2022年09月29日

ウクライナ軍の「反転攻勢」がしぼむ中、またしてもロシア報道が「北朝鮮」報道化している

ロシア・ウクライナ戦争でのいわゆる「ウクライナ軍の反転攻勢」が徐々にしぼんできています。

東部では一部、ウクライナ軍が前進を続けているものの、南部のウクライナ軍はほとんど前進できていないようです。18日にはゼレンスキー・ウクライナ大統領までもが「一連の勝利のあと、小康状態になっていると思われるかもしれない」という表現を使うに至っています(「ロシア軍がウクライナ各地の民間インフラ施設を攻撃 前線後退で攻撃対象を拡大か」9/19(月) 14:28配信 テレビ朝日系(ANN))。攻勢開始直後に満ち満ちていた「戦争の終わりが見えてきた」や「この勢いでロシアを全土から駆逐してくれ」といった類の言説はまったくといってよいほど見られなくなりました。

あれほど念入りに準備したにもかかわらず、攻勢初期の奇襲は別として、装備は劣悪・士気は著しく低いとされるロシア軍に対して思うように前進できていないウクライナ軍の現状。おなじみ「西側の軍事援助がさらに増えれば・・・」のタラレバ議論は流石に飽きられてきたのか目にする機会が減ってきたように思います。

■曖昧で要領を得ない単なる印象論
ウクライナ軍の「反転攻勢」がしぼむ中、またしてもロシア報道が「北朝鮮」報道化し始めました。やはり、ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのでしょうか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/ccb49f51340e859ef468357da3dadaf3b7bb8bd0
ウクライナ市民に活気「勝てると本気で信じるように」、ロシアは暗く「動員免除の条件は…」
9/23(金) 20:41配信
読売新聞オンライン

 【キーウ=上杉洋司】ロシアによるウクライナ侵略を巡り、ウクライナ軍が東部などで反転攻勢を強め、ウクライナ市民は活気づいている。一方、予備役招集が始まったロシアでは、戦争に巻き込まれる恐れが高まる市民が不安を募らせている。

 ウクライナの首都キーウで防弾チョッキの製作に携わるマリア・ホルデンさん(45)は、「ロシアに勝てるとみんなが本気で信じるようになった」と笑みを浮かべた。職場や通勤途中のバスの中で、「勝利」という言葉をよく耳にするようになったという。

(中略)
 一方のロシアでは、暗いムードが漂い始めた。徴集兵を支援する人権団体の幹部は22日、予備役登録者から「動員免除の条件にはどのようなものがあるのか」といった問い合わせが、「これまでの何倍にも増えた」と明らかにした。
(以下略)
上掲記事を読む直前、私はたまたま教育社会学者で放送大学学長である岩永雅也氏の『教育社会学概論』(昔の放送大学の教科書)を読んだのですが、次のようなくだりがありました。
自身の体験を振り返れば分かるように、そうした日常的な教育事象に対置される命題は、さしあたり印象的で個別的であり、多くの場合価値判断をともなっている。たとえば、自分の周囲の女子高生たちを見て「最近の若い女の子たちは派手すぎる」と認識したとしよう。たしかに、そう認識した個人の範囲内である限り、この認識には十分意味がある。というのも、その命題を参照するのが常に自分自身であるために、「最近の若い女の子たち」という言葉の指す具体的な集団も、「派手」という形容語句の意味も、「〜すぎる」という価値判断の基準も、すべて自明であって疑う余地のないものだからである。しかし、この認識の結果を他の人々が用いるとしたらどうだろう。「最近の若い女の子」とはいつごろからどのあたりに住む何歳くらいの少女か、「派手」というのは具体的にどのような状態を指すのか、「〜すぎる」というのはどんな基準から言えるのか、といった疑義が生じて、たちまちこの命題は曖昧で要領を得ないものになってしまう。もちろんこのような認識を実証的と呼ぶことはできない。
岩永雅也『教育社会学概論』(2019)放送大学教育振興会 p19-20

「活気」と「暗い」を記事の柱としている上掲読売記事は、岩永氏が「もちろんこのような認識を実証的と呼ぶことはできない」と断じた「最近の若い女の子たちは派手すぎる」という曖昧な命題とほとんど同じ構成であると言わざるを得ません。要するに単なる印象論。そう信じて疑わない仲間内で盛り上がる分にはこれでもよいのでしょうが、その「信念」を共有していない人にとっては「活気」だの「暗い」だのというのは「曖昧で要領を得ない」のです。

■まんまと踊らされている
ことごとく予想を外す西村金一氏に至っては次のような記事を書き始める始末です。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71989
プーチンの表情に明らかな変化、敗北の不安くっきりと
ウクライナ侵攻前から現在までの写真を徹底分析
2022.9.27(火)
西村 金一

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ウクライナ侵攻前の2月4日に北京オリンピック開会式に合わせて、中国の習近平主席と会談した。

 その時は、不安もなく自信ありげの様子であった。

 侵攻前日、安全保障会議の場で、プーチン氏が側近に「ウクライナ東部の独立を支持するか」を質問した時には、無表情を装いながらも強圧的な態度が垣間見えた。

 この会議から7か月近くが過ぎた9月15日、ウズベキスタンで開催された上海協力機構首脳会議で、プーチン氏と習近平氏が再び会談した。

 プーチン氏のその時の表情が、侵攻前の表情とあまりにも変わっていたので驚いた。

 この時、プーチン氏は自信がなく不安そうで疲労している表情を海外のメディアの写真に撮られた。

 このような弱い表情を見せたことは、大統領に就任してから一度もなかったからだ。

 プーチン氏の表情はこれまでとどう異なっているのか、特に9月の習近平氏との会談時の表情に注目し写真を比べて、分析する。

 習近平氏との2つの会談だけの比較だと、たまたまそのように見えただけ。特別な写真だけを選んだ・・・ということになってしまう。

 そこで、侵攻前、侵攻直前、侵攻を続けている時期、9月の上海協力機構会議の発表と習近平と再び会談したのもの、その後の表情を見比べて、違いを評価したい。

(中略)
5.ロシア海軍の日8月1日、戦況行き詰まる
 8月には、都市ハルキウは奪還され、東部では軍の主力を向けているのにもかかわらず、攻撃の進展も僅かでしかない。

 記念日の前日までに兵員の死者は4万人を超え、戦車約1800両・装甲車約4000両・火砲900門が破壊された。

 ウクライナ軍が欧米の兵器を得て、徐々に反転攻勢に向けて準備を進め、攻勢をうかがっている状況だ。ロシア軍の攻勢の兆しはない。

 このように、負け戦になりつつある状況での海軍記念日では、プーチンの様子はどうなのだろうか。

 プーチン氏とショイグ国防相ほか2人が小型のボートに乗船し、海軍艦艇を閲兵している様子だ。

 この4人とも、暗い雰囲気が漂っている。

 プーチン氏は、国のトップとしての自信がなくなり、何かを見ているだけのようだ。

 ショイグ国防相は目がうつろだ。海軍司令官も、黒海艦隊旗艦「モスクワ」を撃沈され、冴えない表情だ。

 この4人の暗い表情からは、ロシア軍の兵士の士気がかなり落ちていることをもうかがわせる。

(中略)
6.上海協力機構首脳会議では自信喪失
 9月15日と16日、ウズベキスタンで行われた上海協力機構の首脳会議と習近平氏との会談でのプーチン氏の様子だ。

 9月15日の会談での様子だ。

 ネクタイの色は紺系だ。特徴的なのは、眼光が弱い、額には皺が多い、髪の裾が少し伸びていて整髪されていないことだ。

 これほど精彩がないプーチン氏を見たことがない。これまで無表情で見下す様子がよくあったが、今回だけは、自信がなくなって弱々しい表情だ。

 習近平氏相手に、このような表情を見せるとは、兄貴分だったはずのプーチン氏が、習近平氏の方が兄貴分になってしまって、見下されてしまったのだろうか。

 9月16日の会議の前に、習近平氏と少し話をした時の様子である。

 この日は、2人ともワイン系のネクタイだ。習近平氏はカメラの前で、一瞬のことであるが、プーチンを見ずに前を向き、わざと冷たくあしらっている態度を見せつけているかのようだ。

 プーチン氏は通訳を見ているのか、自信がある眼光の鋭さはない。どう見てもこれまでと違う。自信がないようにしか見えない。
 
 9月16日、会議で発言するプーチン氏の様子だ。目や口元に強さが見えない。自信を失った様子だ。これまで見たことがない表情だ。

 プーチン氏の苦悩と自信を喪失したことを表した写真だ。

 (以下略)
長いだけであまり中身がない記事ですが、「印象操作にしても非常に程度が低いなあ」と思わざるを得ません。西村氏が「不安もなく自信ありげの様子」として挙げる写真はいずれも記念写真の類から取ってきたものであり、西村氏が「自信がなく不安そうで疲労している表情」として挙げる写真はいずれも不意に撮れたオフショット的な写真から取ってきたものだからです。そんなものを並べて比較しても何の意味があるのでしょうか?

報道写真というものは非常に効果的なプロパガンダの道具です。人間が視覚から受ける印象は非常に強力だからです。戦時において撮影される報道写真は、おしなべて記事執筆担当者の宣伝方針に従って、意図があって撮影されるものです。

いま「ロシアが追い詰められている」という筋書きに沿った記事が求められています。戦時において「敵が追い詰められている」という構図は宣伝上、非常に有用だからです。「疲れが見えているプーチンの写真を基に、ロシアが追い詰められているという構図の記事を書いてやろう」という意図があって撮影された写真はそこかしこに転がっていると見てよいでしょう。そんな報道写真を集めて「ほらみろ、プーチンが疲れている! ロシアは追い詰められている!」と書き立てている西村氏。まんまとプロパガンダに乗せられて踊らされているわけです。アホらし。

そもそも、これは戦争なのだから最高司令官が疲れを見せるのは当然でしょう。ゼレンスキー・ウクライナ大統領も般若のような険しく、そして疲れた顔をしています。ブッシュ・ジュニア元大統領じゃあるまいし、いつもノーテンキにニコニコしている方がどうかしています。

思い起こせば4月には、小刻みに足を揺らしつつ右手でテーブルの端を握って離さない、尋常な様子ではないプーチン大統領の姿が報じられたものです(「プーチン氏は病気を隠している?…右手でテーブル端を握って離さず、足は小刻みに揺れて」2022/04/23 08:45)。プーチン大統領はおそらく戦争とは無関係にもともと体調に問題があり、戦争のストレスがそれに拍車をかけていると見るのが自然だと思われます。とはいえ、戦争を指導することはできる程度の体調だと思われます。

もっとも、この手の記事は内輪向けの士気向上ネタなので、本来は真面目に批評するようなものではありません。しかしながら、日本世論の場合、この手の話題を単なる士気向上ネタとして消化するのではなく、真面目な情勢分析の下敷きとしてしまう傾向があります。注意が必要でしょう。

■証拠が揃った段階で整理・総括すれば?
つい最近のニュースとして耳目を集めた「予備役の部分的動員」について、次のような主張が展開されています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/727c221a0a5ce58a4d4984a3003b4703ab42b68f
「プーチン政権の断末魔だ」ロシアの予備役招集・出国禁止で辛坊治郎が指摘
9/27(火) 15:10配信
ニッポン放送

キャスターの辛坊治郎が9月26日、自身がパーソナリティを務めるニッポン放送「辛坊治郎 ズーム そこまで言うか!」に出演。ウクライナ侵攻を続けるロシアのプーチン政権が予備役の招集を決めるとともに、予備役男性の出国禁止に乗り出そうとしていることについて、「プーチン政権の断末魔だ」と指摘した。

(中略)
アフガニスタンへの侵攻では、亡くなった旧ソ連兵の親族らが嘆き悲しんでいる姿が国民の間に広がっていき、世論に押される形で侵攻が終わりました。当時の統治者がゴルバチョフ氏という非常に開明的な人物だったということも大きく影響しているでしょう。では、ウクライナ侵攻でも同様のことが起きるのかというと、プーチン体制が終わらない限りなかなか難しいかもしれません。とはいえ、部分的動員や予備役男性の出国禁止からは、プーチン政権の断末魔や焦りが見えてきたという印象があります。
辛坊氏はこれを「断末魔」だと信じたいのでしょうが、実際にそうなるかは現時点では何とも言えないでしょう。分からないこと、見えてきていないことが多すぎます。

不思議でならないのは、じっくりと展開を見守ってから「やっぱりこうなった! やったやった!」と誇ればいいものを、なぜ辛坊氏を典型例とする日本メディアの報道は、まだそうなっていない段階から熱心に憶測を書き立てるのでしょうか? よくわからない段階からああでもないこうでもないと推測を並べることよりも、もはや誰の目にも明らかなくらいに証拠が揃った段階で整理・総括した方が喜びは大きいと思うんですが・・・

辛坊氏の主張は未来予測のうちには入らないと思われます。未来予測というのは、たとえば「xx奪還においてウクライナ軍はどの方面から軍を進めるだろうか?」といった問いを立てた上で、「北から回り込むだろう」とか「いや、いったんooで橋頭保を築いてから・・・」といった具合に徹頭徹尾、冷静に語るものです。価値判断などを一切捨象して、マルクスではありませんが「自然史的過程」として叙述することこそが未来予測と言い得るものです。

断片的事実に飛びつき希望的観測を展開することで精神を安定させることを優先しているのでしょう。じっくりと展開を見守る精神的余裕がないのでしょう。

いまロシアは力を振り絞って戦いを組んでいます。ロシア指導部にとってはまったく予想外だったでしょう。「ロシアは追い詰められている」という見方は必ずしも間違いではないでしょう。とはいえ、このことについて「敵であるロシアが疲弊している! 追い詰められてきている! やったやった!」などと歓喜するのは、展開を軽く見過ぎています。「窮鼠猫を噛む」の如く死力を尽くしてロシアが攻勢を仕掛けてくる危険性があるからです。たしかに、あのロシアを「窮鼠」に追い込んだとすればウクライナの奮闘はまさしく人類史的に特筆すべきものですが、「窮鼠」の牙が「猫」にとっての致命傷になってしまえば、結局は「勝ったのはロシア」ということになってしまいます。

ソビエト・フィンランド間の冬戦争を分析する重要性が、今ますます高まっていると私は考えます。冬戦争は、「カレリア地方の強奪」という最低目標を達成したという意味ではソビエトの戦争目標は達成され、「独立の維持」という最低目標の維持という意味ではフィンランドの戦争目標は達成された戦争でした。つまり、両国の最低目標ベースでは「冬戦争において、両国とも完勝はしていないが完敗もしてもいない」ということができます。戦争と言えば、独ソ絶滅戦争的な「敵を滅ぼすか自分たちが滅ぼされるか」の二択しか頭にない日本的理解においては理解しがたいかもしれませんが、現代の戦争はそういうものです。

ロシア・ウクライナ両国ともに決定打に欠けている現状、ウクライナ米欧諸国が「ヌルい」ウクライナ支援に終始している現状を見るに、冬戦争の展開から学び取れることは多いと考えます。西村金一氏や辛坊治郎氏のような単細胞な見立ては現実を分析できているとは思えないところです。

■4州を「先行」して併合した意味合いとは?
さてここからは「占領地のロシア連邦への編入にかかる住民投票の強行」と「予備役の部分的動員」について考えてみたいと思います。

※なお、これから述べることは、「いま日本メディアで報道されている範囲内の情報を異なる角度から見たとき、このようにも解釈できるよね? なのに何でそんなに決めつけるの?」という観点によるものです。もとより当ブログの問題意識は日本メディアの報道姿勢にあり、戦況の正確な予測にはありません。というよりも、正確な戦況は私には分かりません。海外メディアから情報を仕入れており、日本メディアではなかなか報じられない最新の戦況に詳しい方にとっては呆れる話かも知れませんが、「一般人向け日本メディアで報じられている範囲から考えたとき、こういう解釈も可能だろう」という意味でご理解賜りたいと思います。

