2022年12月31日

チュチェ111(2022)年を振り返る(3):生活の匂いに満ち、社会主義的競争がますます洗練されている現代主体的社会主義を学び、日本の自主化に繋げるために

毎年恒例の年末総括記事です。朝鮮民主主義人民共和国の動向及びチュチェ思想について、今年1年間当ブログで執筆した内容と関連事項を振り返りたいと思います。

■生活の匂いに満ちた現代主体的社会主義
当ブログでは昨年末の総括記事において、「首領と人民大衆との繋がりを強化して危機を克服する一年」であり「戦時統制的な経済政策を採用なさらなかった」こと、及び「革命家の経済から普通の人の経済へ、超人的な人たちがつくる社会主義ではなく普通の人たちがつくる社会主義への移行期」であると指摘しました。今年はこの方向性がさらに鮮明に現れたものと考えます。

12月6日づけ「子どもたちの笑顔や未来を守るために・・・朝鮮労働党の厳粛な宣言」では、国家核武力完成宣言から5年の節目を目前に控えた11月20日に、党機関紙『労働新聞』が掲載した政論を取り上げて分析しました。当該記事でも書いたとおり、当該政論は、核開発と民生向上とをリンクさせた表現と「子ども」に対する言及が何度か見られたことが特徴的でした。国家核武力開発が、民生の中でも特に子どもたちの笑顔や未来のためであるという位置づけが強調されていたのです。

「子ども」に対する言及から私は、将軍様執権下、先軍政治時代の宣伝とは異なる印象を受けました。先軍政治時代の革命的ロマン・歴史ロマンに満ちた宣伝も意義深いと思いますが、私は、「子どもたちの笑顔や未来を守るため」といった生活の匂いに満ちた現在の宣伝は、現代主体的社会主義の真髄が非常によくあらわれていると考えます

新型コロナウィルス禍が始まって3年目になった今年。共和国の社会主義建設にとって非常に困難な局面は続いています。また、米南両軍の脅威も引き続き高度なレベルで存在し続けています。しかし、それでも元帥様は戦時統制な方法論は採用せず、また、民生も重視しているという姿勢を引き続き示し続けていらっしゃいます。いま共和国は、個人や企業の個別的な利益を保護する法制度を整備しつつ、同時的に共産主義の旗印を再度掲げ始めています。社会主義企業責任管理制をはじめとする近年の経済的制度改革の実践例を見るに、これは「20世紀の共産主義」の復活;改革の後退ではなさそうに見受けられます。戦時統制的な経済政策とはまったく異なる、非常に興味深いことが今起こりつつあるのです。

■「社会主義中小企業」によるイノベーション――社会主義的競争がますます洗練されてきている
1月30日づけ「こんにちの朝鮮民主主義人民共和国の経済にかかる3題・・・社会主義的競争、社会主義的イノベーション、嗜好品への注目」では、「従業員たちに先進科学技術を正しく普及し、働きながら学ぶ教育体系に網羅させ、技術革新のために必要な条件を保障するなどの事業が進め」ているピョンヤン建具技術交流社が、「専門会社でも大企業でもない」のにもかかわらず、「ピョンヤンの1万世帯住宅建設現場をはじめとする重要な建設現場に多くの建設資材を送」ったというニュースを取り上げました。専門会社でも大企業でもないピョンヤン建具技術交流社におけるイノベーションは、共和国における「社会主義中小企業」によるイノベーションであると言えます。

以前から当ブログでは、元帥様執権下で洗練されつつある社会主義的競争の動向について取り上げてきましたが、「社会主義中小企業」によるイノベーションは、社会主義的競争がますます洗練されてきていることを示していると考えます。

かつてシュンペーターは、中小企業家がイノベーションの担い手であるとしつつ、次第に大企業化・官僚化し最終的に「社会主義」になるとしました。しかしこんにち共和国において展開されている社会主義企業責任管理制による個別企業所の経営独立性、社会主義中小企業によるイノベーションの展開を踏まえるに、シュンペーター理論は一定の修正が必要であるのではないでしょうか。それくらい私はこのニュースに注目しました。

■朝鮮人民の潜在力がこのタイミングで引き出された要因は、指導者の仁徳と政策
2月27日づけ「先軍革命のよき遺産」では、朝鮮人民軍将兵たちが、元帥様が特に目をかけていらっしゃるリョンポ温室農場の建設に動員されていたという朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』記事を取り上げました。先軍政治の頃から軍人の経済建設への動員はたびたび取り上げられてきましたが、かつてはインフラなどの建設工事への動員や、あるいは、ジャガイモ農場への派遣といった文脈であることが多かったように記憶しています。

もちろん、そうした軍人労働力の投入も非常に重要なことですが、今回、温室農場建設に人民軍将兵が投入されたというニュースは、かつての軍人労働力の投入とは意味合いが違っているように思われます。すなわち、インフラ整備に一定の目途がつき、急場しのぎとしてのジャガイモ生産の段階を脱したという良い知らせであると解釈できるでしょう。

5月25日づけ「防疫大戦において朝鮮式社会主義の真価が発揮されている」では、新型コロナウィルスとの戦いについて、「一人一人の人民の生命は何よりも貴重であり、全人民が健在で、健康であってこそ、党もあり、国家もあり、この地のあらゆるものがあるというのが、わが党の確固たる信条」という朝鮮労働党機関紙『労働新聞』の社説を取り上げました。

このことは、まさに朝鮮労働党が結党以来掲げてきたことであります。そして当該記事でも書いたとおり、核武力の完成など国防上の懸念に解決が見られたがゆえに、ようやく朝鮮労働党結党以来の確固たる信条が何らの妨害要素もなく掲げられるようになったというべきなのです。

年末総括記事らしく、2月27日づけ記事と5月25日づけ記事を総合してみましょう。今年共和国は、国防、インフラ建設、そして急場しのぎのジャガイモ生産などに一段落がついたと言えると考えます。ようやく朝鮮労働党が、その確固たる信条を実現させるために注力できる基盤が整い、生活の質向上に直結する農業振興に集中できるようになったのです。

このことが、コロナ禍のさなかに起こったことは特筆的なことです。非常に厳しい客観的条件の中で自力を発揮したわけです。日常生活でも体験し得ることですが、「他人をその気にさせて何かを行わせる」ということは非常に難しいことです。為政者が呼びかけたとしても、必ずしも人民大衆が呼応するものではありません。朝鮮人民の潜在力がこのタイミングで引き出された要因には、元帥様の仁徳という道徳的刺激もあるでしょうし、社会主義企業責任管理制による物質的刺激もあったものと思われます。指導者の卓越した仁徳と政策にあるのです。

■プロパガンダと侮るなかれ。この世には、プロパガンダさえマトモに打てないアベ・スガ・キシダがいる。
9月9日づけ「以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムで新型コロナウイルス禍を克服した朝鮮民主主義人民共和国」では、元帥様そして朝鮮労働党の、人民ひとりひとりを貴重に見なす以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムについて考えました。社会政治的生命体の真髄というべきものです。

元帥様の建国記念演説を「プロパガンダ」として切り捨てることは非常に容易いことです。しかし、当該記事でも書いたとおり、日本を見てみると、アベ・スガ・キシダは、あれだけ「リーダーの発信が弱い」「国民に寄り添っていない」と批判されてもなお、その言葉は元帥様のお言葉の足元にも及びません。アベ・スガ・キシダは、オツムをフル回転させても人心に訴えかける感動的な発言を思いつくことさえもできないのです。特にキシダが無意識に発する「あー」「えー」は、「お前ら低学歴・低所得の庶民には何て説明したら分かるかなー」と言わんばかりに他人を小馬鹿にする響きが込められているように私には聞こえます。キシダの演説はアベ・スガのそれとは比べ物にならないくらい不愉快です。

アベ・スガ・キシダの醜態と比べるに、人民ひとりひとりを貴重に見なす以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムは、常日頃から思索を巡らせていなければ俄かには口にできないものだと言えます。政治宣伝要素を差し引いてもなお、元帥様そして朝鮮労働党が以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムを思想として持っているというべきなのです。

■共和国では、社会と自然と自分自身の主人としての主体的人間たちが生きている
「国家百年の計」とよく言われるように、政治家は目の前の現実に対応するだけではなく長期的な視野・歴史的な視野からも総合的に物事を判断する必要があります。一時的な不便があったとしても長期的な展望に立てばこそ歯を食いしばらなければならない場合というのは当然あるものです。短期と長期との両方に配慮するにあたっての匙加減は非常に難しいものであるだけに、政治判断は「大義重視・生活軽視」に陥りがちなものです。これに対して、たとえ宣伝の要素が強いにしても、元帥様のひとりひとりを大切にする以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズムは特筆すべきものと考えます。

元帥様の以民為天の政治観・社会主義的ヒューマニズム、社会政治的生命体の真髄を体現するその政治姿勢は、人民大衆に対して社会政治的生命体において如何に生きるべきかの範を示しています。当該記事でも書いたとおり、新型コロナウィルス禍において日本社会では、「お客さま」意識が奇形的に肥大化し、政治や行政に対するクレーマー的騒ぎが展開されましたが、これに対して共和国では、多くの人民が「自分事」として国家的な防疫事業に積極的に参画しました。

共和国では、党と政府が74年の歳月を掛けて教育的に形成してきた、社会と自然と自分自身の主人としての主体的人間たちが生きています。

■共和国の無尽蔵な力の秘訣とは
11月23日づけ「世界に先駆け人類の理想社会:共産主義社会を実現することを現実的な課題として掲げている共和国」では、朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』編集長である金志永氏による、共和国の無尽蔵な国力の秘訣を解説する記事を取り上げました。

非常に勉強になる金志永氏の解説です。共和国の無尽蔵な力の秘訣として記事で金志永氏は、徹底した人民性・思想の唯一性・揺るぎない自立性・一貫した継承性の4項目を挙げています。

徹底した人民性は、社会のあらゆる階層に党組織が深く根付いていることと関係しているでしょう。社会が高度に組織化しているからこそ民衆の意見を集約し得るのです。これに対して、日本のように社会の組織化が不十分で個人がバラバラになっていると、民衆の意見を吸い上げようがありません。

思想の唯一性については、昨今の「多様性」談義の悪しき影響によってソフィスト的相対主義が幅を利かせており、また、フェイクニュースやヘイトスピーチと言論の自由とが混同されるくらい思想的な混乱の極みにある日本言論空間では理解しにくいキーワードでしょうが、当該記事でも私見として書いたとおり、ここでいう思想の唯一性とは、人民的な政治を貫徹するという意味であると理解すべきでしょう。

揺るぎない自立性のためには自立的民族経済の建設が必要になります。資本の利益を代表する資本主義政権は、国家の揺るぎない自立性を十分に確保・実現させることはできないものと思われます。なぜならば、貿易理論を部分的・意図的に無視して自国生産するわけですから、国際化した資本の利益には必ずしも一致するものではないからです。ここに社会主義の優位性があるものと考えます。

一貫した継承性にかかる金志永氏の説明は、改めて注目に値し学習すべきものです。首領の代替わりは組織領導体系と思想体系の引き継ぎでもあるということです。

徹底した人民性・思想の唯一性・揺るぎない自立性・一貫した継承性の4項目ゆえに共和国では、社会の混然一体・自力更生の伝統・集団主義の気風が確立しているといいます。そしてこのことは、資本主義では必ずしも実現できるものではないといいます。まさにここにこそ、政権の性質の違い、つまり社会主義の優位性があるといえるでしょう。

当該記事でも私見として述べたとおり、元帥様のお言葉として引用されている「私たちが理想とする社会主義強国は、すべての人民が衣食住の心配を知らず、無病息災かつ安らかで仲睦まじく暮らす社会、互いに助け合いながら喜びも悲しみも分かち合う共産主義的美徳と美風が発揮される人民の社会」という社会像は、社会的存在としての人間の本性に合致した社会であると言えます。社会主義社会で生きるときにこそ、人間は自然体で生きることができるものと考えます。現代資本主義の競争至上主義は、人間同士がお互いを高め合う切磋琢磨の域を逸脱しており、不自然であると言わざるを得ないと考えています。

チュチェ思想は、人倫・人間性の回復を掲げた初期マルクスの問題意識と通底していると考えます。マルクス・エンゲルスは史的唯物論の確立以降、疎外論に直接的な言及を加えることが徐々に減ってゆき、史的唯物論の更なる体系化と後代による継承の結果、初期マルクスの疎外論的な問題意識は「若気の至り」扱いされるようになってしまいました。社会政治的生命体論は、初期マルクスの疎外論的な問題意識を現代によみがえらせたという意味で思想史的な意義があると私は考えています。

■『我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について』を学び直す
やはり私は社会主義にこそ人類の未来があると考えます。当ブログが朝鮮民主主義人民共和国に注目している理由の一つとして、チュチェ思想を日本社会で具現化することによって日本の自主化を目指したいというところにあります。ここからは共和国本国の情勢からは少し離れて、私なりに考えた社会主義について振り返りたいと思います。

9月20日づけ「「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」50年」では、首領様が日本の『毎日新聞』記者と会見し、のちに「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」(チュチェ61・1972年9月17日)としてまとめられる重要労作を発表なさってから50年の節目となる日を記念して、『我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について』を学習しました。

当該記事でも書いたように、日本の現状に合致したチュチェ思想の活用が必要です。私は将来的には日本においても社会政治的生命体を形成することを目指すべきと考えますが、革命的同志愛と義理心に基づいた道徳義理的団結の実現条件が、ブルジョア「個人」主義が蔓延している現代資本主義社会において存在しているとは到底思えません。他方、チュチェ思想も一つの思想である以上は、その枠内に収まるとして許容できる解釈と逸脱として判断しなければならない解釈の問題がどうしても生じます。チュチェ思想の本質は何であるかという理解のもと、自分事として日本社会を分析してその変革の道を探る必要があるのです。

未来社会追求においては「立ち遅れている」日本人は、チュチェ思想の深奥なる世界から自分たちに必要な内容を、その本質を踏まえながら自分たちの頭で考えて拾う必要があるわけです。チュチェ思想の本質を踏まえて逸脱を戒めながら、立ち遅れた日本社会の現状に合致した内容を拾うとするとき私は、首領様が50年前に発表された「我が党のチュチェ思想と共和国政府の対内対外政策のいくつかの問題について」は、まだ共和国においても社会政治的生命体の形成途上であった時期の労作であるだけに、非常に参考になるものであると考えます。

詳しくは是非とも当該記事をお読みいただきたいのですが、要約すると次のとおりになります。
・社会変革における主語は「人民大衆」であるということ。
・「自主的である」とは、社会に参画をし社会を協同して運営しているということ。
・人民大衆の諸活動は「生活」を目的とすべきであるということ。
・人間は物質的基礎に規定されて生存する存在であると同時に、その物質的基礎を自ら創造・改造してゆく存在でもあるということ。
・そうであるがゆえに人間の教育より重要なことはないこと。


いずれも、現代日本の常識に照らしたとき、それほど違和感を感じるような内容ではないと思われます。これは、チュチェ思想は人民大衆の革命運動のさなかに形成され体系化されたものなので、突飛な発想ではないためです。日本は、50年前の首領様の労作から拾えるものを拾うことから始めるべきであると考えます。

■なぜ「社会主義」が、そもそも「社会主義」とは何か
11月20日づけ「ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道について」は、ロシア革命105年を記念し、私なりに考えてきたことのまとめ記事の体裁を取りました。

まず、「社会主義」とき何であるかを固めました。

チュチェ思想派として私は、「社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会政治的生命体を形成するための運動である」とした上で、「社会的政治的生命体の内部において人々は、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的な一心団結をなしてい」るものであるとしました。より正確に言えば、同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的な一心団結をなしているのが社会的政治的生命体です。この人間関係は、「自由と平等」を前提としつつもそれよりも一段高みにある関係性であり、社会的存在としての人間が幸福に生きる人生観を基礎付けるものであると私は確信するものです。

資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保障にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、同志愛と革命的義理の関係性が実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、極めて難航しています。

資本とは自己増殖する価値のことですが、資本主義とは価値増殖を経済活動の最大の目的とする社会制度をいうものです。資本主義経済はそれゆえに、常に需要を創出し続ける必要があります。資本主義経済は、人間の物質的欲望を強引に刺激することで物質生活を餓鬼道的に奇形化する一面があります。

人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が同志愛と革命的義理心に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。修正資本主義的対応では足りず社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要になります。チュチェ思想の立場から申せば、「社会から疎外されて孤立する人をなくすこと」や「物質生活とそれ以外の生活のアンバランスを是正すること」が資本主義に対する社会主義の優位性であると言えます。

■社会主義建設におけるソビエト政権の根本的誤り
次に、社会主義建設におけるソビエト政権の根本的誤りを将軍様の労作『社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線』(チュチェ81・1992年1月3日)および労働新聞掲載の論文:『社会主義は科学である』(チュチェ83・1994年11月1日)ならびにマルクス経済学者である鎌倉孝夫先生の記事から考えました。

詳しくは当該記事をお読みいただきたいのですが、端的に言えば、ソビエト政権が俗流的・スターリン流に唯物史観を理解したところに誤りがあると言えます。そして、唯物史観にはもともとスターリン流に解釈し得る余地があるとも言えるのです。

当該記事でも書いたとおり、私は、すべての事象を「人間」というフィルター越しに見、すべての事象を人間との関係に結び付けて考えるくらいの姿勢が必要だと考えます。教条主義者によると人間の意識性を重視するチュチェ思想は「観念論」ということになるようですが、そもそも「生産力」とはその本質において自然を改造する人間自身の力であり、生産力の発展とは人間の発展に他ならないものです。

■主人意識の獲得
すべてを「人間」というフィルター越しに見る姿勢で現代日本を考えたとき、主人意識の獲得脱個人主義・協同意識の獲得そして目的意識性の涵養という3つのテーマが浮上してくると考えます。これを現実のものにするために物質的・制度的な諸条件を整備する必要があります。

主人意識とは、「自分の運命は自分で決める」という意識です。他力本願になり他人の指揮棒に従うのではなく自らの運命の主人として主体的に生きるということです。他人がいつも善意で指揮棒をふるうとは限らないものです。このため、主人意識の獲得が重要になります。

主人意識の獲得については、本年10月1日づけ「消費者がアーティストを搾取し芸術界に株式会社形態が侵食する反面、分配をめぐる自然発生的な問題提起が上がり初期協同社会を構想するにあたって人類史的な意義を持つ労働者協同組合が歴史的な日を迎えている・・・時代は着実に前進している」で書いたとおり吉兆は見えてきたものの、日本社会の他力本願っぷりは新型コロナウィルス禍において嫌というほど見せつけられました。吉兆は見え始めたとはいえ、総体的にはまだまだ厳しい状況が続いていると言わざるを得ないところです。

日本社会を覆っている他力本願の要因について、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化が底流にあると考えられます。現代では社会的分業が徹底的に専門細分化・市場化されたことにより、「カネさえ払えば後はすべて丸投げ」が当然になっています。消費者・需要側は、自分の都合を並べ立てて業者・供給側丸投げすることが当然のことになりました。「お客さま」意識が奇形的に肥大化しています。そしてここに、前近代時代から中途半端に残る「御上が何とかしてくれるはず」という意識が混ざり込むと、もはや自分自身が能動的に動こうとする意識は芽生えもしなくなると考えられるのです。

社会的分業の徹底的な専門細分化をやめることは非常に困難なことであり、これを所与の条件として新たに戦略を立てる必要があります。当該記事ではデュルケムの社会学理論を導入しました。デュルケムが予言した社会変動に応じて積極的な思想教育、すなわち対人活動としての組織化を推進する必要が不可欠と言えるでしょう。来年以降は、更にこの点を考えてゆきたいと思っています。

■脱個人主義・協同意識の獲得
脱個人主義・協同意識の獲得。これは、主人意識を現実のものにするために重要な意識であると同時に、システムとしての客観世界において自他を救う重要な意識です。また、単なる主人意識が堕落しかねない「身内エゴに凝り固まった利権集団化」を防ぐことにつながるとも考えられます。かつての国鉄の労働運動が大衆的支持を失って孤立していった歴史的事実を踏まえるとき、社会主義を志向するにあたって不可欠的に重要なことです。

当該記事で取り上げたとおり、「自己研鑽」のインチキ理論に毒されて身を削って働いている病院勤務医や、「スキルアップ」が強迫観念化していたり「自己責任」論によって自分で自分を崖っぷちに立たせていたりする新中間階級の自己疎外された姿をみるに、「個人」主義は、自分自身のためにもなっていないように見受けられます。

もとより社会システムに対してあまりにも小さく非力な存在である個々人は、集団をなし、集団の運命と自己の運命を一致させるときにのみ、自分自身の運命、自分自身の生活を守ることができます。個人主義を脱して協同的に生きることは、社会が空中分解の危機から救われるだけではなく個々人も救われることになるのです。

協同化における課題については、6月28日づけ「技能実習制度問題を解決する道は「移民労働者としての受け入れ」ではなく「協同化」」で洗い出しました。すなわち、(1)協同経営体がブルジョア的株式会社に退化する可能性(2)ムラ社会的なメンタリティを引きずる日本文化が新参者の「ガイジン」を受容するか(3)すべての労働者が必ずしも自主性を高く持っているわけではない(4)新しいようで古い労働者のプチブル化です。このことについても来年以降、さらに深めてゆきたいと考えています。

■目的意識性
目的意識性の問題については、新型コロナウィルス禍を通して日本社会においては非常に深刻な状況にあると言えます。通常、チュチェ思想では自主的な人間を育てることを重視し、その筋で教育を展開するものですが、日本においてはまず何よりも目的意識性を涵養しなければならないと考えます

チュチェ思想において人間の意識性とは、世界を認識し改造するすべての活動が合理的に行われるように構想し計画する性質であると定義されます。当該記事ではチュチェ思想の文献をもとに人間の意識性について基本的な理解をおさらいしました。今年はこれをもとに更に目的意識性の涵養について考えてゆきたいと思います。

また、人間の意識性の解明は、いま流行りの人工知能時代の倫理問題を考える上でも避けて通れない問題です。チュチェ思想の理解を更に深め、また、当ブログがより皆様の知的刺激の一助になるためには、最新の話題をフォローする必要があると考えています。もともと個人的に興味を持っている分野なので、少しずつ幅を広げてゆきたいと考えています。

■総括――だからこそ社会主義を目指したい。目指す必要がある。
チュチェ思想の実践を通して日本の自主化、そして社会政治的生命体の構築を目指す立場として日本社会の現状を分析した記事として今年、当ブログでは、2月12日づけ「現代資本主義社会を主体的に乗り越えるためには究極的には人生観問題に取り組む必要がある」、2月19日づけ「新型コロナウィルス禍は、ウィルスとの闘争であると同時にブルジョア利己主義との闘争でもある」、および5月31日づけ「掛け金を払えなければ医療費を工面できないアメリカ社会への疑問・異議が見られず、個人の自衛手段としての民間保険への加入の重要性ばかりが強調される日本世論の徹底的な「個人」主義化の現状」を執筆しました。

これらの記事を総括すると、日本社会は余りにも金銭万能主義および「個人」主義が進み過ぎていると言えます。金銭万能が行き過ぎるあまり、稼ぐ力が人格を評価する物差しとなっており、また、「金の沙汰が命の沙汰」であることへの違和感や拒否感が弱まっています社会はシステムであるという理解がスッポリと抜け落ちており、「他人は他人で自分は自分。何の関係もない」という観念が横行してもいます。新型コロナウィルス感染症という公衆衛生の重大問題に直面しつつも、かかる「個人」主義が矯正されないというのは相当深刻なことです。

それでも私は、いやむしろ、そうだからこそ私は、社会主義を目指したい。目指す必要があると考えます。

主人意識の獲得と脱個人主義・協同意識の獲得そして目的意識性の涵養という3つのテーマを切り口として、社会主義建設の主体としての「人間」の育成問題に取り組むことは、ロシア革命によって誕生したソビエト政権の失敗を乗り越え、ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、キム・イルソン主席によって開拓されキム・ジョンイル総書記そしてキム・ジョンウン総書記に引き継がれている社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道であると考えます。
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チュチェ111(2022)年を振り返る(2):ウクライナ情勢を振り返って・・・「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」および「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」などについて

毎年恒例の年末総括記事です。ウクライナ情勢を巡って2回に分けて総括しており、この記事はその2回目です。1回目は「チュチェ111(2022)年を振り返る(1):ウクライナ情勢を振り返って・・・生身の人間の生活を軽視と卑劣な他力本願の世論動向・報道姿勢、無残な敗北を喫する可能性がある台湾・沖縄有事、ジャーナリズムの危機が深刻化する日本メディア」です。

■「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」および「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」
「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」という世論動向についても改めて振り返っておきたいと思います。これは「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」という行動に直ちに現れる思考回路です。

何度繰り返しても強調しすぎることではないと思います。3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」でも述べたとおり、この戦争の最初期は具体的な戦況が非常に貧弱で、「国際社会」の反応だの反戦デモがあっただのという本筋ではない部分の報道ばかりが氾濫していました。さしづめ、「ロシアは悪い国なんですよ。その証拠にほら、世界の人たちは挙ってロシアを非難しているではありませんか」という世論喚起だったのでしょう。事実から出発するのではなく単純な二項対立的な構図から出発する、特に現実を「善悪」の次元で構図化することから始めるのが日本的思考なのです。

当該記事では侵攻開始から1週間以上たった3月4日になってやっとプーチン大統領の開戦演説(2月24日)がNHKニュースで全文和訳されたことを取り上げました。1週間以上も「ロシアの動機」が十分に顧みられなかったのです。

停戦および終戦のためには両国の動機をフォローする必要があるはずです。動機がなくならない限り停戦や終戦が実現しても遠からず戦火が再び燃え出してしまうからです。それゆえ、「ロシアの動機」に接近せずに「ロシアの出方」を探るというのは到底不可能なことと言ってよいでしょう。これでは解決するものも解決しなくなってしまいます。ロシアの侵攻動機を踏まえて対処しない限り、結局は殺るか殺られるかの二択しかなくなってしまいます。日本の勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立および「悪党」の主張には一切耳を傾けないからは、「力の信奉」しか導出されえません

しかし、われらが日本世論は、その勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立および「悪党」の主張には一切耳を傾けないゆえに、ロシア側の事情を一顧だにせずウクライナに徹底抗戦を「求める」発言が開戦以来、引き続き氾濫し続けています。国際社会が「戦争をいかに終わらせるか」に関心を寄せている昨今においても、未だにその傾向は続いているのです。

このような「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」そして「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」の必然的結果として、日本世論は本土決戦・一億総玉砕的な泥沼に嵌り込みました

8月19日づけ「信念や意地に囚われ一時の激情から本土決戦一億総玉砕的な軽挙妄動に至りかねない日本においては、目的意識的な人間を育てることを優先する必要がある」では、作家である佐藤優氏の「価値が肥大すると、ろくなことが起こらない(中略)人間は、観念や思想で死ぬことができます。日本軍がなぜ玉砕を好んだかというと、殲滅の思想しかなかったためです。退却や撤退を価値の外に置いたせいで、相手を殲滅できない状況になれば、被殲滅すなわち玉砕戦術しか取りえません」という指摘に対するヤフコメの「佐藤氏のいうことは、とどのつまり、ゼニと力の前では、自分の意地と信念を捨てろということか(中略)損得はある程度犠牲にしても信念を徹すことも大事だと思う次第」という、典型的な藁人形論法を批判しました。

佐藤氏は「ゼニと力の前では、自分の意地と信念を捨てろ」などとは一切述べていません。佐藤氏に激しく反発する当該コメ主ですが、平和な自室においてさえ冷静な判断ができていないようでは、「損得はある程度犠牲にしても信念を徹す」などと大見得を切っていますが、肝心かなめの「ある程度」が具体的にどの程度なのか見極められるとは到底思えないものです。佐藤氏が懸念する「価値が肥大すると、ろくなことが起こらない」という実例に自らなっています

ウクライナ軍の9月攻勢が十分とは言い難い結果に終わってからというもの、「ウクライナの勝利」という戦争の終結像に悲観的な意見が力を増すようになりました。10月9日づけ「イーロン・マスク氏の「ウクライナは勝てない」発言に対する日本世論の反応から見えてくるもの」で取り上げたイーロン・マスク氏の「ウクライナは勝てない」発言は、当時その代表的なものだったと言えます。日本世論はこの発言に嚙みついたものでした。

イーロン・マスクという人物は、良くも悪くも本音ベースで物事を語るお方なので、しばしば物議を醸す発言をされる方です。「ウクライナは勝てない」発言はその典型だったと言えます。マスク氏の発言について日本世論は、「それを認めてしまったらそれを守るために戦って命を落とした兵士と国民が完全に無駄だったことになってしまう」といった具合に批判を加えたものでした。どつぼに嵌り込んだ人の典型的な発想というべきものです。日帝も最後はこれで身動きが取れなくなり、原爆を落とされた上に満州・朝鮮をソ連軍に攻められ、どうにもならなくなって無条件降伏という末路を辿りました。

また、日本世論は、マスク氏が世界的実業家であることと関連して「ビジネスや経済視点から考えればそうなんだろうが」だの「マスク氏は経済人。経済的な視点はある一線を超えた場合は意味はない」などと宣ったものでした。しかし、そもそも戦争というものは「敵を滅ぼし自分自身を保存する」という究極的目標において、極めて合理的・打算的に行わなければならないものです。「採算」が取れないなら戦闘行為を伴う戦争はしない、これは当然のことです。

最も合理的・打算的に行わなければならない戦争において、「ビジネスや経済視点から考えればそうなんだろうが」だの「マスク氏は経済人。経済的な視点はある一線を超えた場合は意味はない」だのとマスク氏に唾を吐きかけるような非常に危険な発想からは、戦争というものの基本的な位置づけがそもそも日本においてはズレていることを示しているように思われます。

さらに、マスク氏の発言について「ウクライナは勝てないではなく勝たなくてはならないなのだ」などという非常に日本的な主張もヤフコメに飛び出してきました。マスク氏の≪This is highly likely to be the outcome in the end – just a question of how many die before then≫という主張に対して「ウクライナは勝てないではなく勝たなくてはならないなのだ」は、反論になっていません

「できるの?」「すべきなんだ!」「いや、だから『できるの?』って聞いているの」という不毛なやり取り。マスク氏の見立てが必ずしも正しいとは言い切れないものですが、しかし、落ち着いて考えれば少なくとも「話が嚙み合っていない」ことは直ちに分かるはずのところ、反論として成り立っていないヤフコメを投稿してしまう、そんなヤフコメに「いいね」クリックが集まってしまうあたり、一部世論は泥沼に嵌り込み、冷静さを失っているとはいえそうです。

■現実を正しく認識することを妨げる「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」という構図化
「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」という構図化は、西側諸国の結束が乱れている現状においては、現実を正しく認識することを妨げています。

12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(2)」で指摘したように、12月に入るとバイデン・アメリカ大統領が「停戦交渉」に言及するようになりました。主戦論が後退しつつあります。しかし、日本メディアは戦争の趨勢を占う上で重要な報道であるはずのところ、あまり積極的に取り上げようとしませんでした。

なぜこんなことになったのでしょうか? 「ロシアは孤立している」という見立てとは全く異なる事実を日本メディアとしては今更報じることはできないからでしょう。事実から出発するのではなく単純な二項対立的な構図から出発する日本的思考のため、徐々に利害関係が複雑に入り組む現実を正しく理解できなくなってしまうのでしょう。その結果、単純な二項対立的な構図では説明しえない事実を無視するしかなくなるのでしょう

「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」の思考がもっとも醜悪な形で表れたのが、ウクライナ軍の迎撃ミサイルがポーランド領内に着弾し人的被害が発生した11月の事件を巡る日本メディアの報道でした。

12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(2)」で取り上げたとおり、ゼレンスキー大統領は早々に「ロシアによる北大西洋条約機構(NATO)の集団安全保障への攻撃だと非難し「行動が必要だ」」などと述べた(「ポーランド着弾で行動必要とゼレンスキー氏」国際 | 共同通信 | 2022年11月16日(水) 08:13)が、バイデン大統領はロシア軍のミサイル説をほぼ即座に否定。ゼレンスキー発言に乗る人は誰もいませんでした。

このことについて東野篤子・筑波大学教授は、11月16日正午のNHKニュースで「若干、勇み足的な発言ではなかったのかと個人的に考えています」と宣い、同日の「ニュースウオッチ9」で合六強・二松学舎大学准教授は「勇み足だった。情報が確定していない段階でこういう発言をしてしまった」と述べました。翌日の「キャッチ! 世界のトップニュース」は、ゼレンスキー発言を「NATOに軍事介入を求めたと受け取れる発言」と位置づけ「やや勇み足の発言」としつつ、加えて「ウクライナの生命線である国際的な信頼を失わないためにも、こういうときこそ透明性のある調査を徹底して行い、責任ある態度を示せるかが問われています」などと苦言を呈しました。

ポーランドはNATO加盟国です。下手をすれば第三次世界大戦の開戦に至りかねないゼレンスキー大統領の危険な見切り発車発言を、「軽挙妄動」ならまだしも「勇み足」では片づけられないでしょう。ストルテンベルグ・NATO事務総長は「不法な戦争を続けるロシアが最終的な責任を負っている」としましたが、そうだとしても、基本中の基本である事実確認を怠り、全世界を第三次世界大戦の瀬戸際に追いやりかねなかったゼレンスキー大統領の軽挙妄動は厳しく批判されなければならないでしょう。

この事件において東野・合六の両氏はゼレンスキー大統領をまったく批判しなかったし、「キャッチ! 世界のトップニュース」はピント外れの「苦言」を呈するに終始しました。「敵の敵は味方」によれば「ウクライナは日本の味方」ということになるのでしょうが、味方といえども重大な誤りは厳しく批判することが大切であるはず。「身内に甘い」日本人の悪いところがまたしても現れたというべきでしょう。眼前に展開されている事実に基づくのではなく、利害関係を基礎とする対決構図に基づこうとする――現実を見る目を曇らせる典型的な誤りにまんまと嵌っています

■ことあるごとに希望的観測の継ぎ接ぎや針小棒大な報道にいそしんだのが日本メディアのロシア報道、そしてそういった報道を渇望する日本世論
「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」の思考は、ロシア軍が体勢を立て直すたびに出てくる「いや実はロシアは追い詰められている」といった定番ネタのバックボーンにもなっていると思われます。戦争が泥沼化・長期化するにつれて、怪しげな情報源によるもの、希望的観測の継ぎ接ぎ、そしてロシア国内にも一定数存在する異論派の言動を針小棒大に取り上げた報道、要するに「北朝鮮」報道のようなロシア報道が見られるようになりました。ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのかと疑わざるを得ないほど、ことあるごとに希望的観測の継ぎ接ぎや針小棒大な報道にいそしんだのが日本メディアのロシア報道、そしてそういった報道を渇望する日本世論でした。

そして、日本メディアは「プロパガンダの自家中毒」にかかったと言わざるを得ない惨憺たる様を見せています。自分で展開していたプロパガンダに自縛されています。もしかすると、自分でも何が何だか分からなくなっているのかもしれません。たとえば、NHKの番組同士が相矛盾するプロパガンダを展開している(「ニュース7」の内容を「ニュースウオッチ9」が否定したり「ニュースウオッチ9」の内容を「国際報道2022」が台無しにしたり)ことを何度か指摘してきました。12月23日のNHK「国際報道2022」に至っては、番組内で言い分が矛盾するという爆笑展開にも(12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(2)」参照)。

日本メディアは、分かりやすい対立構図に持ち込もうとするあまり「既定の型」に無理矢理押し込もうとして現実を上手く分析し切れていないのです。事実を事実として報じることよりも断片的事実を継ぎ接ぎして溜飲を下げることを優先しているために、番組によって「分析」が矛盾しており支離滅裂になっているのです。戦時プロパガンダを積極的に打っている割には妙に雑なのは、日本メディア自身が混乱状態にあることを示唆しているようにも思われます

■どうしても負けを認めたくないのであれば、臥薪嘗胆して捲土重来を期する他に道はない
どうしても負けを認めたくないのであれば、「この一戦で決着をつける必要はない」と発想を転換し、臥薪嘗胆して捲土重来を期する他に道はありません。ロシアを「百年千年の敵」と位置付けて対決を続ける以外に道はありません。

4月15日づけ「本当に国のことを思うということは如何なることであるか、同志愛と革命的義理の在り方はどうあるべきか:キム・イルソン同志生誕110周年」で私は、キム・イルソン同志の抗日闘争史を振り返りつつ「本当に国のことを思うということは如何なることであるか」という問いを立てて思索を展開しました。周知のとおり首領様は、祖国を取り戻すためにこそ一旦祖国を離れ満州に渡るという決断を下されました。上述のとおり日本世論は、ベルリン市街戦のような深刻な事態に陥る危険性を内包する徹底抗戦論が主流になってしまっています。しかし、首領様の決断を踏まえると一所懸命的な徹底抗戦、死守戦が祖国防衛のための唯一の道といわんばかりの言説は、事実に反する凝り固まった思い込みであると訴えたいと思います。

また、8月19日づけ「信念や意地に囚われ一時の激情から本土決戦一億総玉砕的な軽挙妄動に至りかねない日本においては、目的意識的な人間を育てることを優先する必要がある」で私は、軽挙妄動を避けるためには「『志遠』の思想に基づき価値観に対する目的意識性を持つ」とか「不屈の革命精神を持つ」ことが必要だとも述べました。敵とはあくまでも戦う。しかし軽挙妄動は厳に慎む。革命の道はもとより非常に遠く険しいものである。代を継いででも必ず国の解放をかちとるべきだという不屈の革命精神を持つ必要があるのです。

日本的発想は「散華」を好みますが、花と散ってしまうような戦い方が愛国的な戦いなのでしょうか? 愛国の名を借りた「悲劇のヒロイン・ワタシ」的な自己満足に過ぎないように思えてなりません。本当に国のことを思うということは如何なることであるのでしょうか? 日本的発想の硬直性が非常に著しいと言わざるを得ません。首領様の革命歴史はこのことを実証しているように思われます。首領様の決断を踏まえると一所懸命的な徹底抗戦、死守戦が祖国防衛のための唯一の道といわんばかりの言説は、事実に反する凝り固まった思い込みであるように思えてなりません

■ウクライナ自体が「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」の思考に嵌り込んでいる
もっとも、ウクライナ自体が「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」の思考に嵌り込んでプロパガンダを展開しているので、それに引きずられているという面もあるかもしれません。8月13日づけ「蛇足的な過剰反応によって問うに落ちず語るに落ちる・・・これこそが国家権力」では、アムネスティ・インターナショナルから一般市民を危険にさらす戦い方をウクライナ軍が行っていると指摘されたことについて、異様な「反論」を展開したことを取り上げました。ゼレンスキー大統領は、アムネスティの指摘によって「ロシアによるウクライナへの攻撃が正当化される」なる斜め上の「反論」を口にしたものでした。

この程度の報告書の内容でどうしてロシア軍の行為が相対化されて弱められるというのでしょうか。「「人口密集地で市民を巻き込む作戦をウクライナ軍が行っている」ことは確かに大問題ですが、だからといってブチャ事件が免罪されるわけがありません。依然としてロシアの「巨悪」性は何ら揺らいではいません。

およそ現実味のない「絶対正義vs絶対悪」という白昼夢的な対決構図を描き出し、すべての事象をその型に押し込める発想の持ち主でなければ、こんな反応を見せるはずがありません。

「問うに落ちず語るに落ちる」とは正にこのことを言うものと思われます。結局キーウ政権は、プロパガンダの展開で頭がいっぱいだということを大統領自ら、その奇妙な論理展開によって告白したわけです。「これが戦争の現実なんだ!」と開き直っておけばまだよかったものを、蛇足的な過剰反応によって「キーウ政権とその軍隊は、国際人道法を軽視しているのみならず、プロパガンダ合戦のためならば現実を捻じ曲げて隠蔽することを厭わない」ことを自ら証明してしまいました。

また、12月29日づけ「宗教が憎悪と分断の原動力になり下がり、政治の道具になり下がった正真正銘の戦争国家」では、ロシアだけではなくウクライナまでもが、宗教が愛と連帯、ヒューマニズムの教えではなく憎悪と分断の原動力になり下がり、同時に、人倫の基礎として政治を間接的に律するのではなく政治の道具になり下がったことを取り上げました。聖職者が教団を挙げて民衆の激情に迎合し、憎悪と分断の原動力になり下がってどうするのでしょうか? しかしこれがウクライナの今なのです。

■総括
年の瀬に今年を振り返ったとき、まず強調したいのが、「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」という世論状況・報道姿勢が非常に強く見られたことです。ヤフコメやネトウヨが中学生のような安易安直な徹底抗戦論を口にしているのはしばしば見かけたものでしたが、それなりに社会的地位のある学者や専門家、ジャーナリストなどが、斯くも時代錯誤的な徹底抗戦論を提唱するとは正直思ってもいませんでした。

「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」というところには、破邪顕正的な感覚、および「大義に殉ずる」ことを美化する大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚がこの根底にあるものと考えます。

この結果、日本は非常に容易に全体主義に堕する可能性があることが青天白日のもとに晒されたと考えます。

「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」という掛け声がかかって久しいところですが、大義や筋論などの抽象的なものを優先して生身の人間の生活を軽視する危険な発想が日本世論・メディアに深く根付いているということは、すなわち台湾・沖縄有事が「沖縄戦2nd」になった上に、自陣営内部から瓦解してゆき無残な敗北を喫する可能性があるということを示していると考えます。

ウクライナ軍の無人攻撃機によるものと思われるロシア国内の複数の空軍基地での爆発事件について、ウクライナの「ケツ持ち」であるアメリカは早々に「生じた結果の責任は自分で取りなさい」とメッセージを送りました。このメッセージの真意を日本メディアが正確には汲み取っていないものと思われます。「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」は本当に大丈夫なのか、疑問が次々に沸いてきます。

「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」という日帝的な姿勢を個人的な人生観・死生観として貫徹する分には、「ひとりで勝手にやる分には好きにすればよい」と思います。しかしながら今般、日本世論で見受けられたのは「他力本願」という外ないものでした。いわゆる「ウクライナとの連帯」という美名の下で行われていることは、ウクライナ人を「捨て駒」にしていることとイコールであると言わざるを得ません。

