弁護士でコメンテーターの橋下徹氏と、アパグループの論文コンクールでキャリアをスタートさせたアンドリー・グレンコ氏(本業は日本文学研究で、国際政治学は専門外。アパの論文コンクールで「国際政治学者」扱いなら、田母神俊雄氏なんてその道の権威になってしまうw)との論争について引き続き取り上げたいと思います。
■主張を正確に理解してもらえない橋下氏
あの論争以降、似たような論争や一方的なコラムが雨後の筍のように出てきましたが、どれを取っても橋下・グレンコ論争を越える内容ではなく、むしろ劣化コピーというべきものでした。
橋下氏の主張は必ずしも降伏を促すものではなく、徹底抗戦一辺倒になることを避けるよう、非戦闘員の思いをも汲み上げるよう求めるものでした。しかし、
雨後の筍の多く(ほとんど?)は、大義だの文化だの、生身の人間たちの生活を省みているとはとても思えないもの、ヒロイズムやロマンチシズムに浸った立場から橋下氏の主張に批判や「反論」を試みるものでした。あるいは、
単純に橋下氏の主張を正確に理解していない言説もかなり多く見受けられました。
たとえば、
3月13日づけ記事で取り上げた有馬哲夫・早稲田大学教授の批判に対して橋下氏は、Twitterで次のように反批判しています。
https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1502442338701828101いざ戦争が始まってしまうと、論理的な思考ができなくなる典型やな。特に命の安全が保障されている学者は。俺はウクライナに無条件降伏をしろとは言っていない。
終始、政治の知恵で解決すべき。ウクライナだけに負担を負わすのではなくNATOとロシアで政治的妥結をはかるべきという主張だ。戦争が始まると戦え一択の思考になってしまい、その他の主張は全く受け付けなくなる典型だな。プーチン政権を倒すのがベストだが、西側諸国がやるのは経済制裁のみ。
いったい、いつまでウクライナに血を流させるんだ?今も毎日ウクライナ人の命が奪われている。プーチンのウクライナ中立化・非武装化の要望は結局、NATOとロシアの安全保障の問題だろ?そこを、きちっと話をつけないからウクライナに悲惨なしわ寄せが来てしまった。
この戦争の本質を理解しNATOも責任を感じるならウクライナだけに負担を押し付けるのはおかしいと気付くはず。ロシアとの戦争を避けるためNATOは軍事介入できない。であればウクライナが絶対に飲めないロシアの要求をNATOが引き取って、NATOとロシアで安全保障の枠組みについて政治的妥結をはかるべきだ
(中略)
過去の歴史を引き合いに、ロシアの蛮行の恐れを防ぐためには戦うしかないという主張も理解できる。しかしそれは戦地で命をかけて戦っている戦士の言い分だ。命が保証されている日本人が言うことではない。戦地では死の恐怖が目の前に晒され、苦痛にうめいている非戦闘員のウクライナ人がたくさんいる。
彼ら彼女らの全員が将来のロシアの蛮行を防ぐために、自分の命を投げ打つ、この苦しみを受け入れると考えているのか、それともとにかく今目の前にある恐怖から逃れたいと考えているのか。それは安全な日本からは分からないことだ。言えることは戦闘員は命をかけて戦っているので敬意を表する。
しかし額に拳銃を突きつけられたような非戦闘員が、逃げたい、生き残りたいという思いを持っていたとするならその意思も最大限に尊重すべきだ。それが戦う一択は危険という僕の持論だ。そもそもウクライナだけを犠牲にしているという認識があるのか。
(以下略)
「
いざ戦争が始まってしまうと、論理的な思考ができなくなる典型」とまで言われてしまっている有馬教授。
たしかに橋下氏は「降伏しろ」とだけ言っているわけではありません。もちろん、降伏することも「選択肢の一つとしてあり得る」という立場ですが、「直ちにそうするべきだ」とまでは言っていないのです。
このことは、橋下氏の発言を筋道立てて読み解けば、普通の読解力があれば直ちに分かることであります。しかし、それがまったく通じていません。それゆえ、「
橋下徹「ロシア軍叩き潰すしかない」に“手のひら返し”と批判」(3/26(土) 6:08配信 女性自身)という記事まで出てくる始末です。
橋下氏が「直ちに降伏するべきだ」と言っていると思い込んでいる人たちは、
橋下氏のツイートを飛ばし飛ばしにしか読んでいないものと思われます。しっかり文章として文脈に沿って読んでいないものと思われます。
■ダック・スピーク的「橋下話法」で成り上がり、それに敗れた橋下氏
橋下徹という男は、『1984年』でいうところのダック・スピーク、つまり持論をまくし立て畳み掛ける話法で今の地位を築き上げてきた男です。彼との議論において名だたる評論家やジャーナリストたちが彼の勢いに負けて上手く切り返せず「論破」されてきました(実際には相手の言葉尻を捉えた揚げ足取りのようなケースが珍しくない)。
