2022年11月23日

世界に先駆け人類の理想社会:共産主義社会を実現することを現実的な課題として掲げている共和国

https://chosonsinbo.com/jp/2022/11/15k-94/
「わが国家第一主義」の時代 C 共産主義社会の実現を現実的課題に
2022.11.17 (08:11)
主要ニュース,共和国

希望に満ちた人間中心の未来設計
朝鮮民主主義人民共和国は、豊かで強く、自主的な国家を建設するうえで根本的かつ中心的な課題を見事に解決した世界に類のない国家実体であることを自負している。世界には経済力、軍事力を誇る国が存在するが、国家としての容貌において朝鮮に匹敵する国はないということだ。

無尽蔵な国力の秘訣
朝鮮は、以民為天(人民を天のごとくみなす:金日成主席の座右の銘)の理念と人民のための施策を実行する「人民の国」を自認している。国家のすべての政策は人民大衆の意思と要求を集大成して作成され、政府機関の活動は人民の創造力に基づいて行われているということだ。現在、朝鮮に対する制裁が続き、人民生活に支障が生じているが、人民は政府を信じ、その政策を支持している。強要では得ることができない民心の基盤に立つ国家は揺るぎない。

朝鮮は、人々の思想を統一させた一心団結の国である。チュチェ思想を国家政治哲学として確立し、国家建設と活動全般に具現してきた朝鮮では、それが人民の思想意識、人生観となっていった。今日、多くの国々が覇権国家の強権と横暴に屈してしまうのは、国民が結束せず、社会が分断していることにも要因がある。

朝鮮は、自立的民族経済と自衛的国防力を建設した国である。国家の自主権を堅持し、持続的な発展を図るには、自らの強力な基盤が必要だ。他国に依存しない経済、自国を守る防衛力がなければ、自主的な政治も実現できない。

そして朝鮮は、確固たる継承性が担保された国である。革命の代をつなぐことを最重要視し、一貫してこれに取り組んできた結果だ。他の社会主義国家では、首領を個人と見なし、領導の継承問題を最高職責の引継ぎとして矮小化したが、朝鮮では真の後継者を推挙し、その組織・思想的基礎と領導体系を築くことに努めた。社会主義国家政治体制の継承問題は、重要かつ解決が難しい問題であり、どの国も継承期には分派が生じ、挫折と混乱を経験した。しかし、朝鮮では強力な国家政治体制が安定的に継承されてきた。

△徹底した人民性 △思想の唯一性 △揺るぎない自立性 △一貫した継承性は、朝鮮固有の特徴であり、この国の無尽蔵な力の秘訣はここにある。

(中略)
金正恩総書記は、私たちが理想とする社会主義強国は、すべての人民が衣食住の心配を知らず、無病息災かつ安らかで仲睦まじく暮らす社会、互いに助け合いながら喜びも悲しみも分かち合う共産主義的美徳と美風が発揮される人民の社会であり、労働党のすべての活動は、このような社会を一日も早く実現することを目指していると述べている

強国建設に関する朝鮮の戦略は、資本主義における経済発展戦略と根本的に異なる。経済成長による物質的豊かさが、必ずしも誰もが互いに助け合う社会を実現するものではない。個人主義的な生存方式が定着した国では、富が増えるほど、極少数と絶対的多数の対立が深まる。

朝鮮の戦略の中心にあるのは、「カネ」ではなく「ヒト」だ。経済発展のための革新も強国建設の担当者であり、理想社会を実現する当事者である人民大衆の思想を発動し、かれらの役割を高めることを前提としている。

(中略)
朝鮮には他国が真似できない固有の国風がすでに形成されている。自主性を重んじて愛国心が高く団結力が強い人民、首領は人民を信じ人民は首領を絶対的に信頼する混然一体の風貌、自らの力と知恵で理想を実現していく自力更生の伝統、国全体が一つの大家庭のように互いに助け合う集団主義の気風などだ。

「わが国家第一主義」の時代、朝鮮は強国の地位に相応しい国風を創造し、「共産主義美徳と美風が発揮される人民の社会」を実現していく。先進国といわれた国々で、既存の政治体制が破綻をきたし、社会の分断と葛藤が深まる混乱の時代に、朝鮮は世界に先駆け、人類の理想社会を実現することを現実的な課題として掲げている。

(金志永)
共産主義社会の実現を現実的課題に」――キム・ジョンイル総書記の執権末期には「共産主義の看板を降ろしたのか?」と疑わざるを得ない幾つかの兆候が見られたものですが、キム・ジョンウン総書記の時代になって再び、共産主義が高く掲げられるようになりました

共和国の無尽蔵な力の秘訣として記事で金志永氏は、徹底した人民性・思想の唯一性・揺るぎない自立性・一貫した継承性の4項目を挙げています。いずれも首肯できるものだと思います。

徹底した人民性は、社会のあらゆる階層に党組織が深く根付いていることと関係しているでしょう。社会が高度に組織化しているからこそ民衆の意見を集約し得るのです。これに対して、日本のように社会の組織化が不十分で個人がバラバラになっていると、民衆の意見を吸い上げようがありません。

ちなみに、往々にして、いわゆる「独裁」政権は民衆の意志を無視して政治を執り行っていると言われるものです。しかし、本当に無視していては安定した政権基盤は築けないものです。ソ連・東欧社会主義圏、いわゆる「現実社会主義」(Realsozialismus)崩壊から30年以上の歳月が立ち、歴史としてRealsozialismusを見る姿勢がだんだんと根付いてきていますが、たとえば最近、一般向け新書として出版された『物語 東ドイツの歴史-分断国家の挑戦と挫折』(河合信晴著、中公新書)は、冒頭においてそうした俗流の見方を否定し「ミツバチの巣」理論を紹介しています。「シュタージによる監視国家」だとされる東ドイツでさえそうだったのです。

事実として、「北朝鮮」崩壊論が公共電波で撒き散らされるようになってから20年以上の歳月が経過し、この間、世界のあちこちで空中分解的な政権崩壊が発生しました。政権崩壊に至らないまでも、たとえば最近のイランのように反政府活動が激化し社会が混乱している国が今でも幾つもあります。これに対して共和国においては、未だにそのような兆候さえ現れていません。非常に高い結束力を誇っています。強要では得ることができない民心」という金志永氏の例証は、「北朝鮮」に対する日本社会に蔓延した偏見がいかに事実と異なっているかを示しています。

思想の唯一性については、昨今の「多様性」談義の悪しき影響によってソフィスト的相対主義が幅を利かせており、また、フェイクニュースやヘイトスピーチと言論の自由とが混同されるくらい思想的な混乱の極みにある日本言論空間では理解しにくいキーワードでしょう。このことについては、先日の記事で引用した、マルクス経済学者である鎌倉孝夫先生が「社会主義の理念は普遍である」(『キムイルソン主義研究』第123号)で展開した次の指摘を補助線にすると理解しやすいものと考えます。鎌倉先生は次のように指摘しています(p51)。
修正主義は、自由化を推進し、多様化、多党化を進めていかなければ社会の変化には対応しえないという考えです。しかし多元的思想が必要なのだといって、それに合わせて党の基本的な考え方を変えなければならないといっているうちに、なにをしてもよいかのようになり、みんなが利己主義的に無政府的に競争してもよいようになってしまいました
修正主義は、人民的な政治を貫徹しなければならないところ、「多元的思想が必要なのだ」という主張に動揺し、すべてを安易に相対化し、ついには譲ってはならない原則を放棄するという末路を辿りました。この歴史的事実を踏まえると、ここでいう思想の唯一性とは、人民的な政治を貫徹するという意味であると理解すべきでしょう。