意外に思ったのは、ドネツク、ルガンスク、ヘルソン、及びザポロジエの4州だけで住民投票が強行されたことです。以前に構想が提示されていた「ノヴォロシア連邦」は、すでに人民共和国が建国されているドネツクやルガンスクのほかに、ハリコフやニコラエフ、オデッサにも人民共和国を設置してそれらを連邦化するというものでした。ロシアの「野望」は広大だったわけです。「ノヴォロシア連邦」は無期限的な凍結状態に追い込まれて久しいところ、今回のロシア軍の進軍経路と戦略目標は「これらの地域を今度こそ取る」という意志を感じるものでしたが、それを完全には果たさないままに4州を「先行」して併合したわけです。

このことについて、笹川平和財団主任研究員の畔蒜泰助氏は、「露政権は「プランBも修正に追い込まれた」 笹川平和財団・畔蒜泰助氏」(9/23(金) 6:30配信 毎日新聞)で「占領した地域をロシア領とすることにより、攻撃を受けた場合には核兵器で反撃する対象地域になると宣言した」と指摘しています。そういう風に理解することも可能でしょうが、これらの地域を併合することは核兵器を投入するための絶対不可欠な条件とは言えないでしょう。「屁理屈」というよりは「メチャクチャ」というべき「論理」を繰り出し続けてきているロシアです。そもそもロシアは論理を欲しているのかさえ疑わしいものです。予想の斜め上を行く展開で核兵器を使用することが現実的問題として考えられます

「ノヴォロシア連邦」の「野望」に反して4州だけを併合した意味合いを考える必要があるように思われます。プーチン大統領が当初から唱えていた「ドンバスの解放」や、ラブロフ外相の「地政学的な課題は変わった」発言を振り返るとき、今般の戦争ではハリコフやニコラエフ、オデッサなどの具体的な地名には触れられていないので、これらの地域を今回併合できなくても「有言不実行」の謗りからは免れることができます。しかしながら、これでいったん手を打たざるを得なかったとすれば、「野望」ベースで考えたときロシアにとっては「大きな挫折」と言い得ます。

ここで重要なのは、誰もロシアに住民投票を早く実施するように求めてはいないことです。実際問題として4州はロシアの実効支配下にあり、ウクライナがそれを奪還することは困難な情勢にあります。誰も圧力を加えておらず、ロシア自身が決心しなければそのままにしておくこともできた4州併合問題を、「野望」ベースで考えたときに「大きな挫折」になることを辞さずにロシア自身が「先行」させたという事実から何が読み取れるのでしょうか?

あまり注目はされていませんが、アゾフ連隊指揮官が捕虜交換でロシアの拘束から解放されトルコに向かうという報道が出てきています(「ウクライナ兵ら215人、捕虜交換で解放 ロシアには55人引き渡し」9/22(木) 14:33配信 AFP=時事)。ウクライナを「非ナチ化」するというロシアの戦争目標において主要なターゲットであるはずのアゾフ連隊指揮官らが抹殺されることなくトルコに移送されたわけです。思い起こすと、マリウポリの戦いにおいてウクライナ政府は、「アゾフ連隊が全滅させられたら、もう停戦交渉はしない」と発言したものでした(「ゼレンスキー大統領「マリウポリで我々の軍を壊滅させることは全交渉のピリオドに…」 露国防省は“ウクライナ軍を完全排除”発表」4/17(日) 12:04配信 日テレNEWS)。このことを思い返すに、これはロシア側のメッセージとして捉えることもできるのではないでしょうか?

4州の「先行」併合もメッセージとして考えることができないでしょうか? 「ドネツク、ルガンスク、ヘルソン、及びザポロジエの4州だけで手を打つ」という意思表示です。もちろん、この意思表示の相手方はウクライナ政府ではなく米欧諸国に他なりません。プーチン大統領は北方領土問題において「引き分けによる解決」という折衷的な方法を持ち出したことがありましたが、今回も「4州併合で引き分けだ」と言いたいのかもしれません(たしか佐藤優氏だったと思いますが、「引き分け」が今回もキーワードになるといったようなことを言っていた記憶・・・)。

念のため申し上げておくと、もし本当にロシアがこのような魂胆を持っているとすれば、非常に自分勝手な言い分であることは間違いありません。ここで言いたいのは、「事実として、ロシアはそう考えている可能性がある」ということです。

■みんなそろそろ止めにしたい頃合い?
そして「予備役の部分的動員」です。現状、ロシア軍にとって一番の泣きどころである兵力を補充して戦線を支えつつ「4州で手を打つが4州は戦果として何としてでも維持する」というメッセージを発していると解釈することもできるでしょう。

このタイミングで、天然ガスパイプラインであるノルドストリームが「非常に都合よく」破損したというニュースが飛び込んできています。破壊工作の可能性があるといいます(「ロシアのパイプライン損傷、爆発も ガス漏れ、破壊工作の可能性」9/27(火) 17:26配信 時事通信)。かねてよりロシアはエネルギー危機を醸成して米欧諸国のウクライナ支援、つまりウクライナ軍の兵站を攻撃しようと画策してきました。これに対して米欧諸国は当初から必ずしも足並みを一貫させてはおらず、最近はますます足並みの乱れが目立ちつつあるところです。「破壊工作」が事実だとすれば、誰の犯行かはだいたい想像がつくし、これが(可能性としては低いとは思いますが)ロシアを陥れるデッチ上げの冤罪だとすると、その意味合いもまた明白であるように思われます。

いま「核の危機」に対する懸念がかつてないほどに高まっていますが、このことも停戦・終戦に向けた地ならしとして解釈することもできるでしょう。プーチン大統領の恫喝的発言が狙っている効果はあまりにも明白です。「ウクライナから手を引け。なんなら核を使うぞ。さあさあ終わりにしよう。ウクライナ支援をやめたまえ」と。これに対して最近は米欧側でも「核の危機」に言及する政治指導者が現れてきています。たとえば、NATO加盟方針を示したフィンランドのニーニスト大統領は次のように指摘しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7bcebddba192354c1b8a27e74e1048e12fb34c6e
プーチン氏、いかなる敗北も「認めず」 フィンランド大統領
9/27(火) 7:32配信
CNN.co.jp

(CNN) フィンランドのニーニスト大統領は27日までに、ロシアによるウクライナ侵攻が危険な状況を迎えていると警告した。ロシアのプーチン大統領はウクライナ侵攻に高い信頼性を与えていたものの、自分に不利な状況になってきているとの見方を示した。

ニーニスト氏はCNNの取材に対し、プーチン氏がウクライナ侵攻に全てをつぎ込んでいると語った。

ニーニスト氏はプーチン氏について、「戦士」だと形容。そのため、プーチン氏がいかなる種類の敗北についても受け入れるのを目撃することは非常に困難であり、そのことが状況を危機的なものにしていることは間違いないと指摘した。

(以下略)
プーチン大統領を「戦士」と呼ぶのは、ちょっと意外です。翻訳の問題として片づけられないように思われます。「チンピラの核恫喝に屈しない」という立場であれば、プーチン大統領を「戦士」とは呼ばないでしょう。

読売新聞編集委員の飯塚恵子氏は「これによって長期化は避けられず、停戦する気がないということがはっきりした」などとしています(「ロシア国内反発 なぜプーチン大統領は 部分的動員を決断したのか【深層NEWS】」9/27(火) 18:12配信 日テレNEWS)が、必ずしもそうとは言い切れないように思われます。みんなそろそろ止めにしたいと思っている頃合いであるようにも思われます。

■総括
このように、一般向け日本メディアで報じられている範囲から考えたとき、必ずしも今後の展開の予想は一つに絞られないと思われます。この大雑把な現状認識からは、複数の展開を予想可能ではあるはずです。しかしながら、日本メディアの予想は非常に画一的なものです。私が思い付きで書き並べただけでも上述の分量になるくらい論証として穴や飛躍が多すぎるのです。ウクライナ軍の「反転攻勢」がしぼむ中、またしてもロシア報道が「北朝鮮」報道化しています。
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2022年09月20日

「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」50年

9月17日は、偉大な首領:キム・イルソン同志が日本の『毎日新聞』記者と会見し、のちに「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」(チュチェ61・1972年9月17日)としてまとめられる重要労作(『キム・イルソン著作集』第27巻収録)を発表なさってから50年の節目となる日です。

この労作は、チュチェ思想が思想理論として体系化される重要な契機に発表された著作であると同時に、キム・ジョンイル同志の手によって存在論などの分野やマルクス・レーニン主義との差異を強調する方向に深化発展する以前の時期に発表された著作でもあります。この意味で、チュチェ思想発展の里程標として位置づけられる労作です。

以前から述べているように私は、チュチェ思想を指針として日本社会の自主化を目指しています。将来的には日本においても社会政治的生命体を形成することを目指すべきと考えます。しかし、チュチェ108(2019)年12月18日づけ「社会政治的生命体形成の構想」などでも述べてきたように、革命的同志愛と義理心に基づいた道徳義理的団結の実現条件が、ブルジョア「個人」主義が蔓延している現代資本主義社会において存在しているとは到底思えないところです。存在論にまで言及している共和国本国で発行されているチュチェ思想論文・解説書は、ブルジョア「個人」主義にドップリ浸かった日本での生活感情に慣れ切った人間には「キツい」内容であり、現実問題として日本の現状を変革する上では必ずしも参考にならないのです。

日本の現状に合致したチュチェ思想の活用が必要です。そもそも、チュチェ思想に依拠するといっても、それを実践する国・地域によって具体的な戦術は当然異なってくるものです。その点、チュチェ思想には、かつてのコミンテルンのような実践上の中心はなく国際研究所という学問上の中心だけが存在しています。共和国本国でのチュチェ思想実践と日本でのチュチェ思想実践はそれぞれの特性を踏まえて実践すべきものです。

とはいえ、チュチェ思想も一つの思想である以上は、その枠内に収まるとして許容できる解釈と逸脱として判断しなければならない解釈の問題がどうしても生じます。また、人類の進歩・発展が不断の歴史的積み重ねであるということ、そして歴史的な積み重ねを繰り返してゆく中で人類は常に質的に異なる問題に直面してきたということをも考慮する必要があります。平たく言うと、資本主義時代で直面する問題と、社会主義時代に直面する問題は異なるのです。このとき、チュチェ思想の本質が何であるかという理解が非常に重要になってきます

チュチェ思想は非常に深奥な思想体系ですが、これが実践的に構築されているのは、資本主義を清算して未来社会としての社会主義社会を建設する朝鮮民主主義人民共和国です。既に共和国は社会政治的生命体を構築しそれを更に発展させるという、日本社会とはまったく異次元の高い空間に存在しています。それゆえ、日本人が朝鮮語の最新文献を翻訳して何か教訓や指針を得ようとしても、共和国があまりにもハイレベルなのに対して日本があまりにも低レベルなので、必ずしも参考にはならないのです。

未来社会追求においては「立ち遅れている」日本人は、チュチェ思想の深奥なる世界から自分たちに必要な内容を、その本質を踏まえながら自分たちの頭で考えて拾わなければなりません。チュチェ思想の本質を踏まえて逸脱を戒めながら、立ち遅れた日本社会の現状に合致した内容を拾うとするとき、私は首領様が50年前に発表された「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」は、まだ共和国においても社会政治的生命体の形成途上であった時期の労作であるだけに、非常に参考になるものであると考えます(このことは、「日本は、社会政治的生命体の形成という課題において、少なくとも共和国から50年は遅れている」ということでもあります)。

我々は遅れているのです。ならば、最新の文献ではなく敢えて古い文献から学ぶ必要があると言えます。そうした観点から当該労作を読み込んでみましょう。

■主語は「人民大衆」
まず冒頭で首領様は次のように指摘されます。
チュチェ思想とは、一口に言って、革命と建設の主人は人民大衆であり、革命と建設を推し進める力もまた人民大衆にあるという思想であります。言いかえれば、自己の運命の主人は自分自身であり、自己の運命を切り開く力も自分自身にあるという思想であります。
ここで重要なのは、「人民大衆」が主語であるということです。チュチェ思想の文献においては、ときどき「人間」という言葉も登場し、あたかも「個人」を主体として位置づけているかのように文法的には読めてしまうこともありますが、そのように理解すべきではありません。マルクス・レーニン主義の伝統(首領様はこの労作中で「手工業的な技術であっても、協同したほうが個人農経営に比べてはるかにすぐれているという、マルクス・レーニン主義の命題」について、真理として肯定的に言及されています)からいっても朝鮮哲学の伝統からいっても、主語はリベラリズム的な「個人」ではなく集合体としての「人民大衆」であることに注意を払わなければなりません。「人間」というのは、漠然とした「個人」ではなく、あくまでも「人民大衆」を構成する一部分という意味での「個人」なのです。

この点を混同して迷走したのが「チュチェブログ」主宰者の@blog_juche_ideaことChon In Young氏でした。ツイッターを削除した彼は、いまや完全に放置されたブログ以外は何の痕跡もインターネット空間に残していませんが、最末期には「実存主義」への支持を表明していたものでした。主体の理解を誤るとチュチェ思想の看板を掲げながらその正反対の陣営に行きつきかねないわけです。

もちろん、これだけであれば、誰でも思いつきそうな内容ではあります。首領様も次のように認めています。
こうした思想は、決してわれわれが初めて発見したものではありません。マルクス・レーニン主義者であれば誰でもこう考えています。ただわたしは、こうした思想を特別に強調しただけです。
しかし、こうした一般的な理解を具体的政策に一貫して盛り込むことは、簡単な話ではありません。具体的方法を考えるときに抽象的総路線にいちいち照らして整合性を取ることは、思ったよりも難しいことです。我々はその反面教師として、日本における新型コロナウイルス対策を挙げることができるでしょう。日々、四方八方から寄せられる要望・批判に対して医学という総路線に照らして正しい応答をすべきところ、必ずしも貫徹されず、批判回避を優先したとしか思えないような軽慮浅謀な「対策」が展開されたものでした。

■「自主的である」とは、社会に参画をし社会を協同して運営しているということ
では、主体性を確立するというのはいったいどのようなことなのでしょうか。首領様は次のように指摘されます。
主体性を確立するというのは、革命と建設に対し主人らしい態度をとることを意味します。革命と建設の主人は人民大衆であるがゆえに、人民大衆は当然、革命と建設に対して主人らしい態度をとらなければなりません。主人らしい態度は自主的立場と創造的立場に表現されます。

革命と建設は人民大衆のための事業であり、人民大衆自身が遂行すべき事業であります。したがって、自然と社会の改造において自主的立場と創造的活動が求められるのです。
自主的立場に立ち創造的活動を展開することが主体性を確立したことを示すというわけです。

自主的立場について首領様は次のように解説なさいます。
自主的立場を堅持するうえで何よりも重要なのは、政治において自主性を確固と保障することであります。

人間にとって自主性は生命であります。人間が社会的に自主性を失うならば、人間とは言えず動物と何ら変わるところがありません。社会的存在である人間にとっては、肉体的生命よりも社会的・政治的生命が大事であると言えます。たとえ命はつながっていても、社会的に見捨てられ、政治的自主性を失うならば、社会的人間としては屍も同然であります。まさに、そのために、革命家は他人の奴隷となって命を保つよりは、自由のためにたたかって倒れるほうが何倍も光栄であると考えるのです。
人間が人間である証とは、社会的に自主性を持つということなのです。たしかに、人間は社会的動物です。「自主」という言葉は文法的に「自らが自らの主である」という意味合いを持っていると言えます。社会的動物たる人間が「自らが自らの主である」という状態とは、すなわち社会に参画をし社会を協同して運営している状態として解釈できるでしょう。

ちなみに、ここにはのちに社会政治的生命体論につながる萌芽を見て取ることができるでしょう。「日本は、社会政治的生命体の形成という課題において、少なくとも共和国から50年遅れている」とはいえ、しっかりと正統な道を歩めば、時間はかかっても社会政治的生命体構築という究極目標には到着するわけです。

この他首領様は、「チュチェ思想が政治における自主、経済における自立、国防における自衛として具現されるものと理解してもよいかという質問でしたが、まさにそのように理解するのが正しいのです。」とも指摘されています。

