ロシアによるウクラナイ侵攻が始まって3か月ないし100日が経過しました。
これくらい時間が経ってくると出そろってくるのが「歴史」という切り口からの情勢解説です。
■「なんとなく似ている」と指摘することが歴史的に見て考えることだと思い込む現代日本人
「歴史好き」を称する人がテレビ番組などで脚光を浴びたり、「歴史をビジネスに生かす」といったハウツー本がベストセラーになったりと、現代日本では「歴史」が一つのコンテンツとして成立している感があります。特に戦国時代や江戸幕末に生きた人たちの足跡を「参考」にしようという風潮が根強くあります。
しかし、「歴史をビジネスに生かす」と称して、ポスト工業化社会である現代資本主義社会を生きる上でのヒントとして戦国時代や江戸幕末のような前近代社会を生きた人の業績を持ち込むことは、冷静に考えればおかしな話です。経済構造や社会意識がまったく異なる二つの時代。戦国時代や江戸幕末で上手く行ったからといって現代資本主義社会で同じように上手く行く保証などまったくありません。
「歴史は科学たり得るか」というのは非常に重いテーマですが、
2つ以上の歴史的事実を比較して何かヒントを得ようとすれば、少なくとも、それぞれの歴史的事実を取り巻く経済構造や社会意識の異同を分析することは欠かせないでしょう。完全に厳密な対照実験的分析はできないまでも、なるべくそれに近づける努力が欠かせないはずです。
そう考えると、「歴史をビジネスに生かす」といった
最近の歴史談義のほとんどは、目下の課題と歴史的出来事との表面的な類似性に飛びついたうえで「ほら、昔と今はこんなに似ている」「だから戦国時代や江戸幕末の人たちやったようにやれば、きっと上手くいく」という記事構成をしているため、科学的であるとは到底言えません。
ロシアによるウクライナ侵攻にかかる「歴史的」な分析もこの例に漏れていません。たとえば開戦1か月目にノンフィクション作家の保阪正康氏が述べた発言(「
「意識するのはゴルバチョフではなくスターリン」 ウクライナ侵攻1カ月、保阪正康さんがプーチンの胸中を分析」 2022年3月24日 06時00分)。彼はこんなことを言っています。
プーチン氏が意識する指導者は、ゴルバチョフ氏ではなくスターリンなのだなと感じた。ゴルバチョフ氏は旧ソ連の政治システムを西洋型、つまりいろいろな国と共存する方向に持っていった。それに対して、共存ではなく君臨したいのがプーチン氏。それはとりもなおさずスターリンのやり方だというのが率直な感想だ。
プーチン氏はKGB(国家保安委員会)出身。私は1990年から94年にかけて旧ソ連とその後に成立したロシアを10回ほど訪ねている。91年の旧ソ連崩壊で財政が破綻して年金も払えなくなったときに、KGB退職者に会って話を聞いた。
彼らに共通していたのは、自分たちが国家を支えているという強い意識。KGB職員は自分がなりたくてなるのではなく、国が能力や実行力などを評価してピックアップするので、エリート意識が強い。彼らはウクライナやベラルーシなど、旧ソ連の構成国を独立国とは思っていない。
プーチン氏の意識も同じで、それこそ大ソ連帝国の復活だと思う。
なぜ21世紀を生きるプーチン大統領の行動原理を説明するために20世紀に活動したスターリンとゴルバチョフ氏を引き合いに出すのか・・・人選の時点でまったく必然性・科学性を感じない「エッセイ」です。
まだ「
ロシアをさまよう「アンドロポフの亡霊」、今も生きるソ連時代の歪んだ理想」(2022.5.2)という記事を書いた藤谷昌敏・元公安調査庁金沢公安調査事務所長のほうがエッセイとしては質が高い。思えばアンドロポフはプーチン大統領と同じくKGB出身で、プラハの春に際してはさまざまな報告があったにも関わらず「西側の陰謀・西側のそそのかし」という陰謀論に凝り固まって軍事介入したという過去がありました。何よりもプーチン大統領自身、アンドロポフを格別に顕彰していると言います。スターリンよりもよっぽどアンドロポフに「似ている」というべきです。
さしづめ、