日本世論は、日帝的な力の信奉と大義優先の点においてまったく進歩しておらず、新たに卑劣な他力本願が加わったと言えるでしょう。

開戦当初から露骨な戦時プロパガンダが公共電波で堂々と流されたこともこの戦争の特徴でした。

一般市民に火炎瓶を作ってロシア軍に投擲するよう呼びかけるという、マトモな政府軍ならやらないような呼びかけを「国民一丸となって徹底抗戦している」ことの象徴であるかのように報じた日本メディア。きっとウクライナ政府が見せつけたいと思っているであろう「美しき挙国一致」の姿が何らの批判的視点もなく公共電波に流されていたのです。

とりわけ酷かったのが、TBS「報道特集」の3月12日放送回でした。非常に戦意が高く勇ましい「キーウ市民の声」だけが放映されていました。これから起きるであろう首都決戦への不安を誰ひとりとして口にしなかったことに『報道特集』が触れなかったことは非常に許し難いことです。本当は不安と恐怖でいっぱいなのに、外国人ジャーナリストには口が裂けても本音を言えなかった市民だっていたはず。ジャーナリズムというものは、こういう無言あるいは短時間会話において、本音を掘り起こすところにその使命があるのではないのでしょうか? 公式発表を垂れ流すだけなら民営メディアなど必要ありません。

TBS「報道特集」3月12日づけ放送は、今振り返れば序の口でした。今秋以降、日本メディアはウクライナ軍にとって都合の悪い事実に頬かむりする一方で、大したことのないニュースを針小棒大に報じるという禁じ手に打って出たものでした。たとえば、「ロシア軍のウクライナ国外への物理的な駆逐は極めて実現困難」という見解を示した11月のミリー・アメリカ統合参謀本部議長の発言を黙殺しておきながら、ドニプロ川東岸にウクライナ軍の一部部隊の少人数が上陸し国旗を掲げたという、ウクライナ政府・軍による景気づけのプロパガンダ(12月)を大々的に報じました。

ロシア軍がバフムトで攻勢を強めていることについて「軍事的な意味は乏しく、政治的なパフォーマンスでしかない」とよく言われますが、それを言ったらこのニュースに至っては「軍事的にはまったく無意味で、政治的なパフォーマンスとしても魂胆がミエミエ」と言わざるを得ないでしょう。そんなプロパガンダ臭がプンプンするニュースに飛びついたのが日本メディアだったのです。

現地を独自に取材する能力もなければスタジオで情勢を独自に分析する能力もない日本メディア。11月中旬のロシア軍のヘルソン市からの撤退に際しては、そんな日本メディアならではの醜態が晒されました。また、ザポリージャ原発からのロシア軍の撤退問題についても、「エネルゴアトム関係者が、ロシア軍に撤退の兆しがあると言っている」と言ったかと思えば「エネルゴアトム関係者が、ロシア軍が防御態勢を強化したと言っている」などと真逆の発言を平然と報じる始末。もともとこの話は徹頭徹尾、ウクライナ側のみが情報ソースであり、本来であれば独自に裏取りが必要であるはず。それを一切せずに、ガキの使いのような報道しかしなかった、いや、できなかったのです

今年展開された戦時プロパガンダの集大成として、NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」の12月19日放送分「戦場の女たち」を位置づけることができるでしょう。

戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語」を宣言しておきながら、番組の大半はナチス・ドイツのハンナ・ライチュらが残した勇ましい勇ましい官許・公式回顧録からの引用。戦場での経験を経験とするPTSDや、「女性兵士」という存在への同性からの無理解・差別・敵意といった悲惨としか言いようがない女性兵士たちが直面した歴史的事実は、ほとんど取り上げられずじまいでした。

異常という外ないのは、番組が終盤に『戦争は女の顔をしていない』で知られるノーベル文学賞作家であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの発言を引用しながら、驚くべきことにウクライナ軍女性兵士たちの勇敢な姿のシーンを連続して放映したことです。右派セクターの活動家としてドンバス紛争の頃から従軍してきた「筋金入り」である、ウクライナ軍のオレーナ・ビロゼルスカ上級中尉の「もし誰かが日本を攻撃してきたらあなただって戦うでしょう?(中略)私が戦うのは祖国と愛する家族を守るためなのです」というインタビュー発言を引用するに至りました。

アレクシエーヴィチといえば、勇ましい英雄豪傑物語とは真逆の作品でノーベル文学賞を受賞した作家。よくもアレクシエーヴィチを引き合いに出しておいてビロゼルスカ上級中尉の英雄豪傑物語風の戦意高い発言に話を繋げたものです。曲解も甚だしいという外ありません。

『戦争は女の顔をしていない』は、「大きな内容を秘めたちっぽけな人たち」を取り上げることで「大文字の歴史」「大きな物語」が取りこぼしてきたものをすくい上げるというという目的でソ連時代に執筆された作品ですが、当時検閲官に「あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ。勝利の物語が。」と罵倒されたといいます。「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」の構成は、英雄豪傑物語という意味でまさに「大きな物語」以外の何物でもなく、ソ連の検閲官が当時求めていたような番組に成り下がりました露骨でありながら程度の低いプロパガンダというほかありません

世論に至っては、プロパガンダに満ちた「大本営発表」からさらに都合の良い情報を「取捨選択」して独自の戦況を描き出す始末。ヘルソン方面では思うように前進することができないウクライナ軍について、「陽動作戦だから前進していなくて当然」なる独自解釈を加えて合理化しました。「大本営発表」でさえ粉飾し難いヘルソン方面の戦況を都合よく解釈する世論動向は大問題です。まったく呆れるほかない、もはやファンタジーというべき現状認識が見られたものでした。プロパガンダを超えた世論の暴走・・・先の大戦でもそんなことがありました

「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」という世論動向についても改めて振り返っておきたいと思います。これは「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」という行動に直ちに現れる思考回路です。

この戦争の最初期は具体的な戦況が非常に貧弱で、「国際社会」の反応だの反戦デモがあっただのという本筋ではない部分の報道ばかりが氾濫していました。さしづめ、「ロシアは悪い国なんですよ。その証拠にほら、世界の人たちは挙ってロシアを非難しているではありませんか」という世論喚起だったのでしょう。事実から出発するのではなく単純な二項対立的な構図から出発する、特に現実を「善悪」の次元で構図化することから始めるのが日本的思考なのです。

また、侵攻開始から1週間以上たった3月4日になってやっとプーチン大統領の開戦演説(2月24日)がNHKニュースで全文和訳されました。停戦および終戦のためには両国の動機をフォローする必要があるはずのたところ、われらが日本世論は、その勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立および「悪党」の主張には一切耳を傾けないゆえに、ロシア側の事情を一顧だにしなかったのです。

勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立および「悪党」の主張には一切耳を傾けないからは、「力の信奉」しか導出されえません。この必然的結果として、日本世論は本土決戦・一億総玉砕的な泥沼に嵌り込みました。作家である佐藤優氏や、実業家のイーロン・マスク氏らの発言に脊髄反射的な軽薄なる「反論」が大量生産さたれものでした。

とりわけ、最も合理的・打算的に行わなければならない戦争においてマスク氏に唾を吐きかけるような非常に危険な発想からは、戦争というものの基本的な位置づけがそもそも日本においてはズレていることを示されているように思われます。

「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」という構図化は、西側諸国の結束が乱れている現状においては、現実を正しく認識することを妨げています

なぜこんなことになったのでしょうか? 「ロシアは孤立している」という見立てとは全く異なる事実を日本メディアとしては今更報じることはできないからでしょう。事実から出発するのではなく単純な二項対立的な構図から出発する日本的思考のため、徐々に利害関係が複雑に入り組む現実を正しく理解できなくなってしまうのでしょう。その結果、単純な二項対立的な構図では説明しえない事実を無視するしかなくなるのでしょう

「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」の思考がもっとも醜悪な形で表れたのが、ウクライナ軍の迎撃ミサイルがポーランド領内に着弾し人的被害が発生した11月の事件を巡る日本メディアの報道でした。下手をすれば第三次世界大戦の開戦に至りかねないゼレンスキー大統領の危険な見切り発車発言を、「勇み足」で片づけた日本言論空間。味方といえども重大な誤りは厳しく批判することが大切であるはず眼前に展開されている事実に基づくのではなく、利害関係を基礎とする対決構図に基づこうとする――現実を見る目を曇らせる典型的な誤りにまんまと嵌っています

「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」の思考は、ロシア軍が体勢を立て直すたびに出てくる「いや実はロシアは追い詰められている」といった定番ネタのバックボーンにもなっていると思われます。戦争が泥沼化・長期化するにつれて、ロシアが追い詰められていないと自分の精神的な安定が保てないのかと疑わざるを得ないほど、ことあるごとに希望的観測の継ぎ接ぎや針小棒大な報道にいそしんだのが日本メディアのロシア報道、そしてそういった報道を渇望する日本世論でした。

もっとも、ウクライナ自体が「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」の思考に嵌り込んでプロパガンダを展開しているので、それに引きずられているという面もあるかもしれません。キーウ政権とその軍隊は、国際人道法を軽視しているのみならず、プロパガンダ合戦のためならば現実を捻じ曲げて隠蔽することを厭わないことを彼らの行動が自ら証明していると私は考えます。

関連記事:「チュチェ111(2022)年を振り返る(1):ウクライナ情勢を振り返って・・・生身の人間の生活を軽視と卑劣な他力本願の世論動向・報道姿勢、無残な敗北を喫する可能性がある台湾・沖縄有事、ジャーナリズムの危機が深刻化する日本メディア
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チュチェ111(2022)年を振り返る(1):ウクライナ情勢を振り返って・・・生身の人間の生活を軽視と卑劣な他力本願の世論動向・報道姿勢、無残な敗北を喫する可能性がある台湾・沖縄有事、ジャーナリズムの危機が深刻化する日本メディア

今年も例年どおり、過去ログの読み返しを通して一年間の出来事を振り返りたいと思います。今年のニュースは何といってもロシアのウクライナ侵攻。当ブログが取り上げた話題の大部分は、この戦争をめぐる日本世論の状況、日本メディアの報道姿勢についてでした。

ウクライナ情勢を巡って2回に分けて総括します。今回はその1回目です。2回目は「チュチェ111(2022)年を振り返る(2):ウクライナ情勢を振り返って・・・「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」および「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」などについて」です。

4月3日づけ「ダック・スピーチ的「橋下話法」に敗れたる橋下徹氏、現実の戦況に厳しい批判を受けたるアンドリー・グレンコ氏」で指摘しましたが、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる日本世論からは、「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」と「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」という特徴があると考えます。「ロシアが正当な理由もなく先に手を出してきたのに、なぜウクライナが妥協しなきゃいけないんだ!」という破邪顕正的な感覚、および、「大義に殉ずる」ことを美化する大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚が日本世論にはあるものと見受けられます。今回はこれを軸として、この1年間の日本世論の動向を振り返りたいと思います。日帝的な「大義名分の全体主義な優先」に、現代日本ならではの特徴として「卑劣な他力本願」が加わっている日本社会の現状が見えてきました

また、日本メディアが展開した露骨なプロパガンダの実態そして、現地を独自に取材する能力もなければスタジオで情勢を独自に分析する能力もない日本メディアの醜態についても取り上げたいと思います。さらに、「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」という掛け声の下に進められている「台湾・沖縄有事への備え」の惨憺たる実態についても考えてみたいと思います。

■生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する
年の瀬に今年を振り返ったとき、まず強調したいのが、「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」という世論状況・報道姿勢が非常に強く見られたことです。

3月13日づけ「最悪の場合「ベルリン市街戦」に至る日本世論、歴史に学んでいるように見えて経験に学ぶ愚者たる日本世論」で取り上げた、橋下徹氏(元大阪市長で弁護士、コメンテーター)と、アンドリー・グレンコ氏(アパグループの論文コンクールでキャリアをスタートさせた「学者」)との議論(3月3日〜4日)、およびそれを巡る場外乱闘が典型的でした。この戦争を巡る世論状況を方向づけ、いまも悪しき尾を引いているものと言えるでしょう。

当該議論で橋下氏は次のように主張しました。
(1)「祖国防衛のために命を落とすということが一択になるってことは、僕は違うと思う(中略)命を懸けて戦っていることには本当に敬意を表しますけれども、本当にそれだけなのか
(2)「戦況が有利になれば、交渉が有利になるって言うんだけれども、その間にどれだけのウクライナの人たちが命を失うのか。日本がかつて太平洋戦争でそういう時があった
(3)「命を懸けて戦う人はそれはそれで頑張ってもらいたいけれども、(中略)国外退避もそれは1つの選択肢としてある
(4)「本当に反ロシアで頑張っていた人、命を狙われる人、それを真っ先にまず国外退避するとか。祖国防衛のために命を落とすってことは、これは本当に尊いことですけれども、それ一択じゃないというのは、われわれ日本が太平洋戦争を経験している

これに対してグレンコ氏は次のように応じました。
(ア)ウクライナ政府の命令で18歳から60歳までの男性国民が国外退避できないからといって、戦闘員として強制的に武器を持たされているわけではなく、あくまでも非戦闘員としてガレキ処理等に従事するものである。
(イ)いまはまだ戦い続けられる状況だから戦っているが、これ以上の抵抗は犠牲が増えるだけで戦果につながる見込みがまったくない場合は、戦いをやめることも苦渋の選択としてありうる。

当該記事でも指摘としたとおり、(ア)については、橋下氏の懸念・疑念が確信に変わったといってよいでしょう。いつまたミサイル攻撃や空爆があるか分からないような危険な場所に投入するために民間人を足止めすること自体を橋下氏は懸念しているわけです。武器を持たせて前線に立たせるだけが戦争ではありません。グレンコ氏の主張は、戦況を見誤ることで民間人の避難が遅れて「スターリングラード攻防戦」のように戦闘に巻き込まれるという危険性が十分にあります。そして今、年の瀬に振り返ると、橋下氏の懸念が現実のものになってしまったと言ってよいでしょう。

そもそも橋下氏は「命を懸けて戦う人はそれはそれで頑張ってもらいたい」と言明しているとおり「戦うな」と言っているわけではありません。「それだけなのか」と言っているのです。抗戦一辺倒ではなくて民間人・非戦闘員避難を並行して推し進めるべきだと述べているに過ぎないのです。

グレンコ氏は、(イ)のとおり民間人・非戦闘員避難をまったく考慮していないわけではありません。しかしながら、グレンコ氏の発言を「当事者がこういっている」などと拠り所にしている人たちは、この論争をネットニュース記事でしか目にしていなかったのでしょう、「橋下はウクライナに降伏しろと言っている!」などと曲解して大騒ぎする一方で、「抗戦一辺倒ではなくて民間人・非戦闘員避難を並行して推し進めるべきだ」という橋下氏の問題提起にまったく回答できずじまいでした。一面的な徹底抗戦で凝り固まっていました。

その典型例が、有馬哲夫・早稲田大学教授の言説でした。当該記事でも書いたとおり、橋下氏らが懸念する「戦う一択ってことになると、住民避難がおろそかになってしまう」を有馬氏は期せずして確信に変えるほど程度の低い主張でした。「亡国の民の心情を想像せよ」などと檄を飛ばす有馬氏ですが、日帝が果たせなかったヒロイズム・ロマンチシズムを勝手にウクライナに投影して悦に入っているという他ないでしょう。

幸いにして有馬教授は総じて世論には相手にされていませんが、いまでも時折NHKのニュース番組などに専門家枠で出演機会がある小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター専任講師は、「今回、ウクライナには何の非もないのに、ロシア側から侵攻された。早く降伏すべきだというのは道義的に問題のある議論」などと、正真正銘の「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先す」る言説を展開したものでした。当該記事でも書きましたが、橋下・グレンコ論争におけるグレンコ氏のスタンスでは、戦況を見誤ることで民間人の避難が遅れてスターリングラード攻防戦のような事態に陥る危険性があります。それに対して、有馬氏・小泉氏のとおりにしてしまうと、これはベルリン市街戦のような深刻な事態に陥る危険性があります。

ヤフコメやネトウヨが中学生のような安易安直な徹底抗戦論を口にしているのはしばしば見かけたものでしたが、それなりに社会的地位のある学者や専門家、ジャーナリストなどが、斯くも時代錯誤的な徹底抗戦論を提唱するとは正直思ってもいませんでした。大義や筋論などの抽象的なものを優先して生身の人間の生活を軽視する危険な発想、徹底抗戦=ベルリン市街戦のような凝り固まった危険な発想が、開戦当初から大手を振っていたのです。

また、4月3日づけ「ダック・スピーチ的「橋下話法」に敗れたる橋下徹氏、現実の戦況に厳しい批判を受けたるアンドリー・グレンコ氏」で指摘したとおり、「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」に加えて「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」という特徴もあると考えます。「ロシアが正当な理由もなく先に手を出してきたのに、なぜウクライナが妥協しなきゃいけないんだ!」という破邪顕正的な感覚、および、「大義に殉ずる」ことを美化する大河ドラマ・歴史小説的ロマンチシズムの感覚が日本世論にはあると見受けられるのです。

橋下氏は、100パーセントの国民が挙国一致的にロシア軍に自発的に抵抗するなんてことはあり得ないという認識のもと、希望者の国外退避を認めるべきではないかという至極当然のことを主張していたに過ぎません。しかしそれが「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」と「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」の発想に浸かり切った人たちには気にくわなかったのでしょう。そして、大河ドラマや歴史小説を通して刷り込まれたロマンチシズムに則ったグレンコ氏や有馬教授のような徹底抗戦論が、聞こえの良い言説として浸透したのでしょう。グレンコ氏は橋下氏の懸念に対して「今のゼレンスキー大統領の行動に対する支持率は、国民の90%なので、この政策はウクライナ国内では共通認識」と言い放ちました。さすがアパ。語るに落ちるとはこのことですが、そんなグレンコ氏の全体主義的な言説を日本世論は上述の理由から無批判に受け入れてしまったものと思われます。

戦後70年以上たちましたが、日本はかくも容易に全体主義に堕する可能性があることがこの度、青天白日のもとに晒されたものと言わざるを得ないでしょう。

■台湾・沖縄有事が「沖縄戦2nd」になった上に、自陣営内部から瓦解してゆき無残な敗北を喫する可能性がある
「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」とよく指摘されるところですが、大義や筋論などの抽象的なものを優先して生身の人間の生活を軽視する危険な発想が日本世論・メディアに深く根付いているという事実からは、非常に恐ろしい未来が見えてきます

8月21日づけ「戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘れてはならない:アムネスティ報告書が示した範とそれを読み取れない日本言論空間の現状」では、アムネスティ・インターナショナルがウクライナ軍が国際人道法に違反する抗戦方法を取っていると指摘していることについて、防衛研究所主任研究官の山添博史氏や防衛・安保担当の戦略コンサルタントである佐々木れな氏などがハチャメチャなウクライナ擁護を展開したことを取り上げました。

そもそもアムネスティの主張は徹頭徹尾、戦闘地帯に取り残された非戦闘員の目線に立って、その生命や財産の安全つまり人権状況に焦点をあてたものです。弾が当たってしまったら傷つき死んでしまうことには変わりないのだから、戦闘地帯に取り残されて今まさに命の危機に晒されている民間人・非戦闘員にとっては、侵略者が放った弾なのか祖国防衛者が放った弾なのかに違いはありません。それゆえ、もとよりロシアとウクライナを比較するような意図はアムネスティにはありません。

にもかかわらず、佐々木氏は「アムネスティ・インターナショナルが客観的であろうとするあまり、侵略者と侵略された者、要は侵略者と被害者を同列に扱ってしまって、誤った等価性みたいなものを作ってしまった」などと主張し、山添氏もそれに同調したものでした。そもそも等価・不等価の問題ではないところに、存在しない尺度・構図を勝手に持ち込んでいる方が間違っていると言わざるを得ません。この発言からは、おそらく無意識的にアムネスティ相手にして藁人形論法を展開している彼・彼女ら。非常に単純な善悪二元論と勧善懲悪の正義感に凝り固まっている、その世界観的理解の硬直性は、いささか異常なレベルであるように思えます。また、彼女は「そもそもこの報告が事実かどうか怪しい」とも言い放ちました。「持論にとって都合の悪い指摘に対する定番中の定番たる反応」というべきシロモノであり、開いた口が塞がらないとは、まさにこの発言を言います。

山添氏も「学校は夏季休暇中で『民間施設そのものではない』といった指摘もある」と発言しました。しかし当該記事でも書いたとおり、通常、学校というものは民間人居住地域の中心部に位置するので、当該学校そのものが長期休暇により無人だったとしてもその周辺に民間人は残っているものと思われます。特にこの戦争では民間人の退避・疎開が遅れており、それが人的被害の大きさに繋がっているものと見られます。アムネスティの指摘の要点はそこにありますが、山添氏の発言は正面から答えているとは言えません

また、「合理性があって、一概に『民間施設の軍事利用で違法行為だ』とは言えない」とも言いましたが、「たとえばアムネスティの報告書に出てくるxx学校は、私が調べたところ違法な民間施設の軍事転用とは言えない」と反論すれば一気に山添氏の主張には信憑性が出てくるわけですが、そういうことは一切せず、あまりにも定番の印象操作に手を染める山添氏でした。相手の主張を突き崩すには何よりも、その主張では説明がつかない事実を提示することが肝要です。論理的・科学的な議論とはそういうものです。マトモな国語力があれば、アムネスティ側の指摘の趣旨・要点が分からないはずがありません。わざとやっているはずです。

山添氏は「ウクライナにもそういう問題があると知った上で、やはり全体としての問題は『ロシアにある』と、我々が気を付けて見ないといけない」とも言いました。どうしても「元はといえば戦争を始めたロシアが悪い」と言いたいようですが、「敵が悪い」のは当たり前。その上でウクライナ国民を守る責務をウクライナ政府は持っているところ、このような指摘をアムネスティから受けていることがそもそもの大問題なのです。話をすり替えてはなりません。

「国際人道法に違反している」というアムネスティの指摘に対して何ら具体的な反論を講じず、話をすり替えてまでこんな主張を幾つも展開するとは、よほど痛い指摘だったのでしょう。佐々木れな氏という人物を私はこの記事で初めて知ったのですが、現役の防衛研究所主任研究官である山添氏の発言からは、自衛隊は「人間の盾」は使わないまでも、かなり際どい戦い方を予定していることを疑わせるものでした。

私は個人主義者でも全体主義者でもない、「人間は、組織集団生活において集団の自主性と個人の自主性を同時に達成する場合に真の幸せがある」という主体的集団主義者として、戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘れてはならないと考えます。それゆえ、戦闘地帯に取り残された非戦闘員の目線に立つアムネスティ報告書は、内容の重要性はもちろんのこと、モノの見方においても重要な範を示したものであると考えます。

そして、山添氏や佐々木氏が展開した言説を見るに、一般市民への関心というものは斯くも容易に後景に押しやられるものだということが改めて明らかになったと私は考えます。特に防衛研究所主任研究官の山添博史氏がこの調子では、台湾・沖縄有事は「沖縄戦2nd」になりかねないものです

「大義」を優先し、それによって発生する国民生活の被害は「敵が悪い」と述べるにとどまる・・・戦闘地帯に取り残された民間人・非戦闘員個人の目線を忘却し、その上で「元はといえば敵が悪い」を持ち出して自陣の非から論点を逸らすその姿勢には恐怖さえ感じます

また、「元はといえば敵が悪い」で片づけてしまうその姿勢は、12月16日づけ「国民を「啓蒙し管理する対象」としてしか見ていないのであれば、戦時において一心団結を期するなど到底無理な話」でも述べたとおり、民心を慰撫し寄り添う姿勢とは懸け離れたものです。戦時下においては人心をつなぎとめることが死活的に大切であるのに、継戦を自ら危うくしかねないものです。「台湾・沖縄有事」は「沖縄戦2nd」になりかねないだけではなく、同胞の被害を慰撫し寄り添う姿勢の欠如により、継戦を自ら危うくしかねない萌芽が見受けられるようにも思います。当該記事でも述べたとおり、日本政府は自国民を管理・啓蒙教化の対象としてしか見ていないようなので、戦時において一心団結を期するなど到底無理な話でしょう。

「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」の掛け声のもと、戦時プロパガンダの予行演習的意味合いが色濃いと見なさざるを得ない今般の報道。いざとなれば日本世論は非常に容易に日帝レベルの徹底抗戦論に堕するということ、未だに日本世論は日帝的な「生身の人間の生活を軽視し、大義や筋論などの抽象的なものを優先する」傾向にあるということを明白に示したものと言えるでしょう。「敵が悪い」のは当たり前であり、その上で日本国民を守る責務は日本政府にあります。しかし、「元はといえば中国が悪い」ですべて片づけられてしまう「未来」が見えてきます。そしてそれゆえに、自ら戦争継続能力を削いでゆく傾向にもあると言えるでしょう。台湾・沖縄有事が「沖縄戦2nd」になった上に、自陣営内部から瓦解してゆき無残な敗北を喫する可能性があるということです。

■「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」というのなら・・・
12月5日、ロシア国内の複数の空軍基地で爆発が起こりウクライナ軍の無人攻撃機によるものであるとされました。このニュースを巡ってNHKは非常に張り切ったものです。この頃、9月のハルキウ方面でのウクライナ軍の反撃は完全に萎み戦闘は膠着状態に陥っていました。むしろ、ロシアの電力インフラ等に対する大規模なミサイル攻勢によってウクライナの旗色は悪くなっていたところです。そんな中でウクライナ軍が一矢報いた形になったのが、この無人機攻撃でした。

しかしながら、この攻撃はあっという間に鳴りを潜めました。「“ロシア領内への攻撃 ウクライナに促していない” 米国務長官」(2022年12月7日 11時53分)でも取り上げられているように、ブリンケン・アメリカ国務長官は「われわれは、ウクライナに対しロシア領内への攻撃を促していないし、できるようにもしていない」とし、オースティン・同国防長官は「れわれは、ウクライナが自国の能力を高めることを妨げることはしない」としました。要するに、「ウクライナが自己責任で攻撃する分にはご自由に。私たちは知りませんけど」ということです。アメリカお得意の「あなたの自由」、つまり、「生じた結果の責任は自分で取りなさい」という意味での自己責任論です。

米欧諸国、とりわけアメリカの支援だけが命綱であるウクライナ。アメリカ政府の明確なメッセージをウクライナ政府はしっかり受け止めたのでしょう。この手の攻撃は止まりました。久々の「快挙」に張り切ったNHKでしたが、ものの数日で反転攻勢機運はまたしても萎んでしまったのです。

しかし、NHKの津屋尚・解説委員は、このブリンケン・オースティン発言について「攻撃を受けた空軍基地は、ウクライナ国内のインフラ攻撃を行う爆撃機の出撃拠点とされ、ウクライナとしては、「自衛の手段」としてロシア領内の基地を攻撃した形です。日本国内でいま、敵のミサイル発射基地をたたく「反撃能力」が議論されていますが、今回の攻撃は、それに似た考え方です」と解説しました(12月14日「厳冬のウクライナ〜戦いの行方は」)。

「やるなら自己責任で」と要約できるブリンケン・オースティン発言は「「自衛のための攻撃」は黙認」と捉えるべきものではないように思われます。とりわけ日本は、「敵国」が敵基地攻撃の反撃として本気で大攻勢を仕掛けてきたとき、自力ではどうにもできないのだから、ウクライナ以上にブリンケン・オースティン発言を慎重に捉えなければならないはずです。「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」というのなら、ブリンケン・オースティン発言の真意を正確に把握し、そして現にウクライナが越境攻撃を止めた事実を深堀りすべきです。本当に、「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」は大丈夫なのかな?

■他力本願
生身の人間の生活を軽視して抽象的な大義や筋論などを優先するのを率先して自ら実践に移すのならば、それはそれで「一つの生き方」と言えるかも知れません。日帝が果たせなかったヒロイズム・ロマンチシズムを21世紀が始まって20年以上たってなおも追い求めるのは時代錯誤以外の何物でもありませんが、ひとりで勝手にやる分には好きにすればよいと思います。

しかしながら今般、日本世論で見受けられたのは「他力本願」という外ないものでした。日本世論はウクライナ人の流血を新冷戦におけるロシア封じ込めに利用しようとしています。ウクライナを勝手に「民主主義の防波堤」に任命し人類史的な役割を押し付けつつ、日本を含めて何処の誰もウクライナには直接的には加勢しようとしていないのです。いわゆる「ウクライナとの連帯」という美名の下で行われていることは、ウクライナ人をおだて上げてウクライナ人に負担を押し付けていることに過ぎません。ウクライナ人を「捨て駒」にしているのです。

この点、橋下・グレンコ論争において橋下徹氏は「ロシアが倒れるまでの間、ずっとウクライナの人たちに戦わせるのか」と世論を指弾しました。これに対する世論の反応は、よほど痛いところを突かれたのか、論点逸らしに必死にだったものです。結局、ご立派なことを言っておいて日本世論は徹頭徹尾、他力本願なのです。この点は日帝にはなかったものです。現代日本は、「生身の人間の生活を軽視し大義や筋論などの抽象的なものを優先する価値観」を日帝から引き継いだものの「自ら血を流す」ことは日帝から引き継がず他力本願になりがったわけです。

その意味では日本世論は、力の信奉と大義優先の点においてまったく進歩しておらず、新たに卑劣な他力本願が加わったと言えるでしょう。まだ自殺攻撃的に「散華」した方が少なくとも潔いものですが、これが現代日本の戦時世論なのです。とりわけブルジョア「個人」主義化した現代、個人同士の負担の押し付け合いが日常化している現代ですから、あの手この手・あからさまな屁理屈を駆使してでも今後、ますます卑劣で醜い他力本願が展開されることでしょう

■露骨な戦時プロパガンダが公共電波で堂々と流された
開戦当初から露骨な戦時プロパガンダが公共電波で堂々と流されたこともこの戦争の特徴でした。

開戦当初、ウクライナ軍は自国の民間人に対して火炎瓶を作ってロシア軍に抵抗するよう呼びかけました。3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」で書いたとおり私は、ウクライナ軍が一般市民に対して「火炎瓶を作ろう」と呼びかけたことを日本メディアが無批判に報じていることに、二重の驚きを感じざるを得ませんでした

非戦闘員に攻撃用武器の製造を呼びかけるのはマトモな政府軍がやることではありません。ウクライナ軍の呼びかけは、戦闘員と非戦闘員との区別をつきにくくすることであり、結果的に非戦闘員を戦闘行為に巻き込むことに繋がります。戦闘員と非戦闘員との区別がつきにくかったベトナムやイラク、アフガニスタンでは、極限状態の継続で精神がおかしくなってしまい疑心暗鬼にかられた兵士たちが些細なことに過剰反応し、現地民間人を戦闘員扱いして拷問・虐殺するという過ちが起こってしまいました。

そして、マトモな政府軍ならやらないような呼びかけを「国民一丸となって徹底抗戦している」ことの象徴であるかのように報じた日本メディア。4月10日づけ「TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだまま:「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったTBS『報道特集』と金平茂紀氏」で取り上げた『報道特集』3月12日放送回は特に驚かされたものでした。普段はリベラルなTBSの報道姿勢とは真逆の、きっとウクライナ政府が見せつけたいと思っているであろう「美しき挙国一致」の姿が何らの批判的視点もなく公共電波に流されていたのです。

3月12日放送回は、ちょうどキーウ攻略秒読みと皆が思っていたタイミングだったこともあり、番組は市民がバリケードを設営したり土嚢を積み上げたりする姿を放映していました。普通の神経を持つ人間であれば、これから始まるであろう戦闘に不安がないはずがありません。普段のTBSであれば、間違いなく「沖縄戦の悲劇の再来」などと問題提起しただろうに、非常に戦意が高く勇ましい「キーウ市民の声」だけが放映されていました。

これから起きるであろう首都決戦への不安を誰ひとりとして口にしなかったことに『報道特集』が触れなかったことは非常に許し難いことです。もちろん、ウクライナ政府の景気のいい宣伝に乗せられて威勢のいいことを本気で口にしている市民は大勢いたでしょう。しかし、本当は不安と恐怖でいっぱいなのに、外国人ジャーナリストには口が裂けても本音を言えなかった市民だっていたはずです。

ジャーナリズムというものは、こういう無言の本音を掘り起こすところにその使命があるのではないのでしょうか? 政府公式発表なら公式ルートでいくらでも入ってきます。公式発表を垂れ流すだけなら民営メディアなど必要ありません。言論の自由が存在する意義・多様なチャネルが存在する意義とはいったい何なのでしょうか? 民営メディアの存在意義とは何なのでしょうか? 少なくとも私は、公式発表から見えてこない別の切り口を民営メディアが提供してくれると信頼してきました

そもそも、あのタイミングでの取材で現地の真の姿を本当に撮れると思っていたのでしょうか? ウクライナの政府・軍がプロパガンダを発信する動機に満ち満ちていました。また、ロシア軍が、弱みを握ったり買収したりしたジャーナリストを使って偵察させたりジャーナリストを装った破壊工作員を潜入させたりすることは当然考えられるものでした。自由な取材行動の芽はまったくなかったといって過言ではないはずです。

『報道特集』3月12日放送回は、TBSが「ウクライナ国営放送日本語版」に成り下がったことを示しています。かつて筑紫哲也氏はオウム事件に関連してTBSのジャーナリズムは死んだと指摘しましたが、オウムビデオ問題とは別の意味ではあるものの、やはりTBSにはジャーナリズムの根本は根付いているとはいえず、また、市民が民営メディアを求め、それを信頼している動機にも根ざしていないと言わざるを得ないものです。

■日本メディアのジャーナリズムの危機は深刻化している
TBSのジャーナリズムは今もまだ死んだままだと言わざるを得ないでしょう。そしてそれは、今年が終わろうとしているこの瞬間、むしろ深刻化しています。

5月17日づけ「マウリポリ陥落」では、日本メディアが「事実上の陥落」や「事実上の投降」といった妙な言い回しをしたことを取り上げました。アゾフスターリ製鉄所はマウリポリ防衛の「最後の砦」と呼ばれてきた拠点ですが、これが落ちた以上は「事実上」も何も「マウリポリ陥落」以外のなにものでもありません。ウクライナ政府・軍当局がそのように発言して敗北の色彩を弱めるのならば理解できないことはありませんが、日本メディアは「ウクライナ国営放送日本語版」ではないのだから、粛々と事実を伝えればよいだけです。

また、当該記事では、4月18日のNHK「ニュース7」がアゾフスターリ製鉄所に籠城するアゾフ大隊司令官のインタビューを放映したときには「徹底抗戦の決意」こそあれシェルターに避難している民間人・非戦闘員の話は出てこなかったのに、4月19日になって急に「製鉄所のシェルターに1000人以上の市民が避難」という話が出てきたことについて取り上げました。

アゾフ大隊司令官が初めから言わなかったのか、アゾフ大隊司令官は伝えていたがNHKがその部分をカットしたのかは分かりません。日本メディアはこの戦争についてほとんど独自取材できておらず、自ら情報を分析する能力がないので、せっかくアゾフ大隊司令官がスクープ情報を提供してくれていたのに「疑わしいからカット」にしていたのかもしれません。

しかし、未確認情報を未確認のまま垂れ流してきたことは一回や二回ではありません。流してもよかったが「徹底抗戦の流れから外れるから編集カット」したのかもしれません。しかし、「ウクライナ国営放送」ならまだしも、「日本の公共放送」がやることでしょうか?

9月6日づけ「ロシア・ウクライナ戦争半年:「日本世論の反応」の回顧・整理」で私は「台湾・沖縄有事におけるプロパガンダ放送の予行演習は4か月しか持たなかった」とし、その理由として「6月以降、日本世論が開戦以降に構築してきた構図が軒並み、現実を説明できなくなってき」、「その結果、ウクライナ情勢にかかる報道枠自体が急速に縮小していっ」たからとしました。しかしながら私が甘かった。12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(1)」および「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(2)」で総括したように、秋以降、日本メディアは都合の悪い事実に頬かむりする一方で、大したことのないニュースを針小棒大に報じるという禁じ手に打って出たのでした。

たとえば10月下旬。9月上旬のハルキウ方面でのウクライナ軍の反撃が萎み戦闘が膠着状態に陥ったにもかかわらず、NHKは「追い詰められたロシア」などと報じました。当該記事でも書いたとおり、10月下旬時点でも疑問符を付けざるを得ない分析で、12月末現在で振り返るにまったく大外れだったというほかないものでした。

また、10月下旬といえばロシア軍の電力インフラに対する大規模なミサイル攻撃が相次いだ時期でしたが、このことについて日本メディアは、「氷点下の気温の中、停電のせいで暖房がつかなくなっているが、ウクライナ国民の士気はむしろ上がっている」といった程度の話として報じたものでした。そんな程度で済む話ではありません。現代社会は電気で成り立っていると言っても過言ではないので、電力インフラに対する攻撃はウクライナの戦争継続能力を確実に削ぐものです。

「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」というのならば、日本の電力インフラ防護体制はどうなっているのかをウクライナ情勢から学ぶという角度で取り上げるべきですしかし、そのような指摘はまったくと言ってよいほど耳にしません。おそらく日本の電力インフラ防護体制は、まったく話にならないくらい無策なのでしょう。この国の支配層・権力者は、解決しなければならない課題を国民に対して率直に告白して解決策を全国民的に模索することよりも、その課題を隠したり誤魔化したりする傾向にあるので、意図的に回避していると見なすべきでしょう。都合の悪い事実に頬かむりしているのです。

12月上旬には、日本メディアはドニプロ川東岸にウクライナ軍の一部部隊の少人数が上陸し国旗を掲げたことを大々的に報じました。共同通信は「ウクライナ軍は同半島を拠点として東岸地域の奪還を進める構え」(「ドニエプル渡河開始を示唆 南部知事、上陸作戦に着手か」」 12/1(木) 20:44配信)などと報じましたが、ドニプロ川東岸に構築されたロシア軍の防衛線を突破できる充分な装備をウクライナ軍が保有しているという情報はいまだかつて聞いたことがなく、ウクライナ政府・軍による景気づけのプロパガンダと見なすべきでしょう。現に、ドニプロ川をはさんで両軍の戦線は膠着状態にあり、渡河作戦が決行される気配さえありません。

12月といえば、「アメリカ軍の弾薬在庫数が激減している」だとか「ロシア軍がミサイル等を意外と補充できている」といった指摘が既に出ていた時期であり、「ウクライナ政府に対してアメリカ政府がロシアとの交渉に前向きな姿勢を見せるよう非公式に働きかけている」と報じたワシントン・ポスト紙報道や「軍事力によるロシア軍のウクライナ国外への物理的な駆逐というウクライナの目標は極めて実現困難であり、近いうちに達成される公算は小さいが、政治的にロシア軍が撤退する方法はあり得る」としたミリー・アメリカ統合参謀本部議長の発言が既に出てきていた時期でした。

12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(1)」で取り上げたとおり、11月17日のNHK「ニュース7」はミリー議長発言を短時間触れましたが、同日の「ニュースウオッチ9」は一切取り上げずじまいでした。他の報道各社も似たり寄ったりの反応だったと記憶しています。アメリカ軍制服組トップの爆弾発言を黙殺しておいて、ウクライナ軍の一部部隊の少人数がドニプロ川東岸に上陸し国旗を掲げたというニュースを大々的に報じるとは、あまりにもプロパガンダが過ぎます。ロシア軍がバフムトで攻勢を強めていることについて「軍事的な意味は乏しく、政治的なパフォーマンスでしかない」とよく言われますが、それを言ったらこのニュースに至っては「軍事的にはまったく無意味で、政治的なパフォーマンスとしても魂胆がミエミエ」と言わざるを得ないでしょう。そんなプロパガンダ臭がプンプンするニュースに飛びついたのが日本メディアだったのです。

■現地を独自に取材する能力もなければスタジオで情勢を独自に分析する能力もない日本メディア
現地を独自に取材する能力もなければスタジオで情勢を独自に分析する能力もない日本メディア。11月中旬のロシア軍のヘルソン市からの撤退に際しては、そんな日本メディアならではの醜態が晒されました。

12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(1)」で取り上げたとおり、ワシントン・ポスト紙の記事が寝耳に水だったのか、開戦以来ロシア軍が占領を続けていたヘルソン市をウクライナ軍が奪還したという大ニュースであるにもかかわらず、たとえばNHKは初めのうち異様な沈黙を保ちました。マリウポリ陥落の2日前まで「ウクライナ軍の反転攻勢」を云々していたNHKが。11月10日の「ニューウオッチ9」は、ヘルソン市奪還ニュースが天皇の前立腺肥大よりも後のニュースとして取り上げられる始末(呆)

11月11日になってやっと早めの順番で取り上げられましたが、ヘルソン奪還の事実よりもアメリカのサリバン・元駐ロシア大使へのインタビューに重点を置くという謎編集。それも、以前の調子だったら間違いなく大騒ぎするであろうところ、田中正良アナウンサーが「ロシア軍が劣勢におかれていることについてサリバン前大使は、プーチン氏の政治的な立場はある程度弱まったと見ているんですね。ただ、政権の内部でプーチン氏の追放を企んでいるものが居るとは言えないとも指摘しているんです。プーチン大統領の権力は依然揺らいでいないと分析しているようです」と述べるという慎重な展開。オバマ米政権下でCIA長官や国防長官を務めたレオン・パネッタ氏のインタビューや松田邦紀・駐ウクライナ日本大使のインタビューを放映して「ウクライナ軍の反転攻勢でロシアは追い詰められている」という雰囲気を煽っていたのは、この2週間ほど前のこと。随分と早い変わり身です。

変わり身の早さと言えば、12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(2)」で取り上げたロシア軍のザポリージャ原発からの撤退観測についてもそうでした。

ウクライナ軍がヘルソン市を奪還した11月中旬、「次はザポリージャ原発だ!」と言わんばかりの勢いで「ロシア軍に撤退の兆し」を報じていたNHK。しかし12月8日、逆にロシア軍が陣地を強化したというニュースが飛び込んでき、NHKは無反省にそれをそのまま垂れ流しました。

もともとこの話は徹頭徹尾、ウクライナ側のみが情報ソースであり、本来であれば独自に裏取りが必要であるはず。それを怠り、「エネルゴアトム関係者が、ロシア軍に撤退の兆しがあると言っている」と言ったかと思えば「エネルゴアトム関係者が、ロシア軍が防御態勢を強化したと言っている」などと真逆の発言を平然と報じたわけです。ガキの使いではないのだから「ウクライナ側がそう言ったんですよ、それを伝えたまでです」が通用するはずがありません。報道機関として恥ずべき姿勢であると私は考えます。

報道機関として恥ずべき姿勢といえば、11月12日の「サタデーウォッチ9」は、ロシア軍のヘルソン市撤退について、「自分の息子があんな環境に置かれていることを知ったら、本国の親御さんたちが黙っていないのではないか。プーチンどうなっているんだという話になるんじゃないのか」といった趣旨のコメンテーターの発言を放映したのですが、それに対応する裏付け取材がなく結局言いっ放しに終わりました。視聴者の「そうだそうだ!」狙い、つまり単なる印象操作でなければ、あまりにも取材力が不足しています。