■「生活」を目的とすべきである
続いて首領様は、「国内政策にチュチェ思想を具現するため、当面して何に重点をおいているか」という問いに回答を与えています。すなわち、「朝鮮革命にチュチェ思想を具現するうえでもっとも差し迫った当面の問題は、祖国の自主的平和統一を実現すること」であり、また、「共和国北半部においてチュチェ思想を具現するために提起される当面の中心的課題は、3大技術革命を力強く推し進めて、人びとを骨の折れる労働から解放すること」であると指摘されています。ここでは特に後者について注目したいと思います。首領様は次のようにも指摘されます。
搾取と抑圧から解放された朝鮮人民にとって、これから解決すべき重要な問題は、骨の折れる労働から解放されることです。

労働生活は人びとの社会生活でもっとも重要な位置を占めます。労働条件における本質的な差をなくし、人びとを骨の折れる労働から解放することは、人びとの生活をより自主的で創造的なものにするうえで大きな意義をもちます。

人びとを骨の折れる労働から解放するためには、3大技術革命を推し進めていかなければなりません。われわれが提起した3大技術革命の課題は、自力で技術を全面的に発展させることにより、重労働と軽労働の差、農業労働と工業労働の差を縮め、女性を家事の重い負担から解放することであります。これらの課題が完全に遂行されれば、都市と農村で骨の折れる労働は基本的になくなり、労働生活のうえで労働者階級と農民の階級的差もなくなるでしょう。

われわれが漠然と重工業を発展させるとか、軽工業を発展させるとかいうのではなく、人びとを骨の折れる労働から解放するための3大技術革命の目標を掲げたのも、経済建設や技術革命それ自体に目的があるのでなく、それが人民に国家と社会の主人としての張合いのある生活をもたらす手段とならなければならないという、わが党の一貫した立場をはっきりと示すものです。すべてのことを人間を中心に据えて考え、人間に奉仕させるのがほかならぬチュチェ思想の要求であります。
日々の国際ニュースに毒されている我々は、どうしても「祖国の自主的平和統一」に目が行きがちでしょうが、社会主義・共産主義運動の究極目標に照らしたとき、後者の方がより重大な課題であると言えます。「経済建設や技術革命それ自体に目的があるのでなく、それが人民に国家と社会の主人としての張合いのある生活をもたらす手段とならなければならない」というのは、ともすれば社会主義においても経済建設が優先され、一種の自己疎外が発生しかねないところ、それを厳に戒めているといえます。

このくだりは、どんなときにおいても、「すべてのことを人間を中心に据えて考え、人間に奉仕させる」というチュチェ思想の一貫した立場を余すことなくコンパクトに表現したくだりであると言えるでしょう。ここにチュチェ思想の一つの本質的特徴があると言えます。

■人間は物質的基礎に規定されて生存する存在であると同時に、その物質的基礎を自ら創造・改造してゆく存在でもあるがゆえに、人間の教育より重要なことはない
首領様は教育問題についても言及なさっています。
われわれは青少年の教育問題に大きな関心を払っています。それは、青少年が代を継いで革命を続けるべき朝鮮革命の後続部隊であるだけでなく、社会の発展において人間の教育より重要なことはないからです。

言うまでもなく、生活手段なしに人間は生きることも、進歩することもできません。そういう意味で、経済は社会生活の物質的基礎をなしていると言えます。しかし、生活手段はあくまでも人間のためのものであって、人間を離れては無意味なものです。また生活手段を創造し、生活条件を改善するのも人間であります。したがって、社会の発展でもっとも重要なのは、人間をより強力な存在に育てることであり、革命と建設を力強く推し進めるためには、対人活動、人を改造する活動を優先させなければなりません。

人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する、というのがチュチェ思想の基礎であります。自然と社会を改造するのも人間のためであり、また人間のなすことであります。世のなかでもっとも貴いものは人間であり、もっとも強力な存在も人間であります。われわれのあらゆる活動は、人間のためのものであり、その成果いかんは、対人活動をどう行うかにかかっています。教育事業は対人活動の重要な部門の一つです。
このくだりは、主体としての人間と客観的環境について、経済決定論的マルクス主義とも観念論的リベラリズムとも異なる、正しい見解を端的に指摘していると言えます。

経済は社会生活の物質的基礎をなしている」という見解はマルクス主義から引き継いでいるといえますが、「人間をより強力な存在に育てること」を重視する見解は、いわゆる生産力主義とは一線を画するものです。人間は物質的基礎に規定されて生存する存在であると同時に、その物質的基礎を自ら創造・改造してゆく存在でもあるという主体的見解が端的に表れています

生産力主義に偏った古典的な教条主義的マルクス主義は既に瓦解して久しいものです。キム・ジョンイル同志はチュチェ81(1992)年1月3日づけ「社会主義建設の歴史的教訓と我が党の総路線」において、ソ連・東欧社会主義崩壊の原因について「一部の国では国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人々の思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした」と指摘されました。

他方、昨今いわゆるリベラリズムやエコロジズムは、それとは逆に観念論の域に達していると言わざるを得ないほどに人間意識の偏重しています。リベラリズムやエコロジズムはまだ決定的な失敗を見せてはいませんが、たとえば当ブログがチュチェ108(2019)年10月21日づけ「グレタ・トゥンベリさんを持ち上げている場合ではない」で取り上げたとおり、人類史的重要課題である気候変動問題について正確な方向性を示せているとは言い難く、遅かれ早かれ社会歴史観的誤りを露呈することでしょう。

社会歴史観はいまだに極端から極端に振れ、社会の実相から遊離したところでフワフワと安定しないところ、首領様は50年も前から正しい社会歴史観に立脚していらっしゃいます。

こうした正しい社会歴史観に裏打ちされた教育論の詳細について首領様は次のように言及されています。
教育とは、人びとを知・徳・体の兼備した社会的人間に育成する事業であります。社会的人間となるためには、何よりも健全な社会意識を所有しなければなりません。革命の時代に生まれた若い世代が革命思想で武装せず、社会主義を建設する現代の人間として科学技術や文学・芸術も知らないのでは、社会的人間であるとは言えないでしょう。

人びとは社会的人間として当然所有すべき思想・意識水準と文化水準をそなえてこそ、すべての社会生活に主人らしく参加することができ、革命と建設も力強く促進させることができます。わが党がつねに教育事業をすべての活動に優先させる理由はここにあります。

われわれは、教育の中心問題は社会主義教育学の原理を貫くことであるとみなしています。社会主義教育学の基本原理は、人びとを革命と建設に主人らしく参加できる思想と知識と壮健な体力をもった、頼もしい革命の人材に育成することであります。
人びとの教育でもっとも重要なのは、思想・意識を革命的に改造することです。人びとのあらゆる行動を規定するのは、思想・意識であります。たとえ健康な肉体の所有者であっても思想的に立ち後れ、道徳的に堕落するならば、そのような人は、われわれの社会では何の役にも立たない、精神的不具であるとしかみなされません。だからこそわが党は、つねに人びとの思想を革命的に改造することに第一義的な関心を払っています。

青少年教育においても、彼らを革命的思想で教育することに第一義的な意義を与えなければなりません。いくら知識や技術を所有していても、労働をいやがり国家や社会のために奉仕しないならば、そのような知識や技術は何の役にも立ちません。個人の出世や金儲けのためではなく、自国の人民と祖国のために奉仕しようとする社会主義的愛国主義の思想と革命的世界観に基づき、一つを学ぶにしても使い道のある知識を学ぶようにし、すべての青少年が労働を好み、国家と社会の財産を愛護し、革命と建設の先頭に立って進む共産主義的道徳品性をそなえた、新しいタイプの人間に育つようにしなければなりません。これが社会主義教育学の基本的要求であります。
首領様の社会主義教育学は、のちに「社会主義教育に関するテーゼ」(チュチェ66・1977年9月5日)としてまとめられるものですが、その骨子は既にこの時点で示されています。

もとより社会とは、財貨と人間関係を構成要素として人間が目的意識的に形成するものです。人間なくして社会は存在し得ず、社会の主人は人間なのです。もちろんマルクスの自己疎外論が指摘するように、ときに人間の意思を超えて社会システムが暴走することはあっても、それを正常化して再び人間の統制下に引き戻すこともまた人間がなせる業です。そう考えたとき、社会の主人としての人間を育成するためには、社会全般を統御し得る知・徳・体を兼備する必要があると言えます。

とりわけ思想・意識の革命化を重視していることに注視すべきでしょう。未来社会としての社会主義・共産主義社会は人民大衆の創造的・建設的労働によってのみ実現されるものです。人民大衆を未来社会の建設者として育成し、そうした人々が所与の条件の中から未来社会建設の突破口を見出すことによって社会主義・共産主義社会は実現され得るのです。人民大衆を建設者として育成せずして自ずと未来社会は実現されるはずがないし、所与の条件の中から未来社会建設の突破口を見出すことをせず、単なる啓蒙主義的道徳キャンペーンに終始するようでは、やはり未来社会は実現されるはずがないのです。

前述のとおり、社会歴史観はいまだに極端から極端に振れています。教条主義と啓蒙主義の両極端が社会の実相に合致していないことは既に歴史的事実が何度も示しているところですが、日本においても依然として両極端への支持には厚いものがあります。首領様が50年前から提唱している、ある意味で中庸的な見解の生命力は、ソ連・東欧諸国の瓦解から30年たち、また、リベラリズム・エコロジズムが現実的な処方箋を出せていない昨今においてますます生命力に満ちた可能性を示しているものと考えます。

■総括
社会変革における主語は「人民大衆」であるということ。「自主的である」とは、社会に参画をし社会を協同して運営しているということ。人民大衆の諸活動は「生活」を目的とすべきであるということ。人間は物質的基礎に規定されて生存する存在であると同時に、その物質的基礎を自ら創造・改造してゆく存在でもあるということ。そして、そうであるがゆえに人間の教育より重要なことはないこと。

いずれも、現代日本の常識に照らしたとき、それほど違和感を感じるような内容ではないと思われます。これは、チュチェ思想は人民大衆の革命運動のさなかに形成され体系化されたものなので、突飛な発想ではないためです。冒頭で述べたように、「少なくとも共和国から50年は遅れている」日本は、50年前の首領様の労作から拾えるものを拾うことから始めるべきであると考えます。
ラベル:チュチェ思想
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2022年09月16日

「大本営発表」からも情報を「取捨選択」して独自の戦況を描く日本世論、「得たもの」に狂喜乱舞して「そのために費やしたもの」に対する無関心を示す日本世論

最新のウクライナ情勢について。先週半ばから本格化したウクライナ軍の大攻勢を受けて、日本世論は沸いています。この特徴について取りまとめてみたいと思います。

■「大本営発表」からも情報を「取捨選択」して独自の戦況を描く日本世論
まず何といっても、日本世論が戦況を非常に都合よく解釈していることを指摘しなければならないでしょう。ウクライナ政府やウクライナ軍が発表している景気のよい「大本営発表」からも情報を取捨選択して「独自の戦況」を描いているのです。

メディア各社は今回のウクライナ軍の大攻勢について記事を大量生産していますが、さすがにこの半年で学習したのか、情報源を明記するようになっています。戦時下においては熾烈な情報戦が展開されるものです。報道も強力な武器になるわけです。出所不明・真偽不明の情報に飛びついているようではメディアとしての信頼度に関わるということは、マリウポリ陥落2日前まで「ウクライナ軍の反転攻勢・形勢逆転」を連呼していたNHKの醜態が象徴的に示しています。

それを踏まえて注意深く記事を読むと、センセーショナルな見出しの記事の多くがウクライナ政府やウクライナ軍の発表を基にしていることを見て取れるでしょう。しかしながら、記事が情報源を明記しているにもかかわらず、世論はウクライナ政府・ウクライナ軍の「大本営発表」を無警戒・無批判に信じ切っているのです。

そうかと思えば、ヘルソン方面の攻勢について勝手に「陽動」扱いしているという現象が見られます。ウクライナ側が特にそう明言しているという事実はありません。アメリカの「戦争研究所」も「「完全に陽動だったと結論づける根拠はない」としているようです(「ウクライナ軍の奪還地域、6000平方キロ以上 ルガンスク一部解放」9/13(火) 17:05配信 毎日新聞)。「全面的な総攻勢を仕掛けたかったが、上手くいったのはハルキウ方面だけだった」という線は色濃いものです。

このことは、ハルキウ方面が破竹の勢いで大進軍しているのに対してヘルソン方面がそれほどではないという事実を「陽動作戦だから進んでいなくて当然」などと都合よく解釈していることを示しているでしょう(なお、ここ数日、ヘルソン方面でも多少のウクライナ側の「大本営発表」が出てくるようになってきて、「二方面大攻勢だ!」とはしゃぐのもチラホラ出てきています。本当に都合が良すぎます)。

メディアがご親切にも「これは大本営発表です」と教えてくれているのにそれを無警戒・無批判に信じ切るのも問題ですが、当の「大本営」でさえ粉飾し難いヘルソン方面の戦況を都合よく解釈することは大問題です。プロパガンダを超えた世論の暴走・・・先の大戦でもそんなことがありました。

■「士気」ごときで戦力差が10倍にも20倍にもなるはずがない
我らがオメデタイ日本世論は、ハルキウ方面でのウクライナ軍の大攻勢ニュースの中でも特に「ロシアが算を乱して逃げ出した」という報道を痛く気に入っているように見受けられます。ロシア軍が弾薬や装甲車を遺棄して撤退したことを以ってウクライナ側がそのように喧伝しているところですが、この報道を真に受けて、例によって「士気」に言及するコメントが再び盛り返してきています。「攻勢のウクライナ軍、ロシア軍の「8倍」 親ロシア派幹部」(9/13(火) 10:05配信 CNN.co.jp)には、こんなコメントが。
ウクライナ軍の兵士や兵器などの戦力では、8倍かもしれませんが、そこに「士気」を加味すれば戦力の差は10倍にも20倍にも開くのではないでしょうか。
また、ウクライナ軍の兵士には「自分の国は自分で守る」という大義名分がありますが、国連憲章に反して一方的にウクライナに侵攻しているロシア軍にはそれがないことも戦況に否定的な影響を与えているのではないかと思います。
開戦最初期のキーウ防衛成功のころに非常によく見られたものの、その後、マリウポリやセベロドネツクなどの拠点都市の陥落、そしてルハンシク州全土の陥落ですっかり影を潜めていたこの手の言説。この人たちはここしばらく、どんな思いでどこに隠れていたんでしょうか? 久々のご登場です。

「士気」を加味すれば戦力の差は10倍にも20倍」とは典型的な精神論と言わざるを得ないものです。「人間は自主性・創造性・意識性を持つ社会的存在」というチュチェ哲学の人間観から言えば確かに意識性は重要な要素ではありますが、創造力=客観的な現状変革力に欠ける意識は、単なる主観的願望にすぎません。「士気」が高ければ戦力が10倍にも20倍にもなるという物質的な根拠が必要です。意識と創造力との連関を正確に指摘できない状態での意識の強調は、観念論であり精神論です。

素手や刀、鈍器などで戦う原始的な戦闘ならまだしも、高度に組織化・機械化された現代戦において「士気」ごときで戦力差が10倍にも20倍にもなるはずがありません。こういう考え方は、竹槍戦法の現代版以外の何物でもありません。ほんと、すこし調子に乗るとすぐに出てくるんだから・・・

実際のところ、スペインのミリタリーサイト:revistaejercitos.comの「Ukraine War – Day 201」によると、ウクライナ側の「大本営発表」から得られる印象ほどはロシア軍は弾薬や装甲車を遺棄したとは言えないようです。それどころか、本当にロシア軍が潰走していたとすれば、少なくない人数の捕虜を取っているはずのところ、そうした事実は確認できていないようです。たしかに捕虜に関する報道は、ウクライナ側の「大本営発表」からもあまり耳にしません。
https://www.revistaejercitos.com/en/2022/09/12/guerra-de-ucrania-dia-201/
First of all, Izium and Kupiansk were important logistics centers for Russia, so the accumulation of vehicles is normal. In addition, they were areas used for the rest and recovery (R&R) of the units that had fought on other fronts long ago. This means that many vehicles would be in third-echelon maintenance, or would have exhausted their operational life due to abuse and age, etc. Finally, we must also be aware that many Russian vehicles were conceived as expendable material, with a theoretically very short useful life not only of the engines or transmissions -which can be replaced-, but also of the platforms themselves.