保阪氏の「人選」は、プーチン大統領と「なんとなく似ている」と言い得る歴史上の人物のうち、アンドロポフでは知名度が低いが、スターリンやゴルバチョフなら常識として誰でも知っているだろうといった程度の商業主義的な魂胆によるものでしょう。保阪氏は著名人とはいえ結局のところはノンフィクション作家です。売れなければ話になりません。そして、
こんな科学的であるとは到底言えない比較を保阪氏が平気でやってのけるあたり、現代日本人の歴史感覚はこのレベルである、このレベルであるから保阪氏がノンフィクション界でのベストセラー作家がなりえることを示していると言えるでしょう。ベストセラー作家:保阪正康氏を通して日本社会の世論状況が見えてくるのです。
※ここまでの文脈から明らかでしょうが、私は「プーチン大統領はスターリンよりアンドロポフに似ているというべき」と言いたいわけではありません。保阪氏も藤谷氏も、プーチン大統領と過去の比較対象者とをそれぞれ取り巻く経済構造や社会意識の異同を分析するに至っていない単なるエッセイに過ぎず、似たり寄ったりです。
■「なんとなく似ている」程度で歴史を語る姿勢の失敗例
保阪氏のような「なんとなく似ている」程度で歴史を語る姿勢について、東洋史学者の故・岡田英弘氏は『歴史とはなにか』において、これを「アメリカ文明」の特徴としつつ次のように指摘しています(P25〜30)。
ひじょうに重要な文明だが、基本的に歴史のない文明がある。アメリカ文明のことだ。アメリカ合衆国は、世界の文明のなかでもっとも特異な文明であって、アメリカ文明には普遍性がほとんどない。
(中略)
ジョージ・ミケシュというユダヤ系ハンガリー人のユーモア作家が、現代アメリカ探訪記を書いている。ミケシュが指摘しているが、アメリカ人が歴史を論ずるばあいは、かならず現代世界のパラレルとして、ヨーロッパの前例を引用する。それも、ローマ帝国ではこうなったから、アメリカもこうならないように気をつけなければならない、というような大ざっぱな比較をする、と言っている。こういう歴史の受け取りかたは、歴史の本場に暮らすヨーロッパ人の感覚とはかけ離れている。
(中略)
「歴史(History)」ということばは、アメリカでは「誰でも知っている話」ぐらいの意味で軽く使われる。ある有名人の夫人が、自分と夫の出会いについて語って「それからあとは歴史よ(The rest is history)」と言っているのを読んだことがある。
(中略)
アメリカ文明に歴史という要素がかけている結果、アメリカ人は現在がどうあるかということにしか関心がない。過去はもう済んだことだ。だからアメリカでは、過去を問う歴史の代わりに、現代だけを扱う国際関係論と地域研究が人気がある。
アメリカ合衆国が、歴史を拒否して成立した文明であり、歴史のない文明であるという、その本質は、アメリカが日本などの歴史のある文明と交渉するばあいに取る態度に、くっきりと出ている。
たとえば、貿易摩擦をめぐる交渉では、アメリカ側は、現状は不合理だ、と主張して、直ちにこう改善せよ、と要求する。それに対して日本側は、その問題には、こういう「歴史的な」事情があって、それが原因なのだから、その改善のためには、そこまでさかのぼって手当てをする必要がある、と応ずる。日本人の立場では、これは正直な言い分なのだが、アメリカ人はそれを聞いて、歴史に逃げ込むことは卑怯だ、歴史なんていうのは単なる言いのがれだ、大切なのは過去ではなく現状だ、直ちに法律でも作って現状を改善せよ、と言い返すことになる。
歴史に関心のないふつうのアメリカ人にとっては、歴史のある文明に属する外国人が、現在の世界を見る際に、同時に過去の世界まで視野を入れるのは、はなはだ奇怪に感じられる。アメリカは常に現在であり、常に未来を向いている。
※保阪正康批判に岡田英弘氏の新書を持ち出すことには異論もあるでしょうが、新書といえど史学者の書なのでその思想が現れているものです。また、毀誉褒貶さまざまな方でしたが、やはり学者ではあったと思いますよ。