11月15日の「国際報道2022」も分析が弱かった。石川一洋・専門解説委員(「【徹底分析】ロシア軍 南部ヘルソン"撤退"でプーチン政権への打撃は 石川一洋解説」に文字起こしされています)によると、ロシア軍のルソン撤退について「実際に決定したのは間違いなくプーチン大統領です。しかし軍の決定であることを前面に出して、大統領への政治的な打撃をできるだけ抑えようという意図が表れています」としましたが、推測の根拠は示されずじまい

日本メディアの分析では、明確な根拠が示されずに「そう考えているに違いない」くらいでしかないことが往々にしてありますが、このことは現地を独自に取材する能力もなければスタジオで情勢を独自に分析する能力もない日本メディアならではの醜態ゆえのものなのかもしれません。

■戦時プロパガンダの集大成としての「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」――露骨で程度が低い
今年一年間の戦時プロパガンダの集大成と言い得るのが、12月30日づけ「単なる女性自衛官募集番組(それも程度の低い)になり下がった「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」」で取り上げた、NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」の12月19日放送分「戦場の女たち」だったと言えるでしょう。

番組は「女性が初めて戦線に本格的に投入されたのは第二次世界大戦だった」と前置きした上で「戦場でもその後の人生でも男性兵士にはない悲劇が待っていた(中略)戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語である」として始まりました。本編は「女性進出」が進んでいた第二次世界大戦期のソ連空軍女性部隊による敢闘記録やナチス・ドイツからハンナ・ライチュの回顧を取り上げたり、あるいは、ソ連陸軍狙撃兵だったリュドミラ・パヴリチェンコ、そしてドイツ占領下のフランスに潜入工作員として投入された米英軍属女性たちを取り上げたりすることで「戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語」を描こうとするものでした。しかしながら、大半はパヴリチェンコやライチュらの勇ましい官許・公式回顧録からの引用。「戦場に命を懸けた女性たちの勇気」は嫌というほど見せつけられましたが、悲しみの物語」に該当する内容が非常に薄いものでした

非常に奇怪な構成の番組でした。ソ連空軍女性部隊を取り上げておきながらエカテリーナ・ブダノワやリディア・リトヴァクへの言及がなく、まるで彼女らを避けるかのように強引に話を空の戦いから陸の戦いに移し、狙撃兵だったパヴリチェンコにスポットライトを当てるという展開。そしてパヴリチェンコについても、戦争体験が原因で戦後PTSDとなりアルコールに溺れて早くに亡くなったところ、具体的にどのように苦しんだのかにはまったく触れずじまい。ドイツ占領下のフランスに潜入工作員として投入された米英軍属女性の話に至っては、非常にアッサリとした事実確認のみ。悲しみの物語」はいったいどこにあるのかと疑問に思わざるを得ない奇怪な構成でした。

他方で、ナチスのライチュについてはその回顧録から「愛国心」溢れる発言の引用に非常に時間を割いていました。悠久の歴史を有する偉大なドイツ民族とナチという風雲児的徒党とを直結するという重大な誤謬に生涯気がつかず、偏狭で狂信的に過激な民族主義者として貴重な生を終えたライチュに重点を置いたわけです。彼女をは、ナチス関係者として戦後白眼視されるという苦労はあったものの、本人は特段失意の中で世を去ったわけではありません。それゆえ、そもそもライチュを、「悲しみの物語」を取り上げる番組に登場させるのは人選ミスであるように思われます。

番組は終盤に『戦争は女の顔をしていない』で知られるノーベル文学賞作家であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの発言を引用しながら、驚くべきことにウクライナ軍女性兵士たちの勇敢な姿のシーンを連続して放映。最後の最後には、右派セクターの活動家としてドンバス紛争の頃から従軍してきた「筋金入り」である、ウクライナ軍のオレーナ・ビロゼルスカ上級中尉の「もし誰かが日本を攻撃してきたらあなただって戦うでしょう?(中略)私が戦うのは祖国と愛する家族を守るためなのです」というインタビュー発言を引用するに至りました。アレクシエーヴィチといえば、勇ましい英雄豪傑物語とは真逆の作品でノーベル文学賞を受賞した作家。よくもアレクシエーヴィチを引き合いに出しておいてビロゼルスカ上級中尉の戦意高い発言に話を繋げたものです。

当該記事で私は、『戦争は女の顔をしていない』の原著邦訳、および同作品を取り上げたNHK教育テレビの『100分de名著』の放送内容を踏まえつつ、「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」が如何に露骨なプロパガンダであるかを指摘しました(ぜひともご一読いただきたいと思います)。アレクシエーヴィチは、『戦争は女の顔をしていない』という作品において、「大きな内容を秘めたちっぽけな人たち」を取り上げることで官許の歴史観・イデオロギーに沿った「大文字の歴史」「大きな物語」が取りこぼしてきたものをすくい上げるという目的を持っていました。それゆえ、彼女が書き上げた原稿は、官許の歴史観・イデオロギーの守護者である検閲官(この作品が最初に世に出たのは1980年代のソビエト連邦だったので検閲制度が存在していました)から「あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ。勝利の物語が。」と罵倒されたと言います。

『戦争は女の顔をしていない』では「私は殺したくなかった。誰かを殺すために生まれて来たのではありません」とか「忘れちゃいません。何一つ。でも、捕虜を殴れなかった」、「奴らが私たちにやったのと同じことはできませんでした。私たちが苦しんだように、奴らを苦しませることは」といったソ連軍女性兵士たちの証言が数多く記録されています。また、命をかけて戦ってきた女性兵士たちは、復員するや否や、少し年上の同性(女性)たちから「戦地で男たちと懇ろになっていたそうじゃないの」だの「戦争のあばずれ」だのと罵倒され疎外されるといった酷い仕打ちを受けてきたことも記録されています。

アレクシエーヴィチが言いたかった女性たちの戦争における「気持ち」とはこのような複雑な心境にこそあり、本当の意味での「悲しみの物語」はこういうことを指すと言うべきです。これに対して「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」は、「♪真のウクライナの怒りを誰も知らず見たこともなかった〜我々の土地を侵略する者たち呪われた殺人者たちを容赦なく殺す〜♪」などと歌うウクライナ軍女性兵士たちの姿など、勇ましく好戦的な女性たちを立て続けに放映しました。復員後の差別、いわば「復員後にこそ訪れた本当の戦い」に至っては一切触れずじまいでした。狙撃兵として従軍したパヴリチェンコが戦後PTSDになりアルコールに溺れて早くに亡くなったことを軽く触れる程度にとどめています。アレクシエーヴィチが書き留めた証言記録に対して、あまりにも単純過ぎるシーンの連続。アレクシエーヴィチを引き合いに出しておいてこれ。もはや「アレクシエーヴィチのメッセージを曲解している」では済まされないレベルです。

当該記事でも書いたとおり、「映像の世紀 バタフライエフェクト 戦場の女たち」は、アレクシエーヴィチを引き合いに出しておきながら、「大きな内容を秘めたちっぽけな人たち」を取り上げることで「大文字の歴史」「大きな物語」が取りこぼしてきたものをすくい上げるという彼女の狙いとは真逆に、「大きな思想」に沿った「大きな物語」を描き出しました。まさにアレクシエーヴィチに「あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ。勝利の物語が。」と言い放ったソ連の検閲官が求めるような番組になったのです。露骨でありながら程度の低いプロパガンダというほかありません

ウクライナの右派セクター出身者でその政治的立場が非常に鮮明な人物を、まったく無批判に取り上げることは、NHKは開き直って戦時プロパガンダ機関としてやって行くつもりであるという宣言に他ならないでしょう。その意味で、この番組は戦時プロパガンダの現時点での集大成として位置づけることができます。つまり、露骨で程度が低いのです。

■「大本営発表」からさらに都合の良い情報を「取捨選択」する世論
世論に至っては、プロパガンダに満ちた「大本営発表」からさらに都合の良い情報を「取捨選択」して独自の戦況を描き出す始末。9月16日づけ「「大本営発表」からも情報を「取捨選択」して独自の戦況を描く日本世論、「得たもの」に狂喜乱舞して「そのために費やしたもの」に対する無関心を示す日本世論」で取り上げましたが、9月にハルキウ方面で劇的な領土奪還を実現させたウクライナ軍でしたが、ヘルソン方面では思うように前進することはできませんでした。このことについて日本世論は、勝手に「陽動」扱いしたものでした。曰く「陽動作戦だから前進していなくて当然」と。

「大本営発表」でさえ粉飾し難いヘルソン方面の戦況を都合よく解釈する世論動向は大問題です。まったく呆れるほかない、もはやファンタジーというべき現状認識が見られたものでした。プロパガンダを超えた世論の暴走・・・先の大戦でもそんなことがありました

ところで、日本メディアは総じて商業メディアであり、つまり「売れてナンボ」の世界です。ここにおいて露骨なプロパガンダが定着しているという事実は、為政者による情報操作だけでは説明できるものではなく、民衆にもプロパガンダを受け入れる素地がある、民衆がこういう物語を求めている部分がある、日本人が非常に好むモノの見方・考え方に根差していることを示しています。「大本営発表」からさらに都合の良い情報を「取捨選択」する世論の姿は、当然の成り行きであるとも言えます。

長くなったので今回はこれまで。続きは「チュチェ111(2022)年を振り返る(2):ウクライナ情勢を振り返って・・・「勧善懲悪・破邪顕正的な二項対立」および「『悪党』の主張には一切耳を傾けない」などについて」です。
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10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(2)

10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(1)」の続きです。今回で終わりです。全2部になります。

■アメリカも苦しく、ロシアは意外と粘っている――現実はそんなに一方的な展開ではない
前回記事で取り上げたとおり、ミリー・アメリカ統合参謀本部議長が「ウクライナが目指す「軍事力によるロシア軍のウクライナ国外への物理的な駆逐は、極めて困難な任務」であると言明した発言を黙殺したNHK「ニュースウオッチ9」。9月上旬に展開されたハルキウ方面でのウクライナ軍の攻勢を過大評価したNHKは、10月19日には津屋尚・解説委員が「追い詰められたロシア」なる大演説を打ち、11月2日には松田邦紀・駐ウクライナ日本大使の「戦争の全体を俯瞰したときの潮目は変わったと言って差し支えない」という発言を含むインタビュー(「特集記事 「爆発音に神経が慣れていった」松田ウクライナ大使 業務再開」)を取り上げてしまった以上、アメリカ軍制服組トップの爆弾発言を黙殺するほかなかったのでしょう

ミリー発言以降も、「ウクラナイ軍の劇的な反転攻勢」という構図には沿わない不都合な事実が続いた今秋。たとえばアメリカCNNは11月17日、≪US is running low on some weapons and ammunition to transfer to Ukraine≫(Published 9:03 AM EST, Thu November 17, 2022)という記事を配信し、アメリカ軍がウクライナ軍に供与可能な武器と弾薬が減っていると報じました。

記事中、マーク・カンシアン戦略国際問題研究所上級顧問によると、≪probably close to the limit that the United States is willing to give without risk to its own warfighting capabilities.≫(おそらく、アメリカが自国の戦闘能力を危険にさらすことなく喜んで与える限界に近い)とのこと。同時に彼は≪a dozen other countries could supply the same ammunition, and Ukraine was unlikely to be constrained in what it needed thanks to the global market≫(他の十数か国が同じ弾薬を供給できる可能性があり、グローバル市場のおかげで、ウクライナが必要とするものに制約される可能性は低い)とも言っているので、ウクライナ軍が近いうちに戦闘継続能力を物質的に失う事態に陥るわけではありませんが、米欧諸国がウクライナ支援を無制限に続けられるわけではないようです。

軍事ブログ「航空万能論GF」は、「米軍備蓄量が急速に減少、今後のウクライナ支援に支障が出る可能性も」(2022.11.18)においてCNNの記事を引きつつ、加えて、GMLRS弾やジャベリンミサイル、スティンガーミサイルなどの在庫数も大きく減っていると指摘しています。ウクライナを援助する米欧諸国は「ロシアとの全面対決を避けなければならない」という政治的制約のほかにも、武器弾薬の在庫数、そして究極的には生産能力という物質的制約にも直面しているのです。

対するロシア側。「ロシア軍の武器・弾薬の在庫数が払底しつつある」という報道はかなり前から報じられてきましたが、軍事ブログ「航空万能論GF」の「ロシア、制裁の影響下で弾道ミサイルや精密誘導ミサイルを288発製造」(2022.11.23)によると、「ウクライナでの消耗分をカバーできるほどではないにしても生産量は多い」「2022年に米軍が調達したトマホークの数が154発だったことを踏まえると「9ヶ月間でKalibrを120発生産した」というのは結構凄い」とのこと。同ブログは、12月13日づけ「制裁を回避したロシア、精密誘導兵器の備蓄を使い果たす兆候なし」でも、タイトルどおりの内容を伝え、かつ「数機のShahed-136がすり抜けただけで電力システムに甚大な被害を発生させるため防御側はやはり相当不利だ」とか「もうウクライナの電力システムは大部分が破壊されているため復旧してきた部分を1ヶ月に1回攻撃すれば十分=1ヶ月に約40発程度の補充分とShahed-136で事足りるのかもしれない」などとも指摘しています。

また、「国際報道2022」は「イギリスの調査機関」が「首都キーウに撃ち込まれたロシア軍の複数のミサイルの残骸を調査した結果、その部品の製造番号などから発射の2か月前など最近生産されたミサイルという分析を明らかにし」たというニュースを報じました(「【解説】フィリピンがインドが…兵器調達で脱ロシアの兆し(油井'sVIEW)」)。「ロシア側はロシア国内で現在も高性能の巡航ミサイルなどの生産を続けられているほか、欧米の制裁を免れて部品を欧米から入手できていると結論づけた」とのこと。「【解説】ロシア多用のイラン製無人機に日本企業7社の製品(油井'sVIEW)」とも報じています。

ロシアが弾道ミサイルや精密誘導ミサイルを288発も製造しているという見立てのソースは、レズニコフ・ウクライナ国防相のツイートとのこと。ここ最近のウクライナ政府高官の発言を聞いていると、軍事支援拡大に及び腰な米欧諸国からより多くを引き出すため、敢えてロシア軍の実力を誇張しているきらいもあるので、そのあたりを割り引いて考える必要はあるとは思います。「国際報道2022」がいう「イギリスの調査機関」に至っては正体不明です。しかし、ペースが緩まることはあっても無くなることがないロシア軍の攻撃頻度をみるに、まったくの作り話ではないように思われます。NHK等日本メディアが描き出そうと腐心する「反転攻勢を強めるウクライナ、追い詰められるロシア」という構図と現実との乖離が深まっています。現実はそんなに一方的な展開ではないのです

■主戦論が後退しつつあるのに、それを報じない日本メディア
12月に入ると、バイデン・アメリカ大統領が「停戦交渉」に言及するようになりました。「米仏両首脳 ロシアのプーチン大統領と「話す用意ある」 停戦交渉に言及」(2022年12月2日 20時47分 東京新聞)によると、「(バイデン氏は、)プーチン氏には終結の考えはないとして「すぐに連絡する予定はない」と述べたが、10月の米CNNのインタビューで「会う理由がない」などと語っていた強硬姿勢からは軟化したもようだ」とのこと。主戦論が後退しつつあります。

これらの報道について、NHKをはじめとする日本メディアは積極的には報じようとしませんでした。「国際報道2022」は12月2日の番組で上述のバイデン大統領発言を取り上げたものの地上波では、私が確認した範囲ではまったく取り上げられず。米欧諸国の弾薬在庫問題についても、「国際報道2022」が「【解説】消耗戦…ロシア供給の兵器原材料 欧米は今後どう調達?(油井'sVIEW)」で取り上げたものの、これもまた地上波では取り上げられずじまいでした。戦争の趨勢を占う上で重要な報道であるはずのところ、あまり取り上げられないのは奇怪極まることです。

フランスのマクロン大統領が述べた「ロシアの安全保障の必要性を考慮すべきだ」という発言(「仏大統領、「ロシアの安全保障の必要性」発言への批判かわす」2022年12月7日 19:59)については、私が確認した限りでは報じられもせず。「ウクライナや東欧諸国は、ロシアに対して過度に寛大だと反発」とのことで、西側諸国の結束を乱すマクロン発言ということになります。フランスのような国の大統領が、単なる個人的な感想を公の場で口にするはずがなく、この発言はフランスにおいて一定の勢力を持った立場を代表したものであると言えます。以前からフランスの及び腰は指摘されてきたところですが、西側の大国たるフランスが対ロ融和的な姿勢を保持し続けているわけです。

NATO外相会議について、その真意を曖昧な表現に替えて「ロシアは孤立している」という構図を強弁する事態が見られました。「NATO外相会議初日 ウクライナへの支援強化で合意」(2022年11月30日 6時38分)は「会議ではウクライナが目指すNATO加盟についても意見を交わしたということですが、会議のあとの記者会見でストルテンベルグ事務総長は「われわれはウクライナの意思を認識し尊重するが、今の焦点はロシアの軍事侵攻とたたかうウクライナに支援を提供することだ」と述べ、従来の見解を示すにとどめました」と報じていますが、「ブカレストNATO外相会議が浮き彫りにしたウクライナの苦悩」(2022.12.8 日経ビジネス)が指摘するように、「(NATOのストルテンベルグ事務総長は、)「ウクライナが戦争状態にある限り、NATO加盟はあり得ない」というメッセージを、オブラートに包んで送った」というのが実際のところのようです。

■なぜこんなことに?
なぜこんなことになったのでしょうか? おなじみの「北朝鮮は孤立している」と同じ調子で展開されている「ロシアは孤立している」という見立てとは全く異なる事実を、日本メディアとしては今更報じることはできないからでしょう。それゆえ、問題視すべきは「ロシアは孤立している」という構図を最初に描いてしまったことです。ロシアは初めから決して孤立してはいなかったのに、なぜか日本メディアは「ロシアは孤立している」という情勢認識を初っ端にブチ上げてしまいました

3月6日づけ「力の信奉と大義優先の点において77年前から進歩せず、卑劣な他力本願まで加わった:ロシアのウクライナ侵攻をめぐる世論について(2)」で指摘したとおり、この戦争の最初期は具体的な戦況が非常に貧弱で、「国際社会」の反応だの反戦デモがあっただのという本筋ではない部分の報道ばかりが氾濫していました。さしづめ、「ロシアは悪い国なんですよ。その証拠にほら、世界の人たちは挙ってロシアを非難しているではありませんか」という世論喚起だったのでしょう。しかし、「ロシアは悪い国」かどうかは、ロシアを非難する国や人々の多寡よりも自分自身の物差しを重視して測るべきだと考えます。チュチェ思想派として、それこそが思想における主体が確立された状態であると考えます。

「ロシアは孤立している」という構図をまず描くことに走った日本メディアの報道姿勢からは、自分自身の物差しを重視することよりも、他人の顔色を見て自分の意見を決定する日本人の特性が見えるように私は思います。

■もう少し綿密な計画の上でプロパガンダを展開した方がよろしいのでは?
なお、12月23日の「国際報道2022」は、例によって「中央アジアでロシア離れ」として「ロシアは孤立している」という構図を描こうとしたのですが、番組内で言い分が矛盾するという爆笑展開になりました。宇山智彦・北海道大学教授を専門家として出演させた同番組でしたが、宇山教授は「距離を置くと言っても今回の戦争から距離を置くということ。全体としては『離れる』というより『関係多角化』の方向を打ち出している」と述べました。多極化する現代世界において関係多角化は、特におかしな話ではありませんが、番組が強調したいプロパガンダとは異なっています。スタジオの酒井美帆アナウンサーが「えっ」という表情をしていたように私には見えたのが印象的でした。事前の打ち合わせをしないんでしょうか?

爆笑展開といえば、12月2日の「ニュースウオッチ9」もそうでした。同番組では「ポーランド 有事に備え高まる国防意識」というテーマで、ポーランドにおいて一般市民を対象にした日帰り軍事訓練が活況で合計6000人が参加した(ベルリン防衛線のときの「国民突撃隊」のように私には見えました)という特集が組まれましたが、今回は番組同士が同士討ちするという爆笑展開でした。

「ニュースウオッチ9」は、ロシアによる侵攻開始直後のポーランド国内での世論調査結果として、「国の防衛に関わりたい 66%、関わりたくない 34%」という数字を挙げて「侵略され国家を失った歴史的経緯から国民の国防意識は高い、だから一般市民が軍事訓練に参加しているのだ」と解説したのですが、同日の「国際報道2022」は、同じ世論調査結果をもう少し詳細に取り上げ、「有事の際は兵士とともに前線での勤務を希望する 17%、何らかの形で関与したい 49%」と内訳を報じました。要するに、銃を持ちたくはないという人が圧倒的なわけです。それゆえ、軍事訓練に参加している一般市民は2割にも満たない少数派であると言えます。これで「侵略され国家を失った歴史的経緯から国民の国防意識は高い」というのは、苦しい解釈であると言わざるを得ないでしょう。日本においてだって「何かの役には立ちたい」くらい言う人は少なくないでしょう

もう少し綿密な計画の上でプロパガンダを展開した方がよろしいのではないでしょうか?w

■プロパガンダ臭がプンプンするニュースに飛びついて、水を得た魚のように再び扇動路線を歩みだしたNHK
12月3日、ウクライナ軍の一部部隊がドニプロ川の東岸地域に到達したとする動画がSNSにアップされました。これを受けていままで静かにしていたNHK等が再び扇動路線を歩むようになりました。「ウクライナ軍 南部ヘルソン州のロシア支配の地域に到達か」(2022年12月5日 6時39分)によると、アメリカの「戦争研究所」は「これが事実ならウクライナ軍が東岸で作戦を開始する足がかりとなる可能性がある」と指摘したようですが、ドニプロ川東岸に構築されたロシア軍の防衛線を突破できる充分な装備をウクライナ軍が保有しているという情報は聞いたことがありません。気候の面から見ても、この時点でドニプロ川渡河作戦が展開されるとは軍事的に考えにくいものです。

共同通信に至っては「ドニエプル渡河開始を示唆 南部知事、上陸作戦に着手か」(12/1(木) 20:44配信 共同通信)において、「ウクライナ軍は同半島を拠点として東岸地域の奪還を進める構え」というウクライナメディアの報道をそのまま報じました。NHK記事よりも踏み込んだ表現の共同通信記事を見るに本件は、ウクライナ政府・軍による景気づけのプロパガンダと見なすべきでしょう。現に、ドニプロ川をはさんで両軍の戦線は膠着状態にあり、渡河作戦が決行される気配さえありません。アメリカ軍の弾薬在庫数が激減しているというニュースや、ロシア軍がミサイル等を意外と補充できているといった観測を黙殺しておいて、こんなニュースを取り上げるのは、あまりにもプロパガンダが過ぎます

ロシア軍がバフムトで攻勢を強めていることについて「軍事的な意味は乏しく、政治的なパフォーマンスでしかない」とよく言われますが、それを言ったらこのニュースに至っては「軍事的にはまったく無意味で、政治的なパフォーマンスとしても魂胆がミエミエ」と言わざるを得ないでしょう。そんなプロパガンダ臭がプンプンするニュースに飛びついて、水を得た魚のように扇動路線を歩みだしたのがNHK等の日本メディアだったのです。

■日本こそブリンケン・オースティン発言を慎重に捉えなければならないはずだが・・・津屋尚・NHK解説委員の演説について
12月5日に、ロシア国内の複数の空軍基地で爆発が起こりウクライナ軍の無人攻撃機によるものであるとされた件では、NHK等はますます張り切ったものでした。地上波を含めてこのニュースを重点的に取り上げました。「ロシア空軍基地に“ウクライナ軍の無人機攻撃” 大きな打撃か」(2022年12月6日 21時29分)は、久々の長文記事。久々の「快挙」からか、翌7日は「ウクライナ軍、ロシア国内を攻撃 兵器不足のロシア軍は」では「今回の攻撃はロシア軍にとって大きな打撃なるとみられています」だの「ロシア軍は、報復措置に出たくても、選択肢は限定的だという見方が出ています。その理由が、深刻な兵器不足です」などとし、「ロシア空軍基地爆発相次ぐ プーチン政権 事態深刻に受け止めか」(2022年12月7日 19時47分)でも「「局面の大きな分岐点だ。ロシア軍は、ウクライナの前線と国境だけでなく、ロシア領の奥深くまで防空網の構築に対応する必要に迫られている」と伝えるなど、プーチン政権にとって打撃になるという見方も出ています」などと報じました。

特に、12月10日の「サタデーウオッチ9」と12月16日の「ニュースウオッチ9」は久々に、よくもわるくも以前の調子を取り戻した内容を報じました。またしても、ロシア軍は兵器や兵力が不足していると述べたり、あるいは、「ウクライナに派兵された兵士の不満の声が収録された動画がSNSにアップされている」だの「ロシア国内で兵士の母親や妻から抗議の声が上がっている」だのいった指摘がされたりしました。しかし、どれもこれも11月から使い古されたお馴染みの話・動画。特に動画については、本当にそういう声が高まっているのならば日々新しいものが出現しているはずですが、まったく同じ動画の使いまわし。つまり、それほど世論は高まっていないということでしょう。

10月下旬の調子を取り戻したNHKでしたが、10月下旬から進歩もしていなかったようです。

それにしても、今回は以前にも増して沈静化が早かった。「“ロシア領内への攻撃 ウクライナに促していない” 米国務長官」(2022年12月7日 11時53分)でも取り上げられているように、ブリンケン・アメリカ国務長官は「われわれは、ウクライナに対しロシア領内への攻撃を促していないし、できるようにもしていない」とし、オースティン・同国防長官は「れわれは、ウクライナが自国の能力を高めることを妨げることはしない」としました。要するに、「ウクライナが自己責任で攻撃する分にはご自由に。私たちは知りませんけど」ということです。アメリカお得意の「あなたの自由」、つまり、「生じた結果の責任は自分で取りなさい」という意味での自己責任論です。

米欧諸国、とりわけアメリカの支援だけが命綱であるウクライナ。アメリカ政府の明確なメッセージをウクライナ政府はしっかり受け止めたのでしょう。この手の攻撃は止まりました。久々の「快挙」に張り切ったNHKでしたが、ものの数日で反転攻勢機運はまたしても萎んでしまったのです。

ところで、遠く離れたウクライナでの戦争を日本メディアが斯くも重点的に報じている理由は、「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」という筋書きのためだと考えられます。いま日本では「敵基地攻撃の能力」に関する議論が展開されていますが、津屋尚・NHK解説委員は本件攻撃と関連して12月14日に「厳冬のウクライナ〜戦いの行方は」という演説を打ちました。例の10月19日「解説」もそうでしたが、彼はNHKの演説担当なんでしょうか? 曰く「攻撃を受けた空軍基地は、ウクライナ国内のインフラ攻撃を行う爆撃機の出撃拠点とされ、ウクライナとしては、「自衛の手段」としてロシア領内の基地を攻撃した形です。日本国内でいま、敵のミサイル発射基地をたたく「反撃能力」が議論されていますが、今回の攻撃は、それに似た考え方です」とのこと。ブリンケン・オースティン発言についても「今回はウクライナが自国の兵器で行ったもの。「自衛のための攻撃」は黙認するという立場です」としました。

ブリンケン・オースティン発言の真意、そしてそれを受けてウクライナが越境攻撃をピタリと止めた事実を深堀りしない津屋氏解説。「やるなら自己責任で」と要約できるブリンケン・オースティン発言は「「自衛のための攻撃」は黙認」と捉えるべきものではないように思われます。とりわけ日本は、「敵国」が敵基地攻撃の反撃として本気で大攻勢を仕掛けてきたとき、自力ではどうにもできないのだから、ウクライナ以上にブリンケン・オースティン発言を慎重に捉えなければならないはずです。

ちなみに、今回の津屋氏解説は、前回記事で取り上げた10月19日放送分に比べるとかなり謙抑的になっているとは言えそうです。確かに津屋氏は「全体としては、ウクライナの優勢は変わっていません」としつつ「私が注目しているのが、南部での戦闘です。ヘルソンを奪還しドニプロ川(ドニエプル川)まで到達したウクライナ軍が、対岸にどうやって渡り、ヘルソン州全域を奪還するかという点です(中略)その作戦の成否は、クリミアの奪還作戦にもつながるだけに非常に重要です」などと述べてはいます。いまやゼレンスキー・ウクライナ大統領以外は誰も具体的な日程の問題としては考えていないクリミア奪還をこのタイミングで、大真面目な話として持ち出すセンスには改めて驚きを禁じ得ませんが、しかし、10月19日時点では「ロシアは反撃したくてもできないだろう」としていたのに対して今回は「プーチン大統領としては、何らかの反撃をして「報復」をアピールしたいところでしょうが、それを実行する兵器が十分あるかは疑問」と表現を後退させました。

また関連して述べておきたいのですが、10月下旬ばりに扇動した12月16日の「ニュースウオッチ9」でしたが、同番組において専門家枠で登場した東野篤子・筑波大学教授は、「ロシア軍は急いで事態を展開する必要がない」と述べ、ロシア軍が軍服や装備などの補給において重大な困難に直面しているという扇動を事実上否定する発言をしました。番組として支離滅裂な感が否めませんでしたが、依然と比べるとかなり謙抑的になっていることは確かでしょう。

イラン製無人機を改良して大量投入しているという報道があったばかり(「オデーサ州で大規模停電 ロシア軍 イラン製無人機で攻撃増加か」2022年12月11日 20時48分)なので、念のために整合性を取っておいたのでしょう。調子のいい戦意高揚プロパガンダを吹聴することが国策として求められているのでしょうが、さすがに現実世界・客観世界の実相から懸け離れることはできないのでしょう。

■日本メディアはガキの使いなのか?――ロシア軍のザポリージャ原発からの撤退観測について
前回記事でも指摘したように、日本メディアは現地を独自に取材する能力もなければスタジオで情勢を独自に分析する能力もないので、結果的に米欧諸国やウクライナ当局の大本営発表をそのまま報じることしか出来ていません。12月8日、いったんは「ロシア軍に撤退の兆し」と報じられたザポリージャ原発でロシア軍が陣地を強化したというニュースが飛び込んできました(「ザポリージャ原発 “ロシア軍が再び兵器持ち込む”」2022年12月9日 11時41分)。ウクライナ軍がヘルソン市を奪還した11月中旬、「次はザポリージャ原発だ!」と言わんばかりの勢いで「ロシア軍に撤退の兆し」を報じていたNHK(「ザポリージャ原発 “ロシア軍が撤退準備の兆候”」2022年11月28日 20時33分)。平然と真逆のニュースを報じたわけです。

もともとこの話は徹頭徹尾、ウクライナ側のみが情報ソースであり、本来であれば独自に裏取りが必要であるはず。それを怠り、「エネルゴアトム関係者が、ロシア軍に撤退の兆しがあると言っている」と言ったかと思えば「エネルゴアトム関係者が、ロシア軍が防御態勢を強化したと言っている」などと真逆の発言を平然と報じているわけです。ガキの使いではないのだから「ウクライナ側がそう言ったんですよ、それを伝えたまでです」が通用するはずがありません。報道機関として恥ずべき姿勢であると私は考えます。

■そういえば、ドネツク人民共和国支配地域へのウクライナ軍の攻撃による死傷者情報ってあまり報じられないよね
ウクライナ軍による「反転攻勢」が持て囃される昨今。民間人・非戦闘員の避難が十分に行われてこなかったこの戦争においては、普通に考えれば、領土奪還を目指すウクライナ軍の反撃によって民間人・非戦闘員に死傷者が出てくることは避けられないはずです。「ウクライナ軍がドネツクに大規模砲撃か、ロシア側が「戦争犯罪」と非難(字幕・16日)」(Posted December 16, 2022)や、12月7日午後8時(日本時間)放送のオーストラリアABCニュース(12月8日朝「キャッチ!世界のトップニュース」で確認)など、米欧諸国のメディアはこのことについて率直に報じていますが、しかし、日本メディアの報道においては、民間人・非戦闘員の死傷者といえば「ロシア軍の攻撃」とされるものについてばかりであり、ウクライナ軍の反転攻勢によって生じた民間人・非戦闘員の死傷者については報じられる機会が非常に乏しいものです。

思い起こせば開戦当初に、元大阪市長の橋下徹氏とアパ学者のアンドリー・グレンコ氏との論争で見られた(3月13日付「最悪の場合「ベルリン市街戦」に至る日本世論、歴史に学んでいるように見えて経験に学ぶ愚者たる日本世論」参照)とおり、日本では「聖戦」において民間人・非戦闘員の犠牲を論じることはご法度である模様。ごくまれに、ウクライナ軍の攻撃によって民間人・非戦闘員から死傷者が出たニュースが出ると、12月16日付「国民を「啓蒙し管理する対象」としてしか見ていないのであれば、戦時において一心団結を期するなど到底無理な話」で取り上げたとおり、開き直りのような反応が見られるのが日本世論です。

ドネツク人民共和国の権力機構が支配地域の民衆から支持されているのだとすれば、「自分たちが支持した政権が参加した戦争による被害は、自分たちの責任」と言えるでしょうが、少なくとも日本的理解においては、ドネツク人民共和国の権力機構は親ロシア派武装勢力が勝手に樹立したものであるはず。自分で設定したストーリーに呪縛されるという「日本あるある」ですが、そうであるがゆえに、ドネツク人民共和国支配地域へのウクライナ軍の攻撃による死傷者情報は報じにくいのでしょう

「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」とよくいわれますが、自衛隊や米軍の反撃によって日本国内で死傷者が出てもきっと開き直りになるんでしょうね。もし中国軍が沖縄の離島を占拠すれば、まず間違いなく当該離島の民間人・非戦闘員は取り残されるでしょう。そしてその地を日米両軍が奪還しようとすれば、逃げ切れなかった当該離島民間人・非戦闘員にも被害が出るはずです。自衛隊が放った反撃の銃弾・砲弾が当該離島民間人・非戦闘員を直撃するかもしれません。

そういうことを踏まえてドネツク人民共和国支配地域へのウクライナ軍の攻撃による死傷者情報を敢えて報じていないとすれば、あまりにも恐ろしいことです。8月21日づけ「戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘れてはならない:アムネスティ報告書が示した範とそれを読み取れない日本言論空間の現状」で山添博史・防衛研究所主任研究官の言説などを取り上げたとおり、その可能性は十分すぎるほどにあると私は考えています

■日本メディアの報道から離れて――今年のノーベル平和賞について
日本メディアの報道から離れて幾つか検討してみたいと思います。

まず、今年のノーベル平和賞について。周知のとおり今年の同賞は、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの人権団体が受賞しました。これについて朝日新聞は「「最優先は国家より人間」 ウクライナ侵攻下の平和賞、受賞者が訴え」(2022年12月11日 7時30分)と報じましたが、私にはとてもそのようには見えませんでした。ウクライナの人権団体が行った受賞スピーチのためです。

ノルウェー・ノーベル委員会は、当該スピーチの文字起こしを公開していますが、市民自由センターのオレクサンドラ・マトイチュク氏はスピーチにおいて≪The Russian people will be responsible for this disgraceful page of their history and their desire to forcefully restore the former empire≫と述べました。プーチン大統領とその取り巻きたちだけではなく、ロシアの民衆までもが「かつての帝国の再興を渇望している」と見ているようです

12月29日づけ「宗教が憎悪と分断の原動力になり下がり、政治の道具になり下がった正真正銘の戦争国家」において私は、ゼレンスキー政権がプーチン政権・プーチン体制ではなくロシア民族全体に対する憎悪を煽り続けることは、後世に禍根を残す破壊的なやり方であると述べました。なぜならば、民族集団は「引っ越し」することができず、歴史的に住み続けてきた一定の領域において固定的な隣人とともに生きるほかないからです。人類は、民族集団同士の葛藤や闘争において関係修復のための最小限のルートを残すという知恵をつけてきました。それは宗教的なつながりであり、「為政者と民族とを分けて考える」というものでした。逆に、いったん民族集団同士の対決として位置づけてしまうと非常に長い期間にわたって両者の関係は対決的になってしまうものです。その意味でこれは、後世に禍根を残す破壊的なやり方なのです。マトイチュク氏の見識はゼレンスキー政権のやり口と同様の破壊的なものであると言わざるを得ず、ノーベル平和賞の受賞者にしては強い違和感を感じざるを得ません。

そもそも、現状のロシアとベラルーシにおいて政権批判は非常に困難なものです。異論があったとしてもなかなか声を上げられない状態にあるものと思われます。そうした事情がありながら、このようなロシア人を十把一絡げに取り扱うスピーチには、重ねて強い違和感を感じざるを得ません。

なお、念のため申しておけば、≪Fighting for peace does not not mean yielding to pressure of the aggressor, it means protecting people from its cruelty.≫というスピーチのくだりについては、私は問題には思っていません。戦いを避けられるのであればそれに越したことはありませんが、戦いが避けられないとすれば勝ち抜かなければなりません。しかしながら人間心理の道理として、戦いを「民族集団同士の対決」として構図化してしまうと、戦いが終わったあとも憎悪の残滓やわだかまりが残ってしまうものです。関係修復のための最小限のルートを残すために「民族集団同士の対決」という構図を描くべきではないと言いたいのです。

ちなみに、マトイチュク氏の見識は決して目新しいものではありません。今年のノーベル平和賞の受賞者が決まったとき、ウクライナのポドリャク大統領府顧問は「ノーベル賞の選考委員会がウクライナを攻撃した2つの国の代表者にもノーベル賞を与えるのなら『平和』ということばについて、興味深い解釈をしている」なるコメントを寄せました(「ノーベル平和賞 ウクライナ国内では批判的な反応も」2022年10月8日 6時29分)。ゼレンスキー政権のイデオローグ的な立ち位置にいるポドリャク氏の発言としては特に驚くようなものではないのですが、ほぼ同じ内容を「市民自由センター」を名乗る団体のマトイチュク氏が口にしたことに驚きを禁じ得ません

人権団体は必ず為政者の逆張りをしなければならないとは言いません。内容が真に正しいものであれば、為政者と市井の人権団体の発言は一致していなければ逆におかしいでしょう。しかし上述のとおり、この戦争を「民族集団同士の対決」として位置づけるべきではありません。ゼレンスキー政権としては敵が存在した方が政権基盤を固めやすいので対ロシア憎悪と対決を煽った方が得策でしょうが、「引っ越し」できないロシア・ウクライナ両国の市民にとっては百害あって一利なしであります。市民の立場を代表すべき人権団体が、時の政権を利するだけで民衆にとっては逆に不利益にしかならないモノに乗るべきではないと考えます。

さすがに日本メディアも「これはちょっと・・・」と思ったのでしょうか。NHK読売新聞日本経済新聞ともに当該部分に言及はありません。特に日本経済新聞はスピーチの要旨を掲載していますが、きれいにカットされています。「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」と言われる昨今ですが、このことに限っては安心しました。

■日本メディアの報道から離れて――アメリカ・アフリカ首脳会議について
12月13日、アメリカ・アフリカ首脳会議が8年ぶりに開かれたというニュースが飛び込んできました(「米・アフリカ、8年ぶりの首脳会議へ 対中ロ連携探る」2022年12月12日 20:06)。8年ぶりの開催というところに、アメリカにとってのアフリカの位置づけが見えてきます。「アフリカで影響力を増すロシアや中国に対抗」するために「アフリカ連合(AU)が20カ国・地域(G20)の常任メンバーになることを支持したり、インフラ整備や安全保障で協力を打ち出したりする」とは、何ともご都合主義的な話です。

中国がアフリカ諸国に影響力を強めていることは久しい以前から指摘されていたことであり、ロシアのそれに至ってはソ連時代から培われてきたものです。非米欧国である中国やソ連・ロシアがアフリカの地に根を張ることができている一つの大きな要因には、アフリカ諸国が抱く米欧諸国への不信感があるからです。日常生活においてもそうですが、都合のよい奴は、相手を尊重してはいません。自分にとって利益があるときだけ友人面して接近してくるが、自分にとって利益がなかったり逆に負担になるときには他人面して離れてゆくものです。こういう手合いには「困ったときはお互いさま」という考え方はありません。

8年も放っておいて、自分が困ったことになったからといって急にアフリカ諸国の首脳たちを呼びつけるアメリカの姿勢は、これ以上ないほどに相手を軽視しています。アフリカ人をあくまでも「手段」として見做していると言わざるを得ません。

アフリカ人をあくまでも「手段」としてしか見ていない振る舞いは、いまもなお米欧諸国が帝国主義的・植民地主義的な思考をしていることを示していると言わざるを得ないでしょう。少なくとも、植民地支配の歴史をもつアフリカ諸国民は、そのことを直感的に感じ取っているものと思われます。米欧不信の歴史的記憶が思い起こされるでしょう。

相も変らず帝国主義的・植民地主義的なご都合主義ゆえにアフリカ諸国は依然として米欧諸国に不信感を抱いていると考えられます。9月にNHK「クローズアップ現代」は、ブルキナファソの外相へのインタビューとして次のように報じていました(「アフリカ “親ロシア”が広がる世界を歩く」2022年9月28日 午後4:21 公開)。
ブルキナファソ ルアンバ外相:

「ブルキナファソはすべての国と友好関係にあるので、優遇する国はなく、関係はどの国とも良好です。ロシアを西側諸国と比べたがる人もいますが、私たちを助けようともしない人たちに、とやかく言われたくはありません。この苦境から抜け出すためには、“とげのある枝”でもつかむしかないのです」
とげのある枝」というロシアに対する表現にも注意が必要ですが、それでもロシアに期待するほどアフリカ勢の米欧不信は非常に根強いものです。米欧諸国から150年も虐げられていれば当然でしょう。

「国際報道2022」が「かつて植民地支配した欧米に対する不信感も要因の1つと見られ、欧米のいらだちはアフリカにおける情報戦で苦境に立たされている裏返しなのかもしれません」と指摘しています(「【解説】情報工作も?ロシア民間軍事会社ワグネル プリゴジン氏(油井'sVIEW)」2022年11月11日 午後0:47 公開)。いい加減な「解説」が多い最近のNHKにしてはそのとおりだと思います。

