統一地方選挙が終わりました。
■維新とは本質的に自民である
各種選挙のたびに話題になる「維新の躍進」について今回の統一地方選挙でも話題になっています。たしかに維新は議席数を大きく伸ばしました。日本の政治に新しい時代が切り拓かれつつあるように見えるかもしれません。しかしながら左翼・チュチェ思想派たる私は、
今般の維新の躍進は、大勢に(そして体制に)影響はないと見ています。なぜならば、
維新とは本質的に自民であると考えているからです。
こんなことを言うと維新支持者は目の色を変えて反論してくることでしょう。橋下語録、松井語録、吉村語録を引き合いに出して自民党との違いを並べることでしょう。しかし、党の性質とは、党が掲げる看板や党幹部の言動だけで規定されるものではなく、ひとりひとりの党員や党を支持する有権者によっても規定されます。より正確に言えば、ひとりひとりの党員や党を支持する有権者と党が掲げる看板や党幹部の言動は相互作用的に影響を及ぼし合い、その結果として党は形成され発展するのです。
維新支持者も含めて万人が認めることだと思いますが、共産・社民・れいわの各党に投票する層は維新には投票しないだろうし、逆もまたしかりでしょう。これに対して自民党と維新、ついでにいえば国民民主党や立憲民主党は支持層が被っていると考えられます。公明党? あそこは創価学会の指令があれば何でもアリでしょう。
支持層に注目したとき、維新と自民は同じ保守層を基盤としているので、両党は本質的に同じなのです。
維新の躍進は保守層、および左派に与しない無党派層を取り込んだところにあるわけですが、私には「向こう岸でパイの取り合い合戦が展開されている」と見えるのです。同じ支持層を奪い合う関係にある自民党からすれば「維新の躍進」は大問題でしょうが、
そもそも支持層が根本的に違う左翼陣営にとっては「向こう岸」の内輪揉めは関心の対象外なのです。その意味で大勢に(そして体制に)影響はないと考えるのです。
ちなみに、党が掲げる看板などに注目した場合も、私に言わせれば自民も維新も「根は同じ」です。たとえば維新は「
維新が保健所を減らしたの?」という弁明を展開しています。曰く「
維新が保健所を削減したとの情報が散見されるが、大阪府の保健所再編は維新誕生の前、2000年(平成12年)のことで太田府政時代」とのこと。維新府政1期目ならこの言い逃れでも通用したでしょうが、10年も時間があったのに何もしなかったのだから、
キッカケは太田府政であったとしても維新はそれを継承したと言わざるを得ないでしょう。れいわ新選組の大石あきこ代議士は「
基本的に歴代政権、歴代府政において「職員数削減」は成果の指標として重視されてきた」とか「
太田房江・元大阪府知事と、吉村・大阪府知事が、リストラによる保健所パンクの責任を押し付け合っている」などと指摘しているところです(「
「維新府政が保健所リストラ」はデマかどうか検証しました。」)。
そもそも、もとはといえば大阪自民党の分裂によって誕生したのが維新。やはり、
左翼から見れば大差ないと考えます。
■維新人気は小泉改革路線・ネオリベ改革路線の熱狂の延長線上に存在している
もちろん、大勢に影響はないとはいえ、維新がパイの分捕り合戦で大きく前進した事実から見えてくるものもあります。
「改革保守」を自称する維新の躍進からは、依然として小泉改革路線・ネオリベ改革路線人気が続いていること、もしかすると再び盛り上がり始める可能性があることが見えてきます。
たとえば、
維新にとっての新しいフロンティア開拓であった奈良県知事選挙では、同党がナニモノであるのかが改めて鮮明に示されたように思われます。
具体的な実績を訴えればよい現職候補者に対して新人候補者は理念や青写真を掲げざるを得ません。特に奈良県における維新の地盤はこれまで脆弱であり、その主張が十分に浸透しているとは言い難いところでした。そのため奈良県知事選挙において維新は、たとえば、3月19日づけで公開した「
維新が変える。新しい奈良へ。 −税金の"使い道"を見直す。−」に見られるように、理念や青写真を語ることから始めました。
維新は当該記事において「
私たちは将来、真に何が必要かを厳しく見極め、税金の使い道を見直して、奈良の暮らしを豊かにします」と前置きしたうえで8つの項目を提示しています。各項目にはさらに2〜3程度の小項目がぶら下がっています。
ここにおいて維新は、順番が前後しますが、2番目の項目として「
徹底した行財政改革」を掲げつつ「
行政のスリム化 民間にできることは民間に委ね、行政事務のデジタル化を図って行政コストを削減します」と謳っています。
