統一地方選挙から見える世相について考えてみたいと思います(選挙から2カ月も経つのにすみません。原稿素案は早くから出来ていたのですが、詰めの内容調整に時間が掛かりました)。
もとより当ブログは「日本の自主化・協同化」を探るというテーマがあるので、常にニュースから世相を炙り出すというのが本筋です。前回、5月8日づけ「
災い転じて福となすべく「民間にできることは民間に」を換骨奪胎しよう」と重複する部分もありますが、
「維新の躍進」が伝えられる今回の統一地方選挙について「経済の論理が政治を呑み込み、社会全体を侵食する現代資本主義が、ついにここまで来た」という視座で考えてみたいと思います。
■経済おける人間関係とは「互いに他人同士」、政治における人間関係とは「互いに身内同士」
https://news.yahoo.co.jp/articles/5c11abb988974f67d9b454f009e1ee582bd77214立憲民主、共産党、れいわ......選挙の時の有権者の気持ちはこんなもの
4/11(火) 11:59配信
ニューズウィーク日本版
与野党問わず、まるでジョーク、いやジョークにもならない政治家たちの振る舞いが目立つ。統一地方選挙の季節だが、この果物屋店主に共感する人は多いはず
【果物屋にて】
とある国会議員が自身の選挙区を歩いていた。議員は果物屋の前で立ち止まり、店主に言った。
「何かおすすめの果物でも買っていこうかな」
「分かりました」
しかし、店主が差し出してきたのは、小さくてまだ青いミカンと、穴のあいたリンゴと、腐りかけたメロンだった。店主が言った。
「お好きなものをどうぞ」
議員は怒った。
「ひどいものばかり並べやがって! いったい何のつもりだ!」
店主が答えた。
「選挙の時の私たちの気持ちが少しでもお分かりいただけましたか」
(中略)
国会審議中に汚いヤジを飛ばしたり居眠りをしているのは与野党問わず。国会だけでなく地方議会も惨憺たるありさまだ。だが、これも「私たちが選んだ人たち」である。
4年に1度の統一地方選挙。美味(おい)しく、体に良さそうな果物は果たしてあるか。
【早坂 隆(ノンフィクション作家、ジョーク収集家)】
あくまでもジョークという断りがあるものの、経済行為と政治行為とを混同しています。
経済おける人間関係と政治における人間関係は決定的に異なるものであるにもかかわらず、経済おける人間関係像を政治の分野にそのまま持ち込んでしまっています。
著名な経済人類学者である
カール・ポランニーは、資本主義社会は、経済活動が社会活動の一部分して組み込まれていた前資本主義社会とは逆に、
経済活動が社会活動を呑み込んでしまっており、経済の論理が政治などにも波及してしまっていると指摘しましたが、いよいよ事態はここまで来てしまったようです。
経済行為、典型的には私的営業が認められた商取引の世界には「売り手」と「買い手」が存在していますが、彼らが立場を入れ替わることは基本的にはありません。果物商A氏と顧客B氏がいたとして、私的営業が認められている限りにおいてはA氏はあくまでも果物の売り手であり続け、B氏はどこまでも果物の買い手であり続けます。ある日はA氏がB氏に、別の日にはB氏がA氏に当番制で果物を売るということはありません。それゆえ、買い手が売り物である果物の品質を酷評することは、カスハラにならない限りは、特段の問題はありません。
これに対して政治行為としての選挙は、一見すると候補者が自分自身の政治的手腕を売り込み有権者が1人1票の原則で投票する点において、商取引に類似しているようにも見えます。しかし、商取引において売り手と買い手が入れ替わらないのに対して、選挙は自分たちの中から代表者として政治家を選出するという点において決定的に異なります。
商取引においては売り手は売り手・買い手は買い手であり続けるがゆえに、買い手は商品の質に責任を負わないのに対して、選挙とは自分たちの中から代表者を選ぶという行為であるがゆえに、政治家の質の低さは自分たちの責任になるのです。
商取引の場である果物屋で「
小さくてまだ青いミカンと、穴のあいたリンゴと、腐りかけたメロン」が売られていれば、「
いったい何のつもりだ!」と思って当然でしょう(別の店に行けばいいというツッコミはナシ)。売り手と買い手は他人同士なのだから、この言い分には理由があります。しかし、たとえば学級委員選挙において誰も立候補したがらなかったとして「なんで誰も立候補しないんだ!」などと口走ろうものならば、間違いなく「お前のクラスでもあるんだから、お前が立候補しろよ」と言われるでしょう。選挙の立候補者と有権者は身内同士なのだから「そういうお前も責任の一端を担っているんだぞ」ということになるからです。
■「交換」の歴史
もう少し突っ込んで考えてみましょう。経済活動の根幹を担う「交換」について考えてみましょう。
前出ポランニーによると、人間の経済活動には、どのような時代であっても「互酬」「再分配」及び「交換」の3つの方法・形態が組み込み合って共存しているといいます。そして、生存に欠くことのできない基礎物資を人々がどの方法で入手しているかで、その社会の経済を性格づけることができるといいます。
「互酬」とは、社会集団のメンバーが特定のパターンに従って相互に贈与しあうことをいいます。平たく「助け合い」と言ってもよいでしょう。ここにおいては、贈り物の質や量は必ずしも等価性原理には基づいておらず、むしろ集団の凝集性と集団間の連帯性を維持・向上することを目的として意志決定されます。
個々の人間が生存するために最初に「助け合う」対象は、通常は、血縁・姻族関係にある家族・親族同士です。それゆえ、「助け合う」ことの基本的関係は親族であると言えます。したがって、互酬の関係性は、血縁的紐帯が主要な組織である社会では支配的な経済的様式であると言えます。
「再分配」とは、物資等がいったん中央権力に集約されてから、中央権力の意向に従って各人に配給されることをいいます。なお、物理的に中央権力の下に物資が集約されずとも、中央権力の指図に従って分配が実現されれば、それは再分配と言い得ます。現代日本においても再分配制度は確立していますが、霞ヶ関ないしは永田町に物資が一時的にも集積しているという事実はありません。
「交換」とは、使用価値の異なるモノ同士で行われる行為です。同じモノ同士を交換することはまったく無意味なので、交換とは彼我の所有物が違っているときに起こるものです。
つまり、彼我に「違い」があるところに「交換」が生じます。「交換」は家庭内では基本的には生じない行為です。家族内は基本的に「互酬」原理で統合されており、「交換」は家族共同体同士の境界において外部に対して行われます。また交換は、自給自足的な古代の村落共同体の内部では、まったくなかったわけではありませんが、主たる様式ではありませんでした。ここでは「互酬」と「再分配」が基本であり、「交換」はヨソの村人や旅人といった村落共同体の外部に対するものでした。
前述のとおり、人間の経済活動においては、どのような時代であっても「互酬」「再分配」及び「交換」の3つの方法・形態が組み込み合って共存してきましたが、現在のように「交換」が主たる方法になったのは、19世紀以降のことことです。人間の歴史において長く市場は補助的なモノに過ぎませんでしたが、「経済が社会の中に埋め込まれている」というべき社会から「市場が全面的に拡大し、社会活動を支配する」社会への大転換が19世紀に起きたのです。
この大転換には、3つの前提条件があったといいます。すなわち、(1)私的所有権の確立、(2)個人の自律性の確立、そして(3)消費目的ではなく利潤目的での生産でした。そして前提条件の下で、土地や労働力といった本来商品とはなり得ないものまで市場交換の対象になったことで、市場交換が経済活動の主たる様式に成り上がったといいます。
この流れを総括するに
「交換」とは、「個」が確立した状況において、彼我の持ち物が異なるときに、ヨソ者を相手に行う行為であると位置づけられると思われます。
これに対して、政治活動とは社会共同体を運営する諸行為であります。
その意味で人々は、経済的には他人同士であったとしても政治的には身内同士の関係にあるのです。
経済おける人間関係と政治における人間関係との違いは、端的に言ってしまうと上述のように、前者が他人同士であるのに対して、後者は身内同士だという点にあるでしょう。上掲記事は、この決定的な違いを見落として両者を混同しています。■経営失敗の責任を取れる企業経営者はチャレンジャーになってもよいが、失政の責任を取り得ない政治家はチャレンジャーになってはいけない
経済行為と政治行為とを混同する見方が広く蔓延していることは、今回の統一地方選挙で大幅な議席増を果たした「日本維新の会」人気からも推察することができます。維新共同代表の吉村洋文・大阪府知事は次のように述べていますが、彼及び維新のこのような姿勢は、同党支持者から絶大な支持を獲得しています。
https://goetheweb.jp/person/article/20230509-climbers-6日本維新の会・吉村洋文「日本は失敗を恐れている場合ではない」
リーダーの条件は「勇気」
リーダーにとって必要なものは何か? まずは結論から言います。必要なのは決断力、判断力、実行力。そしてその上にあるのが「勇気」です。日本人、とくに政治の世界は勇気がないから、前へ進めません。勇気がないから判断に時間がかかるのです。
大阪のIR整備計画は昨年4月に国へ申請し、今年4月に認定されました。認定するだけのことに、なんで1年もかかるのか? そんな状況で、ビジネスなんてできません。“失われた30年”といわれるように、なんの前進もなく時間だけが過ぎてしまいます。
(中略)
日本は「沈んでいく国」と言われています。実際にそう感じている人も少なくないでしょう。でも、日本は「強みがいっぱいある国」だとも思っています。真面目で、人を思いやる心があり、輪をもって行動することが得意で、道徳観や倫理観も高い。日本人は本当に優秀です。
優秀じゃないのが、経営者と政治家。日本が停滞している原因はここにあると思います。経営者も政治家も、責任追及されるのが嫌でチャレンジしなくなっている。
リーダーは勇気をもってチャレンジャーにならなくてはいけない。1回目、2回目がダメでも3回目がある。日本は失敗を恐れている場合ではないのです。
「
リーダーは勇気をもってチャレンジャーにならなくてはいけない」――これも経済活動と政治活動とを混同した見解であると言わざるを得ません。
経済学者の松尾匡氏は、連載記事『リスク・責任・決定、そして自由!』の第3回において「
ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か」という記事で、反共主義・自由主義の哲学者・経済学者であるハイエクの経済思想について次のように解説しています。
あれこれの状況に直面したもとで、民間の人々ならいろいろな選択をそれぞれにする可能性があるところで、国家がその中で特定の政策を選ぶということは、特定の目的を人々におしつけることになります。ハイエクは、これは公平ではないと言います。
立法者が公平でありうるとしたら、まさにこの意味においてだけである。公平であるということは、特定の問題──決めざるをえない時にはコインを投げる必要のあるような問題──にどんな答えも持っていないということを意味するのである(*28)。(強調は引用者)
「決めざるをえない時にはコインを投げる必要のあるような問題」というのは、すなわちリスクのある問題ということです。つまり「役所はリスクのあることに手を出すな」ということです。私から敷衍して言えば、役所がリスクのあることに手を出すと、その結果はその判断に同意していない人も含む多くの人々を巻き込むことになるのに、その責任はとらないということです。せいぜい決定者が辞めるぐらいです。江戸時代なら切腹したかもしれませんし、北朝鮮では銃殺されるかもしれませんけど、だとしても、被害者が補償されるわけではありません。補償されたとしても、それは決定者の自腹で負担されるものではありません(そもそも無理)から、結局国庫の負担になって、一般国民に広く損が分散されるだけです。
野田前総理は、原発の再稼働を決めるにあたって、「総理としての責任で」とおっしゃいました。この「責任」ってどんな意味なのか、私にはまったくわからないのですけどね。万一今度原発に何か起こったときに、まだ野田さんが総理でいる可能性は、あの時点から見ても限りなくゼロでしょう。議員である可能性もほとんどない。辞めて責任をとるというわけにはいきません。ましてや自腹で被害者に賠償するはずはないし。