米欧諸国の「日ごろの行い」が因果応報的に示されたのが、今般の戦争におけるロシアの国際的立場であったと言えます。これこそが国際社会の実相なのです。世界は確実に多極化しています。あわてて8年ぶりにアメリカ・アフリカ首脳会議を開催して求心力を取り戻そうとするアメリカ。そういうご都合主義的な求力維持欲求こそが、むしろ遠心力になっているにも関わらず。以前から繰り返し指摘しているように、アメリカ文明においては「歴史」という視点が決定的に欠如しており、それゆえに刹那的な取り繕いに終始しています。いかにもアメリカらしい今般の振る舞いです

■日本メディアの報道から離れて――西側諸国・米欧諸国の結束の乱れについて
西側諸国・米欧諸国の結束の乱れについて。上掲のとおり、フランスでは西側諸国・米欧諸国の結束を乱す勢力が相当の規模を誇っているようですが、リトアニアの外相がEU首脳会議に関連して「ロシアへの制裁を強めようとするのではなく、自分たちの国が制裁の適用から免れようとする議論に多くの時間が費やされ、悲しい」と主張した報じられました(「EU首脳会議 ウクライナへ 約2兆6000億円支援で合意」2022年12月16日 11時26分)。

だからといって西側諸国・米欧諸国の対ウクライナ支援がただちに瓦解するとは到底思えませんが、しかし、日本メディアが描いているほどは「悪い国・ロシア」に対する包囲網が狭まっているとも思えないところです。昨今はよくハンガリーの独自的路線が槍玉にあげられますが、そんなものに目くらましを受けていてはなりません。各国ともに決してウクライナにとっての利益ではなく自国にとっての利益をベースとして立場を決めているのです。

日本的理解では、自国利益に則ることは「わがまま」に映るのでしょうが、米欧の文化においてはどうやらそうではないようです。自分自身の利益があって初めて他人の利益を考えられるという文化であるようです。戦争が長期化するにつれて今後、各国の個別事情は変化してゆくはずで、さらに西側諸国・米欧諸国の結束の乱れが生じてくるでしょう。

■日本メディアの報道から離れて――ウクライナ国内の状況
「キャッチ!世界のトップニュース」や「週刊ワールドニュース」を見るだけでもだいぶ違ってきます。あくまでもNHKチョイスの海外報道ですが、NHKの報道機関としてのアリバイづくりとして、この手の幾つかの番組は、他の地上波番組では報じられないニュースを幾ばくかは取り上げています。

たとえば12月17日の「週刊ワールドニュース」は、ロシアへの協力者としてウクライナ軍の報復制裁を恐れる被占領地のウクライナ人の声や、「ロシアの方が給料がよく、ウクライナの給料ではやっていけない」と率直に述べる人の声などが報じられました。

なにも驚くようなことではないと思われます。非常に率直な主張でありこれこそが現実です。「国民一丸となって侵略者と戦うウクライナ国民」という描写こそがマンガチックで非現実的な話なのです

■おわりに
「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ」というタイトルですが、おおむね12月20日頃までの動きを総括する形になりました。また、真意を測りかねる話・真相がよく分からない事件については、もっと前の出来事でも敢えて取り上げることを見合わせました。取り上げを見合わせた話については、チュチェ112(2023)年に入ってから起こった出来事と関連して位置づけたいと思います。なぜならば、ニュースは大局的な見地で見る必要があるからです。日々のニュースに振り回されると、たとえば上述のとおり、ドニプロ川東岸に一部のウクライナ軍部隊が偵察および宣伝目的で進出したに過ぎない些細な話を、まるでウクライナ軍が渡河作戦を始めたかのように位置づけてしまうという誤りを犯すからです。

12月下旬ごろから、ウクライナ軍は必ずしも盤石ではないとか、ロシア軍が再び攻勢に出るかもしれないといった観測が出てくるようになりました。これがただのプロパガンダなのか正確な分析なのかは、今後の推移を見守りながら明らかにするほかありません。いまはまだ何も言えないのです。

「決断を先送りにする」というと普通は悪い意味でとらえられますが、複雑な現代世界を理解するのに我々の理解力は乏しいと自覚する必要があると私は常々考えています。あえて静観する、動向を注視する、早合点しない――こういう姿勢が「戦時中」であるいま、特に求められていると考えます。

関連記事:12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(1)
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10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(1)

10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢について一気に、かなり端折ってまとめます。全2部作です。続きは、12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(2)」になります。

■「ロシア軍は追い詰められつつあります」の答え合わせ
10月8日に発生したクリミア大橋爆発事件は、この戦争を新しい段階にエスカレートさせました。ロシア政府はウクライナ軍による爆破だと断定。発送電設備等へのインフラに対するミサイル攻撃を激化させました。ウクライナ軍はロシア軍のミサイルを迎撃していると連日発表していますが、被害が甚大であることは明らかです。そもそも、ロシア軍が得意とする飽和攻撃の前にはあまり意味のない戦果発表です。広い意味で「ロシア軍の攻勢」と言うるものでした。

ロシア・ウクライナともに押しつ押されつ戦況は動いて来、メディア報道は一通りの報じ方・取り上げ方をして来ました。メディア報道が一定のパターン化しました。すなわち、「ウクライナが押しているときにはウクライナ軍の軍事的戦果を誇り、ウクライナが押されているときには『追い詰められたロシアが最後の足搔きをしている』という構図を描いたり、あるいは、ウクライナ人の戦意の高さを取り上げたりする」というパターンです。「ロシア軍のインフラ攻勢」である今回もまた、この例に漏れず同じ展開が見られました。

10月19日放送「キャッチ! 世界のトップニュース」は解説コーナーで「大局的に見るとウクライナ軍の反転攻勢を前にロシア軍は追い詰められつつあります」「(ロシア軍は追加動員を進めているが)戦況を逆転させることは困難」とした上で、津屋尚・解説委員に10分近い大演説を打たせました。その内容の要旨は、NHK解説委員室「追い詰められたロシア」に掲載されています。

津屋解説委員によると、ロシア軍のミサイル攻撃の狙いは「最前線の戦況を変えることよりも、同じくウクライナ国民の戦意をくじくことにあった」とのこと。プーチン・ロシア大統領が10月14日に「現時点ではさらなる大規模攻撃の必要はない」と発言した(「プーチン氏「大規模攻撃は不要」 ミサイル不足の指摘も」2022年10月15日 19:00 日本経済新聞)ことについては、「NATOの分析」としつつも「「必要ない」のではなく、実際には、やりたくても「できない」ということ(中略)ロシアの高性能ミサイルはわずかしか残っていない」としました。彼はさらに、「不足しているのはミサイルなどの「武器」だけでなく、「人」も足りていません」としつつ、「プーチン大統領は予備役30万人の招集に踏み切りましたが、動員令の発令後に数十万人ものロシア人男性が招集を逃れるため国外に脱出したとの報道もあります」「招集された兵士の多くは経験も浅く、訓練も、装備も不十分なまま戦地に送られている。命をかける大義も持てず、兵士の士気は低くならざるをえません」とした上で、「戦力の立て直しは非常に困難で、ロシア軍は“組織的な戦闘”が難しくなっている」としました。

津屋解説委員の「解説」について、(1)ミサイル攻撃の目的、(2)「むしろウクライナ人の戦意が高揚している」報道、(3)ロシア軍のミサイル在庫、(4)ロシア軍の予備役追加動員、そして(5)「追い詰められたロシア」という大局的な見方、に絞って考えてみましょう。

○電力インフラ攻撃の真の被害・影響に触れようとしない
ウクライナ国民の戦意をくじく」――よく指摘されることです。日本メディアは「ウクライナ国民の士気の高さ」を開戦当初から強調してきた(台湾・沖縄有事に際して「ウクライナ人のように戦おう!」というプロパガンダを展開するつもりなのでしょう)ので、今回もその線で解釈しているのだと思われますが、電力インフラの破壊は戦意をくじく」レベルの話ではなく、物質的な戦闘継続能力を確実に削ぐものです。

現代社会は、ほぼすべてが電気で動いています。その電力インフラの3割から4割が破壊されたとなれば、「極寒の冬に暖房がつかず厭戦機運が高まる」では済みません。重要施設に電力を優先的に割り当てたり自家発電機を導入したりといった対策を講ずるにしても多大な労力が必要になるわけで、物質的な戦闘継続能力を確実に削ぐものです。シリアでの戦闘指揮経験があるスロヴィキン氏が指揮を執っているという人事的布陣を重視すべきです。本来はこの角度から論評すべきものです。

「今日のウクライナ情勢は、明日の台湾・沖縄情勢」が、日本の支配層がウクライナ情勢報道に異様に熱を入れている理由だと思われますが、ならば日本の電力インフラ防護体制はどうなっているのかをウクライナ情勢から学ぶという角度で取り上げるべきです。「ウクライナ国民の戦意をくじく」という角度から取り上げている場合ではありません。

おそらく日本の電力インフラ防護体制は、まったく話にならないくらい無策なのでしょう。この国の支配層・権力者は、解決しなければならない課題を国民に対して率直に告白して解決策を全国民的に模索することよりも、その課題を隠したり誤魔化したりする傾向にあることが、たとえば新型コロナウイルス禍において判明しています。あれだけ「今日のウクライナ情勢は、明日の台湾・沖縄情勢」と煽ってきておいて、「ウクライナはこんなことになっているけど、では日本は?」という議論がまったくと言ってよいほど見られないのは異様なことであり、意図的に回避していると見なすべきでしょう。

○「戦意の高さ」は本来どのように報じるべきか
士気・戦意云々についても述べておきたいと思います。11月に入ってからも11月4日づけ「国際報道2022」が同じ調子で、ロシア軍のミサイルによる電力インフラ攻撃について「ウクライナの人々の戦意は衰えていない」「衰えるどころか絶対に負けられないと奮い立つ様子も垣間見えます」と報じたところです。

確かに戦争においては、戦闘行為の主体である戦闘員の思想意識、つまり「戦意の高さ」は重要な要素ではあります。しかし、思想意識は物質的な担保があって初めて現実世界を変革し得るものです。それゆえ、思想意識にばかり注目しているようでは観念論に陥ります。特に日本世論は、かつての「竹槍でB29を落とす」が典型的に示しているように、非常に容易に観念論に転落する文化的特徴を有しています。客観的条件が非常に厳しい状況において殊更に「戦意の高さ」を強調することは、日本世論においては非常に危険なことなのです。

「戦意の高さ」が如何にして現実の物質世界を変革するのか、より詳しく言えば、「戦意の高さ」がどのようにして人間の創意工夫を刺激・喚起し、所与の条件を自分たちにとって有利な方向に改造してゆくのかについて道筋を立てて解明する場合にのみ「戦意の高さ」を取り上げるべきであると考えます。そうでない「戦意」など単なる「熱意の空回り」に過ぎないものと考えます。私は、11月4日づけ「国際報道2022」に典型的に見られたように、自陣営が不利になると物質的根拠のない「熱意の空回り」的な「戦意の高さ」が取り上げられる日本の現状を非常に危惧するものです。

○いつまでも尽きないロシア軍の在庫
ロシア軍の高性能ミサイル在庫の問題について話を移しましょう。ずいぶん前からロシア軍が持つ武器弾薬の在庫不足は深刻だと指摘されてきました。その線で行けば10月時点でとっくにミサイルの在庫は払底しているはずのところ、実際には大規模なミサイル攻撃が複数回仕掛けられました。12月末現在の知識から申せば、「ロシア、制裁の影響下で弾道ミサイルや精密誘導ミサイルを288発製造」(2022.11.23 ミリタリーニュース系ブログ「航空万能論GF」)とのこと。半導体不足の指摘についても「ロシアの武器製造が止まらない理由、制裁を回避する物流ルートの存在」(2022.12.17 ミリタリーニュース系ブログ「航空万能論GF」)という分析が出ています。

開戦当初の報道を思い起こせば、米欧諸国の経済封鎖によってロシアという国はとっくに干上がっており、侵攻は失敗に終わりプーチン大統領は政権の座から追われているはずのところ、12月末時点ではまったくそのような事態には陥っていません。むしろ、ウクライナ軍幹部が「年明けからロシア軍の大規模攻勢があり得る」と警鐘を鳴らしている(「ロシア軍、来年にも新たな大規模攻撃を計画=ウクライナ首脳」2022年12月16日 BBC)くらいです。

○予備役動員と新兵動員を意図的に混同している?
予備役の追加動員についても述べておきたいと思います。日本メディアは、追加招集された予備役30万人がそのまま最前線に投入されているかのように報じており、「右も左も分からない経験の浅い兵士を最前線に送り込むほどロシアは追い詰められている」という構図を描いています。津屋解説委員の「解説」もその筋のものであると言えるでしょう。

しかし、ショイグ・ロシア国防相がプーチン大統領に報告したところによると、前線に送られたのは30万人のうち4万人で、残りは訓練中であるとのこと(「露「部分的動員」完了 既に4万人前線に」2022/10/29 00:33 産経新聞)。一般論としても、予備役は在郷軍人とも呼ばれるものであり新兵とはまったく異なるものです。視聴者の無知をよいことに、そのあたりを敢えて混同して印象操作しているように思えてなりません

○戦線はほとんど動いていないのに「追い詰められたロシア」?
「追い詰められたロシア」という大局的な見方について考えてみたいと思います。

ウクライナ軍による9月のハルキウ方面の反撃は確かに劇的なものでした。マリウポリ陥落2日前まで些細な反撃・一時的なロシア軍の足止めに過ぎないものを「ウクライナ軍の反転攻勢が始まった!」と騒ぎ立てていたNHKが長く待ち望んでいたものだったのでしょう。「ウクライナ軍の反転攻勢が始まった! ロシアは追い詰められている!」と書き立てたく気持ちは分からないでもありません。

しかし、9月29日づけ「ウクライナ軍の「反転攻勢」がしぼむ中、またしてもロシア報道が「北朝鮮」報道化している」でも書いたとおり、ウクライナ軍は非常に念入りに準備したにもかかわらずヘルソン方面においては、装備が劣悪で士気が著しく低いとされるロシア軍に対して思うように前進できなかったのが現実でした。@War_Mapperというツイアカでは、両軍が支配下に置いている領域が色分けされた地図が毎日更新されており戦線の変動が視覚的に確認できます。8月下旬からの投稿を振り返ると、9月10日から20日にかけてハルキウ方面でウクライナ軍が大きく前進したことを確認できますが、その後は戦線にほとんど動きがありません

8/25 00:00 UTC の戦況
9/1 00:00 UTC の戦況
9/10 00:00 UTC の戦況
9/20 00:00 UTC の戦況
10/1 00:00 UTC の戦況
10/10 00:00 UTC の戦況
10/19 00:00 UTC の戦況
11/1 00:00 UTC の戦況
11/10 00:00 UTC の戦況
11/20 00:00 UTC の戦況
12/1 00:00 UTC の戦況
12/10 00:00 UTC の戦況
12/20 00:00 UTC の戦況
12/31 00:00 UTC の戦況

ロシア軍は相当弱体化していたでしょうが、ウクライナ軍も打撃力に欠けていたわけです。これで「追い詰められたロシア」は飛ばし過ぎであると言わざるを得ないでしょう

ちなみに、日本時間11月7日午前4時放送のフランスF2は、ヘルソン方面におけるウクライナ軍の一日平均前進距離が500メートルだと報じました(11月7日午前8時放送「キャッチ! 世界のトップニュース」で確認)。ハルキウ方面におけるウクライナ軍の破竹の進軍を見てしまうと、ヘルソン方面の500メートル/日の前進について「反転攻勢を強めるウクライナ軍」とするNHKの感覚には違和感を覚えざるを得ません。F2が「500メートル/日」と定量的に報じているのに対して、NHKが単に「反転攻勢を強める」などと印象論的な繰り返しにとどまる点に私は注目したいと思います。「反転攻勢を強める」というのは何を基準として「強めている」のか、500メートル/日の前進は「強めている」うちに入るのか、そういう問いが出てこず一事が万事、感覚的な日本言論を危惧します

■何を以って「勝ち」「負け」なのかの定義が欠如している
そもそも、何を以って「ウクライナの勝ち」であり「ロシアの負け」だと言い得るのかという根本的な定義が欠如しています。信じがたいことですが、戦争の「勝ち」「負け」の定義さえもが曖昧になっているのがこの戦争であるのにもかかわらず。

トランプ米政権下で大統領補佐官を務めたジョン・ボルトン氏は「西側にとってはっきり「勝利」と定義づけられる展望が存在しない」と指摘し、ウクライナでの戦争を終わらせるためにはプーチン大統領その人を打倒する必要があるので、まずはロシア国内の造反を煽るべきだと提言しました(「「ロシア内部に働きかけよ」ボルトン元大統領補佐官がプーチン打倒作戦を提唱 ロシアのレジームチェンジしか戦争終結の道はない」2022.10.12)。何を以って「勝ち」と言えるのか米欧諸国は見失っているわけです。ロシアも同様でしょう。ウクライナ側の観測ではありますが、「(ロシアは)惰性で攻撃しているだけ」(「「部分的動員」という賭けに出たプーチンの苦渋」2022/09/23 4:30 東洋経済オンライン)とのこと。確かに開戦以来、はっきりとした展望があるのか疑わしい用兵が続いてきました。

津屋解説委員の「解説」には、そこまで考えて抜いている形跡はありません。「基準自体を問い直しながら、基準に照らして考える」という発想がないのでしょう

もし、ウクライナの領土からすべてのロシア軍部隊を撤退させることが「ウクライナの勝利でありロシアの敗北」だとすれば、上述のとおりウクライナ軍の勢いは急速に落ちていたので、10月時点ではその展望は日に日に説得力を失っていました。「追い詰められたロシア」という見方は正しいとは言えず、ロシア・ウクライナともに疲弊し戦争は膠着状態に向かいつつあるという見方こそが当時も今も説得力のある見方だったと考えます。

12月末時点の知識で10月時点の分析を批判するのは後出しジャンケン的だという批判もあるでしょう。しかし、上述のことは10月時点でまったく予想できなかったことではなかったはずです。津屋解説委員の見立てを「答え合わせ」的に総括する必要があります。

■これでは「アメリカの伝書鳩」
10月31日の「ニュースウオッチ9」は、「『プーチン氏のような人間を追い詰めれば、そこから抜け出すために何だってやるだろう。そして、核兵器を使う恐れはかなりある』と指摘する人物がいます」「NHKとのインタビューでプーチン氏に影響を与えられるのは軍事力だけという見方を示しました」という切り出しで、オバマ米政権下でCIA長官や国防長官を務めたレオン・パネッタ氏のインタビューを報じました。

アメリカは世界最強の軍事力と途方もない経済力で覇を唱えていますが、その実態は「力任せ」であると私は考えています。アメリカと比して遥かに小規模な軍事力と経済力しか持たない朝鮮民主主義人民共和国が、考え抜かれた外交戦略によって国益を実現しているのと比べるとアメリカ外交は粗野であると言わざるを得ません。長期的な戦略を立てて計画的に執行しているようには見受けられないのです。また、アメリカは確かに高い情報収集能力を誇っているとは思いますが、以前から指摘しているように、彼らの世界観が非常に単純であるため、せっかく集めた情報を「アメリカ人流」に解釈してしまっています。それゆえ、中東やアジア、そしてロシアのような非米欧圏の分析は、情報収集能力の高さの割には外すことが少なくないように思います。

アメリカ覇権の根幹たる軍事力と経済力に陰りが見えてきたのが20世紀後半以降でした。没落のスピードが特に加速したのがブッシュ・オバマ両政権以降だと私は考えていますが、そのオバマ政権で要職を務めたのがパネッタ氏でした。そんな彼のインタビュー内容は「さすが」と言うべきでしょうか。彼はロシア軍の死傷者が多いことについて「このことはロシアに残された家族に打撃を与えプーチン氏への批判を呼び起こしている。彼は非常に困難な状況に立たされている」と「分析」しました。

これに対して、わずか1か月後の12月3日にはザルジニー・ウクライナ軍司令官が「ロシアの動員が上手くいっていないことはない」「ロシア兵は、プーチンが戦えといえば戦うだろう」などと述べた(「An interview with General Valery Zaluzhny, head of Ukraine’s armed forces」 The Economist)ところです。確かに動員によってロシア国内では少なからぬ混乱がありましたが、10月時点で見ても概ね落ち着きつつあり、12月時点から振り返っても10月時点で既に落ち着いていたと評価できるものです。「動員による混乱は、いずれ落ち着くだろう」という見立ては、10月31日時点で知り得た情報からまったく予想できなかったとは言えないでしょう。パネッタ氏の予想は、「民衆は自由を求めており、いつか必ず独裁者に対して立ち上がるはず」というアメリカ的な理解が、ロシアで見られた断片的な真実を誇張して理解せしめたものと見なすべきでしょう。そしてそれをそのままタレ流す日本メディア。少しくらい独自の批評を加えてもいいでしょうに、これでは「アメリカの伝書鳩」です

パネッタ氏のインタビューは、「プーチン氏に影響を与えられるのは軍事力だけだ。それゆえアメリカと同盟国とウクライナは、ロシアを撃退し続け、この戦争に勝たなければならない。それがプーチン氏を何らかの解決策に同意させる唯一の方法だ」というセリフで終わりました。その後、画面はスタジオに戻り、田中正良アナウンサーの「今回のインタビューなんですが、アメリカの軍事と諜報部門のトップを歴任したパネッタ氏の発言だけに耳をよく傾けておく必要があると思うんですね」というコメントで結ばれました。後述するように、この僅か数日後から軌道修正を迫られるとは、このとき田中アナウンサーは夢にも思っていなかったことでしょう

■確かにある意味で「潮目が変わった」
「安保三文書」の改訂が現実的な案件となってきたからか、ますますNHKは煽り立てます。11月2日放送「ニュースウオッチ9」は、駐ウクライナ日本大使である松田邦紀氏のインタビューを報じました。一部オンライン記事化されています(「特集記事 「爆発音に神経が慣れていった」松田ウクライナ大使 業務再開」)。

インタビューにおいて松田大使は、「8月下旬から1000キロ以上にわたる長い戦線でウクライナ軍の反転攻勢が優勢なまま進められている。戦争の全体を俯瞰したときの潮目は変わったと言って差し支えないと思う」と述べ、「祖国を防衛する側には地の利があり、士気も高くさらにはウクライナ軍兵士のひとりひとりが欧米製の武器をしっかり使いこなすだけの高い教育を受けている」と続けました。そして、オンライン記事にはありませんが番組は最後にスタジオで山内泉アナウンサーが「この侵略戦争を止めなければ他の地域でも起きうる 日本がある東アジアでも起こりうると思い至ってほしい」というコメントを読み上げて結びました。松田大使がインタビュー中に自ら述べなかった理由は謎ですが、収録後の原稿校正の中で補充されたんでしょう。プロパガンダなんだから、そういうところに抜かりがあっちゃいけないと思うんですけどねえ・・・

戦争の全体を俯瞰したときの潮目は変わった」と言い切った松田大使、そしてそれを放映したNHK。今振り返ると何とも間が悪かったwこの直後、米紙『ワシントン・ポスト』が「(ウクライナ政府に対してアメリカ政府が)ロシアとの交渉に前向きな姿勢を見せるよう非公式に働きかけている」と報じ(「米政権、ロシアとの交渉巡りウクライナに働きかけ=米紙」2022年11月7日9:35 ロイター)、11月16日にはあのミリー・アメリカ統合参謀本部議長の発言があったからです。

ワシントン・ポスト紙の記事によると「ウクライナを交渉のテーブルに着かせることが目的ではなく、各国のウクライナ支援を確実に維持するための計算された試み」とのこと。この要請の真意は「ウクライナのゼレンスキー大統領がロシアのプーチン大統領との会談に応じない姿勢を示していることで、ウクライナ戦争で物価が高騰している欧米など一部の国で懸念が生じている」だそうで、要するに「やっている感」を出すためのジェスチャーでしかないと書かれていますが、そんな甘い話で済むはずがありません。「欧米など一部の国」の眼は節穴ではないので、ゆくゆくは「成果」を出すように要求されるのは明白だからです。松田大使とは違う意味ではあるものの「潮目は変わった」というべきです。

■狼狽し醜態を晒した11月上旬のNHK報道
ワシントン・ポスト紙の記事は明らかにNHKを筆頭とする日本メディアの報道姿勢を動揺させました。しかし、米欧諸国のメディアと異なり、現地を独自に取材する能力もなければスタジオで情勢を独自に分析する能力もない日本メディア。未だに、軍事の専門家ではない東野篤子・筑波大学教授に具体的な戦況を語らせているくらいです。それゆえ、日本メディアの11月上旬の報道は精彩を欠くものでした。

ロシア軍のヘルソン市撤退をめぐる報道、具体的にはワシントン・ポスト紙の記事が出た11月7日から12日にかけての報道が最も醜態を晒していたものと考えます。編集部の右往左往ぶり、狼狽ぶりが透けて見えます

ヘルソン市をめぐる「決戦」が繰り広げられるという観測が出回った11月上旬ですが、ロシア軍は、ヘルソン市およびドニプロ川西岸からの撤退を表明しました。11月9日午前4時(日本時間)放送のフランスF2がロシア軍の撤退について「象徴的に大きな意味がある」「プロパガンダ的にはまさに破滅的な事態」と指摘(11月9日午前8時放送「キャッチ! 世界のトップニュース」で確認)としたので、夜のNHKニュースは狂喜乱舞するのだろうと思ったところ、驚くほど謙抑的な報じ方でした。

当日(11月9日)はアメリカ中間選挙を重点的に取り上げた関係で「ニュース7」「ニュースウオッチ9」ともにウクライナ情勢に割いた時間はゼロ。「ニュースウオッチ9」は中間選挙報道の後に何故か「変わる部活動」なる特集を捻じ込み、ウクライナ情勢をパスしました。明らかに避けています。翌10日は、「ニュース7」は主要ニュースの最後、30分間の放送のうちの20分過ぎにやっとウクライナ情勢を取り上げましたが、内容は事実を短く伝えるのみ。当時は「撤退を装った罠」説も根強かったので慎重な報道になるのも分からないでもありませんが、マリウポリ陥落の2日前まで「ウクライナ軍の反転攻勢」を云々していたのと比べると異様な静けさであると言わざるを得ません。「ニュースウオッチ9」に至っては、「ニュース7」と異なりニュース解説に特色がある番組であるはずのところ、天皇の前立腺肥大よりも優先度の低いニュースとして事実を短く報じるのみでした(呆)

撤退が完了したとロシア国防省が発表した11日、「ニュースウオッチ9」は放送開始から30分後にウクライナ情勢のコーナーを組みました、ヘルソン撤退自体にはほとんど時間を割かず、アメリカのサリバン・元駐ロシア大使へのインタビューを報じました(5分程度)。主たる内容は「「プーチン氏 ウクライナ支配達成に執着」米の前駐ロシア大使」(2022年11月11日)及び「ロシア“プーチン氏は妥協しない” アメリカの前駐ロ大使の洞察」(2022年11月25日)で記事化されています。最後に田中正良アナウンサーが「ロシア軍が劣勢におかれていることについてサリバン前大使は、プーチン氏の政治的な立場はある程度弱まったと見ているんですね。ただ、政権の内部でプーチン氏の追放を企んでいるものが居るとは言えないとも指摘しているんです。プーチン大統領の権力は依然揺らいでいないと分析しているようです」と述べて結びました。異様な謙抑さです。

米欧諸国のメディア論調の取りまとめが終わったのか、ようやく11月12日になって「サタデーウォッチ9」が時間を割いて取り上げました。ほとんど文字起こしされていませんが「【解説】ウクライナ ヘルソン奪還 プーチン氏に政治的ダメージ」(2022年11月14日 18時40分)に当たります。番組は喜びに沸くヘルソン市民の映像を映し出した後、「ロシア兵の不満が表面化している」として官給品の質が悪いことに対する不満が上がっているだとか、あるいは、ロシアの独立系メディアが報じたところとして「ロシア軍 予備役500人以上が攻撃受け死亡 一個大隊ほぼ全滅か」(2022年11月8日 5時43分)に書かれている内容を報じたうえで、兵頭慎治・防衛省防衛研究所政策研究部長の解説を放映しました。

兵頭氏によると「州都の奪還なのでウクライナにとって政治的に大きな意味、ロシアにとって政治的に大きな痛手になる」(要旨)とのこと。他方、軍事合理的な撤退であるとも指摘。戦力を立て直して再び攻勢に出るつもりなのだろうと見通しました。今後については、ドニプロ川が防衛線になると思われるとして、ウクライナ軍が渡河して進軍するのは簡単ではなく、南部の戦況が膠着する可能性がある、ロシアは長期戦を見据えているだろうとしました。「ロシアにとって政治的に大きな痛手になる」かどうかは、後述するように私は懐疑的に見ていますが、軍事的には突拍子もない話ではないようなので順当な解説だろうと思います。津屋解説委員の大演説とはかなり印象が異なります

士気低下が深刻・督戦隊が云々・精密誘導兵器をはじめとする武器不足も深刻などと従来からのの筋書も引き続き登場するものの、津屋解説委員が10月19日に打った上掲大演説に比べれば冷静になってきたものです。そもそも、「ロシアは苦境に陥っている」と言いながら「長期戦の構え」だともするのは、落ち着いて聞いてみると矛盾しているものです。いつまたワシントン・ポスト紙記事のようなものが出てくるか分からないので、とりあえず書いて書いて書きまくって印象を操作する段階は卒業し、話に整合性を取るようにし始めたのでしょうか?

■プロパガンダを打つなら、それなりに調整しなよ
もちろん、完全に心を入れ替えて事実から出発する報道に転向したわけでもありませんでした。ライターの牛窪恵氏がコメンテーターとして出演していたのですが、彼女はロシア軍について、「自分の息子があんな環境に置かれていることを知ったら、本国の親御さんたちが黙っていないのではないか。プーチンどうなっているんだという話になるんじゃないのか」といった趣旨のコメントを述べました。視点としては非常によいと思います。しかし、NHKは事前に出演者たちと打ち合わせしないのでしょうか、それに対応する裏付け取材がなく、結局言いっ放しに終わりました。視聴者の「そうだそうだ!」狙い、つまり単なる印象操作でなければあまりにもお粗末な手抜きです。

ちなみに、まったく同じ顔ぶれが12月10日の同番組でも再現され牛窪氏はまったく同じ話をしたのですが、ツイッター上の発言や「母と妻の評議会」なる団体のオンライン署名が出てきた点は若干進歩したものの、結局はどの程度まで反戦・厭戦意識が広がっているのかを示す裏付け取材はありませんでした。「国際報道2022」によると、米軍関係者がロシア語メディアを装った偽のインターネットメディアを開設していたとのこと(「【解説】ロシア軍事侵攻でアメリカ軍がSNSでプロパガンダ疑惑(油井'sVIEW)」2022年11月28日)。こういうの聞いちゃうと疑わしく見えてきますよね。アメリカが自爆してロシアが棚ぼたの利益を得た形ですが、そうであるからこそ「国際報道2022」は、プロパガンダの観点から言えば、いっそこんなこと報じなかった方がよかったのではないでしょうか? またしても印象操作を狙った番組が身内の報道によって疑わしくなる展開。プロパガンダを打つなら、それなりに調整しなよ。

また、11月15日の「国際報道2022」では、石川一洋・専門解説委員の解説がありました(「【徹底分析】ロシア軍 南部ヘルソン"撤退"でプーチン政権への打撃は 石川一洋解説」に文字起こしされています)。石川解説委員はこの中で「実際に決定したのは間違いなくプーチン大統領です。しかし軍の決定であることを前面に出して、大統領への政治的な打撃をできるだけ抑えようという意図が表れています」としましたが、例によってその推測の根拠は示されずじまい

日本メディアの分析では、明確な根拠が示されずに「そう考えているに違いない」くらいでしかないことが往々にしてありますが、今回もその一つであると言わざるを得ないでしょう。ちなみに、「部下が勝手にやった」というのは古今東西の権力者の常套句ですが、それを真に受ける被支配民はそれほど多くないものと考えます。一歩間違えれば社会不安が増大しかねないデリケートなときに、典型的な言い逃れを使うだろうかという疑問も残ります。

■ヘルソン市からのロシア軍の撤退について考える
ヘルソン市からのロシア軍の撤退について、報道から離れて考えてみましょう。

先にフランスの放送は「プロパガンダ的にはまさに破滅的な事態」と指摘しましたが、当の撤退命令を決定した会議にロシア国営テレビのカメラが入っていたことを考えると、そのような評価は下し難いものと思われます。本当の意味での「プロパガンダ的にはまさに破滅的な事態」においては、マリアナ沖海戦で完敗したときの日帝大本営のような強弁をするものです。

政治的な葛藤がそれほど見られず、そして軍事的には統制が取れたまま撤退したあたり、ロシア政府は「一旦引いて体勢を立て直し、最終的に取り戻せばいい」くらいにしか考えていないように思われます。「ロシアの敗北」を印象付けるべく、プーチン大統領が9月末の4州併合式典で述べた「永遠にロシアになった」という発言のシーンがNHKでは繰り返し放映されましたが、当のロシア政府は、この戦争を非常に長期的な「計画」に沿って遂行していると考えられます。

ロシアの独立系メディア「メデューサ」は、на настроении большинства россиян отступление из Херсона никак не сказалось:≫(ヘルソンからの撤退は、大多数のロシア人には心理的影響を与えなかった)と報じています(≪≪Настоящую войну мы проиграли≫ ≪Медуза≫ выяснила, что ≪российские элиты≫ думают об отступлении из Херсона и постоянных неудачах на фронте≫2022年11月18日)。米欧メディアや兵頭氏(上掲、11月12日サタデーウォッチ9での発言)らは、ヘルソン撤退がプーチン大統領に与える政治的打撃の大きさを声高に主張してきましたが、そんなことはないようです。現に、12月時点から振り返ってもヘルソン撤退がロシア政府・軍及び社会に動揺を与えているようには見受けられません。

「メデューサ」が報じたこのニュースをNHKは完全に黙殺しました。ルハンシク方面の前線でロシア軍の一個大隊がほぼ全滅した「らしい」という、複数のロシア独立系メディア発の怪文書的なニュースをNHKは確報的に繰り返し報じた(「ロシア軍 予備役500人以上が攻撃受け死亡 一個大隊ほぼ全滅か」2022年11月8日 5時43分)にもかかわらず。こうなってくると都合の良い記事を寄せ集めているだけと言わざるを得ないでしょう。

ヘルソン市からのロシア軍の撤退を「プーチン政権への大打撃」と書き立てる米欧諸国及び日本メディアの報道からは、短期間に利益を上げ確定させる必要がある西側資本主義社会に固有の思考の癖が現れているものと考えます。即物的な成果を追い求める癖がついてしまっているのでしょう。これに対して、自らに歴史的使命を課しているプーチン大統領のタイムスパンは、西側資本主義的なタイムスパンと比べて明らかに長いと思われます。

■ミリー発言を無視した「ニュースウオッチ9」
松田大使とは違う意味で潮目が変わったことを、疑いの余地なく白日の下に晒したのは、ミリー・アメリカ統合参謀本部議長の発言でした。ミリー議長は「ウクライナが目指す「軍事力によるロシア軍のウクライナ国外への物理的な駆逐は、極めて困難な任務」であり、「近いうちに」達成される公算は小さい」との見方を示しつつ、「政治的にロシア軍が撤退する方法」はあり得るとしたうえで、「交渉というものは自分たちが強く、相手が弱い立場にあるタイミングで行うのが望ましい。そうすれば恐らく、政治的な解決策が見つかるだろう」としました(「ウクライナからの「ロシア軍の物理的な駆逐」、すぐには起きない可能性 米軍制服組トップ」2022.11.17 CNN)。

ミリー議長のような立場の人士が単なる個人的な感想を会見で口にするはずがなく、この発言は、アメリカ軍内部で相当大きな勢力が存在している証左であると読むべきです。この発言はバイデン政権を代表する発言ではなかったことは私も認めます。同記事によるとミリー発言を受けてバイデン政権の閣僚たちが「ウクライナ政府や外部の専門家、米国の元当局者らに対し、ウクライナ側にロシアとの交渉を直ちに迫ることはないと安心させるための対応に追われる一幕があった」とのことです。しかし、アメリカの政権内部でも公然と意見が割れ始めていることは確実なことです。カディロフ・チェチェン首長の核使用を含めた好戦的発言をクローズアップしておいてミリー発言を個人的発言として矮小化するとすれば、これは筋が通らないことです。

ミリー発言が、ポーランドの農村にミサイルが着弾した事件(後述)と時間を置かずに発されたタイミングにも注視すべきです。著名な個人ブログ「世に倦む日々」が「ミリー発言の意味と背景 − 戦争方針をめぐるCIAと米軍の亀裂と対立」(2022年11月22日 15:28)において、CIAと軍部との対立を背景に本事件を分析したのは興味深い視点だと思いますが、第三次世界大戦開戦に向かいかねないタイミングで差し水を注いだのがミリー議長でした。

11月17日の「ニュース7」はミリー発言を短時間触れましたが、同日の「ニュースウオッチ9」は一切取り上げずじまい。ポーランド領内で発生したミサイル着弾事件の続報を取り上げたコーナーの終わりに、田中正良アナウンサーが「今回、国際社会は戦争の構図がNATO対ロシアに広がってしまうことを懸念したわけですが、こうしたことを防ぐにはロシアがただちにウクライナへの攻撃をやめることしか根本的な解決はありましぇん!」などと述べるに留まりました。そんな説教がロシア政府に通じるわけがないでしょうに。

パネッタ氏の「プーチン氏に影響を与えられるのは軍事力だけだ」という発言について「アメリカの軍事と諜報部門のトップを歴任したパネッタ氏の発言だけに耳をよく傾けておく必要があると思うんですね」と述べ、松田大使の「ウクライナ軍の反転攻勢が優勢なまま進められている。戦争の全体を俯瞰したときの潮目は変わったと言って差し支えない」という見解を取り上げて盛り上げたのに、現役のアメリカ軍最高幹部に梯子を外された「ニュースウオッチ9」。ハンテンコーセー(反転攻勢)と呪文のように唱えてきたNHKは、ワシントン・ポスト紙の記事に始まり、ヘルソン市奪還で一息ついたものの、ミリー発言で決定的となった潮目の大転換の前には固まるほかなかったのでしょう

独自の現地取材も独自の情勢分析もできないのは日本メディアの自力不足というべきものであり、急には如何しようもないことです。米欧諸国のメディアが最前線の手前数キロで現地取材しているところ、日本メディアは基本的に外電の引用で、現地取材と言ってもキーウやリヴィウといったウクライナ政府・軍の支配が確立された比較的安全な地域からのそれにとどまっています。日本メディアの報道が、米欧メディア、特にアメリカメディアの引き写しばかりであるのは、日本がアメリカの属国であるという事情だけでは説明しきれないものと考えます。

しかし、「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」という国家スローガンを踏まえれば、このことは極めて重大な問題であると言わざるを得ないでしょう。

■潮目の大転換たる兆候は既にこれ以前にあった
いま振り返れば、潮目の大転換たる兆候は既にこれ以前にありました。「汚い爆弾」騒動と、穀物輸出合意にかかる駆け引きでした。また、「国際世論」における地殻変動も既に起こっていました。これに気が付かなかったのは痛すぎます。

「汚い爆弾」騒動は、10月下旬になってロシア政府が大々的に騒いだ根拠不明の情報戦でした。興味深いのは、ロイター通信が報じているように、米欧諸国要人らがこれをテーマとしてロシア政府要人との電話会談に応じたところです。ロシア国営テレビが国内向けに報じられるプロパガンダではないということです。「米英仏の外相は、ロシアの「見え透いた虚偽の主張」を拒否すると表明」したといいますが、しかし、門前払いせずに会談に応じはしたわけです。何らかの意味があると疑ってかかるべき出来事です。

これに対してNHKなど日本メディアは「ロシアの核恫喝だ」などと定番の批判を展開するに終始しました(「<社説>窮地のロシア 核の脅しは危険極まる」2022年11月7日 東京新聞)が、ある日突然、ロシア政府も米欧諸国政府もこの問題に触れなくなったものです。

「ロシアが急に静かになった理由はIAEAの査察でそんなものはないことが分かったから」でしょうか? 確かにそういう報道はありました(「「汚い爆弾」確認されず ウクライナ核施設―IAEA」2022年11月04日04時48分 時事通信)。しかし、「IAEAはウクライナとグル!」くらいのことはロシア政府は平気で言ってのけるでしょう。あるいは、「アメリカの本気の警告にロシアがビビったから」でしょうか? Googleニュース検索を使い日付を絞って≪Грязная бомба≫を検索してみたのですが、国内向けのプロパガンダまでもが急に低調になったのは不可解です。プーチン大統領が内弁慶である分には米欧諸国は特段関心はなく、実害のない無意味な遠吠えは無視するのが通例です。

おそらく、ロシア政府は米欧諸国政府との間で緊張緩和を志向する何らかの成果を獲得し、ロシア政府としては目標を達成したのでプロパガンダ展開を止めたのでしょう。記事によると「米政府当局者によると、米・ロシア軍トップによる電話会談は5月以来初めて」とのことで、完全に没交流だったのを打開できたこと自体がロシア政府にとって成果だったのかもしれません。

この不可解な急展開的な沈黙を深堀しなかったことは、今振り返ると潮目の転換を捉え損ねたという意味において痛手だったと総括しなければならないでしょう。

穀物輸出合意にかかる駆け引きにも注目すべきです。この駆け引きは、ウクライナ軍が穀物回廊を利用してロシア軍艦船を攻撃してきたとロシア政府が主張し、それを理由に穀物輸出合意の無期限停止を宣言したものです。日本メディアは例によって「食糧盾に欧米揺さぶり」などと書き立てました(「ロシア、穀物輸出合意を「停止」 食糧盾に欧米揺さぶり」2022年10月31日 2:00 日本経済新聞)が、結局「ウクライナ政府から穀物回廊を対ロシア軍事作戦に使用しないとの保証を得た」ことを理由としてロシアが合意に復帰することで幕引きとなりました(「ロシア、穀物輸出合意に復帰 期限延長巡り駆け引きも」2022年11月3日4:36)。

興味深いのは、国連のグリフィス事務次長がロシア政府の主張を否定(「国連、黒海の穀物運搬船を攻撃に利用とのロシアの主張を否定」2022年11月1日4:34 ロイター)し、また、ウクライナ側が否定したのにも関わらず、結局ウクライナ政府はロシア政府を満足させる一筆を書いたところにあるでしょう。これはウクライナ政府にとってかなり屈辱的なことです。ゼレンスキー・ウクライナ大統領の「ロシアによるウクライナへの攻撃がなければ、世界的な食料危機の脅威が生じることはなかった」という捨て台詞(「ロシア 農産物輸出合意の復帰表明も ウクライナは不信感を表明」2022年11月3日 11時30分 NHKニュース)からは、行間から悔しさがあふれ出てきています。

この展開は、ウクライナ政府が外圧によって一筆書かされたことを示唆するものでしょう。ロシア政府はこの駆け引きにおいて外交的要求を満たしたわけです。

「国際世論」における地殻変動も、とっくに起こっていました。「キャッチ!世界のトップニュース」が10月31日に報じていたこと(「」)ですが、たとえばチェコでは10月28日、プラハで数万人が参加した抗議活動があり、「政府は自国よりもウクライナを優先し、物価の高騰を招いているなどと抗議した」とのこと。10月12日の国連総会では、ロシア政府を非難する決議に対してアフリカを中心に棄権する国も依然として少なくなく、ロシア側を利する地盤の固さが伺えます。アメリカも国内世論の変化を受けて徐々に軟化しているようです。そして、東京新聞が12月2日づけ「米仏両首脳 ロシアのプーチン大統領と「話す用意ある」 停戦交渉に言及 」で報じたとおり、「(バイデン大統領は)「すぐに連絡する予定はない」と述べたが、10月の米CNNのインタビューで「会う理由がない」などと語っていた強硬姿勢からは軟化したもよう」と指摘しているところです。

上記は12月末時点から当時を振り返り、「思えばあれも兆候だった」として書いたものですが、10月・11月時点でまったく予想できなかったことではなかったはずです。『ワシントン・ポスト』報道やミリー発言以前からも少しずつ潮目は変わっていたのです。それを読み取れなかった日本メディア、特にNHKだったのです。

■ゼレンスキー大統領の危険な見切り発車発言を「勇み足」とする驚愕の日本メディア――味方といえども重大な誤りは厳しく批判することが大切であるはず
ポーランドの農村にミサイルが着弾した事件について、日本メディアの報道を振り返りましょう。

まず、古舘伊知郎氏がまるでトンチンカンな見解を述べた(「古舘伊知郎氏 ポーランドにミサイル着弾2人死亡で「あえてNATOを刺激している」可能性も指摘」2022年11月16日 15:14)のには心底呆れました。支離滅裂的に意味不明な古舘発言ですが、上掲記事は頑張って「アメリカが出てきたから負けたというロシア国民が納得する口実作りのためにわざとNATOを刺激したのでは無いかという予想」と要約してくれました。よく頑張った。そして心底呆れた。

プーチン大統領は、開戦演説のときからアメリカやNATOに言及していました。彼は「問題なのは、私たちと隣接する土地に、言っておくが、それは私たちの歴史的領土だ、そこに、私たちに敵対的な「反ロシア」が作られようとしていることだ。それは、完全に外からのコントロール下に置かれ、NATO諸国の軍によって強化され、最新の武器が次々と供給されている。アメリカとその同盟諸国にとって、これはいわゆるロシア封じ込め政策であり、明らかな地政学的配当だ」と言明しています(「【演説全文】ウクライナ侵攻直前 プーチン大統領は何を語った?」2022年3月4日 18時25分)。また、「アメリカには適わない」などという小国根性は、依然として大国意識(誇大妄想?)を抱いているロシア人にはないでしょう。

ロシア側の主張が未だもってまったく顧みられていない、日本人が日本人の感覚で想像したストーリーに当て嵌めて思考しているに過ぎない=事実から出発していないことが古舘発言ひとつ取っても分かります。

しかしそれよりも驚愕すべきは、問題のミサイルがウクライナ軍のモノであることが確実視されてからの日本メディアの報道です。

ゼレンスキー大統領は早々に「ロシアによる北大西洋条約機構(NATO)の集団安全保障への攻撃だと非難し「行動が必要だ」」などと述べた(「ポーランド着弾で行動必要とゼレンスキー氏」国際 | 共同通信 | 2022年11月16日(水) 08:13)が、バイデン大統領はロシア軍のミサイル説をほぼ即座に否定。ゼレンスキー発言に乗る人は誰もいませんでした。

このことについて東野篤子・筑波大学教授は、11月16日正午のNHKニュースで「若干、勇み足的な発言ではなかったのかと個人的に考えています」と宣い(「ミサイル ポーランドに落下 専門家はどう見る?今後は?」2022年11月16日 16時06分)、同日の「ニュースウオッチ9」で合六強・二松学舎大学准教授は「勇み足だった。情報が確定していない段階でこういう発言をしてしまった」と述べました。翌日の「キャッチ! 世界のトップニュース」は、ゼレンスキー発言を「NATOに軍事介入を求めたと受け取れる発言」と位置づけ「やや勇み足の発言」としつつ、加えて「ウクライナの生命線である国際的な信頼を失わないためにも、こういうときこそ透明性のある調査を徹底して行い、責任ある態度を示せるかが問われています」などと苦言を呈しました。

ポーランドはNATO加盟国です。下手をすれば第三次世界大戦の開戦に至りかねないゼレンスキー大統領の危険な見切り発車発言を、「軽挙妄動」ならまだしも「勇み足」では片づけられないでしょう。ストルテンベルグ・NATO事務総長は「不法な戦争を続けるロシアが最終的な責任を負っている」としました(「ポーランド落下ミサイル NATO「ウクライナの防空ミサイルか」」2022年11月17日 2時01分)が、そうだとしても、基本中の基本である事実確認を怠り、全世界を第三次世界大戦の瀬戸際に追いやりかねなかったゼレンスキー大統領の軽挙妄動は厳しく批判されなければならないでしょう。ひとたび第三次世界大戦の火ぶたが切られてしまえば、もはや「元はと言えば・・・」などという非難合戦の余地もなく、みんな死ぬことになるのですよ!