「民間にできることは民間に」というのは、それ自体は否定しがたいスローガンです。
これ自体は当たり前のことであり、それゆえに具体性のないスローガンに過ぎません。実務者としての政治家は、具体的に何が「民間にできること」なのかを切り分けるところにその手腕が発揮されます。また、
具体的ではないだけではなく「古臭い」という印象さえ感じざるを得ないスローガンでもあります。
小泉改革のころから使い古されてきたものだからです。
具体性に欠ける上に古臭いものが冒頭で打ち出されるということは、維新人気が小泉改革路線・ネオリベ改革路線の熱狂の延長線上に存在していることを示しています。
つまり、「維新の躍進」というのは結局のところ小泉改革路線・ネオリベ改革路線人気の継続なのです。
ここ20年余りの日本政治を振り返ると、2000年代前半の小泉人気、2000年代後半の民主党人気、2010年代前半の維新人気は、いずれもネオリベ的改革を求める有権者の層を上手く取り込んだ政党の興亡史でした。小泉改革の副作用の顕在化など、ネオリベ的改革に対して一定の懐疑的な見解が広がった2010年代後半以降は、「改革」のお熱にも一段落がついたものでしたが、
依然としてそれは底流として流れ続けており、もしかすると今回の統一地方選挙は再びネオリベ改革ブームが始まる兆候なのかもしれません。当ブログでも繰り返し指摘してきたとおり、社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化により、いまや雇われ人も個人事業主的なプチブル意識を持つに至っています。
労働者大衆までもがネオリベ改革を望む条件は揃っています。
■日本をダメにしたデフレ・マインドそのもの
「徹底した行財政改革」と並んで「身を切る改革」が持ち出されています。具体的には、小項目として「
知事・市町村長の退職金の廃止!と給与のカット!」と「
議員定数・報酬の削減」を掲げています。「次世代への投資」や「チャレンジを生み出す経済政策」、「いきとどいた福祉政策」よりも先に持ってくるあたり、
これらが維新政治の特徴なのでしょう。
日本をダメにしたデフレ・マインドそのものが初っ端から出てました。
日本の経済・社会を「失われた30年」とする見方は定着していますが、私は、
「良い品はそれなりの値段がする、よい仕事にはそれなりの報酬が要る」という世の理に逆行し、高品質と低価格を同時に要求し続けたために社会が疲弊していった結果であると考えています(もちろん「これだけ」と言うつもりはありませんが、大きな要素だと考えます――たった一つの原因で起こっているほど、システムとしての社会は単純にはできていません)。
いま日本社会では、遅ればせながらデフレ脱却のための持続的な賃上げが目指されていますが、ここにおいては「良い品はそれなりの値段がする、よい仕事にはそれなりの報酬が要る」という世の理を常識化し、かつ実践することが鍵の一つになると私は考えます。
このタイミングでデフレ・マインドの筆頭格というべき給与・退職金カットを謳うことは、その真逆を行くものです。財政再建に現実的に繋がるわけがなくパフォーマンスの域を超えるものではない知事・市町村長の給与・退職金カットは、無意味であるばかりか有害でさえあると言わざるを得ないのです。
給与・報酬等のカットというデフレ・マインドが「改革」の旗印になっていることに驚かざるを得ません。これが失敗の本質だというのに、ますます失敗を加速させようとしているのです。
■議員定数削減は、目先の損得勘定に基づく近視眼的発想
給与・報酬等カットと並んで維新は、議員定数「多すぎる」などとして削減しようと画策しています。「頭数の割には有権者の方を向いた政治になっていないから、いっそ減らしてしまおう」と言いたいのでしょう。しかし、
議員定数を削減してしまうと議員一人が代表する地域住民の数が増えるので、ますます住民と政治との距離が広がるものと考えられます。逆効果になると考えます。
SNSの活用などコミュニケーションを効率化するツールが年々増えているとはいえ、一人の人間が1日24時間のうちに応対できる人数には限りがあります。近年「タイム・パフォーマンス(タイパ)」という言葉が流行っていますが、定数削減により「椅子取りゲーム」がますます激しくなれば、
政治家はタイパ狙いで組織力が高い一握りの利益団体・利権団体のさらに重視することでしょう。
政治家と利益団体・利権団体との癒着を正して広範の住民の方向を向いた政治を目指すというのであれば、政治家と有権者の距離を縮める必要があるはずです。
政治家と有権者との距離を縮めるためには、人口当たりの議員数をむしろ増やす必要があるのではないでしょうか?
日本は間接民主制を採用していますが、これは、民主主義の原点たる古代ギリシア等の直接民主制が現代においては実践しにくいため、次善の策として採用されているものです。有権者が一堂に会して共同体の意思を決定するというのは、まず集まるだけで一苦労です。直接民主制の実践困難性ゆえに「代表者として議員を選出し、その議員に共同体の意思決定を任せる」という間接民主制に行きついたわけです。ある意味で「仕方なく」やっているのが間接民主制なのです。そのような歴史と原理を鑑みたとき、間接民主制においては、直接民主制に近づけるべく一人の議員が代表する有権者の数を最小限に抑える必要があるはずです。
多様なバックグラウンドをもった数多くの議員が討論を展開してこそ間接民主制が直接民主制に準ずる正統性ある制度たり得ると考えます。
なお、アメリカ第4代大統領のジェームズ・マディソンは『ザ・フェデラリスト』において、直接民主制は間接民主制と比べて「数の暴力」が抑制されにくいという指摘しています。熱しやすい民衆の性向を考えると、諸手を挙げて直接民主制を賞賛することはできず「議員は多ければ多いほどよい」と単純に言えるものではないのも確かです。しかしながら、維新について言えば、新型コロナウイルス禍において見られたように民衆を扇動する政治手法を取っています。扇動を政治手法として採用している以上は、議員数を絞って一議員の代表性を高めたとしても暴走の歯止めにはならないように思われます。
多くの議員を抱えることは、一見して多額の費用を要し非効率的だと思うかもしれません。しかし、
「失敗したとき」のことを考えると必ずしもコスト高とは言えないでしょう。政治というものは国家百年の大計を構想するものであり、かつ、失敗したときの損失がビジネスとは比べ物にならないくらい大きいもの。むしろ失敗することを前提に体制を組んでおく必要があります。
決して目先の損得勘定で近視眼的に判断してはなりません。
たとえばヒトラーは、側近らの反対を押し切って稚拙な戦争指導を執行した結果、ドイツを敗戦に導きました。連絡と調整のため必ずしもスピーディな意思決定が行われていたとは言い難い米英軍に対して、ドイツ軍はヒトラーの命令が絶対だったので非常にスピーディであり「効率的」でした。しかし、ヒトラーという一個人の能力に頼り切りだったドイツの戦争指導は、多くの戦略家たちの合議によって決定・執行された米英の戦争指導に及ばなかったのです。
中央集権的な計画経済に対する分権的な市場経済の有用性もその一例と言えるでしょう。中央集権的計画経済は、党や政府の命令一下に国家資源を集中投入できるので、宇宙開発や軍拡のように何を為せばよいのか既に分かっているケースでは高いパフォーマンスを発揮しますが、人々のニーズを探り当てる必要がある消費財の生産などは苦手とします。ソ連や東欧諸国においては、党や政府の経済担当には特に優秀な人材が登用され、早くからコンピューターを導入して高度な計算を行っていましたが、天才的な発想力の持ち主であっても一人の個人や少数の徒党が考え付く事柄には限界があるのです。
これらを踏まえて考えたとき、
多様な意見が出ればそれだけ真実に近づく確率が高まると言えるでしょう。天才的な発想力の持ち主であっても
一人の個人や少数の徒党が考え付く事柄には限界があるので、より多くの人を共同体の意思決定に巻き込む必要があるのです。
維新の方法論は、自ら発想の幅を狭めていると言わざるを得ません。
維新が掲げる議員定数の削減は、統治の正統性を損ねるばかりか有効性も損ねる方法論であると考えます。
■「大して成果を上げていないのに・・・」というのならば、しっかり監督・指導して働かせるのが正道
そもそも、
「大して成果を上げていないのに議員が多すぎる、政治家の報酬が高すぎる」というのならば、しっかり監督・指導して報酬に見合うだけ働かせるのが正道であるはず。にもかかわらず、出てくるのは定数削減や報酬カットといった話ばかりであり、監督強化という方向には決して話が行きません。
さしづめ、他人の仕事を監督するというのは非常に面倒くさく即物的な成果が出にくいので、手っ取り早く楽をするために「働きが十分ではない人を指導して働かせる」よりも「働きが十分ではない人をクビにして取り換える」のを選んでいるのでしょう。解雇をチラつかせるというのは最も簡単な古典的労務管理手法です。「主権者としての立場と責任を自ら放棄している」とも言えますが。
「働きが十分ではない人をクビにして取り換える」という方法論が惨劇として現れたのが
JR福知山線脱線事故でした。事故から18年の節目に神戸新聞が特集した「
「次ミスしたら辞めさせられる」運転士の焦り、歯車が狂い始めた事故25分前 尼崎JR脱線、報告書で振り返る」(4/24(月) 19:35配信 神戸新聞NEXT)のコメント欄で、エコノミストの門倉貴史氏が次のように指摘しています。
「目標を達成できなければ減給や解雇」というようにプレッシャーを与えて従業員の生産性を高めたり、ミスを減らそうとしても、うまくいかないケースが多い。
そのようなプレッシャーは、従業員にとっては恐怖となり、追い詰められて逆にミスが増えたり、ごまかしなど不適切な手段で目標を達成しようというインセンティブが働きやすくなるからだ。
たとえば、かつて米国のウェルズ・ファーゴ銀行では大規模な不正営業が発覚したが、ノルマを達成できなければ失職するかも知れないという恐れが、職員による不正営業(顧客に無断で口座を開設)の動機となっていた。
このように強制力の強いプレッシャーは、逆に従業員のミスを誘発したり、ごまかしなど倫理に反する行動を助長しやすくなる。
前述のとおり私は、「維新の躍進」とは結局のところ小泉改革路線・ネオリベ改革路線人気の中途半端な継続であると考えています。新自由主義(ネオリベラリズム)とは何であるかは一概には言い難く、それゆえネオリベ改革路線人気とはどのようなマインドによるものであるかを定義づけることは難しいものです。新自由主義とは、「主義」というほど高尚なものではなく、現代資本主義にとって都合のよい諸政策の最大公約数に過ぎないからです。しかし敢えてそれを「市場原理を再評価して政府による介入を最低限とすべきと提唱する発想・潮流」と位置づけ資本主義純化運動として捉えたとき、現代資本主義経済における競争の熾烈さを鑑みるに、そのマインドは、「即物的な短期利益の追求をよしとするマインドと親和的である」と傾向的に言えると考えます。
すぐに目に見える成果を上げることを要求したり、人材やノウハウを時間をかけて内部で育成することよりも手っ取り早く外部から調達し充当したりする傾向がネオリベ改革路線のマインドの傾向的特徴であると考えます。
このように考えると、JR福知山線脱線事故は新自由主義の時代を象徴する事故であったと言えるでしょう。運行ダイヤの余裕時分さえもを削ろうとしたり、懲罰的処遇やそれに関連する恐怖でガバナンスを取ろうとしたりするのは、手早く楽に利益追求を目指す新自由主義的発想そのものです(もちろん、阪急電車との熾烈な競争環境という条件を無視すべきではないでしょう――まさに「競争の強制法則」です)。
■中途半端さがプラスされる維新政治
「他人に仕事をさせる」上では信賞必罰で臨む必要があるとはいえ、ここ20年あまりの歴史は、即物的な利益追求の方法論では上手くいかないことを示しています。
維新の場合、ここに中途半端さがプラスされるので、ますます上手くいかないことが予想されます。
最近は地方議員等のなり手不足がいよいよ深刻化し無投票当選が激増しています。彼らの待遇が大きな問題であるとの指摘があります。
通常、優秀な人物を異業種から引き抜くためには高い報酬を提示する必要がありますが、維新は「身を切る改革」を掲げるので、そうしたヘッドハンティングの手法を取ることは論理矛盾になります。
議員定数を減らすのならば少数精鋭にすることが絶対条件であるはずなのに、報酬を減らしてしまったら一体どんな人たちが集まるというのでしょうか? 「身を切る改革」路線を突き詰めると、熱意はあるかもしれないが能力が高いとは言えない人材や未経験者、あるいは議員業以外に生業を持っている人材しか残らないように思われます。後者は業界団体との「太いパイプ」の存在を疑わせます。そういう人に「改革」はできるのでしょうか? 自民党議員と大差ないように思われます。あるいは、「官製やりがい搾取」という末路も見えてきます。
かつて、リーマン・ショックの金融危機のさなかアメリカの大手保険会社AIGは、公的資金を注入されておきながら「優秀」な幹部社員らに巨額のボーナスを支給し顰蹙を買いました。現代資本主義の無責任な一面をこれでもかというほど見せつけた一幕でしたが、敢えてAIGの言い分に傾聴するならば、「そうでもしないと熾烈な人材獲得競争に打ち勝つことができない」という見方もできるかもしれません。それもまた真実の一面を示していると考えます。新自由主義的な金融自由化によって最も大きく恩恵を受け、
ある意味において新自由主義を体現していると言えるアメリカの大手保険会社の経営「判断」と比べたとき、維新の「議会の少数精鋭化を目指すが、報酬はカットする」という方法論の中途半端さが際立つように思われます。
なお、経済学者の松尾匡氏は、AIG等の金融機関に勤めるディーラーたちについて、上手く運用できればボーナスを得られるが投資に失敗したところで「所詮は他人のカネ」である点において投資判断にかかる「リスクと決定と責任」が一致しておらず、投資が無責任になりがちであると指摘した上で、「無責任の体系」という意味ではソ連型の経済システムと通底する部分があると指摘しました(「
ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から」)。非常に重要な指摘であり、ソ連・東欧圏崩壊を分析するにあたって新しい視座であると考えます。資本主義にも社会主義にも共通の構造的問題があると言えます。
「民間にできることは民間に」などと御題目のように唱える維新ですが、「議会の少数精鋭化を目指すが、報酬はカットする」などというメチャクチャなことを言っているくらいなので、ここまで深くは考えてはいないものと思われます。
彼らは資本主義の理解が不十分なままに「民間にできることは民間に」などと唱えているわけです。この中途半端さは非常に危険だと言えるでしょう。■「科学的な冗長化」という発想が欠けている
余談ですが、新自由主義の信奉者たちは「ムダを省く」と口癖のように言います。ムダを省くのはもちろん大切なことです。しかし、彼らは往々にして最低限の余裕・保安機構をも「ムダ」扱いしてしまっています。「科学的な冗長化」という発想が欠けています。その意味において私は、
新自由主義的発想とは、目先の損得勘定に基づく近視眼的発想であると言い換えることもできると考えます。
意外に思うかもしれませんが、建材をケチりまくり、それゆえに粗悪品の代名詞になっている「戦時設計」は、実は冗長性を十分に確保しています。たとえば戦時中に完成した関門トンネルは、本州方面線と九州方面線の2つのトンネルから成り立っていますが、信号設備などは複線ではなく単線並列構造を取っています。関門トンネルは、本州方面トンネルに九州行き列車を、九州方面トンネルに本州行き列車を走らせることも可能になっているのです。通常時においては本州方面トンネルには本州行き列車しか走らないので、九州方面に運行するための信号設備が使わることはありません(逆もまた然り)。それゆえ、これは一見してムダな設備投資です。しかし、何らかの原因で片方のトンネルが不通になってしまったとしても、単線並列構造であれば、もう片方のトンネルを直ちに上下線共用で使うことができるので、輸送力が低下することはあってもゼロになることはありません。本州と九州とを結ぶ大動脈であるからこそ一見してムダな設備投資に見えても敢えて行ったわけなのです。