That said, yes, it seems that in the north and northeast of Kharkov the Russian Army has left the equivalent of several BTGs in vehicles, but that does not imply an absolute disaster either. In addition, there are still plenty of vehicles in their depots to replace what was lost, the problem being more of general quality than of a lack of numbers. Or put another way: they will be forced to replace outdated vehicles with others that are even older and less well equipped, except for the deliveries that their defense industry can make at this time.

On the other hand, given that one of the great problems of Russia throughout the entire war has been the lack of personnel to carry out operations with guarantees, it is possible that the hasty withdrawal, by saving most of its uniformed , has been successful in at least one sense. It is true that there are videos of Russian prisoners, but they are far from being massive at the moment. Rather, it would be said that these are small units that have been left behind or that for whatever reason were not informed of the decision of the Russian General Staff, taken in extremis when the disaster seemed inevitable.

Regarding ammunition, although we have been able to see in recent days at least four different videos of intact deposits taken by Ukraine, in all cases they were relatively modest. It is true that some images look impressive, but if we take into account how many shells a 152mm howitzer can use in a day and the size of each of the boxes, it is actually not as much as one might think.

One can conclude, to close the issue of the offensive -which is still underway- on Kharkov, by saying that it has been an operational victory for Ukraine, achieving numerous important objectives, always surpassing a Russian Army that was in cadre and lacked of means to face it, but not a complete strategic victory, not having achieved a large purse.
軍用車両や武器などは、それこそ「北朝鮮」から輸入すれば補充できますが、兵員はそうはいきません。今ロシアにとって最も不足していて貴重なのは兵員であるところ、それを比較的よく保持できたということになります。これはウクライナにとっては頭の痛い問題でしょう。

■この大攻勢は要するに「奇襲」
ウクライナ軍のハルキウ方面での大攻勢を、都合よく解釈し独自の戦況を描く我らがオメデタイ日本世論は、「戦争の終わりが見えてきた」「この勢いでロシアを全土から駆逐してくれ」といった具合にはしゃぎ回っています。しかし、この大攻勢は要するに「奇襲」であるとの見方が大方を占めています。イギリスBBCは次のとおり分析しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a2dfb74e2159e6d4316c6f2b4f7c89f4c4a09f56
【解説】 ウクライナの反撃、「奇襲」で成功 危険も残る
9/13(火) 11:04配信 BBC News

ウクライナは、ここ数日で3000平方キロメートル以上の領土を奪還し、ロシア軍を押し返す大きな成果を上げたと発表した。これほどの成功をなぜ収められたのか。戦争に勝つためにウクライナ軍が今後直面するであろうハードルは何なのか。BBCのジョナサン・ビール防衛担当編集委員が詳しく見ていく。

「ウクライナの奇襲能力を見くびるな」。ある米軍幹部が私にそう言ったのは今年の夏だった。当時、ロシアはドンバス地方で前進を続けていた。

ウクライナの奇襲能力は、この戦争の特徴になっている。ロシアをキーウから撤退させたことに始まり、最近ではクリミアを攻撃した。現在はウクライナ東部で、新たな驚きが生じている。

(中略)
ウクライナの前進の鍵は「奇襲」だ。これと、米英の長距離多連装ロケット砲など西側兵器の賢い利用によって、ロシアの補給線、弾薬庫、司令部を破壊してきた。ロイド・オースティン米国防長官は先週、ウクライナ側の長距離砲が夏の間に、400以上の重要な標的に命中したと述べた。
(中略)
ロシアに不意打ちを食らわせたのは明らかだ。この数カ月、ロシアは南部の防衛を強化するため、東部の軍を振り向けている。その結果、どちらの前線も弱体化している。

しかし、ウクライナは南部での前進に苦労している。見通しのよい田園地帯で戦わねばならず、敵に見つかりやすい。ロシア側の防衛軍に打ち勝つには、より多くの兵力と火力が必要だ。

現在のウクライナにとっての危険は、戦争初期にロシアが直面したものと似ているかもしれない。複数の戦線で前進しようとすれば、弾薬、装備、兵力に犠牲が出る。戦果を上げるほど補給線は長くなり、防衛する側に狙われる。最も深く進軍した部隊が、相手に包囲される危険性もある。

楽観的な見方が出る一方で、ウクライナのオレクシイ・レズニコフ国防相は東部のウクライナ軍について、ロシアの反撃に弱いかもしれないと警告している。領土を確保するだけでは不十分だ。地盤を固めなければならない。現地住民の支持を得られれば、それは容易かもしれない。

(中略)
ウクライナは今、世界にシグナルを送っている。この戦争に勝てると本気で信じているのだ、というシグナルだ。ウクライナはすでに、一連の成果を強調して、西側にさらなる兵器供与を訴えている。攻勢は重要な時期に行われている。冬になれば戦闘は困難になり、西側諸国の意志が試される。今はその直前だ。戦争はまだ終わっていない。ウクライナは改めて、形勢をひっくり返して世界を驚かすことができるとアピールしている。
いくらロシアの戦争指導が稚拙だとしても、これからもロシアを出し抜いて奇襲を成功させ続けることは困難でしょう。奇襲が成功したハルキウ方面での大勝利と、ロシアもそれなりに備えてきたヘルソン方面での苦戦は、ウクライナ軍の現実的な戦闘能力を示しているものと思われます。

この攻勢は、ウクライナが一矢報いたとは言えるでしょうが、「この勢いでロシアを全土から駆逐してくれ」というのは無理な要求であると思われます。

記事中「西側諸国の意志が試される」というくだりがあります。そこがカギになることについて私はまったく異論がありません。そのとおりだと思います。それだけに、西側諸国の意志の動向を報じないことには戦争報道にはならないと考えます。この点、日本では小泉悠氏らの分析をよく目にしますが、その多くは結局のところ「西側の武器支援があればウクライナ軍は・・・」というタラレバの話ばかり。軍事専門家は政治専門家ではないので現状においてタラレバになってしまうのは無理もないとは思いますが、そうであるからこそメディアは政治専門家の見解をプラスして記事を総合的に仕上げる必要があるはずです。しかしそうはなっていません。そういうセンスがないのでしょうか、それとも、そのように記事構成をしようとすると何か不都合な結論が見えてくるのでしょうか・・・

■ロシアにしては損切が早すぎることは何を示しているのか
ところで、今回の攻勢にかかるロシア軍の撤退・敗退について私は「ロシアにしては損切が早すぎる」という印象を否めませんでした。

ハルキウ州のロシア側当局者によると、8倍ものウクライナ軍が攻めてきたので撤退したといいます(「奪還領土を大きく拡大とゼレンスキー氏 「兵力はロシアの8倍」とロシア側当局者」9/13(火) 11:11配信 BBC News)。これが事実だとすれば、ロシア軍はハルキウ方面にほとんど人員を割いていなかったということになります。それなりにロシアが防備を固めていたヘルソン方面でのウクライナ軍の前進が芳しくないことも含めて考えると、「破竹の勢いのハルキウ大攻勢」は、このように見ることも可能でしょう。

ロシアが開戦理由に挙げたドンバス地方の戦況についても同様の見方が可能です。イジューム奪還について、ロシアによるドンバス完全掌握が困難になったという見方が出ています(「「兵力はロシアの8倍」ウクライナがハルキウ州“ほぼ全域”奪還か ロシアのドンバス地域掌握は困難に」9/12(月) 18:50配信 TBS NEWS DIG Powered by JNN)。たしかにそのとおりでしょう。しかし、このことについても見方を変えると、そんなにも戦略的に重要な拠点についてロシアはさして援軍を送ることもなく、送ろうとした形跡もなく、サッサと撤退するという早すぎる損切を展開したということになります。これは些か不可解なことのように思えます。

これからウクライナは雨の多い秋を迎えるという事実がカギになるのではないでしょうか。これからウクライナの土地は泥沼と化して戦車や装甲車は思うように進めない季節になります。どうせしばらくは思うようには前進できないのです。また、ドネツ川とオスキル川に囲まれたイジュームはロシアにとっては守りにくそうな場所に位置しています。維持のためのコストがかかるイジュームをこの機に放棄したという評価も可能でしょう。もちろんウクライナ軍の攻勢がなければ引き続き維持したでしょうが、攻勢があった以上、そこまでして維持するほどのものではないということです。「態勢を立て直して、必要になったらまた攻め落とせばよい」という意図を感じるものです。ロイター通信は、謎の「西側当局者」の言としつつ「ロシア軍が防衛を容易にするために戦線を短縮し、そのために領土を犠牲にしたという点で、良い決断をしたことを考慮する必要がある」という指摘を報じているところです(「ウクライナ軍の反攻加速、「転機」か判断は尚早=西側当局者」9/14(水) 2:51配信 ロイター)。

「撤退にかかるロシア側の弁明もまた、ロシアらしくない」という感想を禁じ得ませんでした。

カディロフ・チェチェン首長の「間違いがあった。彼らはいくつかの結論を出すだろう」という指摘(「【要衝撤退】ロ軍の戦略 カディロフ首長が「批判」」9/12(月) 20:30配信 テレビ朝日系(ANN))やハルキウ州の親ロシア派関係者による「防衛線の突破は、ウクライナ軍にとってもちろん大きな勝利だ。彼らが達成したかったことだ。しかし、問題はどんな代償を払ったかだ」といった発言(「親ロシア派、ウクライナ軍勝利を一部認める ハルキウ州」9/10(土) 5:57配信 日テレNEWS)・・・

ついこの間、ザポリージャ原発に着弾したミサイルについて、ロシア側は「ウクライナ軍のロケット弾が奇跡的に180度回転」したなどと子どもみたいな言い訳を臆面もなく口しましたが、これがロシアという国の政府関係者の姿です(「「ウクライナ軍のロケット弾が奇跡的に180度回転」…露側専門家がIAEA調査団に釈明」2022/09/04 18:33 読売新聞)。どんなに負けが込んでも「勝っている」と言い張るのがロシアという国の政府関係者なのです。それと比べると「いったいどうしたの?」というくらいの予想外な上掲反応、何か裏があると警戒すべき反応です。

ウクライナでの後退、ロシア国内でも議論に 批判の矛先は国防省」(9/15(木) 10:41配信 CNN.co.jp)によると、「国民の動員に関する議論と、特別軍事作戦を「戦争」と呼ぶことの議論も議会で始まりつつある」というくだりがあるように、「おい、なにヌルいことやってんだよ!」という方向にロシアが向かいつつあるようです。負けさえも利用しようとする強かさを垣間見ることができます。

ちなみに上掲記事のコメント欄では、「プーチンが追い詰められている!」といった具合の投稿が見られます。いったい記事のどこを読んでいるんだか・・・「プーチン失脚」は開戦以来の日本世論の願望の中心でした。本当にどこまで行っても願望ベースの解釈が展開されるのが我らが日本世論です。

■「得たもの」に狂喜乱舞して「そのために費やしたもの」に対する無関心を示す日本世論
軍事の素人ながら関連記事を読みながら気になったのは、上掲:ハルキウ州の親ロシア派関係者が述べた「問題はどんな代償を払ったかだ」という点にあります。得たものが大きくともそれ以上に失ったものが大きければトータルでは「失敗」ということなります。現在進行形の戦闘であるからか、ウクライナ軍の損失具合はよく見えてきません。もしかすると大した損失もなく成功しているのかもしれませんが、その可能性も含めて何も分かりません。当ブログの関心に即して述べれば、そのことについて我らが日本世論が注意を払っているという兆候は見られません

念のため申しておけば、このことはロシアにこそ言えます。仮にロシアが今後ドンバス全域を完全に掌握し、プーチン大統領の開戦演説にて言及があった「戦争目標」を達成したとしても、果たしてドンバスはここまでして取らなければならないものだったのかということです。

「コスト意識」というと軽く聞こえるかもしれませんが、「大義」が肥大化すると他に盲目になるというのは民間人の命についてだけではないようです。「大義」偏重がもたらす不都合について当ブログでは開戦以来、重ねて指摘してきましたが、此度のウクライナ軍による大攻勢をめぐって湧いてきた威勢の良い言論からは、「得たもの」に狂喜乱舞して「そのために費やしたもの」に対する無関心を見て取ることができます。こんなんじゃ台湾有事・沖縄有事に耐えられませんよ。
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2022年09月09日

以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムで新型コロナウイルス禍を克服した朝鮮民主主義人民共和国

朝鮮民主主義人民共和国の建国から74年の歳月が過ぎました。

共和国が掲げ続けている社会主義という理念は未来社会論であるがゆえに、常に困難な現実との闘争に晒されるものです。共和国の74年の歴史は常に現実との闘争すなわち革命の歴史でした。近年、共和国及び全世界を襲った新型コロナウイルス禍はその中でも特大級の闘争であったと言えるでしょう。先般共和国政府は、全国非常防疫総括会議において新型コロナウイルス禍との闘争に勝利したと宣言しました。キム・ジョンウン総書記は次のように指摘なさいました。

http://www.kcna.co.jp/calendar/2022/08/08-11/2022-0811-004.html
그러나 아무리 옳바른 정책이라 할지라도 그 집행을 담보할수 있는 전인민적인 고도의 조직성과 자각적일치성, 의식적분발이 없이는 완벽한 결과를 기대할수 없는것입니다.
しかし、いくら正しい政策であっても、その執行を担保できる全人民的な高度組織性と自覚的一致性、意識的奮発がなければ完璧な結果は期待できないものです。

결코 쉽게는 쟁취할수 없었던 최대비상방역전에서의 승리에 대하여 생각할 때 나는 당과 정부의 방역정책을 전적으로 지지하고 공감하며 일치단결로써 받들어준 우리 인민들의 수고에 대하여 제일먼저 떠올리게 됩니다.
決して簡単には勝ち取れなかった最大非常防疫戦における勝利について考えるとき、私は、党と政府の防疫政策を全面的に支持・共感し、一致団結して受け入れてくれた我が人民の苦労について真っ先に思い浮かびます。

막대한 손실을 감수하며 각방으로 겹겹이 구축해놓은 방역장벽에 빈틈이 생겨 일단 우리 경내에 악성비루스가 류입, 확산된 긴급형세에서 급선무로 나선것은 전염병전파상황을 안정적으로 억제, 관리하며 감염자들을 빨리 치유시켜 전파근원을 최단기간내에 없애는것이였습니다.
莫大な損失を受忍しながらも各方面に幾重にも構築しておいた防疫障壁に隙間ができ、我が領域内に悪性ウイルスが流入、拡散してしまった緊急の情勢において急務となったのは、伝染病の伝播状況を安定的に抑制・管理し、感染者を早く治癒させて伝播根源を最短期間内になくすことでした。

그리하여 부득이하게 전국적으로 지역별차단봉쇄와 단위별격페조치를 강력히 실시하는 한편 전주민집중검병검진을 엄격히 진행하여 유열자들을 빠짐없이 찾아 격리시켜 치료하는 사업들을 동시에 추진하였습니다.
したがって、やむを得ず全国的に地域別の遮断封鎖と単位隔離措置を強力に実施する一方、全住民集中検診を厳格に行い、発熱者をもれなく探し出して隔離し治療する事業を同時に推進しました。

이것은 나라의 일부분이나 몇개 지역이 아니라 전반령역에서 모든 래왕과 이동이 금지되고 정상적인 사업과 활동의 률동이 파괴되여 국가사업뿐 아니라 매 가정, 매 공민들의 생활에서 이전보다 난관과 애로가 몇배로 가증된다는것을 의미하였습니다.
これは、国の一部分やいくつかの地域だけではなく全土での往来と移動が禁止され、正常な事業と活動の律動が破壊されて、国家事業だけでなく家庭生活や公民生活においても以前より難関と隘路が何倍にも増えることを意味しました。