この事件において東野・合六の両氏はゼレンスキー大統領をまったく批判しなかったし、「キャッチ! 世界のトップニュース」はピント外れの「苦言」を呈するに終始しました。「敵の敵は味方」によれば「ウクライナは日本の味方」ということになるのでしょうが、味方といえども重大な誤りは厳しく批判することが大切であるはず。「身内に甘い」日本人の悪いところがまたしても現れたというべきでしょう。眼前に展開されている事実に基づくのではなく、利害関係を基礎とする対決構図に基づこうとする――現実を見る目を曇らせる典型的な誤りにまんまとハマっています。

■一般のウクライナ国民の受け止め・声がほとんど報じられなかったことから見えること
なお、NHKの名誉のために申しておけば、さすがに17日の「国際報道2022」はトップニュースで扱いました(ほぼ同じ内容を文字起こししたのが「ミサイル着弾 欧米とウクライナで見解に違い 領土の奪還困難も」2022年11月17日 19時26分)。スタジオのアナウンサーが端折った内容を読み上げるのではなくミリー氏の発言シーンを放映する形で。とはいえこの番組はBS放送で、かなりアンテナを高く張っている人だけが見る玄人向けの番組。地上波での放送もありますが、深夜・明け方の時間帯。ほとんどの人は見ていないでしょうね。

「国際報道2022」の17日放送を見ていて興味深かったのは、ウクライナ国内で現地取材していた別府正一郎記者による「ウクライナ国民の受け止め」報道でした。別府記者によると、ゼレンスキー大統領の「我々のミサイルではない」発言を同国民は「ウクライナがポーランドに『打ち込んだ』ミサイルではない」と解釈しているとのこと。些か無理のある解釈だと思いますが、ウクライナ国民も自国のミサイルが誤って着弾したという真相を悟っているということなのでしょう。ゼレンスキー発言が危険な見切り発車だったことについてもインタビュー取材して欲しかったところですが、そんなことをすると下手をすれば「ロシアの協力者」扱いされかねなかったんでしょうね。

振り返れば本件において、一般のウクライナ国民の受け止め・声は、ほとんど報じられてきませんでした。どの報道も、いかに早くこの話を穏便に済ませるかという視点からの世論づくりに腐心し、普段ならば大々的に取り上げられるゼレンスキー大統領の発言さえも封じられ気味でした。ゼレンスキー大統領が公式かつ明確な謝罪をどうしてもやりたがらないこととを受けて、「ウクライナ軍が発射したミサイルが不運にも落ちたものであり、ロシア軍がポーランドを攻撃したわけじゃないみたいだね。だからNATOは介入しません。もちろん、ウクライナのミサイルとはいえ、元はといえばロシアが悪い。うん、だからウクライナは悪くないよ。はい、じゃあ終わり」と言わんばかりの強引な幕引きが展開されたものでした。NATO加盟の米欧諸国としては、第三次世界大戦の瀬戸際になりかねない危険な本件をなるべく早期に穏便に凌ぎたかったのでしょう。ウクライナという国・国民が半ば無視される形で強引にストーリー化され消化されました。どうもウクライナ政府は自分たちが世界の正義の中心だと思っているようですが、決してそうではないことをこの事件は示しているものと私は考えます。

また、全世界を駆け巡ったこの「2人死亡」のニュースですが、当の死者が統計データのような扱いをされていることに私は強い違和感を感じます。ロシア軍のミサイル攻撃で不幸にしてウクライナの子どもたちが亡くなったとき、テレビは散乱して泥にまみれた遺品としての玩具を映し出し、残忍で悲劇的な出来事だと強調しますが、この事件を巡っては幕引きを急ぐことに腐心するあまり、引っ繰り返ったトラクターの映像が映し出されるのみ。民間人が急に命を絶たれた、突然に非業の死を遂げさせられたという悲劇としての描写が弱いように思えてなりません。日本の支配層にとってはウクライナの人的損害は他人事だし、NATO加盟の米欧諸国の支配層にとっては深入りしてロシア政府・軍と全面対決したくないのでしょう。

普段は市井の民を重視するポーズを取る米欧諸国政府ですが、その第一関心の所在・腹の内はあまりにも明らかです。「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」とのことで、台湾・沖縄もこうやって捨て駒にされるんでしょう。日米安保だってどこまで信用できるのか・・・日本を守るためにアメリカ本土が原子野になるリスクを本気で負うとは考えにくいものです。

■ゼレンスキー大統領がウクライナ史に残す禍根
「戦時大統領」として、そのパーソナリティを含めて称揚されてきたゼレンスキー大統領。タイム誌は「今年の人」に彼を選びました。しかし、時を経るにつれて彼のパーソナリティこそが長期的な視点・ウクライナ史のスパンで見たとき、禍根を残すものではないかという疑念が私の中で強まっています

自国、もっといえば自分自身の過ちや責任を絶対に認めようとしないその姿勢は、周囲に悪い印象を残しています。たとえばポーランドでのミサイル着弾事故についてアメリカや直接の被害者であるポーランドが加盟するNATO諸国が「この事故はウクライナ軍の迎撃ミサイルの破片によるもの。もちろん、元はと言えばロシアの侵攻が悪い」と最大限のフォローをしているのにも関わらず、ゼレンスキー大統領は「謝罪の用意がある」としつつも、実際にはなかなか謝罪しようとしませんでした。最近はまったく報道がなくなっていますが、結局未だ以って謝罪していないのではないでしょうか?

ロシア政府としては大爆笑に違いないタイミングで発生したウクライナの外務副大臣人事。「ゼレンスキー大統領はポーランドに対する問題発言で駐独ウクライナ大使から解任した人物を外務副大臣に起用、これにポーランド側が「不幸な出来事でウクライナはポーランドの敏感な問題にもっと配慮すべきだ」と反発している」とのこと(「ウクライナの外務副大臣人事にポーランドが反発、不幸な出来事でもっと配慮すべき」2022.11.22、及び「ポーランドが遂にウクライナ批判、築き上げた関係を台無しにする気か?」 いずれもミリタリーニュース系ブログ「航空万能論GF」)。ほんとにスゴいねこのセンス・・・

いまNATO諸国同士、およびNATO諸国とウクライナの政府はロシアという共通の敵が存在するが故に「敵の敵は味方」によって結束しています。しかし、これらの国は決して一枚岩の利益関係にはありません

そして、彼らの共通の敵であるロシアは明らかに米欧諸国等とは時間感覚が異なり、非常に長期的な視野でウクライナの地と人々を手中に収めようとしています。プーチン大統領は開戦に先立って「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」という論文を発表しています(駐日ロシア大使館による邦訳)。おそらく今回の一戦ですべてを決することは既に諦めており、数十年スパンで最終的にはウクライナの地と人々をロシア圏に完全に取り込もうとすることでしょう。

ゼレンスキー大統領の強情は、米欧諸国に潜在的かつ感情的な不満を蓄積させ将来的な大きな分断につながる楔になりかねないものです。おそらくこの戦争はロシア・ウクライナともに消耗し切り膠着状態のまま固定化するものと考えます。既にウクライナは米欧諸国からの援助抜きでは国家として成り立たないくらい破壊され尽くされていますが、ウクライナ政府にとって正に生命線である援助元である米欧諸国の足並みが乱れたとき、ロシア政府にとっては再びチャンスが舞い込んでくることになります

また、ロシア軍のインフラ攻撃からの電力復旧が遅れていることについて、ゼレンスキー大統領がクリチコ・キーウ市長をはじめとする地方行政の長に責任転嫁するが如き発言をしました(「ゼレンスキー大統領が“世界最強”市長を猛批判「もっと仕事を」ボクシング元王者のクリチコ氏に苦情?」11/28(月) 15:13配信 よろず〜ニュース)。新型コロナウイルス禍において具体的な施策を都道府県知事に丸投げしたアベ・スガを彷彿とさせる自己保身の強さであると言わざるを得ません。ゼレンスキー大統領に対する不満は間違いなく蓄積したことでしょう。

ロシアという宿敵の前に呉越同舟的に団結するでしょうが、遠からずウクライナの政治と社会は、ゼレンスキー大統領の自己保身のための形振り構わぬ言動ゆえに分断されることでしょう。そしてそのときがロシアにとって巻き返しのチャンスとなるでしょう。ロシアの支配層のタイムスパンは非常に長期的なものであり、今回の「特別軍事作戦」なる侵攻ですべてを解決するつもりはなさそうです。ウクライナ国内の足並みが乱れたタイミングを非常に長期的な忍耐力をもって虎視眈々と狙っているでしょう。

いわゆる「権威主義」国では為政者の在任期間が、いわゆる「民主主義」国と比して非常に長い傾向にあります。いわゆる「民主主義」国が4年だったり8年だったりの間で成果を挙げなければならないところ、いわゆる「権威主義」国はそこまで時間に追われない傾向があるのです。それゆえに忍耐力さえあれば、敵国の足並みを乱すことにコツコツと取り組む余裕があります。ロシアや中国といった国々は「時間に追われない」国々に属します。

■小括
長くなってきたので、いったんここで区切ります。

今回の記事では、「ウクライナが押しているときにはウクライナ軍の軍事的戦果を誇り、ウクライナが押されているときには『追い詰められたロシアが最後の足搔きをしている』という構図を描いたり、あるいは、ウクライナ人の戦意の高さを取り上げたりする」日本メディアのパターン化された典型的報道を取り上げ、それが犯している誤りを、ポーランド領内へのウクライナ軍の迎撃ミサイル着弾事件にかかる報道を通して具体的に指摘しました。利害関係を基礎とする対決構図に基づこうとするという、現実を見る目を曇らせる典型的な誤りにまんまとハマっていますプロパガンダにしても雑で詰めが甘いのです

また、日本メディアが単なる「アメリカの伝書鳩」になり下がっている現状を指摘しました。このことは単に日本がアメリカの属国であるだけではなく、日本メディアは深刻な自力不足に陥っており、独自の現地取材も独自の情勢分析もできないためであると考えられます。

このことは、「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」という国家スローガンを踏まえれば、極めて重大な問題であると言わざるを得ないでしょう。

11月に発生した諸事件は、「反転攻勢を強めるウクライナ、追い詰められるロシア」という単純な理解では事実・現実を捉え切れないことを示したと私は考えます。そしてその潮目は、11月以前から少しずつ醸成・進行してきたものでした。「潮目」は急に変わったわけではなく、徐々に変わってきていたのです。しかし、それに気が付かなかったのが日本メディアだったのです。

ポーランド領内へのウクライナ軍の迎撃ミサイル着弾事件においては、米欧諸国政府はとにかく対ロ全面対決を回避するために、普段であれば重視する「ウクライナ国民の受け止め・声」も、亡くなった被害者(ポーランド人)のこともほとんど報じませんでした。普段は市井の民を重視するポーズを取る米欧諸国政府ですが、その第一関心の所在・腹の内はあまりにも明らかです。日本を守るためにアメリカ本土が原子野になるリスクを本気で負うとは考えにくいと私は考えます。

そして、ゼレンスキー大統領の化けの皮がいよいよ本格的に剝がれ始めたのがこの秋だったと私は考えます。

端的に言えば「プロパガンダにしても日本メディアの報道は程度が低い」「米欧諸国の腹黒さときたら・・・台湾、そして日本もこうして捨て駒にされるんだろう」そして「ゼレンスキー大統領のセンスのなさ」。これらに尽きます。

関連記事:12月31日づけ「10月末から12月末までの約2か月間のウクライナ情勢まとめ(2)
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2022年12月30日

単なる女性自衛官募集番組(それも程度の低い)になり下がった「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」

12月29日づけ「宗教が憎悪と分断の原動力になり下がり、政治の道具になり下がった正真正銘の戦争国家」で取り上げたとおり、ウクライナでは宗教が憎悪と分断の原動力になり下がり、同時に、政治の道具になり下がったところですが、このことについて日本メディアはまったく問題意識も批判精神も発揮していません

「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」をスローガンに戦時プロパガンダの予行演習に余念がないNHKですから驚くに値することではありませんが、安保三文書の改訂に漕ぎつけることに成功し、最近はますます形振り構わなくなってきたと言えるでしょう。

このことについて上掲記事で私は、「いままでは、偏狭で狂信的に過激な民族主義者の破壊的な主張として眉を顰められるようなトンデモが堂々と公共電波に乗る日が来るのかもしれません。既にその萌芽は見えています。」と書き、12月19日初回放送「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」について取り上げることを予告しました。今回は予告どおり、この番組について詳しく批判してまいります。

先日、ツイッター界隈で情報収集していたところ、矢嶋尋・中核派系全学連副委員長のツイアカで下記のツイートを見つけました。
https://twitter.com/toshobin/status/1604830991482175488
最近「女性兵士」プロパガンダの波がすごいな。戦争やるために女を動員しないと人足りないから。
岸田が自衛隊内性被害によって「防衛力強化の議論に悪影響が出ないように」(防衛省幹部談)安保3文書に「ハラスメント対策」を明記した直後こういう番組やってんの怖すぎ

#映像の世紀 「戦場の女たち」
https://twitter.com/toshobin/status/1604836536909844480
最後ウクライナ女性兵士賛美が出てきて、やっぱり出たー!と思ったら「あなたも日本を誰かが攻めてきたら闘うでしょう?私たちは祖国と家族を守るために戦っています」ってセリフで締めてて本気で鳥肌立った
#映像の世紀
https://twitter.com/toshobin/status/1604839152360398848
帝国主義軍隊の9割が女になっても(戦時により女に求められるのは「産む」役割だから不可能だけど)女の権利は一ミリも向上しません。
■「戦場に命を懸けた女性たちの勇気」が大半で「悲しみの物語」が少なすぎる
このツイートを見て、正月用に録画していた当該番組を前倒しで視聴したところ、たしかに鳥肌が立つような出来でした

「映像の世紀 バタフライエフェクト」が、名番組「映像の世紀」を名乗るべきでないくらいに出来が悪いことについては、6月5日づけ「日本社会の歴史を語る姿勢・歴史感覚はここまで退化しているのか」において既に取り上げたところです。5月23日初回放送の「スターリンとプーチン」で番組は、プーチン大統領とスターリンとを非常に雑に比較することで露骨に印象操作を狙いましたが、12月19日初回放送の「戦場の女たち」はその比でないくらいにあまりにも露骨なプロパガンダ放送でした。

「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」は、短髪に刈り上げたウクライナ軍女性兵士を画面に映し出して始まりました。曰く「戦争のために生まれてきた女もいる。射撃の腕前も男に負けない。性別によって何が違ってくるのか私には全く分からない」と。続いて「ウクライナの最前線には多くの女性兵士の姿がある」というアナウンスで、ウクライナ軍のオレーナ・ビロゼルスカ上級中尉(右派セクター党出身でドンバス戦争の頃から従軍している「筋金入り」として有名な人物)を紹介しました。「総力戦を掲げるウクライナは軍の22%を女性が占めている」とのこと。そして、「女性が初めて戦線に本格的に投入されたのは第二次世界大戦だった」と前置きした上で「戦場でもその後の人生でも男性兵士にはない悲劇が待っていた(中略)戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語である」などとして本編が始まりました。

番組は、「女性進出」が進んでいた第二次世界大戦期のソ連空軍女性部隊による敢闘記録や、おそらくその「ライバル」役としてナチス・ドイツからハンナ・ライチュの回顧が登場。また、ソ連陸軍狙撃兵だったリュドミラ・パヴリチェンコ、そしてドイツ占領下のフランスに潜入工作員として投入された米英軍属女性たちを取り上げることで「戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語」を描こうとするものでした。

確かに番組では、ソ連空軍の女性部隊隊員の「敵の射撃をくぐって逃げたあといつも10分15分ほど精神状態がおかしくなった。ゾクゾクと体が震えて歯がガチガチいって手足が震えていつも抗しがたいほどに命がいとおしくなって死にたくないと思っていた」といった回顧や、たたでさえ劣悪な戦場の衛生状況において女性兵士の場合は生理の問題が更に重なるなどといった、男性兵士とは異なる困難があることに触れられてはいるものの、大半はパヴリチェンコやライチュらの勇ましい官許・公式回顧録からの引用。「戦場に命を懸けた女性たちの勇気」は嫌というほど見せつけられましたが、悲しみの物語」に該当する内容が非常に薄いものでした。

■謎の人選
限られた番組の時間内でストーリーとして成立させるためには難しい編集が必要になるのは分かります。しかしながら、「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」が取り上げた人物の選考基準は、「謎」というべきものでした。もちろん、最後の最後にその意図が分かるわけですが。

たとえば、ソ連空軍女性部隊を取り上げておきながらエカテリーナ・ブダノワやリディア・リトヴァクへの言及がなく、まるで彼女らを避けるかのように強引に話を空の戦いから陸の戦いに移し、狙撃兵だったパヴリチェンコにスポットライトを当てるという展開。そしてパヴリチェンコについても、戦争体験が原因で戦後PTSDとなりアルコールに溺れて早くに亡くなったところ、具体的にどのように苦しんだのかにはまったく触れずじまい。ドイツ占領下のフランスに潜入工作員として投入された米英軍属女性の話に至っては、時間が足りなくなってきたのか、「ナチ・ゲシュタポは女性に対する監視が緩いことから、女性を工作員として投入することが決まった。彼女らの潜入工作活動によってドイツ占領下のフランス国内にレジスタンスが組織化され、それがノルマンディー上陸作戦における連合軍の勝利に多大な貢献をしたが、その代償として37人の工作員のうち14人がドイツ軍によって捕縛・処刑された」といった趣旨の非常にアッサリとした内容。悲しみの物語」はいったいどこにあるのかと疑問に思わざるを得ない編成でした。

他方で、ライチュについてはその回顧録からの引用に非常に時間を割いていました。結局はテストパイロットとして自らは死地としての実戦にはほとんど赴かないでおきながら、V1飛行爆弾の「有人化」を進言したことでナチ首魁のヒトラーにさえも引かれたライチュ。そんな彼女の「私が深く感動したのは名誉ではなく深い愛で抱擁してくれた故郷との絆。わたしはそれによって支えられている。この国土を守るのだ。畑や野原や山や河が豊かなこの国土を」や「祖国が血を流しながら死に直面する姿を見ていました。敵の爆撃に町が晒されるのも目撃しました。敵の中心部へ攻撃することが祖国を守り戦争を迅速に終結させると思いました」という回顧発言を重点的に取り上げるという異様な展開。悠久の歴史を有する偉大なドイツ民族とナチという風雲児的徒党とを直結するという重大な誤謬に生涯気がつかず、偏狭で狂信的に過激な民族主義者として貴重な生を終えたライチュに重点を置いたわけです。

悲しみの物語」という観点から言えば、ナチ関係者として戦後白眼視されるという苦労はあったものの、ライチュ本人としては特段失意の中で世を去ったわけではありません。もちろん、上述のとおり偏狭で狂信的に過激な民族主義者として死んでいったことは傍から見れば哀れですが、当人はそれに気がついていなかったわけです。それゆえ、そもそもライチュを、「悲しみの物語」を取り上げる番組に登場させるのは人選ミスであるように思われます。もし本気で、番組内で取り上げられたライチュの回顧が愛国心の発露だと思っているのならば、これは非常に問題のあることです。

■単なる女性自衛官募集番組でしかなかった
そして番組の最後。『戦争は女の顔をしていない』で知られるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの「女たちの戦争には色、におい、光があり気持ちが入っていた。英雄的に勝利したあるいは負けたということはほとんどなない。男たちの関心を引くのは行為であり思想や利害の対立だが、女たちは気持ちに支えられて立ち上がる。女の戦争についての記憶というのはその気持ちの強さ、痛みの強さにおいて男よりも強度が強い。女が語る戦争は男のそれよりずっと恐ろしい」という発言を取り上げた直後からウクライナ軍女性兵士たちの勇敢な姿のシーンが連続。「♪真のウクライナの怒りを誰も知らず見たこともなかった〜我々の土地を侵略する者たち呪われた殺人者たちを容赦なく殺す〜♪」というウクライナ語の歌(日本語テロップより)に続き、「女たちの戦争には色、におい、光があり気持ちがある、80年前と同じ光景がある」というナレーション。アレクシエーヴィチってそういう勇ましい英雄豪傑物語の作者だったっけ?

そして今度は「女性兵士の数は世界各地で増え続けている。第二次世界大戦で女性が大きな戦力になることを世界は知った。そして兵器の進化と軽量化。いまや多くの国で女性兵士の割合は10%を超えている」としつつ、今度はイスラエルやヨルダンなど世界各国の女性兵士の映像が連続しました。

番組の演出はますますエスカレートします。軍事教練に参加するエストニア人女性の「ウクライナ紛争が起きてすぐに軍事訓練に参加しました。以前から参加を検討していましたが今こそやらないといけないのです。いざというときに国の役に立ちたいです」発言が放映され、そして番組冒頭にも登場したビロゼルスカ上級中尉が再登場。矢嶋・中核派系全学連副委員長が鳥肌が立ったとするシーンが放映されました。文字起こししたので是非お読みください。
オレーナ・ビロゼルスカ上級中尉。あなたはなぜ戦うのか、番組の女性ディレクターの質問にこうこたえてくれた。

私は第二次世界大戦で戦ったリュドミラ・パヴリチェンコやハンナ・ライチュなどの伝記を読み、彼女たちのことを尊敬しています。
もし誰かが日本を攻撃してきたらあなただって戦うでしょう?
私たちはこの戦争が避けられないものであることを知り、何年も前から準備を進めてきました。
私が戦うのは祖国と愛する家族を守るためなのです。
「ああなんだ、あの謎人選の理由はここにあったんだ」と疑問が氷解する瞬間。何のことはない、ビロゼルスカ上級中尉が尊敬している女性兵士たちだったからでした。

ソ連空軍女性部隊が出てきた割にはブダノワやリトヴァクへの言及がなく、かなり無茶な論理展開で狙撃兵であるパヴリチェンコに話題が移ったと先に述べましたが、よくよく考えてみればブダノワはロシアのスモレンスク出身で、リトヴァクはモスクワ生まれのユダヤ人。これに対してパヴリチェンコはキーウ郊外出身。パヴリチェンコよりもライチュに長尺を割り当てたのは、ビロゼルスカ上級中尉の好みを反映しているんでしょう。

番組はアレクシエーヴィチから引用するものの、ロシアのウクライナ侵攻はまさに「利害の対立」であり、女性たちの「気持ち」が利用されているというのが真実です。番組はそうした戦争の真実には一切触れていません。それどころか、「戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語」という触れ込みだったはずなのに「悲しみ」の部分があまりにも少ないものでした。軍事教練に参加するエストニア人女性やビロゼルスカ上級中尉の発言を最後の最後に取り上げたあたり、単なる女性自衛官募集番組だったわけです。

■アレクシエーヴィチって勇ましい英雄豪傑物語の作者だったっけ?
先に私は「アレクシエーヴィチってそういう勇ましい英雄豪傑物語の作者だったっけ?」と書きましたが、奇しくもNHKは昨夏、教育テレビの「100分de名著」ではアレクシエーヴィチの代表作でありノーベル文学賞受賞作品である『戦争は女の顔をしていない』を1か月かけて取り上げていました。しばらく再放送しないでしょうが、テキストは一般書店でいまでも入手可能です。また、原著邦訳を岩波書店が岩波現代文庫で発行しており、非常に容易に入手可能です。

『戦争は女の顔をしていない』は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948〜)が1985年に出版したデビュー作で、証言文学という形式を取っています。アレクシエーヴィチのメッセージは明確ですが、彼女は努めて「地の文」、つまり自分自身の説明や考えを本作に入れないようにしてきたといいます。それゆえ、一見すると「証言の羅列でしかない」という捉え方もでき、注意深く読み進める必要がある作品です。「100分de名著」は、東京外国語大学教授である沼野恭子氏を迎えて番組を進行しました。

番組そしてテキストは、本作がどのような作品であるかを「この作品をまだ読んだことがないみなさんに感じていただくため」(テキストp10)に、本作最初の証言者であるマリヤ・イワーノヴナ・モローゾワ(イワーヌシュキナ)狙撃兵長の「これは女の仕事じゃない、憎んで、殺すなんて」(テキストp12、原著邦訳p52)というくだりを紹介しています。「「どこにでもいた」少女たちが実際に経験した痛みや苦しみであることを、読み手に突き付けてくる作品」(テキストp12)なのです。また、第4回放送(最終回)では、番組のためにアレクシエーヴィチからメッセージが寄せられ、彼女は次のように述べていました(テキストには収録なし、当方にて文字起こし)。
この本でとても重要だと私が考えるのは、戦争に対する別の視線、女性の視線です。女性たちは戦争の正当性を見つけられない、見つけ出したいとは思わないということです。女性たちは命あるもの「生きている命」を守るのです。血・武器・暴力の時代は去ったのです。命のとらえ方を、今までとは違うものに切り替えるべきなのです。人の命は物事を測るものさしであってはならない。そしてこれが『戦争は女の顔をしていない』の軸となる考えなのです。
「戦争モノ」というと私たちはどうしても英雄豪傑物語を頭に浮かべがちです。そうではない作品もありますが、常に「戦争の大義」の影が付きまとうものです。これに対して『戦争は女の顔をしていない』で収録されている証言には、戦争の大義など影も形も見られないものが多数あります

もちろん、本作に登場する女性兵士たちはほぼ全員が志願兵なので、「大祖国戦争の大義」を意識していなかったわけではありません。むしろそれを我が物として積極的に従軍していたはずです。しかし、たとえばアナスタシヤ・レオニードヴナ・ジャルデツカヤ(上等兵 衛生指導員)の「あたしを歴史家にしようだなんて無理よね。包帯で作ったドレスを着ている写真を見せるほうがあってるわ」という証言を敢えて盛り込んだ(テキストp30、原著邦訳p352)ように、アレクシエーヴィチは「大祖国戦争の大義」とは一線を画する証言を集めました。

なぜ彼女はそのような視座から独ソ戦を振り返ろうとしたのか、「100分de名著」では次のように解説しています(上段引用はテキストp24〜25、下段引用はテキストp28〜31)。
『戦争は女の顔をしていない』をはじめ、(アレクシエーヴィチが手掛けた代表的な)五部作の証言者に、有名な政治家や軍人はいません。ほとんどすべて市井の人々です。その人たちをアレクシエーヴィチは「小さな人間」「ちっぽけな人間」と表現しています。

 わたしは理解した、大きな思想にはちっぽけな人間が必要なので、大きな人間はいらない。思想にとっては大きな人間というものは余計で、不便なのだ。手がかかりすぎる。わたしは逆にそういう人間を探している。大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを探している。虐げられ、踏みつけにされ、侮辱された人たち――
『戦争は女の顔をしていない』は、「小さな人間」という「個」の声が響き合う、交響曲のような作品であり、「男の言葉」で語られてきた戦争を「女性の語り」によって解体した作品でもありました。

理想の社会主義社会、「赤いユートピア」を建築しようとしたソ連では、そのイデオロギーに沿った歴史が、いわば「大文字の歴史」として残されました。それは、必然的に集団主義的であり、全体主義的社会に陥ってしまう歴史でもあります。

一方、女性の語りは、非論理的だとか、非合理的だとかいった言葉で不当におとしめられ、ステレオタイプ的に「生活密着型の単なるおしゃべり」「男性の言葉に比べて下に位置する」とみなされてきた側面があります。しかし、アレクシエーヴィチはその女性の語りに光を当て、価値を見出し、「大文字の歴史」が取りこぼしてきたものをすくい上げていきます。

(中略)
アレクシエーヴィチは、過去の出来事を、一人ひとりの個人の「生」という視点で書いています。かけがえのない一回限りの生は、唯一、大文字のイデオロギーに対峙し、それを解体していくことができるものです。男性原理、男の言葉に支配された大文字の戦争を、個としての女性の語りで解体したのが、『戦争は女の顔をしていない』という作品なのです。
「大きな内容を秘めたちっぽけな人たち」を取り上げることで、イデオロギーに沿った「大文字の歴史」「大きな物語」が取りこぼしてきたものをすくい上げるというところにアレクシエーヴィチの狙いがあるわけです。

こうしたアレクシエーヴィチの執筆姿勢は、検閲が存在したソ連時代では問題視されたそうで、検閲官から次のような指摘をうけたといいます(テキストp73)。
検閲官との会話より――
 あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ。勝利の物語が。
あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ」――アレクシエーヴィチが目指すものと支配層が要求するものとが非常にクッキリと別れています。

当局との妥協の末、検閲をパスして出版に漕ぎつけたアレクシエーヴィチ。「100分de名著」では、(1)戦場における女性の身体性及び、恋やおしゃれのこと、(2)敵(ドイツ兵)を憎しみ切れず、むしろ共感さえも抱く複雑な感情、(3)戦後の女性兵士たちの苦しみ、そして(4)一人の女性の中にも同居する「二つの真実」について特に注目して取り上げました。

■「大きな思想」に沿った「大きな物語」に他ならない「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」の薄っぺらさ
ソ連文学ではあまりよい顔をされなかった、(1)戦場における女性の身体性及び、恋やおしゃれのことについて正面から取り上げた意図についてアレクシエーヴィチは、数少ない地の文で次のように述べています(原著邦訳p283〜284)。
女性たちが何の話をしていても必ず(そう!)「美しさ」のことを思い出す、それは女性としての存在の根絶できない部分。(中略)彼女たちは喜んでこういう娘らしい工夫や、小さな内緒事、表立っては見えないちょっとしたことについて生き生きと話してくれた。戦時の「男向き」の日常で、「男がやること」である戦争のただ中でも自分らしさを残しておきたかったことを。女性の本性にそむきたくない、という思い。(中略)彼女たちと話していると、小さなことが大きなことに勝っていて、時にそれは歴史全体より勝ることもあった。
「100分de名著」では、現代ロシア文学の系譜として位置付けるとともに、次のように指摘しています(テキストp49)。
恋愛とは、極めて私的な営みです。軍隊という集団主義的な組織の中にあって、そうした私的な営為は、集団の規律を破る力、価値観を持っています。(中略)大きな理念やイデオロギーが作用している戦争という強烈な磁場にあって、女たちは個人の恋愛という小さな、些細な感情を大切にしていました。このことは、ディテールに宿る物語を描くという文学的側面からも大事であるだけでなく、集団主義に対する突破力を持っているという意味でも重要だと思います。
アレクシエーヴィチを引き合いに出しておきながら「戦争のために生まれてきた女もいる。射撃の腕前も男に負けない。性別によって何が違ってくるのか私には全く分からない」で番組を始め、「戦場に命を懸けた女性たちの勇気」には触れるが「悲しみ」に当たる部分があまりにも少なく、ビロゼルスカ上級中尉のインタビューで締めくくる「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」の薄っぺらさが際立ちます。

「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」の描写は、アレクシエーヴィチが立ち向かった「大きな思想」に沿った「大きな物語」そのものであると言わざるを得ません。「あなたの小さな物語など必要ない」と言い放った番組編集チームとソ連時代の検閲担当官は、とても気が合いそうです。アレクシエーヴィチのメッセージに反論を試みるのならばそれはそれで結構ですが、反論にしては軽薄過ぎます

■「アレクシエーヴィチのメッセージを曲解している」では済まされないレベルの単純過ぎる感情描写
(2)敵(ドイツ兵)を憎しみ切れず、むしろ共感さえも抱く複雑な感情は、『戦争は女の顔をしていない』でも頻繁に目にするものです。「100分de名著」でも複数の証言を紹介しています。

エフロシーニヤ・グリゴエヴナ・ブレウス 大尉(軍医)の証言。テキストp91〜92。
 私は看護婦さんと並んでいて、そのそばで二人の兵士たちが粥を炊いていました。二人のドイツの捕虜がどこからか近寄ってきて食べ物をくれと言います。私はパンを持っていたんです。分けてやると、粥を炊いている兵隊たちが非難しているんです。
 
 「見ろよ、医者たちが敵にあんなにパンをやってるぜ!」とか。(中略)すると先ほど私たちを非難していた兵士たちがドイツの捕虜に言っているんです。
 
 「どうした、腹がへっているのか?」
 
 ドイツ人は突っ立って、待っています。わが軍の兵士は仲間にパンを渡して、「切ってやれよ」と。
 
 パンが切り分けられました。ドイツ人たちはパンを受け取って、まだ待っています。お粥が煮えるのを見ているのです。
 
 「しょうがない、粥をやれよ」

 (中略)
 兵士たちはお粥に塩漬けの脂身を加えて、缶詰の空き缶に入れてやりました。
 
 これがロシア兵魂ってもんです。

ワレンチナ・ミハイロヴナ・イリケーヴィチ パルチザン(連絡係)の証言。テキストp95。
 冬にドイツ人の捕虜が連れて行かれるのに出くわしたときのこと。(中略)捕虜の中に一人の兵士がいた……。少年よ……。(中略)私は手押し車で食堂にパンを運んでいるところだった。その兵士の眼が私の手押し車に釘付けになっているの。(中略)私はパンを一個とって半分に割ってやり、それを兵士にあげた。その子は受け取った……。受け取ったけど、信じられないの……。信じられない…。信じられないのよ。
 
 私は嬉しかった…… 憎むことができないということが嬉しかった。自分でも驚いたわ……

 ナターリヤ・イワノーヴナ・セルゲーエワ 二等兵(衛生係)の証言。テキストp93。
私は殺したくなかった。誰かを殺すために生まれて来たのではありません
私も『戦争は女の顔をしていない』を読んだことがあるので、「100分de名著」では紹介されなかった幾つかの証言をこの機に引用したいと思います。

ジナイーダ・ワシーリエヴナ・コルジュ(ソ連邦英雄、パルチザン中隊長:ワシーリイ・ザハロヴィチ・コルジュの娘で騎兵中隊衛生指導員)の証言。原著邦訳p233-240。
可哀想でした。ファシストではあっても、やはり。この気持ちは長いこと消えませんでした。殺すなんていやなんです。分かるでしょう? 恨み、憎しみがあったはずです、なんで私たちの国にやって来たんだ、と。でも、自分で殺してしまうというのは、恐ろしいことなんです。とっても。自分で殺すのは。

兵士の一人が捕虜をなぐった……私にはそれがあってはならないことに思えて、かばおうとした……分かってはいたわ……それは兵士の心の叫びだって……
(中略)「さきま、忘れやがったのか?……この野郎……こいつらがどういう……畜生!」私は何も忘れたわけじゃない。おぼえていたわ、あの軍用ブーツのことを……ファシストたちに切り落とされた脚が入ったままのブーツが塹壕の前に並べてあったの。冬のことでそういうブーツが杭のようにつんつんと並んでた。それは、その前に殺された戦友たちの……唯一残された部分だった。(中略)忘れちゃいません。何一つ。でも、捕虜を殴れなかった。相手がまったく無防備だという理由だけでも。こういうことは一人一人が自分で判断したこと、そしてそれは大事なことだったの。

アレクサンドラ・イワーノヴナ・ザイツェワ 大尉(軍医)の証言。原著邦訳p207。
 私の病室には負傷者が二人いた。ドイツ兵と味方のやけどした戦車兵が。そばに行って、「気分はどうですか?」と訊くと、「俺はいいが、こいつはだめだ」と戦車兵が答えます。「でも、ファシストよ」「いや自分は大丈夫だ。こいつを……」

 あの人たちは敵同士じゃないんです。ただ怪我をした二人の人が横たわっていただけ。二人の間には何か人間的なものが芽生えていきました。こういうことがたちまち起きるのを何度も眼にしました。

 アグラーヤ・ボリーソヴナ・ネスチェルスク 軍曹(通信係)の証言。原著邦訳p449〜451。
みなその瞬間を待っていたんです……今こそ分かるんだ、この眼で見ることができるんだわ……奴らはどこからやってきたのか?
(中略)
ソ連軍が攻勢に出た時のこと。私たちが初めてドイツ軍の塹壕を占領した時。そこに躍り込むと、いくつもの魔法瓶に熱いコーヒー。コーヒーの匂い……堅パン、白いシーツ、清潔なタオル、トイレットペーパー……私たちの所にはそんなもの何一つなかった。(中略)そして、ソ連軍の兵士たちはそんな魔法瓶に弾丸を打ち込んだ……このコーヒーに。

ドイツの家ではやはり銃弾で打ち砕かれたコーヒーセットを見たことがあります。(中略)でもやはり奴らが私たちにやったのと同じことはできませんでした。私たちが苦しんだように、奴らを苦しませることは。

タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ 伍長(衛生指導員)の証言。邦訳原著p482。
スターリングラードでのこと……一番恐ろしい戦いだった。ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。
この複雑な感情を証言文学の形式で表現しているところに、『戦争は女の顔をしていない』が読み応えある作品に仕上がっていると私は考えます。アレクシエーヴィチがノーベル文学賞できた理由は、ここにこそあると考えます。

これに対して「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」では、「♪真のウクライナの怒りを誰も知らず見たこともなかった〜我々の土地を侵略する者たち呪われた殺人者たちを容赦なく殺す〜♪」というウクライナ語の歌声につづきアレクシエーヴィチの「女たちの戦争には色、におい、光があり気持ちが入っていた」という言葉をアナウンスで挿入していました。アレクシエーヴィチが言いたかった女性たちの戦争における「気持ち」とは、上掲のような複雑な心境にこそあるのではないでしょうか?

