2023年08月28日

そごう・西武労組、ストライキ決行へ!

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC283IH0Y3A820C2000000/
そごう・西武労組、スト実施を通知 31日に池袋店で検討
小売り・外食
2023年8月28日 16:05 (2023年8月28日 17:24更新)

セブン&アイ・ホールディングスの百貨店子会社のそごう・西武の労働組合は28日、ストライキの実施を経営陣に予告通知したと発表した。セブン&アイはそごう・西武を米ファンドに売却することを決めているが、労組は売却後の雇用維持などで反発している。今後も交渉を続けるが決裂すれば、31日に西武池袋本店(東京・豊島)でストを実施する予定だ。スト回避へセブン&アイ側の対応が焦点となる。

(中略)
百貨店でのストは1962年の阪神百貨店労働組合が最後とみられ、実施されれば約60年ぶりだ。ストは消費者への影響が出るほか、社会的な企業イメージの悪化にもつながる。流通産業に詳しい法政大学の矢作敏行名誉教授は「池袋駅の乗降客が不便を被ったり、人流が変わったりするなど街に対する影響は避けられない」と指摘する。

それでも労組側がストに踏み切るのは、セブン&アイへの不信感がある。24日にはセブン&アイがそごう・西武の取締役を増員し過半数をセブン&アイ側が占めるようにするなど、早期の売却手続き完了に向けた地ならしと受け止められる動きが明らかになり労組側の反発を招いた。

(中略)
労組側は労使交渉を継続するが、決裂すれば、西武池袋本店で8月31日に実施する。対象店舗で働く組合員数は約900人。食料品や一部の衣料品など、そごう・西武が自ら運営する売り場の営業はストップする。寺岡氏は「取引先が運営する売り場は体制が整うかもしれないが、レジ業務などオペレーションの問題は出てくる。全ての機能が終日営業できるとは思わない」と述べた。
(以下略)
「不採算」部門(←カギカッコで括っているとおり、米ファンド独自の儲け基準での「不採算」という意味)が切り捨てられ当該部門労働者の雇用が失われかねない事態において、「採算」部門の労働者が連帯してストライキに打って出る――ストライキの本来的な在り方です。「不採算」部門単独のストライキでは、会社側が切り捨てたがっている部門がいくら「じゃあ働かない!」といったところで「どうぞどうぞ、部門廃止を更に早めることにします」とされるのがオチであり意味合いが薄いところ、「採算」部門を含む900名の組合員が参加する見込みのストであれば、意味のあるものになるでしょう(池袋本店単独なら悪くない)。

また、8月31日限りのストライキであることは利用客にとってはそれほど大きな影響にはならないものの、一日営業できないことは会社側にとっては決して小さくない影響をもたらします。以前より当ブログでは、かつての国労による闘争の反省から、利用者(消費者)にとっての利益と労働者の職業的矜持を両立した労組活動の展開(三方よしの方法論)が必要だと訴えてきましたが、今回は十分に配慮されているものと推察します。

それにしても「ストは消費者への影響が出るほか、社会的な企業イメージの悪化にもつながる」だの「池袋駅の乗降客が不便を被ったり、人流が変わったりするなど街に対する影響は避けられない」(日経新聞元編集委員で矢作敏行・法政大学名誉教授)などと、日経新聞は根拠薄弱でほとんど中傷と言うべきことを書き立てていますが、労使のコミュニケーション不足がこの事態に至ったと考えれば、乗降客が不便」を労働者側に一方的に押し付けるのもフェアではないでしょう。また、木曜日の一日ストがどれほど利用客の不便につながるというのでしょうか?(ぜひ統計学的に意味のある集計をしてみてほしい。絶対やらないだろうけどw) 鉄道会社の集改札ストのように「利用客への影響はほぼ皆無だが会社への打撃は甚大」という方法論が理想だとは思いますが、百貨店がそのようなストライキを展開するのは難しい(バックヤード限定スト? でもそれってストライキ終了後の、遡り在庫把握作業が大変なことになるよね・・・考えただけでも恐ろしい)ので、この程度は致し方ないように考えます。国労・動労の順法闘争のようなものであれば大問題ですが、今回のストライキ予告はそのようなものでは決してありません。

日経新聞が憧憬してやまないアメリカでは、ホワイトカラーもブルーカラーも雇われ人たちはごく普通にストライキしています。日経新聞は日本経済について何かといえば「ガラパゴス」呼ばわりしますが、百貨店業界でのストライキが60年ぶりだなんて日本の労働市場の「ガラパゴス化」は世界的に見ても異常なことではないでしょうか?

「労働者『ごとき』が会社様に反旗を翻すだなんて思い上がりも甚だしい」と言いたいのかと勘ぐってしまいます。

「これを機に転職しなよ!」? たしかに百貨店業界の先行きは決して明るくはないので、そういう「一抜け」の方法もあり得るのかも知れません。しかし、人それぞれの事情があり、仮に転職準備をするにしてもそれぞれのタイミングがあります。今般労組が掲げているのが「部門閉鎖反対」ではなく「雇用維持」である点に注目する必要があります。「転職」論者は抽象論としては否定し難いのですが、具体論としては現実味が乏しいところに荒唐無稽さがあるんですよね。

私はこのストライキが成功することを階級的連帯意識から強く願うものです。しかしながら、労組の求めを米ファンドが受け入れたとして、彼らがその儲け主義の本性を改心するはずがなく、巻き返しを虎視眈々と狙っているものと思われることについて警鐘を鳴らしておきたいと思います。以前から述べてきたように、労働者が、要求実現型労組運動による成果物・獲得物を自己のライププランの不可分な一部分とすることは、会社との結びつきを不可分にすることとイコールです。本来、労働者は勤め先の会社に対して自主的であらねばならぬところ、要求実現型労組運動を展開すればするほど成功すればするほど会社との結びつきが強まるのです。

ここにおいてこそ、生産の自主管理化・経営の協同化、少なくとも会社経営に対して労働者階級が食い込むことの必要性が出てきます。当ブログでは、利用者(消費者)にとっての利益と労働者の職業的矜持を両立する労組活動を生産の自主管理化・経営の協同化を展望に収める労組活動に結び付ける必要性について繰り返し申してきました。

会社は不当労働行為に当たるストライキ妨害は許されませんが、ストライキに伴って提示される労働者の要求に応じる義務はありません。正当なストライキの要求を拒否することもまた正当です。会社が労働者の要求を呑んだとしても、それは「ここは折れておいた方が後々、利益につながるだろうな」という打算的な判断によるものに過ぎません。これに対して経営に食い込んだ者の利益に対して会社は応じる義務があります。会社は、社会的役割を果たす必要があるとはいえ、まずは所有者のものだからです。それゆえ、労働者自身が会社経営に食い込むことで、そもそもの会社経営の方向性を転換させるべきなのです。

幸いにして昨今はSGDsなるスローガンがあります。もちろん、SGDsはブルジョアたちが「やっている感」を出すためのパフォーマンスに過ぎず、こんなものに本気で期待するわけにはいきませんが、しかし、ここで提唱されているお題目はいずれも一概には否定しがたいものばかりです。これらのお題目を上手く利用する強かさを持って生産の自主管理化・経営の協同化、少なくとも会社経営に対して労働者階級が食い込む労働運動に結び付けてゆく必要があると考えます。

関連記事:9月4日づけ「一転してストを好意的に報じる「日経地上波版」の魂胆:ますます気が抜けない時代になってきた
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2023年08月24日

失敗は成功の母(2)

https://news.yahoo.co.jp/articles/ba0b62d7335dfea016df6ef074f72dabfcbc56b9
松野官房長官、ミサイル発射の北朝鮮に「最も強い言葉で非難」
8/24(木) 7:25配信
毎日新聞

 松野博一官房長官は24日、北朝鮮が弾道ミサイル技術を利用した発射をしたことを受けた2回目の臨時の記者会見で「北朝鮮が行った日本列島の上空を通過する形での発射は航空機や船舶はもとより、地域の住民の安全確保の観点からも極めて問題のある行為だ」と述べ、北京の大使館ルートを通じて「厳重に抗議、最も強い言葉で非難した」と明らかにした。

(以下略)
松野官房長官は「北朝鮮による弾道ミサイルの可能性があるものの発射」としている([1] [2])のに対して、「ミサイル発射の北朝鮮」と見出しを打つ毎日新聞。こうして徐々に摩り替えられ書き換えられていくのでしょう

「最も強い言葉で非難」した日本政府ですが、与党・自民党の関係会合は下記のとおりだったそうで。
https://news.yahoo.co.jp/articles/287fc006b72cc9269f6653482a48a945746e1761
「緊張感を」と呼びかけも空席目立ち… 自民の北ミサイル会合「政府職員に申し訳ない」
8/24(木) 16:11配信
産経新聞

自民党は24日、北朝鮮による衛星発射事案を受け、党「北朝鮮核実験・ミサイル問題対策本部」などの合同会合を党本部で開いた。江渡聡徳本部長は「繰り返されるミサイル発射に決して慣れてはいけない。最大限の緊張感をもって対応しなければならない」と強調したが、集まった議員は少なく、会場には空席が目立った。

(中略)
一方、40席以上ある議員席に会合開始時から着席していたのは、丸川珠代元五輪相と熊田裕通元防衛政務官の2人だけだった。長島昭久元防衛副大臣や大塚拓元財務副大臣ら数人が遅れて入室したが、空席は最後まで目立った。

出席者の一人は「急な呼びかけだったので仕方ないと思うが、多忙な中で説明しにきてくれた政府職員には申し訳ない」と述べた。
誰かが言っていたと思いますが、パリで開催したならもっと人が集まったでしょうにw

https://news.yahoo.co.jp/articles/350e95305570017e19aae321df9211ad95d03bed
北朝鮮「軍事偵察衛星」の発射失敗公表は技術進展を誇示か 防衛大・倉田秀也教授
8/24(木) 18:14配信
産経新聞

北朝鮮が24日、5月に続き2回目となる軍事偵察衛星の打ち上げを行い、失敗したと発表した。安全保障や朝鮮半島情勢を研究している防衛大の倉田秀也教授は産経新聞の取材に、技術的進展があった可能性を指摘した。