하지만 우리 인민들은 비상방역과 관련하여 시달되는 모든 규정과 지시를 우리 당의 뜻으로 받아들이고 나라를 위한 애국사업, 자기 가정과 자신을 위한 응당한 의무, 본분으로 간주하면서 자각적으로, 량심적으로 준수하고 무조건 실행하는 훌륭한 기풍을 보여주었습니다.
しかし、我が人民は非常防疫と関連して示達されるすべての規定と指示を我が党の意思として受け入れ、国のための愛国事業、自分の家庭と自分のための当然の義務・本分とみなし、自覚的・良心的に遵守し、無条件に実行する素晴らしい気風を見せてくれました。

모든 공민들이 일신상의 문제와 가정사를 뒤로 미루는것을 흔연히 여기였으며 사소한 동요나 나약성, 비관과 공포도 없이 방역승리에 대한 신심과 락관에 넘쳐 특유의 강인성을 더욱 뚜렷이 발휘하였습니다.
すべての公民が一身上の問題・家庭の都合を後回しにすることを快く受け入れ、些細な動揺や弱気、悲観や恐怖もなく防疫戦の勝利に対する信心と楽観にあふれ、我々に特有の強靭性をより明確に発揮しました。

이런 인민들을 하루빨리, 한시바삐 악성병마의 위험에서 구원하기 위해 당과 정부는 국가예비약품을 해제하여 전국에 공급하는 사업을 최우선 긴급추진함으로써 모든 유열자들에게 필요한 약품이 가닿을수 있게 하였으며 과학적인 치료전술과 방법을 확립하고 적용하도록 하였습니다.
このような人民を一刻も早く悪性病魔の危険から救うために、党と政府は国家予備薬品を放出し全国に供給する事業を最優先に緊急推進することで、すべての発熱者に必要な薬品が届くように、科学的な治療戦術と方法を確立し適用するようにしました。

결과 우리는 최대비상방역체계를 가동한지 5일째부터는 전국적인 전염병확산세를 억제, 관리가능한 안정적인 국면에로 돌려세우고 비상방역전의 승세를 확고히 틀어쥘수 있게 되였습니다.
結果、私たちは最大非常防疫体系を稼動して5日目からは全国的な伝染病拡散傾向を抑制、管理可能な安定した局面に戻し、非常防疫戦の勝勢を確実に握ることができるようになりました。
(中略)
최대비상방역기간을 돌이켜보면 봉쇄와 박멸투쟁을 병행하고 국가적으로 약품보장과 공급대책을 강하게 세운것 그리고 방역사업에서 엄격성에 과학성을 결합하고 주민생활보장대책을 적극적으로 따라세운것이 악성비루스로 인한 피해를 최소화하고 방역대승을 앞당기는데서 큰 의의가 있었다고 할수 있습니다.
最大非常防疫の期間を振り返ってみると、封鎖と撲滅闘争と並行して国家的な医薬品保障と供給対策を強く打ち立てたこと、そして防疫事業において厳格さと科学性を結合し、住民生活保障対策を国家的に追加的に講じたことが、悪性ウイルスによる被害を最小化し、防疫大勝を近づけることに大きな意義があったといえます。

그러나 보다 중요한것은 우리 인민만이 가지고있는 고도의 조직성과 자각적일치성이 당과 정부의 옳바른 방역정책과 지침을 철저한 집행과 완벽한 결과에로 이어지게 하였다는데 있습니다.
しかし、より重要なことは、我が人民だけが持っている高度の組織性と自覚的一致性が、党と政府の正しい防疫政策と指針を徹底した執行と完璧な結果に結びつくようにしたことにあります。

당과 정부에 대한 신뢰심에 있어서나 나라사정에 대한 리해심에 있어서 그리고 공민적의무에 대한 성실성과 곤난을 이겨내는 인내력에 있어서 우리 인민만큼 훌륭한 인민은 없습니다.
党と政府に対する信頼においても、国の事業に対する理解においても、そして公民的義務に対する誠実さと困難に打ち勝つ忍耐力においても我が人民ほど立派な人民はいません。

아직까지 왁찐접종을 한차례도 실시하지 않은 우리 나라에서 기승을 부리던 전염병확산사태를 이처럼 짧은 기간에 극복하고 방역안전을 회복하여 전국을 또다시 깨끗한 비루스청결지역으로 만든것은 세계보건사에 특기할 놀라운 기적입니다.
これまでワクチン接種を1回も実施していない我が国で、猛威を振るっていた伝染病拡散事態をこのように短期間で克服し、防疫安全を回復して全国を再びきれいなウイルス清潔地域にしたことは、世界保健史に特記する驚くべき奇跡です。

이것은 명백히 우리 식의 인민적이며 과학적인 방역정책과 이를 집행함에 일치하게 호응해나선 전민합세의 위대한 승리로 됩니다.
これは明らかに、我々式の人民的かつ科学的な防疫政策、そしてその執行に一致して呼応した全民合勢の偉大な勝利となります。
我が人民は非常防疫と関連して示達されるすべての規定と指示を我が党の意思として受け入れ、国のための愛国事業、自分の家庭と自分のための当然の義務・本分とみなし、自覚的・良心的に遵守し、無条件に実行する素晴らしい気風を見せてくれました」――「お客さま」意識の奇形的に肥大化し、政治や行政に対するクレーマー的な騒ぎがいまだに続いている日本(参考:チュチェ110・2021年12月31日づけ「チュチェ110(2021)年を振り返る(2):コロナ禍を乗り越え更に協同化してゆく道は長く険しいことを示す「2年目」の世論動向」)とはまったく異なる展開です。

キム・ジョンウン総書記は次のようにも指摘されています。
최대비상방역전에서의 승리는 또한 우리 사회주의제도특유의 우월성과 위력을 떠나서 생각할수 없습니다.
最大非常防疫戦での勝利はまた、我々の社会主義制度に特有の優越性と威力を離れて考えることはできません。

우리 나라는 전체 인민이 국가와 사회의 주인으로서 사상의지적으로 통일단결되여있기때문에 그 어떤 위기가 발생한다고 해도 전국, 전민이 일시에 떨쳐일어나 강력히 대처할수 있는 무궁무진한 힘을 가지고있습니다.
我が国は、すべての人民が国家と社会の主人として思想意志的に統一団結しているので、いかなる危機が発生したとしても全国、全民が一気に立ち上がり、強力に対処できる限りない力を持っています。

나라의 모든 부문, 모든 단위가 국가의 결정지시를 절대적으로 받들고 일사불란하게 보조를 맞추는것이야말로 우리 사회특유의 가장 중요한 정치적, 제도적우월성입니다.
国の全部門、全単位が国家の決定指示を絶対的に受け入れ、一糸乱れず歩調を合わせることこそ、我々の社会特有の最も重要な政治的・制度的優越性です。

여기에 하나는 전체를 위하고 전체는 하나를 위하는 집단주의정신과 남이 아파하면 같이 아파하고 어려울 때일수록 더 위해주는 덕과 정이 전사회적으로 지배하고있는것으로 하여 우리의 제도는 남들이 가질수 없는 불가항력을 발휘하게 되는것입니다.
ここに、「一人は皆のために、皆は一人のために」という集団主義精神の存在と、他人が痛れば一緒に痛がり苦しいときほど助け合う徳と情が全社会的を覆っていることにより、我々の制度は他国では持つことができない力を発揮することになるのです。

이런 제도적바탕이 있기에 최대비상방역체계로 이행할데 대한 당과 정부의 결정이 시달된 즉시 전국을 시, 군별로 봉쇄하고 사업단위, 생산단위, 생활단위별로 격페하는 조치가 철저히 실행되였으며 보다 강도높은 방역규률과 질서, 기강이 확립되여 금후 방역전에서 전략적주도권을 쥘수 있게 되였습니다.
このような制度的土台があるので、最大非常防疫体系へと移行したという党と政府の決定が示達されるや否や、全国を市・郡別に封鎖し、事業単位・生産単位・生活単位別に隔離する措置が徹底して施行され、より強度の高い防疫規律と秩序、綱領が確立され、防疫戦で戦略的主導権を握ることができました。
(中略)
우리식 사회주의제도의 우월성과 생활력은 최대비상방역기간 우리 인민들속에서 더욱 뜨겁게, 강렬하게 발휘된 공산주의적인 미덕, 미풍에서 집중적으로 표출되였습니다.
我々式社会主義制度の優越性と生活力は、最大非常防疫の期間、我が人民の中でさらに熱く、強烈に発揮された共産主義的な美徳、美風として集中的に表出されました。

온 나라가 악성병마의 위협에 직면한 준엄한 시각 당과 정부의 제일 큰 근심은 수천만 인민들의 건강과 함께 강도높은 봉쇄차단조치로 어차피 우리 인민들이 겪게 될 불편과 고충이였습니다.
全国が悪性病魔の脅威に直面した峻厳なとき、党と政府の最も大きな心配は、数千万の人民の健康と共に、強度の高い封鎖遮断措置により、我が人民が経験することになる不便と苦渋でした。

그래서 당중앙은 어려울 때일수록 서로 돕고 위해주는 우리 사회의 덕과 정을 그 어떤 최신의학과학기술보다도 더 위력한 방역대승의 비결로 보고 전체 당원들과 인민들이 우리의 제일가는 공산주의미덕과 미풍을 더 높이 발양할데 대하여 호소하였습니다.
そのため党中央は、困難なときほどお互いに助け合う我々の社会の徳と情を、いかなる最新医学科学技術よりもさらに強力な防疫大勝の秘訣と見、すべての党員と人民が我々が最優先する共産主義美徳と美風をさらに高く発揚することについて訴えました。

당과 사회주의제도의 품속에서 집단주의와 인간애를 공기처럼 호흡하며 배양한 우리 인민들속에서 아름다운 소행들이 발휘되는것은 흔히 보게 되는 미담이지만 이번 방역전에 수놓아진 감동깊은 사연들은 우리 사회의 따뜻함과 귀중함을 더욱 깊이 절감하게 하였습니다.
党と社会主義制度の懐において、集団主義と人間愛を空気のように呼吸し培養された我が人民の中で美しい所作が発揮されていることは、しばしば耳にする美談ですが、今回の防疫戦において飾られた感動的なエピソードは、我々の社会の温かさと貴重さをより深く痛感させました。

이 자리에서 그 많은 가슴뜨거운 미담들과 고결한 인간상에 대하여 일일이 다 렬거할수 없는것이 참으로 아쉽습니다.
この場で、多くの胸が熱くなる美談と高潔な人間像について、一つ一つ言及できないのは、本当に残念です。

몇가지 대표적인것만 말하더라도 악성전염병에 시달리는 인민들에게 약품과 식료품을 보내주기 위해 철야전투를 벌린 공장종업원들과 일군들도 있고 가산을 아낌없이 덜어내여 마련한 물자들을 합숙과 대학기숙사, 육아원, 애육원에 보내준 사람들도 있으며 방조가 필요한 세대, 곤난한 이웃들에게 사심없이 식량과 부식물, 필수품을 보내준 주민들도 있습니다.
いくつかの代表的なことだけ話しても、悪性伝染病に苦しむ人民に医薬品と食料品を送るために徹夜戦闘を繰り広げた工場従業員と活動家もおり、財産を惜しみなくはたいて用意した物資を合宿場や大学寮、育児院、愛育院に送ってくれた人もおり、助けが必要な世帯、困っている隣人に私心なく食糧や副食物、必需品を送ってくれた住民たちもいます。

이런 고마운 지원자들은 중앙과 지방, 공장과 농어촌 그 어디에나 다 있으며 또 그속에서는 존경하는 전쟁로병동지들로부터 시작하여 평범한 근로자들, 인민반장들, 부양녀성들, 나어린 소년단원들에 이르기까지 각계각층을 다 찾아볼수 있습니다.
このようなありがたい支援者は、中央と地方、工場と農漁村どこにもおり、またその中には尊敬する戦争老兵同志をはじめとして平凡な勤労者、人民班長、主婦や幼い少年団員に至るまで、各界各層すべてにおいて探すことができます。

지금과 같은 곤난한 형편에서 자기보다 동지들과 이웃들, 집단을 먼저 생각하고 더우기 자기는 배를 곯으면서도 성의를 다 바치는 이런 미덕의 세계는 결코 돈이나 재부로써는 진가를 헤아릴수 없는 우리 사회의 화목과 인간적뉴대를 그대로 보여주었습니다.
今のような困難な状況において、自分より同志たち、隣人たちや集団を先に考え、さらに自分は腹を空かせながらも誠意を尽くすこのような美徳の世界は、決して金銭や財富としては真価を計り知れない我が社会の和睦と人間的連帯をそのまま見せてくれました。

이렇듯 당중앙과 뜻과 정을 같이하고 남을 위해 헌신하는것을 기쁨으로, 보람으로 여기는 세상에서 제일 훌륭한 우리 인민의 모습에서 나는 그 무엇에도 비길수 없는 커다란 힘을 얻었으며 이런 인민과 함께라면 그 어떤 곡경도 시련도 이겨내고 반드시 승리할수 있다는 확신을 더욱 굳히였습니다.
このような、党中央と志と情を共にし他者のために献身することを喜び・やりがいと考えるこの世で最も立派な人民の姿から、私は比類なき大きな力を得、このような人民と一緒ならば、いかなる曲折も試練も乗り越えて必ず勝利できるという確信をさらに深めました。

온 나라가 당과 정부의 두리에 일심일체를 이루고 한결같이 움직이며 집단주의에 기초한 덕과 정이 국풍으로 되여있는 이것이 우리식 사회주의의 고유한 우월성이고 위력이며 바로 이로 하여 이번과 같은 류례없는 방역위기를 용이하게 타개하고 대승을 가져올수 있었습니다.
国中が党と政府の周りに一心同体を成し、一様に動き、集団主義に基づいた徳と情が国風になっていることが、我々式社会主義固有の優越性・威力であり、まさにこれによって、今回のような類を見ない防疫危機を容易に打開して大勝をもたらすことができました。
新型コロナウイルス禍は、日本社会にあっては「お客さま」意識の奇形的に肥大化等に起因する世論のクレーマー化を炙り出したのに対して、共和国社会においては、朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国政府が74年の歳月を掛けて形成してきた、社会と自然と自分自身の主人としての主体的人間の姿を天下に示したものと言えるでしょう。

ところで、キム・ジョンウン総書記の総括演説からは、総書記同志が人民ひとりひとりを貴重に見なす以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムを感じ取ることができます。これこそが社会政治的生命体の真髄です。次のように指摘なさっています。

동지들!
同志諸君!