かつてアメリカはウサマ・ビンラディンを子飼いにしていましたが、時を経て宿敵に転化したことがありました。ここで注目すべきは、ウサマ・ビンラディンはアメリカと蜜月関係にあった頃もアメリカの敵になった頃も何一つ変わっていなかったことです。彼の思想と歩んできた道は一貫していました。サダム・フセインとの関係もそうでした。このことは、岡田氏が見る「アメリカ人の歴史感覚」と踏まえて考えるに、
結局のところ、「アメリカ人は今のことしか考えていないから、昨日の敵が今日の友になったり今日の友が明日の敵になったりして、そのたびに右往左往する」ということになるでしょう。
※余談。こういうアメリカ人の刹那的利益追求姿勢ゆえに、アメリカがその本場として隆盛を極めた新古典派経済学もまた、刹那的な利潤最大化を追い求めるブルジョア学問に成り下がったのかなと思ったりします。
「
ローマ帝国ではこうなったから、アメリカもこうならないように気をつけなければならない、というような大ざっぱな比較」が精一杯になってしまうほどに
歴史感覚を欠如させることの危険性をアメリカ人は体現しています。そして
保阪氏の上掲記事はアメリカ的な失敗の轍を踏んでいると言わざるを得ないものです。さらに、
そんな保阪氏がベストセラー作家となり、その雑な分析が重宝されているところに日本社会の世論状況が危険な状態にあることを示しています。
■NHKの、そしてそれを視聴する日本社会の歴史を語る姿勢・歴史感覚はここまで退化しているのか
もっとも、保阪氏の上掲記事はあくまでも東京新聞のコラムです。私は東京新聞の紙媒体購読者ではないので正確なところは分かりませんが、2面か3面あるいは国際面あたりに掲載されたもので、テレビニュースで言えば番組中盤以降に出てくるようなものだと思われます。
これに対して5月23日夜10時にNHK総合が放送し、短期間のうちに何回も再放送されている
「映像の世紀バタフライエフェクト」の「スターリンとプーチン」は、保阪稿以上に雑な「なんとなく似ている」でした。開戦1か月目の保阪稿もひどいものでしたが、3か月目のNHK番組が更に退化しているようでは話になりません。
番組の狙いは明らかにプーチン大統領をスターリンと同類視するところにあります。番組冒頭、スターリンについて「強い国を作るには手段を選ばず」とした上で「(スターリン統治の)悲劇から半世紀、ロシアに再び強力な指導者が現れる」としてプーチン大統領を紹介。「社会主義の崩壊を目の当たりにし、その絶望を復讐のエネルギーに転じた」と決めつけつつ、スターリンとプーチン大統領の両者について「歴史の知られざる連鎖をたどる」と大風呂敷を広げて番組は始まりました。
しかしながら、実際に番組中で触れられたのは、スターリンについては「5か年計画強行に伴うホロドモール」「大粛清を通じた独裁の完成」及び「苛酷な戦争指導」の3つ。これに対してプーチン大統領については、大統領になるまでの道のりと就任後の高度経済成長、真偽不明のリトビネンコ証言、そして今般のウクライナ侵攻くらい。おそらくスターリンからの印象操作を狙っているのでしょうが、ウクライナ侵攻についてはほとんど触れませんでした。
なお、2008年の戦勝記念日においてプーチン大統領がスターリンについて言及した演説については、
同演説の基調的内容はすでに1987年のゴルバチョフ演説にもみられるものです。プーチン大統領オリジナルのものではありません。そして歴史的事実として、いわゆる「共産党保守派」にかなり配慮したゴルバチョフの当該演説でしたが、ゴルバチョフはその後、ブレジネフ・ドクトリンを放棄して東欧諸国の「民主」化を黙認したりソ連崩壊に際して「悪あがき」しなかったりと、共産党保守派が絶対に認めない道を敢えて進みました。
スターリンの「歴史的業績」を「評価」したからといってプーチン大統領がスターリンの道を歩むというレッテルを貼ることはできないでしょう。