なお、キム・ジョンイル総書記は『チュチェ思想教育における若干の問題について』(チュチェ75・1986年7月15日)において次のように言明されています。
チュチェ思想は思想分野において偏狭な排外主義を断固排撃します。チュチェ思想は、世界における人間の地位と役割を高めることに少しでも貢献する思想であるなら、どの民族、どの人民が創造したかに関係なく、その価値を公明正大に評価し、それを自らの思想体系内に包摂しています。

わが党にはチュチェの思想体系以外に他の思想体系は必要なく、チュチェ思想教育とゆかりのない他のいかなる思想教育もありません。
「特定の政策を押し付ける」という意味で解釈すべきではないでしょう。

揺るぎない自立性。近年、世界的なサプライチェーン危機が発生するたびに日本をはじめとする西側諸国で連呼されることですが、成功させている国は数えるほどしかありません。揺るぎない自立性を確保するためには、キム・ジョンイル総書記が歴史的労作『チュチェ思想について』などで論じたとおり自立的民族経済の建設が必要になりますが、これは必ずしも金銭的には「得」な選択ではありません。貿易理論を部分的・意図的に無視して自国生産するわけですから、国際化した資本の利益には必ずしも一致するものではありません。それゆえに、資本の利益を代表する資本主義政権は、国家の揺るぎない自立性を十分に確保・実現させることはできないものと思われます。

一貫した継承性にかかる金志永氏の説明は、以前から繰り返されてきた非常に原則に忠実な指摘ですが、改めて注目に値し学習すべきものです。首領の代替わりは組織領導体系と思想体系の引き継ぎでもあるということです。もとより社会政治的生命体における頭脳部が交代するとなれば、単なるメンバー入れ替えで済むはずがありません。かつてキム・ジョンイル総書記が『チュチェ思想教育における若干の問題について』(チュチェ75・1986年7月15日)において「大衆から遊離した領袖は領袖ではなく、一個人であり、大衆から遊離した党は党ではなく、一つの個別的な集団にすぎません」と指摘されたように、首領もまた社会政治的生命体の不可分な一要素であり、単なる個人ではないのです。

思うに、共和国以外の社会主義国家が「首領を個人と見なし、領導の継承問題を最高職責の引継ぎとして矮小化した」のは、自国社会を有機体として、システムとして見ず、構成要素を任意に取り換えられるものと考えた社会歴史観の貧困によるものであったのではないでしょうか。

徹底した人民性・思想の唯一性・揺るぎない自立性・一貫した継承性の4項目ゆえに共和国では、社会の混然一体・自力更生の伝統・集団主義の気風が確立しているといいます。そしてこのことは、資本主義では必ずしも実現できるものではないといいます。「経済成長による物質的豊かさが、必ずしも誰もが互いに助け合う社会を実現するものではない」からです。まさにここにこそ、政権の性質の違い、つまり社会主義の優位性があるといえるでしょう。

記事中、キム・ジョンウン総書記のお言葉として引用されている「私たちが理想とする社会主義強国は、すべての人民が衣食住の心配を知らず、無病息災かつ安らかで仲睦まじく暮らす社会、互いに助け合いながら喜びも悲しみも分かち合う共産主義的美徳と美風が発揮される人民の社会」という社会像は、社会的存在としての人間の本性に合致した社会であると言えます。こうした社会で生きるときにこそ、人間は自然体で生きることができるものと思われます。

もちろん、人間同士の競争は切磋琢磨という意味では非常に大切です。私は「おててつないで・・・」にはまったく組しない立場です。しかし、チュチェ110(2021)年10月24日づけ「社会主義・共産主義に向けた展望を持ち合わせていない日本共産党」などで述べたように現代資本主義においては、もはや個々人にとって競争が強迫観念と化しつつあり、自己疎外されていると言わざるを得ない域に達しつつあります。現代資本主義の競争至上主義は、人間同士がお互いを高め合う切磋琢磨の域を逸脱しており、不自然であると言わざるを得ないと考えています。

チュチェ思想は、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識と通底していると考えられます。マルクス・エンゲルスは史的唯物論の確立以降、疎外論に直接的な言及を加えることが徐々に減ってゆき、史的唯物論の更なる体系化と後代による継承の結果、初期マルクスの疎外論的な問題意識は「若気の至り」扱いされるようになってしまいました。社会政治的生命体論は、初期マルクスの疎外論的な問題意識を現代によみがえらせたという意味で思想史的な意義があると私は考えています。

それゆえ、「「共産主義美徳と美風が発揮される人民の社会」を実現していく。先進国といわれた国々で、既存の政治体制が破綻をきたし、社会の分断と葛藤が深まる混乱の時代に、朝鮮は世界に先駆け、人類の理想社会を実現することを現実的な課題として掲げている」という記事の結びには、心に染み入るものがあります。
ラベル:チュチェ思想
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2022年11月20日

ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道について

■ロシア革命105年――ロシア革命・ソビエト政権の評価について
去る7日、ロシア革命から105年の歳月が経ちました。

5年前のロシア革命100周年のとき当ブログでは「ロシア10月大革命100年から次の100年へ社会主義建設の歴史的教訓」で「急進主義・設計主義的合理主義を放棄して、合理的思考の限界を前提とした上で漸進主義を採用すること」が必要ではないかと述べました。このことは、究極的には「世界観の転回」に行き着くものです。また、「主体を強化し、その役割を高める」ことの必要性も述べました。

社会主義を探究するにあたっては、ロシア革命・ソビエト政権の評価は避けて通れない課題です。しかしながら、当ブログでは諸般の事情から、継続的・一貫的にこのことについて探究してこられませんでした。そこで今回は改めて考えてみたいと思います。

■「社会主義」とは何か――主体的な位置づけ、資本主義に対する優位性、その必要性
まず、ここでいう「社会主義」の定義が何であるかを固めることが必要であると思われます。

チュチェ110(2021)年10月24日づけ「社会主義・共産主義に向けた展望を持ち合わせていない日本共産党」など以前から述べているように私は、チュチェ思想を指針として日本社会の自主化を目指しています。キム・ジョンイル総書記の労作『人民大衆中心の朝鮮式の社会主義は必勝不敗である』(チュチェ80・1991年5月5日)でも論じられているように、チュチェ思想は社会主義社会を「首領、党、大衆が一つの社会的政治的生命体をなす社会」と定義しています。チュチェ思想の立場から申せば、社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会政治的生命体を形成するための運動であるわけです。社会的政治的生命体の内部において人々は、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的な一心団結をなしています。この人間関係は、「自由と平等」を前提としつつもそれよりも一段高みにある関係性であると言えます。本質的に社会的存在としての人間が幸福に生きる人生観を基礎付けるものであると私は確信するものです。