本質的な技術は「問題なし」

北朝鮮が軍事偵察衛星の発射2時間後という早期に打ち上げ失敗を公表したのは、技術的に進展があったことを誇示する意図だろう。発表が事実ならば、事故防止や機密保持のための自爆装置を指すとみられる「非常爆発システム」の異常で意図しない爆発が起きたものの、5月末のエンジン異常による発射失敗のような重大な欠陥ではなく、発射や分離という本質的な技術に問題はないということだ。

(以下略)
普段は馬鹿みたいな記事を量産しているサンケイ新聞ですが、思いがけないタイミングで冷静な記事を上梓しているものです。

私も今回の打ち上げ失敗報道を最初に見たとき、「あっ、失敗したとはいえ前より前進している」と思ったものでした。前回5月末の打ち上げは、2段目のエンジンが推進力を失ったことによって墜落しましたが、今回は、2段目エンジンの切り離しまではクリアしたものの3段目の推進中に非常爆発システム(自爆装置)の意図せぬ作動によって墜落したわけです。前回失敗について、当日の記事で私は「失敗は成功の母」と言いましたが、まさにそのとおりなのです(http://rsmp.seesaa.net/article/499551134.html)。

さて、党は10月に再び打ち上げにチャレンジするといいます。10月といえば党創建記念日の月ですが、今年は正周年(共和国は、5の倍数の年周期で盛大に祝う慣例があります)ではないのでわざわざ自分からハードルを上げる必要はなく、もう一年の3分の2が終わろうとしているので「年内に」でもよかったはず。具体的な区切りを自ら設定したところに勝算があるのか注目する必要があります。
ラベル:共和国
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2023年08月21日

ウクライナでの徴兵・動員不正を主要報道番組で報じないNHKの真意とは

https://news.yahoo.co.jp/articles/f8fc86ae505e5e8ed00d6e283b202a57fce0c4d8
兵役免除で汚職続出 ゼレンスキー氏、全州の軍事委員会トップを解任
8/12(土) 17:00配信
朝日新聞デジタル

 ウクライナのゼレンスキー大統領は11日、兵士の徴兵、招集にあたるウクライナ各州の軍事委員会トップを全員解任すると明らかにした。同委員会のもとで活動する各地の徴兵事務所において、兵役免除と引き換えに賄賂を受け取るなどの汚職が相次いだための措置という。徴兵事務所の汚職は国内メディアに大きく報道され、政権は厳しい対応を迫られていた。

(中略)
 ニュースサイト「ウクライナ・プラウダ」が今年6月、南部オデーサの徴兵事務所をめぐる汚職疑惑を報道。その後の捜査当局の調べで、同事務所長は徴兵免除と引き換えに受け取った賄賂などで1億8800万フリブナ(約7億3千万円)の収入があり、昨年12月に家族がスペインで高級住宅を購入していた、などとされた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fefc62f7ee0e60a8f81b5ca5bfc908edb480c06b
ウクライナ、徴兵担当を解任 出国希望者から収賄の疑い
8/12(土) 13:28配信
BBC News

ウクライナ政府は11日、徴兵を逃れたい希望者から賄賂を受け取り、国外脱出を支援していたとして、国内各地の徴兵担当者を解任した。政府が進める汚職撲滅運動の一環。

ウォロディミル・ゼレンスキー大統領はソーシャルメディアに投稿した動画で、ウクライナ保安庁(SBU)などの捜査の結果、全国の徴兵担当者33人を112件の罪状で訴追したと明らかにした。

大統領は、訴追された徴兵担当者らは徴兵対象者から現金あるいは暗号資産を受け取り、出国の手助けをしたと発表。戦争中にこうした賄賂を受け取ることは、「国に対する重大な裏切り」だと非難した。

(中略)
ウクライナでは開戦前から、公務員の汚職問題が長年にわたりはびこってきた。欧州連合(EU)への加盟を求めているウクライナにとって、汚職対策はEUから課せられている重要な要件のひとつ。他の西側機関も、ウクライナに汚職対策を要求している。

各国の腐敗・汚職に取り組む非政府組織トランスペアレンシー・インターナショナルの2022年の汚職国家ランキングでは180カ国中116位。前年は180カ国中122位だったため、近年の対策が評価されている様子がうかがえる。

(英語記事 Ukraine fires military conscription officials for taking bribes)
ウクライナでの強引な徴兵や徴兵逃れ、そしてそれらを巡る汚職については、以前から米欧メディアは報じて来たものの、日本メディアはほとんど報じては来ませんでした。徴兵逃れに限っては昨冬、共同通信が「ウクライナで徴兵逃れ横行 「富裕層にあっせん」」(2022年12月9日 23:13)という記事を公表していましたが、あくまでも「悪徳」医師に依頼して偽の証明書を発行してもらうことによって、徴兵検査に落第して合法的に兵役を逃れるというものであり、軍当局者の腐敗・汚職問題としては描かれてはいませんでした(軍当局者は偽証明書の被害者)。そして何よりも、あまり大きく取り上げられてもいませんでした。

これに対して今回。BBCが日本語版で報じたことも影響しているのでしょうが、朝日新聞などの大手紙が報じるに至っています。本件についてキーウ政権に対し私心なく好意的な人たちは「こういう地道な汚職撲滅がロシアの侵略に対する国民の結束を高め、長い目で見たときにはNATOやEU加盟にもプラスになるので、実は朗報なのだ」という見方をしており、必ずしも悲報とは受け止めていないようです(分からないでもない考え方だとは思います)。

しかしながら、我らがNHKはそうではないようです。今般、7月下旬以降の主要ニュース番組の録画を見返したのですが、本件については報じていません。8月3日の「キャッチ! 世界のトップニュース」がロシア軍への徴兵を逃れるためにモンゴルに逃れた少数民族を特集したり、8月9日の「ニュースウオッチ9」が「ヘルソンでいま何が 記者の闘い」と称してウクライナ公共放送ヘルソン支局の記者に密着したりしているのにも関わらず。8月9日放送では「今起こっていること事実を伝えることが重要だ」として現地取材にこだわるウクライナ公共放送の記者について田中正良アナウンサーがその「記者魂」を激賞していましたが、そういうご自分たちは一体なにをなさっているのでしょうか?

NHKがウクライナ情勢報道に注力している理由について私は、あくまでも「今日のウクライナは明日の台湾・沖縄」という情勢認識の下で戦時プロパガンダの予行演習をしているだけだと考えています。当ブログではそうしたNHKの報道番組について、その編集内容のプロパガンダ性、及びそうであるがゆえの無茶な編集について継続的に取り上げてきたところです。特に昨年12月30日づけ「単なる女性自衛官募集番組(それも程度の低い)になり下がった「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「戦場の女たち」」でも取り上げたとおり、ノーベル平和賞受賞作家であるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの代表作『戦争は女の顔をしていない』の作品メッセージを捻じ曲げてまで女性自衛官募集番組を仕立て上げたことに非常に顕著に現れています。同番組では、アレクシエーヴィチが作品中で重要テーマとして取り上げていた「戦場での女性兵士への男性兵士たちの軽視軽蔑・復員後の女性兵士たちへの同じ女性からの迫害」には一切触れずじまいでした。

挙国一致で侵略者と戦っている(ことになっている)ウクライナで、徴兵を巡る汚職が大規模に横行しているという報道は、「『明日の台湾・沖縄』でも同じことが起こるのでは・・・?」という日本国民の不安・懸念を呼び起こすにはあまりにも十分すぎるニュースです。「臭いものに蓋をしたい」という意識が働いてNHKは主要番組でこのニュースを取り上げていないものと私は推測します。

ウクライナにおける地道な汚職撲滅は将来的な同国のNATO・EU加盟にとってプラスになると思しきところ、そのことを報じようとしないNHK。本心ではウクライナなんてどうでもいいと思っており、ロシアのウクライナ侵攻はあくまでも「明日の台湾・沖縄」という戦時意識を醸成するためのネタでしかないのでしょう。NHKがウクライナ情勢報道に注力している理由が改めて示されたと言えるでしょう。

もう一歩踏み込んで申しておきたいと思います。

台湾・沖縄有事が現実になったときには、おそらく日本でも軍事動員不正が生じるものと思われます。森友・加計問題を見るに、蓄財目的でなく「お友達」への便宜供与としての不正であれば、ほぼ間違いなく発生するものと考えます。そしてそれは、「忖度」という最悪の形態で生じることでしょう。

私は、今般のウクライナでの徴兵不正・腐敗について、最高指導者:ゼレンスキー大統領が自ら成敗したという実例を広報することは、「明日の台湾・沖縄」においても有用であると考えます。汚職という事実が報じられることで一時的に国民の不安感・不平感等を惹起するでしょうが、しかし、最高指導者の断固たる姿勢を広報することで「日本で同じような汚職が起こってもウクライナのように摘発されるに違いない」という安心感・信頼感を与えることになるものと予測します。

しかし、そうはしないNHK。NHKは、日本はウクライナよりも酷い腐敗国家と認識している、あるいは、日本にはゼレンスキー大統領領のような不正浄化人士は存在しないと見做しているのでしょう。日本において徴兵汚職が起こったら糾される見込みはない、だから最初から触れないでおこうという話なのでしょう
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2023年08月19日

「経営者の倫理・道徳のレベル」に原因を求めたり「資本主義企業の必然論だ」などと切り捨てたりしてはならない

https://news.yahoo.co.jp/articles/cff415702bbcd4c6f0a9b3d42adb4b50c0daa674
ビッグモーターが「鬼滅の刃の鬼舞辻無惨」に成り果てた当然の理由、“稲盛経営”導入もなぜ?
8/14(月) 5:21配信
ダイヤモンド・オンライン

 ビッグモーターの経営計画書に記された「幹部には目標達成に必要な部下の生殺与奪権を与える」という過激な文言が話題を集めた。人気マンガ「鬼滅の刃」に登場する最強の鬼、鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)の冷酷さを多くの人に想起させたからだ。そのビッグモーターは、実は「経営の神様」と称された稲盛和夫氏の経営哲学を取り入れていた節がある。それなのに“鬼”と成り果ててしまった理由をひもとくと、「稲盛経営」の神髄が見えてくる。(イトモス研究所所長 小倉健一)

(中略)
 そんなビッグモーターだが、実は「経営の神様」と称された稲盛和夫氏の経営哲学を取り入れていた節がある。それなのに、なぜ不正が頻発する会社に成り果ててしまったのか。その理由をひも解くと、「稲盛経営」の神髄が見えてくる。一緒に見ていこう。
(中略)
● ビッグモーター「経営の原点12カ条」は 稲盛和夫氏の「経営12カ条」のコピー

 今回、ビッグモーターの経営計画書の報道されている部分のみを読んだのだが、非常に気になったのは、「経営の原点12カ条」である。こちらの項目は完全に「経営の神様」と称された稲盛和夫氏の「経営12カ条」と内容が一致している。

(中略)
 いったいなぜ、同じ経営哲学を掲げながら、こんなモンスターのような会社が生まれてしまったのだろうか。

 これは、生前の稲盛氏が繰り返し、繰り返し述べ、著書にもひたすら同じことを何度も強調していた点がヒントとなる。それは、リーダーに強く求められ、そしてまた働く全ての商売人(ビジネスパーソン)にも求めていた「高い倫理観」である。

 稲盛氏は、道徳の教科書かといわんばかりに、著書の中で「人間としてあるべき姿」を説き続けていたのだ。これが、先の悪用企業とビッグモーターにはなくて、京セラにあるものだろう。

 ここからは私の解説だが、アメーバ経営は全てを数字で管理し、また一部門にも独立採算を求める、なれ合いを許さない、厳しい経営スタイルだ。悪用企業がそうであったように、社員一人一人に倫理観や協調性を求めず、成果だけを求め続けると、「社内で売上高を奪い合う意識が強く、他部署からの援助は危険視される」ようになっていくなどということが組織内で横行してしまうのだ。

 だから、京セラでは「コンパ」と呼ばれる就業後の社内飲み会を推奨するなど、部門間、社員間の交流を進める文化があるのである。利益を出さねばならないのだが、その土台には高い倫理観があっての稲盛経営である。稲盛経営が、「フィロソフィ(道徳心を強調)」と「アメーバ経営(徹底した数字管理)」の両輪で成り立つといわれているのは、このためなのである。

 それが分からずして、数字だけを現場に求め、成果の出た社員には高い報酬を支払う一方で、ダメな社員はとことん追い詰めるというのは、稲盛経営でも何でもないのだ。

 この事象は本当によくあることで、「稲盛経営=もうかる」とだけ考えて安易に導入しようとした企業は、いつしか破綻を迎える。現場の数値を完全に見える化し、経営が現在の状況を瞬時に把握できるというのは強力な武器である。一方、それと同時に、その数字管理のしやすさが社内のモラル低下を招くのだ。

 稲盛氏が、決して鬼舞辻無惨ではないこと、そして稲盛経営を取り入れたことが鬼舞辻無惨を生み出したわけではないことが分かっていただけただろうか。
■倫理(道徳)で不正が抑止されるのならば法など不要
「稲盛経営と兼重経営の違いは『高い倫理観』だ!」とは、ビックリするくらい無内容であると言わざるを得ません。倫理(道徳)で不正が抑止されるのならば法など必要ないでしょう。

かつて日本共産党が「ソ連は、スターリン以降の指導者によって酷く歪められ、本来のレーニン主義とは無縁の人権抑圧国家に成り下がった」などという苦しい弁明をしたのに対して「最高指導者の胸三寸で天国にも地獄にもなり得るだなんて、そもそも共産主義は制度として欠陥設計だろう」という鋭い批判が展開されたものですが、それとまったく同じだと言わざるを得ません。典型的な苦しい言い訳です。近頃は日本共産党もレーニンを再検討しているくらいです。

筆者の小倉氏は「部門間、社員間の交流を進める文化がある」ともいいますが、それで涵養されるのは身内主義意識いま、ビッグモーターの不正だと指摘されていることは、ゴルフボールの件にしても除草剤の件にしても、ほとんどが外部に対する加害事案です。むしろ同社は、高給取り社員の件にしても損保ジャパンとの「共犯」疑惑の件にしても、社長と会社の方針に忠実な関係者には「不正利益共同体」の仲間として割の良い分配を執行しています。ビッグモーター問題の文脈で「部門間、社員間の交流を進める文化」を持ち出すのは、この問題の本質を見誤っていると言わざるを得ないでしょう。

なお、マルクス経済学者の松尾匡・立命館大学教授は、資本主義に反対する運動が身内共同体主義的に展開されると最悪の人権抑圧が現れると警鐘を鳴らしています(『マルクス経済学 (図解雑学シリーズ)』、ナツメ社、2010年)。

こういう「倫理」頼みの経営論というものは、ビッグモーター問題に限らず普段から決して珍しいものではありません個人の心構えを云々する方が科学的・組織論的な見地に立つよりも遥かに容易だからなのでしょう

■「資本主義企業として必然」は主語が大きすぎて反証提出が容易
倫理・道徳論の真逆というべき言説も見られます。「資本主義企業として必然」論です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/75eb1b133c791b262c22d197f685244a76285b4a
若者はあえて「ブラック企業」で働いてみるべき訳 「ビッグモーター」の不祥事を「資本論」で考える
8/8(火) 7:02配信
東洋経済オンライン

(中略)
 保険金の不正請求に加え、除草剤を用いた店舗前街路樹の破壊の疑惑も濃厚になってきています。ワンマン社長の支配の下、社員は無理なノルマを強要され、違法な命令も受けていたと見られますから、ビッグモーターは典型的なブラック企業であると言えるでしょう。
(中略)
 だから、ビッグモーターの件も、せいぜい五十歩百歩にしか見えないのです。不正行為を社会的にもみ消すことができるほど大きな権力を持つ企業と、それほどの力を持たない企業があるだけだ、と考えるべきではないでしょうか。してみれば、企業の不祥事とは例外的な嘆かわしい現象なのではなく、資本主義的に運営される企業とは、本質的に倫理的ではあり得ない存在なのであって、繰り返される不祥事は必然的な現象なのではないでしょうか。
(中略)
 なぜこうなってしまうのか。それをカール・マルクスは、疾うの昔に見抜いていました。難解をもって知られる『資本論』ですが、実は生産の現場に関するかなり具体的な記述を豊富に含んでいます。「労働日」の章は、当時のイギリスの労働者がいかに過酷な搾取を受けているかを詳しく描き出していますが、それに加えて企業がいかに不正な製造を行っているのかを描き出しています。当時のパン製造業者は、原料を節約するためにパンのなかに混ぜ物を入れていた。その中身はなんと、明礬(みょうばん)や砂、さらには「腫物の膿や蜘蛛の巣や油虫の死骸や腐ったドイツ酵母」(『資本論』岩波文庫、第二分冊、124頁)だったというのです。

 このスキャンダルは当時のイギリス議会でも取り上げられ大いに問題視されたようですが、20世紀に入っても、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトが、ハム工場の状況を告発したルポルタージュを読みながら朝食を摂っていたところ、口にしていたハムを思わず吐き出して、食肉加工工場の衛生状態に対する規制の強化を即決した、というエピソードがあるくらいですから、資本主義的に運営される食品工場が、法による監視と規制を逃れればどんなものになりがちなのか、明らかではないでしょうか。

(中略)
そうなる理由は、マルクスの「資本」の概念から容易に理解できます。資本とは際限のない価値増殖運動にほかなりません。価値増殖すること以外に、資本には何の目的も関心もありません。ゆえに資本は、人間の幸福やあるべき道徳に対して完全に無関心です。私は、資本のこの性格を「資本の他者性」と名づけました(『マルクス 生を呑み込む資本主義』講談社現代新書、2023年)。だから、「ブラック企業」という言葉はおそらく不適切なのです。企業は利潤の最大化、すなわち価値増殖を至上の目的としている限り、そもそも「ブラック」に決まっているのです。

 それでも、こうした企業の反社会的性格を抑制するために、経営者たちはさまざまに企業倫理を考え出してきました。それは、利潤の追求だけでなく、社会貢献や労働者の雇用を守るといった目標を追求しなければならないという考え方でした。しかし、この30年余り、新自由主義化が進むなかで、「株主主権」とか「ストックホルダー資本主義」といった概念が強調され、受け入れられるようになりました。

 株主=資本家ですから、要するにこれは、企業のサイコパス的・反社会的性格を全面開花させよ、というそれ自体きわめて反社会的な主張です。この主張によれば、企業はブラックであればあるほど、ただひたすらに価値増殖を追求しているので、「正しい」ということになります。

(以下略)
白井聡・京都精華大学准教授の主張。「資本主義的に運営される企業とは、本質的に倫理的ではあり得ない存在なのであって、繰り返される不祥事は必然的な現象」というのは首肯できるものですが、ビッグモーターのような不正まみれの会社を説明するときに『資本論』を持ち出すのは、読者に誤解をもたらし、上掲:小倉健一・イトモス研究所所長の「倫理」論に結局は行きつく恐れがあるように思われます。

一口に資本主義企業といっても、ビッグモーターのような不正企業ばかりではありません。ビッグモーターはたまたま露見してしまった「氷山の一角」かも知れませんが、しかし、資本主義制度が社会経済制度として曲がりなりにも運営されている点を鑑みるに、こんな企業ばかりではないことが推察されます。巷にあふれかえっている「道徳心の高いニッポン人」論を踏まえるに、「たしかに資本主義的企業は本質的に倫理的ではあり得ないのかもしれないが、多くの資本家・企業家は高い倫理心を持って経営にあたっているのだ」という「倫理」論的な結論に至りかねないと考えます。

そもそも、ビッグモーター問題を「資本主義企業の必然」と言い切ってしまうのは主語が大き過ぎ、反証を探すのがあまりにも容易です。それゆえ、これも倫理・道徳論並みにお手軽であり粗雑極まると言わざるを得ません。「倫理」論は上述のとおり論外的に誤りですが、「必然」とまで言い切ってしまうと反証が多すぎるが故にこれもまた正しくないと言わざるを得ないでしょう。

■『資本論』を持ち出すまでもない
ちなみに、『資本論』の要点は「搾取は、資本家の不正や誤魔化し(不等価交換)によって起こるものではなく、労働力と賃金との等価交換の下で行われるものである」というところにあります。

一般にブラック企業といえば、賃金(残業代)不払いなどが何よりも最初に思い起こされるものですが、等価交換が鉄則である市場経済において、労働者が労働力を提供しているのに資本家・企業家が賃金を支払わないというのは、不等価交換であり不正以外の何物でもありません。『資本論』の主題はそんなところにはありません。それゆえ、ブラック企業問題を『資本論』で説明するのは、同書の趣旨からいって少しズレていると言わざるを得ません。

「激しい競争が不正の動機になっている」くらいならば『資本論』を持ち出すまでもありません。

■いちばん嫌われるタイプの「知識」人の「伝統」を引き継ぐ白井氏
それよりも驚いたのは次のくだり。「レーニン研究者」としてはあまりにも予想どおりの言い分だったという意味で。
■ブラック企業「潜入取材」のすすめ

 いよいよ凄まじい世の中になりました。だからあえて言いたい。若者は、ブラック企業で働くべきだと。無論、これはブラック企業でも頑張って働いて根性を鍛えるべきだとか、何とか内部で改革を試みて企業体質を変えるべきだ、などと言いたいのではありません。そんなことを志すと身体か心、あるいはその両方が壊れます。

 あくまで、いつでも辞められる身分で、文化人類学者のように観察するつもりでブラック企業に身を置いてみれば、資本主義の何たるかを最も明瞭に理解できるはずです。いくら理不尽な目に遭おうが、「いつでも辞められる」ならば、何も怖くはありません。ハラスメントや法令違反の命令については、しっかり証拠を残すために、仕事中は常時録音機を作動させておくとよいでしょう。

(中略)
 もちろん「あえてブラック企業で働く」を実行するには、「いつでも辞める」ことができる余裕がなければならないでしょう。ですが、余裕のある者が先頭に立って正確な社会認識を持つこと、これが世の中を変えるためのはじめの一歩を刻むことになるのです。
私も社会主義・共産主義的な変革を目指す立場に立ってはいますが、それはあくまでも今を生きる人間がその自主性を全面的に開花させるための有力な手段として社会主義・共産主義を信奉しているのであって、いくら「世の中を変えるためのはじめの一歩を刻む」ためとはいえ「あえてブラック企業で働く」などという荒療治はとても推奨する気にはなれません

経営コラムニストの横山信弘氏がオーサーコメントとして次のように指摘していますが、完全に賛同します。
就職した企業が結果的にブラックだったら「結果論」として、そのように諦めてもよいと思います。しかしながら「あえて」ブラック企業に就職するのは、絶対におススメしません。本物のブラック企業の怖さを理解すべきです。

いろいろな企業を渡り歩き、組織を客観的に見られる洞察力がある人か。もしくは、よほどの変わり者で、絶対に長い物には巻かれない(集団同調性バイアスにかからない)人か。どちらかならいいですが。

一般的な若者なら洗脳され、後遺症が残ります。退職したあとも、ブラックな職場で捻じ曲げられた思考プログラムを修正するのに、相応な時間がかかります。

ちょっとぐらい厳しい会社を「ブラック企業」と定義しているならともかく、本物の「ブラック企業」に素人が近づくべきではありません。
白井聡氏自身、本物のブラック企業の怖さをご存じないのでしょう(労働者としての経験・体験があるのかも疑わしい)。「革命のためなら幾許かの犠牲は厭わない。ただし自分自身は犠牲になるつもりはないので、絶対安全なところから他人をけしかけて危険なことに従事させる」――いちばん嫌われるタイプの「知識」人の「伝統」を21世紀が始まって20年以上たつのに白井氏は実践しています。共和国のように「知識人の労働者階級化」が十分に行われてこなかった日本では、かねてよりこのような知識人は決して珍しくはありませんでしたが、徐々に鬼籍に入りつつありました。ようやく困った「知識」人が減ってきたと思っていた矢先の白井発言。受け継がなくていいものを・・・

■「きっかけ」や「はじめの一歩」といった入口論ばかり
ところで、「これが世の中を変えるためのはじめの一歩を刻むことになる」という白井発言をはじめとして最近、こういう「きっかけ」だとか「はじめの一歩」というくだりをよく目にするように思います。典型的なのは環境保護分野でしょうか。いまだにレジ袋有料化について「環境問題について考えるきっかけになる」とされています。

最近の「世の中を変える」談義は、「きっかけ」や「はじめの一歩」ばかりが横行し、一体いつになったら変革が始まり人類史の本史が始まるのかまったくといって良いほど展望が描かれていないのです。特に私は、主体的社会主義者として社会変革・社会革命のためには革命勢力の党的組織化が不可欠だと考えていますが、誰も彼も入口論としての個人意識覚醒の話ばかりで、具体的な組織化についてまったくといって良いほど言及がないのです。

おそらく変革の展望がなく語り得ず、「きっかけ」や「はじめの一歩」といった入口論しか提唱できないのでしょう。ビッグモーター問題からは様々な現代日本社会の実情が見えてきますが、社会変革論においても多くの事実を炙り出しているように見受けられます

■組織論的な見地から考える
倫理・道徳論ではなく必然論でもない中庸の見方として下記の記事に私は注目しました。組織論的な見地からビッグモーター問題を考えるものです。観点が正しいだけでなく、内容において最も具体的である一点を取っても、小倉倫理論や白井必然論よりも遥かに有用だと言えます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6b73df51f5070f07cb41213173da3df11368226a
ビッグモーター不正が示した「内部通報」の威力、企業の報復を防ぐため通報者の保護強化を
8/16(水) 5:41配信
東洋経済オンライン

 社会を揺るがしているビッグモーターでは、辞任した兼重宏行前社長と息子で前副社長の宏一氏の異常な経営の実態が次々と明るみに出ています。

 同社は、売上高約5800億円(2022年9月期/帝国データバンクの調査による推定値)という大企業でありながら、非上場です。一連の事件は、非上場企業のオーナー社長のコーポレートガバナンス(以下、ガバナンス)という問題を提起しています。

(中略)
 しかし、サラリーマン経営者であれ、オーナー経営者であれ、経営者がひどい経営をしたら従業員・顧客・取引先・地域社会などさまざまな利害関係者に悪影響が及びます。近年、株主だけでなく、広く利害関係者を意識したガバナンスが求められるようになっています。
(中略)
■内部通報制度の改善を
 ガバナンスの「伝家の宝刀」とされる社外取締役が役に立たないとすれば、もはや処置なしでしょうか。そうとは限りません。従業員の内部通報が、ガバナンスに大きく貢献すると期待されます。

 ビッグモーターの保険金不正請求では、2021年秋に従業員から損害保険の業界団体に内部通報がありました。近年問題になっている他の不祥事も、多くが内部通報によって発覚しています。

 当然ながら、経営者の問題を正すには、社内の情報が必要です。社内の情報を持たない社外取締役よりも、社内事情を精通した従業員のほうが、はるかにガバナンスに有効な役割を果たせるはずです。

 ただし、内部通報にも課題があります。大半の非上場企業では、内部通報の社内体制が整備されていませんし、経営者が不都合な内部通報をもみ消そうとします。“裏切り”をした告発者を探し出し、閑職に追いやるといった報復行為が横行しています。

(中略)
■アメリカでは罰金の一部を通報者に還元

 アメリカでは、不祥事などで企業に課せられた罰金の10〜30%を通報者(ホイッスルブロワー)に報奨金として支払う制度があるなど、内部通報を奨励しています。わが国でそこまでやるべきかは議論が分かれるところですが、企業の告発者探しへの厳罰化などを含めて一層の改革が必要であることは間違いないでしょう。

 今回の一連の事件は、ビッグモーターというブラック企業で起こった特殊な出来事でしょうか。そうではなく、非上場企業ならどこでも起こりうることです。筆者が知る範囲でも、「小さなビッグモーター」「少しマイルドなビッグモーター」がたくさんあります。

 ガバナンスというと「堅苦しい」、内部通報というと「密告の横行で組織風土が荒む」といった経営者の反発があります。しかし、適正なガバナンスによって経営者が襟を正して良い経営をすれば、企業が発展し、最終的に経営者にとってプラスになるはずです。

 今回のビッグモーターの事件をきっかけに、非上場企業のガバナンスという問題に政府も経済界もしっかり取り組み、日本企業が健全に発展することを期待しましょう。
「高い倫理」頼みという他ない小倉健一・イトモス研究所所長の言説に比べれば天と地との差ほど違いがある主張です。僭越かも知れませんがハッキリと申せば、マトモな検討・議論の対象になり得るのは、このレベルからでしょう。

8月6日づけ「現代日本を象徴しているビッグモーター問題」で私は「不正利得共同体を糺すには身内エゴを乗り越える党や国家の統一的指導が欠かせない」と書きましたが、少し補足しておきますと、ここでいう党や国家の統一的指導というものは、当局による巡視、つまり企業の外部から定期的に監視や指導することに留まるものではなく、当局者が自ら分け入って日常的に企業活動の動向を監視することを指しています。共和国では(中国でもそうですが)、各職場に党組織があり党的指導が組織化されています。それを念頭に置いたものです。

もちろん、現代日本において党や国家の統一的指導を直ちに導入する展望はありません。当局者を落下傘部隊的に各企業に送り込んでも実効的ではないでしょう。むしろ、天下りの役人の例を見るに「取り込まれる」という展望が見えてきます。唯一現実的なのが、内部通報制度であるといえます。

■過剰な期待を掛けることもできない
とはいえ、企業内での労働組合活動はおろか未払い賃金の適正支払いを求めること、つまり「私が働いた分の給料をキチンと払え」ということさえも憚られる現実の日本企業の組織・風土において、自分事とは直接関係のない内部通報制度に過剰な期待を掛けることもできないでしょう。

「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げてきた当ブログですが、労働基準監督署の役割について以前、「労基署は警察です。犯罪は「パトロール」だけでは摘発し切れません。「被害者の被害届提出」や「地域住民の協力」が不可欠です」と述べました(チュチェ105・2016年10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度;言いたいことは分かるが洗練されていない」)。

内部通報制度に過剰な期待を掛けられないとなると、外部からの不正へのメス入れにもあまり期待を掛けられないでしょう。

■総括
ガバナンス問題は一朝一夕に解決策が見つかるものではありません。「内情を知悉した者から如何に情報を引き出すか」というテーマをさらに深める必要があります。既に一定の成果を上げている内部通報制度の設計と運用の改善に注視する必要があります。間違っても「経営者の倫理・道徳のレベル」に原因を求めたり「資本主義企業の必然論だ」などと切り捨てたりしてはならないでしょう
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2023年08月17日

敵に対しては「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」、自分たちについては差別的特権意識によって別格扱い

https://news.yahoo.co.jp/articles/b647ed81e4a57e372f2adb6ecacc9c7850835221
ロシア南部でガソリンスタンドが爆発 子ども3人含む35人が死亡、100人以上がけが
8/15(火) 18:08配信
テレビ朝日系(ANN)

ロシア南部のガソリンスタンドが爆発し、35人が死亡、100人以上がけがをしました。

爆発は14日夜、ロシア南部ダゲスタン共和国の首都マハチカラのガソリンスタンドで起きました。

この爆発で、子ども3人を含む35人が死亡し、100人以上がけがをしました。

(以下略)
コメ欄。
戦争開始以来ウクライナでは500人も子供が死んでいます。
もし当事者ならば、我々が他国から侵略を受けて、500人の子供が殺された上でこのニュースを見たら、どう思いますかね?