セルゲーエワ二等兵(衛生係)はハッキリと「私は殺したくなかった。誰かを殺すために生まれて来たのではありません」と言っており、ドイツ軍の残虐行為の痕を目撃したコルジュ騎兵中隊衛生指導員はそれでも「忘れちゃいません。何一つ。でも、捕虜を殴れなかった」のです。ネスチェルスク軍曹(通信係)も「でもやはり奴らが私たちにやったのと同じことはできませんでした。私たちが苦しんだように、奴らを苦しませることは。」と証言しています。これに対して「戦争のために生まれてきた女もいる」をぶつけるのは、ノーベル賞作家の代表作への反論にしては番組の編集は薄っぺらく、「♪真のウクライナの怒りを誰も知らず見たこともなかった〜我々の土地を侵略する者たち呪われた殺人者たちを容赦なく殺す〜♪」は、あまりにも単純過ぎるでしょう。アレクシエーヴィチを引き合いに出しておいてこれ。もはや「アレクシエーヴィチのメッセージを曲解している」では済まされないレベルです。あまりにも酷い。

■女性兵士たちの「復員後の戦い」についてはまったく触れない「女性自衛官募集番組」
(3)戦後の女性兵士たちの苦しみは、『戦争は女の顔をしていない』が初めて正面から取り上げたテーマであると言っても過言ではなく、このことは本作の重要な構成要素をなしています。

独ソ戦において戦場の女性たちは、男性兵士以上の苦労をしたといいます。「『女に何ができるんだ』とばかにしている男性に認めてもらうことができないから」(テキストp38)です。独ソ戦における彼女らの貢献が、ソ連を勝利に導く一要因であったことは間違いのないことです。しかし、勝利の後に復員した彼女らに対する社会、とりわけ同性からの仕打ちは彼女らを苦しめたものでした戦場で男性にバカにされ復員後は女性に侮辱されたわけです。
ワレンチーナ・パーヴロヴナ・チュダーエワ 軍曹(高射砲指揮官)の証言。テキストp66。
男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。

クラウヂア・S(匿名) 狙撃兵の証言。テキストp67。
祖国でどんな迎え方をされたか? 涙なしでは語れません……四十年もたったけど、まだほほが熱くなるわ。男たちは黙っていたけれど、女たちは?

女たちはこう言ったんです。「あんたたちが戦地で何をしていたか知ってるわ。若さで誘惑して、あたしたちの亭主と懇ろになってたんだろ。戦地のあばずれ、戦争の雌犬め……」ありとあらゆる侮辱を受けました……。ロシア語の汚い言葉は表現が豊富だから……
エカテリーナ・ニキーシシュナ・サンニコワ 軍曹(射撃兵)の証言。テキストp67。
私は共同住宅に住んでいたのですが、同じ住宅の女たちはみなご主人と一緒に住んでいて、私を侮辱しました。いじわるを言うんです。「で、戦地ではたくさんの男と寝たんでしょ? へええ!」共同の台所で、私はジャガイモを煮ている鍋に酢を入れられました。塩を入れられたり……そうやって笑っているんです。

私の司令官が復員してきました。私のところに来て、私たちは結婚しました。一年後、彼は他の女のところに行ってしまいました。私が働いていた工場の食堂の支配にいのところへ。「彼女は香水の匂いがするんだ、君は軍靴と巻き布の臭いだからな」と。
元兵士の男性の証言。テキストp68。
私の妻は馬鹿じゃないが、戦争に行っていた女たちのことを悪く言っている。「花婿探しに行っていたんでしょう」「恋に血道をあげていたんでしょう」と。
タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ 伍長(衛生指導員)の証言。テキストp69、原著邦訳p470〜482。
戦後はまた別の戦いがあった。それも恐ろしい戦いだった。男たちは私たちを置き去りにした。かばってくれなかった。戦地では違っていた。
スターリングラード戦を生き抜いたウムニャギナ伍長の証言は、原典邦訳書最後の証言です(原典邦訳p470〜482)。あまりにも重い証言を是非、原典邦訳書を手に取ってご自身で確認していただきたいと思います。

これこそが「悲しみの物語」というべきものです。これほど悲しい話はありません。「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」が「戦場に命を懸けた女性たちの勇気と悲しみの物語である」を云々するのであれば、このような「復員後の戦い」にも目配りが必要であるはずです。

戦場で男性にバカにされ復員後は女性に侮辱された背景について「100分de名著」は、前者は、「女性らしさを求める社会規範」(テキストp40)に原因を求め、後者については、女性兵士たちを侮辱した女性たちが概ね、女性兵士たちよりも若干年上の非従軍者であったことから、「ある種の後ろめたさ」ではないか(放送内で言及。テキストには記載なし)としました。「女性らしさを求める社会規範」は日本社会においてこそ依然として強烈なものがあります。後者についても、日本社会でも十分に想定されるものです。女性自衛官にとっては他人事ではありません。

そのためか、このテーマについて「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」は逃げるように回避しています。狙撃兵として従軍したパヴリチェンコが戦後PTSDになりアルコールに溺れて早くに亡くなったことを軽く触れる程度にとどめています。女性兵士たちの「復員後の戦い」についてはまったく触れていません

もちろん、「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」がそんな描写を盛り込まなかったことは十分に理解可能です。そんなことをしたら、女性が自衛隊に志願しなくなってしまうでしょう。お得意の「切り取り」で原著をズタズタに切り裂いてまでプロパガンダの道具にしているわけです。

マイナーな作家の作品ではなく邦訳を非常に容易に書店で入手できるノーベル文学賞受賞者の代表作品、自局が1年ほど前に解説番組を組んでいた作品をここまでズタズタに切り裂いて、夜10時という視聴率の高い時間帯に捻じ込んできたNHK。原著に当たらない層をうまくプロパガンダに引っ掛けられれば幸い、原著に当たる層には議論を吹っ掛けているのでしょう。

「映像の世紀 バタフライエフェクト」編集チームは、ある意味、「アレクシエーヴィチをよく研究している」と思われます。アレクシエーヴィチの問題提起・論点を割と正確に捉えつつ、その真逆のメッセージを展開したり、どうしても逆張りできない問題提起については無視を決め込んでいるからです。とはいえ上述のとおり、反論にしては程度が低すぎます。また、逆張りできずに回避した論点は、「さすがにその論点から逃げてはいけないだろう」というべきものです。アレクシエーヴィチをよく研究していると思われるからこそ、「女性自衛官募集」というプロパガンダ性が際立ってしまっています。無知なら「バカだなぁ」で済みますが、今回の場合はそうはいかないでしょう。

■官許・公式歴史観に沿った「他人の真実」が「そのひとの真実」を圧殺し得るという重要指摘をまったく無視している
そして(4)一人の女性の中にも同居する「二つの真実」について。テキストp73から75にかけて言及されています。引用します。
わたしも長いこと信じられなかった、わが国の勝利に二つの顔があるということを、すばらしい顔と恐ろしい顔が。見るに耐えない顔が。

戦争が持つ、大義名分に彩られた大きな物語という「すばらしい顔」と、汚く恐ろしい「見るに耐えない顔」。しかし、「見るに耐えない」からといってその「恐ろしい顔」から目をそむけてはいけない。作品を通じて、アレクシエーヴィチはそう訴えてきます。どちらの顔も、戦争の真実なのですから。

そして、戦争の二つの顔は、一人の人間の中にも存在していました。

ニーナ・ヤーコヴレヴナ・ヴィシネフスカヤは、戦車大隊の衛生指導員だった女性です。

(中略)
取材の後もニーナと文通を続けていたアレクシエーヴィチは、自分が驚いたことや衝撃を受けたことを選んで文章に書き、彼女に送りました。すると、数週間後、「重たい書留」が送られてきます。そこには「新聞の切り抜き、モスクワの小中学校における退役軍人ニーナ・ヤーコヴレヴナの『戦争に関する愛国的な仕事』についての公式報告書」、そしてアレクシエーヴィチが書いたことがほとんど残っていない、「ずたずたに削られ」た原稿が入っていました。
(中略)
新聞の切り抜きや公式報告書にあるのは、イデオロギーに沿った「他人の真実」であり、検閲官が望んでいたような大きな物語にほかなりません。それにそぐわない「そのひとの真実」という小さな物語は、他者の存在、そして自分自身によっても、圧殺されてしまうことがありました。
「そのひとの真実」とイデオロギーに沿った「他人の真実」とが、一人の心の中で複雑に入り組んでいることを『戦争は女の顔をしていない』を描き出しました

この複雑な心境もまた、「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」からは微塵も感じ取ることができないものです。

■ソ連の検閲官のメンタリティで番組を制作したNHK番組編集チーム
このように、「映像の世紀 バタフライエフェクト  戦場の女たち」は、アレクシエーヴィチを引き合いに出しておきながら、「大きな内容を秘めたちっぽけな人たち」を取り上げることで「大文字の歴史」「大きな物語」が取りこぼしてきたものをすくい上げるという彼女の狙いとは真逆に、「大きな思想」に沿った「大きな物語」を描き出しました。まさにアレクシエーヴィチに「あなたの小さな物語など必要ない。我々には大きな物語が要るんだ。勝利の物語が。」と言い放ったソ連の検閲官が求めるような番組になったのです。露骨でありながら程度の低いプロパガンダというほかありません

■真っ先に日本人がなすべきことは、「こうならないために何をなすべきだったのか」を学び取ることであるはず
ビロゼルスカ上級中尉の発言、そしてそれをそのまま報じたNHK番組編集チームに少々申し上げたいと思います。「私たちはこの戦争が避けられないものであることを知り、何年も前から準備を進めてきました。私が戦うのは祖国と愛する家族を守るためなのです」とのことですが、ウクライナとロシアとの戦いは「避けられないもの」だったのかも知れませんが、日本が直面している状況は、まだ「避けられないもの」と断言はできません。そうである以上は、軍事衝突に依らない平和の道を模索することが先決です。「軍事的に備える必要はない」と言いたいわけではありません。しかし、「避けられないもの」とする必要はまったくありません。

いま、ウクライナとロシアとの戦いは際限なくエスカレーションしています。もとより戦争は政治の一環・延長線上にあります。軍事衝突には至らず政治的目標を達成することこそが勝利です。それゆえ、軍事衝突が制御不能になってしまうことは「すでに半分失敗」なのです。そんな制御不能な「失敗戦争」の当事者を引き合いに出して「こうするしかない」と印象付けるのは非常に危険なことです。いま、真っ先に日本人がなすべきことは、「こうならないために何をなすべきだったのか」を学び取ることです。しかし、番組にはそのような視点は一切ありませんでした。

日本の現状にそぐわない発言、参考にならない発言を無編集で取り上げることは意味がないのです。

また、一般論としても武器を取ることだけが平和の道というわけではありません。その意味で、武器を持ち軍服姿の各国女性たちだけを連続放映することは、現実の半分しか反映していないものなのです。

■開き直って戦時プロパガンダ機関になった?
上述のとおりビロゼルスカ上級中尉はウクライナの右派セクター出身者でその政治的立場は非常に鮮明ですが、そういう点に対してまったく無批判であることは、マスメディアとして非常に問題があるのではないかと言わざるを得ません。

ちなみに、蛇足的かもしれませんが「映像の世紀 バタフライエフェクト」という番組のコンセプト自体に、カオス力学の学徒でありかつ歴史学徒でもある身として一言。

NHKが公開している令和4年度 国内放送番組編成計画によると、「蝶の羽ばたきが嵐を引き起こすという意味で使われる「バタフライエフェクト」 。歴史は、このバタフライエフェクトの積み重ねだと捉え直し、罪と勇気の連鎖の物語を描く」というのが番組のコンセプトであるようです。歴史をバタフライエフェクトの積み重ねだと捉え直すのは一つの考え方だと思います。しかしながら、カオス力学の観点から申せば、バタフライエフェクトつまり初期値鋭敏性を云々するなら、人間が知覚し難い僅かな差が長期的には大きな差となって現れるということなのだから、「何百年も前のちょっとした為政者の決断がキッカケで今日の深刻な状況がある」という描写ならまだしも、「第二次世界大戦以降、女性兵士が増えたという」歴史のスパンで見れば「最近」の話を初期値として、ロシア・ウクライナ戦争のような現在進行形の時事ネタを取り上げてはいけないでしょう。6月5日づけ「日本社会の歴史を語る姿勢・歴史感覚はここまで退化しているのかで述べたことを含めるに、「本当に一事が万事めちゃくちゃな番組だな」という感想を禁じ得ないシロモノです。

もう開き直って戦時プロパガンダ機関になったのでしょう。そして、そうであればこそ、NHKによる戦時プロパガンダの現時点での集大成としてこの番組を記憶するべきでしょう。つまり、露骨で程度が低いのです。この程度のプロパガンダしか作れないわけです。

関連記事:12月29日づけ「宗教が憎悪と分断の原動力になり下がり、政治の道具になり下がった正真正銘の戦争国家
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2022年12月29日

宗教が憎悪と分断の原動力になり下がり、政治の道具になり下がった正真正銘の戦争国家

宗教が愛と連帯、ヒューマニズムの教えではなく憎悪と分断の原動力になり下がり、同時に、人倫の基礎として政治を間接的に律するのではなく政治の道具になり下がったことを示すバッドニュースと言わざるを得ません。
■ウクライナは、すべてが戦争に奉仕する正真正銘の戦争国家になってしまった
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221224/k10013934001000.html
ウクライナ 12月にクリスマス祝う教会も ロシアへの反発背景に
2022年12月25日 5時55分

クリスマスを前に、ウクライナの首都キーウにある教会でも、クリスマスツリーが飾られるなど準備が進んでいます。

ウクライナでは、軍事侵攻を続けるロシアへの反発を背景にクリスマスをロシアと同じ1月7日ではなく12月25日に祝う教会が増えています。

この教会では、クリスマスを旧暦の1月7日としていますが、ここ数年、信者の求めに応じて12月24日と25日にもクリスマスのミサを行っているということです。

クリスマスを前に教会を訪れていた30代の女性は「クリスマスは希望です。何もかも良くなるよう願っています。できるだけ早くウクライナに勝利をもたらしてほしい」と話していました。

(中略)
ウクライナではロシアによる軍事侵攻を受けてロシアと同じ1月7日にクリスマスを祝うことに強い拒否感を持つ人も出ています。

この教会ではこれまで1月7日をクリスマスとしてきましたが、ことし初めて12月25日をクリスマスとして祝うことになり24日はおよそ50人が参列してクリスマス・イブのミサが執り行われました。ミサでは、美しい歌声が響くなか、参列者が静かに祈りをささげていました。

12月25日をクリスマスとして初めて祝うという20代の女性は「西洋の伝統に加わることになるので良いと思う。いつも通り家族とお祝いしたい」と話していました。

民間の調査機関が先月下旬に行った調査ではクリスマスを1月7日から12月25日に移すことを支持する人は44%と反対する人の31%を上回っています。

ミサに参列した40代の男性は「失ったクリスマスを取り戻した。これからは永遠に私たちの祝日になる」と話していました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c691c245f2a71266c7d704aa04025a559e75b565
「ロシア式」と決別、12月に祝うクリスマス ウクライナ
12/26(月) 15:38配信
AFP=時事

【AFP=時事】ウクライナで25日、鐘の音と聖歌を歌う声が街中に響き渡った。ウクライナ正教会の一部が、1月7日にクリスマスを祝うロシア正教会の伝統と決別し、クリスマス礼拝を開いたのだ。
【写真14枚】12月25日にクリスマスを祝うウクライナの人々

 首都キーウで礼拝に出席したオルハ・スタンコさん(72)は、息子が東部の激戦地バフムート(Bakhmut)付近でロシア軍と戦っている。

「戦争は非常な悲しみをもたらした。私たちはロシアが敵だということを忘れていた。人が良すぎた」「ロシアと共には祝えない。ロシアの影響下にとどまるのは無理だ」と、涙を流した。

 キーウ北郊ホストーメリ(Gostomel)でロシア軍の占領を生き延びたオレナ・ザハロワホリアンスカさんも、12月25日にクリスマスを祝うのは当然の選択だと語った。「占領者や敵とは何一つ共有したくない」

 キーウ中心部の教会で執り行われたクリスマス礼拝には、コートで厳重に身を包んだ信者が大勢詰め掛けた。

 ミハイロ・オメリヤン首席司祭は説教で、「闇の中に座っていた人は大いなる光を見た。死の影の地に今ある人々の上にも光が輝いている」「光よりも闇を愛した者がいる。行いが邪悪だからだ」と述べ、ロシアを糾弾した。
 
 インタファクス・ウクライナ(Interfax-Ukraine)通信の世論調査によると、クリスマスの聖日を12月25日に変更することを支持するウクライナ人の割合は昨年の26%から今年は44%に急拡大した。ただ、31%がなお反対している

(以下略)
そして、この動きを機敏にキャッチしたゼレンスキー・ウクライナ大統領は戦争とクリスマスとを緊密に結び付けました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/26790be464ca6104c8afce5ace3b2ac9327ad260
ウクライナ大統領「奇跡を待つのではなく、自分たちで奇跡を起こす」
12/26(月) 9:09配信
ロイター

ウクライナのゼレンスキー大統領は12月24日、クリスマスに際し国民に向けたビデオメッセージを公開した。ロシアによるインフラ施設への攻撃で、寒さと暗闇の中にいる国民に対し「私たちは発電機の音をかき消すほど大きな声で、これまで以上に明るく賛美歌を歌う」と述べ、「奇跡を待つのではなく、自分たちで奇跡を起こす」と語った。

(中略)
私たちはいつも通り休日を祝い、いつも通り笑顔で喜ぶ。
たったひとつだけ違うことは、私たちは奇跡を待つのではなく、自分たちで奇跡を起こすということだ。
キリストが誕生した。
キリストを賛美しよう。
5月8日づけ「事大主義は国を滅ぼす」で取り上げた対独戦勝記念日の5月8日への変更にも呆たものです。当該記事でも書いたように、そんなことをしても西ヨーロッパの仲間入りはできません。今回もNHKが報じているように「西洋の伝統に加わることになるので良い」という意見があり引き続き呆れているところですが、それに加えて今回のニュースは、宗教が憎悪と分断の原動力になり下がり、同時に、政治の道具になり下がったことを示すものであり非常に衝撃的であると言わざるを得ません

「クリスマス休戦」という言葉があるように、普通は宗教的記念日くらいは俗事から離れる、少なくともそういうポーズだけでも示すのが為政者というものですが、もはやウクライナは民生も宗教もすべてが戦争に奉仕する正真正銘の戦争国家になってしまったようです。モスクワ総主教キリル1世に率いられるロシア正教は既に憎悪と分断の原動力になり下がり、また、政治の道具に成り下がって久しいところですが、ウクライナもそのようになってしまったようです。

■聖職者が教団を挙げて民衆の激情に迎合し、憎悪と分断の原動力になり下がってどうする?
ハナから信じていない宗教の教義を私が語るのも変な話ですが、ロシア正教会やウクライナ正教会、アルメニア正教会などが1月6日(アルメニア)や7日(ロシア・ウクライナ)をクリスマスと定めてきたのは宗教的な意味があるからであり、「反ロシア感情が高まったから、じゃあ12月25日でもいいよ」とばかりに変更するのには違和感を禁じ得ません。いくら「極論を言えば宗教は『つくり話』」とはいえ、ご都合主義的な感が否めません。

「侵略されたウクライナ人の気持ちになれ!」という意見があるとすれば、そういう激情を乗り越えたところに宗教というものはあるのではないかとお返ししたい。少なくとも表看板としては。ましてクリスマスです。聖職者たちが教団を挙げて民衆の激情に迎合し、ヒューマニズムをかなぐり捨てて憎悪と分断の原動力になり下がってどうするのだと言いたいのです。宗教は根本的に非科学的・非合理的な教義で人心を縛り操る側面がありつつ、しかし他方において、愛と連帯、ヒューマニズムを掲げている点において大切なものでもあると私は考えています。それゆえ、愛と連帯、ヒューマニズムを捨てた宗教など害悪以外の何物でもありません

■ロシアへの憎悪を柱として形成される「ウクライナ民族」意識の形成は、後世に禍根を残す破壊的なやり方
ウクライナがクリスマスや対独戦勝記念日の日付を変更しているのは、当人たちがそう述べているように、「ロシアとの決別」でありそして「西欧への仲間入り」を目指したものでしょう。ゼレンスキー政権は、こうやってロシアに対する敵対心・憎悪心を柱として「ウクライナ民族」の意識を定着させようとしているわけです。

「この戦争はプーチン個人の戦争だ」と西側諸国では位置づけられています。この位置づけは、プーチン政権・プーチン体制とロシア民族・ロシア国民とを一応は分けて考えるものです。しかしゼレンスキー政権は、プーチン政権・プーチン体制ではなくロシア民族全体に対する憎悪を煽り続けています。特定の政権や社会体制に対する憎悪は、その政権の下野や社会体制の革命的変革によって消滅し得るものですが、民族に対する憎悪を消滅させることは非常に困難です。それゆえ、民族対立を煽る方法は、後世に禍根を残す破壊的なやり方です。

世界には多くの民族集団が存在していますが、近隣する民族集団同士は必ずしも常に良好な関係にあるわけではありません。ときに戦争に至ることだってあるものです。しかし、フン族やゲルマン民族が大移動していた頃とは異なり、今や民族集団は「引っ越し」することはできません。歴史的に住み続けてきた一定の領域において、固定的な隣人とともに生きるほかありません。それゆえ、民族集団同士の葛藤や闘争において、人類は常に、関係修復のための最小限のルートを残すという知恵をつけてきましたそれは宗教的なつながりであり、「為政者と民族とを分けて考える」というものでした。

たとえば朝日関係や日中関係、日韓関係を見てみましょう。共和国や中国、韓「国」は日帝時代の日本を非常に厳しく指弾しています。この批判に妥協はありません。しかし、朝日・日中関係において共和国や中国は「日本軍国主義者と日本人民は別」としていますし、日韓関係において韓「国」は「良心的日本人とそうでない人は別」という構図を用意することで関係修復のための最小限のルートは残しています。すべてのルートが遮断されてまったくコミュニケーションが取れなくなるということはありません。もちろん、偏狭で狂信的に過激な民族主義者は破壊的な主張を展開してきましたが、理性と良識のある人々がそうした声を抑えてきました。

ウクライナは「引っ越し」することができません。これから未来永劫、ロシア民族を敵として対決し続けることは不可能です。にもかかわらず、今回「宗教」という最低限のルートまで反ロシアの道具として使ってしまいました。これは後世に禍根を残す破壊的なやり方なのです。

また、ロシアに対する憎しみを主軸として「ウクライナ民族」の意識を定着させてしまうと、「ウクライナ民族」のアイデンティティにとって「外部に対する憎しみ」という負のエネルギーが不可欠な要素になってしまいます。これは、民族主義の最も悪しき形態としての「身内主義」「排外主義」に容易につながるものです。

国家間の関係が更に密になっている21世紀を生きる者として、そしてキム・ジョンイル総書記の『民族主義に対する正しい認識をもつために』を信奉するチュチェ思想派として、21世紀においては国際主義と接合・両立させる形の民族主義の定立が必要であると考えます。しかしウクライナがいま向かっている方向は、20世紀以前の化石的な民族主義、排外主義的民族主義への逆戻りであると言わざるを得ません。この方法論は、ロシアとの関係にとどまらず、ロシア以外の諸国家に対するウクライナ人の思考や姿勢に悪影響をもたらすものとなり、彼らにとって非常にマイナスになるでしょう。

いまゼレンスキー政権は、アメリカという強力な後ろ盾のもと、このように憎悪を原動力とする民族意識高揚政策を展開し、ロシアとの対決を先鋭化させています。国力の差が大きすぎるのでウクライナ単独ではロシアには決して対抗できません。しかし、あくまでもアメリカの対ロシア戦略にとっての「鉄砲玉」でしかないのが実態であると考えます。アメリカはウクライナ人の未来に対して何の責任も取りません。ウクライナが隣国ロシアと超長期的な対決構図にいたり、また、ウクライナの民族意識において憎しみが不可欠な要素となり身内主義・排外主義化したところで、アメリカにとってウクライナに利用価値がなくなれば、アフガニスタンのように捨てられるだけです。ウクライナのアメリカに対する事大主義については既に5月8日づけ「事大主義は国を滅ぼす」で取り上げたところですが、その危険性がますます増していると言わざるを得ません。

■日本もそうなる
そして、そんな破壊的なゼレンスキー政権の民族意識高揚政策に少しの疑問もはさまず、民生も宗教もすべてが戦争に奉仕する正真正銘の戦争国家になってしまったウクライナの姿にまったく問題意識も批判精神も発揮しない日本メディア

「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」というスローガンを思い起こせば、すべてを戦争に奉仕させる正真正銘の戦争国家と化したウクライナは日本の支配層にとって理想の国家像であり、台湾・沖縄有事に際しては日本人も、愛と連帯、ヒューマニズムを捨てて宗教心をも憎悪と分断の糧とし、政治目標のための道具とすることを求められるようになるんでしょう。いままでは、偏狭で狂信的に過激な民族主義者の破壊的な主張として眉を顰められるようなトンデモが堂々と公共電波に乗る日が来るのかもしれません。既にその萌芽は見えています。次回、NHKで19日に放送された「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」を取り上げます(かなりの文章量になったので改めて投稿します)。

関連記事:12月30日づけ「単なる女性自衛官募集番組(それも程度の低い)になり下がった「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」
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2022年12月22日

先入観?

https://news.yahoo.co.jp/articles/49d3dbcaafab4dbdfdf5ab6efc3c03f246b69df9
北朝鮮画像、グーグル転用か 「偵察衛星」を分析 防衛省
12/19(月) 20:58配信
時事通信

 防衛省は19日、北朝鮮が偵察衛星開発の試験で衛星から撮影したとして公表した地上の写真について、インターネットのグーグルマップから転用した可能性があるとの分析結果を示した。

 自民党国防部会などの同日の会合で説明した。
(以下略)
コメ欄に軍事ライターであるJSF氏のコメントが寄せられていますが、「最新の商業衛星の撮影データと照らし合わせても、北朝鮮の撮影は最新の状況を撮影していると判断できます。つまり日本防衛省の分析は間違いです」とのこと。「北朝鮮「偵察衛星試験」画像のGoogleマップ転用説は誤報」において、より詳しく説明しています。

防衛省の分析チームにいったい何があったのかは分かりませんが、自民党国防部会にこんな報告をしてしまったのだから大失態以外の何物でもありません。「どうせ貧乏国家北朝鮮のことだから、どっかから持ってきて加工した写真だろう」と先入観を持ってしまったのでしょうか?
ラベル:政治
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2022年12月21日

「金正恩の北朝鮮 〜“先鋭化”の実態を追う〜」:わが国家第一主義に対する分析不足は、日本メディア・日本の「北朝鮮」研究者の現在位置を示している

NHKスペシャル12月11日づけ「金正恩の北朝鮮 〜“先鋭化”の実態を追う〜」について取り上げます。
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/2K54QJV466/
今年、過去最多となるミサイルの発射を繰り返す北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)総書記。ミサイルの種類や発射位置などを専門家とともに徹底検証すると、その軍事力が新たな段階に突入している実態が見えてきた。ロシアによるウクライナ侵攻以降、権威主義的な国々と結びつきを強める北朝鮮。国際社会が有効な手を打てない中、ジョンウン氏はどこへ向かおうとしているのか?10年の実像に独自分析で迫る。
知識として新しい情報はまったくなかったものの、既存の情報を日本メディアや日本の「北朝鮮」研究者がどのように理解・消化しているのかという点においては興味深い「まとめ方」をした番組だったとは言えます。一言で言って分析不足。メディアに興味のない方にはまったく無価値な番組ですが、私のようにむしろメディアに興味のある人にとっては、悪い意味で興味深い番組でした。

■朝米首脳会談決裂が軍事面での「先鋭化」の契機・分岐点だったのか?
番組は、元帥様の時代が始まって10年たつ今日、軍事面で核・ミサイル開発が実戦を想定した配備段階に入りつつあること、内政において統制が強化されていること、そして(いわゆる)「国際社会」の分断を背景に「制裁」逃れが起きているとしつつ「近年あらゆる面で先鋭化する北朝鮮の姿が見えてきた」としたうえで、「何が起きているのか」と問いを立てる形で始まりました。

まず軍事面での「先鋭化」について番組は取り上げます。

周知のとおり元帥様はかなり早い段階から「並進路線」を提示し推進してこられました。番組はこのことに言及し、アメリカの元プロバスケットポール選手だったDennis Rodman氏に随行して訪朝したコロンビア大学のJoseph Terwilliger教授にインタビューしました。Terwilliger教授は元帥様の発言を振り返って「貿易などで世界ともっと関わりたいと言っていたし、人民の生活を向上させたいと話していました」や「彼のチームが規制を緩和し、経済をよくしようとしていました」などと証言しました。ナレーションも「国営企業の裁量を広げるなど労働者の働く意欲を高める経済改革を進めようとしていた」といった具合に、社会主義企業責任管理制などといった経済改革の存在を取り上げました。

しかしながら、ここから番組は些か妙な方向へ。「そのジョンウン氏が軍事開発を先鋭化させる分岐点は何だったのか」という問いを立てはじめたのです。番組は、元帥様の「すべての演説や談話」をAIで分析し、言葉の使用頻度や単語同士のつながりから見えてくるものを洗い出することで、元帥様が何に関心を持ち何を重視していたのかを分析したといいます。それによると、「国家」という言葉の用法に最大の変化が見られたとのこと。以前は「国家」は建設、経済、発展と連関していたのに対して、チュチェ108(2019)年ごろから軍事、安全、保障と連関するようになってき「先鋭化」したというのです。そしてその契機・分岐点を番組は朝米首脳会談決裂にあったと指摘しました。

分からないでもない分析ですが、そもそも並進路線は、経済建設と核・ミサイル開発を同時並行するという路線であり、並進路線において核・ミサイル開発が進展したからといってそれは特段「軍事開発を先鋭化」したということにはなりません。そして、共和国が、「まだ取り組んでおらず、これから始めることを予告的に公言する」ことよりも「一定の方向性が見え、成果が上がり始めて初めて方向性を公言する」お国柄であることを考えると、朝米首脳会談が決裂したことを以って「これから軍事路線で行くぞ!」と方針転換したというよりも、水面下でせっせと取り組んでいた軍事力強化路線に一定の方向性が見えたので、かかる宣言をしたとも考えられます。そうなると、朝米首脳会談決裂は契機・分岐点とは言えないようにも思われます

政治宣伝というものはタイミングが重要です。出来もしないことを連呼すると宣伝の効果が低下するものです。元帥様の発言に見られる言葉の使用頻度においてチュチェ108年ごろから質的な変化が見られたからといって、それは必ずしも朝米首脳会談の結果に帰結できるものではないと思われます。むしろ、それまで継続的に注力してきた並進路線下における軍事力増強がチュチェ108年ごろに一定の方向性が見え成果が上がり始めたので、言及の機会が増えたとも考えられます。軍事力強化の目途がついたことと朝米首脳会談の決裂とが、たまたまチュチェ108年に同時に発生したという可能性が考えられないでしょうか?

そもそも、いくら朝米関係改善があったとはいってもアメリカは一貫して帝国主義の首魁であり、共和国は決して警戒を解いたわけではありませんでした。共和国は、朝米関係改善自体が国家核武力の完成ゆえであると考えています。「アメリカを射程に収める核ミサイルが完成したからこそアメリカはしぶしぶ交渉のテーブルについた」というのが共和国の情勢理解です。その意味で共和国の立場は一貫しています

いままで並進路線下で進めてきた国防力強化によってアメリカは一旦は交渉のテーブルについたが、結局のところ決裂したので国防力強化路線に回帰し、偶然軌を一にしてそれまでの積み重ねの成果が上がり、核・ミサイル開発に飛躍が生じたと考えることも可能です。

どうしても朝米首脳会談の決裂を先鋭化の契機・分岐点としたいのであれば、チュチェ107(2018)年4月20日開催の朝鮮労働党中央委員会第7期第3回総会で提示された「経済建設総力集中路線」に触れ、それがチュチェ108年12月末開催の朝鮮労働党第7期第5回総会で提示された「正面突破戦」を以って事実上撤回され並進路線に回帰したことに触れるべきでした。しかしなぜか番組は「経済建設総力集中路線」には一切触れていません。正面突破戦の宣言は、明らかに対米関係を意識したものです。元帥様自らそう言明したのですから。経済建設総力集中路線が形骸化し、その年末には正面突破戦に正式に転化したことは、「先鋭化」に見えます。あえて無視して「なかったこと」にするのならば、経済建設総力集中路線ではなく並進路線にすべきでした。

ここで念のためにおさらいしておきたいのですが、元帥様の施政はざっくり言って、チュチェ102(2013)年ごろからの「並進路線」、チュチェ107(2018)年春に提示の「経済建設総力集中路線」、そしてチュチェ108(2019)年12月末に言及された「正面突破戦」(並進路線への回帰)の3局面に分類することができます。ちなみに朝米首脳会談が決裂したハノイ会談は、チュチェ108年の2月でした。どうも番組作成チームはこのあたりの整理ができていないように見受けられます。

チュチェ108年ごろから元帥様の発言に見られる言葉の使用頻度において「国家」の指す意味に質的な変化が見られたのは事実なのでしょう。AIによる分析は本質において統計学なので、それを根拠もなく疑ったりはしません。しかしながら、AIが析出した結果を朝米首脳会談の決裂と因果関係的に結び付けるのは、AI分析による必然ではなくNHK番組編集チームの判断です。朝米首脳会談の決裂が分岐点ではなかったとは言い切れませんが、とはいえ、番組中で展開された論理水準では、必ずしも「先鋭化」の契機・分岐点が朝米首脳会談決裂にあったと言い切ることも難しいように思われます。相関関係と因果関係を同一視したり相関関係と疑似相関関係を混同したりと日本人は科学的推論が苦手なので、推測レベルの雑な論理を展開するのは仕方ない面もありますが、疑問符を付けざるを得ない番組の主張です。

事実を整理しきれておらず、また、推測レベルの雑な論理を平気で展開しています

■朝米交渉決裂までの経緯が、意外にも割と事実に即して淡々と整理されていることが示すこと
番組進行の筋に戻ります。ここでStephen Biegun元「北朝鮮」担当特別代表が登場。朝米交渉でアメリカがリビア方式を提案したことをBiegun氏は証言しました。これに対して共和国側の反応なるものとして、続いて「脱北」した元外交官の証言インタビューが取り上げられました。それによると警戒感強めた元帥様はリビア方式の徹底的な調査を命令。「リビア方式とは、非核化と引き換えにアメリカが体制保障・経済制裁解除をするというものだが、リビアのカダフィ大佐は最終的に殺された」という、皆がよく知っている結果をレポートしたとのことでした。この先の経緯は、我々も報道事実としてよく知っていることです。共和国はヨンビョン核施設の閉鎖を申し出るも、アメリカはそれでは不十分と応じ交渉は平行線を辿りついには決裂してしまいました。

「脱北」元外交官によると、交渉決裂に際して元帥様が「アメリカとの対決は長期戦になった」と話し、「アメリカが態度を変えないなら今まで以上に軍事開発をやってやる」とも言っていたと「証言」し、「北朝鮮としては核武力を強化する、それ以外の選択肢はなくなったのです」としました。

朝米交渉決裂の経緯が、割と事実に即して淡々と整理されていることに私は意外な感想を持ちつつ、日本世論が非常に憂慮すべき段階に入ったと私は考えます。

カダフィ大佐の最期は、リビア方式が罠であることを疑ってかかるのにはあまりにも説得力のある証拠です。見えている地雷を自ら踏みに行くようなもの。共和国そして元帥様がリビア方式の非核化を呑まないのは、当然といえば当然の成り行きであると考えられます。しかし、日本において共和国は「悪の権化」扱いをされており、悪党の言い分や事情を汲むような描写は激しいバッシングの対象になるものです。

もともと日本世論は、たとえば刑事事件・刑事裁判をめぐる世論反応を見るに「悪い奴は悪いから悪いんだ」という風潮がありました。たとえば、日本中が沸騰した光市事件(光市母子殺害事件)では、被告人や弁護人らが主張をメディアがそのまま報じることもできませんでした。被告人側の主張をそのまま報じると「何であんな悪魔の言い分に耳を傾けるんだ」といった苦情が編集部に殺到するので、とても取り上げられなかったといいます。

光市事件の被告人・弁護人以上に憎悪を集めている共和国。それゆえ今まで「北朝鮮」モノでは、「向こうの言い分や立場にも一理ある」といえる事情はことごとく無視されてきたものでした。それにもかかわらず今回は割と事実に即して淡々と整理されて放映されたわけです。これはいったいどういうことなのでしょうか? NHKがジャーナリズムの原点に返ったはずがありません。「今日のウクライナ情勢は明日の台湾・沖縄情勢」とばかりに、いま毎日のように戦時プロパガンダの予行演習を展開しているわけですから。

「先鋭化」しているのは共和国ではなく日本であると私は考えます。

ロシアのウクライナ侵攻に関連して噴出している昨今の日本世論を見るに、「ロシアは悪いから悪いんだ」という、理屈にもなっていない言説が罷り通っています。たしかに「今年、先に手を出した」のはロシアですが、あの戦争には両国の長年にわたる確執が下地にあります。それゆえ、戦争犯罪問題を筆頭とするロシアの巨悪性には及ばないまでも、ここに至るまでウクライナが完全に清廉潔白だったとも言えないところです。しかし、「もとはと言えばロシアが悪い」論は時間軸を任意に操作して、「ロシアとウクライナとの国際関係においては、歴史上100パーセント、ロシアが悪い」と言わんばかりに、必ず非がロシアに降りかかるよう歴史的経緯を切り取っています。要するに日本世論は「結論ありき」で動いており、それに再考を迫るいかなる証拠が現れようとも日本世論はあらかじめ到達した結論に凝り固まっているのです。

いよいよ近頃は、対ロシア憎悪の対象がプーチン大統領個人に集中するに至っています。まったく異様なレベルの凝り固まり具合です。それゆえメディアが「プーチンはこう言っています」と言ったところで、もはや「瞬間湯沸かし器」と化した世論は「お前はプーチンの言い分に耳を傾けるのか」という余裕もなく脊髄反射的にプーチン大統領への憎悪に走っています。非常に「先鋭化」している言わざるを得ない状況にあります。

共和国に対しては対ロシア以上に世論は凝り固まっています。日本世論においてはもう20年以上の歳月をかけて「北朝鮮は悪いから悪いんだ」という意識が植え付けられています。「北朝鮮はそもそも邪悪な存在であり、そんな連中が権利を主張すること自体が許されないことだ」という暴論が非常にハッキリと存在感を示しています。そんな状況下において、朝米首脳会談決裂の経緯が割と事実に即して淡々と整理されて放映されたわけです。

このことは、成熟した市民社会・民主国家としては知性の欠片もない野蛮な主張であり、堂々と展開するには憚られる「悪い奴は悪いから悪いんだ」が、ロシアのウクライナ侵攻を巡る世論の「瞬間湯沸かし器」化が罷り通るようになったことを以って、NHK等のメディアをして「北朝鮮相手ならもはや何をどう報じても安心、批判の矛先は絶対悪・北朝鮮に向かいこっちには絶対に向かない」と思わしめたと解釈できそうです。「悪い奴は悪いから悪いんだ」という主張が当然視されている昨今の世論状況においては、「リビア方式はどこからどう見ても罠であり、そんなものが受け容れられるわけがない」とも解釈できる一連の朝米交渉の経過を淡々と取り上げたところで、視聴者が勝手に「北朝鮮は悪いから悪いんだ」論に基づいて憎悪を共和国に集中させるので、NHKとしては「安心して」報じられるわけです。

私はこのことを共和国の「絶対悪」化のさらなる深化、ならびに日本世論の著しい低劣方向の先鋭化の証拠であると考えます。「先鋭化」しているのは共和国ではなく日本でしょう。

■人民に対する感情的・情緒的な当局の宣伝工作に対する目配りが不足している日本の「北朝鮮」分析
続いて番組は「米朝首脳会談の決裂後、軍事開発をより先鋭化させたジョンウン氏。それと同時に国内の統制も強化していたことが分かってきた」としつつ、国内事情に話を移しました。「内部」資料と「脱北」者の証言に頼るコーナーです。民主化を求める「脱北」者なる人物が在朝・在中情報提供者を介して入手したとされる党組織指導部、党出版社、国家保衛省の文書を元公調坂井隆氏と慶大教授礒ア敦仁氏に分析させました。

このコーナーにおいて番組は、「統制強化にあたっての新思想」として、元帥様が再三言及なさっている「わが国家第一主義」に照準を合わせました。礒ア教授に「ナショナリズムですよね。一種の。貧しさと闘っている人々に対して、いやいや世界に誇れるだけの核ミサイルがあるんだという国防力。それを指示しているそれを命じてつくってきた金正恩国務委員長。こんな若く素晴らしいリーダーがいるんだという、そういう体制の宣伝ですね」と言わせたのです。

礒ア教授ぱ、わが国家第一主義について国防力強化と民生向上を対立構図的に位置づけつつ、わが国家第一主義を単なる国防力として位置付けています。しかし、わが国家第一主義はそういう単純なものではないと私は考えています。

そもそも、わが国家第一主義の最終的目標は朝鮮革命の完遂、つまり祖国における社会主義・共産主義の完全な勝利にあります。国防力もその一過程にすぎません。そして、社会主義・共産主義の完全な勝利とは社会政治的生命体の完成であり、歌謡≪세상에 부럼없어라≫(この世に羨むものはない)に歌われる世界の実現にあります。現に元帥様は、朝鮮労働党第7次大会や翌年の新年の辞において≪세상에 부럼없어라≫に言及し、その実現を誓っておられます。

≪세상에 부럼없어라≫の主題は、幸福とは経済的な豊かさや軍事的な強さではなく≪우리는 모두다 친형제≫(我らは皆、親兄弟)であると位置づけたところにあります。朝鮮式社会主義における幸福、人類にとっての幸せは人間同士の温かい関係にあるというわけです。経済建設はそのための物質的基盤づくりであり、国防力強化は帝国主義の侵略から人間同士の温かい関係を守るための条件づくりです。それゆえ、わが国家第一主義もまたその線に沿って総体的に解釈すべきものと私は考えます。

現に、政論「朝鮮労働党の厳粛な宣言」においても、国防力強化は人民生活向上を目標としたものでありそれに直結するものであると位置づけられています。礒ア教授が描く国防力強化と民生向上を対立構図は、「民生を無視して核ミサイル開発を優先する北朝鮮指導部」という、将軍様執権下の先軍革命時代ならまだ通用したものですが、元帥様執権下の現状に即しているとは言えないように思います。

朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』の金志永氏は、「「わが国家第一主義」の時代 C 共産主義社会の実現を現実的課題に」において、「現在、朝鮮では「わが国家第一主義」を貫徹する重要な方法の一つとして、社会主義強国建設の要求に相応しい国風を確立することを強調している。(中略)朝鮮には他国が真似できない固有の国風がすでに形成されている。(中略)国全体が一つの大家庭のように互いに助け合う集団主義の気風などだ。」と指摘しています。国全体が一つの大家庭のように互いに助け合う」は、≪하나의 대가정≫(ひとつの大家族)という歌があるように、共和国の社会政治的生命体を賞賛する政治宣伝の特に重要なキーワードです。やはり、わが国家第一主義は単純な富国強兵ではないのです。

礒ア教授の分析に私は敬意を持っているのですが、彼をはじめとする日本の「北朝鮮」研究者の分析には、「徳性実記」をはじめとする人民に対する感情的・情緒的な当局の宣伝工作に対する目配りが不足しているように常々思っています。もっといえば、共和国当局の人民に対する感情的・情緒的な宣伝扇動をあまりにも軽視しています。「軍事力こそが国力であり、また、国内不満は強権で抑え込む」というステレオタイプ的な独裁者像や富国強兵の開発独裁体制像を共和国に当てはめて理解しているつもりになっていると言わざるを得ません

このことは、そもそも日本の研究者に「事実から出発する」という科学的発想が欠けているのでなければ、「脱北」者の「証言」にあまりにも偏りすぎであるがゆえだと私は考えます。祖国を見限るほどに心底共和国を嫌う「脱北」者が、共和国当局の感情的・情緒的な宣伝扇動を肯定的に回顧するはずがありません。しかし、金志永氏が上掲記事でも言及しているとおり、共和国が事実として見せている安定性は「強要では得ることができない」ものです。

たしかに案内員が常時随行しているピョンヤン取材で人民のホンネを拾うのは困難でしょう。だからといって「脱北」者の証言・回顧を人民のホンネとするのもまた無理筋でしょう。

事実として共和国の政権基盤は安定しており、そして金志永氏が言うように「強要では得ることができない民心の基盤に立つ国家は揺るぎない」ものです。このことから出発すべきです。マクロ的に安定した政権基盤という事実から、ミクロ的な民心を推察する方法論が必要だと思われます。この方法論の開発のためには統計科学への通暁が必要だと私は考えます。

共和国当局の人民に対する感情的・情緒的な宣伝扇動の軽視といえば、将軍様逝去の報においても顕著に見られました。

チュチェ100(2011)年12月19日発、朝鮮中央通信≪김정일동지께서 서거하시였다≫では、将軍様は、「走行中の野戦列車内で重症急性心筋梗塞を発症し死去した」と報じられています。しかしながら、韓「国」政府は早くも同年12月20日に、衛星写真をもとに当時野戦列車は走行中ではなく、将軍様は、公告上死去したとされる日の前日夜にピョンヤンの官邸内で死去した可能性があるとしました。それを受けた西側メディアは、「謎の書き換え」と報じたものの、その真意を深めようとはしませんでした。サンケイ・李相哲コンビに至っては「秘録金正日」において、「列車にこだわった真相…「パイロット」の夢が一変、「人民」締め出し引きこもり」と大風呂敷を広げながら何らの解明もしませんでした。

韓「国」政府の発表が真実であるとすれば、「走行中の野戦列車内で重症急性心筋梗塞を発症し死去した」とする朝鮮中央通信の報道には重要な意図があると考えるべきで、それを深める必要があったはずです。いまも共和国メディアは、単に亡くなったのではなく「列車内で死去した」ことを強調しています(「人民を訪ねる列車が伝える献身の足跡」)。「列車内で死去」には非常に重大な意味が込められているはずだと見るべきです。

少し古い書籍ですが、元総聯中央委員で元科協幹部のパク・ボンソン氏の『北朝鮮「先軍政治」の真実 - 金正日政権10年の回顧』では、先軍政治が始まったチュチェ84(1995)年元日について、「この日を境に、金正日国防委員長の所在地は首都の明るい庁舎の事務室から全国の軍部隊の哨所へと変わった」と表現しました(パク・ボンソン『北朝鮮「先軍政治」の真実 - 金正日政権10年の回顧』光人社(2005)p20)。「将軍様は全国を回って精力的に現地指導なさっている」、これはキム・ジョンイル時代を特徴づける描写です。そして、そうであるからこそ、将軍様の死もまたその線に沿って描写されたものと見なすべきでしょう。

私は、将軍様逝去の報をいまも昨日のことであるかのように覚えています。「走行中の野戦列車内で死去した」というくだりにはひときわ、衝撃を受けたものです。なぜならば、まさに≪장군님은 빨찌산의 아들≫(将軍様はパルチザンの息子)で歌われた「キム・ジョンイル伝説」そのものだったからです。当該歌謡には次のような歌詞があります。
동에번쩍 서에번쩍 적진에 번개치며
위대한 백두전법 전선길에 빛내시네
조국위해 한평생 공격전에 계시는
우리의 장군님은 빨찌산의 아들
将軍様は、祖国のため生涯を攻撃戦の前線に身を置かれていると歌う歌詞。私は「走行中の野戦列車内で死去した」というニュースを聞いて真っ先にこの歌詞を思い出しました。「本当に生涯を攻撃戦の中で送られ、最期の瞬間も攻撃戦の中にいらっしゃったんだ!」と思ったものでした(何十年も、のめり込んでいるとこういう発想になります)。

共和国は音楽政治の国です。政治的メッセージをメロディーに乗せることで人々の脳裏に刷り込む宣伝手法を取っています。そして、政治宣伝は共和国の体制にとって非常に重要な要素であり、無駄なことをやっている余裕はまったくない点において、音楽政治を長年継続しているという事実は、音楽政治の宣伝効果が高いということを示唆しています。それゆえ、「走行中の野戦列車内で死去した」ことを強調する狙いは、≪장군님은 빨찌산의 아들≫を筆頭にいままで組んできた政治宣伝にリンクさせ感情的・情緒的宣伝扇動をしようとしていると考えるべきなのです。

「北朝鮮はまもなく崩壊する」と言われ続けて20年。一向に崩壊する兆しはありません。金志永氏がいうように「強要では得ることができない民心の基盤に立つ国家は揺るぎない」のです。民心獲得には何よりも感情・情緒面での獲得が重要です。つまり、共和国がいまも赤旗を掲げ続けているという事実の背後には、感情・情緒面での民心獲得があると言わざるを得ないのです。

それゆえ、日本の「北朝鮮」分析の視座は、感情・情緒面での民心獲得を非常に軽視している点において、根本的に物足りないと言わざるを得ないでしょう。その一端が、礒ア分析及び本番組に顕著に表れています。日本メディア・日本の「北朝鮮」研究者の現在位置を示しているのです。

■かなり無理のある印象操作
番組は、礒ア分析を受けて「わが国家第一主義を人民はどう受け取ってきたのか」として、「脱北」者インタビューを取り上げました。チュチェ108(2019)年「脱北」した男性の証言として「他の国より貧しい国であることは知っていましたが、自尊心と誇りが高い国だと思っていました。核開発もしているし大陸間弾道ミサイルもあるしそういうものが人民に力を与えているように思わされていたのです」を放映しました。いささか悪意のあるナレーションでしたが、もはやそんなことは如何でもよいくらいに分析が不足しているコーナーでした。

聖学院大学の宮本悟教授の「北朝鮮の内在論理:ナショナリズム形成と世界観の変化」によると、わが国家第一主義の意味は、当該論文が上梓されたチュチェ110(2021)年段階においては「まだ定着していない」とのことです。
民族主義を支えるスローガンとしての朝鮮民族第一主義は現在でも続いているが、金正恩の時代に入ってから、民族に代わって、国家を使うスローガンも始まった。それが、「我が国家第一主義」である。2017年11月20日に『労働新聞』の「政論」という論評で初めて使われたが、それは自国生産品を愛好しようというスローガンに過ぎなかった。しかし、2018年9月10日に金正恩が「世界が公認する我が共和国の戦略的地位と国力に相応しくも、我が人民が勇敢な革命的気勢と志向に合った闘争の旗は、まさに我が国家第一主義です」と語ったことで権威が与えられた。ただし、その意味はまだ定着していない。2019年11月11日に『労働新聞』に掲載された「政論」では、「敬愛する元帥(金正恩)が抱かれせてくれた人民大衆第一主義、我が国家第一主義の崇高な思想は、社会主義我が家の永遠の幸福を担保する偉大な家庭哲学である」とされていた。2020年6月7日の『労働新聞』では、「我が国家第一主義は、社会主義祖国の偉大性に対する誇りと自負心であり、国の全体国力を最高の高みに上げようとする強烈な意志」とされた。これは金正日が説明した朝鮮民族第一主義精神の内容とほぼ同じで、民族と国家を置き換えただけのような説明である。
この男性がチュチェ108年の何月に「脱北」したのかは番組では伏せられていましたが、チュチェ106年11月の初出段階では自国生産品愛好のスローガンでしかなく、チュチェ108年11月にようやく「偉大な家庭哲学」と位置付けられたに過ぎないわけで、いずれにせよ、インタビュー内容と当時公式に定義づけられていたわが国家第一主義の意味あいとは齟齬があるように思われます。

そもそも、注意深くこのインタビューを見返すと、わが国家第一主義に言及した回顧ではありませんかなり無理のある印象操作の域に達したコーナーであると言わざるを得ないと思われます。礒ア分析にとどめておいてこのコーナーは存在しない方が傷口を広げないという意味ではマシだったように思えます。

ついでに言っておけば、宮本教授は、わが国家第一主義について「金正日が説明した朝鮮民族第一主義精神の内容とほぼ同じ」と断定していますが、将軍様の朝鮮民族第一主義精神には核ミサイル開発への言及はありません。発表された時節柄当然ではありますが。

■たいして面白くない「制裁の抜け穴」論
制裁の抜け穴論はたいして面白くない内容でした。

共和国が中国に石炭を密輸しているという話について、中国側の石炭業者があっさりと密輸を認めて「値がついて売れれば儲けになる。それだけです」と開き直ったシーンが放映されましたが、「いかにも儲け主義企業だな」という感想しかありませんでした。おそらく、中国側の港湾関係者や税関関係者には、当該石炭業者から賄賂がわたっていることでしょう。昨今の国連安保理の機能不全とは基本的に関係ない密輸案件でしかありません。非常につまらないコーナーでした。

■失敗者Biegun氏に展望を語らせてどうするの?
最後に番組は「国際社会はどう向き合うか」という問いを立てました。ここでいう「国際社会」とは西側諸国に過ぎないわけですが、いまはそこはよいでしょう。

ふたたびBiegun元「北朝鮮」担当特別代表が登場し、「抑止力の維持は必要です。核兵器の使用は絶対に許されないと北朝鮮に示すことが重要です。アメリカの強固な防衛力を示し圧力を維持するのです。バイデン政権は対話にも関心を持っていますが北朝鮮が応じないためその努力は実っていません。あらゆるレベルで持続的な対話の手段を確立することが非常に重要です」と述べたのです。

リビア方式という「見えている地雷」しか出せなかったことを棚に上げて、無反省に「北朝鮮が悪い」と言っているに過ぎないBiegun氏。そもそも、失敗したBiegun氏にインタビューしたところで自己弁護しか出てこないでしょう。ここはBiegun氏とは別の人士を引っ張り出して「トランプ政権はああしたが、こうすべきなんだ!」と言わせるべきでしょう。失敗者Biegun氏に展望を語らせて、一体如何したかったのでしょうか?

なお、Biegun氏のインタビュー後、韓「国」国家情報院関係者の「中国がカギになる」という放映されたのですが、韓「国」政府関係者の「べき」論ほどいい加減なものはないので、これは無視すべきでしょう。

■総括:共和国にとって「ボーナスステージ」は続く
「今後数十年にわたって権力を維持するとみられるジョンウン氏、朝鮮戦争はまだ停戦状態にすぎず東アジアの安全を揺るがすリスクがある、高まる核ミサイルの脅威とどう向き合うべきか・・・」といったクロージングで終わった番組。そもそも現状分析が失当で、さらに「国際社会はどう向き合うか」としつつ失敗者Biegun氏に展望を語らせているわけです。多重の誤り。本気でやっているとすれば、ここまで間違いが続いているとなると前途は絶望的でしょう。

このように、新しい事実の発見が皆無の番組でしたが、上掲のとおり既存の情報を日本メディアや日本の「北朝鮮」研究者がどのように理解・消化しているのかという点においては興味深い「まとめ方」をした番組だったとは言えます。こんな調子では「問題解決」には決して至らないでしょう。そして、「国際社会」の分極化によって国連安保理が機能を低下させている現状と併せて考えたとき、共和国にとって「ボーナスステージ」は続くでしょう。

根本的に、共和国を押しとどめることは非常に困難だと私は考えています。
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2022年12月16日

国民を「啓蒙し管理する対象」としてしか見ていないのであれば、戦時において一心団結を期するなど到底無理な話

https://news.yahoo.co.jp/articles/202e265ce79670e8abe9bb6ae0a3c1c611205890
ウクライナ軍がドネツクに大規模砲撃か、ロシア側が「戦争犯罪」と非難
12/16(金) 9:52配信
ロイター

ロシア側が設置したドネツク市「市長」によると15日早朝、ウクライナ軍の多連装ロケット砲からロケット弾およそ40発が撃ち込まれ、集合住宅や病院が被害を受けたほか、複数のけが人が出たという。ロシア側は、ウクライナによる戦争犯罪だと非難している。

集合住宅1棟と、この女性が働く病院が被害を受けた。

「ここに女性が倒れていた。あの破片が女性のところに飛んでくる様子を想像してみてほしい。
 ここに血の跡が見えるだろう。女性は手術室に運ばれた。脚の傷を縫って、包帯で処置した」

ある住民は頭部を負傷した。
「大きな地鳴りが聞こえた。バルコニーの前に、大きな火の玉のようなものが落ちてくるのが見えた。
 ガラスやレンガの破片など、あらゆるものが私のベッドの上に降ってきた」

(以下略)
■まるで開き直るかのような物言い
ロシア側は、ウクライナによる戦争犯罪だと非難している」――「ロシア側人士が言えたことだろうか?」と言わざるを得ませんが、他方で、このことが事実・真実であるとすれば、「発言主体の発言資格」という観点とは別に事態を評価する必要がありそうです。

しかしながら我らがコメ欄・・・
おかしなことを言うものである。戦争犯罪を犯しているのはロシアである。ウクライナの領土であるドネツクを占領しているのはロシアである。それを取り戻そうとしているウクライナにとっては、攻撃の一環として民間施設が巻き込まれることもあるが、そこを狙っているわけではない。ただロシアはウクライナの主要都市のあらゆる民間インフラを狙って攻撃をかけている。それも電力関連施設を狙い定めて攻撃をしている。これこそが戦争犯罪であろう。

ロシアは自分たちがやっていることを棚に上げて一体何を鬼の首を取ったかのようにウクライナを攻め立てているのであろうか。こういったこともロシアがウクライナを攻め込んでこなければ起こりえなかったことであるということも事実である。

ロシアは一刻も早くウクライナから撤退しなければならない。ロシアは実質上もうすでに負けているといっていいだろう。
8月21日づけ「戦闘地帯に取り残された非戦闘員個人の目線を忘れてはならない:アムネスティ報告書が示した範とそれを読み取れない日本言論空間の現状」で取り上げた山添博史・佐々木れな・ひろゆきの各氏の大暴論を更に劣化させたような主張です。

ウクライナの領土であるドネツクを占領しているのはロシアである。それを取り戻そうとしているウクライナにとっては、攻撃の一環として民間施設が巻き込まれることもあるが、そこを狙っているわけではない」――狙っていないからよいというわけではないでしょう。戦争である以上は結果論としてこういう事態に陥ることはあるとしても、守るべき自国民の生命・財産に危害が加わった、要するに本末転倒的な事態が起こったのに、まるで開き直るかのような物言いには違和感を感じざるを得ません。継戦を自ら危うくしかねない萌芽です。内心は「戦争なんだから仕方ないだろ」と思っても、そこは慰撫し寄り添う「姿勢」が、姿勢だけでも必要です。

狭く陰湿な日本のムラ社会においては自己の非や責任から逃げることが何よりも大切なので、ついついその癖で「ロシアとは違って『そこを狙っているわけではない』から責任はない」と言ってしまったのでしょうが、そういう問題ではないでしょう。戦時下においては人心をつなぎとめることが死活的に大切である(だからこそ、その真理を深く理解している共和国は、平時から徳性実記宣伝などを通した「首領と戦士の血縁的繋がり」を強調し、人民大衆との感情的・情緒的一体化を推進しています)ところ、そういう観点が抜け落ちた言説です。後述するように、日本においては国民は「啓蒙し管理する対象」でしかなく、そういう考え方は、国防意識か高い人たちが、自分も管理される側の国民に他ならないのに一般国民に対しても抱きがちなものです(意識高い系って何の分野においても滑稽・・・)。

いま日本では「反撃能力」の保有が政治の主たる議題になっていますが、仮に「敵の反撃の反撃」によって日本国民に死傷者が出たとしても「民間施設が巻き込まれることもあるが、そこを狙っているわけではない」で片付けられてしまい、「もとはと言えば敵が悪い」という話になってしまうのでしょう。以前私は「台湾・沖縄有事は沖縄戦2ndになりかねない」と書きましたが、そのことが現実味を帯びるようになってきたように思われます。また、同胞の被害を慰撫し寄り添う姿勢の欠如により、継戦を自ら危うくしかねない萌芽が見受けられるようにも思います。

ちなみに、「反撃能力」の保有が政治の主たる議題になった今週ですが、今週月曜日から金曜日までのNHK「ニュース7」では、番組冒頭で映される主要ニュース一覧にウクライナ情勢は一つも載ってきませんでした。たしかにいま、戦闘は小康状態ではありますが、それでも先週までは2〜3日に1回くらいは、3〜4番ニュースには出てきたのに。「反撃能力」の保有という本丸・真の狙いに漕ぎつけたので、ウクライナ情勢ニュースは「用済み」ということでしょうか?

■結局この国では、この国の国家権力にとっては、国民は「啓蒙し管理する対象」
「反撃能力」問題と併せて防衛省が「世論工作の研究に着手」したという報道が話題になっています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/917c8bd750b1cadc0c35930e53661b44ad258c19
防衛省、世論工作の研究に着手 AI活用、SNSで誘導
12/9(金) 21:00配信
共同通信

 防衛省が人工知能(AI)技術を使い、交流サイト(SNS)で国内世論を誘導する工作の研究に着手したことが9日、複数の政府関係者への取材で分かった。インターネットで影響力がある「インフルエンサー」が、無意識のうちに同省に有利な情報を発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている。

(以下略)
このことについては、ジャーナリストの藤代裕之氏がさっそく非常に的確なツッコミを入れています。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujisiro/20221210-00327700
防衛省の世論工作研究が、あらゆる意味でズレているので心配になる
藤代裕之 ジャーナリスト
12/10(土) 16:16

共同通信が防衛省が世論工作の研究に着手したと報じています。ロシアのウクライナへの侵攻、中国の台湾への圧力強化もあり、ソーシャルメディアを中心とした世論工作を含む「ハイブリッド戦・情報戦」に対する研究は日本においても必須だと考えています。しかしながら、あらゆる意味でズレているので心配になってきました。最もダメなのは民主主義国家なのに自国民を工作しようとしているところです。それロシアと同じやないか…

(中略)
時々勘違いしている人がいますが、インフルエンサーは、効率よく自分たちの都合の良いメッセージを届けてくれる存在ではなく、意図したトレンドやバズりは簡単に起きません。このようなステマまがいの方法ではなく、防衛省に対する国民の理解を深めたければパブリック・リレーションズをしっかりやりましょう。

先に紹介した記事にも紹介しているのですが、リトアニア国防省の担当者は民主主義社会でロシアに対抗する「最大の武器はオープンであること」と述べていました。民主主義国家なのだからオープンに正面からやりましょう。

うまいことインフルエンサーを使っていきましょうみたいなのは、ダメPR会社に騙されているんじゃないか説すら疑われます。世論を誘導する前に、防衛省が誘導されてないか?

もしこの報道が間違っていて、国民に誤解を招いているのだとしたら、それこそパブリック・リレーションズの失敗であり、まずそこからだぞ、という話でしかありません。

(中略)
記事に書かれている「有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている」ですが、瞬間的にはトレンドやバズりが作れる可能性があります。この目標がズレている理由を説明します。

「ハイブリッド戦・情報戦」としてフェイクニュースを使う場合、フェイクニュースに多くの国民が騙されることを目的としているわけではありません。一部の人が信じたり、「本当なの?」と疑問を持つ人が出て、混乱することで人々が敵対し、社会が脆弱になることが目的です。だから論争的な話題がフェイクニュースに選ばれやすいのです。

民主主義国家では表現の自由があり、多様な意見や考えが重視されるため世論を一方向に向けることは困難です。また、意思決定のためにはお互いの意見を尊重していく必要があるのですが、フェイクニュースによる世論工作が行われるとそこが破壊される、つまり民主主義のプロセスを破壊するのが目的なのです。

瞬間的にトレンドやバズりが起きることと、人々が共感したり、理解をしたり、することとは別です。特定国への敵対心や反戦などは、非常に論争的な話題であり、混乱が生じる可能性が高い。むしろ他国にとって有利な状況を自ら作り出す危険な方針にしか見えません。

防衛省が研究すべきは、自分たちの考えているように都合よく国民が動く方法ではなく、他国の世論工作に強い国になるためにはどうするか、ではないのでしょうか?

(以下略)
このようなステマまがいの方法ではなく、防衛省に対する国民の理解を深めたければパブリック・リレーションズをしっかりやりましょう。(中略)リトアニア国防省の担当者は民主主義社会でロシアに対抗する「最大の武器はオープンであること」と述べていました」や「一部の人が信じたり、「本当なの?」と疑問を持つ人が出て、混乱することで人々が敵対し、社会が脆弱になることが(フェイクニュース拡散の)目的(中略)(防衛省の方針は、)むしろ他国にとって有利な状況を自ら作り出す危険な方針にしか見えません」というくだりも注目に値する指摘ですが、何よりも「最もダメなのは民主主義国家なのに自国民を工作しようとしているところです。それロシアと同じやないか…」という指摘は非常に重要に思われます。結局この国では、この国の国家権力にとっては、国民は「啓蒙し管理する対象」ということなのです

この国の国家権力にとって国民が「対象」に過ぎないとすれば、上述の「敵の反撃の反撃による国民の損害」はまともに取り合ってもらえず、「台湾・沖縄有事は沖縄戦2ndになりかねない」という私の疑念が現実化する可能性が高いように思えてなりません

■日本はウクライナのようには戦えないだろう
「今日のウクライナ情勢は、明日の台湾・沖縄有事」を合言葉にロシアによる侵攻開始以来、精力的に戦時プロパガンダ報道の「予行演習」を展開してきた日本の支配層。この記事の最初にご紹介したヤフコメが展開する主張を多数派・主流派意見として定着させることに成功したとはいえるかも知れません。それゆえ、防衛省の世論工作研究は、この10か月あまりの「成功体験」を下敷きにすることでしょう。また、以前は10パーセント程度しかなかったとされるゼレンスキー・ウクライナ大統領への支持率が開戦後は跳ね上がり、いまやゼレンスキー氏を中心にウクライナは国民一丸となって戦っている(ように見える)ことを研究し、日本でも有事の際には同じように国民を教化(調教?)したいとも思っていることでしょう。

しかしまず、10か月あまりの「成功体験」について言えば、こんにちの多数派・主流派意見は、この戦争において日本が「蚊帳の外」にいるからこそ形成・定着したものであるということを強調したいと思います。

遠く離れた異国の地で行われており、日本人の日常生活には直接的には何の影響もない戦争だからこそ「もとはと言えばロシアが悪い。侵略者であるロシアが全面撤退するまでウクライナは戦い抜くべきで、国際社会は全面的にバックアップすべきだ」といった「筋論」を展開できるわけです。現に一般人の日常生活に戦争の影響が直撃している欧州では社会不安が増大しています。ようやく国際的な物価高騰の影響が日本にも及び始めました(物価高騰自体は開戦前からのトレンドであり、この戦争が根本原因ではありませんが)が、慢性的なデフレ経済である日本経済においては米欧諸国ほどは物価は騰貴しておらず、やはり日常生活への影響は限定的です。ポーランドなどと異なりウクライナ難民が押し寄せているわけでもありません。

想定される台湾・沖縄有事のように日本人の日常生活に直撃的な影響を与える事態においては、このような筋論は展開されないものと思われます。新型コロナウイルス禍を振り返れば分かるように、日本世論は「自分事」になれば非常にタチの悪いクレーマーになります。筋論も実現可能性も関係なく、とにかく自分の個人的都合・自分の個人的要求を並べ立てます。ウクライナでさえ表向きは「抗戦支持」を口にしつつ徴兵を忌避する動きがあり、最近は日本語記事でも読めるようになってきました。米欧メディアではかなり早い時期から既に報じられていたことですが、さすがに日本メディアも最近は無視できなくなってきたのでしょう。いくら国家権力が世論工作を展開したとしても、いまウクライナ人が見せている勇気を日本人が同じように見せるとは考えにくいものです。

また、ゼレンスキー氏への支持率のV字回復について言えば、彼がもともと俳優・コメディアンであり「魅せる」ことに長けていたという個人的資質と、それを最大限に引き出した側近らの能力の組織的成果であるということを強調したいと思います。これに対して、新型コロナウイルス禍を振り返れば分かるように日本は、「魅せる」政治家はいないし、それを引き出す側近もいません。こういうのは一朝一夕に出来上がるものではありません。全盛期の橋下徹氏はある程度のカリスマ性がありましたが、それでも戦時指導者として求められるほどの求心力はありませんでした。

特に私は、岸田総理の「あー」「えー」といった間投詞が他人を小馬鹿にしているように聞こえてなりません。もちろん本人はそんなつもりはないでしょうし、聞いていてそうは感じない方もいらっしゃるでしょうが、私にはそう聞こえます。そういう人をリーダーとして戴き、その下に団結しようという気持ちにはとてもなれません(私個人の感じ方・感想です)。ここ最近の総理大臣:麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦、安倍晋三、菅義偉の各氏らも基本的に好かない喋り方の人たちでしたが、その中でも群を抜いて岸田総理の喋り方は、普通に喋っているだけのはずなのに聞いていて不快です(ちなみに、煽りモードの安倍氏の喋り方が一番嫌い――普通に喋っているときはそうでもなかった――だった)。

もちろん、岸田内閣はそんなに長くはなさそうであり、台湾・沖縄有事よりも前に岸田内閣は退陣を余儀なくされると思われるので、岸田氏が戦時指導者の器たり得るかというのは現実的な問題にはならないでしょう。しかし、他の有力な自民党政治家も似たり寄ったりで、なによりも演出家が側近にいない以上は、「日本にはゼレンスキー氏は現れない」でしょう

■国民を「啓蒙し管理する対象」としてしか見ていないのであれば、戦時における一心団結を期する世論工作など無理
防衛省が世論工作を研究するというのであれば、「自分事」になれば非常にタチの悪いクレーマーになる日本世論をリードできる人材開発に注力した方が良いでしょうね。そのためには、国民感情に寄り添い慰撫する姿勢を示せる人材を育成することが必要でしょう。しかし、根本的な問題として、国民を「啓蒙し管理する対象」としてしか見ていないのであれば、戦時において一心団結を期するなど到底無理な話でしょう
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2022年12月12日

銀河3号に搭載された光明星3号2号機の打ち上げ成功10周年

http://www.kcna.kp/jp/article/q/14ae7c8ab80f4e66d72d9efa4c5fa16d1cfd6beecb3161b69e582ab5b8ecfeda1f7bdd50a617cfd49a724c0153a4dd9d.kcmsf
朝鮮の総合的国力を誇示した歴史的出来事
【平壌12月12日発朝鮮中央通信】朝鮮の総合的国力を誇示した人工衛星「光明星3」号2号機が打ち上げられた時から10年になった。

チュチェ101(2012)年12月12日、われわれの科学者、技術者は全てが100%国産化された実用衛星「光明星3」号2号機を成功裏に打ち上げて、急速に飛躍する朝鮮の知的・経済的潜在力を全世界に誇示し、朝鮮は決心すれば実行するという真理を実践で示した。

「光明星3」号2号機の成功裏の打ち上げは、わが国の宇宙科学技術を世界的水準に引き上げた人類宇宙開拓史に特記すべき出来事であり、宇宙強国の地位に確固と上がったわが祖国と人民が経済強国の頂に必ず勝利の旗を揚げるようになるということを実体で証明した民族史に特記すべき大慶事となった。

(中略)
朝鮮が衛星製作および打ち上げ国の地位に上がった10年前のその日は、金日成主席と金正日総書記の念願通りにわが国家の尊厳と威容をより高く宣揚しようとする敬愛する金正恩総書記の鉄の信念と意志、金正恩総書記の指導に従うという朝鮮人民の確固たる意志が世界にもう一度力強く誇示された意義深い日であった。

今日も、朝鮮人民は歴史的出来事のその日を振り返り、金正恩総書記の指導に従ってぶつかるあらゆる挑戦と難関を勇敢に乗り越えて闘っていく時、勝利と栄光だけがあるという哲理をより深く刻み付けている。−−−

www.kcna.kp (チュチェ111.12.12.)
12月12日は、銀河3号に搭載された光明星3号2号機を成功裏に打ち上げてから10年になる記念すべき日です!

長い年月をかけてコツコツと自力を蓄えてきた共和国。その積年の努力の成果がチュチェ101年12月12日に現象形態になりました。記事が指摘するように銀河3号に搭載された光明星3号2号機の発射は「朝鮮は決心すれば実行するという真理を実践で示した」ものであります。

即物的な成果を追い求める西側社会から散々バカにされてきた共和国。とりわけ日本は、アジアに対する差別意識からか自国が没落しつつある不安を紛らわせようとしているからか、「北」朝鮮の発射実験失敗を嬉々として報じたものでした。アメリカ政府が光明星3号2号機の軌道投入に成功したことを認めたときの日本世論反応は、昨日のことのように覚えています。苦虫を嚙み潰したかのような反応。さすがにアメリカ様の発表は認めざるを得ない島国舎弟の悲しい宿命でした。

宇宙開発という先端科学の粋を集めるべき領域において、それも西側諸国の軍事的圧迫・経済的封鎖を撥ね退けてた労働者国家である共和国の努力は、世界史的偉業であり、まさに≪조선은 결심하면 한다≫であります。急速に飛躍する朝鮮の知的・経済的潜在力を全世界に誇示し」ました。

また、銀河3号に搭載された光明星3号2号機の発射成功が韓「国」の人工衛星発射成功に先んじたことは、自力を軽視した韓「国」の植民地根性の敗北という他ありません。ほとんど完成品を輸入したのにも関わらず失敗続きで、「北韓」の後塵を拝した韓「国」だったわけです。

このことは、共和国の自力更生の偉大な成果であったと言えます。チュチェ思想の世界観を論証するものであると言えます。
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2022年12月11日

わざと? 絶望的外交センスゆえ?

少し前の報道ですが・・・
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221127/k10013904911000.html
米バイデン政権 ベネズエラで石油生産再開を条件付きで許可
2022年11月27日 11時44分

アメリカのバイデン政権は、石油大手・シェブロンが南米のベネズエラで石油の生産を再開させることを条件付きで許可すると発表しました。

ベネズエラではマドゥーロ大統領による独裁が続いていますが、バイデン政権は「民主主義を促すための措置」で、国際的な石油価格の高騰に対応するためではないとしています。

(中略)
バイデン政権は、ロシアによるウクライナ侵攻で世界的な石油価格の高騰が続く中、ことし3月、断交状態にあったベネズエラに代表団を派遣し、エネルギー問題などについて議論したと明らかにしていました。

バイデン政権高官は26日、今回の措置について「マドゥーロ政権の対応しだいで、いつでも取り消すことができる。民主主義の復活に向けて双方が踏み出すためのものだ」とし、石油価格に対応するためではないと強調しました。

今回の措置が、世界有数の石油埋蔵量を誇るベネズエラの国際市場への復帰につながるのか、注目を集めることになりそうです。
マドゥーロ政権はまだ国内親米派と「対話」を再開させただけで、「民主主義の復活」なるもののために何らかの制度的な措置を講じたわけではないし、何か積極的な成果があがったわけでもありません。「スタートラインに立ったようにも見える」だけです。その程度の段階でバイデン政権はベネズエラでの石油生産の再開をシェブロンに許可したわけです。

アメリカ基準では「権威主義国」であるロシアがウクライナに侵攻し、同じく「権威主義」的な中国が台湾との統一のための段取りを組んでいるところ、ここは筋を通してすべての「権威主義」国に一貫して毅然とした態度を取るのかと思えば、ベネズエラに対しては随分と大甘な対応を見せています。歴史を世振り返るに私は、そもそもアメリカにとって「民主主義」だの「権威主義」だのといったお題目は、国家の経済的利益追求における名目でしかないと見ているのですが、今回もそれが如実に現れたものと考えます。

NHKが指摘しているように「バイデン政権は、ロシアによるウクライナ侵攻で世界的な石油価格の高騰が続く中、ことし3月、断交状態にあったベネズエラに代表団を派遣し、エネルギー問題などについて議論した」という経緯という経緯を踏まえるに、真意はここにありそうです。いったい誰が「「民主主義を促すための措置」で、国際的な石油価格の高騰に対応するためではない」なる言い分を信じるというのでしょうかw呆れるほどのご都合主義。かつて、盟友だったサダム・フセインやウサマ・ビン・ラディンが僅か10年で不倶戴天の敵に転化したことがありましたが、その頃からご都合主義っぷりにかけては、まったく変わりないようです。

かつて岡田英弘氏は「アメリカ文明は歴史のない文明だ」と指摘しました。アメリカ人にとって過去はもう済んだことであり、現在がどうあるかということにしか関心がないそうです。もちろん、アメリカが総本山である金融資本主義経済においては信用が何よりも大切な要素なので、アメリカ人が「過去」に対してまったく無関心というわけではないでしょう。しかし、ヘロドトス以来の大陸ヨーロッパの歴史観念や中華文明の正統史観が歴史の来し方行く末を重視するのとは決定的に異なる感性を持っているのは間違いないでしょう。こうした感性がアメリカ流のご都合主義の源流であると私は考えています。そして、アメリカ人は今のことしか考えていないから、昨日の敵が今日の友になったり今日の友が明日の敵になったりして、そのたびに右往左往しているのだとも考えています。

それにしても、「マドゥーロ政権の対応しだいで、いつでも取り消すことができる。民主主義の復活に向けて双方が踏み出すためのものだ」とは何とも居丈高な。こんなに偉そうに言っていられる立場なのでしょうか? エネルギー価格の高騰にウクライナ情勢が関わっていることは間違いないことです。そのウクライナ情勢を鑑みると、10月15日づけ「「追い詰められている」のはアメリカ」で取り上げましたが、あのボルトンが「このままでは苛酷な消耗戦が続く」ので「ロシア内部の造反を煽る」必要があると述べました。近頃もミリー・米統合参謀本部議長の発言がありました。ロシアも苦しいがアメリカも苦しい状況にあるようです。最近私は、アメリカは、ウクライナへの武器供与を調整することで意図的に戦争を長期化させロシアを弱体化させているというよりも、着地点を見失いどうしてよいのか分からなくなった結果、戦争がダラダラと続いてしまっているように見えてきました。

ところで、バイデン政権はもう少し上手に真意を隠せなかったのでしょうか? あからさま過ぎるように思われます。思い起こせばつい先日、アメリカは共和国の核実験を牽制しようとして、むしろそれを促すような不用意な発言をしたばかりでした。日本大学国際関係学部の川口智彦氏が運営する「北朝鮮報道で書かれないこと (dprknow.jp)」の「オースティン国防長官「核使用は金正恩政権の終末」:「金(正恩)政権の終末」は「元帥様」の死、圧力どころか核実験を催促する文言 (2022年11月3日 「米国防省」)」が指摘しているとおりです。≪any nuclear attack against the United States or its Allies and partners, including the use of non-strategic nuclear weapons, is unacceptable and will result in the end of the Kim regime.≫という表現がどれほど共和国を刺激する発言であるか・・・

あからさま過ぎるくらいにやることで、メッセージの取り違えがないようにしているのか、それとも絶望的外交センスゆえに素でやっているのか・・・バイデン政権の場合どちらもありそうです。
ラベル:国際「秩序」
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2022年12月10日

抽象的な「かくあるべき」論に基づきつつ、「民主主義」と「多数決主義」とを混同するニッポンが向かう方向

https://news.yahoo.co.jp/articles/07f708906962d5629aa8a8233daf65c861f14d45
波紋広がる 長野市が会見 1人の苦情で公園廃止
12/8(木) 11:51配信
FNNプライムオンライン(フジテレビ系)

長野市にある公園が、「子どもの声がうるさい」という苦情をきっかけに廃止されることになった。

SNSなどで疑問の声が広がり、市が会見を開く事態となっている。

2004年に開設された、長野市の「青木島遊園地」。

実は、開設してまもなく、1人の近隣住民から「子どもの声がうるさい」などと苦情が寄せられ、市は、2022年度末での廃止を決めた。

(中略)
市は、8日に会見を開き、ボール遊びを禁止するなど、これまで対策を講じたものの、1軒からの苦情は続き、地元の区長会からも廃止を求められたと説明した。
■人数の問題ではない
さすがはフジサンケイというべきでしょうか。「1人の苦情」を強調し、「ごく一握りのクレーマーによるワガママ」という印象を根付かせようとしているのでしょう。

案の定、「一応この国は「民主主義国家」として、民意を反映した運営を是としてきたはずなんだけど、各種報道によれば直接苦情を言っているのは1人の人間のようだ。この公園の存続の是非を、人数で決めればおそらくは1人以上の存続派がいる事だと思う。民主主義として、これで良いのだろうか。」というアホなコメントのホイホイ記事になっています。

記事は「1人の苦情」を強調していますが、本来こういう問題は人数の問題ではないはずです。苦情の経緯や理由に十分見るべきものがあるのならば、少数意見であっても配慮する必要があるはずです。とりわけ騒音問題というものは、当事者の性格や気質(病的なそれを含む)とも深く関係しており、「普通」の人たちにとっては何でもないことでも当事者にとっては耐え難い苦痛であるケースもあるので、「客観」的な評価に徹するべきものでもないように思われます。

そもそも、日本世論の文脈における「客観」は往々にして、科学的な見地・方法に則ったものではなく、子どもの「みんな」と同程度のもので、その真の狙いは「数の力で異論を黙らせる」ところにあります。「客観」という単語が出てきたら要注意です。

SBC信越放送によると「いわばスタートからボタンの掛け違えがあったとも言え」るとのこと(「賛否飛び交う「遊園地廃止」そもそも市の説明が不十分か…スタートからボタンの掛け違いも…住民と言い分「平行線」 長野市」12/8(木) 18:34配信)ですが、上掲FNNプライムオンライン記事からはまったく経緯が見えて来ません

私は個人的に子どもは泣くもの・騒ぐものだと思っていますが、他方で病的に神経質な人に「あるべき大人の姿」「正しい大人の姿」といった「外野からの抽象的な『かくあるべき』論」を説教する気にはならず、「棲み分け」が必要だと思います(日本が島国だからなのかもしれませんが、「棲み分け」ではなく「どちらが我慢するか」という問題設定が当然視されています――昨今はやりの「多様性」談義も、棲み分けて共生すればいいのに何故か、狭い空間に押し込めて共生することが前提になっています)。本件:公園閉鎖決定に対する批判的な意見が「外野からの抽象的な『かくあるべき』論」を基軸としており、苦情提出者の苦悩を具体的に検討しているようにはとても見受けられないことが気になります。

■「少数意見を踏み潰すことこそが民主主義だ」と言わんばかり
「民主主義」と「多数決主義」とが十分に区別されているとは言い難いニッポン。少数意見は依然として軽視されがちですが、上掲記事を見るに、むしろ「少数意見を踏み潰すことこそが民主主義だ」と言わんばかりの論調です。それも、外野から抽象的な「かくあるべき」論に基づき、苦情提出者の苦悩を具体的に検討することなく少数意見を踏み潰しているわけです。

少数意見を平気で踏み潰すことについて私は、もちろん「横暴の極み」であると思いますが、それに加えて「よくそこまで持論に自信を持てるな」とも思います。人間と世界との関係を主客の相互作用として考えたとき、いかに荒唐無稽に見えたとしても各人の持論は当人なりの理由・根拠に基づいているはずで、その理由・根拠が現実とカスりもしない事態というのは、あまり想定しにくいからです。トンデモ言説は往々にして、誰もが認める事実を基にしつつ誤った因果推論、断片的事実の誤った関連付けでという形態を取っているものです。

もちろん、たとえばレイシストのヘイトスピーチのように、その主張に耳を傾けたところ、結果としてまったく賛同できないケースはあります。しかし、レイシストのヘイトスピーチは社会全体から見れば、量的に非常に少数なのものです。やはり、ある主張の理由・根拠が現実とカスりもしない事態というのは、あまり想定できるものではありません。

このように私は、少数意見にもある程度の根拠があると思っているので、少数意見を一顧だにせず踏み潰せる「自信」はどうしても湧いてきません。まして自分が直接、見聞きしたわけではないことについて断定する「自信」は湧いてきません。世界観レベルで自己中心主義でなければ、ここまで「自信満々」にはなれないでしょう。私はそこまで自分の理性に自信がないので、「思い上がる」ことはできないのです(自分が絶対に正しいと確信しているのならば、コメント欄を設置したブログなど作りません)。

以前から指摘してきたように、「相手の立場に立って考える」が「相手の立場に立ったとき、自分はどう思うか」に摩り替ってしまっているニッポン。最近はようやく「当事者」というキーワードが使われるようになってきましたが、まだまだ日本社会で「普通」とされる思考は、一種の自己中心主義が根強いように思われます。また、ロシアのウクライナ侵攻を巡る世論でもよく現れているように、大義すなわち抽象的な「かくあるべき」論が横行する傾向があるように見受けられます(提灯持ちとして大義を振りかざすと、まるで自分自身が正義であるかのような錯覚に陥るものなので、提灯持ちになりたがる気持ちは理解できないことはないものの、傍から見ると「みっともない」以外の何者でもないのですが)。今回のような、少数意見を踏み潰すことこそが「民主主義」と言わんばかりの反応も、その一つの現れとして考えることもできそうです。ある程度大人になれば複数の視点で、かつ主体的に考えられるようになるはずのところ、自分の視点でしか考えられない人が少なくないのでしょう

複数の視点に立って物事を考えられる人物は決して「民主主義」と「多数決主義」とを混同しません。多数決主義は言い換えれば「声が大きい人の勝ち」であり、それは「強い者勝ち」と何ら変わるところがありません。強い者が弱い者を力で付き従わせるという意味において全体主義と非常に親和的なものです。

全体主義はその実態において、権力層が自己利益を民衆に押し付けるという意味で「究極の利己主義・身内主義」であると言えます。世界観レベルで自己中心主義を貫徹することは全体主義社会を主宰するための必須条件です。

「民主主義」と「多数決主義」との混同を見せつけた日本世論。その背後に見え隠れする世界観レベルでの自己中心主義。「究極の利己主義・身内主義」としての全体主義を実現する条件は既に揃っています

なお、松尾匡氏が指摘するように、反資本主義は容易に身内共同体主義になりやすく、そしてそれは身内エゴに転落しやすいため、社会主義・共産主義を目指す立場の人間は、「究極の利己主義・身内主義」としての全体主義に転落しないよう常々身を律する必要があると考えます。

■道徳を持ち出し人格攻撃に手を染める非道徳
FNNプライムオンライン記事以上に凄まじいのが下記週刊誌記事です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ab4d39f62154deff6d3ac22e1b4de2879ea9aa8
【公園廃止】「子供の声がうるさい」と意見したのは国立大学名誉教授 市役所は忖度か
12/6(火) 17:15配信
NEWSポストセブン

 たった1人の「子供の声がうるさい」という意見で廃止になった長野市内の公園。市に対して意見を言っていたのは大学の名誉教授だったことが週刊ポストの取材で明らかになった。その1人の声で、子供の遊び場である公園を閉鎖した市の対応には疑問の声があがっている。

(中略)
 公園に隣接する住宅に住み、男性とも面識のある住民は困惑気味にこう話す。

「子供の声はしますが、それは夕方まででそれほど気になりません。男性は教授だからといって偉そうにするわけでもないし、地域の集まりにもちゃんと参加していました。酒席でも普通に話す人で、特に神経質な性格という感じもありません。威圧されるような感じもない。ただ教育者という立場なのに、なぜ子供に対して寛容な目で見られないのでしょうか……」

 男性は以前から市の対応にも不信感を募らせていたようだ。昨年8月、市と男性による協議の場が設けられ、公園緑地課の職員に対し男性はこう伝えたという。

「公園を作りたい、拡げたいのはわかるが、自分たちに都合の良い人たちだけに声をかけて説明し、不利益を被る人たちを説明会に呼ばないのはおかしい。(公園の利用について、お考えを変えていただくことは困難でしょうか?という公園緑地課の問いかけに対して)これまで18年ですよ」

 市に情報公開請求をして、この問題を追及してきた小泉一真・長野市議はこう話す。

「大学教授は上級国民と言える立場です。その男性の意見を聞き、忖度したと思われかねない対応をした市側も、果たして適切な対応だったと言えるのか疑問があります。市側の対応が男性の意見を増長させ、同時に不信感も増長させた可能性があります」
(以下略)
子供の声はしますが、それは夕方まででそれほど気になりません」や「なぜ子供に対して寛容な目で見られないのでしょうか……」と述べる住民、そしてその発言を取り上げる記事。要するに「自分はうるさいとは思わない。自分には理解できない。苦情提出者の男性には寛容さが欠けている」というわけです。

前述のとおり、感じ方は人それぞれであり当事者にとっては耐え難い苦痛であるケースもあるでしょう。かつて将軍様は「なにげない一言に本音がある」と仰いましたが、上掲住民発言には世界観レベルでの自己中心主義が非常によく現れています。そして前述の理由から、全体主義を受容する素地を見出さざるを得ません

また、この問題は結局のところ権利調整・利益調整の問題であるにも係わらず「なぜ子供に対して寛容な目で見られないのでしょうか……」という発言が飛び出してきました。「やさしさ」が情緒的に重視される日本世論において多用される印象操作です。公平・公正な権利調整・利益調整に徹すべきところ「寛容な目」なるものを持ち出して譲歩を迫り、譲歩しない相手の人格について「なんで譲歩してくれないんだ、やさしくない人だ」などと悪しざまに言い立てるものです。一種の人格攻撃であり、日本的同調圧力の代表的な手口です。意見の対立が非常に容易に人格攻撃に転化するのは「日本文化」と言ってもよいかもしれません。

どんな人にも、個人として譲り難いラインというものはあります。「やさしさ」を口実とする人格攻撃は、個人の人格を尊重する現代市民社会の根本と真っ向から対立するものでしょう。そんなことは百も承知の上で形振り構わず攻撃しているのかも知れません。平気で人格攻撃に手を染めるのも全体主義の特徴であると言えるでしょう。

権利調整・利益調整の現場で優位に立つために道徳談義を持ち出して相手方を人格攻撃することは反則技であり、これの方がよほど非道徳的であると私には思えてなりません。非常に汚い手で、目にするたびに嫌悪感が湧いてきます。

■また出た! 「上級国民への忖度」談義
そしてダメ押しの「上級国民への忖度」談義。非常に典型的なのが「果たして適切な対応だったと言えるのか疑問があります」というくだり。動かぬ証拠を掴んでからこういえばいいのに。なぜ、この手の話では「疑問があります」段階に過ぎないのに「上級国民への忖度」を書き立てるのでしょうか?

