「2024年を振り返る」の第2弾です。
■主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をテーマとして優先的に取り上げてきた2024年
2024年も朝鮮民主主義人民共和国(共和国)では、キム・ジョンウン同志の指導下、大きく躍動しました。「地方発展20×10政策」を筆頭とする人民生活向上のための国内政策、水害対策に見られた人民的な施政、「包括的戦略パートナーシップ条約」が示す歴史的な朝ロ接近、国歌の歌詞までも改訂した北南関係の根本的転換・・・これらはいずれも共和国の十年二十年先を見通すにあたって一つとして外すことのできないテーマです。
しかし今年当ブログは、それらはそこそこに、主体的・朝鮮式共産主義の核心を探究すべく、このテーマを取り上げてきました。北南関係の根本的転換があったとはいえ、依然として共和国が共和国である最も重要な要素は、チュチェ思想を基礎として社会主義・共産主義を展望するところにあると考えるからです。社会主義・共産主義を国是・ビジョンとして掲げるからこそ人民大衆を組織化し国家的に動員することができます。キム・ジョンウン同志が最高指導者に就いてから共和国では、社会主義企業責任管理制と甫田担当責任制が導入され、従来の大安の事業体系と青山里方法は取りやめになりました。これはかなり大きな転換です。これらの新しい政策が如何なる意図により行われており、そして如何なる効果をもたらすのかを考えるには、これら具体的政策の根本にあるはずの国是・ビジョンをしっかりと把握する必要があると考えます。
また、以前から申し述べているとおり、共和国は当ブログ管理者にとって掛け替えのない存在ですが生活の本拠は日本にあるので、当ブログの主たる関心と目的は、「日本の自主化」にあります。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動は、日本の自主化を目指すにあたって指針として大いに参考になるものと考えています。かつてキム・ジョンイル同志が「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない」と仰いましたが、社会主義・共産主義運動は高度に目的意識的な運動なので、その思想的本質を正確に把握することは極めて重要なのです。
前述のとおり、今年の出来事は共和国の十年二十年先を見通すにあたって一つとして外すことのできないテーマです。本来であればすべてについて等しく取り上げるべきでしたが、残念ながら事情より満足に記事編集できない日が続いてしまいました。乏しい編集余力を何に優先的に割くべきか考えたとき、上述のとおり、具体的政策の根本にあるはずの国是・ビジョンをしっかりと把握する必要性、及び日本の自主化を目指すにあたって指針を思想的に把握することが優先的であると考えたため、主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をしてきたわけです。
■社会主義そのものの変革
2月7日づけ「共和国の経済人事と社会主義そのものの革新について」は、朝鮮労働党中央委員会総会及び最高人民会議で決定された組織問題(人事異動)を取り上げつつ共和国の経済政策の布陣について推察する記事でしたが、この中で社会主義社会について「競争の結果にかかわらず等しく分け与える悪平等の制度と見做すのは間違い」と断言する朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』のコラム≪메아리≫(1月17日づけ)を取り上げました。また、「全国の均衡的同時発展が画一化を意味しない」とする2月1日づけ同コラムも取り上げました。
当該記事でも書いたとおり、朝鮮総聯が朝鮮民主主義人民共和国と朝鮮式社会主義を支持していることは、彼ら自身がアイデンティティとして言明しているとおり一寸の疑いもないことです。そうした組織の機関紙が、おそらく本国の承認があってしたためたと思われる当該コラムは、朝鮮民主主義人民共和国政府の立場であると言ってよいでしょう。すなわち、ともに手を取りつつ競う集団主義的競争を社会主義建設の有力な推進力としつつ、分権制というと語弊があるが中央集権一辺倒とも異なる革命的大衆路線の現代的形態が展開されているわけです。朝鮮民主主義人民共和国において社会主義そのものの革新が続いていると言えるだろうと書きました。
では、このような社会主義そのものの変革は、さらに思想的に追究したとき、どのような本質に基づいているものなのでしょうか? 当ブログでは6月14日づけ記事及び7月8日づけ記事を通して考えました。
■ついに自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったキム・ジョンウン同志
6月14日づけ「元帥様が自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさった朝鮮労働党中央幹部学校の開校式」では、朝鮮労働党中央幹部学校の開校式において、マルクスとレーニンの肖像画を背景にしたキム・ジョンウン同志の現地指導の様子を写真に収めた朝鮮中央通信配信記事、及び「式は、歌「インターナショナル」の奏楽で終わった」と明記した同記事を取り上げました。
記事を成立させるためには、何もマルクス・レーニンの肖像画を写真に写り込ませる必要はなく、そもそもマルクス・レーニンの肖像画を朝鮮労働党中央幹部学校に掲示する必要も絶対的ではありません。意味があるから掲示しており、意図があるから写真に写り込ませているわけです。「インターナショナル」も絶対に演奏しなければならない曲ではありません。たしかに諸々の中央報告大会などでは「インターナショナル」が演奏されることは多々ありましたが、共産党党歌であったソ連とは異なり絶対欠かせないというほどの曲ではありません。まして、言及しなければ記事が成立しないほどのことではありません。これも意味と意図があっての演奏・記載です。
6月14日づけ記事では、キム・ジョンウン同志の肖像画がキム・イルソン同志及びキム・ジョンイル同志の肖像画と並んで掲示されるようになったことに言及しつつ「先代首領たちに元帥様が並ばれたことに今回の朝鮮労働党中央幹部学校の開校式を関連づけるとすれば、マルクスとレーニンの肖像画を党中央幹部学校の校舎に掲げたことを内外に示し開校式を「インターナショナル」の奏楽で終わらせたことは、元帥様は、マルクスやレーニンという共産主義運動におけるビッグネームの系譜に自らを位置づけつつ、自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったと言ってよいと考えます」としました。そして、「元帥様がいよいよイデオロギー解釈権を確固たるものにした」ともしました。つまり、キム・ジョンウン同志はついに自らを現代共産主義運動の指導者であると宣言なさったわけです。
■キム・ジョンウン同志の共産主義ビジョンを政論《공산주의로 가자!》から読み解く
それでは、現代共産主義運動の指導者となられたキム・ジョンウン同志はいったいどのような共産主義のビジョンとプランを提示なさっているのでしょうか? そのことについては7月8日づけ「キム・イルソン同志逝去30年と政論《공산주의로 가자!》について」で考えました。
7月8日づけ記事は、6月27日づけ朝鮮労働党機関紙『労働新聞』1面に掲載された『共産主義へ行こう! 偉大な党中央がくださったスローガンとともに、互いに助け合い導く共産主義の美風が一層高く発揮されている我が祖国の激動的な現実を抱いて』という政論に学ぶ形の記事です。
当該政論は「共産主義への第一歩は何から始まるのか」という問いを立てる形で始まります(当該政論中の具体的な記述は上掲リンクから7月8日づけ当ブログ記事をご覧ください。この年末総括記事では要点だけを振り返ることにします)。政論によると、共産主義社会とは、すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会であり、それは人間が望むことができる最高の理想社会であるといいます。それゆえ、共産主義社会を建設する上では、経済発展や物質的満足を論じる前にまず人間に注目し人間の思想意識と道徳的格式を何よりも重視しなければならないといいます。その上で政論は、共産主義における徳と情の重要性を強調しています。
これは、社会政治的生命体論の系譜に位置するキム・ジョンウン時代の朝鮮式社会主義の宣言であると言って然るべきでしょう。一般に共産主義は富の分配方法に関する一つの原則とし見なされがちですが、本来は単なる分配論に留まるものではありません。キム・ジョンウン時代の朝鮮式社会主義は、共産主義運動の正統な系譜に位置していると当ブログは考えます。
政論はまた、困難が共産主義に対する確信を深めると指摘します。ここには、「厳しい闘争を通じて自らを共産主義的に改造してゆく」という伝統的な共産主義的思想闘争の考え方が非常によく現れていると言えるでしょう。共和国では、共産主義に対する確信と、徳と情とが車輪の両輪となって相互作用しながら朝鮮式社会主義を前進させているといいます。そして政論は、人間を育てること自体を一つの革命であると見做すキム・ジョンウン同志こそが共産主義に最も早く進むことができる近道を明確にしてくださったと称えています。自己の偉業の勝利を信じて、偉大な首領に続いて共産主義の未来に向かって最後まで進もうとする絶対不変の信念がすべて人民の信条となるとき、徳と情が全社会の国風・民心の潮流になり、共産主義建設が早まることになるのです。
政論は結論部分において、共産主義は決して遥か遠くのものではなく共産主義者になれるのはごく一部の人だけではないとします。「自分自身の胸の中に社会と集団のための献身の心が宿るとき、隣人と同志に対する愛の感情が溢れるとき、毎日満開になる徳と情の大きな花園に一輪の花として咲く場所を探すとき」に「共産主義に向かって力強く進んだと堂々と誇れる」とします。その上で、「喜びと悲しみを分かち合い、祖国と人民のために献身する真の人間、立派な美風の持ち主になろう。互いに助け合って導く共産主義の美風が、我々の社会の国風としてさらに高く発揮されるようにしよう」と呼びかけ、「我々が望み我々の後世代が福楽を享受することになるこの世で一番美しくて立派な社会主義・共産主義は、夢や理想ではなく生きた現実として、我が祖国の地に輝かしく広がることだろう」と締めくくっています。
■共産主義思想の歴史における正統な系譜に位置するキム・ジョンウン同志の共産主義ビジョン・プラン
7月8日づけ記事においても書きましたが、全世界がほぼ資本主義で一色化され、共産主義は過去のものと見なされている今日です。左派と言っても社会民主主義がせいぜいのところであり、結局は修正資本主義でしかなく、よって本質的には個人主義社会以外の何者でもないものが幅を利かせている今日において、ここまで共産主義を理想社会として雄弁に語る政論は貴重なものです。
首領様逝去30年の節目の年に、名実ともに朝鮮式の社会主義建設のリーダーであり現代共産主義運動の首領になったと宣言なさったキム・ジョンウン同志は、「すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会」を共産主義社会像として掲げ、人間の思想意識と道徳的格式の問題を重視しつつ、困難を乗り越えることを通して自らを革命化することで共産主義建設を進めようとする道筋を提示なさいました。通俗的な共産主義理解すなわち経済的分配論に留まるものではなく人間どうしの関係を再構築することを共産主義運動の主たる目的として正しく据えているこのビジョンとプランは、チュチェ思想に基づく社会政治的生命体論をまっとうに継承しており、また、まさしく人類の歴史とほぼ同じくらい古い共産主義思想の歴史における正統な系譜に位置しているとも言えるものです。
■普通の人たちがつくる社会主義運動の流れ
当ブログが注目したいのは、「共産主義は決して遥か遠くのものではなく共産主義者になれるのはごく一部の人だけではない」というくだり。共産主義者というと禁欲的で無私の人間、聖人君子のような人間でなければ成ることができないという漠然としたイメージを持ちがちですが、「自分自身の胸の中に社会と集団のための献身の心が宿るとき、隣人と同志に対する愛の感情が溢れるとき、毎日満開になる徳と情の大きな花園に一輪の花として咲く場所を探すとき」に「共産主義に向かって力強く進んだと堂々と誇れる」とする政論の指摘を踏まえると、完璧な人間・立派な人間でなくとも、人間としてごく自然な道徳感情を大切にしていれば、共産主義者の端くれくらいにはなれそうな気がしてきます。
2021年7月17日づけ「「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期としてのキム・ジョンウン総書記の時代」で「キム・ジョンウン同志の時代とは、「革命家の経済」から「普通の人の経済」への移行期、「超人的な人たちがつくる社会主義」ではなく「普通の人たちがつくる社会主義」への移行期であると言える」とか「チュチェ110年の共和国は、共産主義を発展的に復活させるスタートラインについたと言えるかもしれません」などと書きましたが、今般の政論における上掲部分もまた、「普通の人たちがつくる社会主義運動」を示唆するものと考えます。
■『社会主義は科学である』から学ぶ主体的社会主義
12月31日づけ「2024年を振り返る」第1弾としての「2024年を振り返る(1):『社会主義は科学である』発表30年――正しい人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいた社会主義理論を日本の自主化においてどのように参考にするか」についても、早くも総括しておきたいと思います。
当該記事は、キム・ジョンイル同志が1994年11月1日に労作:『社会主義は科学である』を発表なさってから30周年となるのを記念して、当ブログなりに『社会主義は科学である』の内容を読み解いたものになります。当該記事でも書いたとおり、かねてより当ブログでは社会主義・共産主義の何たるかを追究してきたところですが、キム・ジョンイル同志の『社会主義は科学である』は非常に内容豊富で学び甲斐のある労作であると考えます。それは、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されているからです。
※かなり長い記事になったので、本稿では要点のなかの要点だけを取り出します。なお、当該記事を基に『社会主義は科学である』の内容を手っ取り早く知りたいという読者の方は「おさらい」をお読みください。
『社会主義は科学である』は、第1節において社会主義運動の正統系譜として、集団主義と個人主義との対立軸を設定したうえで、チュチェ思想に基づく社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのかを冒頭に明確になさっています。そして、正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論の限界を説いたうえで、チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となったと指摘なさいます。
第2節でキム・ジョンイル同志は、人間の本質を捉えることは何故重要なのかをまず解説なさいます。人間は社会的存在であるという意味、そして人間の生命の本質と生の価値を主体的に解明します。ここでキム・ジョンイル同志は「チュチェ思想は史上はじめて、人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもって生きる存在であることを明らかにした」として、社会的・政治的生命(社会政治的生命)という概念を提示なさいます。この社会的・政治的生命論を柱として、「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」と定式化。チュチェ思想として人生観の問題に解答を与えました。
第3節では、前節の最後に「集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる」と指摘したのをさらに掘り下げる形で、「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」とか「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」などと指摘し、その上で、人民大衆が社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たしつつ創造的能力を養う必要があるとしました。さらに、第2節の内容を繰り返す形で「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」と再言及したうえで「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく、もっとも強固で生命力のある社会となる」とすることで、社会有機体論の一種としてのいわゆる社会的・政治的生命体論(社会政治的生命体論)を展開なさいました。
資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。そしてそうした社会であるからこそ、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かす最も貴く美しい生が実現した強固で生命力のある社会が実現するのです。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とは社会的・政治的生命体を形成するための運動であるということが、『社会主義は科学である』において示されていると言えます。
さらに当該記事では、『社会主義は科学である』においては直接的には言及されてはいないものの、チュチェ思想学習においては一つの論点となっている主体的な死生観の問題についても論を展開し、集団主義と個人主義との対立軸は、個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との対立軸にも発展するものであると補足的に述べたところであります。
当該記事の結論部分において述べたとおり、『社会主義は科学である』は、人間観の再定立に始まり、人間は肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っていることを指摘したうえで、より重要な社会的・政治的生命すなわち自主性:自主的本性を輝かしうる生活の在り方、すなわち主体的な人生観と、それを実現し得るのは集団主義に基づく社会主義社会であることを論証しているものと言えます。
集団主義か個人主義かの対立軸は社会主義と資本主義との社会体制における対立軸であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との人間観における対立軸であり、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との人生観における対立軸でもあり、そして個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との死生観上の対立軸として設定できます。
人生観そして死生観にも踏み込んでいる点において、当ブログは、人間中心の社会主義運動、つまり「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて社会的・政治的生命体を構築することを目指す主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要だと考えます。
■現代日本の問題に引き付けて
当該記事でも何度も強調したとおり現代日本社会は、人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会、つまり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する人間関係が当然化してしまっています。日本の自主化を目指す当ブログとしては、日本人を変革の主体であると考えるので、正しい人間観に立脚し、社会的人間の属性が如何にして形成されるのかを踏まえた上で情勢分析する必要があると考えますが、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があります。より広い視野で言えば、そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要です。
温故知新という言葉があるように、自主性を生命とする人民大衆が代を継いで創造してきた人類史、とりわけ愛情と信頼に関する蓄積を振り返り、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことが必要だと考えます。古今東西の古典的文学作品をよく読み、それを自分自身の自主性を照らし合わせ、現状が極めて異常であることを自覚することから始める必要があるのです。そして、そうした営みを通じて体得した自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換することが肝要になるでしょう。
ものすごく時間がかかることではありますが、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営む道は地道なものにならざるを得ないでしょう。人間が本来的に持つ人間性を取り戻すためには、人類が代を継いで積み重ねてきたものを再発見し再評価することから始めるべき地道なものであり、そこで培った「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて具体的な組織的力量を形成してゆく運動を展開する必要があります。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成する運動であると当ブログは考えます。
■総括
振り返れば、「主体的・朝鮮式共産主義の核心探究をテーマとして優先的に取り上げてきた」と言いつつ、たった4本の記事しか書いていませんでした。とはいえ、ほとんど記事を書いていなかった2024年において、いずれの記事もそれなりに長文だった点において、内容の出来はさておき、力を入れて執筆したことは感じていただけるのではないでしょうか。
当ブログとしては、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた運動指針を理論的に提示している点にこそチュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動の特長があると考えます。そうした特長を、自分自身の学びも兼ねて文章化することに努めてきたつもりです。
そしてそうした運動を日本社会で展開するためには、上掲のとおり、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があります。そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要だと考えます。
死生観の問題については、特に12月31日づけ年末総括第1弾でかなり突っ込んで論じました。チュチェ思想の重要論点の一つではあるが最近はあまり積極的には言及されていない(否定もされていない)論点に傾注したのは当ブログ管理者の関心ゆえのものです。現在共和国では「革命の世代継承」は特に問題になっていないので、死生観の問題を敢えて取り上げる必要がなく、それゆえこの問題がそれほどクローズアップされていないのだと理解していますが、当ブログ管理者には重大な関心事であります。
共産主義運動というものは生涯をかけ、さらに代を継いで続けなければならないものです。そんなに簡単に成就するものではありません。
政論《공산주의로 가자!》で定式化された「すべての人々が喜びと悲しみを共に分かち合う社会」という共産主義の定義が、同時代的な「空間的共産主義論」であるとすれば、死生観の問題は「時間的共産主義論」と言えます。老いた者は当然、時間的共産主義論を意識しなければなりませんが、若い人も「生涯をかける必要がある」がゆえに時間的共産主義論を意識する必要があると考えます。日本社会は現時点で資本主義社会であり、それゆえ共産主義運動には格別な目的意識性をもって自発的に参加する必要があります。自分から動かなければ資本主義社会の歯車の一つにしかなり得ません。資本主義日本において共産主義運動に身を投じる決意を固めるにあたっては、自らの一生の送り方と絡めて考える必要が特にありますが、死ぬまでに何を成し遂げるかを考えることは、死生観の問題を考えることと密接な関係にあります。
主体的な死生観においては、全社会が一つの社会的・政治的生命体になり、個々人はその中で有機的に結びついているがゆえに、個々人は、生物学的な意味での死によって肉体的生命を終えたとしてもその社会的・政治的生命は、一つの社会的・政治的生命体の中で永生するとされます。朝鮮大学校学長のハン・ドンソン氏は2007年の著書で「崇高な精神をもって人民大衆のために生涯をささげた人々は、社会的集団と、愛と信頼の絆で結ばれて」おり、「このような人々は、たとえ肉体的生命が途絶えたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、かれらにたいする愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残」るので、「人民大衆の運命を開拓する偉業にすべてを尽くして献身するとき、肉体的には死んでも、社会政治的には永遠に生き続ける」としています(ハン・ドンソン、2007、p169)。
また、ハン氏は、社会的・政治的生命の永生は「歴史の流れとともに限りなく引き継がれ、歴史的価値をもち続け」るとも言います。「個人の一生には限りがありますが、社会と集団は限りなく存在し発展」するので、「人々は、社会と集団の未来の創造に寄与することによって、人間の生の大きな歴史的流れに合流することにな」るからです。これに対して「自分のためだけに生きる生活は、個人の一生で終わる生活で」であり「そのような生活は歴史に残りません」(ハン・ドンソン、2007、p185)。
資本主義社会で、ほどほどの生活を送る選択肢もある中で、敢えて生涯をかけ代を継いで続けなければならない共産主義運動に身を投じるにあたっては、共産主義運動に参加することによって個々人が人間の生の大きな歴史的流れに合流できるという考え方は大きなポイントになるでしょう。主体的な死生観を持てばこそ敢えて共産主義運動に身を投じる決意が固まるものと考えます。このような理由で当ブログは、特に日本が資本主義社会であるからこそ、その自主化を目指すにあたっては主体的な死生観の問題が重要になると考えています。
他方、政論《공산주의로 가자!》でも指摘されていたように、完璧な人間・立派な人間でなくとも人間としてごく自然な道徳感情を大切にしていれば、共産主義者の端くれくらいにはなれそうなものであるのも事実です。偉業に身を捧げる革命的ロマンも大切ですが、今を生きる生身の人間の生活もまた大切です。とりわけキム・ジョンウン同志はそうお考えでいらっしゃるとお見受けするものです。あまり堅苦しいことをいうのもキム・ジョンウン時代の共産主義者としては不適切なのでしょう。その点、こうしてこの1年間書いてきた記事を総括すると、当ブログ管理者は些か古いタイプの共産主義者である気がしてきました。キム・ジョンウン時代の共産主義者たらねばならぬと思いを新たにしたところです。
2025年以降も、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた運動指針を理論的に提示しているという点にチュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動の特長を見い出しつつ、あまり堅苦しいことを言い過ぎず、キム・ジョンウン時代の共産主義者として日本社会の自主化を目指す道筋を引き続き考えたいと考えています。
2024年を振り返る(1):『社会主義は科学である』発表30年――正しい人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいた社会主義理論を日本の自主化においてどのように参考にするか
2024年も終わろうとしています。朝鮮総聯機関紙『朝鮮新報』が11月1日づけ≪《사회주의는 과학이다》발표 30돐, 사회과학부문 연구토론회 진행≫で報じているとおり、2024年は1994年11月1日にキム・ジョンイル総書記が『社会主義は科学である』を発表なさってから30年になる節目の年です。ソ連・東欧社会主義圏が軒並み崩壊し中国が大きく変質する中、1980年代後半以降、「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいた理論を刷新してきた朝鮮労働党ですが、その新しい社会主義像がまとめられたのが当該労作であると言えます。
かねてより当ブログでは社会主義・共産主義の何たるかを追究してきたところですが、キム・ジョンイル総書記の『社会主義は科学である』は非常に内容豊富で学び甲斐のある労作であると考えます。それは、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されているからです。
本来であれば11月1日づけで発表すべきところ、内容の調整に時間が掛かり遡って11月1日づけにするのも憚られるくらい遅くなってしまったので、年末総括記事として今回、『社会主義は科学である』に学びたいと思います。労作の内容を引用しつつ当ブログなりに理解した内容をしたため、日本の現状に引き寄せ・照らして考えを述べました。文法的、論理的、そして何よりも思想的に正しく読み込んだつもりではありますが、解釈が適切ではない場合は是非ともご指摘ください。なお本稿では、共和国の外国文出版社が発行した日本語版小冊子を使用しました。共和国政府が公式に運営している「朝鮮の出版物」(http://www.korean-books.com.kp/ja/)で読むことができます。HTML版(ページ数は反映し得ない)であれば、小林吉男様が運営なさっている「小林よしおの研究室」(http://tabakusoru.web.fc2.com/)で読むことができます。
かなり長くなってしまったので、目次をつけておきます。
○第1節・・・社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのか――集団主義と個人主義の対立軸
○正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論
○チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となった
○「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」
○生産力の問題にかかるチュチェ思想の見解――人間にとって生命である自主性を回復する主体的社会主義の必要性
○第2節・・・人間の本質を捉えることは何故重要なのか――主体的人間観
○人間は社会的存在であるという意味
○自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく日本人
○客観的条件の位置づけと社会発展史の本質
○人間の生命の本質と生の価値
○「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」――人生観の問題に解答を与えるチュチェ思想
○集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる
○第3節・・・正しい人間観と人生観に立つ朝鮮式社会主義の優位性
○「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」
○「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」
○帝国主義者の干渉を斥けることの重要性
○社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たす必要がある
○社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、人民大衆の創造的能力を養う必要がある
○「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」
○「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ…全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく…もっとも強固で生命力のある社会となる」――主体的人生観に基づく社会的・政治的生命体論
○チュチェ思想は人生観を持っているがゆえに死生観も持っている
○仁徳政治論が社会主義・共産主義党の性質を理論的に転換した
○人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成するために
○人民大衆の社会的・政治的生命を輝かす党と領袖の仁徳政治
○仁徳政治と後代愛
○仁徳政治は抗日武装闘争以来の伝統的政治方式であり、広幅政治でもある
○民族の優れた品性が社会主義において全面的に開花した
○朝鮮式社会主義は必勝不敗である
○おさらい
○「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観を日本の自主化においてどのように参考にするか
■第1節・・・社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのか――集団主義と個人主義の対立軸
キム・ジョンイル総書記は労作の冒頭で「社会主義は科学である。多くの国で社会主義は挫折したが、科学としての社会主義は依然として諸国人民の心のなかに生きている」とし、「多くの国での社会主義の崩壊は、科学としての社会主義の失敗ではなく、社会主義を変質させた日和見主義の破算を意味する」とし、「社会主義は日和見主義によって一時的に心痛にたえない曲折をへてはいるが、その科学性、真理性によって必ず再生し、最終的勝利を達成するであろう」と確言なさります(p1)。
第1節冒頭では、人類史について「人民大衆は歴史的に長いあいだ、自主性の実現をめざして力強くたたかいつづけ、その過程で階級社会の交替がなされ、自主性をめざす人民大衆のたたかいが発展してきた(中略)しかし、敵対的階級社会の交替は、人民大衆の自主性を抑圧する形態上の変化をもたらしただけで、人民大衆は社会的・政治的従属から解放されなかった」(p1-2)と、その理由として「いずれも個人主義にもとづく社会であったから」と指摘なさいました(p2)。「私的所有とそれによって生まれる個人主義にもとづく社会は、必然的に社会を敵対する階級に分裂させ、階級的対立と社会的不平等を生みだし、人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになる」からです(p2)。
その上で「資本主義は個人主義をごく少数の資本家の際限ない貪欲にかえ、個人主義にもとづく社会の敵対的矛盾をその極にいたらしめた」としつつ「一方、自主性をめざす人民大衆のたたかいは新たな発展段階に入っている」とし「個人主義にもとづく社会の集団主義にもとづく社会への移行が歴史発展の必然的要求となっている」と現状を分析なさいます。端的に現代を「自主性の時代」であると定義なさっています(p2)。その根拠としてキム・ジョンイル総書記は「集団主義は人間本然の要求である」からだとされます(p2)。「人間は個別的にではなく社会構成員の集団的協力によってのみ自然と社会を改造し、自主的要求を実現することができ」るものです。
キム・ジョンイル総書記は「人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければならない」とした上で「集団主義のみが集団の団結と協力を強め、集団の全構成員の創造的熱意を高め、集団の自主的要求と個人の自主的要求を正しく結合し、ともに満足に実現していけるようにする」と指摘なさいました(p3)。なお、ここでいう集団の自主的要求とは「社会的集団の生存と発展のための社会構成員の共通の要求」であり、個人の自主的要求とは「社会的集団の平等な構成員としての要求であり、社会的集団への寄与により集団から当然、保障されるべき要求」と定義されます。「集団主義を離れた個人の要求は個人主義的貪欲にかわり、そうなれば集団の他の構成員の自主的要求を侵害し、集団の団結と協力を阻害するようになる」と仰います(p3)。人間が自主的要求を実現させるためには集団主義の道を歩むほかないわけです。
そして、「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」とし、社会主義こそが人間の自主的本性にかなったものであると位置づけていらっしゃいます(p3)。克服すべき個人主義に対して集団主義を提唱なさっています。人間の自主的本性に適っているからこそ集団主義に基づく主体的社会主義理論は科学となり、その真理性によって必ず再生し、最終的勝利を達成するのです。
近代社会主義運動の歴史を振り返るに、対立軸を集団主義と個人主義とに設定するご指摘は正統かつ正確なものであると僭越ながら申し上げたいと思います。各種流派の近代社会主義運動は、労働者階級が個人主義に基づく当時の世相・社会構造から自分たちの身を守るために模索したものが源流にあります。労働組合や消費者協同組合・生産者協同組合のようなミクロレベルの社会主義的結社もマクロレベルで組織化された社会主義国家も元を辿ればここに行きつきます。
社会主義の立場が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのかを正確に捉える必要があります。個人主義がもたらす害悪を問題視し、人々の自主的要求を実現させることを目指している点にこそ核心があるのです。社会主義運動とは、敵対的階級社会の根本にある個人主義とたたかって、集団主義にもとづく社会を打ち立てようとする人民大衆の自主的要求を実現させるための運動であると言えます。社会主義・共産主義社会を「集団主義にもとづく社会」と表現する点を鑑みるに、朝鮮式社会主義は社会主義諸潮流の正統に位置していると僭越ながら評価したいと思います。
■正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論
キム・ジョンイル総書記は、人民大衆の自主的要求を実現させる集団主義社会としての社会主義社会実現のためには、正しい人間観に立脚することが必要だと説かれます。人間を中心に据えた見解並びに観点及び立場に基づいて集団主義と社会主義について筆を進められます。
「社会主義を実現するには、それを担当して遂行する革命勢力が準備され、正しい闘争方法が講じられなくてはならない」(p4)と指摘なさるキム・ジョンイル総書記は、いわゆる空想的社会主義について「貪欲を階級的本性とする搾取階級に「善意」を期待するのは、非科学的な幻想」と指摘なさいます。科学的社会主義を創始したマルクス主義についても「社会主義は空想から科学となり、人類解放闘争史には革命的転換がもたらされるようにな」り、「人類解放闘争史には革命的転換がもたらされるようになった」としながらも「唯物史観にもとづく従前の社会主義学説は、歴史的制約をまぬかれえなかった」と評価なさいます。「従前の理論は、社会的・歴史的運動をその主体である人民大衆の主動的な作用と役割によって生成発展する主体の運動ではなく、主に物質的・経済的要因によって変化、発展する自然史的過程とみなした」点において「革命の主体の強化とその役割の向上を革命の根本方途として提起することはできなかった」ところに大きな問題があったと指摘なさっているのです(p5-6)。
「革命闘争において客観的条件が重要な作用をするのはいうまでもない」としつつ「しかし、革命の勝敗を左右する決定的要因は客観的条件にあるのではなく、革命の主体をいかに強化し、その役割をいかに高めるかにある」と強調なさるキム・ジョンイル総書記。「歴史的実例は、資本主義の発達した国ぐにではなく、相対的に立ち後れた国ぐにで社会主義が先に勝利したことを示している」とした上で「チュチェ思想の旗のもとに前進してきた朝鮮革命の経験は、革命の主体を強化し、その役割を高めるなら、所与の客観的条件を正しく利用できるだけでなく、不利な客観的条件をも有利にかえ、逆境を順境に、禍を福にかえて革命の勝利を保障することができるということを立証している」と仰いました(p6)。
また、キム・ジョンイル総書記は次のように指摘なさいます。一般的に社会の発展にともなって人民大衆の自主意識と創造的能力が高まることから、社会が発展すればするほど社会的運動の主体である人民大衆の役割はいっそう高まるものである。だからこそ、高い思想・意識を身に着けて一つに統一団結した人民大衆の創造力によって発展する社会としての社会主義社会においては、人間改造、思想改造が物質的・経済的条件を構築する事業よりもなお重要かつ一義的な課題となり、人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができるはずである。しかし、一部の社会主義国では、経済建設にのみ汲々とし人民大衆の思想改造を二次的なものとし、革命の主体を強化しその役割を高めることを疎かにしたため、社会主義建設を正しく進めることができず、しまいには経済建設の停滞をも招いてしまった、と。また、これらの国々では正しい人間観に則っていなかったため、「改革」と称して資本主義的人間観に基づく政策を展開した結果、社会主義経済体制そのものを崩壊させる物質至上主義・経済万能主義的な反革命的行為に手を染めるに至ったとも糾弾なさいます(p7-8要旨)。
キム・ジョンイル総書記は「かつてマルクス主義の創始者たちが物質的・経済的条件を基本にして社会主義学説を展開したのは、神秘主義と宿命論を主張して資本主義を神聖化し、その「永久性」を説くブルジョア反動理論を打破することが重要な歴史的課題となっていた事情と関連している」としつつ「ところがこんにち、社会主義の背信者たちは資本主義に幻想をいだき、それを復活させるために物質至上主義、経済万能主義を提唱した」と指摘なさいます(p7-8)。とうの昔に打倒されたはずの資本主義が社会主義国家において亡霊のように現れるに至った背景には、マルクス主義の物質的・経済的条件重視の姿勢が教条主義的に解釈される思想的風土があったと指摘しておられるわけです。
このようにキム・ジョンイル総書記は、社会主義の従前理論は正しい人間観に立脚してこなかったと指摘されています。正しい人間観に立脚してこなかったから従前理論に依拠した国々では社会主義建設を正しく進めることができず、そればかりか、事もあろうに資本主義的要素を導入するに至り、遂にすべてが崩壊してしまったわけです。
■チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となった
キム・ジョンイル総書記は「社会主義を新たな科学的土台のうえに引き上げることは、従前の社会主義学説の歴史的制約を克服するためばかりでなく、あらゆる日和見主義者の歪曲と帝国主義者の攻撃から社会主義を固守するためにも非常に切実な課題」であると問題提起なさいます。そして「社会主義を新たな科学的土台のうえに引き上げる歴史的課題は、偉大な領袖金日成同志がチュチェ思想を創始し、それにもとづいて社会主義理論を独創的に展開することによってりっぱに解決された」と宣言なさいます(p8)。キム・イルソン主席が「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理、つまり世界における人間の地位(世界において自らの意志と要求に応じて周囲世界を奉仕させる存在は誰かということ)と役割(世界を実際に変化・発展させる力はどこにあるのかということ)にかかる哲学的原理を発見し、主体の運動としての社会的運動の合法則性を新たに解明なさったことにより社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられたのです。そして、それによって科学的に体系化された社会主義は、人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義であると言えるのです。
「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理に立脚することが如何なる意味で正しいのかについては、第2節で詳述されます。また、この世界観に基づいてチュチェ思想は人生観を説いていますが、この主体的人生観とそれを実現させる条件としての主体的社会主義論こそがチュチェ思想の核心です。これは、第3節で詳述されています。
人間に対する正しい理解から出発することをチュチェ思想は一貫して説いています。そして当ブログが社会主義・共産主義思想としてのチュチェ思想を一貫して支持している理由は、まさにこの点にあります。当ブログは左翼の立場に立つブログですが、いわゆるマルクス主義はあまりにも経済主義的であり、率直に言って当ブログ編集者の眼には「人間性を軽視し過ぎている」と映ります。他方、最近流行りのリベラリズムについては、繰り返しその主観観念論的な世界観・社会歴史観を強く批判してきたとおり、中学校・高等学校の優等生や生徒会委員などが好んで口にする「ひとり一人が正しい行いに目覚めて行動を改めれば、世界は必ず変わる!」といったレベルの言説と大差ない、あまりにも物質的条件・経済的条件を軽視した程度の低い言説しか紡ぎ出せていないと言わざるを得ません。経済主義的過ぎるマルクス主義も主観的過ぎるリベラリズムも現実の変革の指針とするには不十分であると言わざるを得ず、チュチェ思想の立場が現実を正しく反映していると考えています。
■「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」
キム・ジョンイル総書記は、「われわれの社会主義は、人民大衆があらゆるものの主人となり、すべてが人民大衆に奉仕し、人民大衆の団結した力によって発展する社会主義である」とした上で、チュチェの社会主義理論について「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべきであることを明らかにした」ものであると、その特徴を端的にまとめられています(p8)。「要塞」というのは共和国独特の語法ですが、一般的な日本語の語感でいうところの「重要な目標」といった意味合いです。
そして「チュチェの社会主義理論の科学性、真理性は、朝鮮革命の実践的経験によって実証された」とし、その理由を「朝鮮人民は、立ち後れた植民地半封建社会の状態で社会主義をめざすたたかいを開始し、人一倍困難な状況のもとで革命と建設を遂行せざるをえなかった」が「わが党はチュチェ思想の要求どおり、つねに人民大衆を党と領袖のまわりに組織的、思想的にかたく結集して革命の主体を強化し、その役割を高めることを基本とし、それを堅持することにより社会主義の道を成功裏に切り開くことができた」と指摘なさいます(p9)。
つまり、朝鮮労働党は「社会主義建設において人間改造、思想改造をすべての活動に確固と優先させ」たので、「朝鮮革命の政治的・思想的威力をあらゆる面から強化すると同時に、自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることによって、こんにちの複雑な情勢のもとでも微動だにせず、革命と建設を力強くおし進めて」おり、「実践的経験は、チュチェ思想を具現したわが国の社会主義がもっとも科学的で生命力のある社会主義であることを如実に示している」のです(p9)。人間中心のチュチェ思想を指針にしたとき、社会主義建設において人間改造と思想改造を優先することは論理的帰結となります。とりわけ、物質至上主義に堕した従前理論に基づく社会主義建設の教訓を踏まえれば、人間改造と思想改造を優先するチュチェ思想の指針は、正当であるともいえるでしょう。
■生産力の問題にかかるチュチェ思想の見解――人間にとって生命である自主性を回復する主体的社会主義の必要性
また、キム・ジョンイル総書記は、マルクス主義があれほど重視した生産力の問題についても、その捉え方に不十分さがあったと指摘なさいます。大きく2点、「資本主義社会での生産力の発展は、「富益富、貧益貧」の両極分化を深め、階級的矛盾を激化させるとともに、独占資本家に独占的高率利潤の一部を階級的矛盾の解消に利用させる可能性も増大させる」という指摘、及び「農民をはじめ小ブルジョアジーを分化させ、産業労働者階級の隊伍を拡大すると同時に、生産部門の精神労働と技術労働に従事する勤労者と、非生産部門の勤労者の比重を高める結果をもまねく」と指摘なさっています(p6)。
この論題については、『反帝闘争の旗をさらに高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(以下「前進しよう」論文といいます)においてより詳細に論じられているので、少し脱線してそちらを参照してみたいと思います。今回は特に、後者指摘について注目したいと思います。
キム・ジョンイル総書記は「前進しよう」論文において「革命勢力を強化するには、社会的・階級的構成における変化について正しく分析、評価しなければなりません」と問題提起し「第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が生じました」と指摘なさいます。すなわち、「発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにつれて、肉体労働に従事する勤労者の数がいちじるしく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急増し、勤労者の隊伍においてかれらは数的に圧倒的比重を占めるようにな」ったのです(『金正日選集』第9巻、外国文出版社、1997、p34)。
「インテリの隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確か」であると指摘なさるキム・ジョンイル総書記は、「革命的教育を系統的に受けることのできない資本主義制度のもとで、多数のインテリがブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいこと」であり「かれらを革命の側に獲得することは困難な問題」であると率直に指摘なさいます。しかしながら「社会的・階級的構成におけるこうした変化が、共産党、労働者党の社会的・階級的基盤の弱化を意味したり、社会主義革命に不利な条件になるとみなすことはでき」ないとも仰います。その理由についてキム・ジョンイル総書記は「技術労働にたずさわる勤労者であれ、精神労働にたずさわる勤労者であれ、かれらはいずれも生産手段の所有者ではありません」としておられます(同p34-35)。
ここにおいて問題は、「社会的・階級的構成の変化した現実に即応して、共産党、労働者党が広範な勤労者大衆を革命化し、獲得する政治活動をいかにおこなうかにあ」るとキム・ジョンイル総書記は新たに論点を設定なさいます。「現代の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはでき」ず、発達した資本主義諸国の労働者階級は「マルクス主義の創始者たちが、失うものは鉄鎖のみであるといった、以前の無産者とは異な」るからです(同p36)。
「革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということのみにかかっているのではありません」。これはチュチェ思想の意識性論からの必然的結論です。「発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる勤労者の生活水準が向上したとはいえ、かれらは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにある」ことには変わりありません。キム・ジョンイル総書記は、彼らは「資本主義制度にたいして反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求してい」ると指摘なさいます(同p36)。
「自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します」。実際問題として「資本主義国のインテリで、一時的であれ社会主義に共鳴しない人はほとんどい」ないと仰るキム・ジョンイル総書記。それゆえ、「かれらがひきつづき社会主義をめざしてたたかっていけないのは、社会的・階級的立場の制約というよりは、むしろかれらを思想的に正しく教育し導いていない事情と関連してい」るとなさいます(同p37)。
「勤労者大衆を革命化し獲得するうえで、主体はあくまでも労働者階級の党で」す。「党を強化するためには、なによりもまず、思想と指導の唯一性を保障する原則で党を建設しなければならず、党がインテリを含めた広範な大衆のなかに根をおろし、かれらを革命へと導く新しい指導思想、指導理論をもたなければなりません」。「人民大衆の自主的地位と決定的役割にかんする原理にもとづいて、変化した現実に即して革命理論を発展させ、党活動の方法を不断に改善していかなければなりません」。「このようにすれば、各階層の広範な大衆を革命化し、獲得し、革命を新たな高揚へと導くことができる」のです(同p37)。
鐸木昌之は『北朝鮮 首領制の形成と変容 金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店、2014年)で、「前進しよう」論文について「労働者の物質的経済的生活が改善されたとしても、その思想文化生活においては自主性が達成されず、精神生活においては貧困化している。したがって、発展した資本主義国における革命は、古典的マルクス・レーニン主義のいう「失うものは鉄鎖以外にないという過去の無産者」階級のそれではなく、精神的に踏みにじられたインテリ・技術労働者達の自主性の回復になる。(中略)これは主体思想による先進資本主義革命論なのである」と指摘しています(p227)が、非常に端的に要約していると言えるでしょう。
このように考えたとき、マルクス主義は、生産力を重視しているといいながら実はそれさえも十分には貫徹できていないと言えます。
キム・ジョンイル総書記が「前進しよう」論文において指摘された、資本主義諸国での社会的・階級的構成の変化は極めて重要な指摘です。当ブログでも2019年7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」や、2019年7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」などで論じてきたところです。
「発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる勤労者の生活水準が向上したとはいえ、かれらは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにある」点にこそ、人類史が資本主義で終わるのではなく社会主義、それも人間にとって生命である自主性を回復する主体的な社会主義が必要になることを示しています。後述しますが、人間中心の主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。そして、主体的社会主義は、人生観の問題にしっかりとした解答を与えている点において、独自の社会主義路線であると言えるでしょう。
■第2節・・・人間の本質を捉えることは何故重要なのか――主体的人間観
第2節では、人間にたいする主体的な見解並びに観点及び立場についてより詳しい説明が展開されます。「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観と社会歴史観の問題に触れ、さらに人生観が展開されます。
「人間にたいする観点と立場の問題は、社会発展、革命発展にいかなる観点と立場で対応し、それをどう理解するかということにおいて基礎的な問題」です。キム・ジョンイル総書記は「チュチェ思想は史上はじめて、人間の本質について科学的な解明を与えた」とされます(p10)。
「人間の本質をどうとらえるかということはたんなる学術上の問題ではなく、階級的利害関係を反映した社会的・政治的問題で」す(p10)。たとえば「人間を純然たる精神的存在とみなす宗教的・観念論的見解によれば、人間はある超自然的な神秘的存在の産物であり、人間の運命もそれによって決定されることにな」り、「反動的な支配階級とその代弁者たちは、人間にたいする宗教的・観念論的見解から、勤労人民大衆が搾取され抑圧される不幸な境遇は避けがたい宿命的なものであり、したがって定められた運命に従順であるべきだと説」きました。あるいは、「人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす見解は、意識の調節、統制のもとに目的意識的に活動する人間と、本能によって支配される生物学的存在との質的差異を区別できなく」し、「反動的な支配階級とその代弁者たちはこうした見解を、弱肉強食の法則が支配する資本主義社会の弁護に利用し」ました。「社会主義の背信者たちがブルジョア自由化と資本主義市場経済を導入して資本主義を復活させているのも、人間にたいする反動的な観点と立場に根ざしてい」ます(p10-11)。
一部社会主義国で「改革」と称して展開された政策は、資本主義的人間観に基づく物質至上主義・経済万能主義的な反革命的行為でしたが、結局これはその人間観に由来する「改革」であったといえるでしょう。キム・ジョンイル総書記は「社会主義の背信者たちが資本主義を復活させ、失業と貧困を競争意欲と労働の強度を高める強圧手段とみなして、社会主義がもたらしたあらゆる人民的施策を抹殺しているのも、自国人民の力に頼らず、西側資本主義諸国の「援助」と「協力」に期待をかけて帝国主義者に阿諛追従しているのも、人間にたいする反動的なブルジョア的観点のためである」と糾弾なさいます(p14)。
正しい人間観を持つことがいかに重要であるのかが理解できるでしょう。
■人間は社会的存在であるという意味
キム・ジョンイル総書記は「人間は純然たる精神的存在でもなければ、たんなる生物学的存在でもない。人間は社会的関係を結んで生き活動する社会的存在である」とし「社会的存在であるというところに、他の生物学的存在と区別される人間の重要な特性がある」と言明なさいます(p11)。マルクス主義は人間の本質を社会関係の総体であると定義づけましたが、キム・ジョンイル総書記はこれだけでは「人間そのものの本質的特性についての全面的な解明とはなりえ」ず、「それによっては人間と世界との関係、世界における人間の地位と役割が正しく示されない」と指摘なさいます(p11)。
「人間は自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在である」(p11)という格言は、チュチェ思想の文脈で必ず聞いたことがあるものでしょう。自主性は、世界と自己の運命の主人として、なにものにも従属したり束縛されることなく自主的に生き発展しようとする社会的人間の属性です。創造性は、自己の要求に即して目的意識的に世界を改造し自己の運命を開いていく社会的人間の属性です。意識性は、世界と自分自身を把握し改造するすべての活動を規制する社会的人間の属性です。そして、これら人間の自主性・創造性・意識性は、人間が社会関係を結んで活動する過程で形成され発展する属性であります。人間が活動する過程はその自主性、創造性、意識性が発現する過程です。自主的・創造的・意識的活動は人間の存在方式ですが、人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそなのです(p12要旨)。
「人間が自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在になりえるのは、発達した有機体、とくにもっとも発達した頭脳をもっていることをぬきにしては考えられ」ないことは、キム・ジョンイル総書記も認めるところです。「人間の発達した有機体は、自主性、創造性、意識性をもちうる生物学的基礎とな」ります。しかし、発達した人体そのものが自ずと自主性、創造性、意識性を生むのではありません。「人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され発展する社会的属性で」す(p12)。
自主性、創造性、意識性を形成する社会的・歴史的過程とは、具体的には社会的教育と社会的実践を言います。朝鮮大学校のハン・ドンソン学長は、政治経済学部長時代の2007年に上梓した『哲学への主体的アプローチ - Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(白峰社)において、小説『ロビンソン・クルーソー』を取り上げ、ロビンソン・クルーソーが無人島で逞しく生き延びている描写について「彼がそれまでの社会生活を通じて、人間らしく生きようとする意欲と、それを実現することのできる知識と技術、技能を蓄積したからこそ可能であった」とし「すなわち、主人公が、社会的教育と実践を通じて、社会的存在としての自主性、創造性、意識性をある程度培っていたということ」としています(ハン・ドンソン、2007、p67)。