リスクのあることを決めても責任をとらなくてもいいのならば、どんどんリスクのあることに手を出してしまうでしょう。それでは、ただでさえリスクを抱えている民間の人々に、さらに過剰なリスクを押し付けることになってしまいます。
(中略)
リスクのあることは、すべてそのリスクにかかわる情報を持つ現場の民間人に決定を任せ、その責任は自分で引き受けさせる。公共は、リスクのあることには手を出さず、民間人の不確実性を減らして、民間人の予想の確定を促す役割に徹する。この両極分担がハイエクの提唱した図式だと言えるでしょう。
(中略)
役所が民間企業のようになれという誤解
さて、ハイエクは世界の政界に自由主義を広める目的で、「モンペルラン協会」を作って活動しました。また、ロンドンに作った「経済問題研究所」は、サッチャー革命の理論的拠点となりました。こうして世界中で「小さな政府」を掲げる新自由主義路線が、ハイエク思想の名の下に推進されてきました。
このような流れの中で日本でも、競争や財政削減や民営化を推進する動きが支持を集めてきましたが、はたしてそれはもともとハイエクの言っていたような根拠で理解されたものだったでしょうか。
私にはハイエクとは正反対の考え方で推進されているように思えます。
ここはやはり橋下徹さんのやられていることが典型だと思いますが、ことあるごとに「民間では……」と言って、職員を威圧したり、校長や区長を民間から公募したりしています。カジノにしろ「大阪都」にしろ、あえてリスクのあることを断行することがいいことのような姿勢をとっています。一言で言えば、役所が民間企業のようになることが、自由主義的転換の中身であるように理解されているように思います。しかもかなりブラックなやつ……。民間企業のやるようなことに役所が手を出してはならないというのがハイエクの主張だったのに。
(中略)
思い返せば、十数年前の小泉さんの「改革」もそうでしたけど、権力者が、民意の支持のもとに、ハイエクの最も嫌う、何らかの特定の目的を持った判断を行い、リスクをいとわずに断行することをよしとする姿勢が横行しているように思います。十数年前は、その結果もたらされた就職氷河期で、どれだけの若者の人生が狂ったか。リストラ横行してどれだけ自殺者が出たか。でもその判断をした当人たちは、何の責任もとりません。
経営失敗の責任を取れる企業経営者はチャレンジャーになってもよいが、失政の責任を取り得ない政治家はチャレンジャーになってはいけないのです。
■政治家の「引責辞任」は責任を取っているうちに入らない
維新系政党の指導者は代々、自分自身の進退を賭けて政策を推進するという「芸風」を取ってきました。橋下徹氏や松井一郎氏は大阪都構想に自身の進退を賭けましたし、馬場伸幸代表は昨夏の代表就任早々に今回の統一地方選挙で目標の600議席獲得がてきなければ辞任するとブチ上げたものでした(「
600議席未満なら辞任 統一地方選めぐり維新・馬場氏」2022年08月29日21時02分)。
いわゆる「引責辞任」のつもりなのでしょう。「責任を取って辞める」が一連の儀式と化している現代日本では今更引責辞任について問い直されることはまずありませんが、
しかし、政治家が辞任したところで一体どのような意味で責任を取ることができるというのでしょうか?経済活動における失敗、たとえば、投資判断に失敗して損してしまったとすれば、損失を自ら引き受けることで責任を取ったと言えます。他人に損をさせてしまったとすれば、それを弁済して元通りにすれば責任を取ったと言えます。
これに対して政治活動における失敗は、松尾氏が上掲記事で「
江戸時代なら切腹したかもしれませんし、北朝鮮では銃殺されるかもしれませんけど、だとしても、被害者が補償されるわけではありません。補償されたとしても、それは決定者の自腹で負担されるものではありません(そもそも無理)から、結局国庫の負担になって、一般国民に広く損が分散されるだけ」と指摘したとおり、
その被害があまりにも大きいので、その責任は取りようがありません。辞任はもちろんのこと、
政治家が自殺したり処刑されたりしたところで失政による損失が穴埋めされるわけではないのです。いわゆる引責辞任は、現指導部を退場させることでそれ以上の失政を止めるという機能以上のものはないというべきです。
このように、
経済活動と政治活動は、前者は決断に対して責任を取り得るのに対して後者は取り得ないという点においても決定的に異なるのです。企業経営者と政治家は決定的に異なります。
経営失敗の責任を取れる企業経営者はチャレンジャーになってもよいが、失政の責任を取り得ない政治家はチャレンジャーになってはいけないのです。「有権者の民主的総意で一つのチャレンジに賭け、失敗した場合には全員で連帯責任を負う」にしても、上掲引用部分のハイエクの指摘にあるとおり、それは「
特定の目的を人々におしつける」という側面があることを忘れてはなりません。
維新とその支持者たちは、この決定的な違いを見落として混同しています。■「引責辞任」が政治家本人にとって大きな制裁になっていないことを自ら証明してきた維新
引責辞任が政治家本人にとって大きな制裁になっていないことは、維新が自ら証明してきました。たとえば、大阪都構想頓挫の「責任」を取った橋下徹氏ですが、政治家引退後の自由奔放な日々を見るに、引責辞任は政治家本人にとってマイナスになっていないと言わざるを得ません。
公人としての立場を失って久しい橋下氏ですが、むしろそれゆえに自由奔放に発言を繰り返しています。たしかに政治権力を失った彼は自分自身の手で政治を動かすことはできなくなりました。しかし、自ら育ててきた後継者に陽に影響力を行使したり、SNSを通して熱心な支持者たちに訴えかけることで間接的に政治的な力を行使しています。昨春にはロシアのウクライナ侵攻に関して停戦の必要性を連日力説しましたし、最近は、周回遅れの水道民営化論を展開したそうです(「
『めざまし8』橋下徹氏、横浜市の2週連続“水道管漏水”で水道民営化提唱も異論続出「海外では民営から戻してるのに」」5/2(火) 11:00配信 New's)。多忙な現役の市長・府知事のままであれば、ウクライナの話や他市での漏水の話から水道民営化云々を語ってはいられなかったでしょう。市長・府知事時代よりも楽しそうなポジションに立っているように見受けられます。
このごろ政界引退した松井一郎氏も、「
橋下さんとユーチューブで無責任に世相を切っていこうかな」などと口にしています(「
「何の後悔もない」松井一郎大阪市長が任期満了 橋下氏とタレントで共闘≠焉I?」2023/4/6 14:37)。
なんだか楽しそうですね。■「独自」の責任観念は、経済活動とくに市場経済を正しく理解していないことを示している
経済行為と政治行為とを混同するにしても、経済活動とくに市場経済に対する理解が正しくあれば、政治に対する理解が足りなかったとしても「まだマシ」だと言えます。しかしながら、「政治的失敗の責任は取り得ない」にも関わらず、企業経営者と政治家を同列視した上で「
リーダーは勇気をもってチャレンジャーにならなくてはいけない」とする吉村氏の発言からは、彼及び彼の支持者が
独自の「責任」観念を持っていることを伺わせます。そしてそのことは、
経済活動とくに市場経済を正しく理解していないということを示しています。
松尾匡氏の連載記事『リスク・責任・決定、そして自由!』は、第2回「
ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から」において、消費財が慢性的に不足していた冷戦期東側諸国の失敗について、リスクを伴う投資判断に対して失敗の責任が十分には問われなかったことがその失敗の原因であるとするコルナイ・ヤノーシュ(経済学者でハンガリー人民共和国の元経済官僚)の「ソフトな予算制約」という指摘を紹介しています。
コルナイさんは、ソ連型経済システムの特徴を、慢性的な不足経済として描いています。労働力も生産物資も消費財も、いつもどれも足りない経済ということです。発展途上国と違って、決して生産力が足りないわけではないのに、不足が不足を呼んで再生産される「均衡」に陥っているのです。