Qアノンの陰謀論と同レベルであるように見受けられます。以前にも書きましたが、Qアノンらが力説する近年の陰謀論は、具体的な証拠がない中、ただ単に状況に不自然な点・怪しい点があるというだけで陰謀の存在を主張します。「そういう陰謀があれば当人にとって利益がある。現に当人は利益を得た。だから、陰謀があるに違いない」という荒唐無稽なものです。論理の欠片もありません。陰謀論の歴史は人類の歴史と言ってしまってよいほどに陰謀論には長い歴史がありますが、以前の陰謀論は、資料の誤解・曲解、あるいはそもそも捏造であったとしても一応は「動かぬ証拠」なるものがあったものです。しかし、今やそれさえもなくなるほど陰謀論は劣化しています。この「上級国民への忖度」談義も結局、具体的な証拠がないのに忖度の存在を云々しています。Qアノンの陰謀論と同じレベルであると言わざるを得ないように思われます。

ぜひともこれが小泉市議の発言全体ではなく、記事編集者による「切り取り」であることを願ってやみませんが、商業メディアである週刊誌のネット記事がこういう体裁に編集されているという事実は、低レベルな陰謀論と論理構造が酷似した主張が「いま売れている」ということを示唆するものです。非常に懸念せざるを得ません。

ドイツで政府転覆の陰謀を企てた連中が警察当局の摘発を受けたというニュースが飛び込んできました。単なる変人集団だったのか些か危険な過激派だったのかは存じ上げませんが、思想次元においてこの連中にはQアノン陰謀論の影響があったという報道が出てきています(「ドイツ政府転覆を企てた極右グループ、アメリカのQアノンの影響を受けていた」12/8(木) 11:10配信 BUSINESS INSIDER JAPAN)。他人ごとではないように思えてなりません。

■総括
「少数意見を踏み潰すことこそが民主主義だ」と言わんばかりの論調。外野から抽象的な「かくあるべき」論に基づき、苦情提出者の苦悩を具体的に検討することなく少数意見を踏み潰しています。この背景に私は、著しい「思い上がり」があり、また、抽象的な「かくあるべき」論を好む性向があり、それは、ある程度大人になれば複数の視点で、かつ主体的に考えられるようになるはずのところ、自分の視点でしか考えられない人、世界観レベルで自己中心主義者が少なくないためであると考えます。この結果、「民主主義」と「多数決主義」との混同が社会レベルで発生していると考えます。そしてこのことは、社会が全体主義化する素地になると考えます。全体主義は「究極の利己主義・身内主義」であるからです。世界観レベルで自己中心主義を貫徹することは全体主義社会を主宰するための必須条件です。

公平・公正な権利調整・利益調整に徹すべきところ道徳談義を持ち出して人格攻撃に手を染める悪癖を目撃しました。「やさしさ」が情緒的に重視される日本世論において人格攻撃を用いることで異論・反論を抑え込むのは、日本的同調圧力の代表的な手口です。平気で人格攻撃に手を染めるのも全体主義の特徴であると言えるでしょう。

そして、Qアノンばりの陰謀論じみた「上級国民への忖度」談義がまたしても出現しました。先日ドイツ政府転覆を企てたして現地警察に摘発された極右グループが、アメリカのQアノンの影響を受けていたと報じられています。他人ごとではないように思えてなりません。

抽象的な「かくあるべき」論に基づきつつ、「民主主義」と「多数決主義」とを混同して「少数意見を踏み潰すことこそが民主主義だ」と信じ切っている世界観レベルでの自己中心主義者が、陰謀論的発想と人格攻撃を駆使することで、明後日の方向に存在する全体主義ディストピアに向かいかねないベクトルが日本社会・日本世論には存在しています。
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2022年12月06日

子どもたちの笑顔や未来を守るために・・・朝鮮労働党の厳粛な宣言

11月29日は国家核武力完成宣言から5年の節目となる日ですが、これを前に去る18日、共和国は新型大陸間弾道ミサイル「火星砲-17」を成功裏に試射しました。このことについて『労働新聞』に次の政論が掲載されました。今回はこの政論をとおして、火星砲-17試射について考えてみたいと思います。
http://uriminzokkiri.com/index.php?ptype=cgisas&mtype=view&no=1236687
주체111(2022)년 11월 20일 《로동신문》
チュチェ111(2022)年11月20日『労働新聞』

정론
政論

조선로동당의 엄숙한 선언
朝鮮労働党の厳粛な宣言

2022년 11월 18일, 이날은 우리 민족의 반만년력사에, 우리 공화국의 영광스러운 청사에 길이 빛날 사변적인 날이다. 이날과 더불어 명실상부한 핵강국, 이 행성 최강의 대륙간탄도미싸일보유국의 힘과 위용이 다시금 천하를 진감하였다. 이날과 더불어 주체조선의 국위가 더한층 높아지고 지구상에서 제국주의폭제를 끝장낼 절대의 힘을 지닌 강대한 국가와 인민의 존엄과 기상이 만천하에 떨쳐졌다.
2022年11月18日、この日は我が民族の半万年の歴史に、我が共和国の栄光の青史に永遠に輝く事変的な日だ。この日、名実共に核強国、この惑星最強の大陸間弾道ミサイル保有国の力と威容が再び天下を震撼させた。この日、チュチェ朝鮮の国威が一層高まり、地球上で帝国主義暴帝を終わらせる絶対の力を持つ強大な国家と人民の尊厳と気象が満天下に轟かされた。

온 나라가, 천만인민이 격정과 환희로 설레인다. 감히 우리의 존엄과 자주권을 찬탈하려는 적대세력들의 무분별한 전쟁연습광기를 통쾌하게 쳐갈기며 울려퍼진 우리의 신형대륙간탄도미싸일 《화성포-17》형시험발사소식, 마치 전승보도가 전해졌을 때처럼 강산이 설레이고 민심이 격양되여있다.
国中が、千万人民が激情と歓喜で沸き立っている。あえて朝鮮の尊厳と自主権を奪おうとする敵対勢力の無分別な戦争演習狂気を痛快に打ち砕きながら鳴り響いた我が新型大陸間弾道ミサイル「火星砲-17」試験発射のニュース、まるで戦勝報道が伝えられたときのように、山河が揺れ民心が高揚している。

그 소식이 실린 당보를 펼쳐들고 흥분된 심정을 토로하는 사람들, TV로 방영되는 그 장쾌한 광경들을 보고 또 보며 감격에 넘쳐있는 거리와 마을, 일터들, 이것이 력사의 또 하나의 위대한 사변을 떠올린 2022년 11월의 조선의 모습이다.
そのニュースが載せられた党報を広げ、興奮した心情を吐露する人々、テレビで放映されるその壮快な光景を見て感激にあふれている街と村、職場、これが歴史のもう一つの偉大な事変を思い出した2022年11月の朝鮮の姿だ。

경애하는 김정은동지께서는 다음과 같이 말씀하시였다.
敬愛なる金正恩同志は次のように仰った。

《우리는 계속 강해져야 합니다. 자기스스로를 지키기 위한 힘을 키워나가는데서 만족과 그 끝이란 있을수 없으며 그 누구와 맞서든 우리 군사적강세는 보다 확실한것으로 되여야 합니다.》
「私たちは強くなり続けなければなりません。自分自身を守るための力を育てていく上で満足と終わりはあり得ず、誰と立ち向かうにしても我々の軍事的強勢をより確実なものにならなければなりません」

그 장엄한 폭음을 온 나라가 듣고 온 세상이 들었다.
荘厳なその爆音を国中が聞き、世界中が聞いた。

우리의 신형대륙간탄도미싸일 《화성포-17》형시험발사의 장쾌한 메아리는 세상사람모두에게 그 어떤 설명도 필요없는 가장 정확한 의미를 새겨주고있다.
我々の新型大陸間弾道ミサイル「火星砲-17」型試験発射の壮快なこだまは、世界の人々にいかなる説明も必要ない最も正確な意味を刻んでいる。

핵에는 핵으로, 정면대결에는 정면대결로!
核には核で、正面対決には正面対決で!

조선로동당의 이 절대불변의 대적의지가 결코 빈말이 아니라 엄연한 현실임을 보여준 일대 사변이다.
朝鮮労働党のこの絶対不変の対敵意志が決して空言ではなく、厳然たる現実であることを示した一大事変だ。

누구이든 우리의 존엄과 자주권을 건드린다면 그것은 곧 자멸을 초래하는것임을 눈으로 보고 체감할수 있게 하는 산 화폭이다. 미국의 대조선적대시정책과 핵위협이 근원적으로 청산되지 않는한 우리는 그 어떤 경우에도 핵무력강화의 길에서 단 한치도 물러서지 않을것이며 적대세력들의 발악과 공세가 가증될수록 우리의 자위적핵무력의 질량적강화도 가속화될것이라는 조선로동당의 철의 신념이 과시된 력사적장거이다.
誰であっても我々の尊厳と自主権に触れると、それは自滅を招くことになるということを目で見て体感できる生きた画幅だ。米国の対朝鮮敵対視政策と核脅威が根源的に清算されない限り、我々はいかなる場合でも核武力強化の道で一寸も退かず、敵対勢力の足掻きと攻勢が加増すればするほど我々の自衛的核武力の質量的強化も加速化するだろうという朝鮮労働党の鉄の信念が誇示された歴史的壮挙である。

핵타격능력이 강할수록 침략과 핵전쟁을 억제하는 힘이 그만큼 크다는것은 자명한 리치이다. 핵무력을 질량적으로 억척같이 다져나가는것이야말로 우리 조국강토에 들씌워질 핵전쟁의 참화를 막을수 있는 가장 정당하고 믿음직한 길인것이다.
核打撃能力が強いほど侵略と核戦争を抑制する力がそれだけ大きいということは自明の理知だ。核武力を質的・量的に粘り強く固めていくことこそが、我が祖国の地に覆いかぶさる核戦争の惨禍を防ぐことができる最も正当で信頼できる道である。

이 행성 최강의 대륙간탄도미싸일보유국, 이 말이 안고있는 무게는 실로 거대하다.
この惑星最強の大陸間弾道ミサイル保有国、この言葉には実に重みがある。

그것은 핵선제타격권이 미국의 독점물이 아니라는것을, 우리 국가가 미국의 핵패권에 맞설수 있는 실질적힘을 만장약한 명실상부한 핵강국임을 세계앞에 뚜렷이 실증하는 가슴벅찬 호칭인것이다.
それは核先制打撃権が米国の独占物ではないことを我が国家が米国の核覇権に対抗できる実質的な力を満装薬した名実共に核強国であることを世界の前に明確に実証する、胸に余る呼称である。

(中略)

그 사명에 있어서도 우리의 주체병기들은 또 얼마나 거대한 무게를 안고있는것인가.
その使命においても、我々のチュチェ兵器はどれほどの重みがあるのだろうか。

지금 이 시각도 《힘의 만능》을 떠벌이며 지구상 곳곳에서 강권과 전횡을 일삼고 불행과 고통을 산생시키는 제국주의폭제를 끝장내고 불의의 력사에 영원한 종지부를 찍으며 인류의 미래를 구원할 참으로 엄숙한 사명을 지닌 우리의 무진막강한 핵억제력이다.
今この時も「力の万能」を掲げ、地球上の随所で強権と専横を事として不幸と苦痛を作り出す帝国主義の暴帝を終わらせ、不正義の歴史に永遠の終止符を打ち、人類の未来を救う真に厳粛な使命を持つ我々の無尽屈強なる核抑止力だ。

이미 도달한 국력의 높이와 더불어 앞으로 안아오게 될 거창한 사변들은 또 얼마나 가슴뿌듯할것인가.
すでに到達した国力の高さとともに、これからもたらされる壮大な事変は、どれほど胸に余るものになるだろうか。

최악의 시련속에서 자기의 힘과 기술로 그처럼 강위력한 정의의 붉은 보검을 벼려낸 영웅적인 국가와 인민이 이제 또 어떤 경이적인 사변을 창조하고 어떤 광휘로운 미래를 펼치게 될것인가를 세계가 주목하고있다. 일단 마음만 먹으면 그 어떤 기적도 다 이루어내는 불패의 당, 위대한 인민이 창조하게 될 눈부신 미래상이 인류의 각광을 모으고있다.
最悪の試練の中で、自己の力と技術で斯くも強力な正義の赤い宝剣を鍛えた英雄的な国家と人民が、今後再びいかなる驚異的な事変を創造し、いかなる光輝に満ちた未来を繰り広げることになるのか、世界が注目している。ひとたび決心すればどんな奇跡も成し遂げる不敗の党、偉大な人民が創造する眩い未来像が人類の脚光を浴びている。

진정 이 시각 인민의 마음은 어찌하여 그처럼 격정에 젖고 무한한 자부와 긍지에 넘치는것인가.
まさに今この時、人民の心は、いかにして斯くの如き激情に浸り無限の自負と誇りにあふれているだろうか。

《우리의 전략무기들의 시험발사소식에 접할 때면 정말이지 가슴이 막 울렁거립니다. 우리 아이들이 영원히 전쟁을 모르고 맑고 푸른 하늘아래에서 살게 되였으니 이 얼마나 감격적인 일입니까. 전승이면 이보다 더 큰 전승이 또 어디 있겠습니까.》
「私たちの戦略兵器試射のニュースに接するときは、本当に胸が高鳴ります。私たちの子どもたちが永遠に戦争を知らず澄んだ青空の下で暮らすことになったなんて、なんと感激的なことでしょう。これよりも大きな戦勝が他にあるでしょうか」

TV에서 방영되는 신형대륙간탄도미싸일 《화성포-17》형의 시험발사소식을 사랑하는 자식들과 함께 시청하던 한 녀성이 터친 격정에 젖은 목소리이다.
テレビで放映された新型大陸間弾道ミサイル「火星砲-17」型の試射ニュースを、愛する子どもたちと一緒に視聴していたある女性の激情溢れる声だ。

력사의 진리는 세월의 흐름속에서 그 정당성이 더욱 뚜렷이 검증되는 법이다.
歴史の真理は歳月の流れの中でその正当性がより一層明確に検証されるものだ。

오늘 우리 공화국을 겨냥하여 무분별하게 감행되는 미국과 그 추종세력들의 핵전쟁연습소동에서 다시금 절절히 새기게 되는것이 있다. 그것은 우리가 선택한 이길이 얼마나 정당하며 허리띠를 조여매고 피와 땀을 쏟으며 걸어온 자위적핵억제력강화의 길이 얼마나 옳았는가에 대한 확신이다.
今日、我が共和国を狙って無分別に敢行される米国とその追従勢力の核戦争演習騒動に再び切実に刻み込まれることがある。それは我々が選択したこの道がどれほど正当で、ベルトを締めて血と汗を流しながら歩んできた自衛的核抑止力強化の道がどれほど正しかったかに対する確信である。

힘이 없으면 제국주의의 노예가 되여야 하고 비참한 수난자의 운명을 강요당해야 하는것이 어찌 지나간 세월의 추억만이던가. 지금 이 시각도 계속되고있는 현시대의 엄연한 현실이며 가슴아픈 비극이다.
力がなければ帝国主義の奴隷にならざるを得ず、悲惨な受難者の運命を強いられるほかないのが、なぜ過ぎ去った過去のことだと言えるのか。今この時も続いている現代の厳然たる現実であり胸痛む悲劇である。

존엄도, 평화와 번영도 오직 강력한 힘으로써만 담보할수 있다는것은 어제도 오늘도 래일도 영원한 운명의 철리인것이다.
尊厳も、平和と繁栄も、強力な力だけが担保できるというのは、昨日も今日も明日も永遠なる運命の哲理なのだ。

그래서 더욱 뜨겁게 안아보게 되는 우리의 주체병기들이다.
それゆえに、我々のチュチェ兵器は、さらに熱く抱かれるようになるのだ。

누가 이 땅을 적들이 벌리는 무분별한 전쟁연습소동으로 하여 위험천만한 정세가 조성된 그런 나라라고 하겠는가.
いったい誰がこの地を、敵どもの無分別な戦争演習騒動のせいで危険千万な情勢が造成された国だと言えるだろうか。

어디서나 신심과 락관에 넘친 인민들의 모습을 볼수 있다. 불안이나 동요는 그림자도 찾아볼수 없다. 대규모온실농장이 거연히 솟아오른 련포의 온실바다에는 새 생활의 숨결이 세차게 약동하고 수도의 한복판에는 또 하나의 행복의 새 거리가 우후죽순의 기상으로 솟구쳐오른다. 우리 당의 따사로운 보살핌속에 무럭무럭 자라는 아이들의 밝은 모습이 가슴을 후덥게 하고 황남의 전야에 넘치는 우리 농기계들의 우렁찬 동음이 더 좋을 우리 농촌의 래일을 속삭여주는 노래마냥 마음속에 흘러든다.
どこであっても信心と楽観にあふれる人民の姿を見ることができるのだ。不安や動揺は、影も見当たらない。大規模な温室農場が堂々とそびえ立ったリョンポの温室の海には、新しい生活の息吹が激しく躍動し、首都の中心にはもう一つの幸せな新しい街が雨後のタケノコのように湧き上がる。我が党の暖かい見守りのうちですくすくと育つ子どもたちの明るい姿が胸を熱くし、ファンヘ(黄海)南道の田野にあふれる我が農機の雄々しい駆動音が、より良い我が農村の明日をささやく歌のように心の中に流れ込む。

바로 인민의 이 행복, 이 웃음, 밝은 미래를 지켜주시려 자위적핵억제력강화의 멀고 험한 길을 굴함없이 이어오시고 우리 공화국의 국위를 최상의 경지에 올려세우는 민족사적사변들을 련이어 이룩해가시는 절세의 애국자, 만고의 영웅이신 경애하는 김정은동지.
まさに人民の幸せ、笑い、明るい未来を守ろうと自衛的核抑止力強化の遥かなる険しい道を屈することなく続け、我が共和国の国威を最上の境地に押し上げる民族史的事変を立て続けに成し遂げて行かれる絶世の愛国者、万古の英雄である敬愛なるキム・ジョンウン同志。

하다면 세상에서 제일 강하신분, 그 누구도 감히 건드릴수 없는 주체강국의 위대한 수호자이신 경애하는 총비서동지께서는 과연 무엇으로 하여 그리도 강하신가. 국력강화의 초행길을 끊임없이 이어가시는 그이의 불굴의 의지는 과연 어디에 원천을 두고있어 그리도 억척불변인것인가.
世界で最も強いお方、誰もあえて触れることのできないチュチェ強国の偉大な守護者であられる敬愛なる総秘書同志は、いったいどうしてそんなに強くあられるのだろうか。国力強化の未踏の道を絶えず歩み続けておられる、そのお方の不屈の意志は、いったいどこに源泉があり、絶対不変なのか。

인민의 끝없는 행복, 후대들의 밝은 웃음을 위하여!
人民の果てしない幸せ、後代の明るい笑顔のために!

바로 이것이다.
まさにこれだ。

최강의 국가방위력을 비축하기 위한 력사의 초행길에서 우리의 총비서동지께서 하신 말씀이 가슴을 친다.
最強の国家防衛力を蓄えるための歴史の初行の道で、我が総秘書同志がおっしゃった言葉が胸に響く。

미제야수들에 의하여 이 땅에서 참혹한 전란을 겪어본 우리 인민에게 있어서 국가방위를 위한 강위력한 전쟁억제력은 필수불가결의 전략적선택이며 그 무엇으로써도 되돌려세울수 없고 그 무엇과도 바꿀수 없는 귀중한 전략자산이라고 하신 뜻깊은 그 말씀,
米帝の野獣どもによってこの地で残酷な戦乱を経験した我が人民にとって、国家防衛のための強力な戦争抑止力は必須不可欠の戦略的選択であり、何を持っても引き戻すことはできず、何をもってしても換えることができない貴重な戦略資産だという意義深いそのお言葉、

다시는 사랑하는 인민들이 전쟁의 참화를 입지 않도록 하기 위하여, 우리 아이들이 원쑤들의 폭격에 어머니를 잃고 길가에서 발을 동동 구르며 우는 가슴저린 모습이 이 땅에서 더이상 되풀이되지 않게 하기 위하여 우리의 경애하는 총비서동지께서는 사생결단의 화선길에 계신다.
二度と愛する人民が戦争の惨禍に遭わないようにするために、我々の子どもたちが敵どもの爆撃で母を失い、道端で足を踏み鳴らしながら泣く胸が痛む姿がこの地でこれ以上繰り返されないようにするために、我が敬愛なる総秘書同志は命懸けの最前線にいらっしゃる。

그래서 그이의 화선길은 사랑하는 인민에게 세상만복을 다 안겨주기 위한 행복창조의 길과 언제나 하나로 잇닿아있는것 아니던가.
ゆえに、そのお方の前線行路は、愛する人民に世界の万福を抱かせるための幸福創造の道と、いつも一つにつながっているのではないだろうか。

우리의 국력이 비상히 강화되고 자위적핵억제력강화의 경이적인 사변들이 련속 터져오른 이해의 나날을 뒤돌아본다.
我が国力が非常に強化され、自衛的核抑止力強化の驚異的な事変が相次いで起こった今年の日々を振り返ってみる。

불패의 핵강국의 위용을 떨치며 우리의 극초음속미싸일이 기운차게 날아오른 1월에는 련포온실농장 건설예정지를 현지에서 료해하신 경애하는 총비서동지의 인민사랑의 자욱이 새겨졌고 2월에는 련이어 화성지구와 련포의 뜻깊은 착공식장에서 하신 경애하는 총비서동지의 연설이 천만의 가슴을 격정에 젖게 하였다. 조국과 인민의 위대한 존엄과 명예를 위하여 용감히 쏘라는 절세위인의 선언이 높이 울린 3월에 이어 송화거리와 보통강강안다락식주택구의 준공소식이 4월의 맑은 봄하늘가에 메아리쳤다. 적들의 가증되는 군사적위협을 무자비하게 짓뭉개기 위한 실천적군사조치들이 련달아 취해진 10월 조국의 존엄과 운명수호의 화선전장을 종횡무진하신 우리의 총비서동지께서는 화선길의 흙냄새 배인 그 거룩한 발걸음으로 경사스러운 어머니당의 생일을 맞으며 인민에게 선물한 련포온실농장 준공식장을 찾으시여 태양의 미소를 지으시였다.
不敗の核強国の威容を轟かせ、我らの極超音速ミサイルが力強く打ちあがった1月には、リョンポ温室農場建設予定地を現地確認なさった敬愛なる総秘書同志の人民愛の足跡が刻まれ、2月には立て続けにファソン地区とリョンポの意義深い着工式場でなさった敬愛なる総秘書同志の演説が千万の胸を激情であふれさせた。祖国と人民の偉大な尊厳と名誉のために勇敢に撃てという絶世偉人の宣言が高く響いた3月に続き、ソンファ通りとポトン江岸の段々式住宅地区が竣工したというニュースが4月の晴れた春の空にこだました。敵どもの加増する軍事的脅威を無慈悲に打ち砕くための実践的軍事措置が相次いで講じられた10月、祖国の尊厳と運命守護の最前線を縦横無尽に進まれた我が総秘書同志は、最前線の土のにおいが染みた神聖な足取りで、母なる党の目出度き創建記念日を迎え、人民に贈られたリョンポ温室農場の竣工式場を尋ね、太陽の笑みを浮かべられた。

인민에 대한 사랑이 그처럼 뜨거우시고 인민의 존엄과 운명을 끝까지 책임지고 지켜주시려는 일념이 그리도 강렬하시여 사랑하는 인민의 존엄과 운명을 해치고 우리 아이들의 밝은 웃음을 빼앗으려는 적대세력들에 대한 증오도 그처럼 서리발같으신 우리의 경애하는 총비서동지,
人民に対する愛が斯くも熱く、人民の尊厳と運命を最後まで責任を持って守ろうとする一心が強烈で、愛する人民の尊厳と運命を害し、我が子どもたちの明るい笑いを奪おうとする敵対勢力に対する憎悪も、斯くも厳しい我が敬愛なる総秘書同志、

공화국핵무력강화에서 중대한 리정표로 되는 력사적인 중요전략무기시험발사장에 사랑하는 자제분과 녀사와 함께 몸소 나오시여 시험발사 전 과정을 직접 지도해주시며 국방과학자, 전투원들을 열렬히 고무해주시고 국가핵전략무력강화를 위한 힘찬 진군길에 더 큰 힘과 백배의 용기를 안겨주시면서 영원한 승리의 진로를 밝혀주신 경애하는 총비서동지!
共和国の核武力強化において大きな里程標となる歴史的な重要戦略兵器試射場に、愛するお子さん、奥様と一緒に自らお出ましになり、試射の全過程を直接指導し、国防科学者・戦闘員たちを熱烈に鼓舞し、国家核戦略武力強化のための力強い進軍路に更に大きな力と百倍の勇気を与えながら永遠なる勝利の道を明らかにしてくださった敬愛なる総秘書同志!

하기에 우리 인민은 심장으로 웨치고있다.
そのため、我が人民は心から叫んでいる。

우리는 경애하는 총비서동지의 품을 떠나서는 순간도 못삽니다!
私たちは敬愛なる総秘書同志のもとを離れては瞬間も生きられません!

경애하는 원수님께서 계시여 우리는 두려운것, 부러운것없고 우리 조국의 앞날은 무궁창창합니다!
敬愛なる元帥様がいらっしゃるから私たちは恐れることも羨むこともなく、我が祖国の未来は無窮蒼蒼です!

이것이 강산을 진감하는 민심의 토로이고 천만심장의 목소리이다.
これが山河を揺り動かす民心の吐露であり、千万心臓の声である。

이 행성 그 어느 나라와 인민도 이루지 못하였고 오직 우리만이 가지고있는 이 일심단결의 불가항력이야말로 주체조선의 위대한 기적과 사변들을 낳는 근본원천이며 더 큰 승리, 영원한 승리를 담보하는 최강의 힘이다.
この惑星のどの国と人民も成し遂げられず、ただ我々だけが持っているこの一心団結の不可抗力こそ、チュチェ朝鮮の偉大な奇跡と事変を生む根本源泉であり、更に大きな勝利、永遠の勝利を保障する最強の力だ。

천만인민이여,
千万人民よ、

당이 정해준 목표를 당이 바라는 높이에서 완전무결하게 해내는 우리의 미더운 국방과학자들처럼, 자력갱생의 위력으로 무에서 유를 창조하고 불가능을 가능으로 전환시키며 력사의 기적을 창조하는 군수공업부문 로동계급처럼 당에 대한 충성의 한마음을 깊이 간직하고 당정책결사관철의 승전포성들을 더 힘차게 울리자.
党が定めた目標を党が望む高さに完全無欠にやり遂げる、頼もしい我が国防科学者のように、自力更生の威力で無から有を創造し、不可能を可能に転換させ、歴史の奇跡を創造する軍需工業部門の労働者階級のように党に対する忠誠の一心を深く抱き、党政策決死貫徹の戦勝砲声をさらに力強く響かせよう。

만리대공에 우리의 자존심과 존엄, 힘과 위용을 싣고 솟구쳐오른 주체병기의 우렁찬 폭음은 사회주의건설의 전면적발전을 위한 행로를 내닫는 천만인민을 새롭게 분발시키는 힘찬 신호포성과도 같다. 우주에 닿은 우리의 국위에 걸맞는 애국의 열매, 자력갱생의 창조물들을 더 많이 안아올리자.
遥かな大空に我々の自尊心と尊厳、力と威容を載せて打ちあがったチュチェ兵器の力強い爆音は、社会主義建設全面的発展のための道を駆ける千万人民を新たに奮い立たせる力強い信号砲のようだ。宇宙に達した我が国威にふさわしい愛国の実、自力更生の創造物を更に多く作り出そう。

아직도 우리를 압살하려고 발광하는 미국을 비롯한 적대세력들의 야망에는 변함이 없다. 세상천지가 열백번 변하여도 절대로 변하지 않는것이 제국주의의 침략적본성이다. 침략과 략탈이 없이는 생존할수 없는 제국주의가 지구상에 남아있는한 존엄과 운명, 미래를 수호하기 위한 우리의 자위적핵억제력강화의 길은 절대로 끝나지 않을것이다. 목숨보다 귀중한 우리의 자존과 존엄을 위해, 피와 땀을 바쳐 안아올린 귀중한 창조물들과 행복의 요람들을 위해, 우리 후대들의 밝은 웃음과 고운 꿈을 위해 우리는 평화수호의 위력한 보검인 핵병기들을 질량적으로 계속 강화할것이며 그길에 애국의 아낌없는 마음을 다 바칠것이다.
いまだに我々を圧殺しようとしている米国をはじめとする敵対勢力の野望には変わりがない。世界が何百回変わっても絶対に変わらないのが帝国主義の侵略的本性だ。侵略と略奪なしには生存できない帝国主義が地球上に残っている限り、尊厳と運命、未来を守護するための我が自衛的核抑止力強化の道は絶対に終わらない。命より貴重な我々の自尊心と尊厳のために、血と汗を捧げて得た貴重な創造物と幸せの揺り籠のために、我が後代たちの明るい笑顔と美しい夢のために、我々は平和守護の威力ある宝剣である核兵器を質的・量的に強化し続け、その道に愛国の惜しみない心をすべて捧げる。

천만인민의 이 신념과 의지를 담아 높이 울려퍼진 위대한 조선로동당의 엄숙한 선언이 행성을 진감하고있다.
千万人民のこの信念と意志を込めて高く響いた偉大な朝鮮労働党の厳粛な宣言が惑星を震撼させている。

핵에는 핵으로, 정면대결에는 정면대결로!
核には核で、正面対決には正面対決で!
まず政論は、「核打撃能力が強いほど侵略と核戦争を抑制する力がそれだけ大きいということは自明の理知」としつつ、試射について「米国の対朝鮮敵対視政策と核脅威が根源的に清算されない限り、我々はいかなる場合でも核武力強化の道で一寸も退かず、敵対勢力の足掻きと攻勢が加増すればするほど我々の自衛的核武力の質量的強化も加速化するだろうという朝鮮労働党の鉄の信念が誇示された歴史的壮挙」であり、もはや「核先制打撃権が米国の独占物ではない」ことになったと指摘しました。

そしてこの成功は、「今この時も「力の万能」を掲げ、地球上の随所で強権と専横を事として不幸と苦痛を作り出す帝国主義の暴帝を終わらせ、不正義の歴史に永遠の終止符を打ち、人類の未来を救う真に厳粛な使命」をも持っていると指摘します。世界の自主勢力にとっての砦であると自認している共和国が、自前の核抑止力・核先制打撃能力を確立したわけですから。

歴史の真理は歳月の流れの中でその正当性がより一層明確に検証されるものだ」で始まる部分は、これまで歩んできた困難な道が正しい道であったことを強調しています。「力がなければ帝国主義の奴隷にならざるを得ず、悲惨な受難者の運命を強いられるほかないのが、なぜ過ぎ去った過去のことだと言えるのか。今この時も続いている現代の厳然たる現実であり胸痛む悲劇である」はもちろんアメリカを念頭に置いたものですが、昨今のウクライナ情勢を考えたときアナクロ発言とはとても言えないように思われます。

ここにおいて、一方において「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」と繰り返し敵基地反撃能力を云々する手合いが他方において共和国の国家核武力開発を批判する様子が著しいダブルスタンダードであるように思われます。もちろん、国益のためには厚顔無恥的であったとしてもダブスタを押し通すことも必要でしょう。しかし、日本の場合、ダブスタであると自覚さえしていないその「セルフ・マインドコントロール」というべきリアリティー・コントロールに特徴があるように思われます。

核開発と民生向上とをリンクさせた表現に注目する必要があるでしょう。「国力強化の未踏の道を絶えず歩み続けておられる、そのお方の不屈の意志は、いったいどこに源泉があり、絶対不変なのか。人民の果てしない幸せ、後代の明るい笑顔のために! まさにこれだ」に始まるくだりでは、「我が国力が非常に強化され、自衛的核抑止力強化の驚異的な事変が相次いで起こった今年の日々を振り返ってみる。不敗の核強国の威容を轟かせ、我らの極超音速ミサイルが力強く打ちあがった1月には、リョンポ温室農場建設予定地を現地確認なさった敬愛なる総秘書同志の人民愛の足跡が刻まれ、2月には立て続けにファソン地区とリョンポの意義深い着工式場でなさった敬愛なる総秘書同志の演説が千万の胸を激情であふれさせた。祖国と人民の偉大な尊厳と名誉のために勇敢に撃てという絶世偉人の宣言が高く響いた3月に続き、ソンファ通りとポトン江岸の段々式住宅地区が竣工したというニュースが4月の晴れた春の空にこだました。敵どもの加増する軍事的脅威を無慈悲に打ち砕くための実践的軍事措置が相次いで講じられた10月、祖国の尊厳と運命守護の最前線を縦横無尽に進まれた我が総秘書同志は、最前線の土のにおいが染みた神聖な足取りで、母なる党の目出度き創建記念日を迎え、人民に贈られたリョンポ温室農場の竣工式場を尋ね、太陽の笑みを浮かべられた」という表現があります。アメリカの脅威に対する不安や動揺がなくなったからこそ、民生の向上に注力できるようになったと指摘しています。

「子ども」に対する言及が何度か見られることも特筆的です。「「私たちの戦略兵器試射のニュースに接するときは、本当に胸が高鳴ります。私たちの子どもたちが永遠に戦争を知らず澄んだ青空の下で暮らすことになったなんて、なんと感激的なことでしょう。これよりも大きな戦勝が他にあるでしょうか」テレビで放映された新型大陸間弾道ミサイル「火星砲-17」型の試射ニュースを、愛する子どもたちと一緒に視聴していたある女性の激情溢れる声だ」や「どこであっても信心と楽観にあふれる人民の姿を見ることができるのだ。不安や動揺は、影も見当たらない。大規模な温室農場が堂々とそびえ立ったリョンポの温室の海には、新しい生活の息吹が激しく躍動し、首都の中心にはもう一つの幸せな新しい街が雨後のタケノコのように湧き上がる。我が党の暖かい見守りのうちですくすくと育つ子どもたちの明るい姿が胸を熱くし、ファンヘ(黄海)南道の田野にあふれる我が農機の雄々しい駆動音が、より良い我が農村の明日をささやく歌のように心の中に流れ込む」、「二度と愛する人民が戦争の惨禍に遭わないようにするために、我々の子どもたちが敵どもの爆撃で母を失い、道端で足を踏み鳴らしながら泣く胸が痛む姿がこの地でこれ以上繰り返されないようにするために、我が敬愛なる総秘書同志は命懸けの最前線にいらっしゃる」、「人民に対する愛が斯くも熱く、人民の尊厳と運命を最後まで責任を持って守ろうとする一心が強烈で、愛する人民の尊厳と運命を害し、我が子どもたちの明るい笑いを奪おうとする敵対勢力に対する憎悪も、斯くも厳しい我が敬愛なる総秘書同志」などと、国家核武力開発が民生の中でも特に子どもたちの笑顔や未来を守るためのものであるという位置づけなのです。

今回の試射に際して、元帥様は妻子を連れて試射場を訪ねられました。このことについて様々な憶測が飛び交っています。ここで重要なのは、『労働新聞』は朝鮮労働党機関紙であり共和国の政治宣伝における中核であることです。すべての表現には、読者に政治的意図を帯びた印象を根付かせようと慎重にメッセージが織り込まれているものです。それゆえ、自称「専門家」たちのノイズでしかない論評を全面的に排し、あくまでも朝鮮語の原典とそこから感じ取ることができる印象に徹して考えたとき、「愛する人民の尊厳と運命を害し、我が子どもたちの明るい笑いを奪おうとする敵対勢力に対する憎悪も、斯くも厳しい我が敬愛なる総秘書同志、共和国の核武力強化において大きな里程標となる歴史的な重要戦略兵器試射場に、愛するお子さん、奥様と一緒に自らお出ましになり、試射の全過程を直接指導し、国防科学者・戦闘員たちを熱烈に鼓舞し、国家核戦略武力強化のための力強い進軍路に更に大きな力と百倍の勇気を与えながら永遠なる勝利の道を明らかにしてくださった敬愛なる総秘書同志!」というくだりからは、その理由が余すところなく明かされているように思われます。国家核武力開発が子どもたちの笑顔や未来を守るためのものであるという位置づけを、自ら妻子を連れてテレビカメラの前に出ることで、視覚的に強調しているものと考えられます。単に「自衛のための核武装」というよりも深い印象があります。

「子ども」に対する言及から私は、将軍様執権下の宣伝とは些か異なる印象を受けました。元帥様の執権を特徴づける政治宣伝であるように思われます。以前私は、元帥様の時代について「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期と述べました(昨年7月17日づけ「「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期としてのキム・ジョンウン総書記の時代」)。将軍様執権下の革命的ロマン・歴史ロマンに満ちた宣伝も意義深いと思いますが、私は、「子どもたちの笑顔や未来を守るため」といった生活の匂いに満ちた現在の宣伝は、現代主体的社会主義の真髄が非常によくあらわれているように思います。
posted by 管理者 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする