金正恩氏の肖像画を持っている? 「パレスチナデモ」に意外な登場人物世界の反帝自主闘争において朝鮮民主主義人民共和国が占める位置を端的にあらわしている一幕であると言えるでしょう。共和国が建国以来一貫してアメリカ帝国との厳しい戦いの最前線に立ち続けてきた歴史的事実を、世界の反帝自主闘士たちはよく知っているのです。とくにパレスチナとの関係においては、共和国は一貫してパレスチナの大義を支持しており、イスラエルとは国交を持っていません。中東地域との関係においても、第四次中東戦争でアラブ側陣営に対して共和国が果たした役割は非常に大きなものがありました。
10/25(水) 9:29配信
中央日報日本語版
パレスチナ西岸地区で20日に開かれた反米デモで、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)委員長の肖像画が登場して注目を集めている。
デモ隊は同日、パレスチナのガザ地区で起きている軍事的衝突に反発し、イスラエルと米国などに反対するスローガンを叫んだ。この時、デモ隊の一部で米国と敵対的な関係にあるロシアのプーチン大統領と北朝鮮の金委員長の写真を持って米国に対抗する姿を見せた。
(中略)
北朝鮮が「反米のアイコン」として活用されたのは今回が初めてではない。8月、ニジェールでもニジェール軍部クーデターの支持者たちがフランス大使館前でデモを行って人共旗(北朝鮮の国旗)を振った。
(以下略)
さて、共和国の反米闘争は朝鮮半島からアメリカ帝国主義の影響力を排除(祖国を解放)し、社会主義による統一国家を建設するところにその目的があります。パレスチナ人のイスラエル及びその背後に控えるアメリカに対する闘争は、パレスチナを解放するところにその目的がありますが、特段、社会主義を掲げているわけではありません。パレスチナ解放人民戦線やパレスチナ解放民主戦線といったマルクス・レーニン主義を掲げる組織もありますが、決して大きな勢力を誇っているとは言えません。共和国とパレスチナは、あくまでも「反帝自主」という共通の旗印で結ばれているに留まります。
しかしながら、やはり反帝自主は社会主義・共産主義を志向する方向性をもってこそ、その目的を十分に達成することができるものと私は考えます。帝国主義とは資本主義の最高段階であると指摘したのはレーニンですが、資本主義は本質的に敵対的階級社会であります。キム・ジョンイル総書記は『社会主義は科学である』において、次のように指摘されています。
敵対的階級社会で人民大衆の自主性が実現されなかったのは、それがいずれも個人主義にもとづく社会であったからである。これに対して、生産手段を協同的に所有する社会主義・共産主義は集団主義の物質的基礎を提供します。キム・ジョンイル総書記は、「集団主義は人間本然の要求」とした上で次のように指摘されています。
個人主義は私的所有制度の産物である。私的所有とそれによって生まれる個人主義にもとづく社会は、必然的に社会を敵対する階級に分裂させ、階級的対立と社会的不平等を生みだし、人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになる。
歴史は、個人主義にもとづく社会では人民大衆の自主性が実現されえないことを示している。
人民大衆の自主性を実現するためには、個人主義にもとづく社会から集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義へ移行しなければならないというのが、人類社会発展の歴史的総括である。
人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければならない。私的所有とそれによって生まれる個人主義にもとづく社会は敵対的階級社会であり、階級的対立と社会的不平等、人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を生み出す。資本主義社会は個人主義にもとづくが、これが高度に発展すると帝国主義になる。他方、社会的・協同的所有の下、集団の自主的要求と個人の自主的要求とが調整された上で共に実現する社会は集団主義社会であり、集団主義にもとづく社会主義・共産主義社会によってのみ人間の自主的要求は実現するというわけです。
集団の自主的要求は、社会的集団の生存と発展のための社会構成員の共通の要求である。個人の自主的要求は社会的集団の平等な構成員としての要求であり、社会的集団への寄与により集団から当然、保障されるべき要求である。個人の自主的要求は、集団を無視し、すべてを個人の利益に服従させる個人主義的貪欲とは根本的に区別される。
集団の自主的要求と個人の自主的要求は、集団主義によってのみもっともりっぱに実現する。集団主義を離れた個人の要求は個人主義的貪欲にかわり、そうなれば集団の他の構成員の自主的要求を侵害し、集団の団結と協力を阻害するようになる。
集団主義のみが集団の団結と協力を強め、集団の全構成員の創造的熱意を高め、集団の自主的要求と個人の自主的要求を正しく結合し、ともに満足に実現していけるようにする。社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である。
帝国主義と闘うということは本質的には資本主義と闘うということであり、個人主義にもとづく敵対的階級社会と闘うということであり、突き詰めると私的所有(私有財産制度)と闘うということなのです。