기쁨과 긍지가 한없이 차넘치는 시각이지만 왜서인지 이 자리에 서고보니 여기에 오기까지 그리도 마음을 무겁게 짓누르던 형언할수 없는 중압감과 책임감이 다시금 되새겨집니다.
喜びと誇りが限りなく溢れている今このときですが、なぜかこの場に立ってみると、ここに至るまでに心を重く押さえつけていた言葉では言い表せない重圧感と責任感が再び思い出されました。

지나온 91일간은 우리의 투쟁령역에서 결코 길지 않은 나날이지만 하루하루가 1년, 10년 맞잡이로 느껴지는 숨막히는 긴장의 련속이였으며 말그대로 준엄한 전쟁이였습니다.
去る91日間は、我々の闘争領域で決して長くない日々でしたが、一日一日が1年、10年のように感じられる緊張の連続であり、文字どおり厳しい戦争でした。

세계적인 대류행병의 발생초기부터 초특급의 비상방역장벽을 구축하고 완강히 견지하면서 2년나마 평온을 유지해오던 우리 나라에 악성비루스가 류입되였다는 현실앞에 솔직히 심정은 착잡하였습니다.
世界的な大流行病の発生初期から超特級の非常防疫障壁を構築し、頑強に堅持しながら2年も平穏を維持していた我が国に悪性ウイルスが流入したという現実の前で、率直に言って心情は穏やかではいられませんでした。

그것은 나에게는 목숨을 내걸고라도 무조건 지켜야 할 인민이 있었기때문입니다.
それは、私には身命を賭しても無条件に守らなければならない人民がいたからです。

기쁠 때도, 어려울 때도 언제나 나를 지지해주고 힘들 때조차 나를 다잡아주고 항상 떠밀어 일으켜세워주는 《인민》이라는 존재는 나에게 있어서 단 한명도 절대로 잃을수 없는, 잃어서는 안될 피와 살점과도 같았습니다.
嬉しいときも辛いときもいつも私を支えてくれ、辛いときさえも私を引き締めてくれ、常に後押しし奮い立たせてくれる「人民」という存在は、私にとってたった一人も絶対に失うことのできない、失ってはならない血肉のような存在です。

하루에도 수십만명씩 감염자가 급증하는 눈앞의 위기는 나라의 운명이 이대로 결딴나는가 하는 최악의 경우까지도 내다보며 최대로 각성하고 결사적으로 분발해야만 하는 매우 다급한 국가최대의 위기사태였습니다.
一日に数十万人ずつ感染者が急増する目の前の危機は、国の運命がこのまま終わるのかという最悪の場合まで想定しつつ最大限覚醒し、決死的に奮発しなければならない非常に差し迫った国家最大の危機事態でした。

방역기반과 보건토대가 취약하고 방역경험도 없는 형편에서 국가의 안전과 수천만 인민의 생명을 직접 위협하는 횡포한 악성비루스와의 전쟁을 이기자면 어떻게 해야 하는지, 1분1초가 다급한 시간쟁취전에서 이에 대한 반응력조차 없었던 국가기관들을 기민하게 움직이고 정확한 기능과 역할을 하게 만들자면 어떻게 할것인지, 또 이로 인하여 국가의 전반사업과 인민생활에 겹쳐든 극난한 시련의 국면을 역전시키자면 과연 무엇부터 어떻게 해야 할것인지 하는 이 무거운 력사적과제는 우리 당의 령도력을 다시한번 랭혹하게 검증하는 시금석과도 같았습니다.
防疫基盤と保健土台が脆弱であり防疫経験もない状況で、国の安全と数千万人民の生命を直接脅かす横暴な悪性ウイルスとの戦争に勝つためにはどうすればよいのか、1分1秒が差し迫った時間争取戦において、これに対する反応力さえなかった国家機関を機敏に動かし、正確な機能と役割を果たすためにはどうしたらよいのか、また、これによって国家の全般事業と人民生活に重なった極限の試練局面を逆転させるためには、果たして何からどうすべきかという重い歴史的課題は、我が党の領導力を再度、冷酷に検証する試金石のようなものでした。

하지만 처음 맞다든 이러한 국난앞에서도 우리 당은 자기 인민의 하늘같은 믿음을 깊이 간직하고 인민을 위해 복무하는 자기 본연의 자세와 립장에 충실하였으며 자기 특유의 결단성있고 강력한 정치적지도력을 정확히 발휘하면서 국가의 방역기강을 다졌으며 비루스박멸투쟁을 승리에로 조직령도하였습니다.
しかし初めて迎えるにせよ、このような国難の前でも我が党は、我が人民の天のごとく深く信頼し人民のために服務するという本然的な在り方と立場に忠実で、自己に特有な決断性のある強力な政治的指導力を正確に発揮しながら、国の防疫綱紀を固め、ウイルス撲滅闘争を勝利へと組織領導しました。
この発言を「プロパガンダ」と切って捨てることは容易でしょう。冷静に見れば「宣伝」の要素は強いと言えるでしょう。しかし日本を見てみると、アベ・スガ・キシダは、あれだけ「リーダーの発信が弱い」「国民に寄り添っていない」と批判されてもなお、このようなことは口にすることさえできませんでした。連中のオツムをフル回転させても、人心に訴えかけるこのような感動的な発言を思いつくことさえもできなかったわけです。

アベ・スガ・キシダの醜態と比べるに、人民ひとりひとりを貴重に見なす以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムは、常日頃から思索を巡らせていなければ俄かには口にできないものだと言えます。政治宣伝要素を差し引いてもなお、朝鮮労働党の以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムを、このことから察することができるでしょう。

総書記同志のひとりひとりを大切にする以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムは、今般のロシア・ウクライナ戦争とそれをめぐる日本世論の展開と合わせて考えると、これこそがヒューマニズムの王道であると言えると私は考えます。

当ブログではこの戦争の開戦以来、日本世論の反応を継続して追ってきましたが、たとえば9月8日づけ「ウクライナ戦争の「ストラテジーゲーム化」」で取り上げたように、今や「人間が人間を傷つけ殺す」という戦争の正体が忘却されているのではないかと疑わざるを得ない、ストラテジーゲームのような陣取り合戦として事態を理解する風潮が大手を振っています。政界においても、プーチン・ロシア大統領によるスターリンを彷彿とさせる「ロシアは何も失っていない」の大暴言は論外としても、ゼレンスキー・ウクライナ大統領の領土奪還にばかり言及する民間人防護の真剣度を疑わざるを得ない戦争指導姿勢が際立っています。両国の政治指導者とも、喜怒哀楽があり愛する家族をもつ一人の人間の死を「必要経費」として見なしているのではないかと疑わざるを得ません。せめて政治宣伝の舞台の上では建前的に取り繕ってくれればよいのに、あまりにもバカ正直なのです。そしてそうした政治指導者の姿勢に疑いの目を向けない日本世論もまた、一人の人間を単なる「駒」として扱っているのではないかと疑わざるを得ません

先日私は、一昨年に初回放送されたNHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」の録画を視聴しました。番組の最後の最後に次のようなシーンがありました。
当時の官僚のトップ、迫水久常はイギリスの放送局の問いかけにこう答えています。

英記者)原爆投下は和平を模索する中で起きました。本当に必要だったのでしょうか?

迫水)正直申し上げて原爆投下がなければ終戦の時期が遅れていたのはまず間違いありません。原爆がなければ日本軍は8月15日に終戦を迎えることはできなかったと思います。ソビエト軍が北海道やその周辺に侵攻し大混乱に陥っていたかもしれません。

天皇の側近や官僚たちのインタビューの中には原爆で失われた命についての言及はありませんでした。
戦後政治家として郵政大臣を務めた迫水久常の上掲「原爆投下がなければ終戦の時期が遅れていたのはまず間違いありません」発言は、「まさに政治家」というべきものです。天皇の側近や官僚たちのインタビューの中には原爆で失われた命についての言及はありませんでした」というナレーションが迫水弁明の欠陥・不足をあまりにも的確に突いています

「国家百年の計」とよく言われるように、政治家は目の前の現実に対応するだけではなく長期的な視野・歴史的な視野からも総合的に物事を判断する必要があります。一時的な不便があったとしても長期的な展望に立てばこそ歯を食いしばらなければならない場合というのは当然あるものです。短期と長期との両方に配慮するにあたっての匙加減は非常に難しいものであるだけに、政治判断は「大義重視・生活軽視」に陥りがちなものです。同様のことは「歴史好き」の人たちもよく陥るものです。大河ドラマなどにおいて一分一秒の経過が子細に整理・描写されることはまずなく、イベントの発生間隔は短くても月単位であり、場面が年単位で一気に進むことも決して珍しくありません。人々の生活は一分一秒の飛躍もなく不断に続くものですが、月単位・年単位で場面が一気に進む「歴史」の時間感覚に慣れすぎると、一分一秒への配慮が欠けるようになるのです。

迫水・プーチン・ゼレンスキー各氏らの「いかにも政治家」な発言と比するに私は、たとえ宣伝の要素が強いにしても、総書記同志のひとりひとりを大切にする以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムは特筆すべきものと考えます
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2022年09月08日

ウクライナ戦争の「ストラテジーゲーム化」

https://news.yahoo.co.jp/articles/b1fc5c1806e1b107e079dc718c997e2559c4c575
ウクライナ軍の前進、「ゆっくりだが意味ある」と米高官
9/8(木) 6:20配信
ロイター

[ワシントン 7日 ロイター] - 米国のコリン・カール国防次官(政策担当)は7日、ウクライナ軍が戦場で「ゆっくりだが意味ある前進」をしており、現在南部ではロシア軍よりうまくいっていると述べた。

(以下略)
ゆっくりだが意味ある前進」とは、まさに「物は言いよう」です。

https://news.yahoo.co.jp/articles/298bef4d0f247d85a8a8ff2480be276cf284bb12
ウクライナ軍、南部・東部の3集落奪還=ゼレンスキー大統領
9/5(月) 8:50配信
ロイター

[4日 ロイター] - ウクライナのゼレンスキー大統領は4日、先週開始した集落奪還作戦が進展し、東部ドネツク州の1つの集落と南部の2つの集落をロシア軍から解放したと明らかにした。東部ルガンスク州リシチャンスクの方向でも作戦が「一定の高み」に達したと述べた。

奪還した地域の詳細には触れなかった。同日の会議で軍司令部や情報機関トップから「良い報告」があったとし、奪還した時期も明らかにしなかった。

(以下略)
奪還したという集落にどの程度の戦略的価値があるのかは、具体的な情報がまったく開示されていないので評価不可能ですが、満を持しての反転攻勢である割には、マリウポリ陥落直前の「いやまだ負けていない!」発言や、同じくセベロドネツク陥落直前の「ウクライナ軍が5割奪還!」発言と比べると随分とトーンが低いものです。

日本世論は総じて「ゆっくり領土奪還」に好意的であるように見受けられます。「ゆっくり」ということは、すなわち「長期化」であり、言い換えれば「泥沼化」ということです。それだけ民間人・非戦闘員=生活者の苦しみは続くということです。

「戦争が長期化すればするほど民間人・非戦闘員=生活者の苦しみが増す」ということに対する言及は、まったくと言ってよいほど見受けられません。「ゆっくりでも良いから着実に領土を奪還し、全土を奪還すべきだ。頑張れウクライナ軍!」といった類の言説が溢れかえっています。

「民間人・非戦闘員=生活者の苦しみが続くとすれば、それはロシアのせいだ!」というコメントさえ見られません。民間人・非戦闘員=生活者の苦しみが忘却されていると言わざるを得ない世論反応です。

戦争がまるでストラテジーゲームのように扱われています。「人間が人間を傷つけ殺す」という戦争の正体が忘却されているのではないかと疑わざるを得ません。
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2022年09月06日

ロシア・ウクライナ戦争半年:「日本世論の反応」の回顧・整理

ロシアによるウクライナに対する「特別軍事作戦」なる戦争が始まって半年の月日が流れました。戦いは長期化・泥沼化の様相を呈しています。民間人・非戦闘員一人一人の身を案じればこそ私は、開戦当初から繰り返してきたとおり、一刻も早い停戦を願ってやみません。

当ブログはこの半年、ほぼこの戦争に関連した「日本世論の反応」を柱としてやってまいりました。今回は、過去ログの読み返しを通して半年間の出来事を振り返りつつ、改めてこの戦争に関連した「日本世論の反応」を整理したいと思います。

■一種の自己中心主義・自意識過剰性、善悪の次元で構図化しないと事態を把握できない思考回路が「ロシアの視点」や「ロシアの動機」を軽視させた
何よりもまず強調したいのが、ロシアが始めたこの戦争であるにもかかわらず、肝心かなめの「ロシアの視点」や「ロシアの動機」が未だに非常に軽視されている点です。

開戦直前の2月23日づけ「ウクライナ情勢をめぐる日本世論について」では、当時人口に膾炙していた「NATO側からロシアを攻めることはないのに、ロシアは何を恐れているのか」といった主張を批判的に取り上げました。

当該記事で私は、軍事ジャーナリストであるJSF氏の記事を取り上げたうえで、これに対して批判的に論評しました。ロシアが情勢をどのように見ているのか・ロシアからは現状がどのように見えているのかという「ロシアの視点」への考慮が決定的に欠けていたからです。「「ロシア語には『安全』という言葉がないが、このことがロシア人の情勢認識を象徴している」と時折指摘されているとおり、基本的にロシア人は外国を信用していません。また、自分たちがそうしてきたからだとは思いますが、一旦既成事実が出来上がるとそこからなし崩し的に事態が悪化してゆくことも恐れているように思われます」と書きました。また、「「歴史的ロシア」ということになっているウクライナに欧米の軍事力が入り込むことは、ロシアの為政者としては政治的に許せないことなのでしょう」とも書きました。

相手の出方を探るためには、相手方の発想や内的論理になるべく沿う形で推理推測を展開する必要があるはずです。分からないなりに考え抜く姿勢が大切であるはずです。しかしながらこの戦争をめぐっては、JSF氏の記事が非常に典型的だったように、「ロシアの出方」を探ることを主題に挙げながらも「ロシアの視点」や「ロシアの動機」を十分にフォローしているとは言い難い言説が氾濫していたものでした。

「ロシアの視点」や「ロシアの動機」を十分にフォローしているとは言い難い言説が何故かくも席巻しているのでしょうか? 開戦初期の当ブログのテーマはそこにありました。

開戦直後の2月27日づけ「ウクライナ侵攻について」においては、廣瀬陽子・慶大教授の「「クールな合理主義者」でなくなったプーチン大統領」という見立てを「こうやって「あいつら」扱いするから予測を外すのでは?」と批判しつつ、テーマに沿って分析しました。

博学者たる大学教授は研究者として自負があります。それゆえ悪い癖としてしばしば、自分の見立てを絶対視し、それとは異なる見立てを「非合理的」と見なす一種の自己中心主義的なモノの観方をしてしまいがちです。廣瀬教授の反応はまさにその典型例というべきものです。自分には理解できないものを「非合理的」と切って捨てる一種の自己中心主義・自意識過剰性が「ロシアの視点」や「ロシアの動機」を十分にフォローしているとは言い難い言説の根底にあるものと思われるのです。

また、一種の自己中心主義・自意識過剰性つながりとして、前掲2月23日づけ記事では、当時ヤフコメ等に溢れかえっていた「そんなにウクライナに離反されたくないなら、ロシアが魅力的な国になればいい」といった言説を取り上げて批判しました。国家間の友好関係と個人間のお友達関係とを混同した、個人レベルの感覚で天下国家を論じてしまう「個人」主義的な発想の存在が考えられました。

さらに、開戦から数日間のテレビ報道などを思い起こしていただきたいのですが、すべての根本であるはずの戦況報道が非常に貧弱で、「国際社会」の反応だの反戦デモがあっただのといった報道ばかりが氾濫していたことについて、3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」などで取り上げました。

戦争は政治の延長線上にあるもので、軍事力は「実力行使の政治」という点において政治的解決方法の一つなので、戦争報道は戦況報道を基本とすべきです。開戦当初の日本のテレビ報道・日本世論の関心は、本筋ではない部分ばかりに注目していたわけです。本筋的ではないところに関心が集まった事実からは、日本世論は、まず現実を善悪の次元で構図化しないと話を始められない習性を持っているという可能性が考えられます。人間は普段から慣れ親しんだ考え方の枠に当てはめて新しい状況を把握するものです。まったく思考の枠組みがないところで事実を認識することはできません。

こうした反応から見えてくる日本世論の特徴は、まず現実を善悪の次元で構図化しないと話を始められないほど「善悪の構図」が日本的発想に深く深く根ざしている可能性、そして天下国家の動向を自分が理解できる範囲内で解釈することに終始し、決して相手の視点や新しい視点を取り入れて認識を発展させようとはしない傾向にあるように見受けられます。

■治療困難な域に達した硬直的な二項対立的世界観
3月に入ると日本世論はますます深刻な病的振る舞いを示すようになりました。3月4日づけ「日本もプーチン大統領顔負けの「力の信奉者」:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(1)」及び3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」では次のとおり整理しました。

(1)勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立
(2)「悪党」の主張には一切耳を傾けない
(3)「個人の意志」の過大評価
(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する
(5)他力本願