(以下略)

「ロシアのウクライナ侵攻はプーチン個人の戦争であり、大多数の一般ロシア国民はソ連流のプロパガンダで騙されており、真実に気が付いている数少ない人たちはKGB譲りの弾圧で沈黙を強いられている」だったはず。にもかかわらず、今般の報道については上掲のようなコメントが目につきます。

おそらく、筋道立てて一貫的に物事を考えず、場当たり的に脊髄反射的な反応を見せているのでしょう。プーチン大統領にスポットライトが当たっている報道では「プーチンの戦争だ!」と言い、そうでない場合は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」精神を発揮して味噌も糞も一緒しているのでしょう。支離滅裂という他ありません

78年前の8月15日、日本帝国主義政府がポツダム宣言を受諾したことで自分から仕掛けた戦争で自滅するという形でアジア・太平洋戦争が終結しました。今年も「アジア・太平洋戦争での戦没者に哀悼の意を表しましょう」という名目で正午に黙祷することが呼びかけられました。

アジア・太平洋戦争において命を落としたひとり一人の人々――人を愛し、人に愛される存在――が志半ばで非業の死を遂げたことについては、人民大衆の幸福を目指す主体的な社会主義・共産主義者として私は非常に残念に思います。私はレーニン的唯物論者ではなく、ごく普通のインド・アジア的な死生観を持っているので、戦没者らの冥福を祈るものです。それゆえ、「アジア・太平洋戦争での戦没者に哀悼の意を表しましょう」という呼びかけには一定の理解があるつもりです。

しかしながら、市井の民による呼びかけとしてではなく、日本政府や自治体などによる黙祷呼びかけには違和感を覚えざるを得ません。その理由は、「もとはと言えば、こんなことになったのは誰のせいだ」という根本的な部分での責任問題を問わざるを得ないからです。帝国主義戦争としてのアジア・太平洋戦争は、支配階級のための戦争でした。階級支配の構造は現在も本質的には変化していません。帝国主義戦争の克服・廃絶のためには社会制度を大きく変革しなければならないので、旧態依然のブルジョア政権が黙祷を呼びかけることには違和感を覚えざるを得ないのです。

2022年2月24日にウクライナ侵攻の火蓋を切ったのはロシアでしたが、1941年12月8日にアジア・太平洋戦争の火蓋を切ったのは日本帝国でした。ロシアのウクライナ侵攻の背景にミンスク合意履行云々の問題があったように、パール・ハーバー攻撃の背景にABCD包囲網や石油輸出禁止といった対日封鎖政策があったことは事実ですが、「挑発に乗って先に手を出した」のは日本であることは疑いの余地がありません

そうであれば、さすがに原爆投下による無差別殺傷などは戦争犯罪の疑いを否定できないがゆえに格別でしょうが、それ以外については、「もとはと言えば、こんなことになったのは日本の自業自得」にならざるを得ないでしょう。しかし、そのような言説はまったくといって良いほど上がって来ず、先に手を出した加害者としての責任に頬かむりしたまま「アジア・太平洋戦争での戦没者に哀悼の意を表しましょう」とするだけであるのが現代日本の現実であります。

「ロシアのガソリンスタンドでの事故によるロシア人の死傷者のことなどどうでもいい。哀悼の意を捧げる必要などない。なぜならば、もとはといえばロシアがウクライナを侵略したのが悪いのだから」という理屈が立つのならば、アジア・太平洋戦争の火蓋を自ら切り落とし、壊滅的な自滅に至った日本人の戦没者に哀悼の意を表す必要もないということになるでしょう。しかし、そういう展開にはなっていないのが現実です。

一億総中流意識が典型的であるように日本人は「自分は普通」という発想を持ちがちですが、他方で、「異質」な人たちに対しては「自分たちは特別」という差別的特権意識を持ちがちでもあります。さまざまな理由があるとはいえ「挑発に乗って先に手を出した」いう点においては、ロシアのウクライナ侵攻も日本のアジア・太平洋戦争開戦も同類であるところ、ロシアについては「もとはと言えば、こんなことになったのは誰のせいだ」を突き詰めて「ロシアのガソリンスタンドでの事故によるロシア人の死傷者のことなどどうでもいい。哀悼の意を捧げる必要などない。なぜならば、もとはといえばロシアがウクライナを侵略したのが悪いのだから」としておきながら、日本については「もとはと言えば、こんなことになったのは誰のせいだ」を突き詰めず、先に手を出した加害者としての責任に頬かむりしたまま「アジア・太平洋戦争での戦没者に哀悼の意を表しましょう」としている日本世論。差別的特権意識が見え隠れしています。

敵認定した相手に対しては「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」精神を発揮し味噌も糞も一緒しつつ、自分たちについては差別的特権意識によって別格扱いする――日本世論の一面であると言わざるを得ないと考えます。

ちなみに私は、前述のとおり、帝国主義戦争としてのアジア・太平洋戦争は、支配階級のための戦争であったと考えているので、被支配階級(小作人や労働者階級などの庶民)にその責任を帰するべきではないと考えます。また、マルクスが『資本論』の序論で述べたように、支配階級とて社会制度の被創造物であり、いかに個人として道徳的であったとしてもその行動は資本主義制度に制約されざるを得ないものです。帝国主義とはレーニンが指摘したように資本主義の最高高度な段階なので、支配階級の振る舞いもまた社会制度の制約を受けているものであり、必ずしも彼らの責任にはがり帰することはできないとも考えます。

そうであるがゆえに私は、帝国主義戦争に対する真の反省と乗り越えのためにこそ、社会主義・共産主義の道を歩まなければならないと考えます。
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2023年08月14日

共和国の農業戦線における国家統制の強化について

共和国でここ最近、農業戦線に関して報じられています。まず8月4日、最高人民会議常任委員会の常務会議は農業法を修正補充する政令を採択しました。
http://www.kcna.kp/jp/article/q/6fdb24c01994aa0921a262e0ae4483851cfd6beecb3161b69e582ab5b8ecfeda2292bcfc1d3efe6db2a5f050256db6f0.kcmsf
最高人民会議常任委員会常務会議

【平壌8月4日発朝鮮中央通信】朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会の常務会議が行われた。

会議では、朝鮮民主主義人民共和国気象水文法、海洋汚染防止法、船舶登録法、農業法、価格法の修正、補足に関する問題を審議し、当該の政令を採択した。

(中略)
農業法では、農業の指導原則、生産計画の作成と生産の手配、地力向上、生産指導と企業管理の改善、独立採算制、分組管理制、作業班優待制の実施と政治的および物質的評価に関する内容、農業生産と生産物の処理秩序に違反した場合に該当する処罰の内容が修正され、価格法には指標別に応じた価格の適用と価格表の掲示などに関する内容が補足された。
8日にはキム・ドクフン内閣総理が地方の農業部門を現地視察(現地了解)しました。
http://www.kcna.kp/jp/article/q/43d53800f368d1529a7f6f01d15c3aef.kcmsf
金徳訓内閣総理が農業部門を視察

【平壌8月8日発朝鮮中央通信】朝鮮民主主義人民共和国国務委員会副委員長である金徳訓内閣総理(朝鮮労働党政治局常務委員)が、農業部門を視察した。

金徳訓総理は、載寧郡、銀川郡、黄州郡、粛川郡、文徳郡など黄海南・北道と平安南道の複数の郡で作柄を具体的に調べ、地帯的特性と収穫期の生育条件に合わせて農作物の肥培管理をより科学技術的に行って今年の穀物生産目標を必ず達成することについて述べた。

(中略)
各級農業指導機関が地域の農業生産単位に対する統一的な掌握・指揮システムを一層整然と確立し、科学的な営農指導を深化させ、営農工程別に応じた物資と農業機械の部品を先を見通して保障しなければならないと強調した。

一方、前川削岩機工場(慈江道)を訪れて実態を調べた金徳訓総理は、協議会を開いて第8回党大会と党中央総会で示された経済発展戦略に従って工場の改修・近代化目標をより将来を見通して革新的に更新する問題、科学研究機関との連携と協同を一層強化する問題、関連単位が必要な設備と資材を円滑に保障する問題などを討議し、対策を立てた。
共和国農業法の制定については、内容は判然としませんが、分組管理制や作業班優待制の実施に関連して農業生産と生産物の処理秩序に違反した場合に該当する処罰の内容が修正され」たというくだりには注目する必要がありそうです。キム・ドクフン内閣総理の現地了解については、各級農業指導機関が地域の農業生産単位に対する統一的な掌握・指揮システムを一層整然と確立」せよという発言に注目する必要がありそうです。