しかし今回は、橋下徹その人がダック・スピーク的「橋下話法」に敗れたといえるのではないでしょうか? 相手の主張の文脈を無視してガアガアとアヒルのようにまくし立ててきた男が、いま自らも持論を正確に理解してもらえず、言ってもいないことを「言った」として非難されているのです。
Twitterというものは、ダック・スピークに非常に向いたものであります。というよりも、あの文字数制限においてマトモに論理を立てることは困難であると言うべきでしょう。Twitterは長文仕様ではありません。そして昨今では、TwitterどころかYouTubeを情報収集のメインにしている人まで増えてきているといいます。この手に人々について、次のような興味深い分析があります。
https://twitter.com/Doctor_Carp/status/1410243301366665217世の中には実際に文章の理解能力に乏しくて、小説や新聞は文字が多くて嫌だ、テレビやYouTubeでないと難しい、みたいな方々が大人でも存在しているのは把握しています。理解できない時に文章だと気軽に飛ばせませんが、動画では分からない時でも勝手に次に進めてくれますからね。
そうした方々がきちんとした日本語で他人にも理解できるツイートやリプをするのは難しいのでしょうけども、それってTwitter向いてないのでYouTubeでも見てた方が良いと思うんですよね。なんでTwitter続けてるんでしょうか。
つまり、
長文仕様ではないSNSが流行り、そして長文に頭がついていけない人々が増えているというわけです。
橋下氏が言い負かされていることについて、「ザマァ」という気持ちがないといえばウソになります。しかし、
彼が言い負かされている今日の日本社会の現状は、危機的なものがあると言わざるを得ないように思われます。
■現実から手痛い批判を受けるグレンコ氏や有馬教授
それでは、グレンコ氏や有馬教授、その他橋下氏批判者らが「正しい」と言えるでしょうか? 橋下氏は「橋下話法」に敗れましたが、
グレンコ氏らは現実から手痛い批判を受けています。
3月20日づけ読売新聞『
避難先にも招集令状「まさか自分の元に」…ウクライナは総動員体制、家族離散も』、21日づけFNN「
“脱出”相次ぐウクライナ男性 箱に隠れ出国 女装で拘束も」、27日づけAFP通信「
ウクライナ人の半数「武器を手に戦う」 世論調査」などを見るに、
「挙国一致的にロシア軍を迎え撃とうとするウクライナの軍民」というイメージとは異なる現実が続々と報じられています。
グレンコ氏は、国外退避できる人はどんどん国外退避すべきだと主張する橋下氏との論争の中で「
今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」(「
ウクライナ出身の政治学者グレンコ氏 橋下氏に反論「ゼレンスキー大統領の支持率は国民の90%なので」」2022年3月7日 12:06 スポニチ)などと述べて「国民の自発的性」を強調していました。
大統領への支持と大統領の具体的な政策への賛同との違いを分かっていないあたりが「いかにもアパだな」と言わざるを得ません。たとえば、いま日本では岸田内閣の支持率は50パーセントを超えていますが、では目下の国政最重要課題である新型コロナウィルス対応において50パーセント超の人々が岸田首相の政策に無条件大賛成しているかといえば、そんなことはありません。日帝的な国家総動員体制にロマンチシズムを感じるようなアパの手合いには分からないのかもしれませんが、
総論は賛成であっても各論とりわけ自分自身に関係することについては必ずしも政府方針に白紙委任しているわけではないのが常です。
現にウクライナにおいても、ゼレンスキー大統領への支持率が90パーセントではあるものの、「武器を手に戦う」と言明するのは50パーセント程度、そして出国禁止命令が出ている男性国民からも脱出を試みるものが続出しているわけです。
現実はグレンコ氏が考えているほどは一致団結していないのです。
また、
グレンコ氏の主張に則れば、ゼレンスキー大統領を支持しない10パーセント程度の人々の思いは無視して構わないということになってしまいます。これもまた「いかにもアパだな」と言わざるを得ないところです。
大義を優先するあまり、全体主義に堕しているわけです。
■全体主義化する徹底抗戦論。語るに落ちるとはこのこと
今この瞬間もウクライナの地に留まっているウクライナの人々(つまり、「
橋下徹さんと激論を交わした政治評論家と政治学者が皮肉『僕の考えた正しい当事者論』はいらないし妄想」とはいうものの、日本滞在歴が長く今も日本にいるグレンコ氏も除く)は、自分たちの生活ために戦っているのであって、決して「民主主義の防波堤」として人類史的な意味を背負って戦っているわけではありません。「力による現状変更の悪しき前例を作らないため」に戦っているわけもありません。まして、ヒロイズムやロマンチシズムのために戦っているわけがありません。このことはすなわち、武器を置くときも自分たちのために置くということであります。また、ウクライナは4000万人ほどの人口を抱えているわけですが、このことはすなわち、彼の地には4000万通りの個性があるということであります。