この点に関連して、朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』は、朝鮮大学校の林裕哲・外国語学部准教授の「非同盟運動の組織化へ」という指摘を含む講演記事を報じています。
https://chosonsinbo.com/jp/2023/09/5-22/
非同盟運動の組織化へ/HOWSで朝大教員が対談民族解放闘争と社会主義運動は1950年代から70年代くらいにかけて非常に密な連携を持ってきましたが、最大の援助国であったソビエト連邦が衰退・解体の道を歩むにつれて徐々に連携が解かれてしまっていました。同時に、旧宗主国の帝国主義諸国が表向きは植民地主義的な経済的支配・収奪を控えるポーズを取ったこともあり、これらの国々では「資本主義的な国際秩序でも国づくりして行けるのではないか」という淡い期待が漂い、結果的に民族解放闘争を戦い抜いて独立を勝ち取ったアフリカなどの旧植民地社会主義国が、1990年から91年にかけて雪崩を打つように社会主義への道を放棄したのです。1990年代以降、民族解放闘争と社会主義運動の関係性は乏しい時代が続いてきました。
2023年09月05日 10:50
(中略)
反帝国主義の視座
林准教授はまず、冷戦時代を考えるうえで重要なことは、共産主義・社会主義陣営と資本主義陣営による「東西対立」に加え、南半球に位置する旧植民地諸国などの発展途上国と、北半球に位置する西欧列強を中心とした資本主義先進国の間に横たわる「南北問題」の観点を持つことだと指摘。そのうえで、現在も続く帝国主義的な世界構造、新植民地主義を克服するためには、「東」と「南」が重なる部分を拡大していかなければならない、すなわち、非同盟運動の中でも民族解放闘争や新植民地主義との闘いにおいて原則を堅持してきた社会主義諸国の経験や教訓を踏まえ、社会主義的な変革方法を模索していかなければならないと語った。
林准教授は、昨今世界の多極化に関心が集まっているが、世界の秩序や構造を変革するには「第三世界の組織化」が求められると述べ、それこそが非同盟運動が担わなければならない役割だと強調。非同盟運動の課題は、@第三世界が主導する公正な経済秩序の構築、A米国と追従勢力による干渉主義的な軍事介入を頓挫させる真の平和の構築(国際法や国連憲章の擁護など)、B帝国主義秩序を克服するうえで前提となる植民地過去清算に取り組んでいくことだと語った。また、第三世界を組織化する過程で非同盟運動の牽引役、前衛となりうるのは、現在も社会主義を堅持している国々であると付け加えた。
対談ではほかにも、「新植民地主義からの脱却」を目指す旧フランス植民地国のブルキナファソ、マリ、ニジェールにおける反仏感情の高まり、国連憲章で絶対不可侵とされている国家主権を侵害する西欧介入主義の狡猾さ、それを背後で支える国際人権NGOの正体、西側諸国による偏った情報が氾濫する中で非同盟運動主導の新世界情報秩序を構築していく必要性、非同盟運動の会合で度々中心議題として挙げられてきたパレスチナ問題、ウクライナ事態に対する朝鮮とキューバの立場など、さまざまなトピックが議論された。
(以下略)
しかし、資本は何をしたって資本であり、その本質が変わるわけがありません。警察力や軍事力による強制は金融による強制は変わっただけで、植民地主義本質的なところは何ら変わることはありませんでした。帝国主義者は、その経済的基盤が金融資本主義に移行したことを受けて植民地支配の方法を軍事的方法から金融的方法に変えただけでした。
記事でも触れられているブルキナファソやマリ、ニジェールでの最近の出来事は、帝国主義者の植民地主義本質がまったく変わっていないことを示す事態であると考えられます。むしろ、金融資本主義を基盤とする帝国主義であるがゆえに、資本のますます露骨な運動を反映してその支配の手口もますます強圧的になってきています。それゆえに以前よりも鮮明に諸悪の根源の所在が明らかになりつつあると言えるでしょう。近頃、資本主義の提灯持ちたちが盛んに"SDGs"なる御題目を唱えていますが、このことは、資本主義が金融資本主義という形で極端に純化された現状が、いよいよ無視できなくなりキャンペーンを張らざるを得ない深刻な事態を示すものであると考えます。
"SDGs"は結局のところ資本主義の枠内での小手先の対処療法に過ぎず、資本主義そのものを変革するものではありません。それはつまり、ブルジョアの「自浄作用」に期待する「博愛」主義的なキャンペーンに留まらざるを得ないものであり、いくらか状態の緩和にはなったとしても、これが根本的な解決に至るはずもありません。
敵を科学的に分析し、その上でオルタナティブ・プランを如何に磨き上げてゆくのかが重要な問題です。帝国主義と闘うということは本質的には資本主義と闘うということであり、個人主義にもとづく敵対的階級社会と闘うということであり、突き詰めると私的所有(私有財産制度)と闘うということ、集団の自主的要求と個人の自主的要求とが調整された上で共に実現する社会は集団主義社会であり、集団主義にもとづく社会主義・共産主義社会によってのみ人間の自主的要求は実現するということを基本にしつつ、必ずしも社会主義・共産主義の立場を取らない反帝自主勢力とも一点一致的な連携を契機に組織的に歩調を合わせ、彼らも受容できる社会主義志向の新社会を目指す必要があると考えます。