共和国の農業政策について客観的かつ継続的に注目されており、私も常々勉強させていただいている『rodongshinmunwatching』様では、農業法修正補充政令について「昨年来の農業協同組合の改編などの動きを反映したものとみられ、具体的内容は判然としないものの、それが農業指導体系全般に及ぶ相当包括的な改変であることをうかがわせるもの」であり、「「生産物の処理秩序」に関する罰則規定が修正されたことからは、国家による食糧統制を強化する方向に進んでいることがうかがえる」との分析をされています(「2023年8月4日 最高人民会議常任委員会常務会議で農業法などを改定」)。また、キム・ドクフン内閣総理の現地了解について、「要するに、道の農村経理委員会及び郡の農業経営委員会が傘下の農場に対する指導を強化せよということ」であり、「北朝鮮の農場改編が、農場をいわば当局傘下の国営企業所のように位置づけ、国家機関の系列に一層強く組み込むことを目指すものであることを示しているといえよう」と分析されています(「2023年8月8日 金徳訓総理の農業部門に対する「現地了解」を報道」)。要するに、以前から農業における国家統制の流れが強まっているという見立てです。

『rodongshinmunwatching』様はかねてより、近年共和国において展開されている農業政策の改革を「市場経済的要素の導入」とする巷の見方に対して慎重な分析を展開されています。たとえば、コロナ禍前のチュチェ108(2019)年12月24日づけ「12月23日 「皆が社会主義愛国功労者たちのように闘争しよう!」(24日記)」では、協同農場単位あるいは作業班単位での増産取り組みに焦点をあてた労働新聞記事を取り上げることで「現在の北朝鮮指導部の農業政策が、運営の単位を分組更には個人へとどんどん細分化させる、すなわち協同農場の機能を実質的に空洞化させるような方向のものではないことは見て取れる」と分析されています(協同農場の中に作業班があり、その下に分組があり、さらに個々の甫田担当者がいるというのが協同農場の組織構成です)。また、コロナ禍以降の一昨年末に開催された党中央委員会第8期第4回総会について、「「甫田責任管理制」はもとより「分組管理制」などにも言及がない。ここでも、やはり集権的・集団主義的体制への復帰傾向がうかがえる」としつつ同時に「そうした傾向と符合する形で注目されるのが「農業部門に対する国家的投資を目的志向性をもって増大させる」との方針である」とも指摘されています。

たしかに国家関与が拡大される方向に進みつつあることは否定しえないことだと私も考えますが、このことが如何なる指向性を持ったものであるのかは依然として測りかねるものがあるとも考えます。依然として甫田担当責任制は否定されておらず、まだ微調整・匙加減の域であるように見受けられるからです。

ここで理解の補助線になると考えられるのが、朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』のキム・ジヨン(金志永)編集局長が自らペンを執った「〈朝鮮経済 復興のための革新 4〉世界に類のない自力自強の発展モデル」という記事です。キム編集局長は社会主義企業責任管理制について次のように指摘しています。
外部勢力の恣意的解釈
朝鮮労働党第8回大会で示された国家経済発展5カ年計画の核心テーマは、これまでと同様に自力更生・自給自足だ。5カ年計画の目的も、朝鮮経済をいかなる外的影響にも揺らぐことなく円滑に運営される正常軌道に乗せることにある。

党大会以降、朝鮮の経済革新を妨げようとする勢力は、制裁とコロナ禍、自然災害のいわゆる「3重苦」に直面する朝鮮が、「過去の失敗した政策」に回帰したと恣意的に解釈し、「対外的環境の改善」がなされて「開放」を前提とする「改革」を行わない限り、経済は好転しないと断定的に述べている。

特色ある朝鮮式社会主義の現実を無視し、資本主義の観点を一方的に適用しても、この国の未来は見通せない。

例えば、金正恩時代になって積極的に進められた「社会主義企業責任管理制」は「工場・企業所・協同団体が生産手段の社会主義的所有に基づいて実際的な経営権を担い、企業活動を主体的、創造的に行い、党と国家に対する責務を遂行し、勤労者たちが生産と管理の主人としての責任と役割を果たすようにする企業管理方法」だとされている。客観的条件よりも人間の地位と役割を重視、強調するチュチェ(主体)思想の原理を具現した社会主義企業管理方法だといえるだろう。ところが、外部の分析者、評論家は、経営活動に関する企業の自律性、裁量権の拡大を自分たちの都合に合わせて「市場経済システムの導入」と結びつけて評価し、労働党大会で経済に対する国家の統一的指導、戦略的管理を強化する問題が取り上げられると「改革」を否定するものだと勝手に批判し貶めようとしている。資本主義の論理を絶対視して復唱しているに過ぎない。社会主義に固有な原理と法則に対する観点、洞察は欠如している。

社会主義計画経済の国である朝鮮の現実において「社会主義企業責任管理制」の実効性を高めることの成否は国家経済指導機関が制度の設計と運営、指導管理をどのように行うかにかかっている。企業が経営活動を主体的、創発的に行うための条件を整えるのも国家経済指導機関の役割だ。近年、内閣では千里馬製鋼連合企業所(南浦市)をはじめとする基幹工業部門の生産単位をモデルケースとして定め「社会主義企業責任管理制」を現実に即して実施するための実証実験プロジェクトを行ってきた。この過程で培った経験を他の経済部門にも広く導入するための検討作業が党大会を機に活発に行われている。
社会主義企業責任管理制とは、「工場・企業所・協同団体が生産手段の社会主義的所有に基づいて実際的な経営権を担い、企業活動を主体的、創造的に行い、党と国家に対する責務を遂行し、勤労者たちが生産と管理の主人としての責任と役割を果たすようにする企業管理方法」であり、その実効性を高めることの成否は「国家経済指導機関が制度の設計と運営、指導管理をどのように行うかにかかっている」とするキム編集局長。つまり、生産手段の社会主義的所有の下、国家経済指導機関の指導に服することが社会主義企業責任管理制の前提であり、経営活動に関する企業の自律性・裁量権・資材交換の拡大があったからといって決して「市場経済システムの導入」などではないというわけです。

総聯機関紙編集局長の解説は本国の意向に沿って書かれているみるのが当然です。社会主義企業責任管理制の農業版が甫田責任管理制といわれているので、キム編集局長の解説を補助線とするに今般の農業戦線における一連の措置は、あくまでも現行路線からは逸脱しない微調整・匙加減であると考えます。

蓋し、ここ最近の国家関与の拡大は、農業投資を拡大し戦略的に拡大再生産を展開するためではないでしょうか。日本など西側の「専門」家たちは「農場員たちに金銭的インセンティブを与えれば農業生産は飛躍的に拡大するはずだ」と短絡的に言いますが「同志諸君、頑張ればその分収入が増えるぞ」と発破だけかけたところで、必要な投資が十分になされていない状態では生産量は拡大しないでしょう。経済学に生産関数という概念があり、通常は生産量をY、資本量をK、労働量をLとしてY=F(K,L)と表現します。労働投入ばかりでは生産は拡大しえないことが分かります(現代ニッポンでは、新自由主義的な「努力」至上主義のプロパガンダが蔓延し過ぎた結果、プロパガンダの自家中毒を起こすに至り、「努力さえすれば報われる」という観念論に転落しているのかも知れません)。

外部からの投資が望めない中で生産を正常化・拡大化させるためには、他に投資主体が存在しない以上は国家が主導する他ありません。そして、投資の結果としての産出物を拡大再生産過程に再投入するにあたっても、すでに十分に経済的に余裕があるのならば国家は介入せず各農場に決定の大部分を委ねてしまってもよいでしょうが、現状はまだそこまでには至っていないので国家の計画的かつ戦略的な役割は欠かせません農業法修正補充政令において「農業生産と生産物の処理秩序に違反した場合に該当する処罰」が盛り込まれるのも自然な展開であるように思われます。

ここ最近の国家関与の拡大は農業投資を拡大し拡大再生産するためであり、甫田責任管理制が根本的に変質しつつあるわけではないと私は考えます。農場員らにインセンティブを与えるだけでは生産は拡大せず、他に投資主体が存在しないので国家が統一的に投資を指揮するために関与を拡大させているものと考えます。国家の統一的な指導の下で各農場員たちの積極性を導き出すというのが甫田責任管理制の本質でしょう。

なお、『rodongshinmunwatching』様が以前から指摘されているように、共和国当局は「上からの押し付け」に対する生産現場の不満や反発に苦慮していることが『労働新聞』の行間から見て取ることができます。「国家の統一的な指導の枠内」とはいうものの、下からの突き上げという要素が現実として無視しえない状況があるようです。

今後、「国家の統一的な指導」が具体的にどのような水準で展開されるのかに注目が必要だと私は考えます。言い換えれば、どこまで国家介入が緩和されるのかに注目する必要があるということです。社会主義企業責任管理制や甫田責任管理制は、過去に比べれば国家介入のレベルが緩和されたものであると言えます。もし、投資に対する国家介入の度合いが過剰に緩和されると、これは資本主義と大差がなくなってしまいます。あくまでも社会主義経済の旗印を維持しつつどこまで国家介入のレベルを緩和するのかという問題は、分断国家としての朝鮮民主主義人民共和国のアイデンティティに関わってくるでしょう。

また、「生産手段の所有問題」と並んで「国家の統一的指導の存否」を社会主義経済の一つの重要な特徴としたとき、現代社会主義理論を考える上でこのことは重要な歴史的実例になるでしょう。

さらに、少々大袈裟かもしれませんがもう一点。以前にも当ブログで取り上げたことですが、経済人類学の観点から考えたとき、かつてカール・ポランニーが指摘ように、長い人類史において経済活動というものは互酬と再分配、交換が複合的に折り重なっており「社会の中に経済が組み込まれている」のが正常であるところ、19世紀以降の市場経済は交換原理のみが肥大化することで「社会が経済の付属物に成り下がっている」世界であると言えます。そして、市場経済の中でも特に資本主義経済は、本来は商品交換の対象ではない労働力と土地、貨幣をも商品化することで発足した制度であります。この点において、国家の統一的指導の体系がどの水準で行われるのかを共和国の実践から探ることは、単に現代社会主義理論の歴史的実例を得ることに留まらず、人類の経済史的な意味合いをも持つものと考えます。

ちなみに、こうなってくると「朝鮮民主主義人民共和国は単なる開発独裁に過ぎないのでは?」という疑問が出てきかねません。現にソビエト連邦など20世紀社会主義諸国を開発独裁の一種とみなす言説もあります。しかし、朝鮮式社会主義には社会政治的生命体論という核心があり、これは開発独裁とは文脈を異にしており全く無関係のものです。社会政治的生命体論については当ブログでも以前から取り上げてき、今後とも分析を深めたいと思っていますが、社会政治的生命体論の看板がある限り朝鮮民主主義人民共和国は開発独裁国家ではなく社会主義国家だと考えます。
ラベル:チュチェ思想
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2023年08月11日