これでは「なんとなく似ている」にしても材料が足りなさすぎます。特にスターリンの最高指導者就任及び5か年計画強行とプーチン大統領の政界進出及び高度経済成長はその手法がまったく異なります。ホロドモールや大粛清と、真偽不明のリトビネンコ証言では比較にもなりません。そして、スターリンの戦争指導は巧妙なプロパガンダの展開により「人々をその気にさせる」ことの大成功例ですが、プーチン大統領の今般の戦争指導はスターリンほど上手くいっているとは言えないように見受けられます。
もちろん、スターリンとプーチン大統領それぞれを取り巻く経済構造や社会意識の異同をにはまったく触れずじまいでした。せめて、両者の個人的な性格の類似性を言い立てれば少しは様になったでしょうに、それさえもない。プーチン大統領の成長過程におけるスターリン主義の影響の分析さえもない。
ただ、両者が関わった少数の歴史的事実について、その表面的な類似性を並べることで両者を比較したつもりになるという保阪稿をさらに劣化させたような番組構成でした。
いっそ大河ドラマ風に仕立てればまだマシだったでしょうにドキュメンタリー風に仕立て上げたので中途半端さを増しています。
NHKの、そしてそれを視聴する日本社会の歴史を語る姿勢・歴史感覚はここまで退化しているのかと驚きを感じざるを得ないものでした。
■薄っぺらい人間観に基づく歴史描写
番組の大枠からして見るに堪えない構成ですが、内容も驚くべきものでした。
歴史を動かした要素、要するに人間観が非常に薄っぺらいのです。
まず番組のスターリン描写が非常に単純だったことです。
「恐怖による支配」の一本勝負でした。番組は「巨大国家を一つに束ねる手段は恐怖による支配」としてスターリン体制=恐怖政治という構図を描きましたが、
政治とはそんなに単純なものではありません。スターリン時代に関する研究ついては日本語でもかなり読めるようになってきましたが、巧妙なプロパガンダの展開により「人々をその気にさせる」ことで統治を固めていたことが分かります。
次に、
独ソ戦の描写においてナチス・ドイツの報告書が番組の主張内容を肯定的に支える材料として使われていたことです。
番組は、スターリンの犯罪を意図的に矮小化・地域限定化し、スターリンがウクライナだけを狙い撃ちしたかのように描いています(もちろんスターリンが撒き散らした惨禍はウクライナに限られたものではなく、ホロドモールの同時期、同じような飢餓地獄がソ連全土で展開されていました)。その流れで独ソ戦最初期の
ドイツニュース(ゲッベルスの宣伝省検閲済み)の「ウクライナではソ連の抑圧から救われた住民がドイツ軍を迎えました」という一コマを放映しつつ、「侵攻してきたナチスを解放者として歓迎したものも数多くいた」とか「スターリンへの反旗はウクライナ全土に広がっていた」というアナウンスを挿入し、それで話を終わらせてしまうという我が目・我が耳を疑う描写が放映されたのです。
独ソ戦初期にナチス・ドイツの軍隊を「解放者」として迎えたウクライナ人が存在し、そのことをナチス・ドイツが格好の宣伝材料として用いたことは事実です。しかし史実は、ナチス・ドイツ占領統治がほどなくして苛酷になったことから「解放者」として歓迎する向きはなくなり、むしろ赤軍パルチザンの活動が激化したものです。トレブリンカ強制収容所(1942年〜1943年)が少数のドイツ人の親衛隊士官とウクライナ人看守によって運営されていたことが示すように、その後もナチス・ドイツと歩調を合わせたウクライナ人もいましたが、決してウクライナ人全体を代表するものではありません。
しかし番組では「スターリンへの反旗はウクライナ全土に広がっていた。『追い詰められたスターリン』は苛酷な命令を強いた結果、ソ連は戦争に勝った。ウクライナでは対独協力者への苛酷な報復が続いた」という筋書きでストーリーは戦後に移ったのでした。
独ソ戦におけるソ連勝利の要因が「恐怖」によるものであるというとんでもない見解も、ナチス・ドイツの報告書を転用する形で飛び出しました。国防人民委員令第227号を引き合いに出したところで、