人間が何かをなすためには、そのための知識を得ることと実践してみることが必要だというのは、ほとんどの方が同意するものと思われます。この知識獲得と実践は、仮に非常に個人的で狭い範囲であったしても社会的な性質を帯びざるを得ません。人間は、親など先達から教えられた知識を活用します。この知識は、もっとも素朴な場合は「この場合、こうすると上手くいく」という形態を取りますが、これは代を継いで実践されてきた社会的な結果にほかなりません。それゆえ、知識は社会性を帯びざるを得ません。また、人間は集団の中で生きるので、「個人」的な実践であっても集団への影響は避けられません。さらに、物質世界において個人が自分自身の運命を開拓とようとすれば、一個人ではあまりにも非力であるので、通常は他者と協力する必要が生じます。それゆえ、実践もまた社会性を帯びざるを得ないと言えます。
先に、集団主義か個人主義かの対立はすなわち社会主義と資本主義との社会体制上の対立であると指摘しましたが、集団主義・社会主義と個人主義・資本主義の対立は、つまるところ人間観の対立に行きつきます。すなわち、人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす見解・人間を本能によって支配される単なる生物学的存在とする人間観との対立軸が設定できます。
人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそであり生物としての進化の結果ではないというのは、主体的人間観の柱です。「人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され発展する社会的属性である」という一文は、いくら強調しても、し過ぎることはないでしょう。
■自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく日本人
人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそという見解並びに観点及び立場は、人間関係がいよいよ全面的に「商品化」しつつある日本社会においては、日本人の自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく近未来の現実を示すと考えます。
人間関係が全面的に「商品化」しつつあるとはどういうことかご説明しましょう。商品とは「他人にとっての使用価値」ですが、商品生産・交換経済が高度に発展すると商品は「何人もの中間卸売り業者や加工業者を経た先にいる(と言われている)会ったこともない赤の他人にとっての使用価値」になります。会ったこともない抽象的な「他人」である消費者のことを生産者は親身になって考えることはないし、消費者としてもその銘柄の商品をどうしても買わなければならない訳ではなく、代替品は幾つかあるのが大抵なので、生産者の事情を真剣に考えることはありません。最近、一部小売店の野菜・青果売り場で「私が作りました」という生産者の顔写真付きポップが掲示されていることがありますが、裏を返せば、そういったものが目を引く販促小道具になるくらい通常の商品取引においては取引相手のことを具体的に想像する契機に欠けているのが現実です。
「自分にとって得か損か」のみが判断基準になってゆくのが商品生産・交換経済であり、そして経済人類学者のカール・ポランニーが指摘するように、現代社会は経済の論理が社会全体を取り込んでしまっている社会です。前近代社会は、経済活動は社会のサブシステムに過ぎませんでしたが、今やそれが逆転しているわけです。その結果として、2022年の年末総括記事の末尾部分でも論じましたが、人間同士の関係までもが経済生活の編成様式、つまり市場的な人間関係、「自分の役に立つサービスを提供する存在」として取り扱う関係に成り下がり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然視する思考回路が形成されつつあるのではないかと非常なる危惧を覚えるところです。
また、そのような思考回路が形成されてしまっているからこそ、自分自身の命の問題についてさえ、2022年5月31日づけ「掛け金を払えなければ医療費を工面できないアメリカ社会への疑問・異議が見られず、個人の自衛手段としての民間保険への加入の重要性ばかりが強調される日本世論の徹底的な「個人」主義化の現状」で論じたように、保険に入るとか入らないといった次元で語られるようになってしまっているのではないかと考えます。「金の沙汰が命の沙汰」であることへの違和感や拒否感が弱まってしまっています。
日本の自主化を目指す当ブログとしては、日本人を変革の主体であると考えるので、正しい人間観に立脚し、社会的人間の属性が如何にして形成されるのかを踏まえた上で情勢分析する必要があると考えます。その際には、チュチェ思想の人間観は非常に重要な見解並びに観点及び立場を提供するものと考えています。このことについては、本稿後半で、第3節の内容に触れながら再論します。具体的には、小見出し「■「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」」の部分で論じます。
■客観的条件の位置づけと社会発展史の本質
社会関係の中で展開される活動過程で形成される自主性・創造性・意識性をもつ唯一の存在であるがゆえに、ただ人間だけが、自己の運命を自分の力で開いていけます。人間は客観世界を自己の要求に即して改造しつつ自己の運命を自分の力で開いていく世界の主人・世界の改造者という唯一無二の地位と役割を獲得するのです。そして、人間の自主性・創造性・意識性が発展すればするほど、世界の主人・世界の改造者としての人間の地位と役割は高まります(p12-13要旨)。
もちろん、「歴史発展においてすべての世代は、前の世代が創造した社会的冨と社会関係、すなわち所与の客観的条件から出発し、それを利用」します。しかし、客観的条件は「人間の自主的・創造的・意識的活動の歴史的創造物であり、それを利用しさらに発展させるのも人間であ」ります。「所与の客観的条件が有利であっても、それを利用し発展させる人間の自主性、創造性、意識性が低く、十分に発揮されなければ、社会はすみやかに発展することができ」ず、「客観的条件が不利であっても、人間の自主性、創造性、意識性が高く、それが正しく発揮されれば、社会は急速に発展するものであ」ります。要するに、「社会発展の歴史的過程が人間の自主性、創造性、意識性の発展水準とその発揮程度によって決定されることを意味す」るわけで、「社会発展の歴史はつまるところ、人間の自主性、創造性、意識性の発展の歴史だといえ」るのです(p13)。
マルクス主義の権威が低下して来、教条主義的なマルクス主義者と議論する機会が乏しくなってきている昨今においては論点にならなくなってきましたが、ひと昔前は非常に重要な論点でした。教条主義的なマルクス主義者には「意識」という単語を持ち出すだけで「観念論だ!」とよく言われたものです。人間の意識は客観世界の反映であり、客観世界の土台は生産力と生産関係によって規定されるものだからだと力説されたものでした。しかし、チュチェ思想の原理を理解するうえで重要なのは、人間の自主性・創造性・意識性を三位一体の関係で位置づけているところにあります。生産力云々については、創造性がしっかりと包含しています。意識性だけを強調しているわけではないのです。
下部構造としての土台の上に建てられる政治や文化などは上部構造であるというマルクスの見解を墨守している教条的なマルクス主義者は「経済的土台」という言葉を愛用します。たしかに物質代謝としての経済活動は人間存在の根本を支えるものです。「土台」という表現は言い得て妙です。「土台」であればこそ「土台からの作用」だけではなく「土台への反作用」についても考える必要があります。「土台の上に建てられる」ものといえば住宅ですが、人間は自らの要求と技術力に依拠して建てたい家に合わせて土地を整備します。軟弱地盤であれば建てたい家に合わせて必要なレベルの補強工事を施行します。かつてエンゲルスは『フォイエルバッハ論』で、不可知論に対して「あらゆる哲学上の妄想に対する最も説得力を持った反駁は実践、すなわち実験と産業」と言いましたが、まさしく産業の現実から考えるに「土台から人間への作用」だけではなく「人間から土台への作用」にも注目する必要があるはずだと考えます。
現代社会の深刻な環境危機などを踏まえると、いまや人間が蒙る「土台からの作用」だけではなく「土台への作用」を思想的にしっかりと位置づける必要があります。人間存在が世界を大きく改造し得る有力な存在となってきたからこそ主体的な人間観が求められると考えます。
キム・ジョンイル総書記は「人間本位の社会主義は、人間にたいする主体的観点と立場から出発して、すべてのものを人間に奉仕させ、すべての問題を人間の創造的役割を高めて解決するもっとも科学的な社会主義である」と宣言なさいます(p14)。つまり、人間の利益から出発し、人間の活動を基本とするのが人間本位の主体的社会主義です。ハン・ドンソン氏の前掲書によると「人間との関係で見るとき、世界の変化発展の法則性は、世界が人間の積極的な活動によって人間に奉仕する方向で、人間の発展とともにより速やかに発展するというところにあ」るといいます(ハン・ドンソン、2007、p24)。教条主義的なマルクス主義に依拠した国々がことごとく社会主義建設に失敗して崩壊するか資本主義に変節するかの中で、いまも変わらず赤旗を掲げ続けていられる朝鮮民主主義人民共和国の今日の姿を見るに、この宣言に根拠がないとは言えないでしょう。
■人間の生命の本質と生の価値
続いてキム・ジョンイル総書記は「チュチェ思想は、人間の生命の本質と生の価値についても新たに解明した」と論題設定なさいます。「チュチェ思想は史上はじめて、人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもって生きる存在であることを明らかにした」と宣言なさいます(p15)。
人間が社会的・政治的生命(社会政治的生命)を持つというのは、他の生物から人間を区別する特徴としての自主性・創造性・意識性が、生物としての進化の結果として自然に獲得されたものではなく人間が社会的関係を取り結ぶ中で形成されたものであることに基づきます。自然環境が人間に肉体的生命を付与し、社会環境が人間に社会的・政治的生命を付与するわけです。
「人間にとって自主性は生命であ」るとキム・ジョンイル総書記は強調なさいます。「人間は自主的な社会的存在として、なにものにも従属したり、束縛されることなく自主的に生きることを求め」るからです。「人間が自主的に生きるということは、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きることを意味」します。それゆえ、「人間が自主性を失い、他人に従属しているなら、命はあっても社会的、政治的には屍にひとしい」のです(p16)。ハン・ドンソン氏は前掲書において、「このような意味で社会政治的自主性を、社会的存在としての人間の生命、社会政治的生命と言い」(ハン・ドンソン、2007、p167)、「社会政治的生命をもってこそ、人々は、社会的集団とともに、世界と自らの運命の共同の主人となり、自主的で創造的に生き発展することがで」きると解説しています(同p171)。社会に背を向け放蕩する人は、社会的・政治的生命を得ることができず、社会的集団とともに世界と自らの運命の共同の主人になることができないので、まさに資本主義国の人間のように個人的努力の範囲やカネと権力で解決できる範囲で多少のことはできたとしても、自主的で創造的に生き発展することができません。
人間にとって自主性は生命であるので、「人間にとって肉体的生命も大切であるが、より大切なのは社会的・政治的生命」になります(p15)。肉体的生命が生物有機体としての人間の生命であるとすれば、社会的・政治的生命は社会的存在としての人間の生命であると言えるからです。たしかに「安定した健全な物質生活は、人間の肉体的生命の要求を十分に保障するばかりでなく、社会的・政治的生命を維持し、輝かす物質的裏付けとなる」ものですが、「社会的・政治的生命の要求をぬきにして肉体的生命の要求のみを追求するならば、いくら豊かな物質生活を営むとしても、それは決して有意義な生活とはいえず、そうした物質生活は人間の本性に反する動物の生活にひとしい奇形的で変態的な生活になりさがってしま」います(p15-16)。
■「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」――人生観の問題に解答を与えるチュチェ思想
このような人間の生命の本質ゆえに、チュチェ思想は、生の価値として「人間の誉れ高い生き方は社会的・政治的生命を持し、それを輝かしながら生きることである」と定義します(p16)。そして、人間は社会的・政治的生命を社会的集団から授けられるがゆえに、「人間の生が価値あるものかどうかは、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっている」ということになります(p16)。「人間の生は社会的集団に愛され信頼されれば価値あるものとなり、社会的集団から見捨てられれば価値のないものとなる」のです。つまり、「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」なのです(p17)。
共同体と共に生きることや、愛や信頼を人生の価値として説く主張は古来から数多ありますが、人間の本質とその本質に合致した自然かつ当然な生き方は、ここにあるものだと当ブログも考えます。チュチェ思想は、そうした古来からの思想潮流の堂々たる一員でありながら、世界観の問題と人生観の問題とを論理的に密接に結び付けており、非常に説得力のある学説であると言えます。チュチェ思想の人生観は、人類の叡智の集大成であり、まことに内容豊富な思想であると考えます。
この論点はチュチェ思想にもとづく社会主義運動が実現目標点としていると考えられます。第3節でも再論されるので、本稿でも詳しくは後述したいと思います。
■集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる
キム・ジョンイル総書記は、このような生は、敵対的階級社会を必然的にもたらす個人主義を克服した集団主義社会としての社会主義社会でのみりっぱに実現することができると仰います。「社会主義社会では、人びとがあらゆる搾取と抑圧、支配と従属から解放され」るので、「社会・政治生活をはじめすべての分野で自主的で創造的な生活が営めるようになる」のです(p17)。
具体的に社会主義社会の如何なる特徴がかかる効果を生むのかについては、第3節で詳述されます。
そして、社会主義社会で人びとが社会の主人としての高い自覚と能力をもって自主的で創造的な生活を営めるようになるためには、人々に「組織・思想生活と文化生活を正しくおこなわせ」る必要があると指摘なさいます。「人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通して自主的な思想・意識で武装し、全面的に発達した創造的能力をそなえてこそ、社会と集団のため積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高く生きていくことができる」からです(p17-18)。
これに対して「ブルジョア反動派と社会主義の背信者たちが人間による人間の搾取と支配を正常なこととみなし、人間を個人の物質的欲求のみを追求する低俗な存在とみなす」ことについてキム・ジョンイル総書記は、「人間の生命の本質と生の価値にたいするブルジョア的観点と立場の反動性を示す明白な表現の一つ」であると糾弾なさいます(p17)。現代資本主義に対する非常に痛烈な批判であると言えるでしょう。
■第3節・・・正しい人間観と人生観に立つ朝鮮式社会主義の優位性
「われわれの社会主義は人民大衆にたいする主体的観点と立場にもとづいている」という書き出しで始まる第3節でキム・ジョンイル総書記は、「社会主義の真理性と優位性は、それにたいする人民大衆の支持と信頼にあらわれる」とし「われわれの社会主義は人民大衆にたいする主体的観点と立場にもとづいているので、人民大衆から絶対的に支持され信頼される、もっともすぐれた威力ある社会主義となる」と指摘なさいます(p18)。第3節は、前節の最後で「すべての人がもっとも大切な社会的・政治的生命を輝かし、肉体的生命の要求をも充足させる真の人間生活は、集団主義にもとづく社会主義社会でのみりっぱに実現することができる」としたキム・ジョンイル総書記が主体的社会主義の正当性について更に踏み込んで言及する節であると位置づけられるでしょう。ここでは、「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観と社会歴史観の議論を人生観の問題に深めていらっしゃいます。さらに、本労作ではあまり言及されていない死生観の問題も基礎づけています。
まず、キム・ジョンイル総書記は「人民大衆」というキーワードについてより詳細を説明なさいます。すなわち、「人民大衆は働く人びとを基本に、自主的要求と創造的活動の共通性によって結合された社会的集団であ」ります(p18)。その上で、「人民大衆という言葉は、階級社会では階級的性格をおびる」と指摘なさいます。同時に「人民大衆の階級的構成は固定不変のものではなく、社会、歴史の発展過程でかわる」としつつ「人民大衆という言葉は、社会的・階級的関係を反映しているが、それは純然たる階級的概念ではない」ともします。これは、「もともと、人民大衆は相異なる階級と階層からなっている」事情、及び「人間の思想と行動は社会的・階級的立場の影響のみを受けるのではな」く「人間は革命的影響を受け、先進思想を身につければ、社会的・階級的立場はどうであれ、人民大衆に奉仕することができる」という事情に基づいているからです。
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の構成員かどうかを判別するには社会的・階級的立場をみなければならないが、それを絶対視してはならない」と警鐘を鳴らされます。「人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的土台がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある」のです(p19)。
キム・ジョンイル総書記がこのように指摘なさった動機は、おそらく「祖国と人民と民族を愛する愛国、愛民、愛族の思想をもっていれば、誰でも人民に奉仕することができ、したがって人民大衆の構成員になることができる」と指摘なさっている点を鑑みるに、古典的なマルクス・レーニン主義の教義では強く排斥されてきた「民族主義」の再評価を意図してのものであると考えられますが、階級至上主義を脱する思想的突破口を開いたことは非常に大きな功績であったと僭越ながら申し上げたいと思います。階級にばかり拘泥することは20世紀社会主義の一つの問題点でしたが、20世紀末にキム・ジョンイル総書記がこれを乗り越える新しい社会主義路線を提唱なさったわけです。
この論文でも触れられており、また、前述のとおり「前進しよう」論文においても詳細に語られているとおり、知識労働中心の経済社会に移行したことにより労働者階級がプチブル化しつつある今日、労働者階級であるという属性だけでは社会主義運動を盛り立てることは難しくなってきており、この見解は現在の状況に合った新しく正しい見解であると考えます。「人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的土台がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある」というキム・ジョンイル総書記の指摘を十分に体質化する必要があると考えます。
■「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」
キム・ジョンイル総書記は人民大衆の底知れぬ力量について筆を進められます。「個々の人の力と知恵には限界があるが、人民大衆の力と知恵には限界が」ありません。「この世に全知全能の存在があるとすれば、それはほかならぬ人民大衆であ」ると指摘なさいます(p21)。「人民大衆は自然を改造し、生産力を発展させ、物質的富を創造する」し「人民大衆は思想的・文化的財貨を創造する」し「人民大衆は社会を改造」します。そして「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」と確言なさいます(p21)。集団主義と個人主義との対立における集団主義の優位性をより具体化して、国家主権と生産手段の所有問題について言及なさっているわけです。
人民大衆の自主的要求を実現させるためには、敵対的階級社会に必然的に行きつく個人主義原理に基づく社会ではなく集団主義原理に基づく社会の道を歩まなくてはなりませんが、それはつまり、国家主権と生産手段とを人民大衆が自ら所有する社会主義の道を歩む必要があるということなのです。
もしかすると、「敵対的階級社会に必然的に行きつく個人主義を乗り越える必要性は分かる。そうした個人主義の逆を『集団主義』と定義したのは分かった。しかし、そこから何故社会主義に行きつくのか? 社会主義に限定せずとも集団主義は実現できるのではないか? 冒頭から『社会主義でのみ人民大衆の自主性は実現する』といったくだりが何回も出てきているが、何故社会主義でなければならないのか?」という疑問を持つ方もいらっしゃるかも知れません。しかし、集団主義を具体化・具現化させようとしたとき、つまり、個人と社会との自主的要求を調整しつつ共に実現させようとしたとき、すべての人々が自然と社会と自分自身の主人となるためには国家主権と生産手段とを共同で管理する道を歩まざるを得なくなると当ブログは考えます。キム・ジョンイル総書記が本労作冒頭で「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」と仰ったのは、そういう意味であると解釈できるでしょう。
なお、ここにおいて主語が「人民大衆」であることに注意しておく必要があると考えます。つまり、チュチェの世界観原理の段階では主語は主に「人間」でしたが、チュチェの社会歴史観原理においては、完全に統一されているわけではありませんが主語は主に「人民大衆」になっています。
ブルジョア社会たる日本社会で日常生活を送っていると「人間」という言葉を無意識的に「個人」と解釈してしまいがちです。この取り違いは最終的に主観観念論的な言説に行きつきます。社会というものは非常に巨大なシステムであり、一個人や小集団の意志や行動でどうにかできるものではありません。あまりにも規模が違い過ぎます。この点を無視して「決心すれば社会は変わる!」などと絵空事をスローガン化しているのが最近のリベラリストであるというのは、当ブログが再三指摘してきたところです。非常に巨大なシステムである社会を変革するためには、「人間」も個人がバラバラになっているのではなく組織的に大きくそして固く結集する必要があります。人民大衆として団結する必要があります。主語が「人民大衆」になっていることについては、そういった意味で注意を払う必要があると考えます。
■「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は社会のあらゆるものの主人としてその地位を占め、権利を行使すべきである」とします。「自主的地位と権利は、人民大衆の運命を左右する基本的条件である」からです(p22)。政治、経済、文化などの社会生活の各分野で主人としてその地位を占め権利を行使する必要があります。他人に丸投げするのではなく人民大衆が自らが主人となる必要がある理由はここにあります。
その上でキム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性をしっかり擁護し実現するためには、人民大衆の自主的要求を反映してすべての路線と政策を作成し、人民大衆の力に依拠してそれを貫徹しなければならない」という主体的な政治綱領を提示なさいます。そして「人民大衆の自主的要求は、路線と政策の正否を弁別する基準であ」り「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」と指摘なさいます(p22)。革命的大衆路線です。このことは、革命歌謡≪우리의 김정일동지≫(『我らのキム・ジョンイル同志』)においても歌われているところです。
社会主義とは単に国家主権と生産手段を共同管理にすることではないとキム・ジョンイル総書記は、幾度となく指摘なさってきました。これは、ソ連・東欧社会主義諸国が短期間で軒並み瓦解したことを受けての歴史的教訓です。それゆえ「人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化すれば、思想になり、路線と政策になる」という指摘は非常に重要なものであると考えます。自主的な思想や路線・政策は、空想的社会主義者がそうでしたが、どこかの天才が自己の思索の世界で紡ぎ出すわけではありません。現実の生活場面で生き暮らしている人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化することによってのみ生まれるものなのです。「わが国の社会主義がささいな偏向や曲折も経ることなく、もっとも科学的な道にそって勝利のうちに前進してきた秘訣はここにある」とキム・ジョンイル総書記は強調されています(p23)。
社会主義とは単に国家主権と生産手段を共同管理にすることではなく革命的大衆路線を歩むべきという意味で「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」という一文は注目すべき重要な部分であると考えます。
■帝国主義者の干渉を斥けることの重要性
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性を擁護し実現するためには、国家と民族の自主性を確固と守らなければならない」とし「政治における自主、経済における自立、国防における自衛を実現するのは、わが党が終始一貫、堅持している革命的原則である」とされます(p23)。不朽の古典的労作である『チュチェ思想について』で指摘されたチュチェの根本原則ですが、キム・ジョンイル総書記は帝国主義勢力の「人権」を口実にした内政干渉について「外部勢力に支配される国の人民には決して、人権が保障されない」として「人権は、国家と民族の自主権と切り離しては考えられない」と指摘なさいます。これは、人権とは本来的に「政治、経済、思想・文化など社会生活の各分野で人民が行使すべき自主的権利であ」るからです(p23)。
帝国主義者たちが口実として用いる「人権」は、つまるところ「金さえあればなんでもできる有産階級の特権」に過ぎず、その証拠に「帝国主義者は失業者の労働の権利、身寄りのない人や孤児の生活の権利などは人権として認めていない」と強調なさるキム・ジョンイル総書記(p23)。「勤労者に初歩的な生存の権利さえ与えず、反人民的な政策と人種的・民族的差別政策、植民地主義政策を実施する帝国主義者には、人権について論ずる資格もな」いのです。このことは、ブルジョア「人権」論の虚偽性・偽善性を鋭く突くご指摘です。キム・ジョンイル総書記が強調されるとおり、「人権の第一の敵は、人民の自主権を踏みにじり、「人権擁護」の看板のもとに他国の内政に干渉する帝国主義者であ」ります(p24)。
ところで、前掲の『朝鮮新報』記事では≪또한 장군님께서는 군사를 국사중의 제일국사로 내세우시고 사회주의조선을 굳건히 수호하심으로써 사회주의의 강용성을 만방에 힘있게 떨치시였다.≫とか≪제국주의자들의 반혁명적공세로부터 사회주의를 고수하는것이 조국과 민족의 천만년미래를 결정짓는 중대한 력사적과제로 제기된 고난의 시기에 강력한 군력을 기반으로 하는 사회주의기본정치방식을 정립하시고 강국건설의 만년토대를 다져주신 장군님의 정력적인 령도에 의하여 주체의 사회주의의 과학성과 진리성은 빛나는 현실로 더욱 뚜렷이 립증되였다.≫としていますが、この労作において軍事について語っているとすれば、ここくらいのもの。共和国は建国2年目に勃発した祖国解放戦争以来ずっと戦時体制なので軍事を軽視したことは一度たりともありませんが、かといって当該労作が取り立てて軍事について論じているとも言い難いところです。とりわけ、この労作の発表(1994年11月)以後である1995年元旦を以って「先軍政治」が始まったとされています(パク・ボンソン『北朝鮮「先軍政治」の真実:金正日政権10年の回顧』)。≪강력한 군력을 기반으로 하는 사회주의기본정치방식≫という記述においては「先軍政治」という単語こそ出てきてはいないものの、そう言っているに等しいもの。「先軍政治」のスタートが2か月繰り上げられ、朝鮮式社会主義の不可欠な要素に改めて組み込まれたに等しいことが意味するところについては、今後の動向を慎重に見極める必要があると思います。
■社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たす必要がある
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は社会のあらゆるものの主人として、その責任と役割を果たさなければならない」として人民大衆が持つべき自覚と果たすべき責任そして役割の水準を要求なさいます(p24)。第1節でも強調されていたとおり、「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」だというのが主体的な社会主義建設路線です。革命と建設は人民大衆のための事業であり人民大衆自身の事業なのだから、そこで提起されるすべての問題を自分自身が責任をもって自分の力で解決することこそ主人たるに相応しい態度です。また、人間が唯一の自主的かつ創造的存在であるからこそ人間が世界の主人としての地位と役割を得られるというのがチュチェ思想の人間観なので、自主意識を高めて責任と役割を果たすことはその意味でも当然の結論になります。
キム・ジョンイル総書記は、そのためには「主人としての自覚を高めなければならず、そのためには思想改造、政治活動を優先させなければならない」と指摘なさいます。「社会主義社会での社会発展の基本的推進力は、自主的な思想・意識で武装し、党と領袖のまわりにかたく団結した人民大衆の高い革命的熱意と創造的積極性」であるからです(p24)。「思想改造、政治活動をすべての活動に優先させるのは、社会主義社会本来の要求であ」ります(p24)。
自主とは文字どおり「自分自身の主人となる」ことを意味します。この意味での主人とは責任と役割を果たす人間のことを言います。無責任で利己主義的な人物は決して主人とは言えません。高い自覚と責任感を持ち、自らの役割を十分に果たす者のみが主人を名乗ることできます。その意味では、個人主義社会としての資本主義社会は、社会に主人が存在しておらず無秩序な社会であるという見方ができるでしょう。
ここにおいてインセンティブに依拠する方法は資本主義的な方法であり「人びとの革命的熱意と創造的積極性を高めることができないばかりか、社会主義制度そのものを変質させて危険におちいらせる結果をまねくようになる」とキム・ジョンイル総書記は警鐘を鳴らします(p25)。カネで動くのは主人としての振る舞いとは言い難いものです。共同体の主人として集団主義原則に基づいて生きる社会主義社会は、「金で人びとを動かす資本主義的方法」によっては運営し得ないものです。
インセンティブに依拠する資本主義的動員方法は、資本主義においてもあまり上手くいくものではないとも指摘しておきたいと思います。2023年5月8日づけ「災い転じて福となすべく「民間にできることは民間に」を換骨奪胎しよう」で取り上げましたが、いま日本では「大して成果を上げていないのに国会議員が多すぎる、政治家の報酬が高すぎる」という言説が罷り通っているのが典型的・代表的ですが、期待どおりの仕事をしない人に対しては本来的には監督・指導を強化して報酬に見合うだけ働かせるのが正道であるところ、それに先行してクビだの減給だのといった話がありとあらゆる場面で大手を振っています。さしづめ、他人の仕事を監督するというのは非常に面倒くさく即物的な成果が出にくいので、手っ取り早く楽をするために「働きが十分ではない人を指導して働かせる」よりも「働きが十分ではない人をクビにして取り換える」のを選んでいるのでしょう。これは、解雇をはじめとする不利益な取り扱いをチラつかせるというのは最も簡単な古典的労務管理手法ですが、そうした方法論が惨劇として現れたのが当該記事でも取れたとおり、JR福知山線脱線事故でした。
なお、カネで人を動かす方法に「依拠」してはならず思想改造、政治活動を「優先」させるべきだとしており、インセンティブを全面的に否定・排撃するものではないと申し添えておきたいと思います。もしもインセンティブの方法論を全面排撃しているとすると現行の社会主義企業責任管理制と衝突を起こすことになりますが、『社会主義は科学である』発表30周年記念大会が先般大々的に開かれた点を鑑みるに、このあたりの思想的折り合いはついていると言え、少なくとも現時点での『社会主義は科学である』の公式解釈においては、当該くだりはインセンティブの方法論を全面排撃するものと解釈されてはいないでしょう。
また、ここでいう政治活動の優先には、目下キム・ジョンウン総書記が取り組まれていらっしゃる、自己の生産単位・職場の単位特殊化・本位主義への反対も含まれるものと解釈すべきでしょう。チュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長は『自主・平和の思想―民衆主体の社会主義を史上はじめてきずく朝鮮とその思想を研究し実践に適用するための日本と世界における活動―』(白峰社、2015年)において「政権を奪取するまえの労働者たちの闘争課題は、賃金を上げることを中心とする労働条件の改善でした。労働者たちは政権につくまえは、社会主義思想を身につけていたわけでもなく、国家全体のことを考えたこともありませんでした。主に個人の要求を実現するためにたたかってきたため、運動の過程で民衆のことを思う気持ちは十分に形成されませんでした」と指摘しています(同書p8)が、単なる労働運動・待遇向上運動の延長線上では、労働者は往々にして自分たちの利益拡大にのみ関心を示し、社会全体の利益を考えることはしないものです。社会の主人であるべき人民大衆は、個人主義者等であってはならないのは当然ですが自己の生産単位・職場の本位主義者であってもならないはずです。
かつてアダム・スミスは「神の見えざる手」が働く前提として「公平な観察者」という概念を打ち出しました。自由市場と「公平な観察者」とを両立させるスミスの理想は、制度設計の問題として実現可能性が疑わしいと言わざるを得ませんが、「公平な観察者」は社会主義社会において必要とされるでしょう。
■社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、人民大衆の創造的能力を養う必要がある
続いてキム・ジョンイル総書記は、「人民大衆の創造的能力を培養」すべきだとします(p25)。人民大衆は社会のあらゆるものの創造者なので、革命と建設の成果は、人民大衆の自主的意識と創造的能力を高める活動をいかに進めるかにかかっているからです。人民大衆の自主意識とともに創造的能力を高める必要があるのです。このことは、人間が唯一の自主的かつ創造的存在であるからこそ人間が世界の主人としての地位と役割を得られるというのがチュチェ思想の人間観なので、自主意識を高めて責任と役割を果たすこと(前項)と並んで、人民大衆の創造的能力を養うことは当然の結論になります。
生産力の問題については本稿でも先に触れましたが、従前の社会主義理論が結局のところ生産力至上主義に陥り、それが更に「社会主義政権下では生産力を向上させさえすれば、社会主義建設は推進・強化され、ゆくゆくは共産主義社会が実現する」という荒唐無稽な展望に変質した歴史的教訓を踏まえたとき、キム・ジョンイル総書記が、生産力向上の論点を含めつつそれを「人民大衆の創造的能力を培養すべき」という形で取りまとめたことは画期的なことであると言えるでしょう。マルクス主義の理論を下敷きにしつつ歴史的教訓をも踏まえて、人間を中心に据える世界観・社会歴史観を貫徹することで説得力のある理論を構築さなっているわけです。
資本主義社会では人民大衆の自主的意識と創造的能力は十分には高まらないとキム・ジョンイル総書記は指摘なさいます。なぜならば、資本主義社会の主人である資本家は、自らに従順で剰余価値を生みだす奴僕を必要としており自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間は必要としていないからです。確かに日本においてもかつて、作家の三浦朱門がそのようなことを口走っていたとされています(http://www.labornetjp.org/news/2010/1265641187674JohnnyH/)。「帝国主義者と資本家は、勤労者大衆を資本の奴隷にするために手段と方法を選ばず、大衆を思想的に堕落させ、かれらの創造的能力を奇形化してい」るのです(p26)。
資本主義的生産様式に基づく資本主義経済は、確かに人類史全体を見たとき生産力を飛躍的に拡大させ物質的生活を豊富にしました。私たちはいま、100年前・200年前とは比べ物にならないほど物質に溢れた生活を送ることができています。しかし、資本主義経済における個々の生産者は、人々の需要を満たして生活を豊かにすること自体は目的とはしておらず、商品を販売して利益を得ること自体、つまり価値増殖を生産活動・経済活動の目的としています。需要充足自体ではなく利潤獲得を経済活動の目的としている以上は、すべてはどうしてもその目的に従属する形を取らざるを得ません。人民大衆の自主的意識と創造的能力は、利潤獲得に有用ないしはそれを妨害しない程度で許されるに留まるものであり、それ自体が目的にはなり難いのです。
特に資本主義経済は営利経済であると同時に競争経済でもあり「停滞とはすなわち後退」となるので、不断に利潤を上げ続けざるを得ません。それゆえ、特に衣食住が基本的に充足されている現代資本主義社会では、コマーシャル・メッセージ(CM)などを駆使して流行を人為的に創出し、存在しなくても生きていく上では問題はないような需要を半ば強引に作り出してまで商品を売り込もうとするケースも頻繁に目にすることができます。この点についてキム・ジョンイル総書記は先に「前進しよう」論文において「資本家は、商品の販路がしだいにとざされていくにつれ、非人間的な需要を人為的につくりだし、人びとの物質生活を奇形化する方向に進んでいます。資本家によって奢侈と腐敗堕落した生活が助長され、人間の肉体と精神を麻痺させる各種の手段がつくりだされた結果、麻薬常習者やアルコール中毒者、変態的欲望を追い求める堕落分子が日を追って急増しており、人びとは精神的・肉体的障害者に変わりつつあります(中略)資本家は、勤労者大衆の自主的な思想・意識を麻痺させ、人びとを資本主義的な搾取制度に従順にしたがわせるため、反動的で反人民的な思想と文化、腐りきったブルジョア的生活様式をヒステリックにまき散らしています」(『金正日選集』第9巻、p31)と指摘されています。
これに対して国家権力と生産手段が人民大衆のものとなっている社会主義社会は、切磋琢磨という意味での社会主義的競争は存在しますが、生産活動・経済活動の目的は自分たちの需要を満たして生活を豊かにすること自体です。党と国家の指導の下、無秩序な競争は廃除されます。もちろん、資本主義社会から社会主義社会に体制移行したとしても、一定期間は人々の頭の中には資本主義的な思想の残滓があるので、資本主義時代のCMが持て囃していたブルジョア的生活様式すなわち物質偏重志向の発想や、価値増殖志向の発想が現れることもあるでしょう。キム・ジョンイル総書記が第2節において「人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通して自主的な思想・意識で武装し、全面的に発達した創造的能力をそなえてこそ、社会と集団のため積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高く生きていくことができる」(p17-18)と指摘なさったことの重要性、特に健全で豊かな文化生活の重要性は、この点においても重要性を持つと考えます。
■「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は、社会のあらゆるものの主人として誉れ高い幸せな生活を享受しなければならない」と言明なさいます(p26)。そして、「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において、物質生活は重要な位置を占める」とした上で「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」と指摘なさいます(p27)。社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かすことこそが人間が人間たる証なのです。
これは、第2節p17で肉体的生命と社会的・政治的生命との関係に関連して「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」と確言されていたことの繰り返しでしょう。決して長くはない論文の中で同趣旨のお言葉が繰り返される点を鑑みるに、この点こそがチュチェ思想にもとづく社会主義運動が最も重視していることであり、最終的目標であると見做せるでしょう。
そして、後述されるように、すべての人々が自己の社会的・政治的生命を輝かせる社会は、その社会そのものが一つの社会的・政治的生命体と化します。つまり、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
キム・ジョンイル総書記は「人民は元来、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かして生きていくことを求めるが、搾取社会ではそれが実現されない」と指摘なさいます。その理由は、「人間による人間の搾取と抑圧は、人民への愛情と信頼とは決して両立しえず、搾取者と被搾取者のあいだには真の愛情と信頼はありえない」からです。「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される資本主義社会では、人民大衆への愛情と信頼について論ずることはできない」のです(p27)。
このご指摘は当ブログがチュチェ思想・主体的社会主義を支持する根本的なところを指摘なさっているくだりです。世界観・社会歴史観だけでなく人生観の問題にも解答を与えているからです。当ブログは、このような見解に共感・理解するからこそ、その実現方途としての主体的社会主義の運動を支持しています。
ブルジョア社会・資本主義社会における人間関係は、端的に言ってしまえば「カネの切れ目が縁の切れ目」であります。本来、人間社会における経済活動は社会的存在としての人間にとって手段に過ぎず、経済生活は社会生活全体の一部分に過ぎない・経済の論理は社会の論理に隷属するはずです。しかし、近代社会・資本主義社会においては部分に過ぎなかったはずの経済分野が社会全体を呑み込んでしまい、社会が経済に隷属する逆転現象が起こってしまっています。その結果として、人間同士の関係までもが経済生活の編成様式、つまり市場的な人間関係、相手を生身の人間としてではなく「自分の役に立つサービスを提供する存在」として取り扱う関係に成り下がっています。人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然化しています。
当ブログか特に危機感を感じるきっかけになったのが、今般の新型コロナウイルス禍でした。当ブログでもかなり力を入れて世相について取り上げました(たとえば、2021年9月9日づけ「「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」はどのように誤っているのか・・・朝鮮民主主義人民共和国の先進性との比較」)が、新型コロナウイルス禍における日本世論の政府に対する諸々の要求内容が悉く、消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのそれであったと言わざるを得ませんでした。自分たちの共同体であるという意識がまったく欠落しており、未知の病原体に対して本来であれば全国民が知恵を出し合って突破口を見出すべきところ、「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ! 方法は分からん! それを考えるのが政治家や役人の仕事だろう! 「国民は税金を払っているんだぞ!」と言わんばかりでした。政治空間に商品取引の感覚を持ち込むことに何の問題意識も働かなくなったわけです。いよいよ人間が全面的に「商品化」しつつあります。
資本主義社会が搾取社会であることは間違いのないことであり、搾取の問題は重大な問題であることは論を俟ちません。しかし、より重大なのは「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価され」る点にあると当ブログは考えます。酷使や搾取の問題も重大ですが、人間が人間として見做されない・扱われないということは、それよりも遥かに重大な問題・異常な状況であると考えます。資本主義社会の行きつく先は、社会的存在としての人間の本質に反する異常な社会にならざるを得ないのではないかと危惧するものです。
■「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ…全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく…もっとも強固で生命力のある社会となる」――主体的人生観に基づく社会的・政治的生命体論
キム・ジョンイル総書記は「従前の労働者階級の理論はブルジョア反動派の偽善的な超階級的愛情の反動性を暴露し、階級社会では愛情も階級的性格をおびることを明らかにした」と指摘なさいます。ブルジョア連中がが愛用する「国民」談義は虚偽のものであります。しかしながら同時に、「愛情が階級的性格をおびるというのは、愛情と信頼は社会的・階級的立場が同じ人たちのあいだでのみ交わせることを意味するのではない」とし、「社会的・階級的立場は異なっても、人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえる」とします(p28)。
その上でキム・ジョンイル総書記は、「社会主義制度が樹立すれば階級的対立は一掃され、人びとの関係は対立と不信の関係から愛情と信頼の関係にかわる」とされます(p28)。社会主義制度においては人々は、互いに愛し合い信頼し合いながら自主的に生きることができます。つまり、第1節でも触れられていたように、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きられるのです。
社会主義社会では、「愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、それは領袖と戦士のあいだでもっとも崇高な発現をみ」ます。「領袖と戦士、党と人民が愛情と信頼によって結びつき、全社会が一つの社会的・政治的生命体とな」るのです。「社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生がもっとも貴く美しい生」の送り方であると言えますが、人々が愛と信頼で結びつき全社会が一つの社会的・政治的生命体となった社会は、「もっとも強固で生命力のある社会とな」ります。社会そのものが一つの生命体になるという意味において、社会的・政治的生命体論(社会政治的生命体論)は社会有機体論の一種であると言えます。
このように、資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。そしてそうした社会であるからこそ、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かす最も貴く美しい生が実現した強固で生命力のある社会が実現するのです。この点はまさに、社会的・政治的生命体論の核心部分であります。先にも触れましたが、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とは要するに、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
第2節p17で、ここと同じ趣旨で「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」とキム・ジョンイル総書記が指摘なさっているとおり、社会的集団に献身的に奉仕するから社会的集団に愛され信頼され、それゆえに自主的で創造的な生活を営むことができます。カネの関係や権力の関係では、愛と信頼を得ることはできません。
社会的集団のために献身する生活について、ハン・ドンソン氏の前掲書では次のように詳しく解説しています。すなわち、「自らの運命を集団の運命と一つに結び付けて、集団の要求と利益を、そのまま自分自身の要求の利益と見なし」、「社会と集団の共同の主人になって自主的に生き活動」することです(ハン・ドンソン、2007、p179)。「人間が個人的存在であるとともに集団的存在であ」ることから「人びとの生活にも、個人的な側面と集団的な側面があ」るので、「人びとの生活において、個人的な側面を重視し、個人主義的に生きるのか、あるいは集団的な側面を重視し、集団主義的に生きるのかという問題が提起され」るといいます(同)。
集団主義か個人主義かの対立は、社会主義と資本主義との社会体制上の対立であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との対立に行きつくと先に述べましたが、この対立はまた、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との対立であるとも設定できるでしょう。
また、社会的集団のために献身する生活の創造的な側面についてハン・ドンソン氏の前掲書では、「集団のために寄与することを人生の目的とする人々は、創造的活動も積極的に行うことができ」るとされます。「自己発展の動機を、人民大衆の運命開拓という崇高な事業に寄与することに見いだすとき、創造的情熱は尽き」ないからです。個人的な動機に基づく創造活動は、個人的な能力の限界に達したり個人的に満足したりしてしまえばそれで終わりですが、集団的創造的活動は「個人的なものに自己発展の動機を見いだすときには想像もできない創造力を発揮して、人民大衆の限りない発展のために意義ある貢献をすることができ」るのです(いずれも同書p180)。
結局、社会的集団のために献身する人々の生活は「自主的で創造的に生き発展しようとする自らの要求が実現される喜びと、集団の運命を担って開拓していく誇りに満ちた、充実した生活」となります。これに対して「自分自身の安楽だけを追求する人間は、結局、無為徒食し腐敗堕落した生活をおくることにな」るので、「このような生活に、真の生きがいと幸せはありません」(いずれも同書p180)。
なお、「個人が自らの肉体的生命と社会政治的生命を維持し発展させようとすること自体が、個人主義や利己主義ではありません」。「個人主義と利己主義の誤りは、個人では、世界と自己の運命の主人として自主的で創造的に生き発展することができないにもかかわらず」、「個人の欲望と名誉だけを追求するところにあ」るといいます。特に個人主義については、他人の利益を損ねてでも自己利益を追求する利己主義とは違い個人の自由と平等を主張してはいるものの、「それは、集団を尊重するからではなくて、そうすることが個人の利益を実現するのに有利だから」に過ぎません。
「集団の利益を優先するというのは、個人の要求を放棄するとか、他人のために一方的に犠牲になるという意味では」ないとも言います。「人間はあくまでも自主的存在であって、他人のための手段では」ないので、「人間は、他人のための手段となってはなりません」。ではなぜ、個人が集団のために自らの利益を犠牲にするケースがあるのかというと、「集団の利益のなかに個人の利益があ」るので「より大きい利益のために、小さい利益を犠牲にする」からです(いずれも同書p181)。これがチュチェ思想の集団主義における集団と個人の関係であると言えるでしょう。
なぜ、社会的・政治的生命体において愛情と信頼が社会の紐帯になるのか依然としてピンと来ない方もいらっしゃるかも知れません。本労作で「愛情と信頼」とされているものは、同志愛と革命的信義(革命的義理)という表現になりますが、『チュチェ思想教育における若干の問題について』(1986年7月15日、以下「7・15談話」といいます)においてかなり詳細に言及されています。鐸木昌之氏は前掲書で社会的・政治的生命体論の源流について、7・15談話の内容を分析した上で「社会政治的生命体は、金日成が朝鮮解放前に満洲で展開した抗日パルチザングループを模範にした。この戦闘集団は、指導者と戦士の間の個人的感情で結びつけられ、抗日という目的のために自己の生命までも犠牲にして戦うものであった。また、この遊撃隊は人民の海のなかを泳ぐ魚であり、人民と遊撃隊との関係は切っても切れないものであった。すなわち、抗日遊撃隊の指導者、戦士達、そしてそれを支持する大衆の間で成立した運命共同体を北朝鮮社会全体に敷衍しようとしたのである」(p155-156)と述べていますが、これは非常に分かりやすい上に、各種政治宣伝との整合性を考えるに論理的に説得力があると考えます。光復という理想を目指した抗日パルチザンがそうしたように、共産主義社会という理想を目指す朝鮮民主主義人民共和国もこのように結束すべきだというわけです。
この人間関係は、「自由と平等」を前提としつつもそれよりも一段高みにある関係性であると言えます。7・15談話でキム・ジョンイル総書記は「品物を売る人と買う人は平等な関係にあるとはいえても、彼らが必ずしも同志的に愛しあう関係にあるとはいえません。自由と平等の関係を革命的信義と同志愛の関係と対立させるのも正しくありませんが、どちらかの一方を他のものに溶解させようとするのも誤りです」(同名日本語版小冊子、外国文出版社、2022年、p20)と指摘なさっています。
また、「個人がその生命の母体である領袖、党、大衆に忠誠を尽くすのは、誰かの指図によってではなく、自分自身がもっている社会的・政治的生命の根本要求から生まれ出るものです。それは他人のためではなく、自分自身のためです」(同p23)とも仰っています。
同志愛と革命的信義を現代において如何なる方法で実践すべきかについて、7・15談話でキム・ジョンイル総書記は次のように指摘されています。
当ブログは、先に述べたこととも重なりますが、社会的・政治的生命体論は、本質的に社会的存在としての人間が幸福に生きる人生観を基礎付けるものであると確信するものです。人間中心の社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要になると考えます。ここにおいて、人類史が資本主義で終わるのではなく社会主義、それも人間にとって生命である自主性を回復する主体的な社会主義に進んで行くものと考えます。
■チュチェ思想は人生観を持っているがゆえに死生観も持っている
この労作では深く言及されてはいませんが、全社会が一つの社会的・政治的生命体になり人民大衆がその中で有機的に結びつくということは、生物としての人間が死亡して肉体的生命を終えたとしてもその社会的・政治的生命は、一つの社会的・政治的生命体の中で永生することを意味します。
ハン・ドンソン氏の前掲書によると「崇高な精神をもって人民大衆のために生涯をささげた人々は、社会的集団と、愛と信頼の絆で結ばれてい」るので、「このような人々は、たとえ肉体的生命が途絶えたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、かれらにたいする愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残ります」。それゆえ「人民大衆の運命を開拓する偉業にすべてを尽くして献身するとき、肉体的には死んでも、社会政治的には永遠に生き続ける」のです(ハン・ドンソン、2007、p169)。
また、ハン・ドンソン氏はより遠大な見解から、社会的・政治的生命の永生は「歴史の流れとともに限りなく引き継がれ、歴史的価値をもち続け」るとも言います。「個人の一生には限りがありますが、社会と集団は限りなく存在し発展」するので、「人々は、社会と集団の未来の創造に寄与することによって、人間の生の大きな歴史的流れに合流することにな」るからです。「人民大衆と生死苦楽をともにしながら自主的で創造的に生きた人生は、代を継いで人々の尊敬と愛を受け、その名は歴史に残ることにな」るのです。これに対して「自分のためだけに生きる生活は、個人の一生で終わる生活で」であり「そのような生活は歴史に残りません」(ハン・ドンソン、2007、p185)。ここには儒教文化の死生観の影響が非常に色濃く現れていると言えるでしょう。
意味が分からないという感想をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。そこでまたしても鐸木昌之氏の前掲書から引用したいと思います。
加地伸行氏の儒教における死生観を引用しつつ社会的・政治的生命体論の死生観の論理構造の類似性を指摘する上掲引用部分からは、ほとんどの人が儒教的死生観を持っていない日本人には理解困難かも知れません。「自己の生命とは、実は父の生命」というのは日本文化の文脈では馴染みの薄い考え方でしょう。しかし、朝鮮文化の文脈に照らしたとき、社会的・政治的生命体論の死生観が決して突拍子のないことを言い出しているわけではないということだけはお分かりいただけるのではないでしょうか。
なお、鐸木氏は引用範囲の最終段落で「それゆえ主体の血統の創始者である金日成と金正日親子の実際の血縁関係もそのなかに含意されているのはいうまでもない」として、朝日新聞の牧野愛博氏が一時期、ナントカのひとつ覚えのように連呼していた所謂「白頭の血統」論に通ずる主張を展開していますが、王の息子が君主制主義者であるとは限らないように革命家の息子が革命家になるとは限りません。鐸木氏が取り上げている「代々多くの愛国者を輩出した稀有の革命的家系」というくだりを当ブログは、そのような家系に育ったからこそ、つまり、最も立派な革命家一族であるキム・イルソン一家に生まれ育ったというその思想的生育環境が、キム・ジョンイル総書記をして生まれながらの革命家としての英才教育を受ける機会を獲得でき、立派な革命家せしめたと解釈すべきではないかと考えます。
それはさておき、このような死生観を持っているからこそチュチェ思想において最も恐れるべきことは、社会集団から見放されること、そして、人々から忘れられることになるでしょう。チュチェ思想は独自の人生観を持っているがゆえに死生観も持っているわけです。
キム・ジョンイル総書記が逝去なさったときの公告≪전체 당원들과 인민군장병들과 인민들에게 고함≫(すべての党員と人民軍将兵、人民に告ぐ)では、最後に≪위대한 령도자 김정일동지의 심장은 비록 고동을 멈추었으나 경애하는 장군님의 거룩한 존함과 자애로운 영상은 우리 군대와 인민의 마음속에 영원히 간직되여있을것이며 장군님의 성스러운 혁명실록과 불멸의 혁명업적은 조국청사에 길이 빛날것이다.≫(偉大な領導者である金正日同志の心臓は、たとえ鼓動を止めたとしても、敬愛する将軍様の神聖なる尊名と慈愛に満ちた御姿は我が軍隊と人民の心の中に永遠に残り続けるであろうし、将軍様の聖なる革命実録と不滅の革命業績は祖国の青史に永遠に輝き続けるだろう)という一文がありましたが、これはチュチェの死生観が非常によく表現されているものであると言えます。キム・ジョンイル総書記は今もなお生き続けておられるのです。
ディズニー映画に『リメンバー・ミー』という映画があります。大きくヒットし、テレビでも何度か放送されているので見たことがある方もいらっしゃるでしょう。死後の世界が存在するという世界観の下、メキシコ人の少年が死者の国に渡るというアニメ映画ですが、その中で「生者の国において皆から忘れられると死者の国からも消滅してしまう」という「二度目の死」なる設定があります。(筋書はウィキペディアにあるので読んでみてください)。
ディズニー映画なので社会的・政治的生命体論に則っていないのは勿論で、儒教の死生観を踏まえているとも考えにくいものですが「生きている人たち皆から忘れられると完全に消滅する」という「二度目の死」なる設定には、当該映画は家族愛(生物学的な血縁関係の間柄での愛)の物語に留まってい点には注意が必要ですが、チュチェ思想の死生観にも繋がるものがあるように思えます。そして、そのような映画が西側世界で大きくヒットしたことは、西側世界においてもチュチェ思想の死生観にまったく可能性がないとは言えないことを示しているのではないかと考えます。
このような死生観は、個人主義に基づく社会・資本主義社会では勿論、実現不可能なものです。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保証にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、愛と信頼の関係性が紐帯として実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、極めて難航しています。社会的包摂もできないのだから、社会的・政治的生命の永生など到底不可能です。
集団主義か個人主義かの対立は社会体制の対立であり、それはつまり人間観の対立であり、人生観の対立でもあると先に述べましたが、これはそのまま死生観の対立になるわけです。個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との対立です。
■仁徳政治論が社会主義・共産主義党の性質を理論的に転換した
キム・ジョンイル総書記は、「人民大衆中心の社会主義は社会生活のすべての分野に同志的団結と協力、愛情と信頼の関係をもっともりっぱに具現し、政治も愛情と信頼の政治にかえる」として社会主義政治の本質的特徴を端的に指摘なさいつつ「愛情と信頼、これは人民大衆が政治の対象から政治の主人となった社会主義社会において政治の本質をなしている」として「われわれは愛情と信頼の政治を仁徳政治と称している」と宣言なさいます。そして「社会主義社会で真の仁徳政治を実現するためには、人民にたいする限りない愛情を体現した政治指導者をおしたてなければならない」となさいます。「仁徳に欠けていれば人民に背いて社会主義を滅ぼす結果をもまねきかねない」からです(p28-29)。
「社会主義社会で愛情と信頼の政治をほどこすためには、社会主義政権党を母なる党に建設しなければならない」とキム・ジョンイル総書記は仰います(p29)。「労働者階級の党は社会の指導的政治組織であ」るので、「社会主義社会で国家機関とすべての組織が人民にいかに奉仕するかということは結局、党をいかに建設するかということと関連している」からです。
「党を母なる党に建設するというのは、母が子をこのうえなく愛し、あたたかく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもってこまかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味」します。キム・ジョンイル総書記は、「以前は党を主に階級闘争の武器とみなした」としつつ「労働者階級の党は階級闘争も展開すべきであるが、党のすべての活動はあくまでも人民への限りない愛情と信頼から出発しなければならない」(p29)として社会主義・共産主義党の性質の理論的転換を図られました。「党は人民大衆の利益を擁護することを第一とし、人民大衆の利益を侵害する者とたたかわなければならない」のです。党は確かに階級闘争の武器ではあるが、それは結局のところ人民への限りない愛情と信頼から出発しているわけです。当ブログはこの政治観に全面的に賛同するものです。
本稿では先に「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」という一文に関連して、このことを革命的大衆路線として位置づけました。大衆路線というと毛沢東・中国主席の政治姿勢として非常に有名なものです。キム・ジョンイル総書記の政治姿勢も毛沢東主席の政治姿勢と通ずるところは確かにありますが、「母なる党を建設すべきだ」とする仁徳政治論はキム・ジョンイル総書記の専売特許であると言うべきでしょう。
愛情と信頼が全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会の紐帯であるわけです。朝鮮労働党の革命的大衆路線は、単に党員が人民の輪の中に自ら入って行き意思と要求を聞き取ることではなく、人民への限りない愛情と信頼から出発し、母が子をこのうえなく愛してあたたかく見守るように接することなのです。
■人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成するために
キム・ジョンイル総書記は、「社会主義政権党を母なる党に建設するためには、すべての幹部と党員を人民を限りなく愛し、人民に忠実に奉仕する精神で教育しなければならない」と強調なさいます。「革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためであ」り「苦労は人に先がけ、楽は後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は譲る人が真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員である」と仰います。そして「党員をこのように育てるためには、かれらのあいだで人民に献身的に奉仕する思想教育活動を強化しなければならない」とも仰います(p29-30)。
欲まみれの俗物には、なかなか達しえない高い党性・思想性を必要とする水準です。だからこそ社会主義・共産主義党の党員はエリート中のエリート、選良の中の選良であるわけです。党は常に人民大衆と渾然一体の関係にあらねばならぬが、かといって誰彼構わず党員にするわけにも行かないと考えます。単なる出世機会主義者などは慎重に排除しなければなりません。キム・ジョンイル総書記は「少なからぬ党が人民大衆の支持と信頼を失い、結局、その存在を終えるようになったのは、党を、人民の運命を責任をもってあたたかく見守る母なる党に建設するのでなく、権勢を振るい、権力を乱用する官僚的党に転落させた結果である」と警鐘を鳴らされています(p29)。
キム・ジョンイル総書記は「社会主義社会で仁徳政治の実現を阻む主な要素は、幹部のあいだにあらわれる権柄と官僚主義、不正腐敗である」と仰います。社会主義はあらゆる特権に反対しているのにも関わらず汚職が発生するというのは、反社会主義現象以外の何物でもありません。
キム・ジョンイル総書記は「国家主権と生産手段が人民の手に掌握されているかぎり、社会主義社会で新たに特権階級が生まれることはない」が、「党と国家のすべての政策は幹部を通じて実行されるので、党と国家がいくらりっぱな政治をほどこしても幹部が権柄と官僚主義に走ると、それは正しく具現されない」と指摘なさいます(p30)。そして、そのためにキム・ジョンイル総書記は「幹部を徹底的に革命化」しつつ「かれらのあいだで権柄と官僚主義、不正腐敗に反対する闘争を積極的にくりひろげる」こと、「幹部のあいだで権柄と官僚主義、不正腐敗の傾向を根絶するための教育活動と思想闘争をひきつづきねばり強くくりひろげなければならない」と強調なさいます。
これは非常に重要な指摘です。「大衆から支持されない党はその存在を維持することができない。歴史的教訓が示しているように、社会主義政権党が幹部の権柄と官僚主義、不正腐敗を許容するのは、みずから墓穴を掘るようなものである」と指摘なさっているのは全面的に正しいと考えます。しかし、このことについて、当ブログの関心に沿って日本の状況に引き付けると、「革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためであ」り「苦労は人に先がけ、楽は後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は譲る人が真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員であ」るところ、そのような人材は日本には非常に稀有であると言わざるを得ません。
キム・ジョンイル総書記は「鍛練の足りない一部の幹部は思想的に変質し、人民から遊離して特殊階層化しかねない」と仰いますが、日本ではむしろ「鍛練の足りない幹部」が多数派になるでしょう。それゆえ、キム・ジョンイル総書記の指摘を日本において実践するとなると、当ブログは、教育活動と思想闘争はもちろん積極的に展開させなければならないが、仮借なき汚職排撃闘争及び、いわゆる「不正のトライアングル」理論に基づく仕組み作りも前面に押し出す必要があると考えます。
全体の文脈から考えて、ここでの教育活動及び思想闘争重視のくだりは、「社会主義社会は高い思想・意識で武装し、一つに統一団結した人民大衆の創造力によって発展する社会であ」り「人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができる」という命題に対応しているものと思われます。損得勘定で人を動かす方法論がブルジョア的であることは論を俟ちませんが、日本はまさにブルジョア社会であるからこそ、教育活動及び思想闘争にプラスして幹部当人の損得勘定に訴えるべく汚職排撃闘争も展開せざるを得ないものと考えます。
また、キム・ジョンイル総書記が権柄と官僚主義、不正腐敗の問題を「われわれの内部に古い思想を扶植しようとする帝国主義の思想的・文化的浸透策動がつづいている状況」と結び付けて反汚職闘争を論じている点に注目すべきであると考えます。
ほんのわずかな体制の綻びを突いて全体を瓦解させようとするのが帝国主義者の手口です。特に不正腐敗は、「あいつばかり地位を利用して美味しい思いをしやがって、オレだって・・・」「みんなやっているから・・・」といった具合に他人に「伝染」してゆくものです。それは社会主義体制を内部から衰弱させるだけではなく、そうした思想的荒廃が外部勢力に付け入る隙を与えることになります。特に帝国主義者は本質的に個人主義、個人の私的利益の徹底的な追求を是とする思想的基盤に立っているので不正腐敗と思想的に親和的です。社会主義政権党幹部の権柄と官僚主義、不正腐敗は、帝国主義者の足掛かりになりかねないのです。キム・ジョンイル総書記の指摘を全面的に支持するものです。
■人民大衆の社会的・政治的生命を輝かす党と領袖の仁徳政治
キム・ジョンイル総書記は、党と領袖の仁徳政治によって朝鮮人民は社会的・政治的生命を輝かしており、誉れ高く尊厳ある生を営んでいると指摘なさいます。「社会の全構成員が互いに信頼し愛し、助け合いながらむつまじい大家庭をなし、ともに生きがいと幸せを享受しているのがわれわれの社会の真の姿であ」り、それゆえに「わが国では全人民が領袖を実の父と仰ぎ、党のふところを母のふところと信じて慕い、領袖、党、大衆が生死、運命をともにする一つの社会的・政治的生命体をなしている」と指摘なさいます(p31)。
既にふれてきたとおり、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営むことが社会のあらゆるものの主人としての誉れ高い幸せな生活であり、社会主義体制においてこそ全社会は一つの社会的・政治的生命体となるので社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていけるようになるわけですが、より具体的には、党と領袖の仁徳政治を執り行うことが必要であるというわけです。
また、精神的・道徳的風格だけでなく物質や文化面においても健全かつ平等な生活が現れていると指摘し、無料義務教育制や無料治療制について言及していらっしゃいます(p32)。翻って日本では、たとえば社会保険料については「給付水準と負担水準」のバランスの話ばかりが取り沙汰され、そもそもの制度理念などについては顧みられることさえありません。日本における仁徳政治など夢のまた夢であると言わざるを得ないでしょう。
■仁徳政治と後代愛
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治の恩恵は、育ちゆく新しい世代にいっそうこまやかにほどこされている」として後代愛について筆を進められます。「革命の前途と、国家と民族の興亡盛衰は新しい世代をいかに育てるかにかかっている」ため「新しい世代の育成問題は親だけに責任を負わせることではない」と言明されます(p32)。
「新しい世代の将来が親の財力によって左右される資本主義社会では、かれらが社会的不平等と社会悪の餌食になるのは避けられない」が、これに対して「仁徳政治が実施されているわれわれの社会主義社会では、すべての新しい世代を国家が引き受けて育てている」とします(p33)。日本では昨今「親ガチャ」という言葉が頻繁に取り沙汰されます。「親ガチャ」は必ずしも教育の話に限ったものではありませんが、親の経済力と子への教育水準の関係で語られることが多いものです。ここ10年ほどで「質のよい教育はカネを出して買うものだ」という観念がだいぶ薄れてきたものの、依然として日本国家の腰は重いと言わざるを得ません。ブルジョア社会の支配階級は有産階級であり、有産階級は子弟に対する良質な教育にかけるべき資金等に困っていないので、ブルジョア社会では新しい世代の育成問題の優先度は高くはないのです。やはり、日本における仁徳政治など夢のまた夢であると言わざるを得ないでしょう。
■仁徳政治は抗日武装闘争以来の伝統的政治方式であり、広幅政治でもある
キム・ジョンイル総書記は、「仁徳政治は、偉大な領袖金日成同志が早くも抗日革命の日びにその歴史的根源を築き、革命と建設の進展にともなってさらに深化発展させてきた伝統的な政治方式である」と指摘なさいます(p33)。「社会的・政治的生命体論の根源は抗日パルチザンにある」とよく外部からも指摘されることですが、それらの指摘はまったく見当違いというわけではないことが、このくだりから判定できるでしょう。
「人民を限りなく愛する気高い徳性をそなえた敬愛する金日成同志を領袖に仰いだがゆえに、わが国では真の人民の政治、仁徳政治の誇らしい歴史が開かれるようになった」(p33-34)と指摘なさるキム・ジョンイル総書記。たしかに、『キム・イルソン将軍の歌』に歌われているように、キム・イルソン主席は満州広野の吹雪をかき分け密林で夜を明かしてこられました。建国後も『忠誠の歌』で歌われているように、夜明けの早い時間から農場や工場を訪ねては精力的に現地指導なさいました。これらすべては人民に対する限りない愛情がなければ不可能なことです。
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治は、各階層の人民に差別なく愛情と信頼を与える大いなる愛情と信頼の政治である。そういう意味で、われわれはわが党の仁徳政治を幅広い政治といっている」と宣言なさいます(p34)。文献によっては「広幅政治」と表記されることもあります。「わが党は過ちを犯した人であっても見放さず、教育改造して正しい道に導き、社会的・政治的生命を最後まで輝かしていけるよう見守っている」がゆえに幅が広い政治だというわけです。
このことは「北朝鮮」文学の研究分野ではかねてより指摘されてきたことです。古典的な社会主義リアリズムでは決して表象化されないような人物を敢えて取り上げ、そうした人物がどのような葛藤を経て改心してゆくのかや、あるいは、周囲の人々が初めのうちは「あんな勝手なことをしてきておいて、何を今更・・・」と思いつつ、次第に変化する当人を見て過去を許して受け入れるべきかどうか葛藤するのかを題材にしたテーマが少なくありません。広幅政治については、このくだりだけをみるとキレイゴトのプロパガンダだと言いたくなる気持ちも分からなくはありません。しかし、文学論壇での動向を鑑みるに大真面目な課題として取り組まれているものです。
■民族の優れた品性が社会主義において全面的に開花した
キム・ジョンイル総書記は「朝鮮人民にたいする党と領袖の気高い愛情と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こして」おり、「朝鮮人民のすぐれた品性は、現代にいたって新たな精神的・道徳的基礎のうえに全面的に開花発展している」と指摘なさいます(p34)。「朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩徳に忠誠をもって報いるために身も心もささげてたたかっている」のです。
個人的な思いですが、ロシア語版『インターナショナル』の≪Мы наш, мы новый мир построим,Кто был никем − тот станет всем!≫`という歌詞にうたわれるようなソ連流の社会主義・共産主義のビジョンも好きですが、≪우리 자랑 이만저만 아니라오≫の≪민족문화 혁명전통 체계있게 가르치며 조국앞날 지고나갈 학생들이 자랍니다.≫にうたわれるように、민족문화(民族文化)と혁명전통(革命伝統)とを等しく取り扱う共和国流のの社会主義・共産主義のビジョンのほうが魅力的に感じるところです。なお、この点は、本稿最終節の温故知新論に繋がります。
■朝鮮式社会主義は必勝不敗である
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっている。愛情と忠誠にもとづく領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であり、このような一心団結に根ざしている朝鮮式の社会主義は必勝不敗である」と確言なさいます(p35)。国家主権と生産手段が人民のものとなることで個人主義が克服されて集団主義化されており、また、党と領袖の仁徳政治が執行されている朝鮮民主主義人民共和国においては、社会は一つの社会的・政治的生命体となり社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていけるようになっているが、このような領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であるので、朝鮮式社会主義は必勝不敗なのです。
これに対して先にも述べたとおり、人間関係がいよいよ全面的に「商品化」しつつある日本では、仮に党と首領が人民に対して限りない愛に基づく政治を施したとしても「税金を払っているのだから当然」としか考えないでしょう。
キム・ジョンイル総書記は労作の最後に「人民大衆が国家と社会の主人としての地位を守って権利を行使し、主人としての責任と役割を果たし、主人としての誉れ高い幸せな生活を享受しているところに、人民大衆中心の朝鮮式社会主義が人民大衆の絶対的な支持と信頼を受ける不抜の社会主義となる根拠がある」としつつ「わが党はつねに、社会のあらゆるものの主人である人民大衆を絶対的な存在とし、人民に限りない愛情と信頼をほどこす真の人民の政治、仁徳政治をあくまで実施していくであろう」、そして「人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義は、もっとも科学的ですぐれた有力な社会主義である。社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利する」と確言なさって労作を締めくくられます。
■おさらい
労作の内容を、本文の順序とは若干入れ替えつつ内容を振り返りたいと思います。
チュチェ思想においては人間は社会的存在であるとされます。ここでいう社会的存在とは、人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそであるという意味です。人間を特徴づける自主性・創造性・意識性は生物としての進化の結果として自然に獲得したものではなく人間が社会的関係を取り結ぶ中で形成されるものです。
社会は、人間を単なる生物体ではない特殊な存在とする決定的な要素です。自然環境が人間に肉体的生命を付与し、社会環境が人間に社会的・政治的生命を付与します。人間は、肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っています。
肉体的生命は人間以外の動物も持っていますが、社会的・政治的生命は人間だけが持つものです。それゆえ、社会的・政治的生命の所有こそが人間が人間たる特徴・根拠になります。人間にとって自主性は生命です。人間は自主的な社会的存在として、なにものにも従属したり束縛されることなく自主的に生きることを求めます。そしてそのために目的意識性を持って創造的能力を発揮します。人間以外の動物にはそれができないので本能に基づいて行動するほかなく、また、客観的条件に生殺与奪を握られます。
社会的・政治的生命をもってこそ、人々は、社会的集団とともに、世界と自らの運命の共同の主人となり、自主的で創造的に生き発展することができます。社会に背を向け放蕩する人は、社会的・政治的生命を得ることができず、社会的集団とともに世界と自らの運命の共同の主人になることができないので、まさに資本主義国の人間のように個人的努力の範囲やカネと権力で解決できる範囲で多少のことはできたとしても、自主的で創造的に生き発展することができません。
人間にとっての自主性は生命であるからこそ肉体的生命よりも社会的・政治的生命が重要になります。このような人間の生命の本質ゆえに、チュチェ思想は生の価値、すなわち人生観として「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」と定義します。社会的・政治的生命は社会環境から付与されるものであるからこそ人間の生の価値は、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっています。社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営むことこそが人間の自主的要求を満たすことであり、それはすなわち人間の自主的本性に適うことになるのです。
こうした生は、人民大衆が国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ実現可能です。国家主権と生産手段とを人民大衆が自ら所有する社会主義社会は集団主義に基づいているからです。人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければなりませんが、それは集団主義においてのみ立派に実現されます。個人主義に基づく敵対的階級社会では決して実現され得ません。階級的対立と社会的不平等を生みだし人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになるからです。
このことをキム・ジョンイル総書記は端的に「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」と表現なさいました。
社会主義制度が樹立すれば階級的対立は一掃され、人びとの関係は対立と不信の関係から愛情と信頼の関係にかわります。人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえるからです。資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。
社会主義社会の紐帯である愛情と信頼は、領袖と戦士のあいだでもっとも崇高な発現をみます。領袖と戦士、党と人民が愛情と信頼によって結びつき、全社会が一つの社会的・政治的生命体となります。社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生が最も貴く美しい生であり、それを実現した社会がもっとも強固で生命力のある社会です。社会的集団に献身的に奉仕するから社会的集団に愛され信頼され、それゆえに自主的で創造的な生活を営むことができます。
なお、個人が自らの肉体的生命と社会的・政治的生命を維持し発展させることに関心を寄せることは、ただちに個人主義や利己主義になるわけではありません。また、集団の利益を優先するというのは、個人の要求を放棄するとか他人のために一方的に犠牲になるという意味ではありません。個人が集団のために自らの利益を犠牲にするケースについては、集団の利益のなかに個人の利益があるので、より大きい利益のために小さな利益を犠牲にするものです。
このように、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。チュチェ思想によって、正しい人間観に基づく豊かな人生観と社会主義理論とが結びついたわけです。
このような生を送る人は、社会的集団と愛と信頼の絆で結ばれているので、たとえ肉体的生命が尽きたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、そうした生を送った人に対する愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残ります。それゆえ、そうした人は、社会政治的には永遠に生き続けることになります。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保証にとどまるので、このような死生観は、個人主義に基づく社会・資本主義社会では勿論、実現不可能なものです。
集団主義か個人主義かの対立軸は社会主義と資本主義との社会体制上の対立軸であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との対立軸であり、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との対立軸でもあり、そして個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との死生観上の対立軸として設定できます。
人生観そして死生観にも踏み込んでいる点において、当ブログは、人間中心の社会主義運動、つまり「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて社会的・政治的生命体を構築することを目指す主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要だと考えます。
社会主義の従前理論は正しい人間観に立脚してこなかったため人民大衆の自主化の道筋を正しく解明することができませんでした。「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理に基づく、正しい人間観に立脚しているチュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となりました。
社会的・政治的生命体を構築することを目指す人民大衆中心の社会主義は、正しい人間観に立脚するが故に人間改造・思想改造をすべての活動に優先させつつ自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることを要求します。そして人民大衆中心の社会主義は、正しい人間観に立脚しているからこそ豊かな人生観を展開でき、それゆえに人間の自主的本性に適う社会主義像を提唱し仁徳政治論を展開することができました。
社会的・政治的生命体を構築することを目指す人民大衆中心の社会主義は社会生活のすべての分野に同志的団結と協力、愛情と信頼の関係を具現するので、その政治も当然、愛情と信頼の政治になります。そうした政治を仁徳政治というわけですが、仁徳政治論は、社会主義政権党を母なる党に建設することを求めます。
党を母なる党に建設するというのは、母が子をこのうえなく愛し、あたたかく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもってこまかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味します。全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会の紐帯が愛情と信頼である以上、党がこのように建設されるべきなのは当然でしょう。
仁徳政治論は、人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成することを求めます。また、育ちゆく新しい世代にいっそうこまやかにほどこされています。そして、各階層の人民に差別なく愛情と信頼を与えており、その意味で広幅政治でもあります。広幅政治は決して宣伝上の文句ではなく、文学論壇での動向を鑑みるに大真面目な課題として取り組まれているものであると言えます。
朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩徳に忠誠をもって報いるために身も心もささげてたたかっています。党と領袖の朝鮮人民にたいする愛情と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こしているのです。朝鮮人民のすぐれた品性は、現代にいたって新たな精神的・道徳的基礎のうえに全面的に開花発展しています。
朝鮮労働党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっています。社会を組織化し統一的に始動する政治が愛情と信頼に基づいたリーダーシップを発揮しており、これに対して忠誠に基づくフォロワーシップが展開されています。リーダーシップとしての愛情、そしてフォロワーシップとしての忠誠にもとづく領袖、党、大衆の一心団結は、すべての人々の社会的・政治的生命を輝かせる最も強固な団結です。このようなリーダーシップとフォロワーシップによる一心団結に根ざしている朝鮮式社会主義は、人間本位の社会主義・人民大衆中心の社会主義であり、最も科学的で優れた有力な社会主義です。それゆえ、社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利するのであります。
本稿冒頭でも述べたとおり、本労作は世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されていると考えます。
■「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観を日本の自主化においてどのように参考にするか
上に見てきたとおり、本労作は、人間観の再定立に始まり、人間は肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っていることを指摘したうえで、より重要な社会的・政治的生命すなわち自主性:自主的本性を輝かしうる生活の在り方、すなわち主体的な人生観と、それを実現し得るのは集団主義に基づく社会主義社会であることを論証していると言えます。
このような社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となります。愛情と信頼が社会の紐帯となります。そしてそうであるがゆえに、社会的・政治的生命を持つ個人は、その生命の母体である社会的集団に献身することによって永生することになります。
繰り返しになりますが、この意味において、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
さて、ブルジョア社会としての日本社会を人間の自主的本性に適うような社会に改造するためには、どのようにキム・ジョンイル総書記の労作を指針化すればよいでしょうか?