コルナイさんは、こんなことが起こる原因として、まず「投資渇望と拡張ドライブ」をあげます(*8)。要するに、企業が機械や工場を設備投資して、生産規模を拡大していくことに、歯止めがないということです。彼は、1973年のオイル・ショック後の景気後退期に、西側資本主義国の企業は設備投資を減らしたのに、東ヨーロッパでは、ハンガリーでもポーランドでも企業の設備投資意欲は衰えなかったという例をあげています。
次に、「量志向とため込み」をあげています。企業は、原料や燃料や部品などの投入資材を、倉庫一杯にため込もうとするわけです。(中略)中央政府から突発的な生産ノルマが降りてきても、支障なく超過達成して、ご褒美のボーナスをもらえるよう、日頃からあらゆる手を尽くして生産に必要な資材を集めておくというわけです(*10)。
(中略)
さて、ではなぜ歯止めなく設備投資したり、生産資材を貯め込んだり、どんどん輸出したりするのでしょうか。コルナイさんがあげている根本的な原因は、「ソフトな予算制約」ということです(*16)。
(中略)
コルナイさんは、西側の企業では、企業のオーナー自身が設備投資決定すれば、「彼自身のお金にかかわる」と言います。つまり、失敗したら自分の損ということです。(中略)東側の国有企業経営者は違います。コルナイさんによれば、投資判断がうまく当たれば、昇給やボーナスが得られ、名誉も得られるけど、投資判断に失敗しても、「前よりもさほど低くない地位の別の機関や職場へ左遷させられるだけ」ということです(*18)。
つまり、国有企業経営者は、企業長単独責任制のもとで、資材購入や労働雇用の決定権を持っていました。ハンガリーやポーランドでは、設備投資の決定権まで持っていました。ところが彼らは、決定の結果おこることについては、責任をとる必要がなかったわけです。本当に社会のニーズに合うかどうかわからないリスクのある決定をする人は、本来そのリスクに応じて責任をとらなければならないと思います。しかし、その責任をとる必要がなく、うまくいった場合のメリットばかりがあるならば、資材のため込みにも設備投資にも歯止めがかからないのは当然です。
この問題を解決するためにはどうすればいいか。設備投資や資材購入や新規雇用の決定をする人が、その決定の結果について責任をとるようにしなければならないということです。つまり、失敗したら自腹で補償する。あるいは、倒産して地位を失う憂き目にあう。しかし、責任を取らされるばかりなら誰も決定する地位に着こうという人はでてきませんから、決定の結果うまくいったときの成果は、「利潤」としてある程度決定者に帰属するようにする……これは、要するに「私有」ということにほかなりません。
だからコルナイさんは、ソ連型システムは改革不可能で、西側同様の私有資本主義になるほかないという結論に至ったわけです。
資本主義経済・市場経済を標榜する西側諸国が冷戦期の体制間競争に勝ち残ったことは疑いなき事実ですが、20世紀社会主義に対する20世紀市場経済の真の優位性は「企業経営の判断に対して正しく責任を取らせた」ところにあったと言えます。松尾氏は当該記事の後半で、「投資決定者が責任をとらないソフトな予算制約」は、現代資本主義でも見られると指摘しています。20世紀社会主義と現代資本主義には共通の問題を抱えているわけです。
2008年にサブプライムローン問題をきっかけにして世界金融危機が起こりました。そこで、「金融自由化のせいで、ご立派な大手の金融機関まで、サブプライムローン証券とか何とか、新しくひねり出された怪しげな商品を取引して、自由にバクチをうって、もうけに浮かれていたからこんなことになったのだ」と、世界中で批判が起こりました。
このときアメリカでは、サブプライム取引の損失で経営危機に陥った大手保険会社のAIGに、巨額の公的資金が投入され、物議をかもしています。さらに、同社がその後、公金をもらっておきながら、400人の幹部社員に約160億円相当のボーナスを払ったことで、いっそう騒ぎが大きくなりました。
しかし、コルナイさんが指摘した、ソ連型システムがなぜうまくいかなかったのかという本当の理由をちゃんと理解していれば、こんなことにはならなかったのです。