ナチス・ドイツの「彼ら(ソ連赤軍)は、イデオロギーでも祖国愛でもなく恐怖心で戦っている」という報告書を引用したのです。
独ソ戦にはロシア人やベラルーシ人、ウクライナ人といったスラヴ諸民族のほかに中央アジア諸民族、シベリア諸民族も大量に動員され命を落としたものでしたが、彼らがスターリンに対する恐怖心だけで戦っていたとでもいうのでしょうか? 下手をするとロシア以外にも飛び火する国際問題になりかねない歴史認識です。
恐怖心だけで新国家建設ができないのと同様に、恐怖心だけで戦争を戦い抜くことなどできるはずもありません。あまりにも薄っぺらい人間観に基づく歴史解釈です。■ナチス・ドイツの報告書が番組の主張内容を肯定的に支える材料として使われた意味
それにしても現代において、三流出版社の怪しい本ならまだしも、
絶対悪ナチス・ドイツの報告書が公共放送の番組内容を肯定的に支える材料として取り上げられることに私は大変な衝撃を感じざるを得ませんでした。
ところで、ナチス・ドイツの報告書に頼らずとも、
スターリン統治の非道さを強調するためならば、ロシアの反体制的・自由主義的な歴史家や米英仏などの西側歴史家のからでも十分に持ってくることができたはずです。
わざわざナチス・ドイツの報告書を持ち出してまでスターリンを非難する動機、そしてそんなスターリンとプーチン大統領とを重ね合わせる動機とはいったいどこにあるのでしょうか?思い起こせばこの戦争においては、ネオナチとの関連性を強く疑わざるを得ないアゾフ大隊の存在が当初は徹底的に秘匿されていたところ、3月下旬あたりから急に「アゾフ大隊はネオナチではない」としつつ表舞台に出てくるようになったものでした。いまでは「ウクライナ軍指揮官」として、そのビデオメッセージがニュース番組で堂々と取り上げられるに至っています。このことについて「世に倦む日日」は「
アゾフ連隊をクレンジング(政治漂白)するマスコミとネットの情報工作」としています。
それに続く今回のナチス・ドイツ報告書の肯定的引用。「アゾフ大隊はネオナチではない」というのは流石に苦しいのでしょうか。今度は「ナチス・ドイツに部分的なシンパシーを感じて何が悪い。スターリンはそれだけ酷かったんだ」という方向に話を持っていくつもりなのでしょうか?■過去をなかったことにする日本、過去は過去としてあっさりと認めつつ「今は違う」で押し通すアメリカ
ちなみに、アゾフ大隊はネオナチか否かについては、日本公安調査庁の見解とアメリカCNNの報道との比較が興味深いことになっています。
すでに周知のとおり、公安調査庁は「国際テロリズム要覧」でアゾフ大隊についてネオナチと記したものの、今般の戦争が始まってから慌てて削除しました。「アゾフ大隊はネオナチ」という見立てを「最初からなかった」ことにしたのです(「
日本の公安調査庁「アゾフ大隊はネオナチ」記載削除の赤っ恥 “鵜呑み誤報”にロシア猛批判」 公開日:2022/04/19 13:50 更新日:2022/04/19 14:34)。日刊ゲンダイに「
アゾフ大隊がネオナチ的な傾向にあったと何度か報じられている。大慌ての末の削除は赤っ恥だ」と書き立てられる始末。とんだドタバタ騒ぎでした。
これに対してアメリカCNN。「
極右「アゾフ大隊」、ウクライナの抵抗で存在感 ネオナチの過去がロシアの攻撃材料に」(2022.04.02 Sat posted at 14:00 JST)という記事では、過去においてネオナチ的傾向があったことをあっさりと認めつつも「今は違う」としています。
主張が一貫していること、つまり正統であることを重視する日本人的な歴史感覚と、「過去は過去」と割り切るアメリカ人的な歴史感覚の違いが、このあたりにも現れているように思われます。そして、
アメリカ人の歴史への淡白さと比して歴史を非常に重視する日本人ですが、その割には「なんとなく似ている」程度で済ませてしまう姿勢・歴史感覚の危うさがさらに際立ちつように思われます。
関連記事:10月23日づけ「
歴史的に見て考えるということとは、どういうことなのか・・・リベラリズム批判として」