終局的には集団主義社会としての社会主義社会を目指す必要がありますが、このことは世代を継いで継続的に取り組まざるを得ない歴史的課業にならざるを得ません。商品生産・交換経済が社会全体を侵食し支配している現状を転換することは非常に困難な課業になるでしょう。
キム・ジョンイル総書記はこの労作において、個人主義に基づく資本主義社会は「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会」であると指摘なさいました。当ブログはこの指摘に全面的に賛同するものです。個人主義に基づく資本主義社会があまりにも奇形化しており、社会のすべて、本来は人権の問題として考えるべきテーマについても金儲けの文脈で語ることに憚ることがなくなっています。つまり、人々は他人を「商品」つまりモノ扱いするに至っているとさえ考えます。事態は非常に深刻であると考えます。
たとえば先般、選択的夫婦別姓問題に関して日本経済団体連合会(経団連)が「ビジネス上のリスク」になるという趣旨で導入推進を要望しました。「選択肢のある社会の実現を目指して〜 女性活躍に対する制度の壁を乗り越える〜」において、「一人ひとりの姓名は、性別にかかわらず、その人格を示すもの」としつつ「職業人にとっては、これまで築いてきた社内外の実績や信用、人脈などが紐づく、キャリアそのもの」としている点、本心・魂胆は人格云々の問題ではなく「キャリア」の問題であると告白していると言わざるを得ません。別紙として添付されている「旧姓の通称使用によるトラブルの事例」も、すべてカネ儲け上の話です。もちろん、経済団体である経団連なのだからカネ儲けの話を持ち出すのは「自然」なことです。しかしそもそも、本来、選択的夫婦別姓の是非を巡る問題は、個人の生き方・アイデンティティの問題であり、経済団体である経団連が口を出す問題ではありません。
かつてフランス革命のときブルジョアジーは、「自由・平等・博愛」という「普遍」的な理念を持ち出し、アンシャン・レジームを打倒して自分たちの経済的覇権を確固たるものにしたいという本心を巧妙に隠蔽し、小農民をはじめとする非ブルジョア階級の利益をも代表する素振りを演じたことで革命を成就させました。これと比較するに、今般の現代ブルジョアジーの露骨さは、連中がビジネスを引き合いに出せば強い説得力を持つと考えている、つまりそれだけ現代日本人が経済活動のことしか考えておらず、それについて疑問にも思っていないことを示していると考えます。「選択的」夫婦別姓と言いつつ「社員のキャリア形成のために」といった大義名分を掲げて別姓とすることを「自発的」に「選択」するよう会社・上司から要求されることが非常に懸念されます。
経団連がこんな調子なのだから、知識労働社会化によって労働者階級もプチ・ブルジョアジー化している現代社会、人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会、つまり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然化している社会において、人間性を復興させてその自主的本性に適うような社会にすることは困難を極めることでしょう。
経団連が本来、カネ儲けの文脈で語るべきではない問題に口を出していることに誰も何の疑問も感じていないことは重大ながらもあくまでも一例ですが、このような事態を踏まえるに、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があると考えます。現代日本が人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会であることに対して「異常だ」という自覚がないのです。
より広い視野で言えば、そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要です。人類史の大部分は経済は社会のサブシステムでした。つまり、人類が代を継いで積み重ねてきた人智は、社会の論理に経済の論理を従属させることを前提としてきたものです。
朝鮮民族の伝統的な優れた品性が朝鮮労働党指導下の主体的社会主義社会において全面的に開花したように、過去の人智の中から社会主義の立場に立って有用な見解を復興させることはできないでしょうか? 温故知新という言葉があるように、自主性を生命とする人民大衆が代を継いで創造してきた人類史、とりわけ愛情と信頼に関する蓄積を振り返り、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことが必要だと考えます。
そして、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことによって、論理的必然として「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことであ」り、「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」、そして「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」という本労作の要点に議論が移って行くものと考えます。
もちろん、資本家は、自らに従順で剰余価値を生みだす奴僕を必要としており自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間は必要としていません。健全な文化生活を阻害・妨害する要素は現代日本社会にはあまりにも溢れかえっています。しかし、資本家はそこまで厳格に統制を展開して愚民化政策を展開すべく下らないエンターテイメントばかりを量産させているわけではありません。より正確に申せば、資本家たちは人民大衆の文化生活の状況にそれほど関心を寄せてはおらず、「放し飼い」にしているように見受けられます。糸口はあると考えます。
古今東西の古典的文学作品をよく読み、それを自分自身の自主性を照らし合わせ、現状が極めて異常であることを自覚することから始める必要があると考えます。そして、そうした営みを通じて体得した自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換することが肝要であると考えます。
2022年11月20日づけ「ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道について」で論じましたが、日本の現状に即した集団主義的な社会原理を具体的に模索する必要があると考えます。当該記事では、「集団主義を、「公平性」と「お互い様精神」に基づいて社会を協同的・自主管理的に運営することで、自主・対等・協同の社会関係――個人の意思決定と選択の自由が実現しつつ、人間同士の協同的な関係が実現したもの――を実現するものと定義すれば、ここに社会政治的生命体形成の初期段階を構想することができ」るとし、「自主・対等・協同の社会関係を革命的な同志愛と義理心に発展させることで社会政治的生命体を形成させる」という持論を展開しました。さらに、「労働運動を核心・突破口として、さらに社会政治的生命体の形成に繋げてゆくべき」として「第一段階としての自由化、第二段階としての自主化・協同化、そして最終段階として革命的な同志愛と義理心に基づく社会政治的生命体を形成という段階を踏むべき」としました。
具体的に如何なる形で主体的な社会主義運動を構築してゆくのかは、それぞれの国の現状に依存するものです。自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換するにあたっては、キム・ジョンイル総書記が「前進しよう」論文などで展開なさった資本主義諸国での社会的・階級的構成の変化に応じた対応が必要になるでしょう。人間を中心に据えることの重要性がここにあらわれます。
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえる」と明るい展望を示しておられますが、この愛情と信頼の関係が人民大衆の組織力を強化し、自然と社会そして自分自身を改造する自主的・創造的・意識的な諸活動によって客観世界が人民大衆の自主的要求が実現する新しい世界、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営める世界になって行くのです。つまり、自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換すること自体が社会主義・共産主義社会の部分的成立になるのです。
ものすごく時間がかかることではありますが、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営む道は地道なものだと考えます。人間が本来的に持つ人間性を取り戻すためには、人類が代を継いで積み重ねてきたものを再発見し再評価することから始めるべき地道なものであり、そこで培った「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて具体的な組織的力量を形成してゆく運動を展開する必要があると考えます。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、【社会的・政治的生命体を形成する運動】であると考えます。
かねてより当ブログでは社会主義・共産主義の何たるかを追究してきたところですが、キム・ジョンイル総書記の『社会主義は科学である』は非常に内容豊富で学び甲斐のある労作であると考えます。それは、世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されているからです。
本来であれば11月1日づけで発表すべきところ、内容の調整に時間が掛かり遡って11月1日づけにするのも憚られるくらい遅くなってしまったので、年末総括記事として今回、『社会主義は科学である』に学びたいと思います。労作の内容を引用しつつ当ブログなりに理解した内容をしたため、日本の現状に引き寄せ・照らして考えを述べました。文法的、論理的、そして何よりも思想的に正しく読み込んだつもりではありますが、解釈が適切ではない場合は是非ともご指摘ください。なお本稿では、共和国の外国文出版社が発行した日本語版小冊子を使用しました。共和国政府が公式に運営している「朝鮮の出版物」(http://www.korean-books.com.kp/ja/)で読むことができます。HTML版(ページ数は反映し得ない)であれば、小林吉男様が運営なさっている「小林よしおの研究室」(http://tabakusoru.web.fc2.com/)で読むことができます。
かなり長くなってしまったので、目次をつけておきます。
○第1節・・・社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのか――集団主義と個人主義の対立軸
○正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論
○チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となった
○「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」
○生産力の問題にかかるチュチェ思想の見解――人間にとって生命である自主性を回復する主体的社会主義の必要性
○第2節・・・人間の本質を捉えることは何故重要なのか――主体的人間観
○人間は社会的存在であるという意味
○自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく日本人
○客観的条件の位置づけと社会発展史の本質
○人間の生命の本質と生の価値
○「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」――人生観の問題に解答を与えるチュチェ思想
○集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる
○第3節・・・正しい人間観と人生観に立つ朝鮮式社会主義の優位性
○「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」
○「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」
○帝国主義者の干渉を斥けることの重要性
○社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たす必要がある
○社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、人民大衆の創造的能力を養う必要がある
○「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」
○「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ…全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく…もっとも強固で生命力のある社会となる」――主体的人生観に基づく社会的・政治的生命体論
○チュチェ思想は人生観を持っているがゆえに死生観も持っている
○仁徳政治論が社会主義・共産主義党の性質を理論的に転換した
○人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成するために
○人民大衆の社会的・政治的生命を輝かす党と領袖の仁徳政治
○仁徳政治と後代愛
○仁徳政治は抗日武装闘争以来の伝統的政治方式であり、広幅政治でもある
○民族の優れた品性が社会主義において全面的に開花した
○朝鮮式社会主義は必勝不敗である
○おさらい
○「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観を日本の自主化においてどのように参考にするか
■第1節・・・社会主義が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのか――集団主義と個人主義の対立軸
キム・ジョンイル総書記は労作の冒頭で「社会主義は科学である。多くの国で社会主義は挫折したが、科学としての社会主義は依然として諸国人民の心のなかに生きている」とし、「多くの国での社会主義の崩壊は、科学としての社会主義の失敗ではなく、社会主義を変質させた日和見主義の破算を意味する」とし、「社会主義は日和見主義によって一時的に心痛にたえない曲折をへてはいるが、その科学性、真理性によって必ず再生し、最終的勝利を達成するであろう」と確言なさります(p1)。
第1節冒頭では、人類史について「人民大衆は歴史的に長いあいだ、自主性の実現をめざして力強くたたかいつづけ、その過程で階級社会の交替がなされ、自主性をめざす人民大衆のたたかいが発展してきた(中略)しかし、敵対的階級社会の交替は、人民大衆の自主性を抑圧する形態上の変化をもたらしただけで、人民大衆は社会的・政治的従属から解放されなかった」(p1-2)と、その理由として「いずれも個人主義にもとづく社会であったから」と指摘なさいました(p2)。「私的所有とそれによって生まれる個人主義にもとづく社会は、必然的に社会を敵対する階級に分裂させ、階級的対立と社会的不平等を生みだし、人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになる」からです(p2)。
その上で「資本主義は個人主義をごく少数の資本家の際限ない貪欲にかえ、個人主義にもとづく社会の敵対的矛盾をその極にいたらしめた」としつつ「一方、自主性をめざす人民大衆のたたかいは新たな発展段階に入っている」とし「個人主義にもとづく社会の集団主義にもとづく社会への移行が歴史発展の必然的要求となっている」と現状を分析なさいます。端的に現代を「自主性の時代」であると定義なさっています(p2)。その根拠としてキム・ジョンイル総書記は「集団主義は人間本然の要求である」からだとされます(p2)。「人間は個別的にではなく社会構成員の集団的協力によってのみ自然と社会を改造し、自主的要求を実現することができ」るものです。
キム・ジョンイル総書記は「人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければならない」とした上で「集団主義のみが集団の団結と協力を強め、集団の全構成員の創造的熱意を高め、集団の自主的要求と個人の自主的要求を正しく結合し、ともに満足に実現していけるようにする」と指摘なさいました(p3)。なお、ここでいう集団の自主的要求とは「社会的集団の生存と発展のための社会構成員の共通の要求」であり、個人の自主的要求とは「社会的集団の平等な構成員としての要求であり、社会的集団への寄与により集団から当然、保障されるべき要求」と定義されます。「集団主義を離れた個人の要求は個人主義的貪欲にかわり、そうなれば集団の他の構成員の自主的要求を侵害し、集団の団結と協力を阻害するようになる」と仰います(p3)。人間が自主的要求を実現させるためには集団主義の道を歩むほかないわけです。
そして、「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」とし、社会主義こそが人間の自主的本性にかなったものであると位置づけていらっしゃいます(p3)。克服すべき個人主義に対して集団主義を提唱なさっています。人間の自主的本性に適っているからこそ集団主義に基づく主体的社会主義理論は科学となり、その真理性によって必ず再生し、最終的勝利を達成するのです。
近代社会主義運動の歴史を振り返るに、対立軸を集団主義と個人主義とに設定するご指摘は正統かつ正確なものであると僭越ながら申し上げたいと思います。各種流派の近代社会主義運動は、労働者階級が個人主義に基づく当時の世相・社会構造から自分たちの身を守るために模索したものが源流にあります。労働組合や消費者協同組合・生産者協同組合のようなミクロレベルの社会主義的結社もマクロレベルで組織化された社会主義国家も元を辿ればここに行きつきます。
社会主義の立場が何を問題視して何を解決しようとして運動を展開しているのかを正確に捉える必要があります。個人主義がもたらす害悪を問題視し、人々の自主的要求を実現させることを目指している点にこそ核心があるのです。社会主義運動とは、敵対的階級社会の根本にある個人主義とたたかって、集団主義にもとづく社会を打ち立てようとする人民大衆の自主的要求を実現させるための運動であると言えます。社会主義・共産主義社会を「集団主義にもとづく社会」と表現する点を鑑みるに、朝鮮式社会主義は社会主義諸潮流の正統に位置していると僭越ながら評価したいと思います。
■正しい人間観に立脚してこなかった社会主義の従前理論
キム・ジョンイル総書記は、人民大衆の自主的要求を実現させる集団主義社会としての社会主義社会実現のためには、正しい人間観に立脚することが必要だと説かれます。人間を中心に据えた見解並びに観点及び立場に基づいて集団主義と社会主義について筆を進められます。
「社会主義を実現するには、それを担当して遂行する革命勢力が準備され、正しい闘争方法が講じられなくてはならない」(p4)と指摘なさるキム・ジョンイル総書記は、いわゆる空想的社会主義について「貪欲を階級的本性とする搾取階級に「善意」を期待するのは、非科学的な幻想」と指摘なさいます。科学的社会主義を創始したマルクス主義についても「社会主義は空想から科学となり、人類解放闘争史には革命的転換がもたらされるようにな」り、「人類解放闘争史には革命的転換がもたらされるようになった」としながらも「唯物史観にもとづく従前の社会主義学説は、歴史的制約をまぬかれえなかった」と評価なさいます。「従前の理論は、社会的・歴史的運動をその主体である人民大衆の主動的な作用と役割によって生成発展する主体の運動ではなく、主に物質的・経済的要因によって変化、発展する自然史的過程とみなした」点において「革命の主体の強化とその役割の向上を革命の根本方途として提起することはできなかった」ところに大きな問題があったと指摘なさっているのです(p5-6)。
「革命闘争において客観的条件が重要な作用をするのはいうまでもない」としつつ「しかし、革命の勝敗を左右する決定的要因は客観的条件にあるのではなく、革命の主体をいかに強化し、その役割をいかに高めるかにある」と強調なさるキム・ジョンイル総書記。「歴史的実例は、資本主義の発達した国ぐにではなく、相対的に立ち後れた国ぐにで社会主義が先に勝利したことを示している」とした上で「チュチェ思想の旗のもとに前進してきた朝鮮革命の経験は、革命の主体を強化し、その役割を高めるなら、所与の客観的条件を正しく利用できるだけでなく、不利な客観的条件をも有利にかえ、逆境を順境に、禍を福にかえて革命の勝利を保障することができるということを立証している」と仰いました(p6)。
また、キム・ジョンイル総書記は次のように指摘なさいます。一般的に社会の発展にともなって人民大衆の自主意識と創造的能力が高まることから、社会が発展すればするほど社会的運動の主体である人民大衆の役割はいっそう高まるものである。だからこそ、高い思想・意識を身に着けて一つに統一団結した人民大衆の創造力によって発展する社会としての社会主義社会においては、人間改造、思想改造が物質的・経済的条件を構築する事業よりもなお重要かつ一義的な課題となり、人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができるはずである。しかし、一部の社会主義国では、経済建設にのみ汲々とし人民大衆の思想改造を二次的なものとし、革命の主体を強化しその役割を高めることを疎かにしたため、社会主義建設を正しく進めることができず、しまいには経済建設の停滞をも招いてしまった、と。また、これらの国々では正しい人間観に則っていなかったため、「改革」と称して資本主義的人間観に基づく政策を展開した結果、社会主義経済体制そのものを崩壊させる物質至上主義・経済万能主義的な反革命的行為に手を染めるに至ったとも糾弾なさいます(p7-8要旨)。
キム・ジョンイル総書記は「かつてマルクス主義の創始者たちが物質的・経済的条件を基本にして社会主義学説を展開したのは、神秘主義と宿命論を主張して資本主義を神聖化し、その「永久性」を説くブルジョア反動理論を打破することが重要な歴史的課題となっていた事情と関連している」としつつ「ところがこんにち、社会主義の背信者たちは資本主義に幻想をいだき、それを復活させるために物質至上主義、経済万能主義を提唱した」と指摘なさいます(p7-8)。とうの昔に打倒されたはずの資本主義が社会主義国家において亡霊のように現れるに至った背景には、マルクス主義の物質的・経済的条件重視の姿勢が教条主義的に解釈される思想的風土があったと指摘しておられるわけです。
このようにキム・ジョンイル総書記は、社会主義の従前理論は正しい人間観に立脚してこなかったと指摘されています。正しい人間観に立脚してこなかったから従前理論に依拠した国々では社会主義建設を正しく進めることができず、そればかりか、事もあろうに資本主義的要素を導入するに至り、遂にすべてが崩壊してしまったわけです。
■チュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となった
キム・ジョンイル総書記は「社会主義を新たな科学的土台のうえに引き上げることは、従前の社会主義学説の歴史的制約を克服するためばかりでなく、あらゆる日和見主義者の歪曲と帝国主義者の攻撃から社会主義を固守するためにも非常に切実な課題」であると問題提起なさいます。そして「社会主義を新たな科学的土台のうえに引き上げる歴史的課題は、偉大な領袖金日成同志がチュチェ思想を創始し、それにもとづいて社会主義理論を独創的に展開することによってりっぱに解決された」と宣言なさいます(p8)。キム・イルソン主席が「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理、つまり世界における人間の地位(世界において自らの意志と要求に応じて周囲世界を奉仕させる存在は誰かということ)と役割(世界を実際に変化・発展させる力はどこにあるのかということ)にかかる哲学的原理を発見し、主体の運動としての社会的運動の合法則性を新たに解明なさったことにより社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられたのです。そして、それによって科学的に体系化された社会主義は、人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義であると言えるのです。
「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理に立脚することが如何なる意味で正しいのかについては、第2節で詳述されます。また、この世界観に基づいてチュチェ思想は人生観を説いていますが、この主体的人生観とそれを実現させる条件としての主体的社会主義論こそがチュチェ思想の核心です。これは、第3節で詳述されています。
人間に対する正しい理解から出発することをチュチェ思想は一貫して説いています。そして当ブログが社会主義・共産主義思想としてのチュチェ思想を一貫して支持している理由は、まさにこの点にあります。当ブログは左翼の立場に立つブログですが、いわゆるマルクス主義はあまりにも経済主義的であり、率直に言って当ブログ編集者の眼には「人間性を軽視し過ぎている」と映ります。他方、最近流行りのリベラリズムについては、繰り返しその主観観念論的な世界観・社会歴史観を強く批判してきたとおり、中学校・高等学校の優等生や生徒会委員などが好んで口にする「ひとり一人が正しい行いに目覚めて行動を改めれば、世界は必ず変わる!」といったレベルの言説と大差ない、あまりにも物質的条件・経済的条件を軽視した程度の低い言説しか紡ぎ出せていないと言わざるを得ません。経済主義的過ぎるマルクス主義も主観的過ぎるリベラリズムも現実の変革の指針とするには不十分であると言わざるを得ず、チュチェ思想の立場が現実を正しく反映していると考えています。