古舘伊知郎氏の連帯責任・連座制反対論におけるブルジョア「自由」主義・ブルジョア「個人」主義的な発想

https://news.yahoo.co.jp/articles/dedbe30deeabe9d18f62d28110230d2b90ac5f31
古舘伊知郎 日大アメフト部活動停止受け連帯責任に私見「問題にするとえらいことに…控えちゃう時が」
8/9(水) 17:11配信
スポニチアネックス

(中略)
 長年、特にスポーツの現場で様々な議論を呼んできた連帯責任問題。古舘は「連帯責任の問題があるじゃないですか?必ず古い考え方で連帯責任、チームワークだからという問題と、個人個人の問題でしょう?という(考え方)のちょうど時代の変わり目でせめぎ合っていますよね?」と、現在の風潮を口にした。その上で「僕は連帯責任、絶対やめた方がいいと思う」と語気を強めた。

 その理由として、「真剣にやっている学生がかわいそうというのもある」。さらに「内部通報とかいろいろ告発する時に、これ出しちゃうと、通報したりいろいろ問題にすると、連帯責任でえらいことになって廃部までつながるって、控えちゃう時があるんですよ。そのためにも連帯責任はやめた方がいいとも思っている」と、さらなる隠蔽を引き起こす危険性を指摘した。
連帯責任・連座制を巡ってまず出てくる「真剣にやっている学生がかわいそう」という言説。まったくを以ってそのとおりです(連帯責任・連座制なんてない方がよいに決まっています)。連帯責任・連座制ほど不条理なものはありません。なぜならば、連帯責任・連座制は不条理であるところにこそ狙いがあるからです。

※あらかじめ断っておきますが、今回の一連の件において大麻・覚せい剤云々は刑事事件であるのに対して、アメフト部活動停止の是非は刑事事件ではありません。近代刑法は責任主義の立場を取っているので、いまさら刑事責任の追及における連帯責任・連座制の是非は議論の対象にはなりません(公職選挙法違反などは別問題)。これに対してアメフト部活動停止の是非は刑事事件ではないので、責任主義が自動的には適用されません。現在の日本社会の世論動向を鑑みるに連帯責任・連座制の是非は議論の対象になると考えます。

自分自身は何ら悪いことをしてはおらず、また、悪事が行われていることさえも知らなかったのに連座して不利益を被るのは、あまりにも不条理です。自分自身は何も悪くないのだから。しかしながら、仲間内とはいえ他人の個人的不正のせいで無実無罪の自分までもワリを食いかねないという危機意識を喚起することで、取り締まる側がなかなか足を踏み入れにくい閉鎖的な仲間集団の内部に相互監視・自浄作用が発揮されることを期待するのが連帯責任・連座制の狙いであります。

また、不正に手を染めようとしている者に「不正がばれて自分自身が不利益を被る分には『チッ、バレちまったか。運が悪かった』で済むが、何の関係もない仲間たちにも迷惑が掛かってしまうのは申し訳ない」と思わしめることによって、不正に走ることを思いとどまらせるという期待をも連帯責任・連座制は狙っていますハーシーの社会的絆理論の応用)。

連帯責任・連座制の狙いは、「既に起こってしまった不正の責任追及」というよりも、不条理極まる仕打ちを広く見せしめることで「次の不正を抑止する」というところに狙いがあると言えます。

連帯責任でえらいことになって廃部までつながるって、控えちゃう時がある」という危険性は確かに十分に考慮に入れる必要がありますが、それは「既に不正が起こってしまった」場合のこと。それ以前に「不正を起こさせない」という段階について考える必要があります。連帯責任・連座制はその段階の話です。

今回の一件において連帯責任・連座制は導入すべきかという議論については、とりあえず3つの点を考慮するする必要があるでしょう。

まず、「そもそも取り締まる必要がある話なのか」という観点です。大麻や覚せい剤といった危険薬物を厳しく取り締まる必要性については、大方の意見は一致していると思われます。「取り締まる必要」についてはあまり議論にはならないと思われます。

次に、「連帯責任・連座制は効果があるのか」という観点です。もとより不正抑止策の効果というものは、測りがたいものです。まさか統計的に有意な差を見出すために対照実験を行うわけには行きません。より新しい上乗せ対策の効果であれば、導入前と導入後の比較である程度の定量的な比較ができますが、連帯責任・連座制のような「昔ながらの方法」だと比較すべきデータがありません。より新しい上乗せ対策が上手くいかなくても、その土台となる従来の対策が効いている限り社会的悪影響は生じ得ませんが、「連帯責任・連座制を止める」というのは、ある種の「規制緩和」なので、これが失敗するとなると社会的悪影響が生じる可能性があるので、なかなか実践し難いものがあるでしょう。

なお、「連帯責任・連座制という名の制裁のプレッシャーが日大アメフト部には効かなかったから無意味」という論法は成り立ちません。それを言ったらこの社会では、諸々の制裁が予定されているにもかかわらず、それでも不正に手を染める手合いがいます。不正抑止という点から言えば、あれこれ理由をつけて手加減せずに原則どおり制裁を科すことが次の不正の芽を摘むことに繋がります。連帯責任・連座制は「次の不正抑止」においてこそ意味があります。

そして、「連帯責任・連座制の他に方法はないのか」という観点でしょう。他に方法があるのならば、敢えて不条理極まる方法で取り締まる必要はありません。連帯責任・連座制なんてない方が良いに決まっています。これについては上述のとおり、取り締まる側が足を踏み入れにくい閉鎖的仲間集団の門戸を如何にこじ開けるのか、こじ開けられないならば如何にして自浄作用を働かせるのかという技術的問題に深く関わるものでしょう。正直いって現時点で私には妙案は思いつかないところです。

繰り返しになりますが、連帯責任・連座制は不条理極まるものなので、こんなものはない方がよいに決まっています。しかしながら、果たして古舘伊知郎氏はここまで考えた上で連帯責任・連座制反対論の論陣を張っているのでしょうか? 私には彼の動機は「真剣にやっている学生がかわいそう」程度であり、その言説にあまり深みがないと見受けられる点において、その思想的背景には、人間を「社会的集団の一員」ではなく「社会との関連性が曖昧な『個人』」として見る人間観、ひとり一人を社会集団から孤立した存在として「他人は他人、自分は自分」と見なす観念、「彼我の断絶」というブルジョア「自由」主義・ブルジョア「個人」主義的な発想・思い込みがあるように思われます
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2023年08月06日

現代日本を象徴しているビッグモーター問題

https://togetter.com/li/2194764
【目撃者あらわる】住民「何やってるんだ」ビッグモーター社員「明日本部の人が来る...明日本部の人が来る...」こわい
連日報じられているビッグモーター問題。「整備工場内で事故車両を更に傷つけ、不正に保険金を割り増し請求している」という報道の段階では私は、「ノルマ至上主義の悪徳業者ならありうるな」とは思ったものの、それほど注目していませんでした。しかし、先週以来報じられている除草剤散布問題を中心とする「環境整備点検」は、些か常軌を逸しているように感じられます。上掲、7月27日夜放送の日本テレビ系『news zero』の当該部分を視聴して「これは単なる悪徳業者案件ではないな」と遅ればせながら理解したところです。

■上意下達組織の悪いところが凝縮され一気に噴出したようなビッグモーター問題
「『(この木は)お花をつけるのよ、あなたがすること(木の無断伐採)はどうなの』って。でも、(ビッグモーターの従業員の反応からは)本部の人が来ることしか頭になかったみたいな感じ(だった)」というのは、あくまでも近隣住民の証言、近隣住民が見て感じたことに留まります。しかしながら、現場従業員たちが人事権(同社の経営計画書の表現を借りれば「生殺与奪権」)を背景とする会社幹部からの強いプレッシャーに晒されていたことは既に複数の記事が報じているところであり、かなり信憑性の高い証言であると考えます。

例の『経営計画書』によると、同社では人材を「能力」と「従順さ」の軸で4種類に分類しているようですが、この中で「有能だが従順ではない」よりも「無能だが従順」の方が高評価であると位置づけられていたところにこの会社の組織指導観がよく現れています。上に逆らわない従順さが何よりも大切だというのが、和泉伸二・新社長がいう「強すぎるリーダーシップ」の正体なのです。

上意下達組織の悪いところが凝縮され一気に噴出したようなビッグモーター問題。先日の記者会見で創業者・前社長の兼重宏行氏は「知らなかった」を連呼しました。報道を見る限りは逃げ口上であると思われますが、現場が萎縮しきり実態が経営層にまで上がってきていない可能性も捨てきれません。もちろん、そういう会社組織にしたのは組織指導者としての経営層であり、その責任は経営層にあるのは言うまでもありません。もはや会社としての組織指導体系が瓦解していると言わざるを得ません。

■パワハラまがいの「強いリーダーシップ」への賞賛だけが残ってしまった橋下徹氏の兼重宏行前社長評価
もっとも、ビッグモーター流の「リーダーシップ」は、いまだに軍隊的な上下関係が一般社会であり「有能だが従順ではない」よりも「無能だが従順」が好かれる日本では決して珍しいものではありません。

たとえば、7月30日朝放送のフジテレビ系「日曜報道 THE PRIME」では、ビッグモーター問題について元大阪府知事・元大阪市長で弁護士の橋下徹氏が兼重前社長の強力なリーダーシップを事実上擁護する発言を展開しました。彼は次のとおり発言しました。
ルールは守れよという強いメッセージを出さなかったし、従業員のためにやるんだよと、我々の会社は従業員の降伏のため幸せのために、社会貢献のためにやるんだよというメッセージが抜け落ちていたところが問題であって、経営陣として強いリーダーシップというものを、この人のリーダーシップはダメだけれど、一般的に強いリーダーシップというのを全否定するというのは違う。
この人のリーダーシップはダメ」とはいうものの、具体的にどこがどうダメなのかハッキリしていません。「ルールは守れよという強いメッセージを出さなかった」とか「社会貢献のためにやるんだよというメッセージが抜け落ちていた」という点が兼重前社長の失点ポイントだというのであれば、あまりにも「人に使われる側」の発想が分かっておらず失当であり、パワー・ハラスメント(パワハラ)疑惑が濃厚な兼重前社長を事実上擁護していると言わざるを得ません