4000万人ひとりひとりそれぞれの「自分のため」があるということです。
ロマンチシズムやヒロイズムに浸った
グレンコ氏や有馬教授らは、この事実を軽視、ないしは見落としています。彼らは「ウクライナ国民」という
「デカい主語」で語っています。しかし、ウクライナ国民という「実体」があるわけではありません。一人ひとりの個性を持った生身の人間が属性としてウクライナ国民に分類されているに過ぎません。
「ウクライナ国民は〜」というのは、あくまでも統計学的処理の上でのみ語り得るものです。
統計学的に分析する際に注意すべきは、この分析によって見えてくるのは、
あくまでも集合的な傾向であり個別の事情ではないということです。
ひとりひとりの個人を尊重する立場に立てば、統計学的な分析のみを以って政策を語ってはいけないはずです。その失敗例が、計画経済でした。計画経済は国家統計に基づき需給計算を行って生産計画を決定したものでしたが、そこにおいては最低限の需要は満たせたものの消費財生産につきものである細々とした需要に機敏に対応できませんでした。
余談ですが、朝鮮民主主義人民共和国においては、政治活動とは対人事業であるという認識のもと膝を突き合わせて対話することが非常に重視されているところです。あれほどまでに対話によって国家政策を徹底しようとする国は他にないでしょう。それでも政府の施策に反対する人は一定数いると推測されます。まして共和国以外の国では、統計処理的な意味で「国民の支持」と言っているにすぎないものと思われます。
その点、
グレンコ氏はいかにもアパらしく、「今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」などと宣って恥をさらしています。
大統領への支持と大統領の具体的な政策への賛同とを混同しています。現実は、ゼレンスキー大統領への支持率が90パーセントではあるものの、「武器を手に戦う」と言明するのは50パーセント程度、そして出国禁止命令が出ている男性国民からも脱出を試みるものが続出しています。グレンコ氏らの見立てに対して現実は手痛い批判を加えているわけです。また、グレンコ氏は「支持率90パーセント」を誇らしく提示することで
残り10パーセントに属する「少数派」を無視する全体主義的な立場を自ら鮮明にしているのです。
橋下氏は、徹底抗戦論者が全体主義化することを懸念しています。まさにグレンコ氏のことです。さすがはアパ。程度が低い。語るに落ちるとはこのことです。
■「ウクライナ人の思いを尊重する」の思わぬ効用
かくして橋下・グレンコ論争は、総じてグレンコ氏を支持する徹底抗戦論者が頭数において優勢ですが、ここ最近立て続けに報じられている「ウクライナ国民にも、さまざまな考え方や思いがある」という報道への世論動向においては、
「ウクライナ人の思いを尊重する」という形であまり反発の意見が出てきていないことは幸いです。
もともと「ウクライナ人の思いを尊重する」は、橋下氏を黙らせるために議論自体を打ち切ろうとして編み出されたものです。橋下・グレンコ論争直後の3月7日、クイズ番組では博識をフル活用して大活躍するが、情報番組では無難なことしか言わないお笑い芸人のカズレーザーさんが「
どこを妥協点にするかはウクライナの人々の判断だ」と述べた(「
カズレーザー 橋下徹氏のロシアの侵攻巡る意見に「どこを妥協点にするかはウクライナの人々の判断」」2022年3月7日 09:13)あたりから、この手口で議論を回避する向きが強まったものです。
橋下氏を議論で黙らせるのは至難の業なので、彼を黙らせるには発言の機会を与えないか、発言の資格がないことにするかのいずれかしか手はありません。その点で、最近流行りの「当事者」論は彼を黙らせるにはうってつけの手段であります。しかし、「当事者」論は、それっぽく見えるものの「議論からの逃亡」以外の何物でもありません。たとえば福祉の世界においては、騙されていること・誤魔化されていることに気が付いていない当事者をめぐって、そのまま当事者が気が付かないでいてくれた方が都合が良い手合いたちが「当人がこれでいいって言っているんだから・・・」などと宣い、議論を打ち切ろうとするものです。
当事者だからといって必ずしも英明で合理的な判断ができるわけではありません。とりわけ、民事弁護士としてキャリアを積んできた橋下氏をこんなことで黙らせられるわけがありません。むしろ民事弁護士としての血が騒いだことでしょう。紛争の当事者は感情的にも高ぶっていることが多く、その解決を当事者同士の意志に委ねることが、いかに机上の空論的であるかを橋下氏は職務を通して肌で知っているはずです。