キム・ジョンイル総書記が指摘されたように、本来人間は、「豊かな物質生活を営みながら肉体的に健康に暮らし発展することを求めるだけでなく、みちたりた精神生活を享受し、精神的、文化的に発展することを求め」ものであります(『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』チュチェ76・1987年9月25日)。また、「人間は物質的に、精神的、文化的に裕福に生活することを望むとともに、社会の平等な主人としてお互いに結びつき、永遠に生きる社会政治的生命をもって生き、発展することを求め」るものであります。しかし、「資本主義社会では、物質生活における不平等をなくすことができないばかりでなく、高まる物質生活と貧困化する精神・文化生活のあいだの不均衡、人民大衆の高まる自主的要求と悪化する政治生活のあいだの不均衡を克服することができ」ません。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保障にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、同志愛と革命的義理の関係性が実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、極めて難航しています

社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動は、究極的には疎外され失われた人間性の回復・再興、人類愛の復興を目指すものです。人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。修正資本主義的対応では足りず社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要になります。

チュチェ109(2020)年12月31日づけ「チュチェ109(2020)年を振り返る(4):社会政治的生命体論にスポットライトを当てた一年間」で述べたとおり、かつて「資本主義に対する社会主義の優位性」といえば、5か年計画による資源の計画的で効率的な運用が筆頭でした。しかしチュチェ思想の立場から申せば、「社会から疎外されて孤立する人をなくすこと」や「物質生活とそれ以外の生活のアンバランスを是正すること」が資本主義に対する社会主義の優位性であると言えるのです。

また、システム的な主体の定義や知識経済社会において精神的自主性を抑圧されている現代労働者階級の自主性の回復のためには社会主義の道しかないとも考えています(詳細は上掲記事参照)。

人間の社会的連帯を弱めて分断を拡大する資本主義体制に対して、社会政治的生命体の形成を目指す社社会主義・共産主義運動は、人間同士の社会的結合を強めて人間性の回復・再興、人類愛の復興にに向かっていきます。私は、将来的には日本においても人々が同志愛と革命的義理心に基づいて有機的に連帯した社会政治的生命体の形成を目指すべきだと考えています。個人主義と全体主義の両方に反対する集団主義的な人間関係に基づく社会、人間の社会的存在としての本性に合致した、自然体で生きることができる社会を目指すべきだと考えています。

もちろん、こういった社会は一朝一夕に実現されるものではありません。社会政治的生命体の基礎をなす革命的な同志愛と義理心を更に分析すると、そこには集団主義的な社会原理を見て取れますが、ここでいう集団主義を、「公平性」と「お互い様精神」に基づいて社会を協同的・自主管理的に運営することで、自主・対等・協同の社会関係――個人の意思決定と選択の自由が実現しつつ、人間同士の協同的な関係が実現したもの――を実現するものと定義すれば、ここに社会政治的生命体形成の初期段階を構想することができます。自主・対等・協同の社会関係を革命的な同志愛と義理心に発展させることで社会政治的生命体を形成させるということです。

当ブログでは、チュチェ105(2016)年1月20日づけ「「オーナーの私有財産としての芸能事務所」という事実に切り込まずして「ジャニーズの民主化」を語る認識の混乱」およびチュチェ106(2017)年8月17日づけ「ブラック企業問題は社会経済総体の問題であり、自主管理化の道こそが解決策」において、一人ひとりの労働者が自主的になるためには、まずは移籍・転籍の活性化による自由化、次に自主管理・協同経営による民主化という「二段階革命論」を提唱しました。他者に対する依存を下げ相互牽制的な関係性を構築する自由化、自らの運命を自らで管理し切り開く自主化・協同化という段階を労働運動は踏むべきという道筋です。

そしてこうした労働運動を核心・突破口として、さらに社会政治的生命体の形成に繋げてゆくべきです。すなわち、第一段階としての自由化、第二段階としての自主化・協同化、そして最終段階として革命的な同志愛と義理心に基づく社会政治的生命体を形成という段階を踏むべきと考えます。

■社会主義建設におけるソビエト政権の根本的誤り
ソビエト政権の評価については、キム・ジョンイル総書記の談話:『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年1月3日)および労働新聞掲載の論文:『社会主義は科学である』(チュチェ83・1994年11月1日)の内容を踏まえるべきであると再三主張してまいりました。『総路線』談話において総書記は次のように指摘されています(同名冊子p3)。
社会主義を建設していた一部の国で社会主義が挫折した根本的な原因は、一言でいって、社会主義の本質を歴史の主体である人民大衆を中心にして理解しなかったため、社会主義建設における主体の強化と主体の役割の向上問題を基本としてとらえられなかったところにあります
マルクス経済学者の鎌倉孝夫先生は、『キムイルソン主義研究』第123号(2007年10月号)収録の「社会主義の理念は普遍である」において、総書記の指摘を解説する形で、俗流的な唯物史観批判として次のように指摘しています(p46〜47)。
自然には法則があります。自然法則は人間の意志や人間の意志に基づく行動が作用してつくられたものではありません。自然史的過程とはそういう意味で使います。

社会は人間が形成しています。人間は自然から相対的に独立して人間特有の社会を構成しています。ところが人間社会の発展についても、主体の意識や行動なしにあたかも自然史的過程であるかのように自然に社会が発展していくかのようにとらえる側面が唯物史観にあるのです。社会を構成している人間、人民大衆の思想や意識あるいは行動に関わりなく社会がおのずから発展したり、おのずと社会主義が実現されるということはありません。

(中略)
人間社会の発展を自然史的過程とみなしたことが決定的に問題だったとのキムジョンイル総書記の指摘を深くとらえなくてはなりません。
また、鎌倉先生は『社会主義は科学である』に基づいて次のように指摘しています(p47〜48)。
キムジョンイル総書記は、94年11月に『労働新聞』に掲載した論文『社会主義は科学である』のなかでも述べていますが、ここでも生産力と生産関係の矛盾について言及しています。(中略)資本主義の発展がつづくなかで資本主義の矛盾が拡大していきます。その矛盾とは具体的には資本家が労働者階級に対して搾取を強化していくことです。

『資本論』第1巻第24章では資本主義の本源的蓄積について、資本主義が歴史的にどう形成されてきたのか、また資本主義の基本的に矛盾について解説しています。その第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」に、窮乏化と窮乏化に反対する労働者階級のたたかいが階級闘争に発展していくとされています。これが窮乏化理論であり、マルクス主義においては資本主義の決定的な矛盾、搾取が強化され、労働者階級が窮乏化することとしてとらえてきました。

しかし、同時に資本蓄積の進行の下で労働者の賃金が低く抑えられ、労働が強化されて、労働者には無知、粗暴、道徳的堕落も蓄積されていくととらえられていました。無知、粗暴になってしまう労働者階級は社会主義の主体にはなれません。マルクス主義では、労働者は窮乏化に反抗して階級闘争が激化し社会主義が実現されていくとしています。しかし窮乏化自体が労働者の階級意識をもたらし組織的反抗をもたらしていくとはいえません。
(中略)それでは理論の学習による意識的主体形成は欠落してしまいます。