単なるムダなのかそれとも冗長化と言い得るのかは、結局のところ科学の領分になります。冗長化については工学において研究結果が豊富にあり、各種産業はそうした研究結果をもとに定量的に冗長性を確保することで科学的にムダを省いています。これに対して
新自由主義の信奉者たちが口にする「ムダを省く」において、こうした科学的な裏付けの存在を感じさせるケースは、ほとんどありません。一事が万事まったく感覚的に、精々目先の近視眼的な損得勘定に基づいて推し進められているとしか言いようがありません。
■政治を変えただけでは不十分
この30年間続いてきたデフレ・スパイラルについて私は、正確にはデフレ・ネオリベ・スパイラルであると考えています。物価の下落が企業収益を圧迫し、それを受けて企業は一方において経費節約をしようとしつつ他方において規制緩和等の経済「改革」を要求します。それは一部企業の業績を一時的に向上させることはあっても、個人消費を低迷させることになり結局は需要不足を引き起こし、更なる物価の下落を引き起こします。そうなると企業は更なる経費節約と経済「改革」を要求し、ますます事態は悪化してゆくわけです。
維新のマインドは上述のとおり、デフレ・マインドであると同時にネオリベ・マインドです。
維新は、ここ30年にわたって展開されてきた現実の悪いところを凝縮したような政策方針、そして、一体どうやって少数精鋭をそろえるのか皆目見当もつかない「議員定数を減らし報酬も減らす」を筆頭に、
落ち着いて考えれば矛盾だらけの方法論を掲げていると言わざるを得ません。
前述のとおり、維新とは本質的に自民であると考える左翼・チュチェ思想派の立場から申せば、自民が増えようが維新が増えようがあまり違いはありません。しかし、保守陣営の中で維新がパイの分捕り合戦で大きく前進した事実からは、依然として小泉改革路線・ネオリベ改革路線人気が続いていること、ことによっては再び盛り上がり始める可能性があることが見えてきます。
落ち着いて考えれば矛盾だらけの方法論に再度注目が集まりつつあるわけです。
こうした現状になりつつある原因について私は、「有権者が愚かだから」とは言いたくはありません。有権者は決して愚かではありません。だいたい、本当に「有権者が愚か」ならば、バカを騙して転がすこともできない自力の足りなさを猛省しなければならないでしょう。有権者は、現在の政治・経済・社会の状況を鑑みてどの党・どの候補者が「よりマシ」的に自分たちの生活を改善し得るのかをよく見ています。
それゆえ、左翼が自民に対する批判票の受け皿になれていないこと、保守寄りの無党派層に食い込めていないことに根本的な問題意識を持たなければならないと考えています。そして、
社会主義・共産主義に軸足を置くのならば、やはり政治運動に限らず経済運動・社会運動を含めて総体的に運動を展開する必要があるとも考えます。社会的分業の徹底的な専門細分化による超知識労働社会への社会変化により、いまや雇われ人も個人事業主的なプチブル意識を持つに至っており、労働者大衆までもがネオリベ改革を望む条件は揃っているからです。政治を変えただけでは不十分だと考えます。資本主義全盛期の社会において社会主義・共産主義を急進的に実現しようとする政治的テーゼを展開したところで「非現実的」とか「経済を分かっていない」と言われるのがオチです。一般に「改良主義」は社会主義・共産主義界隈においては罵倒語に等しいものですが、