金融自由化で、自由にいろいろな金融商品を取引できるようになった金融機関のディーラーの人たちは、他人から預かった「ヒトのカネ」を使ってバクチをうちます。たしかに、それでうまくいけば、金融機関ももうかるし、ディーラー本人もご褒美がもらえます。しかし失敗した場合は、しょせん「ヒトのカネ」であって、損するのは顧客。ディーラーの自腹が痛むわけではありません。
AIGがディーラーたちに高額のボーナスを払ったのも、そうしないとディーラーたちは沈みかかった船を見捨てて、別の会社に移ってしまうからです。どっちにせよ、失敗しても自分個人は大丈夫ということです。
金融機関にしても、あんまり大きいと、つぶれてしまったら国民経済に悪影響を与えてしまいます。つぶれたせいで景気がますます悪化してしまう。罪のない多くの会社がつぶれ、失業者もたくさん出てしまう。そんなことになるわけにはいきませんから、結局はつぶれないように、政府は公的資金を投入して救うほかありません。以前の日本の金融危機のときもそうでしたよね。
しかし政府がそんなふうにいざというとき救ってくれることは、誰でも最初から読めることです。コルナイさんの言う、「ソフトな予算制約」そのものです。
つまり、リスクと決定と責任が一致していないのです。リスクのある金融取引を決定しながら、その決定者は自分ではリスクをかぶらず、そのリスクがかかってくる顧客などに対して責任をとらない仕組みになっているわけです。こうなれば、どんどんと過剰にリスクの高いことに手を出していくことは、コルナイさんの理屈から言って当然のことです。
企業経営者と政治家を同列視した上で「
リーダーは勇気をもってチャレンジャーにならなくてはいけない」とする吉村氏の発言、そしてそれを賞賛する維新支持者たちは、
独自の「責任」観念を持っている点において、20世紀社会主義に対する20世紀資本主義の真の優位性を理解していないと言わざるを得ません。
正しい政治観もなければ正しい経済観もないのです。
■こんなんだから緊縮財政が続くんだろうな
「維新レベル」の発言は、しばしばヤフコメでも目にします。たとえば、「
【速報】立憲民主党が内閣不信任決議案を提出 「政権を担う資格がないことは明白」」(6/16(金) 11:42配信 TBS NEWS DIG Powered by JNN)のコメント欄では、次のような投稿がありました。
茶番劇はもう良い。何故国が良くならないか?それは、政治家が経営者ではないからだ。生活の為、従業員、つまり国民の事を考えて努力しているのは、企業の経営陣であり、国は企業に努力させて税金を吸い上げるだけ。こんな日本は本当に終わり。国だけでなく、政治家自身が他人の努力や他人のお金(税金)を当てにやり過ごす考え方を見直した方がいい
さっそくツッコミ。
>生活の為、従業員、つまり国民の事を考えて努力しているのは、企業の経営陣であり、国は企業に努力させて税金を吸い上げるだけ。
企業の経営陣は従業員の生活より会社の存続が最優先。
コメ主は働いたことあるのかな?
政治家が企業目線になったからPB黒字化財政黒字化つまり国民赤字化をやりだしたのだよ
経営者目線で政府を運営して無駄の削減、効率化などをやれば民営化や規制緩和を推進する
それが窮屈な世の中を生み出している
比喩表現なのは分かるけど、国民は主権者であるのに対して、従業員は雇用契約に基づいて労働の対価を貰う存在。決定権もなければ解雇される可能性もあるので、国民と従業員を同列に扱うのは違うと思いますね。
「
比喩表現なのは分かるけど」というツッコミがありますが、維新のイイカゲンな主張が大人気を博しているところを見ると、
どうも比喩として使っているようには思えません。
資本主義政府に対して経済全体を操作し得るかのような過大な期待を寄せるのは誤りですが、
かといって資本主義政府を資本主義企業と同じレベルの経済主体として位置づけ、同じような行動原理を期待することも大きな間違いです。こんなんだから、企業経営の出来損ないのような財務省主導の緊縮財政が続くのでしょうね。■総括
このような政党が今や野党第一党を狙うポジションに立っているわけです。
経済行為と政治行為とが混同されるばかりか、経済観までもが歪んだ主張が人気を博しているのが現代日本なのです。
経済の論理が政治を呑み込み、社会全体を侵食する現代資本主義が、ついにここまで来ています。