私が最も驚き恐怖さえ感じたのが、「(1)勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」及び「(2)「悪党」の主張には一切耳を傾けない」と関連して、侵攻開始から1週間以上たった3月4日になってやっとプーチン大統領の開戦演説(2月24日)がNHKニュースで全文和訳されたことです。1週間以上も「ロシアの動機」が十分に顧みられなかったのです。

停戦及び終戦のためには両国の動機をフォローする必要があるはずです。動機がなくならない限り停戦や終戦が実現しても遠からず戦火が再び燃え出してしまうからです。それゆえ、「ロシアの動機」に接近せずに「ロシアの出方」を探るというのは到底不可能なことと言ってよいでしょう。

もし、「ロシアの動機」に接近せずに「ロシアの出方」を探るなどということを本気で試みているとすれば、上述の、一種の自己中心主義・自意識過剰性は治療困難な域に達していると言わざるを得ないものです。ちょうど近代初期哲学者が認識論や存在論について頭の中でひたすら考えを巡らせ、荒唐無稽な結論に至ったのと同じ轍を踏んでいます。

「ロシアの動機なんてどうでもいいんだ、ウクライナは被害者でありロシアが悪い、このことだけで十分なんだ」というのであれば、「本土決戦一億玉砕の発想が現代に蘇ったのか?」と疑わざるを得ないような硬直的発想が大手を振っていると言わざるを得ないものです。既に廣瀬教授が典型的に示していた「自分が理解できる範囲内で解釈することに終始する姿勢」に、「ウクライナは被害者でありロシアが悪い」の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び、非常にな日本的な「悪党の主張には一切耳を傾けてはならない」が加わったことによって、日本世論は一気に好戦的かつ画一的に凝り固まったと総括することができますが、この硬直的な二項対立的世界観もまた治療困難な域に達していると言わざるを得ないものです。

当該記事でも書いたとおり、「ロシアの動機」を踏まえて対処しない限り、結局は殺るか殺られるかの二択しかなくなってしまいます。日本の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び「悪党」の主張には一切耳を傾けないからは、「力の信奉」しか導出されえません。これでは解決するものも解決しなくなってしまいます。

開戦から半年以上の月日が経過し、戦いが泥沼の長期化の様相を呈し、ウクライナ軍の損耗率が最大で50パーセントに上ったと指摘されていてもなお停戦の方向性さえも見えない今。現実は「『力の信奉』では解決するものも解決しなくなってしまう」ことを示しています

■未だに日本世論は日帝的な「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」傾向にある
1週間以上も「ロシアの動機」が十分に顧みられなかったことと並んで私が非常に衝撃を受けたのが、橋下・グレンコ論争に典型的に現れた「(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」でした。3月13日づけ「
最悪の場合「ベルリン市街戦」に至る日本世論、歴史に学んでいるように見えて経験に学ぶ愚者たる日本世論
」で取り上げました。

当該記事でも書きましたが、民間人保護をめぐって激しい論戦が展開されたこの論争においては、実は両者の主張には近しい点もありました。たとえばグレンコ氏は「まだ戦えるから戦っているという状態で、もし本当にどうしようもなくなってこれ以上の抵抗は犠牲が増えるだけで戦果につながる見込みが全くない場合は、苦しい判断をしなければならない場面も出て来るんですが、その時は(停戦等を)もちろん排除しない」と言明していました。しかしながら、この論争をネットニュース記事でしか目にしていないと思しき世論は、「橋下はウクライナに降伏しろと言っている!」などと曲解し、事態が大騒動と化したのでした。有馬哲夫・早大教授に至っては、日帝が果たせなかったヒロイズム・ロマンチシズムを勝手にウクライナに投影して悦に入っているという他ない大暴論を展開したものでした。

また、ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする小泉悠氏は、橋下・グレンコ論争とは直接的には関係はありませんが同時期に、ウクライナの降伏について「ウクライナには何の非もないのに、ロシア側から侵攻された。早く降伏すべきだというのは道義的に問題のある議論」などと、正真正銘の「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先」する言説を展開したものでした。当該記事でも書きましたが、橋下・グレンコ論争におけるグレンコ氏のスタンスでは、戦況を見誤ることで市民の避難が遅れてスターリングラード攻防戦のような事態に陥る危険性があります。それに対して、有馬氏・小泉氏のとおりにしてしまうと、これはベルリン市街戦のような深刻な事態に陥る危険性があります。

グレンコ氏の徹底抗戦論と有馬氏・小泉氏の徹底抗戦論とは、天と地ほどの違いがあります。ヤフコメやネトウヨが中学生のような安易安直な徹底抗戦論を口にしているのはしばしば見かけたものでしたが、それなりに社会的地位のある学者や専門家、ジャーナリストなどが、斯くも時代錯誤的な徹底抗戦論を提唱するとは正直思ってもいませんでした。

「今日のウクライナ情勢は、明日の台湾・沖縄情勢」――よく言われるスローガンですが、私もこの見方をある意味において共有しています。私は、台湾・沖縄有事で展開されるであろうプロパガンダの基本的枠組みが今般のウクライナ情勢報道で予行演習的に試行されているものと考えています。地理的に遠く離れ国家間交流が活発とは言い難いウクライナでの戦況が連日、NHKニュース等でトップニュースで報じられるのには、何らかの意図があると見なさざるを得ません。ユーゴ内戦、コソボ紛争、アフガン戦争、イラク戦争、シリア内戦・・・ここ四半世紀に限っても世界中で常に何らかの戦争がありましたが、ここまで四六時中、話題の中心であり続けたことはありませんでした。

たとえば4月10日づけ「TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだまま:「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBS『報道特集』と金平茂紀氏」では、およそ批判的視点に基づくジャーナリズムを放棄したという外ない、非常に戦意が高く勇ましい「キーウ市民現地の声」だけを放映するTBS『報道特集』の惨憺たる様を取り上げました。本当は不安と恐怖でいっぱいなのに外国人ジャーナリストには口が裂けても本音を言えなかったウクライナ国民だっていたはずで、本来ジャーナリズムというものは、こういう無言の本音を掘り起こすところにその使命があるはずなのに、プロパガンダ臭の満ち満ちた現地取材に終始していました。また、6月25日づけ「現代に蘇った「転進」論」では、ウクライナ軍の撤退・敗走を「防衛にあたってきた部隊が別の拠点に移動することを明らかにしました」などと表現する、まさに現代に蘇った「転進」論といういう外ないNHKの報道を取り上げました。

まさに典型的な戦時報道・戦意高揚宣伝扇動。まだまだ露骨で稚拙なプロパガンダですが、まず間違いなく将来の台湾・沖縄有事においては、今回の予行演習を基にして更に巧妙化された形でプロパガンダ報道が展開されることでしょう。

■「台湾・沖縄有事」が「沖縄戦2nd」になりかねない
そして、予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ない今回の報道において時代錯誤的な徹底抗戦論が展開され、ある程度の宣伝扇動効果が上がったという事実は、いざとなれば日本世論は非常に容易に日帝レベルの徹底抗戦論に堕するということ、未だに日本世論は日帝的な「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」傾向にあるということを明白に示したものと言えるでしょう。7月26日づけ「敵が悪いのは当たり前」及び8月21日づけ「戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘れてはならない:アムネスティ報告書が示した範とそれを読み取れない日本言論空間の現状」では、このことについて深堀して論じました。

当該記事で危惧したとおり、民間人の被害は「ロシアが悪い!」で終わらせている日本世論は、いざ日本が戦渦に巻き込まれたとき同じような反応を見せるであろうことが非常に容易に想像できます。弾が当たってしまったら傷つき死んでしまうことには変わりないのだから、民間人・非戦闘員にとっては、侵略者が放った弾なのか祖国防衛者が放った弾なのかに違いはありません。しかし、特に8月21日づけ記事で取り上げたアムネスティ・インターナショナルの報告書を巡る日本世論の反応からは、民間人・非戦闘員の目線に立つことが後景に押しやられている現状が覆い隠しようがないくらいに明白に示されてしまいました

たとえば防衛研究所主任研究官の山添博史氏は、学校など民間人居住地域を拠点としてウクライナ軍が抗戦していることについて「当該学校は長期休暇中だから問題ない」だの「一概に『民間施設の軍事利用で違法行為だ』とは言えない」だのと、アムネスティ側の指摘の趣旨・要点からズレた枝葉的な「反論」を展開しました。マトモな国語力があれば、アムネスティ側の指摘の趣旨・要点が分からないはずがありません。わざとやっているはずです。

なお、授業中の学校に陣地を作っていたらそれは「人間の盾」以外の何物でもありませんが、今回アムネスティはそこまでは言っていません。そうであるにも関わらず、防衛研究所主任研究官がこんなにも過剰反応するというのは、当該記事でも書いたとおり、自衛隊は「人間の盾」は使わないまでも、かなり際どい戦い方を予定していることを疑わせるものです。「台湾・沖縄有事」が「沖縄戦2nd」になりかねません。

佐々木れな氏は、もとよりロシアとウクライナを比較するような意図はアムネスティにはないのにもかかわらず、「アムネスティ・インターナショナルが客観的であろうとするあまり、侵略者と侵略された者、要は侵略者と被害者を同列に扱ってしまって、誤った等価性みたいなものを作ってしまった」なるまるでトンチンカンなこと・・・というよりもアムネスティ側の話をまったく聞いていないことを白状しました。そもそも等価・不等価の問題ではないところにそういう尺度を持ち込む佐々木氏の思考回路からは、非常に単純な善悪二元論と勧善懲悪の正義感に凝り固まっている様を見て取らざるを得ません。おそらく無意識的に、アムネスティ相手に藁人形論法を展開している彼・彼女らの世界観的理解の硬直性は、いささか異常なレベルであるように思えます。

「大義」を優先し、それによって発生する国民生活の被害は「敵が悪い」と述べるにとどまる・・・戦闘地帯に取り残された民間人・非戦闘員個人の目線を忘却し、その上で「元はといえば敵が悪い」を持ち出して自陣の非から論点を逸らすその姿勢には恐怖さえ感じます。「敵が悪いのは当たり前。日本国民を守る責務は日本政府にある」という基本原理に見向きもしないという「未来」が見えてきます。「台湾・沖縄有事」は「沖縄戦2nd」になりかねないと言わざるを得ません。

■破邪顕正的な感覚と大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚とが融合し全体主義化する日本的発想の危険性
さて、4月3日づけ「ダック・スピーチ的「橋下話法」に敗れたる橋下徹氏、現実の戦況に厳しい批判を受けたるアンドリー・グレンコ氏」で論じたとおり、「(1)勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」及び「(2)「悪党」の主張には一切耳を傾けない」並びに「(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」は連関していると私は考えています。

すなわち、「ロシアが正当な理由もなく先に手を出してきたのに、なぜウクライナが妥協しなきゃいけないんだ!」という破邪顕正的な感覚、および、「大義に殉ずる」ことを美化する大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚が日本世論にはあるため、ウクライナ国内における徹底抗戦論者の勇ましい主張やグレンコ氏・有馬教授のようなロマンチシズム的な主張が持てはやされ、これに水を差すような橋下氏のような主張が忌み嫌われているものと私は考えます。

当該記事でも指摘したとおり、グレンコ氏は橋下氏との論争において、民間人を巻き込むようなキーウ政権の徹底抗戦論について「今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」と言い放って正当化しました。たしかにゼレンスキー大統領への支持率は当時90パーセントではありましたが、もとより政権支持率というものは政権の総路線に対する支持率であり、個別各論的な施策がすべて支持されているわけではありません。現に、「武器を手に戦う」と言明するウクライナ人は50パーセント程度、そして出国禁止命令の対象となる男性国民から脱出を試みるものが続出していました。また、政権支持率90パーセントいうことは、逆に言えば10パーセントの国民はゼレンスキー大統領の総路線を支持しかねているということを意味します。グレンコ氏は10パーセントの意見を無視しているわけです。

もっとも、アンドリー・グレンコという人物は、アパグループの近代史「論文」コンクールに入選することでキャリアをスタートさせた「そっち系」の人物です。「支持率90パーセント」を誇らしく提示することで、言外に残り10パーセントに属する「少数派」を無視する全体主義的な立場を自ら鮮明にしたグレンコ氏ですが、彼がそういう発想をすること自体は驚くには値しないわけです。ここで注視しなければならないのは、当時世論は、彼の全体主義的な主張を無批判に受け入れてしまったところにあります。戦後77年経っても、日本はかくも容易に全体主義に堕する可能性があることがこの度、明々白々になったと言わざるを得ないでしょう。

全体主義的な主張に堕したグレンコ氏の徹底抗戦論や、ベルリン市街戦のような深刻な事態に陥る危険性を内包する有馬氏・小泉氏の徹底抗戦論は、日本世論の悪いところの寄せ集めというべきものでしょう。破邪顕正的な感覚と大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚とが融合し全体主義化してしまう日本的発想の危険性がこの戦争で露になったわけです。

■「散華」は愛国的な戦いなのか?
有馬・小泉そしてグレンコの各氏らによる暴論が席巻していた今春、大義名分が肥大化しまさしく「(4)生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」風潮が激しかった今春。危機感を感じた私は、絶世の愛国者であられたキム・イルソン同志の革命実記を再研究することでこの風潮に対抗する理論武装を試みました。その一定の成果として発表したのが、4月15日づけ「本当に国のことを思うということは如何なることであるか、同志愛と革命的義理の在り方はどうあるべきか:キム・イルソン同志生誕110周年」及び8月19日づけ「信念や意地に囚われ一時の激情から本土決戦一億総玉砕的な軽挙妄動に至りかねない日本においては、目的意識的な人間を育てることを優先する必要がある」でした。

4月15日づけ記事で私は、キム・イルソン同志の抗日闘争史を振り返りつつ「本当に国のことを思うということは如何なることであるか」という問いを立てて思索を展開しました。周知のとおり首領様は、祖国を取り戻すためにこそ一旦祖国を離れ満州に渡るという決断を下されました。上述のとおり日本世論は、ベルリン市街戦のような深刻な事態に陥る危険性を内包する徹底抗戦論が主流になってしまっています。しかし、首領様の決断を踏まえると一所懸命的な徹底抗戦、死守戦が祖国防衛のための唯一の道といわんばかりの言説は、事実に反する凝り固まった思い込みであると訴えたいと思います。

また、8月19日づけ記事で私は、軽挙妄動を避けるためには「『志遠』の思想に基づき価値観に対する目的意識性を持つ」とか「不屈の革命精神を持つ」ことが必要だとも述べました。敵とはあくまでも戦う。しかし軽挙妄動は厳に慎む。革命の道はもとより非常に遠く険しいものである。代を継いでたたかってでも必ず国の解放をかちとるべきだという不屈の革命精神を持つ必要があるのです。

日本的発想は「散華」を好みますが、花と散ってしまうような戦い方が愛国的な戦いなのでしょうか? 愛国の名を借りた「悲劇のヒロイン・ワタシ」的な自己満足に過ぎないように思えてなりません。本当に国のことを思うということは如何なることであるのでしょうか? 日本的発想の硬直性が非常に著しいと言わざるを得ません。首領様の革命歴史はこのことを実証しているように思われます。

■「自ら血を流す」ことは日帝から引き継がず他力本願になりがった
もっとも、生身の人間の生活を軽視し大義や筋論などの抽象的なものを優先する価値観を自ら率先して実践に移すのならば、それはそれで「一つの生き方」と言えるかも知れません。ひとりで勝手にやる分には好きにしろということです。

しかし、「(5)他力本願」と関連して申せば、日本世論はウクライナ人の流血を新冷戦におけるロシア封じ込めに利用しようとしています。ウクライナを勝手に「民主主義の防波堤」に任命し人類史的な役割を押し付けつつ、日本を含めて何処の誰もウクライナには直接的には加勢しようとしていません。いわゆる「ウクライナとの連帯」という美名の下で行われていることは、ウクライナ人をおだて上げてウクライナ人に負担を押し付けていることに過ぎません。ウクライナ人を「捨て駒」にしているのです。

この点、橋下徹氏は「ロシアが倒れるまでの間、ずっとウクライナの人たちに戦わせるのか」と世論を指弾しました。これに対する世論の反応は、よほど痛いところを突かれたのか、論点逸らしに必死にだったものです。結局、ご立派なことを言っておいて日本世論は徹頭徹尾、他力本願なのです。この点は日帝にはなかったものです。現代日本は、「生身の人間の生活を軽視し大義や筋論などの抽象的なものを優先する価値観」を日帝から引き継いだものの「自ら血を流す」ことは日帝から引き継がず他力本願になりがったわけです。

その意味では日本世論は、力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩しておらず、新たに卑劣な他力本願が加わったと言えるでしょう。まだ自殺攻撃的に「散華」した方が少なくとも潔いものです。これが現代日本の戦時世論であり、おそらく台湾・沖縄有事で展開されるプロパガンダの基本的枠組みになるものと思われます。とりわけブルジョア「個人」主義化した現代、個人同士の負担の押し付け合いが日常化している現代ですから、あの手この手・あからさまな屁理屈を駆使してでも、ますます卑劣で醜い他力本願が展開されることでしょう。

■開戦3週間で早くも「北朝鮮」報道化したロシア報道――ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのか
泥沼化して長期化しているこの戦争ですが、なかなか期待通りの動きが見られない状況に置かれると人間はどうしても、ちょっとしたニュースを針小棒大に評価したり希望的観測に飛びついたりしがちなものです。この戦争では早くも開戦3週間でその兆候が見えたものでした。対ロ経済封鎖でロシア経済はあっという間に崩壊するだろうと見込まれていたところ、まったくそのようにはなりませんでした。また、西側諸国で盛り上がったようにロシアでも遠からず反戦運動が盛り上がりプーチン政権が追い詰められるに違いないと予測されたところ、まったくそのようにはなりませんでした。それゆえ、3月20日づけ「「北朝鮮」報道化したロシア報道:怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ等々」で取り上げたとおり、怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ、そしてロシア国内にも一定数存在する異論派の言動を針小棒大に取り上げた報道、要するに「北朝鮮」報道のようなロシア報道が早々から見られたのです。

当該記事でも書きましたが、「北朝鮮」報道化したロシア報道でとりわけ興味深かったのは、歴史上一度たりとも民衆自身が新体制・新時代を開拓したことがない日本の世論が、やたらにロシアにおける民衆蜂起の可能性をめぐって盛り上がっていたことです。民衆革命に関する歴史的・社会的な経験・知見の蓄積が乏しいがゆえに日本世論は、いったい今のロシアで誰がプーチン打倒の首領たり得るのか、誰がポスト・プーチンの器なのか、そもそも打倒に向けた全人民的気運=革命情勢が整っているのかについては、案の定、ほとんど分析できず願望を並べることに終始しました。

また、「北朝鮮」報道においてもよく見られますが、相手側が言ってもいないこと、計画していないこと、あくまでも分析者の推測・憶測でしかないことが、いつの間にか既定路線にすり替わり、それが現実のものにならないことが分かるや否や「目論見、外れたり!」と騒ぎ立てる現象も見受けられました。

ロシアがウクライナ侵攻のために当初用意した兵員数は20万人弱でしたが、そもそもロシアの全軍を束にしてぶつけてもウクライナ全土の軍事的征服には足りないことは、初めから算数の問題として分かり切ったことです。いくらプーチン大統領が「裸のツァーリ」として自軍の練度や士気などの質的側面について景気の良い報告しか受けていなかったとしても、この「算数の問題」はごまかしようがありません(それゆえ私は当初から、用意された兵力規模から見てロシアにはウクライナを直接統治する気はないだろうと述べてきました)。

しかし、当該記事で取り上げたとおりジャーナリストの木村太郎氏は、まるでロシアはウクライナ全土を直接統治したがっているが兵力が足りなくなってきており頓挫しつつあると言わんばかりの構図を強引に描き出したものでした。また「5.9戦争宣言」憶測に至っては、5月10日づけ「「北朝鮮」報道化したロシア報道:「5.9戦争宣言」の予測を巡って」で取り上げたとおり、あくまでも英米など西側諸国の「分析」に過ぎずロシア政府筋がそれを匂わせたりリークしたものでは決してなかったのにもかかわらず、「5月9日の対独戦勝記念日を以ってロシアがウクライナに正式に宣戦布告する」という言説がまるで規定路線であるかのように定説と化していました。そして、その観測が(案の定)外れたことを以って「ロシアの弱体化」を騒ぎ立てる、まったくマッチポンプな強引なる議論が大々的に展開されたものでした。

ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのかと疑わざるを得ないほど、ことあるごとに希望的観測の継ぎ接ぎや針小棒大な報道にいそしんだのが日本メディアのロシア報道、そしてそういった報道を渇望する日本世論なのです。

■プロパガンダ報道と現実との折り合いがつかなくなった5月・6月
5月や6月になってくると、いままで日本世論が作り上げてきた構図が必ずしも現実世界の実相とは合致しないことがいよいよ明らかになってきたためか、いくつかの見立てが自然消滅するようになってきたものでした。たとえば、6月17日づけ「状況把握を願望ベースで判断する非常に危うい風潮がますます顕著に」では、プーチン大統領が国内のタカ派の声に悩まされているという分析が突如として登場してきたことを取り上げました。

開戦以来、日本メディアはこの戦争を「プーチン個人の戦争」として位置づけつつ「厳しい情報統制は早晩に瓦解するので、プーチンは遠からず反戦運動の高まりで追い詰められる」としてき、日本世論もその構図を受け入れてきました。しかし5月・6月にもなると流石にそのような構図で事態を理解するのには無理が生じてくるようになってきました。そんな中で登場した当該引用元記事。いままでの「プーチン個人の戦争」という構図とは真逆に「国内の好戦派の突き上げによってプーチンは追い詰められている」という内容が初めて報じられたのです。180度の転回というべきものです。

しかし、ここで注目すべきは、「好戦狂のプーチンが戦争を主導している」から「プーチンが国内好戦派突き上げを食らっている」に構図がまったく変わったのにもかかわらず、「プーチンは追い詰められている」結論だけはブレないという離れ業が展開されたことです。理由付けが180度変わったのならばそれなりに経緯を説明する必要がありますが、そのようなことは一切なかったのです。

理論と現実との乖離は現実問題としてはそれほど珍しい話ではありませんが、理由付けが大きく異なったのならばそれなりに総括する必要があるはずのところ、そうした説明なしに急に持論を引っ込めるのは、非常に日本的な現象というべきです。特に、ここまでくると「苦しい」という外ない「プーチンは追い詰められている」の強引なる維持。やはり日本世論は、ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのかと疑わざるを得ません。

■「プロパガンダの自家中毒」にかかった日本メディア
ところで、非常に深刻なのは、日本メディアはどうやらプロパガンダ報道だと自覚してやっているケースばかりではないと見受けられることです。「プロパガンダの自家中毒」にかかっていると思しき現象が見られていました。

5月17日づけ「マウリポリ陥落」において取り上げたとおり、たとえばNHKは、東部マリウポリ市内でロシア軍に包囲されつつも頑強に抵抗を続けていたアゾフスターリ製鉄所が白旗を上げる2日前まで「ウクライナ軍が東部で反転攻勢している」と報じていました。

アゾフスターリ製鉄所がウクライナ側の最終拠点だったこと、そしてその最終拠点が包囲され、包囲網がじりじりと狭まっていたことは既にかなり前から知られていました。補給が断たれ極めて厳しい状況におかれて久しかったのに、ウクライナ軍の瞬間的な優勢を「反転攻勢」などと針小棒大に報じていたのがNHKだったわけです。

NHKは自分で展開していたプロパガンダ放送に自分が引っかかり、自分でも何が何だか分からなくなっていたのでしょう。時系列的に見ればまさに「プロパガンダの自家中毒」というべき展開でした。

■台湾・沖縄有事におけるプロパガンダ放送の予行演習は4か月しか持たなかった
先に私は、今回のウクライナ報道は、台湾・沖縄有事におけるプロパガンダ放送の予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ないとしましたが、結局4か月しか持たなかったと総括できそうです。6月以降、日本世論が開戦以降に構築してきた構図が軒並み、現実を説明できなくなってきたのです。その結果、ウクライナ情勢にかかる報道枠自体が急速に縮小していっています。

たとえば7月9日づけ「フランスF2とNHKとのウクライナ報道比較から浮き彫りになった日本世論の深刻な現状」。分かりやすい対立構図に持ち込もうとするあまり「既定の型」に無理矢理押し込もうとしたため、日本世論は「親ロシアのウクライナ国民」や「ロシアともウクライナとも距離を置こうとするアフリカ諸国」を位置づけることに失敗し、そうした現地住民を無視するしかなくなりました。当該記事では、日本的対立構図では絶対に理解できないであろう南アフリカ外相の発言を取り上げました。しかしこのような報道は一般紙や地上波放送では、まったくと言ってよいほど見られません。ほぼ完全に無視されています。

また、NHKの各番組がそれぞれの思惑で断片的事実を「ぼくが かんがえた じゃあくな ロシア」像に沿った形で継ぎ接ぎしたため、番組によって「分析」が矛盾しNHK全体としては事実描写が支離滅裂になってしまっていました。具体的には、当該記事で取り上げたとおり、6月30日のニュースウォッチ9は、プーチン大統領のインタビュー映像を引きつつフィンランドとスウェーデンのNATO加盟申請について「プーチン大統領にとって皮肉な誤算」としたのに対して、同日の国際報道2022は、まったく同じインタビュー映像をほんの少し前のシーンから放送することによってそういった見方を否定してしまったのです。プーチン大統領は、ロシアとフィンランド・スウェーデンとの間には、ロシアとウクライナとの間で懸案となっているような事実はないので、フィンランド・スウェーデンNATOに加盟することは問題ではないと言明していました。

何とかして「プーチンは藪をつついて蛇を出した」「自業自得」という構図に持ち込みたかったニュースウォッチ9は、インタビュー場面を切り取って印象操作を狙ったものの、こともあろうに同じNHKの国際報道2022がプーチン大統領発言を正確に引用したことで、ニュースウォッチ9での解説と矛盾する番組を作ってしまったわけです。

まったく同様の現象は7月1日のニュース7と同日のニュースウォッチ9でも展開されました。ニュース7はズミイヌイ島からのロシア軍撤退について「一部奪還 反転攻勢に」というテロップを出して報じましたが、他方、その僅か1時間半後に放送が始まったニュースウォッチ9では、防衛研究所の高橋杉雄氏による「ウクライナが(ズミイヌイ島を)奪回したことで黒海の制海権をめぐる情勢が大きく変わることはない」という分析を放映しました。制海権をめぐる情勢が変わらないのならば反転攻勢とは言えません。ニュースウォッチ9がニュース7を否定したのです。

ニュースウォッチ9と国際報道2022の両方を視聴した人はあまり多くないかもしれませんが、ニュース7とニュースウォッチ9を両方とも見た視聴者も随分といたはずです。「さっきと言っていることが違うぞ」と気が付く人も少なくなかったでしょう。

当該記事でも書いたとおり、日本メディアは、分かりやすい対立構図に持ち込もうとするあまり「既定の型」に無理矢理押し込もうとして現実を上手く分析し切れていません。むしろ現実の理解を妨げてしまっています。また、事実を事実として報じることよりも断片的事実を継ぎ接ぎして溜飲を下げることを優先しているために、番組によって「分析」が矛盾しており支離滅裂になっています

このことは単なるメディアの編集姿勢の問題に留まるものではないと考えます。なぜならば、商業メディアは「売れてナンボ」であるために、読者・視聴者が求める情報を提供しようとするものだからです。つまり、日本メディアの報道姿勢は、日本人が非常に好むモノの見方・考え方に根差しているものであり、その意味で日本世論の深刻な現状を示すものであると言えるのです。

■総括
「日本世論の反応」を総括整理します。

「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」、「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」及び「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」という特徴が日本世論の3本柱として存在していると私は考えます。この3本柱は、破邪顕正的な感覚と大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚とが融合として理解できるとも考えます。

こうした反応からは、現実を善悪の次元で構図化しないと話を始められないほど「善悪の構図」が日本的発想に深く深く根ざしている可能性が見えてきます

この破邪顕正的な感覚は、結局のところは「殺るか殺られるかの二択」に至るものです。日本の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立及び「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」からは「力の信奉」しか導出され得ないのです。また、これが大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚と融合することで日本的発想は全体主義に堕する可能性があると考えます。

「今日のウクライナ情勢は、明日の台湾・沖縄情勢」――よく言われるスローガンですが、私は、台湾・沖縄有事で展開されるであろうプロパガンダの基本的枠組みが今般のウクライナ情勢報道で予行演習的に試行されているものと考えています。

今般、およそ批判的視点に基づくジャーナリズムを放棄したという外ない「ウクライナ国営放送日本語版」かと見紛うような報道、かつて日帝が手を染めた「転進」論といういう外ない報道が見られました。まさに典型的な戦時報道・戦意高揚宣伝扇動です。まだまだ露骨で稚拙なプロパガンダですが、まず間違いなく将来の台湾・沖縄有事においては、今回の予行演習を基にして更に巧妙化された形でプロパガンダ報道が展開されることでしょう。

予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ない今回の報道は、ある程度の宣伝扇動効果を上げています。この事実は、いざとなれば日本世論は非常に容易に日帝レベルの徹底抗戦論に堕するということ、未だに日本世論は日帝的な「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」傾向にあるということを明白に示したものと言えるでしょう。


「大義」を優先し、それによって発生する国民生活の被害は「敵が悪い」と述べるにとどまる――民間人・非戦闘員個人の目線を忘却し、その上で「元はといえば敵が悪い」を持ち出して自陣の非から論点を逸らすその姿勢に私は恐怖さえ感じます。「敵が悪いのは当たり前。日本国民を守る責務は日本政府にある」という基本原理に見向きもしないという「未来」が見えてきます。「台湾・沖縄有事」は「沖縄戦2nd」になりかねないと言わざるを得ません。

しかしながら、日帝と大きく異なるのは、「自ら血を流す」ことは徹底的に忌避していることです。ウクライナを勝手に「民主主義の防波堤」に任命し人類史的な役割を押し付けつつ、日本を含めて何処の誰もウクライナには直接的には加勢しようとしていません。卑劣で醜い他力本願に成り下がっています。

戦争が泥沼化・長期化するにつれて、怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ、そしてロシア国内にも一定数存在する異論派の言動を針小棒大に取り上げた報道、要するに「北朝鮮」報道のようなロシア報道が見られるようになりました。ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのかと疑わざるを得ないほど、ことあるごとに希望的観測の継ぎ接ぎや針小棒大な報道にいそしんだのが日本メディアのロシア報道、そしてそういった報道を渇望する日本世論でした。

その結果、日本メディアは「プロパガンダの自家中毒」にかかったと言わざるを得ない惨憺たる様を見せました。自分で展開していたプロパガンダ放送に自分が引っかかり、自分でも何が何だか分からなくなっていたのでしょう。

今回のウクライナ報道は、台湾・沖縄有事におけるプロパガンダ放送の予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ないと考えますが、結局4か月しか持たなかったと総括できそうです。6月以降、日本世論が開戦以降に構築してきた構図が軒並み、現実を説明できなくなってきました。

日本メディアは、分かりやすい対立構図に持ち込もうとするあまり「既定の型」に無理矢理押し込もうとして現実を上手く分析し切れていません。また、事実を事実として報じることよりも断片的事実を継ぎ接ぎして溜飲を下げることを優先しているために、番組によって「分析」が矛盾しており支離滅裂になっています

このことは単なるメディアの編集姿勢の問題に留まるものではないと私は考えます。なぜならば、商業メディアは「売れてナンボ」であるために、読者・視聴者が求める情報を提供しようとするものだからです。つまり、日本メディアの報道姿勢は、日本人が非常に好むモノの見方・考え方に根差しているものであり、その意味で日本世論の深刻な現状を示すものであると言えるのです。
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