これが唯物史観にもとづく生産力理論と資本家階級に敵対して闘争し、資本主義を転換させるという階級闘争論です。
(中略)マルクス主義でも、革命の主体は労働者であり、社会主義を創造し発展させる主体も労働者であるという言葉は使ってはいますが、主体の意識や力量の意識的形成を明確にすることができませんでした。
その上で、鎌倉先生は次のようにソビエト政権の根本的誤りを指摘しています(p49〜51)。
レーニンは、革命と建設の主体形成をはかるため、何よりも労働者、人民の教育を発展させなければならないと考え、それを推進しはじめました。しかし、(中略)スターリンによって社会主義建設は唯物史観の教条主義的適用で進められたのでした。
(中略)
社会主義を発展させるべき人民大衆の思想意識が発展していないのでは革命と建設の主体的力量などつくられるはずがありません。そのような状況のままで西側資本主義国と交流を始めると一気にブルジョア思想が入ってきました。社会主義思想で十分に教育されておらず、主体としての意識がきずかれていない大衆の中に金儲けしてもよい、利己主義的に自分のことだけ考えて生きてもよいとする意識が入り込んでくれば、一気に感染してしまいます。それがソビエト崩壊の決定的な理由だったのです。
(中略)
一方、教条主義的なまちがった対応にたいして、状況が変わり、大衆の多様化してきた意識に対応して社会主義建設の仕方も変えていかなければならないとする考えから出てきたのが修正主義です。
(中略)
多元的思想が必要なのだといって、それに合わせて党の基本的な考え方を変えなければならないといっているうちに、なにをしてもよいかのようになり、みんなが利己主義的に無政府的に競争してもよいようになってしまいました。

教条主義、官僚主義と同時に修正主義が拡大してきたことがソビエトにおいても、他の社会主義国においても、社会主義を崩壊させる大きな原因になったといってもよいと思います。
鎌倉先生は更に、俗流的な唯物史観の理解を「スターリニズム」として斬って捨てています(p55〜57)。
スターリンは、エンゲルスが『反デューリング論』で、デューリングが暴力が歴史発展の動力だといったことを徹底的に批判し、社会を発展させるのは生産力だと述べたことを俗流的に解釈してしまいました。
(中略)
農業を集団化して大規模農場にすれば農民の意識は社会主義的、集団的になるというように、生産手段を大規模に拡大すれば人間の意識は社会主義的になるというのはほとんどこっけいというべきです。しかし唯物史観を説明している社会主義者の本には、これと同じようなことがどれにも書いてあります。人間の意識形成の特徴を何もみていません。
教条主義および官僚主義ならびに修正主義――いずれも社会主義の正道から外れたものですが、これらの誤りを突き詰めると、総書記の指摘:「人民大衆を中心にしなかった」ということになるでしょう。

いまやスターリニズムの積極的肯定を日本国内で公言している勢力は日本共産党(行動派)くらいのものだと私は認識しているのですが、「実質的にスターリニスト」と言わざるを得ない社会主義・共産主義者は依然として多いものです。しかし、鎌倉先生が指摘しているように「人間の意識形成の特徴」を深堀すればこそ、スターリン的な唯物史観理解、つまり社会歴史観の不十分であると言わざるを得ないでしょう。

また、鎌倉先生は唯物史観そのものを完全に否定しているわけではありませんが、唯物史観が陥りがちな偏向を忖度なく指摘しています。唯物史観に基づく社会歴史観は、非常に容易にスターリニズムに堕落する可能性があることを指摘しています。この指摘は非常に重要であると考えます。

■主人意識の獲得と脱個人主義・協同意識の獲得そして目的意識性という3つの重要テーマ
私は、すべての事象を「人間」というフィルター越しに見、すべての事象を人間との関係に結び付けて考えるくらいの姿勢が必要ではないかと私は考えます。

教条主義者によると人間の意識性を重視するチュチェ思想は「観念論」ということになるようですが、そもそも「生産力」とはその本質において自然を改造する人間自身の力であり、生産力の発展とは人間の発展に他ならないものです(ハン・ドンソン『哲学への主体的アプローチ - Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』p108)。それゆえ私は、チュチェ思想こそがマルクス主義の生産力主義をさらに発展させたものであり、主体的唯物史観こそがスターリニズム的唯物史観に取って代わるものと見ています。

すべてを「人間」というフィルター越しに見る姿勢で現代日本を考えたとき、主人意識の獲得と脱個人主義・協同意識の獲得そして目的意識性の涵養という3つのテーマが浮上してくると考えます。

■生産手段を私有するブルジョアが改心するなどあり得ないからこそ、他力本願になり他人の指揮棒に従うのではなく自己の運命の主人になる必要がある
主人意識とは、「自分の運命は自分で決める」という意識です。他力本願になり他人の指揮棒に従うのではなく自らの運命の主人として主体的に生きるということです。他人の指揮棒に従うことは確かに楽なことではあります。「寡頭制の鉄則」が示しているように、人間は往々にして他人に自己の運命を委ねがちなものです。しかし、他人がいつも善意で指揮棒をふるうとは限らないものです。このため、主人意識の獲得が重要になります。

このことの実例として当ブログでは、チュチェ108(2019)年11月6日づけ「やはり自主管理的経営を目指すべき」において、東北自動車道路・佐野サービスエリアでの労使紛争を取り上げました。同サービスエリアではチュチェ108(2019)年の夏にストライキが成功し労働者側の要求が実現したものの、ホトボリが冷めた同年秋に大どんでん返しが発生したのです。

佐野サービスエリアにおける労働運動の教訓は、同記事でも述べたように、「生産手段を私有するブルジョアが改心するなどあり得ない」という事実を直視し、奴らと袂を分かつ(辞める)か、あるいは、ブルジョアを追放して協同所有・自主管理経営に移行する、すくなくとも、所有権・分配権・指揮命令権といった資本家・経営者らの「権力の源泉」に迫り、これらに対して労働者階級側が一定の影響力を保持することで、企業経営に対して労働者陣営の意見が一定程度反映される仕組みづくりを形成することでした。このことはすなわち、「自分の運命は自分で決める」ということに他ならず、これを実現するためには、「自分の運命は自分で決める」という意識すなわち主人意識が必要となります

また、本年6月28日づけ「技能実習制度問題を解決する道は「移民労働者としての受け入れ」ではなく「協同化」」において取り上げたとおり、いま、外国人技能実習生が奴隷的労働環境に苦しんでいるという報告が相次いでいます。ブローカーへの高額な前払金の支払いや実習生自身が自由に勤め先を選択できない技能実習生の立場が、日本人労働者であればその日のうちに逃げ出すであろう低劣な奴隷労働的な労働環境をのさばらせていると考えられます。彼らを救う必要が絶対的にあります。しかし、だからといって彼らを「移民労働者」として取り扱うことには慎重に対応する必要があります。

技能実習生を奴隷扱いする受け入れ先企業の「論理」は、資本の偽りなき本音・本性だからです。もとより労働者は労働力を販売する以外に商材がないので、労働供給の価格弾力性は低く、よって交渉力は低いというべきです。これに対して企業は事業の多角化などによって必ずしも労働需要の価格弾力性は低くはありません。

技能実習制度を継続するにせよ移民労働者受け入れに切り替えるにせよ、結局のところ労働供給を増やすことでありマルクス経済学で言うところの産業予備軍を増やすことに他なりません。現況のままでの移民労働者受け入れは、もともと弱い労働者階級の交渉力を更に低下させることにつながるでしょう。それゆえ、今必要な改革は、労働者自身が自らの運命を決定する過程に食い込むことでしょう。