民事紛争を第三者としての裁判官が収めるように、国際紛争も第三者的な視点を導入して解決しなければならないというのが彼の持論だと思われます。
案の定、カズレーザーさんごときの薄っぺらい発想で橋下氏を黙らせることなどはできず、彼もなお持論を展開し続けています。「ウクライナ人の思いを尊重する」は、橋下氏を黙らせることには失敗しました。
しかし今、この相対主義的な主張は、徹底抗戦論者たちを黙らせることに多大な貢献をしています。
前述のとおり、ウクライナの人々は自分たちの生活ために戦っており、武器を置くときも自分たちのために置くものです。ここにおいて私は、ウクライナに対して勝手に「民主主義の防波堤」に任命し人類史的な意義を押し付けている手合いが、ウクライナの人々が武器を置く決断をしたときに足を引っ張らないだろうかと心配していました。
いまのところそのような方向には向かっていないように見受けられます。幸いなことです。
■なぜ橋下徹氏の「政治的妥結」論は忌み嫌われ、日本世論は全体主義に堕しているのか
以前の記事(※)においても論じましたが、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる日本世論の特徴には、「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」と「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」があると言えます。「ロシアが正当な理由もなく先に手を出してきたのに、なぜウクライナが妥協しなきゃいけないんだ!」という
破邪顕正的な感覚、および、「大義に殉ずる」ことを美化する
大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚が日本世論にはあるものと見受けられます。そんなわけで、
ウクライナ国内における徹底抗戦論者の勇ましい主張やグレンコ氏・有馬教授のようなロマンチシズム的な主張が持てはやされ、これに水を差すような橋下氏のような主張が忌み嫌われているものと思われます。
(※)関連記事
3月4日づけ「
日本もプーチン大統領顔負けの「力の信奉者」:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(1)」
3月6日づけ「
力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」
ヤフコメだったと思いますが徹底抗戦論者が次のようなたとえ話をしていました。「暴漢が殴りかかってきたのに、なぜ自分が謝るんだ?」と。個人レベルの感覚で天下国家を語る典型的な誤謬であると言わざるを得ない主張です。ロシアを「暴漢」扱いすることの是非を差し置いても、このたとえは失当です。
暴漢と自分の二人だけの問題ではないからです。あえてこの手のたとえ話的にいうなら、「ハゲタカファンドが我が家の家業を乗っ取ろうとして全面戦争を仕掛けてきたので家族一丸となって抵抗してきたが、さすがに耐え切れなくなってき、妻子に『おとうちゃん、悔しいのは分かるけどもう耐えられないよ』と泣きつかれた」といったところでしょう。
ウクライナでは今、人々が命を懸けてロシア軍の攻撃に抵抗しています。このことは事実です。他方、「武器を手に戦う」と言明するのは50パーセント程度、そして出国禁止命令が出ている男性国民からも脱出を試みるものが続出していることも事実です。皆が皆、命を懸けてロシア軍に抵抗しているわけでもありません。それは当然のこと、自然なことです。
橋下氏は、100パーセントの国民が挙国一致的にロシア軍に自発的に抵抗するなんてことはあり得ないという認識のもと、希望者の国外退避を認めるべきではないかという至極当然のことを主張していたに過ぎません。しかしそれが「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」と「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」の発想に浸かり切った人たちには気にくわなかったのでしょう。「ロシアが正当な理由もなく先に手を出してきたのに、なぜウクライナが妥協しなきゃいけないんだ!」と。そして、大河ドラマや歴史小説を通して刷り込まれたロマンチシズムに則ったグレンコ氏や有馬教授のような徹底抗戦論が、聞こえの良い言説として浸透したのでしょう。
かくして、「今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」というグレンコ氏の全体主義的な言説を無批判に受け入れてしまったわけです。
戦後70年以上たちましたが、日本はかくも容易に全体主義に堕する可能性があることがこの度、青天白日のもとに晒されたものと言わざるを得ないでしょう。