレーザー 橋下徹氏のロシアの侵攻巡る意見に「どこを妥協点にするかはウクライナの人々の判断」」2022年3月7日 09:13)あたりから、この手口で議論を回避する向きが強まったものです。

橋下氏を議論で黙らせるのは至難の業なので、彼を黙らせるには発言の機会を与えないか、発言の資格がないことにするかのいずれかしか手はありません。その点で、最近流行りの「当事者」論は彼を黙らせるにはうってつけの手段であります。しかし、「当事者」論は、それっぽく見えるものの「議論からの逃亡」以外の何物でもありません。たとえば福祉の世界においては、騙されていること・誤魔化されていることに気が付いていない当事者をめぐって、そのまま当事者が気が付かないでいてくれた方が都合が良い手合いたちが「当人がこれでいいって言っているんだから・・・」などと宣い、議論を打ち切ろうとするものです。

当事者だからといって必ずしも英明で合理的な判断ができるわけではありません。とりわけ、民事弁護士としてキャリアを積んできた橋下氏をこんなことで黙らせられるわけがありません。むしろ民事弁護士としての血が騒いだことでしょう。紛争の当事者は感情的にも高ぶっていることが多く、その解決を当事者同士の意志に委ねることが、いかに机上の空論的であるかを橋下氏は職務を通して肌で知っているはずです。民事紛争を第三者としての裁判官が収めるように、国際紛争も第三者的な視点を導入して解決しなければならないというのが彼の持論だと思われます

案の定、カズレーザーさんごときの薄っぺらい発想で橋下氏を黙らせることなどはできず、彼もなお持論を展開し続けています。「ウクライナ人の思いを尊重する」は、橋下氏を黙らせることには失敗しました。しかし今、この相対主義的な主張は、徹底抗戦論者たちを黙らせることに多大な貢献をしています

前述のとおり、ウクライナの人々は自分たちの生活ために戦っており、武器を置くときも自分たちのために置くものです。ここにおいて私は、ウクライナに対して勝手に「民主主義の防波堤」に任命し人類史的な意義を押し付けている手合いが、ウクライナの人々が武器を置く決断をしたときに足を引っ張らないだろうかと心配していました。いまのところそのような方向には向かっていないように見受けられます。幸いなことです。

■なぜ橋下徹氏の「政治的妥結」論は忌み嫌われ、日本世論は全体主義に堕しているのか
以前の記事(※)においても論じましたが、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる日本世論の特徴には、「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」と「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」があると言えます。「ロシアが正当な理由もなく先に手を出してきたのに、なぜウクライナが妥協しなきゃいけないんだ!」という破邪顕正的な感覚、および、「大義に殉ずる」ことを美化する大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚が日本世論にはあるものと見受けられます。そんなわけで、ウクライナ国内における徹底抗戦論者の勇ましい主張やグレンコ氏・有馬教授のようなロマンチシズム的な主張が持てはやされ、これに水を差すような橋下氏のような主張が忌み嫌われているものと思われます。

(※)関連記事
3月4日づけ「日本もプーチン大統領顔負けの「力の信奉者」:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(1)
3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)

ヤフコメだったと思いますが徹底抗戦論者が次のようなたとえ話をしていました。「暴漢が殴りかかってきたのに、なぜ自分が謝るんだ?」と。個人レベルの感覚で天下国家を語る典型的な誤謬であると言わざるを得ない主張です。ロシアを「暴漢」扱いすることの是非を差し置いても、このたとえは失当です。暴漢と自分の二人だけの問題ではないからです。あえてこの手のたとえ話的にいうなら、「ハゲタカファンドが我が家の家業を乗っ取ろうとして全面戦争を仕掛けてきたので家族一丸となって抵抗してきたが、さすがに耐え切れなくなってき、妻子に『おとうちゃん、悔しいのは分かるけどもう耐えられないよ』と泣きつかれた」といったところでしょう。

ウクライナでは今、人々が命を懸けてロシア軍の攻撃に抵抗しています。このことは事実です。他方、「武器を手に戦う」と言明するのは50パーセント程度、そして出国禁止命令が出ている男性国民からも脱出を試みるものが続出していることも事実です。皆が皆、命を懸けてロシア軍に抵抗しているわけでもありません。それは当然のこと、自然なことです。

橋下氏は、100パーセントの国民が挙国一致的にロシア軍に自発的に抵抗するなんてことはあり得ないという認識のもと、希望者の国外退避を認めるべきではないかという至極当然のことを主張していたに過ぎません。しかしそれが「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」と「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」の発想に浸かり切った人たちには気にくわなかったのでしょう。「ロシアが正当な理由もなく先に手を出してきたのに、なぜウクライナが妥協しなきゃいけないんだ!」と。そして、大河ドラマや歴史小説を通して刷り込まれたロマンチシズムに則ったグレンコ氏や有馬教授のような徹底抗戦論が、聞こえの良い言説として浸透したのでしょう。かくして、「今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」というグレンコ氏の全体主義的な言説を無批判に受け入れてしまったわけです。

戦後70年以上たちましたが、日本はかくも容易に全体主義に堕する可能性があることがこの度、青天白日のもとに晒されたものと言わざるを得ないでしょう。
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2022年04月02日

現代アメリカの「同志スターリン」

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202203050000143.html
プーチン大統領を止めるには「暗殺するしかない」 米上院共和党議員の投稿に身内からも批判の声
[2022年3月5日9時47分]

米上院共和党の有力議員リンゼー・グラム司法委員長(66)が3日、ウクライナ侵攻を続けるプーチン大統領を止めるには「暗殺するしかない」とツイートして物議を醸している。

グラム氏は、紀元前44年のローマでジュリアス・シーザーを暗殺した政治家マーカス・ジュニウス・ブルータスと第2次世界大戦中にナチス・ドイツを率いた独裁者ヒトラーを暗殺し損ねたことで知られるクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐の名前を引用し、「ロシアにブルータスはいるか? ロシア軍にはシュタウフェンベルクより成功できる人がいるか? 終わらせる唯一の方法は、ロシアの誰かがこの男(プーチン大統領)を殺すことだ」とツイート。自国と世界のために多大なる貢献ができると持論を展開した。

その後も、最初の投稿に補足する形で「これを解決できるのはロシア国民だけだ。言うのは簡単だが、するのは難しい。残りの人生を暗躍の中で生きたくなければ、ひどい貧困の中で他の国から孤立したくなければ、誰かが立ち上がる必要がある」と投稿している。

(以下略)
アメリカ上院の司法委員長が、ロシアのウクライナ侵攻を止めるためにはプーチン大統領を「暗殺するしかない」とツイートして批判を受けたといいます。

今回の侵攻は、ロシアの地政学的位置ゆえに歴史上繰り返されてきた南下政策の一環であることは当ブログでも再三繰り返してきたところであり、条件と必要性さえ整えば、これからも繰り返されるであろう構造的なものそれにも関わらず!

人間の意志や行動は、その人が置かれた環境や条件に強く影響されます(もちろん私はマルクス主義者ではなくチュチェ思想派なので、環境や条件に「規定される」とまでは言いませんが)。個人が何かを「思う」ということは、環境や条件によって「思うように仕向けられている」ということです。これに対してアメリカン・ドリーム的世界観にドップリ浸かり切った「個人」主義の発想は、個人の意志や行動を過大評価し、客観的条件の制約を無視しがちですが、この発想は必然的に、現象の原因を個人に帰結させるものであります。好ましい現象は英雄のおかげ、好ましくない現象は悪人のせいということになるものです。

グラム氏の発言はまさにアメリカ的世界観によるものというほかありません。歴史的に何度も繰り返されてきた南下政策の再現を不当にもプーチン大統領個人と結びつけ、その終結を彼の死に見出しています。

都合の悪い現象を特定個人の人となりや言行に結び付け、その人物を死に至らしめることで解決しようとするやり口は、まさにスターリンの手口であります。

もちろん、両者は完全には一致してはいません。ソビエトの無法者は「階級闘争激化論」に基づいていました。すなわち、連中の言い分は、ポリシェヴィキ革命によって社会制度が全面的に作り替えられたにも関わらず一部の個人や徒党が時勢に逆らって、まさに「反動」として足を引っ張っているので、それを排除して正常な歴史の流れを取り戻すというものでした。当時のソビエトメディアは、スターリンを「庭師」としていたといいます。社会主義建設という「大樹」の生命力を生かしてその成長を導くべく、「雑草」や「害虫」から庭木を守る者になぞらえたわけです。個人の意志や行動と社会現象との間に一定の線引きがあり、個人的な自己意識の直接的支配下にないものについては、調整的に関与するのが限界であり、創造主のように意のままに操ることはできないという世界観的な理解を見て取ることができます。

これに対してグラム氏の発想は、プーチン大統領がロシアを意のままに操っており、その邪悪な意志を完遂するためにウクライナを毒牙にかけたという見方をしていると言わざるを得ません。個人の意志いかんで天下国家を自在に操ることができると見ているわけです。個人の意志や行動と社会現象との間が「地続き」になっているのです。

ある意味でスターリンよりもひどいグラム氏の発言です。歴史の大きな流れを個人や少数の徒党が妨害することはあり得ますが、歴史の大きな流れを個人や少数の徒党が意のままに操ることはできません。あまりにも主観観念論的な見方です

スターリンによる殺人は、個人よりも「革命の利益」を優先させるまさに全体主義の極致でありました。全体主義による殺人でした。これに対してグラム氏の暗殺奨励発言は、その真逆であり、個人主義の極致であると言えます。

全体主義による殺人は、我々日本人もイメージしやすいものであります。しかし、個人主義も極端の領域に行くと同じように殺人という結論に至りうること、とりわけ、冷戦終結とソ連崩壊によって全体主義に勝利したはずの「自由」で「個人が尊重される」現代アメリカに、スターリンの意志が体現されかかったことを私は記憶に留めたいと思います。
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