思えば橋下氏は、ひとり親方的な働き方をする弁護士稼業や組織指導者としての大阪府知事・大阪市長を歴任してきましたが、その経歴において「人に使われる」側に立った十分な経験はないものと思われます(「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があるように「体験していないから理解できない」というのは本来は大問題なんですけどね)。さすがに学生時代にはアルバイトしていたのかな? 知らんけど。

「ノルマは絶対に達成しろ、でもルールは守れ」という無茶な命令が上司から下されたとき「人に使われる」側はどのように考えるものでしょうか? 「不正がバレなければいい」という発想に至りがちなものです。ノルマは数値化されてしまい誤魔化すのが難しいのに対して、不正はわざわざ穿り返さなければ露見しないと思いがちだからです(そんなコトはないんだけどね・・・時間はかかっても不正は最終的には高い確率でバレるので、危ないことはやらない方がいいんだよね)。それゆえ、リーダーが「ルールは守れよという強いメッセージ」なるものを出したところで、強いプレッシャー(ノルマとパワハラ)に晒された社員たちが順法精神を発揮するとは考えにくいのです。

「強すぎるリーダーシップ」というものは、それを発揮している側はまったく自覚がないのでしょうが、「人に使われる」側にしてみれば強いプレッシャーになります。「強すぎるリーダーシップ」自体が諸悪の根源のひとつなのです。

兼重前社長及び橋下氏の思考と言動には「あなたはそういう意図・つもりなのかもしれないが、他人がどう受け取るかはまったく別問題」という認識が決定的に欠落しています。リーダーシップを発揮する自分の都合・自分の立場ばかりで相手方の事情がストンと抜け落ちています

斯くして橋下氏は「この人のリーダーシップはダメ」とはいうものの、問題の本質を捉えていないがゆえに、その兼重前社長批判は成立していないと言わざるを得ません。会社幹部の(自覚のない?)パワハラが部下たちを萎縮させ、そして不正の温床になったという問題の本質への理解が欠如しています。そればかりか、リーダーシップを発揮する自分の都合・自分の立場ばかりで相手方の事情がストンと抜け落ちている点において、兼重前社長と同類であると言わざるを得ないのです。

■そもそも順法精神・社会貢献意識が欠落している?
社会貢献のためにやるんだよというメッセージが抜け落ちていた」については、ついに「ビッグモーター保険不正 2006年に社長みずから会議で指示 「客にはわからんじゃろ」」(公開 : 2023.08.01 11:45  更新 : 2023.08.01 14:56)という報道まで出てきた点、そもそも順法精神だとか社会貢献意識といったものがこの会社には存在しなかったことが強く疑われる事態になっています。

ドナルド・R・クレッシー(Donald.R.Cressey)の「不正のトライアングル」によると、不正行為は、不正行為に手を染める動機の存在・不正行為を実行する機会の存在・不正行為を正当化する口実の存在の3つが揃うときに発生するといいます。厳しいノルマという「動機」や「正当化口実」があったとしても、組織的な統制が十分に取れていれば、「機会の欠如」ゆえに不正行為は現実のものにはならなかったものとも考えられます。

その点、「ルールは守れよという強いメッセージを出さなかった」とか「社会貢献のためにやるんだよというメッセージが抜け落ちていた」という橋下氏ですが、不正抑止のためにはメッセージごときではまったく不足であり具体的な行動が欠かせないところ、事がここまで大きくなっている時点でビッグモーターはそれを怠ってきたと言わざるを得ません。もとより「ルールは守れよ」などとは思っていなかったことは容易に推察できるのです。この点においても、橋下氏の兼重前社長批判は無理筋が過ぎると言わざるを得ません。

なお、東京新聞が「中古車業界の過当競争」という構図を描こうとしています(「ビッグモーターの前の街路樹だけ枯れるのはなぜ? 新社長は「環境整備で除草剤まいた」」2023年7月27日 12時00分)が、ビッグモーター問題は「競争の強制法則」によるものではなく、ただの儲け主義であると思われます。

ちなみに上掲記事は結構「思い込み」の強い記事で面白いですね。中古車業界については門外漢である樹木医の「『商売のための』環境整備だったのでは」という根拠のない推測を軸にして「商売上の理由で街路樹を枯らすほど中古車業界の競争は苛烈なのか」などと話を展開しているわけですが、既報を総合するに「常軌を逸しているレベルでピッカピカに清掃することを要求(新興企業にありがち)する会社幹部の要求に現場社員たちが疲弊しきった結果」であるようです。根拠のない樹木医の推測が文脈上の重要な要素になっているのは、エッセイならまだしも新聞記事としては驚愕せざるを得ません。記者が「こうだ!」と思った筋書きに合致する主張をプロットして作り上げられた記事であることを強く推察させるものです。

■パワハラまがいの「リーダーシップ」賞賛と「不正がバレなければいい」――ビッグモーター問題は現代日本を象徴している
さて、橋下氏といえば何といっても「日本維新の会」創設者という経歴が最初に出てきますが、いままさにその日本維新の会は、彼の後継者である馬場伸幸代表のパワハラ発言で揺れています《パワハラ音声入手》「邪魔や!」「公認は僕の権限や!」維新・馬場代表(58)が選挙直前に男性市議へ“公認パワハラ”」(8/2(水) 16:12配信 文春オンライン)。

創設者がパワハラ疑惑濃厚な社長の「リーダーシップ」を賞賛し、そんな創設者の忠実な弟子が代表を務める日本維新の会。この党がいう「リーダーシップ」とは、つまるところ「パワハラ的な組織指導」であると言わざるを得ないでしょう。そしてこんな党が今や野党第一党の座を射程範囲に収めているという事実からは、日本は国レベルでパワハラの風土があると言わざるを得ないでしょう。

先に私はビッグモーター問題は上意下達組織の悪いところが凝縮され一気に噴出したようなものだと述べましたが、もっと言えば、野党第一党の座を射程範囲に収めている政党の創設者が同社のパワハラ的企業風土を評価している点を鑑みるに、また、「不正がバレなければいい」という同社社員たちの意識を鑑みるに、ビッグモーター問題は現代日本を象徴しているとも言えそうです。

■不正利得共同体を糺すには身内エゴを乗り越える党や国家の統一的指導が欠かせない
ところで、ビッグモーターでは、厳しいノルマを達成して高給を獲得している社員が少なくないという指摘もあります(「ビッグモーター不正の裏で“三菱商事超え”の年収に驚愕…営業職で4607万円の好待遇も」7/20(木) 14:50配信 日刊ゲンダイDIGITAL、「ビッグモーター不正事件で平均年収1100万円、最高5000万円の「超高待遇」社員たちはどうなるのか?」7/29(土) 5:32配信 ダイヤモンド・オンライン)。日刊ゲンダイDIGITAL記事によると、「同社営業職の約半数は年収1000万円超えで、人によっては、昨今の好業績で社員の平均年収が増加している三菱商事(平均年収1939万円、平均年齢42.9歳)をはじめとする大手商社並みか、それを上回る高賃金」とのこと。もちろん、この高給ぶりが100パーセント不正行為によるものというわけではありません。しかしながら、「厳しいノルマと良心の板挟みにあいつつ、生活のため仕方がなく不正に手を染めた」とは言えないケースもあるのではないでしょうか。

また、本件を巡っては、損保大手の損保ジャパンが共犯関係にあるという指摘が出てきています(「損保ジャパン、ビッグモーター不正「共犯」か…事故被害者へ補償金支払い拒否の過去」2023.07.25 10:46)。共同通信の短い記事ではありますが、「損保ジャパン、外部の調査不要と働きかけ」(8/3(木) 20:20配信 共同通信)という話も出始めたそうで、ここまで話が大きくなり世論が沸騰してくるとなると、さすがの国家権力も同社には関心を寄せざるを得ないようです(「金融相、損保ジャパンを重点的に調査」8/1(火) 11:32配信 共同通信)。

7月25日づけ記事において私は、女性社員を性的暴行を働いた容疑で逮捕されたワンマン社長について、私有財産制度に基づく生産手段の私的支配が従業員の人的支配にまで拡大してしまった一例とした上で、社長以下全社員が相互牽制的な関係性に立つ制度を導入することで、誰か一人のワガママで他の社員が支配されないようにする必要があると述べ、少なくとも企業経営に労働者階級が食い込む必要性、経営に参加・参画する必要性があると述べました。企業統治における民主主義の概念の導入が必要だと述べました。

しかしながら、以前にも指摘したことでありますが、一企業内部での民主化は、外部に対しては身内エゴとして現れる危険性があります。今回のビッグモーター問題においても上述のとおり、同社を私有財産として所有・支配しそのアガリで食っている兼重親子以外にも、上手く立ち回ってちゃっかりと自己利益を確保している一般社員や外部企業が存在しているわけです。こういう一般社員や外部企業は、「不正利得共同体」の身内であるビッグモーター社の不正を敢えて告発する動機・インセンティブは乏しいというべきでしょう。そもそも、今回のビッグモーター社の不正がここまで大きな問題になったのは、「不正利得共同体」の蚊帳の外におかれた東京海上日動火災保険や三井住友海上火災保険の動きが大きかったと言えます。内部の不正を糺すには、外部の目が重要であるわけです。

この点において、身内エゴを糺して乗り越えるためにこそ個別企業所を超えた党や国家の統一的指導が自主化において必要不可欠であると考えます。7月30日朝放送のフジテレビ系「日曜報道 THE PRIME」では、「財界関係者の話」として、「監督官庁の責任追及は難しいので、最後は市場淘汰に委ねざるを得ない部分がある」という見解に言及がありましたが、自然発生的・予定調和的を待っていては一体いつ問題が是正されるのか分かったものではありません。ケインズが"In the long run, we are all dead."と述べたのは、そういう意味ではありませんが、ここにおいても正しいものです。

人間の生活の三大分野である政治・経済・思想文化の各分野における自主化・民主化を目指す主体的社会主義者である私としては、企業の協同化を推進する必要があると考えていますが、それだけでは不十分であり、「外部の目」という意味において党や国家の統一的指導が欠かせないと考えます。
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