私は、有権者へのアピール手法として「改良」を選択肢に入れることも辞すべきではないと考えます。最終的な到達点をあくまでも社会主義・共産主義においていれば、そこに至る経路を戦術的に調整することはあって然るべきと考えます。それゆえ、
まず下部構造、生活の実態を社会主義・共産主義に漸進的に近づけることから変革の運動を始める必要があると考えます。
この国では、政治の努力だけでは変革は起こり得ないと考えます。元来、政治とは社会を統一指揮すること(≪위대한 령도자 김정일동지의 사상리론:법학≫より)ですが、日本の場合、「御上からの指令」という実態があるように思われます。人民生活の現場と法や制度を作る立法府・法や制度を運用する行政府とは連携を密にしていなければならないところ、この国では社会の組織化が遅れているので、両者の間が分断されているのです。それゆえ、
生活現場においてその実態を社会主義・共産主義に近づけつつ、同時に人民生活の現場と立法府・行政府との距離を縮める必要があります。
■災い転じて福となすべく「民間にできることは民間に」を換骨奪胎しよう
左翼を魅力的にするにあたっては、現実の課題に対するソリューションを提示することが何よりも大切になります。現実と理想とを如何に近づけてゆくかについてビジョンを提示することが大切になります。もっといえば、
保守陣営が政策目標を達成させて左翼陣営にとって困難さが増したとしても、そこから反転攻勢の突破口を探し出すくらいの気概が必要だと考えます。
私は以前から立場を鮮明にしてきたとおり、私は左翼として日本の自主化、協同社会としての社会主義・共産主義社会を目指す立場に立っています。現時点の日本社会が資本主義社会である以上は、それを所与の条件として資本主義の上に社会主義・共産主義社会を構築することになると考えています。
科学的社会主義に基づいて資本主義から社会主義そして共産主義を目指すということは、「災い転じて福となす」ことを目指すものであると考えます。マルクスの『資本論』は資本主義経済のカラクリを暴露し、資本主義の発展は一方においてプロレタリアートの困窮化を引き起こしつつ、他方において未来社会としての社会主義・共産主義の展望を切り開くものであるということを論証する著作です。プロレタリアートにとって資本主義の発展は「災い」ですが、それは同時に「福」にも繋がるわけです。
「民間にできることは民間に」と「身を切る改革」のスローガンに集約される小泉改革路線・ネオリベ改革路線・維新政治を、どのように「災い転じて福となす」にするかを考える必要があります。ここにおいて私は、「民間にできることは民間に」のスローガンは協同社会化の突破口になり得るものと考えます。協同社会を「経済における民主化」であると考えると、行政による独占や参入規制にも厳しい目を向ける必要があるでしょう。行政の職員や参入規制に守られた特定企業の社員たちが如何に優秀であったとしてもその発想には限界があるので、より多くの人の意見を民主的に取り入れるとすれば、一定の門戸開放は必要になります。
「民間にできることは民間に」を維新が言うがままにしてしまえば、これは災い以外の何物にもなり得ませんが、このスローガンに内実がないことを逆手にとって経済における民主化としての協同化に繋げ、福となす必要があると私は考えます。日経新聞などが声高に主張する
「岩盤規制」談義にも、やりようによっては使いどころがあるわけです。
我らが左翼陣営は、維新政治に断固反対することはあっても、これを逆手に取る強かさに欠けているように思われます。政敵に反対することも大切ですが、政敵の野望が実現してしまったとして、それを出発点としてどのように巻き返して乗り越えてゆくかという戦略も必要だと考えます。
換骨奪胎するくらいの強かさを持ちたいものです。