もちろん、労働者階級が生産手段協同所有・自主管理経営に移行することは、遥かなる課題です。当面、労働者階級は生産手段を所有しないという意味での「無産者」であり続けることでしょう。しかし、所有権・分配権・指揮命令権といった資本家・経営者らの「権力の源泉」に労働者階級が食い込むことができれば、生産手段の所有には至らずとも、もはや以前のような意味での「無産者」ではないのです。当面は私有財産制度の枠内で、たとえば株式会社の既存統治機構に労働者の意向が一定の影響力を及ぼす道、労働者の意思が企業統治に食い込む道を目指すべきと考えます。労働運動・労働組合運動は、主人意識を育成に注力しつつ、企業の経営・管理への参加を志向する体制建設的な自主闘争・自主化闘争を展開すべきでしょう。

このことについて、チュチェ108(2019)年11月24日づけ「ワタミ労組の奮闘は自主管理社会への第一歩」では、自主管理社会への進歩にとって吉兆と言い得る画期的事象を取り上げました。ブラック企業の代名詞であった「ワタミ」がホワイト企業化するにあたってはワタミメンバーズアライアンス(ワタミ労組)が一定の役割を果たしましたが、この過程でワタミ社員の間に「自分たちの会社のことは自分たちで決める」という考えが出てきたのです。

これは主人意識に他なりません。自分たちの労働環境を現実的に改善するために思索を巡らせて行くなかで、単なる「雇われ人」ではなく「参加意識」が芽生えたのでしょう。今はまだ身の回りの就業環境等改善に留まるものでしょうが、身の回りの就業環境等改善には、かならず会社組織上位層の関与と決断が必要になります。身の回りの就業環境等改善に始まる参加意識は、いつの日か会社組織そのものの経営・管理に対する参加欲求に繋がるものです。主人意識涵養の第一歩、自主管理社会を主体的に準備するにあたっての第一歩がすでに踏み出されています

■吉兆は見え始めたとはいえ、総体的にはまだまだ厳しい状況が続いていると言わざるを得ない
また、本年10月1日づけ「消費者がアーティストを搾取し芸術界に株式会社形態が侵食する反面、分配をめぐる自然発生的な問題提起が上がり初期協同社会を構想するにあたって人類史的な意義を持つ労働者協同組合が歴史的な日を迎えている・・・時代は着実に前進している」では、マルクスの搾取論と論理構造的に類似した音楽サブスクリプション批判が自然発生的に出てきたことを取り上げました。

音楽サブスクをめぐっては以前からアーティスト側への還元率の低さが指摘されていました。このことはすなわち、消費者はアーティストの音楽作品から効用を好きなだけ引き出しておきながら、アーティストが費やしたコストを十分にペイするほどの対価を支払っていないという点において、「消費者がアーティストを搾取している」と位置づけることができます。

搾取問題は主人意識の重要な動機・構成要素になります。「今月は頑張ったわりに手取りが少ないな・・・」と違和感・不満が、自己の運命の主人として行動をとる契機になります。待遇改善のための転職、平たく言えば「嫌だから辞める」「無理だから辞める」も、主人意識の一種です。ソ連崩壊によってマルクス主義の権威が著しく下がった余波で、本来ソ連の失敗とは無関係であるはずの搾取論までもが顧みられなくなって久しいところですが、同様の視点にもとづく主張が「現場から」「自然発生的に」出てきたわけです。

とはいえ、チュチェ109(2020)年4月12日づけ「新型コロナウィルス禍によって炙り出されてきた日本世論に染みついた「他力本願」精神」などで述べたように、日本社会の他力本願っぷりは新型コロナウイルス禍において嫌というほど見せつけられました吉兆は見え始めたとはいえ、総体的にはまだまだ厳しい状況が続いていると言わざるを得ないところです。

■他力本願と社会的分業の徹底的な専門細分化・市場化
チュチェ110(2021)年4月15日づけ「社会的分業を見つめ直す必要:キム・イルソン同志生誕記念」および同年9月9日づけ「「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」はどのように誤っているのか・・・朝鮮民主主義人民共和国の先進性との比較」では、日本社会を覆っている他力本願の要因について、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化が底流にあると分析しました。

現代では社会的分業が徹底的に専門細分化・市場化されたことにより、「カネさえ払えば後はすべて丸投げ」が当然になっています。そのため、他人の仕事内容への想像力や推理力が働きにくくなっています。そのような状況において、BtoCレベル・日常的購買の場面では即日配送のようなスピーディなサービスが溢れかえっているので、人々は、量産品消費者としてのスピード感ですべてを判断しがちになっています。これにより、消費者・需要側は、自分の都合を並べ立てて業者・供給側丸投げすることが当然のことになりました。「お客さま」意識が奇形的に肥大化しています。そしてここに、前近代時代から中途半端に残る「御上が何とかしてくれるはず」という意識が混ざり込むと、もはや自分自身が能動的に動こうとする意識は芽生えもしなくなると考えられるのです。

こうした手合いは、消費者と主権者との違いを理解していません。非常に初歩的な誤りであるわけですが、消費者意識の奇形的肥大化が経済生活に留まらず政治生活にも侵食してきているという事実は、金銭万能の現代資本主義の在り方が大衆意識にまで刷り込まれてしまっている非常に深刻な事態を示しています。

■自他を救う脱個人主義・協同意識の獲得
続いて脱個人主義・協同意識の獲得について論じましょう。第一に、これはシステムとしての客観世界において自他を救う重要な意識、主人意識を現実のものにするために重要な意識です。

チュチェ108(2019)年7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」および、同15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」では、いわゆる「自己責任」論が新中間階級(専門職・上級事務職・管理職)といった人々に拡大しつつある背景に、彼らが「自分が努力し能力があったから、自分が恵まれている」と考えがちであることがあると論じた橋本健二・早稲田大学教授の分析と、知識労働が主流になった現代資本主義に対する主体的分析を展開したキム・ジョンイル総書記の歴史的労作『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)とを関連付けて論じました。

キム・ジョンイル総書記はすでに30年以上前から次のように指摘されています。
 第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が起こりました。発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにしたがって、肉体労働に従事する勤労者の数が著しく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急激にふえ、勤労者の隊伍において彼らは数的に圧倒的比重を占めるようになりました。

 社会の発展に伴って勤労者の技術、文化水準が高まり、知識人の隊伍がふえるのは合法則的現象だといえます。

 もちろん、知識人の隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確かです。特に、革命的教育を系統的にうけることのできない資本主義制度のもとで、多数の知識人がブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいことです。それゆえ、彼らを革命の側に獲得することは困難な問題となります。
その上で私は、知識労働の最たるものとして医師の労働、とりわけ「自己研鑽」なる口実の下、無給の長時間労働を強いられている若手勤務医について次のように述べました。
使命感・責任感と「無給労働に沈黙すること」は別問題です。「働いたんだから給料払え」と要求を展開するくらいであればバチは当たりません。医師に限らず、給料が遅配になったからといって翌日からすぐにストライキに入る人は少ないでしょう。お客様に迷惑を掛けてはならない等の理由で、支払いを求めながらも取りあえず働き続けるのが普通です。しかし、そのような支払い要求さえも展開されていないのが現状です。雇われる側である勤務医が雇う側の理屈を受容してしまっているのです。己の自主性・自主的要求を麻痺させられているのです。

なぜ、雇われる側である勤務医が雇う側の理屈を受容してしまっているのでしょうか。キム・ジョンイル総書記の労作『反帝闘争の旗を高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(チュチェ76・1987年9月25日)で展開されているチュチェの現代資本主義論・階級分析は、それを解明するカギとなります。そして、知識労働者を中核とする先進資本主義社会において人々の自主化を達成する上で重要な指針を教えています。

総書記は同労作中で、先進資本主義社会では科学技術の発展に伴いインテリ・知識労働者が労働者階級の圧倒的部分を占めるようになり、労働者階級がブルジョア思想の影響を強く受けるようになったと指摘されました。それゆえ、従来どおりの方法では労働者階級を革命陣営側に取り込むことは困難になりつつあると指摘されています。

(中略)
この見解を現代日本の医療界に当てはめてみましょう。医師は知識労働の最たるものです。医師は、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに、主治医として治療の中心人物として、雇われの身なので全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、自分自身の判断で仕事を進める場面も多いものです。それゆえ、病院等に雇われて組織的に働く看護師などと比べると、ひとり親方・個人事業主的傾向が強いといえます。総書記が指摘されるように、ブルジョア思想・プチブル思想に汚染されている恐れが大きいと考えられるのです。

雇われの身でありながらも個人事業主のような働き方をしている勤務医がプチブル思想に毒されて自己の労働者性を忘却している場合、個人事業主の感覚のまま病院経営者になってしまった大ブルジョアの誤った労務感覚に共感し、健全な自主性・自主的要求が麻痺してしまう恐れがあるわけです。勤務医が「自己研鑽」などというインチキにコロッと騙されている背景には、知識労働者のプチブル化が考えられるのです。

(中略)
勤務医が勤務先の指揮命令下で医療行為を行っているにも関わらず、その対価が支払われないのは決して正当化し得ません。正当な対価を支払わない「ただ働き」は、抑圧に他なりません。その上、勤務医は往々にして過酷な長時間労働までも強いられています。使命感・責任感などは、そういう状況に追い込まれて強制的に引き出されたものです。この「美談」の影に、ほくそ笑む病院経営者たちがいます。こうした手合いが「自己研鑽」などとインチキを恥ずかしげもなく公言しているのです。勤務医の使命感・責任感は、いいように利用されているわけです。

このことは、勤務医の自主性を踏みにじることであり、また、医道への冒涜に他ならないでしょう。
産業構造の変化に伴い労働者階級はインテリ化・知識労働者化します。全体的には雇い主の指揮命令下にありながらも、長い時間と努力によって血肉化した知識をもとに自分自身の判断で仕事を進める場面が多い知識労働者は、職務経験を積み成功体験を重ねるにつれて、ひとり親方・個人事業主的傾向を強めるようになります。そしてその過程で、人間存在を社会集団から孤立した存在と見なすようになり、「他人は他人、自分は自分」という観念・「彼我の断絶」という思い込みが増長され、「我々」意識が弱まって行きます。「自己責任論」はこの延長線上に存在する現象です。そして、社会の集団的・共同体的結束は分解して行くわけです。

労働者階級のインテリ化・知識労働者化→ひとり親方・個人事業主的傾向の深化及び「我々」意識の衰退→社会の集団的・共同体的結束の分解、という図式が考えられるのです。

新中間階級あるいは知識労働者の「自分の地位や財産は自分で築いたものだ」という認識は、「自分の成功は自分の努力にのみ拠るものだ」という意味で主観主義的というべきです。また、人間存在を社会集団から孤立した存在と見なすことは、人間の存在・人間の生命を個人的な側面からのみ捉える一種の「個人」主義と通底するものです。「個人」主義にはどうしても、人間を孤立した個人的存在と見なし、人間の生命を個人的な面からのみ捉える傾向があります。

実際のところ人間は、客観的な物質的条件にも制約され、また、集団をなして生活しています。いわゆる「個人」は社会システムの不可分な要素として組み込まれています。「個人」主義は、現実世界の実相と異なる「観念」に過ぎないと言えます。

現実世界の実相に反しているからこそ、「個人」主義はそもそも無理があります。社会システムの不可分な要素として組み込まれている個人が、システムを離れて生きることはできません。また、「自己研鑽」のインチキ理論に毒されて身を削って働いている勤務医や、「スキルアップ」が強迫観念化していたり「自己責任」論によって自分で自分を崖っぷちに立たせていたりする新中間階級の自己疎外された姿をみるに、「個人」主義は、自分自身のためにもなっていないように見受けられます。

■個人が「一抜け」する「待遇改善のための転職」という方法論の限界
待遇改善のための転職について述べておきましょう。個人が「一抜け」する方法論について私は一概には否定しません。労働問題について取り上げた記事で繰り返し、「嫌だから辞める」「無理だから辞める」路線の積極的な意義を認めてきました。しかし、これは緊急避難的な手法に留まるものであり常に有効な解決策ではありません。チュチェ109(2020)年6月28日づけ「コロナ禍に始まる不況下の「買い手市場」における労働者階級の自主化闘争について」で述べたように、個人の努力でカバーできる程度のことは、マクロ経済動向によっていとも簡単に引っ繰り返るからです。転職によって待遇改善を図るという手法は「売り手市場」においては圧倒的な戦果を挙げるものですが、不況の時代:「買い手市場」の時代や、新型コロナウイルス禍のよう経済活動が劇的に縮小するような緊急・異常事態においてはあまりにも無力です。

キム・ジョンイル総書記が『チュチェ思想教育における若干の問題について』(チュチェ75・1986年7月15日)において下記のとおり指摘されたように、社会システムに対してあまりにも小さく非力な存在である個々人は、集団をなし、集団の運命と自己の運命を一致させるときにのみ、自分自身の運命、自分自身の生活を守ることができます
社会的集団の統一をはかるからといって人間の自主性と創意性をおさえるならば、集団内の真の統一ははかれず、逆に人間の自主性と創意性を保障するからといって集団の統一を破壊するならば、個人の生命の母体である社会的集団の生命が弱体化され、個人の自主性と創意性そのものを保障することができなくなります。社会的集団の統一は、人間の自主性と創意性を高く発揮させることに寄与できるようにはかられるべきであり、人間の自主性と創意性は、あくまでも集団の統一をはかる枠内で実現されるべきです。これは、平等の原理と同志愛の原理を統一的に具現することによってのみ、個人の自主性と創意性を高く発揮させる問題と、集団の統一を強化する問題がともに解決されるということを示しています

■社会における産業構造の変化に乗じて「我々」意識を再興する思想工作・退陣活動を
「個人」主義に打ち克ち、社会をシステムとして共同体として再構築する必要、いわゆる「個人」を社会集団システムの不可分な一員として組織化する必要があります。「我々」意識を再興する必要があります。そうすることによって社会が空中分解の危機から救われるだけではなく、個々人も救われることになるのです。

その道筋については、上掲過去ログでも論じたように、フランスの社会学者E.デュルケム(1858〜1917)の社会変動論が参考になるものと思われます。デュルケムによると、社会的分業の進展によって各個人が相互に補完的な機能を受け持ち、社会連帯の形式が有機的連帯になってゆくといいます。個性を持つ個人が社会的役割を担い、相互補完的に依存し合うように社会が変化してゆくといいます(ひとり親方・個人事業主が活躍してゆく余地は縮小してゆくものと考えられます)。デュルケムは、社会は、社会的分業の進展に伴って有機的連帯による組織的社会に発展すると説いているのです。

社会における産業構造の変化は、一人ひとりの労働者たちをプチブル化しつつも、同時に一人ひとりの労働者たちを組織化してお互いの関係を有機的連帯に改変してゆくわけです。社会をシステム・共同体として再構築する展望はここにあると言えます。もちろん、キム・ジョンイル総書記が『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年1月3日)次のように論じられたように、社会制度の変化がそのまま直ちに人々の思想意識を変化させるわけではありません。
ところが一部の国では、国家主権と生産手段を掌握して経済建設さえ進めれば社会主義が建設できると考え、人びとの思想・意識水準と文化水準をすみやかに高め、人民大衆を革命と建設の主体にしっかり準備させる人間改造事業に第一義的な力をそそぎませんでした。その結果、社会主義社会の主人である人民大衆が主人としての役割を果たせなくなり、結局は経済建設も順調にいかず、社会のすべての分野が停滞状態に陥るようになったのです。
社会的分業の進展に伴う組織的社会への発展は、社会の集団的・共同体的結束を強める客観的条件を作り出すものと言えますが、客観的条件がそのまま直ちに主体の行動を変化させるわけではありません。積極的な思想教育、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興する必要が不可欠と言えるでしょう。

そして、この機を生かして積極的に思想工作、すなわち対人活動としての組織化を推進し、崩壊寸前の「我々」意識を再興すべきでしょう。

ここにおいては、チュチェ110(2021)年4月14日づけ「社会主義の実現のためには、嫉妬や欲望、個人的な好き嫌いといった感情的問題に正面から立ち向かう必要がある」で論じたように、嫉妬や欲望、個人的な好き嫌いといった感情的問題に正面から立ち向かい、そうした醜い現実を包摂した制度設計が必要になると考えます。

また、新型コロナウイルス禍を振り返るに、チュチェ109(2020)年7月8日づけ「新型コロナウィルス禍と集団主義の哲学的解明問題:キム・イルソン同志逝去26周年追悼」で論じたとおり、「公平性」を口実とした一種の自己中心主義、単なる利己主義が往々にして見られるところです。協同社会においては時に自己利益を我慢しなければならない局面があるものですが、ある種の手合いは、自分が我慢しなければならないことを以って「不公平だ!」などと宣うものです。こうした哲学レベルでの誤謬との断固たる思想・理論闘争が絶対的に不可欠であると考えます。

社会的分業の進展に伴う組織的社会への発展を推し進めつつ、主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観を克服するという総路線です。脱個人主義をなし、人々をして協同意識を獲得せしめるという道です。その過程においては、嫉妬や欲望といった感情的問題およびに「公平性」を口実とした一種の自己中心主義、単なる利己主義正面から立ち向かう必要があります。「公平性」とは何であるかということについて哲学レベルで理論武装する必要があります。

■身内エゴに凝り固まった利権集団化を避けるためにも脱個人主義・協同意識の獲得が必要
脱個人主義・協同意識の獲得は、第二に、労働運動において往々にして忘れられがちな「消費者」の存在への目配りにも繋がることで、単なる主人意識が堕落しかねない「身内エゴに凝り固まった利権集団化」を防ぐことにつながります。このことは、かつての国鉄の労働運動が大衆的支持を失って孤立していった歴史的事実を踏まえるとき、社会主義を志向するにあたって不可欠的に重要な意識です。

一企業の労使は顧客(消費者)との関係においては「一つの事業システム」であり、否が応でも「呉越同舟」の関係にあります。顧客・消費者置き去りの労使紛争は、「呉越もろともに沈没」という悲劇的な結末を迎えかねない危険な方法です。労働運動は、自分たちの待遇改善を目指す正当な権利追求ですが、やり方について熟慮しなければ、結局は自分たちの首を絞めることになるのです。

チュチェ思想国際研究所事務局長の尾上健一先生は『自主・平和の思想―民衆主体の社会主義を史上はじめてきずく朝鮮とその思想を研究し実践に適用するための日本と世界における活動―』において次のように指摘しています(p8)。
政権を奪取するまえの労働者たちの闘争課題は、賃金を上げることを中心とする労働条件の改善でした。労働者たちは政権につくまえは、社会主義思想を身につけていたわけでもなく、国家全体のことを考えたこともありませんでした。主に個人の要求を実現するためにたたかってきたため、運動の過程で民衆のことを思う気持ちは十分に形成されませんでした。
この点、チュチェ107(2018)年4月25日づけ「消費者には影響を及ぼさないタイプのストライキの原則的推奨と消費者直撃が例外的に正当化されるケースについて」、チュチェ108(2019)年2月2日づけ「労組運動に、より大きなスケールを意識した視点が定着しつつある吉兆」および同年12月5日づけ「利用者(消費者)にとっての利益と労働者の職業的矜持を両立している労組活動・生産の自主管理化を展望に収める労組活動」で取り上げたとおり、消費者にとっての利益と労働者にとっての利益・職業的矜持を両立する形の労働運動が展開されるようになってきています

社会主義建設段階においては、「資本主義社会の内部で協同経営化・自主管理化を目指す」という段階で直面する課題とは異なり、「身内関係を越える集団意識・『我々』意識の涵養」が新たに要求される課題であるといえます。その肯定的展望が既に見え始めています。

なお、キム・イルソン主席は重要著作:『資本主義から社会主義への過渡期とプロレタリアート独裁の問題について――党の思想活動部門の活動家に行った演説』(チュチェ56・1967年5月25日)において、社会主義革命段階における階級闘争と社会主義建設段階における階級闘争とを峻別されました。次のように指摘されています。
 社会主義革命を行うときの階級闘争は、ブルジョアジーを階級として一掃するための闘争であり、社会主義社会での階級闘争は、統一団結を目的とする闘争であって、それは決して社会の構成員を互いに反目し、憎みあうようにするための階級闘争ではありません。社会主義社会でも階級闘争を行うが、統一と団結を目的とし、協力の方法で階級闘争を行うのであります。こんにち、我々の行っている思想革命が階級闘争であるのはいうまでもないことであり、農民を労働者階級化するために農村を助けるのも階級闘争の一つの形式であります。なぜならば、労働者階級の国家が農民に機械をつくつて与え、化学肥料も供給し、水利化も行う目的は結局、農民を階級としてなくして完全に労働者階級化しようとするものであるからです。我々が階級闘争を行う目的は、農民を労働者階級化して階級としての農民をなくすだけではなく、かつてのインテリや都市小ブルジョアジーをはじめとする中産階層を革命化して労働者階級の姿に改造しようとするものであります。これが、我々の進めている階級闘争の主要な形式であります。
チュチェ思想国際研究所事務局長の尾上健一氏は、前掲書において次のように指摘しています(p9〜10)。
これまでの社会運動は対立物の闘争と統一の法則や矛盾論にもとづいていたため、対立や矛盾をさがしだすことが重要視されてきました。

新しい社会を担う人間を育てることに力をいれるよりも、敵を見つけていつも誰かを敵にしてたたかうことに関心がむけられたのです。

労働者が政権をとった新しい社会になってからも、労働者同士で対立する事態が生じました。なかまを信じられずたがいに協力しない社会が人間の理想社会といえるでしょうか。

(中略)
支配層にたいしてだけではなく、なかまや大衆にたいしても闘争対象とみる傾向があります。

対立物の闘争と統一の法則は、自然にたいしては部分的に適用されても、人間と社会に適用することはできません。

資本主義社会をこえてもっとよい世界をつくろうとするときに、対立物の闘争と統一の法則を適用することはむしろ弊害になります。
この指摘も重く踏まえる必要があると考えます。

■脱個人主義・協同意識の獲得における課題について
脱個人主義・協同意識の獲得における課題については、本年6月28日づけ「技能実習制度問題を解決する道は「移民労働者としての受け入れ」ではなく「協同化」」において箇条書き的に指摘したところです。

まず、根本的な問題として資本主義における協同化で問題が解決するのかということです。レーニンは『協同組合についての決議案』において、協同経営体は競争の諸条件に圧迫されているためブルジョア的な株式会社に退化する傾向があると指摘しました。この指摘は非常に重要なものです。不況・恐慌といった資本主義の危機においては、激化した競争環境が協同経営体をブルジョア的な株式会社に退化させることで協同経営体までもが労働者を搾取するという本末転倒的な事態にさえ至りかねません

協同経営を自然のままに任せるわけにはいかないと考えられます。もとより予定調和的な世界観は、現実世界の実相に反しているものと思われます。社会的分業の進展に伴って有機的連帯による組織的社会に発展するとすれば、個々の協同経営を組織的に調整する役割を果たす存在が必要でしょう。

調整役が具体的にどの程度まで個別案件に介入すべきかについては、実務的な匙加減の問題になります。このことについては、純粋な社会主義を掲げつつ個別の企業所等の現場裁量権を認めている、共和国の社会主義企業責任管理制などがその実践上のヒントになるものと考えます。

次に、とりわけ移民労働について考えたとき、協同経営において新参者の意見を古参勢が素直に受け入れられるかという問題があります。とりわけムラ社会的なメンタリティを引きずる日本文化においては深刻な課題になるでしょう。

第三に、ミヘルスの「寡頭制の鉄則」を踏まえて考えたとき、「経済における民主主義」としての協同経営においても組織の巨大化につれて官僚制化が進み、少人数の指導部による多くの一般成員の支配が完成してしまうという問題です。とくに警戒すべきは、すべての労働者が必ずしも自主性を高く持っているわけではないということです。

そして、プチブル化した労働者たちの思想意識の問題があります。この問題は、新しいようで古い問題です。20世紀社会主義が直面した農業の集団化・農民の協同組合への組織化と構図としては非常によく似ているからです。この問題については、共和国で現在実施されている甫田担当責任制のような、集団所有の枠内での個人実利の容認といった実務的な匙加減が非常に重要になってくると思われます。

■目的意識性が欠けている日本社会の現状
最後に目的意識性の問題について述べたいと思います。チュチェ思想国際研究所事務局長の尾上健一先生は前掲書において次のように指摘しています。(p15)
日本の社会変革をすすめるうえでも当面して重要な課題は、自主的な人間を育てることです。
人間の育成を先行しながら、人間中心の政治、経済、文化をつくっていかなくてはなりません。
資本主義か社会主義かという制度の問題よりも、まず人間を自主化し、日本を自主化していくことが重要です。社会制度の問題はその後で解決していくこともできます。
しかし、とりわけ新型コロナウイルス禍を巡って展開された日本社会の混乱っぷり(チュチェ110(2021)年5月30日づけ「新型コロナ禍と世相;「目的意識性の欠如」及び「認識の発展・理解の深化という観念の欠如」」)や、ロシアのウクライナ侵攻に関する世論(本年8月19日づけ「信念や意地に囚われ一時の激情から本土決戦一億総玉砕的な軽挙妄動に至りかねない日本においては、目的意識的な人間を育てることを優先する必要がある」)を振り返るに、この国においてはまず何よりも目的意識性を涵養しなければならないと言えないでしょうか?

キム・ジョンイル総書記の歴史的労作『チュチェ思想について』では、人間存在について「自主性、創造性、意識性によって人間は世界で最もすぐれた有力な存在となり、宿命的にではなく革命的に、受動的にではなく能動的に世界に対応し、盲目的ではなく目的意識的に世界を改造する」と指摘されています。意識性は自主性と創造性の担保になります。このような重要な属性が日本社会においては十分に育っていないように見受けられます。

チュチェ思想において人間の意識性とは、世界を認識し改造するすべての活動が合理的に行われるように構想し計画する性質であると定義されます(ハン・ドンソン『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』p59)。チュチェ哲学は、意識の本質を、人間に固有な自主的で創造的な活動を統一的に指揮する脳髄の高級な機能であると指摘しました。人間の自主的で創造的な活動は、生物学的運動とは質的に区別される高級な運動です。このような人間に固有の高級な運動を指揮する人間の脳髄の高級な機能が意識なのです(同書p61-62)。

意識には、内外からの情報を受け入れて認識する機能、人間の行動を計画する機能、計画にそって人間の行動を調節統制する機能などがあり、また、大きく思想意識と知識に分かれます。思想意識は、人間の要求と利害関係を反映したものであり、知識は、客観的対象そのものを反映した意識です。客観的対象の本質と法則性、それを改造する方法を内容としています(同書p63)。

思想意識と知識は深く連関しています。人間の要求と利害関係を反映した思想意識は、知識の形成とその利用の方向性を規定します。他方、客観的対象の特性を反映した知識は、正しい思想意識の前提、基礎となります。鎌倉先生も次のように論じます(「社会主義の理念は普遍である」『キムイルソン主義研究』第123号、p60〜61)。
客観的存在といってもさまざまな要素があり、現実の何を反映しているのかをよくみていかなくてはなりません。

人間の意識は客観的存在によって規定され影響を受ける側面があるのは事実ですが、人間はそれを一旦、自分が受けとめます。その上で、この現実に即した生き方で良いか悪いかという善悪の判断、この方向でいくかいかないかの選択が働きますが、そこには主体が関わってきます。

(中略)
現実の存在のどこをどのように反映するかによって、人々の意識、思想は違ってきます。人間にとって何が一番大切なのかということは客観的存在だけから規定されるわけではありません。行動の方向や人生の目標を決めていく意識は客観的存在から自動的に出てくるわけではないのです。

人間にとって一番大切なことは、お互いの共同連帯関係をきずくということです。共同連帯関係のなかでしか人間は生きられませんが、現実から自然発生的にそのような意識が形成されるわけではありません。とくに資本主義社会では、利己主義的な思想が蔓延していますから自然には連帯する意識は身につきません。
日本社会の自主化にあたっては、まず何よりも目的意識性を涵養しなければならないという重大な課題が存在していると言えるでしょう。

■総括
主人意識の獲得と脱個人主義・協同意識の獲得そして目的意識性の涵養という3つのテーマを切り口として社会主義建設の主体としての「人間」の育成問題に取り組む――ロシア革命によって誕生したソビエト政権の失敗を乗り越え、ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、キム・イルソン主席によって開拓されキム・ジョンイル総書記そしてキム・ジョンウン総書記に引き継がれている社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道であると考えます。
ラベル:チュチェ思想
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