■「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」
キム・ジョンイル総書記は、「われわれの社会主義は、人民大衆があらゆるものの主人となり、すべてが人民大衆に奉仕し、人民大衆の団結した力によって発展する社会主義である」とした上で、チュチェの社会主義理論について「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべきであることを明らかにした」ものであると、その特徴を端的にまとめられています(p8)。「要塞」というのは共和国独特の語法ですが、一般的な日本語の語感でいうところの「重要な目標」といった意味合いです。
そして「チュチェの社会主義理論の科学性、真理性は、朝鮮革命の実践的経験によって実証された」とし、その理由を「朝鮮人民は、立ち後れた植民地半封建社会の状態で社会主義をめざすたたかいを開始し、人一倍困難な状況のもとで革命と建設を遂行せざるをえなかった」が「わが党はチュチェ思想の要求どおり、つねに人民大衆を党と領袖のまわりに組織的、思想的にかたく結集して革命の主体を強化し、その役割を高めることを基本とし、それを堅持することにより社会主義の道を成功裏に切り開くことができた」と指摘なさいます(p9)。
つまり、朝鮮労働党は「社会主義建設において人間改造、思想改造をすべての活動に確固と優先させ」たので、「朝鮮革命の政治的・思想的威力をあらゆる面から強化すると同時に、自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることによって、こんにちの複雑な情勢のもとでも微動だにせず、革命と建設を力強くおし進めて」おり、「実践的経験は、チュチェ思想を具現したわが国の社会主義がもっとも科学的で生命力のある社会主義であることを如実に示している」のです(p9)。人間中心のチュチェ思想を指針にしたとき、社会主義建設において人間改造と思想改造を優先することは論理的帰結となります。とりわけ、物質至上主義に堕した従前理論に基づく社会主義建設の教訓を踏まえれば、人間改造と思想改造を優先するチュチェ思想の指針は、正当であるともいえるでしょう。
■生産力の問題にかかるチュチェ思想の見解――人間にとって生命である自主性を回復する主体的社会主義の必要性
また、キム・ジョンイル総書記は、マルクス主義があれほど重視した生産力の問題についても、その捉え方に不十分さがあったと指摘なさいます。大きく2点、「資本主義社会での生産力の発展は、「富益富、貧益貧」の両極分化を深め、階級的矛盾を激化させるとともに、独占資本家に独占的高率利潤の一部を階級的矛盾の解消に利用させる可能性も増大させる」という指摘、及び「農民をはじめ小ブルジョアジーを分化させ、産業労働者階級の隊伍を拡大すると同時に、生産部門の精神労働と技術労働に従事する勤労者と、非生産部門の勤労者の比重を高める結果をもまねく」と指摘なさっています(p6)。
この論題については、『反帝闘争の旗をさらに高くかかげ、社会主義・共産主義の道を力強く前進しよう』(以下「前進しよう」論文といいます)においてより詳細に論じられているので、少し脱線してそちらを参照してみたいと思います。今回は特に、後者指摘について注目したいと思います。
キム・ジョンイル総書記は「前進しよう」論文において「革命勢力を強化するには、社会的・階級的構成における変化について正しく分析、評価しなければなりません」と問題提起し「第2次世界大戦後、資本主義諸国では社会的・階級的構成に大きな変化が生じました」と指摘なさいます。すなわち、「発達した資本主義諸国では技術が発達し、生産の機械化、オートメ化が推進されるにつれて、肉体労働に従事する勤労者の数がいちじるしく減り、技術労働と精神労働に従事する勤労者の隊伍が急増し、勤労者の隊伍においてかれらは数的に圧倒的比重を占めるようにな」ったのです(『金正日選集』第9巻、外国文出版社、1997、p34)。
「インテリの隊伍が急速に拡大すれば、勤労者のあいだで小ブルジョア思想の影響が増大するのは確か」であると指摘なさるキム・ジョンイル総書記は、「革命的教育を系統的に受けることのできない資本主義制度のもとで、多数のインテリがブルジョア思想と小ブルジョア思想に毒されるのは避けがたいこと」であり「かれらを革命の側に獲得することは困難な問題」であると率直に指摘なさいます。しかしながら「社会的・階級的構成におけるこうした変化が、共産党、労働者党の社会的・階級的基盤の弱化を意味したり、社会主義革命に不利な条件になるとみなすことはでき」ないとも仰います。その理由についてキム・ジョンイル総書記は「技術労働にたずさわる勤労者であれ、精神労働にたずさわる勤労者であれ、かれらはいずれも生産手段の所有者ではありません」としておられます(同p34-35)。
ここにおいて問題は、「社会的・階級的構成の変化した現実に即応して、共産党、労働者党が広範な勤労者大衆を革命化し、獲得する政治活動をいかにおこなうかにあ」るとキム・ジョンイル総書記は新たに論点を設定なさいます。「現代の労働者階級は、かつてのような無産階級であるとばかりみなすことはでき」ず、発達した資本主義諸国の労働者階級は「マルクス主義の創始者たちが、失うものは鉄鎖のみであるといった、以前の無産者とは異な」るからです(同p36)。
「革命に参加できるかどうかは、無産者か有産者かということのみにかかっているのではありません」。これはチュチェ思想の意識性論からの必然的結論です。「発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる勤労者の生活水準が向上したとはいえ、かれらは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにある」ことには変わりありません。キム・ジョンイル総書記は、彼らは「資本主義制度にたいして反感をいだいており、資本の支配から解放されて自主的に生きることを要求してい」ると指摘なさいます(同p36)。
「自主的に生きることを要求するということは、すなわち社会主義を志向することを意味します」。実際問題として「資本主義国のインテリで、一時的であれ社会主義に共鳴しない人はほとんどい」ないと仰るキム・ジョンイル総書記。それゆえ、「かれらがひきつづき社会主義をめざしてたたかっていけないのは、社会的・階級的立場の制約というよりは、むしろかれらを思想的に正しく教育し導いていない事情と関連してい」るとなさいます(同p37)。
「勤労者大衆を革命化し獲得するうえで、主体はあくまでも労働者階級の党で」す。「党を強化するためには、なによりもまず、思想と指導の唯一性を保障する原則で党を建設しなければならず、党がインテリを含めた広範な大衆のなかに根をおろし、かれらを革命へと導く新しい指導思想、指導理論をもたなければなりません」。「人民大衆の自主的地位と決定的役割にかんする原理にもとづいて、変化した現実に即して革命理論を発展させ、党活動の方法を不断に改善していかなければなりません」。「このようにすれば、各階層の広範な大衆を革命化し、獲得し、革命を新たな高揚へと導くことができる」のです(同p37)。
鐸木昌之は『北朝鮮 首領制の形成と変容 金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店、2014年)で、「前進しよう」論文について「労働者の物質的経済的生活が改善されたとしても、その思想文化生活においては自主性が達成されず、精神生活においては貧困化している。したがって、発展した資本主義国における革命は、古典的マルクス・レーニン主義のいう「失うものは鉄鎖以外にないという過去の無産者」階級のそれではなく、精神的に踏みにじられたインテリ・技術労働者達の自主性の回復になる。(中略)これは主体思想による先進資本主義革命論なのである」と指摘しています(p227)が、非常に端的に要約していると言えるでしょう。
このように考えたとき、マルクス主義は、生産力を重視しているといいながら実はそれさえも十分には貫徹できていないと言えます。
キム・ジョンイル総書記が「前進しよう」論文において指摘された、資本主義諸国での社会的・階級的構成の変化は極めて重要な指摘です。当ブログでも2019年7月4日づけ「こき使われている勤務医が「自己研鑽」のインチキ理論に毒されているのは何故か、知識労働者を核心とした自主化運動・抵抗運動の展望はどこにあるのか」や、2019年7月15日づけ「主観主義的社会歴史観と「個人」主義的人生観に打ち克ち、「我々」意識に基づく社会の集団的・共同体的結束を再興するために」などで論じてきたところです。
「発達した資本主義諸国で、技術労働や精神労働にたずさわる勤労者の生活水準が向上したとはいえ、かれらは依然として資本主義的搾取と抑圧のもとにある」点にこそ、人類史が資本主義で終わるのではなく社会主義、それも人間にとって生命である自主性を回復する主体的な社会主義が必要になることを示しています。後述しますが、人間中心の主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。そして、主体的社会主義は、人生観の問題にしっかりとした解答を与えている点において、独自の社会主義路線であると言えるでしょう。
■第2節・・・人間の本質を捉えることは何故重要なのか――主体的人間観
第2節では、人間にたいする主体的な見解並びに観点及び立場についてより詳しい説明が展開されます。「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観と社会歴史観の問題に触れ、さらに人生観が展開されます。
「人間にたいする観点と立場の問題は、社会発展、革命発展にいかなる観点と立場で対応し、それをどう理解するかということにおいて基礎的な問題」です。キム・ジョンイル総書記は「チュチェ思想は史上はじめて、人間の本質について科学的な解明を与えた」とされます(p10)。
「人間の本質をどうとらえるかということはたんなる学術上の問題ではなく、階級的利害関係を反映した社会的・政治的問題で」す(p10)。たとえば「人間を純然たる精神的存在とみなす宗教的・観念論的見解によれば、人間はある超自然的な神秘的存在の産物であり、人間の運命もそれによって決定されることにな」り、「反動的な支配階級とその代弁者たちは、人間にたいする宗教的・観念論的見解から、勤労人民大衆が搾取され抑圧される不幸な境遇は避けがたい宿命的なものであり、したがって定められた運命に従順であるべきだと説」きました。あるいは、「人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす見解は、意識の調節、統制のもとに目的意識的に活動する人間と、本能によって支配される生物学的存在との質的差異を区別できなく」し、「反動的な支配階級とその代弁者たちはこうした見解を、弱肉強食の法則が支配する資本主義社会の弁護に利用し」ました。「社会主義の背信者たちがブルジョア自由化と資本主義市場経済を導入して資本主義を復活させているのも、人間にたいする反動的な観点と立場に根ざしてい」ます(p10-11)。
一部社会主義国で「改革」と称して展開された政策は、資本主義的人間観に基づく物質至上主義・経済万能主義的な反革命的行為でしたが、結局これはその人間観に由来する「改革」であったといえるでしょう。キム・ジョンイル総書記は「社会主義の背信者たちが資本主義を復活させ、失業と貧困を競争意欲と労働の強度を高める強圧手段とみなして、社会主義がもたらしたあらゆる人民的施策を抹殺しているのも、自国人民の力に頼らず、西側資本主義諸国の「援助」と「協力」に期待をかけて帝国主義者に阿諛追従しているのも、人間にたいする反動的なブルジョア的観点のためである」と糾弾なさいます(p14)。
正しい人間観を持つことがいかに重要であるのかが理解できるでしょう。
■人間は社会的存在であるという意味
キム・ジョンイル総書記は「人間は純然たる精神的存在でもなければ、たんなる生物学的存在でもない。人間は社会的関係を結んで生き活動する社会的存在である」とし「社会的存在であるというところに、他の生物学的存在と区別される人間の重要な特性がある」と言明なさいます(p11)。マルクス主義は人間の本質を社会関係の総体であると定義づけましたが、キム・ジョンイル総書記はこれだけでは「人間そのものの本質的特性についての全面的な解明とはなりえ」ず、「それによっては人間と世界との関係、世界における人間の地位と役割が正しく示されない」と指摘なさいます(p11)。
「人間は自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在である」(p11)という格言は、チュチェ思想の文脈で必ず聞いたことがあるものでしょう。自主性は、世界と自己の運命の主人として、なにものにも従属したり束縛されることなく自主的に生き発展しようとする社会的人間の属性です。創造性は、自己の要求に即して目的意識的に世界を改造し自己の運命を開いていく社会的人間の属性です。意識性は、世界と自分自身を把握し改造するすべての活動を規制する社会的人間の属性です。そして、これら人間の自主性・創造性・意識性は、人間が社会関係を結んで活動する過程で形成され発展する属性であります。人間が活動する過程はその自主性、創造性、意識性が発現する過程です。自主的・創造的・意識的活動は人間の存在方式ですが、人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそなのです(p12要旨)。
「人間が自主性、創造性、意識性をもつ社会的存在になりえるのは、発達した有機体、とくにもっとも発達した頭脳をもっていることをぬきにしては考えられ」ないことは、キム・ジョンイル総書記も認めるところです。「人間の発達した有機体は、自主性、創造性、意識性をもちうる生物学的基礎とな」ります。しかし、発達した人体そのものが自ずと自主性、創造性、意識性を生むのではありません。「人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され発展する社会的属性で」す(p12)。
自主性、創造性、意識性を形成する社会的・歴史的過程とは、具体的には社会的教育と社会的実践を言います。朝鮮大学校のハン・ドンソン学長は、政治経済学部長時代の2007年に上梓した『哲学への主体的アプローチ - Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』(白峰社)において、小説『ロビンソン・クルーソー』を取り上げ、ロビンソン・クルーソーが無人島で逞しく生き延びている描写について「彼がそれまでの社会生活を通じて、人間らしく生きようとする意欲と、それを実現することのできる知識と技術、技能を蓄積したからこそ可能であった」とし「すなわち、主人公が、社会的教育と実践を通じて、社会的存在としての自主性、創造性、意識性をある程度培っていたということ」としています(ハン・ドンソン、2007、p67)。
人間が何かをなすためには、そのための知識を得ることと実践してみることが必要だというのは、ほとんどの方が同意するものと思われます。この知識獲得と実践は、仮に非常に個人的で狭い範囲であったしても社会的な性質を帯びざるを得ません。人間は、親など先達から教えられた知識を活用します。この知識は、もっとも素朴な場合は「この場合、こうすると上手くいく」という形態を取りますが、これは代を継いで実践されてきた社会的な結果にほかなりません。それゆえ、知識は社会性を帯びざるを得ません。また、人間は集団の中で生きるので、「個人」的な実践であっても集団への影響は避けられません。さらに、物質世界において個人が自分自身の運命を開拓とようとすれば、一個人ではあまりにも非力であるので、通常は他者と協力する必要が生じます。それゆえ、実践もまた社会性を帯びざるを得ないと言えます。
先に、集団主義か個人主義かの対立はすなわち社会主義と資本主義との社会体制上の対立であると指摘しましたが、集団主義・社会主義と個人主義・資本主義の対立は、つまるところ人間観の対立に行きつきます。すなわち、人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす見解・人間を本能によって支配される単なる生物学的存在とする人間観との対立軸が設定できます。
人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそであり生物としての進化の結果ではないというのは、主体的人間観の柱です。「人間の自主性、創造性、意識性は、人間が社会関係を結んで活動する社会的・歴史的過程で形成され発展する社会的属性である」という一文は、いくら強調しても、し過ぎることはないでしょう。
■自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく日本人
人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそという見解並びに観点及び立場は、人間関係がいよいよ全面的に「商品化」しつつある日本社会においては、日本人の自主性・創造性・意識性が「商品」的な性質を帯びざるを得なくなってゆく近未来の現実を示すと考えます。
人間関係が全面的に「商品化」しつつあるとはどういうことかご説明しましょう。商品とは「他人にとっての使用価値」ですが、商品生産・交換経済が高度に発展すると商品は「何人もの中間卸売り業者や加工業者を経た先にいる(と言われている)会ったこともない赤の他人にとっての使用価値」になります。会ったこともない抽象的な「他人」である消費者のことを生産者は親身になって考えることはないし、消費者としてもその銘柄の商品をどうしても買わなければならない訳ではなく、代替品は幾つかあるのが大抵なので、生産者の事情を真剣に考えることはありません。最近、一部小売店の野菜・青果売り場で「私が作りました」という生産者の顔写真付きポップが掲示されていることがありますが、裏を返せば、そういったものが目を引く販促小道具になるくらい通常の商品取引においては取引相手のことを具体的に想像する契機に欠けているのが現実です。
「自分にとって得か損か」のみが判断基準になってゆくのが商品生産・交換経済であり、そして経済人類学者のカール・ポランニーが指摘するように、現代社会は経済の論理が社会全体を取り込んでしまっている社会です。前近代社会は、経済活動は社会のサブシステムに過ぎませんでしたが、今やそれが逆転しているわけです。その結果として、2022年の年末総括記事の末尾部分でも論じましたが、人間同士の関係までもが経済生活の編成様式、つまり市場的な人間関係、「自分の役に立つサービスを提供する存在」として取り扱う関係に成り下がり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然視する思考回路が形成されつつあるのではないかと非常なる危惧を覚えるところです。
また、そのような思考回路が形成されてしまっているからこそ、自分自身の命の問題についてさえ、2022年5月31日づけ「掛け金を払えなければ医療費を工面できないアメリカ社会への疑問・異議が見られず、個人の自衛手段としての民間保険への加入の重要性ばかりが強調される日本世論の徹底的な「個人」主義化の現状」で論じたように、保険に入るとか入らないといった次元で語られるようになってしまっているのではないかと考えます。「金の沙汰が命の沙汰」であることへの違和感や拒否感が弱まってしまっています。
日本の自主化を目指す当ブログとしては、日本人を変革の主体であると考えるので、正しい人間観に立脚し、社会的人間の属性が如何にして形成されるのかを踏まえた上で情勢分析する必要があると考えます。その際には、チュチェ思想の人間観は非常に重要な見解並びに観点及び立場を提供するものと考えています。このことについては、本稿後半で、第3節の内容に触れながら再論します。具体的には、小見出し「■「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」」の部分で論じます。
■客観的条件の位置づけと社会発展史の本質
社会関係の中で展開される活動過程で形成される自主性・創造性・意識性をもつ唯一の存在であるがゆえに、ただ人間だけが、自己の運命を自分の力で開いていけます。人間は客観世界を自己の要求に即して改造しつつ自己の運命を自分の力で開いていく世界の主人・世界の改造者という唯一無二の地位と役割を獲得するのです。そして、人間の自主性・創造性・意識性が発展すればするほど、世界の主人・世界の改造者としての人間の地位と役割は高まります(p12-13要旨)。
もちろん、「歴史発展においてすべての世代は、前の世代が創造した社会的冨と社会関係、すなわち所与の客観的条件から出発し、それを利用」します。しかし、客観的条件は「人間の自主的・創造的・意識的活動の歴史的創造物であり、それを利用しさらに発展させるのも人間であ」ります。「所与の客観的条件が有利であっても、それを利用し発展させる人間の自主性、創造性、意識性が低く、十分に発揮されなければ、社会はすみやかに発展することができ」ず、「客観的条件が不利であっても、人間の自主性、創造性、意識性が高く、それが正しく発揮されれば、社会は急速に発展するものであ」ります。要するに、「社会発展の歴史的過程が人間の自主性、創造性、意識性の発展水準とその発揮程度によって決定されることを意味す」るわけで、「社会発展の歴史はつまるところ、人間の自主性、創造性、意識性の発展の歴史だといえ」るのです(p13)。
マルクス主義の権威が低下して来、教条主義的なマルクス主義者と議論する機会が乏しくなってきている昨今においては論点にならなくなってきましたが、ひと昔前は非常に重要な論点でした。教条主義的なマルクス主義者には「意識」という単語を持ち出すだけで「観念論だ!」とよく言われたものです。人間の意識は客観世界の反映であり、客観世界の土台は生産力と生産関係によって規定されるものだからだと力説されたものでした。しかし、チュチェ思想の原理を理解するうえで重要なのは、人間の自主性・創造性・意識性を三位一体の関係で位置づけているところにあります。生産力云々については、創造性がしっかりと包含しています。意識性だけを強調しているわけではないのです。
下部構造としての土台の上に建てられる政治や文化などは上部構造であるというマルクスの見解を墨守している教条的なマルクス主義者は「経済的土台」という言葉を愛用します。たしかに物質代謝としての経済活動は人間存在の根本を支えるものです。「土台」という表現は言い得て妙です。「土台」であればこそ「土台からの作用」だけではなく「土台への反作用」についても考える必要があります。「土台の上に建てられる」ものといえば住宅ですが、人間は自らの要求と技術力に依拠して建てたい家に合わせて土地を整備します。軟弱地盤であれば建てたい家に合わせて必要なレベルの補強工事を施行します。かつてエンゲルスは『フォイエルバッハ論』で、不可知論に対して「あらゆる哲学上の妄想に対する最も説得力を持った反駁は実践、すなわち実験と産業」と言いましたが、まさしく産業の現実から考えるに「土台から人間への作用」だけではなく「人間から土台への作用」にも注目する必要があるはずだと考えます。
現代社会の深刻な環境危機などを踏まえると、いまや人間が蒙る「土台からの作用」だけではなく「土台への作用」を思想的にしっかりと位置づける必要があります。人間存在が世界を大きく改造し得る有力な存在となってきたからこそ主体的な人間観が求められると考えます。
キム・ジョンイル総書記は「人間本位の社会主義は、人間にたいする主体的観点と立場から出発して、すべてのものを人間に奉仕させ、すべての問題を人間の創造的役割を高めて解決するもっとも科学的な社会主義である」と宣言なさいます(p14)。つまり、人間の利益から出発し、人間の活動を基本とするのが人間本位の主体的社会主義です。ハン・ドンソン氏の前掲書によると「人間との関係で見るとき、世界の変化発展の法則性は、世界が人間の積極的な活動によって人間に奉仕する方向で、人間の発展とともにより速やかに発展するというところにあ」るといいます(ハン・ドンソン、2007、p24)。教条主義的なマルクス主義に依拠した国々がことごとく社会主義建設に失敗して崩壊するか資本主義に変節するかの中で、いまも変わらず赤旗を掲げ続けていられる朝鮮民主主義人民共和国の今日の姿を見るに、この宣言に根拠がないとは言えないでしょう。
■人間の生命の本質と生の価値
続いてキム・ジョンイル総書記は「チュチェ思想は、人間の生命の本質と生の価値についても新たに解明した」と論題設定なさいます。「チュチェ思想は史上はじめて、人間は肉体的生命とともに社会的・政治的生命をもって生きる存在であることを明らかにした」と宣言なさいます(p15)。
人間が社会的・政治的生命(社会政治的生命)を持つというのは、他の生物から人間を区別する特徴としての自主性・創造性・意識性が、生物としての進化の結果として自然に獲得されたものではなく人間が社会的関係を取り結ぶ中で形成されたものであることに基づきます。自然環境が人間に肉体的生命を付与し、社会環境が人間に社会的・政治的生命を付与するわけです。
「人間にとって自主性は生命であ」るとキム・ジョンイル総書記は強調なさいます。「人間は自主的な社会的存在として、なにものにも従属したり、束縛されることなく自主的に生きることを求め」るからです。「人間が自主的に生きるということは、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きることを意味」します。それゆえ、「人間が自主性を失い、他人に従属しているなら、命はあっても社会的、政治的には屍にひとしい」のです(p16)。ハン・ドンソン氏は前掲書において、「このような意味で社会政治的自主性を、社会的存在としての人間の生命、社会政治的生命と言い」(ハン・ドンソン、2007、p167)、「社会政治的生命をもってこそ、人々は、社会的集団とともに、世界と自らの運命の共同の主人となり、自主的で創造的に生き発展することがで」きると解説しています(同p171)。社会に背を向け放蕩する人は、社会的・政治的生命を得ることができず、社会的集団とともに世界と自らの運命の共同の主人になることができないので、まさに資本主義国の人間のように個人的努力の範囲やカネと権力で解決できる範囲で多少のことはできたとしても、自主的で創造的に生き発展することができません。
人間にとって自主性は生命であるので、「人間にとって肉体的生命も大切であるが、より大切なのは社会的・政治的生命」になります(p15)。肉体的生命が生物有機体としての人間の生命であるとすれば、社会的・政治的生命は社会的存在としての人間の生命であると言えるからです。たしかに「安定した健全な物質生活は、人間の肉体的生命の要求を十分に保障するばかりでなく、社会的・政治的生命を維持し、輝かす物質的裏付けとなる」ものですが、「社会的・政治的生命の要求をぬきにして肉体的生命の要求のみを追求するならば、いくら豊かな物質生活を営むとしても、それは決して有意義な生活とはいえず、そうした物質生活は人間の本性に反する動物の生活にひとしい奇形的で変態的な生活になりさがってしま」います(p15-16)。
■「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むことである」――人生観の問題に解答を与えるチュチェ思想
このような人間の生命の本質ゆえに、チュチェ思想は、生の価値として「人間の誉れ高い生き方は社会的・政治的生命を持し、それを輝かしながら生きることである」と定義します(p16)。そして、人間は社会的・政治的生命を社会的集団から授けられるがゆえに、「人間の生が価値あるものかどうかは、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっている」ということになります(p16)。「人間の生は社会的集団に愛され信頼されれば価値あるものとなり、社会的集団から見捨てられれば価値のないものとなる」のです。つまり、「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」なのです(p17)。
共同体と共に生きることや、愛や信頼を人生の価値として説く主張は古来から数多ありますが、人間の本質とその本質に合致した自然かつ当然な生き方は、ここにあるものだと当ブログも考えます。チュチェ思想は、そうした古来からの思想潮流の堂々たる一員でありながら、世界観の問題と人生観の問題とを論理的に密接に結び付けており、非常に説得力のある学説であると言えます。チュチェ思想の人生観は、人類の叡智の集大成であり、まことに内容豊富な思想であると考えます。
この論点はチュチェ思想にもとづく社会主義運動が実現目標点としていると考えられます。第3節でも再論されるので、本稿でも詳しくは後述したいと思います。
■集団主義社会としての社会主義社会でのみ、価値のある生を送ることができる
キム・ジョンイル総書記は、このような生は、敵対的階級社会を必然的にもたらす個人主義を克服した集団主義社会としての社会主義社会でのみりっぱに実現することができると仰います。「社会主義社会では、人びとがあらゆる搾取と抑圧、支配と従属から解放され」るので、「社会・政治生活をはじめすべての分野で自主的で創造的な生活が営めるようになる」のです(p17)。
具体的に社会主義社会の如何なる特徴がかかる効果を生むのかについては、第3節で詳述されます。
そして、社会主義社会で人びとが社会の主人としての高い自覚と能力をもって自主的で創造的な生活を営めるようになるためには、人々に「組織・思想生活と文化生活を正しくおこなわせ」る必要があると指摘なさいます。「人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通して自主的な思想・意識で武装し、全面的に発達した創造的能力をそなえてこそ、社会と集団のため積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高く生きていくことができる」からです(p17-18)。
これに対して「ブルジョア反動派と社会主義の背信者たちが人間による人間の搾取と支配を正常なこととみなし、人間を個人の物質的欲求のみを追求する低俗な存在とみなす」ことについてキム・ジョンイル総書記は、「人間の生命の本質と生の価値にたいするブルジョア的観点と立場の反動性を示す明白な表現の一つ」であると糾弾なさいます(p17)。現代資本主義に対する非常に痛烈な批判であると言えるでしょう。
■第3節・・・正しい人間観と人生観に立つ朝鮮式社会主義の優位性
「われわれの社会主義は人民大衆にたいする主体的観点と立場にもとづいている」という書き出しで始まる第3節でキム・ジョンイル総書記は、「社会主義の真理性と優位性は、それにたいする人民大衆の支持と信頼にあらわれる」とし「われわれの社会主義は人民大衆にたいする主体的観点と立場にもとづいているので、人民大衆から絶対的に支持され信頼される、もっともすぐれた威力ある社会主義となる」と指摘なさいます(p18)。第3節は、前節の最後で「すべての人がもっとも大切な社会的・政治的生命を輝かし、肉体的生命の要求をも充足させる真の人間生活は、集団主義にもとづく社会主義社会でのみりっぱに実現することができる」としたキム・ジョンイル総書記が主体的社会主義の正当性について更に踏み込んで言及する節であると位置づけられるでしょう。ここでは、「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観と社会歴史観の議論を人生観の問題に深めていらっしゃいます。さらに、本労作ではあまり言及されていない死生観の問題も基礎づけています。
まず、キム・ジョンイル総書記は「人民大衆」というキーワードについてより詳細を説明なさいます。すなわち、「人民大衆は働く人びとを基本に、自主的要求と創造的活動の共通性によって結合された社会的集団であ」ります(p18)。その上で、「人民大衆という言葉は、階級社会では階級的性格をおびる」と指摘なさいます。同時に「人民大衆の階級的構成は固定不変のものではなく、社会、歴史の発展過程でかわる」としつつ「人民大衆という言葉は、社会的・階級的関係を反映しているが、それは純然たる階級的概念ではない」ともします。これは、「もともと、人民大衆は相異なる階級と階層からなっている」事情、及び「人間の思想と行動は社会的・階級的立場の影響のみを受けるのではな」く「人間は革命的影響を受け、先進思想を身につければ、社会的・階級的立場はどうであれ、人民大衆に奉仕することができる」という事情に基づいているからです。
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の構成員かどうかを判別するには社会的・階級的立場をみなければならないが、それを絶対視してはならない」と警鐘を鳴らされます。「人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的土台がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある」のです(p19)。
キム・ジョンイル総書記がこのように指摘なさった動機は、おそらく「祖国と人民と民族を愛する愛国、愛民、愛族の思想をもっていれば、誰でも人民に奉仕することができ、したがって人民大衆の構成員になることができる」と指摘なさっている点を鑑みるに、古典的なマルクス・レーニン主義の教義では強く排斥されてきた「民族主義」の再評価を意図してのものであると考えられますが、階級至上主義を脱する思想的突破口を開いたことは非常に大きな功績であったと僭越ながら申し上げたいと思います。階級にばかり拘泥することは20世紀社会主義の一つの問題点でしたが、20世紀末にキム・ジョンイル総書記がこれを乗り越える新しい社会主義路線を提唱なさったわけです。
この論文でも触れられており、また、前述のとおり「前進しよう」論文においても詳細に語られているとおり、知識労働中心の経済社会に移行したことにより労働者階級がプチブル化しつつある今日、労働者階級であるという属性だけでは社会主義運動を盛り立てることは難しくなってきており、この見解は現在の状況に合った新しく正しい見解であると考えます。「人民大衆の構成員かどうかを判別する基本的尺度は、その社会的・階級的土台がどうであるかにあるのではなく、どのような思想をもっているかにある」というキム・ジョンイル総書記の指摘を十分に体質化する必要があると考えます。
■「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」
キム・ジョンイル総書記は人民大衆の底知れぬ力量について筆を進められます。「個々の人の力と知恵には限界があるが、人民大衆の力と知恵には限界が」ありません。「この世に全知全能の存在があるとすれば、それはほかならぬ人民大衆であ」ると指摘なさいます(p21)。「人民大衆は自然を改造し、生産力を発展させ、物質的富を創造する」し「人民大衆は思想的・文化的財貨を創造する」し「人民大衆は社会を改造」します。そして「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」と確言なさいます(p21)。集団主義と個人主義との対立における集団主義の優位性をより具体化して、国家主権と生産手段の所有問題について言及なさっているわけです。
人民大衆の自主的要求を実現させるためには、敵対的階級社会に必然的に行きつく個人主義原理に基づく社会ではなく集団主義原理に基づく社会の道を歩まなくてはなりませんが、それはつまり、国家主権と生産手段とを人民大衆が自ら所有する社会主義の道を歩む必要があるということなのです。
もしかすると、「敵対的階級社会に必然的に行きつく個人主義を乗り越える必要性は分かる。そうした個人主義の逆を『集団主義』と定義したのは分かった。しかし、そこから何故社会主義に行きつくのか? 社会主義に限定せずとも集団主義は実現できるのではないか? 冒頭から『社会主義でのみ人民大衆の自主性は実現する』といったくだりが何回も出てきているが、何故社会主義でなければならないのか?」という疑問を持つ方もいらっしゃるかも知れません。しかし、集団主義を具体化・具現化させようとしたとき、つまり、個人と社会との自主的要求を調整しつつ共に実現させようとしたとき、すべての人々が自然と社会と自分自身の主人となるためには国家主権と生産手段とを共同で管理する道を歩まざるを得なくなると当ブログは考えます。キム・ジョンイル総書記が本労作冒頭で「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」と仰ったのは、そういう意味であると解釈できるでしょう。
なお、ここにおいて主語が「人民大衆」であることに注意しておく必要があると考えます。つまり、チュチェの世界観原理の段階では主語は主に「人間」でしたが、チュチェの社会歴史観原理においては、完全に統一されているわけではありませんが主語は主に「人民大衆」になっています。
ブルジョア社会たる日本社会で日常生活を送っていると「人間」という言葉を無意識的に「個人」と解釈してしまいがちです。この取り違いは最終的に主観観念論的な言説に行きつきます。社会というものは非常に巨大なシステムであり、一個人や小集団の意志や行動でどうにかできるものではありません。あまりにも規模が違い過ぎます。この点を無視して「決心すれば社会は変わる!」などと絵空事をスローガン化しているのが最近のリベラリストであるというのは、当ブログが再三指摘してきたところです。非常に巨大なシステムである社会を変革するためには、「人間」も個人がバラバラになっているのではなく組織的に大きくそして固く結集する必要があります。人民大衆として団結する必要があります。主語が「人民大衆」になっていることについては、そういった意味で注意を払う必要があると考えます。
■「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は社会のあらゆるものの主人としてその地位を占め、権利を行使すべきである」とします。「自主的地位と権利は、人民大衆の運命を左右する基本的条件である」からです(p22)。政治、経済、文化などの社会生活の各分野で主人としてその地位を占め権利を行使する必要があります。他人に丸投げするのではなく人民大衆が自らが主人となる必要がある理由はここにあります。
その上でキム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性をしっかり擁護し実現するためには、人民大衆の自主的要求を反映してすべての路線と政策を作成し、人民大衆の力に依拠してそれを貫徹しなければならない」という主体的な政治綱領を提示なさいます。そして「人民大衆の自主的要求は、路線と政策の正否を弁別する基準であ」り「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」と指摘なさいます(p22)。革命的大衆路線です。このことは、革命歌謡≪우리의 김정일동지≫(『我らのキム・ジョンイル同志』)においても歌われているところです。
社会主義とは単に国家主権と生産手段を共同管理にすることではないとキム・ジョンイル総書記は、幾度となく指摘なさってきました。これは、ソ連・東欧社会主義諸国が短期間で軒並み瓦解したことを受けての歴史的教訓です。それゆえ「人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化すれば、思想になり、路線と政策になる」という指摘は非常に重要なものであると考えます。自主的な思想や路線・政策は、空想的社会主義者がそうでしたが、どこかの天才が自己の思索の世界で紡ぎ出すわけではありません。現実の生活場面で生き暮らしている人民大衆の自主的な意思と要求を集大成し体系化することによってのみ生まれるものなのです。「わが国の社会主義がささいな偏向や曲折も経ることなく、もっとも科学的な道にそって勝利のうちに前進してきた秘訣はここにある」とキム・ジョンイル総書記は強調されています(p23)。
社会主義とは単に国家主権と生産手段を共同管理にすることではなく革命的大衆路線を歩むべきという意味で「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」という一文は注目すべき重要な部分であると考えます。
■帝国主義者の干渉を斥けることの重要性
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性を擁護し実現するためには、国家と民族の自主性を確固と守らなければならない」とし「政治における自主、経済における自立、国防における自衛を実現するのは、わが党が終始一貫、堅持している革命的原則である」とされます(p23)。不朽の古典的労作である『チュチェ思想について』で指摘されたチュチェの根本原則ですが、キム・ジョンイル総書記は帝国主義勢力の「人権」を口実にした内政干渉について「外部勢力に支配される国の人民には決して、人権が保障されない」として「人権は、国家と民族の自主権と切り離しては考えられない」と指摘なさいます。これは、人権とは本来的に「政治、経済、思想・文化など社会生活の各分野で人民が行使すべき自主的権利であ」るからです(p23)。
帝国主義者たちが口実として用いる「人権」は、つまるところ「金さえあればなんでもできる有産階級の特権」に過ぎず、その証拠に「帝国主義者は失業者の労働の権利、身寄りのない人や孤児の生活の権利などは人権として認めていない」と強調なさるキム・ジョンイル総書記(p23)。「勤労者に初歩的な生存の権利さえ与えず、反人民的な政策と人種的・民族的差別政策、植民地主義政策を実施する帝国主義者には、人権について論ずる資格もな」いのです。このことは、ブルジョア「人権」論の虚偽性・偽善性を鋭く突くご指摘です。キム・ジョンイル総書記が強調されるとおり、「人権の第一の敵は、人民の自主権を踏みにじり、「人権擁護」の看板のもとに他国の内政に干渉する帝国主義者であ」ります(p24)。
ところで、前掲の『朝鮮新報』記事では≪또한 장군님께서는 군사를 국사중의 제일국사로 내세우시고 사회주의조선을 굳건히 수호하심으로써 사회주의의 강용성을 만방에 힘있게 떨치시였다.≫とか≪제국주의자들의 반혁명적공세로부터 사회주의를 고수하는것이 조국과 민족의 천만년미래를 결정짓는 중대한 력사적과제로 제기된 고난의 시기에 강력한 군력을 기반으로 하는 사회주의기본정치방식을 정립하시고 강국건설의 만년토대를 다져주신 장군님의 정력적인 령도에 의하여 주체의 사회주의의 과학성과 진리성은 빛나는 현실로 더욱 뚜렷이 립증되였다.≫としていますが、この労作において軍事について語っているとすれば、ここくらいのもの。共和国は建国2年目に勃発した祖国解放戦争以来ずっと戦時体制なので軍事を軽視したことは一度たりともありませんが、かといって当該労作が取り立てて軍事について論じているとも言い難いところです。とりわけ、この労作の発表(1994年11月)以後である1995年元旦を以って「先軍政治」が始まったとされています(パク・ボンソン『北朝鮮「先軍政治」の真実:金正日政権10年の回顧』)。≪강력한 군력을 기반으로 하는 사회주의기본정치방식≫という記述においては「先軍政治」という単語こそ出てきてはいないものの、そう言っているに等しいもの。「先軍政治」のスタートが2か月繰り上げられ、朝鮮式社会主義の不可欠な要素に改めて組み込まれたに等しいことが意味するところについては、今後の動向を慎重に見極める必要があると思います。
■社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、自主意識を高めて責任と役割を果たす必要がある
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は社会のあらゆるものの主人として、その責任と役割を果たさなければならない」として人民大衆が持つべき自覚と果たすべき責任そして役割の水準を要求なさいます(p24)。第1節でも強調されていたとおり、「社会主義を成功裏に建設するためには社会主義・共産主義の二つの要塞、思想的要塞と物質的要塞を占領するたたかいを力強く展開し、わけても思想的要塞を占領するたたかいを確固と優先させるべき」だというのが主体的な社会主義建設路線です。革命と建設は人民大衆のための事業であり人民大衆自身の事業なのだから、そこで提起されるすべての問題を自分自身が責任をもって自分の力で解決することこそ主人たるに相応しい態度です。また、人間が唯一の自主的かつ創造的存在であるからこそ人間が世界の主人としての地位と役割を得られるというのがチュチェ思想の人間観なので、自主意識を高めて責任と役割を果たすことはその意味でも当然の結論になります。
キム・ジョンイル総書記は、そのためには「主人としての自覚を高めなければならず、そのためには思想改造、政治活動を優先させなければならない」と指摘なさいます。「社会主義社会での社会発展の基本的推進力は、自主的な思想・意識で武装し、党と領袖のまわりにかたく団結した人民大衆の高い革命的熱意と創造的積極性」であるからです(p24)。「思想改造、政治活動をすべての活動に優先させるのは、社会主義社会本来の要求であ」ります(p24)。
自主とは文字どおり「自分自身の主人となる」ことを意味します。この意味での主人とは責任と役割を果たす人間のことを言います。無責任で利己主義的な人物は決して主人とは言えません。高い自覚と責任感を持ち、自らの役割を十分に果たす者のみが主人を名乗ることできます。その意味では、個人主義社会としての資本主義社会は、社会に主人が存在しておらず無秩序な社会であるという見方ができるでしょう。
ここにおいてインセンティブに依拠する方法は資本主義的な方法であり「人びとの革命的熱意と創造的積極性を高めることができないばかりか、社会主義制度そのものを変質させて危険におちいらせる結果をまねくようになる」とキム・ジョンイル総書記は警鐘を鳴らします(p25)。カネで動くのは主人としての振る舞いとは言い難いものです。共同体の主人として集団主義原則に基づいて生きる社会主義社会は、「金で人びとを動かす資本主義的方法」によっては運営し得ないものです。
インセンティブに依拠する資本主義的動員方法は、資本主義においてもあまり上手くいくものではないとも指摘しておきたいと思います。2023年5月8日づけ「災い転じて福となすべく「民間にできることは民間に」を換骨奪胎しよう」で取り上げましたが、いま日本では「大して成果を上げていないのに国会議員が多すぎる、政治家の報酬が高すぎる」という言説が罷り通っているのが典型的・代表的ですが、期待どおりの仕事をしない人に対しては本来的には監督・指導を強化して報酬に見合うだけ働かせるのが正道であるところ、それに先行してクビだの減給だのといった話がありとあらゆる場面で大手を振っています。さしづめ、他人の仕事を監督するというのは非常に面倒くさく即物的な成果が出にくいので、手っ取り早く楽をするために「働きが十分ではない人を指導して働かせる」よりも「働きが十分ではない人をクビにして取り換える」のを選んでいるのでしょう。これは、解雇をはじめとする不利益な取り扱いをチラつかせるというのは最も簡単な古典的労務管理手法ですが、そうした方法論が惨劇として現れたのが当該記事でも取れたとおり、JR福知山線脱線事故でした。
なお、カネで人を動かす方法に「依拠」してはならず思想改造、政治活動を「優先」させるべきだとしており、インセンティブを全面的に否定・排撃するものではないと申し添えておきたいと思います。もしもインセンティブの方法論を全面排撃しているとすると現行の社会主義企業責任管理制と衝突を起こすことになりますが、『社会主義は科学である』発表30周年記念大会が先般大々的に開かれた点を鑑みるに、このあたりの思想的折り合いはついていると言え、少なくとも現時点での『社会主義は科学である』の公式解釈においては、当該くだりはインセンティブの方法論を全面排撃するものと解釈されてはいないでしょう。
また、ここでいう政治活動の優先には、目下キム・ジョンウン総書記が取り組まれていらっしゃる、自己の生産単位・職場の単位特殊化・本位主義への反対も含まれるものと解釈すべきでしょう。チュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長は『自主・平和の思想―民衆主体の社会主義を史上はじめてきずく朝鮮とその思想を研究し実践に適用するための日本と世界における活動―』(白峰社、2015年)において「政権を奪取するまえの労働者たちの闘争課題は、賃金を上げることを中心とする労働条件の改善でした。労働者たちは政権につくまえは、社会主義思想を身につけていたわけでもなく、国家全体のことを考えたこともありませんでした。主に個人の要求を実現するためにたたかってきたため、運動の過程で民衆のことを思う気持ちは十分に形成されませんでした」と指摘しています(同書p8)が、単なる労働運動・待遇向上運動の延長線上では、労働者は往々にして自分たちの利益拡大にのみ関心を示し、社会全体の利益を考えることはしないものです。社会の主人であるべき人民大衆は、個人主義者等であってはならないのは当然ですが自己の生産単位・職場の本位主義者であってもならないはずです。
かつてアダム・スミスは「神の見えざる手」が働く前提として「公平な観察者」という概念を打ち出しました。自由市場と「公平な観察者」とを両立させるスミスの理想は、制度設計の問題として実現可能性が疑わしいと言わざるを得ませんが、「公平な観察者」は社会主義社会において必要とされるでしょう。
■社会のあらゆるものの主人としての地位を占め権利を行使するには、人民大衆の創造的能力を養う必要がある
続いてキム・ジョンイル総書記は、「人民大衆の創造的能力を培養」すべきだとします(p25)。人民大衆は社会のあらゆるものの創造者なので、革命と建設の成果は、人民大衆の自主的意識と創造的能力を高める活動をいかに進めるかにかかっているからです。人民大衆の自主意識とともに創造的能力を高める必要があるのです。このことは、人間が唯一の自主的かつ創造的存在であるからこそ人間が世界の主人としての地位と役割を得られるというのがチュチェ思想の人間観なので、自主意識を高めて責任と役割を果たすこと(前項)と並んで、人民大衆の創造的能力を養うことは当然の結論になります。
生産力の問題については本稿でも先に触れましたが、従前の社会主義理論が結局のところ生産力至上主義に陥り、それが更に「社会主義政権下では生産力を向上させさえすれば、社会主義建設は推進・強化され、ゆくゆくは共産主義社会が実現する」という荒唐無稽な展望に変質した歴史的教訓を踏まえたとき、キム・ジョンイル総書記が、生産力向上の論点を含めつつそれを「人民大衆の創造的能力を培養すべき」という形で取りまとめたことは画期的なことであると言えるでしょう。マルクス主義の理論を下敷きにしつつ歴史的教訓をも踏まえて、人間を中心に据える世界観・社会歴史観を貫徹することで説得力のある理論を構築さなっているわけです。
資本主義社会では人民大衆の自主的意識と創造的能力は十分には高まらないとキム・ジョンイル総書記は指摘なさいます。なぜならば、資本主義社会の主人である資本家は、自らに従順で剰余価値を生みだす奴僕を必要としており自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間は必要としていないからです。確かに日本においてもかつて、作家の三浦朱門がそのようなことを口走っていたとされています(http://www.labornetjp.org/news/2010/1265641187674JohnnyH/)。「帝国主義者と資本家は、勤労者大衆を資本の奴隷にするために手段と方法を選ばず、大衆を思想的に堕落させ、かれらの創造的能力を奇形化してい」るのです(p26)。
資本主義的生産様式に基づく資本主義経済は、確かに人類史全体を見たとき生産力を飛躍的に拡大させ物質的生活を豊富にしました。私たちはいま、100年前・200年前とは比べ物にならないほど物質に溢れた生活を送ることができています。しかし、資本主義経済における個々の生産者は、人々の需要を満たして生活を豊かにすること自体は目的とはしておらず、商品を販売して利益を得ること自体、つまり価値増殖を生産活動・経済活動の目的としています。需要充足自体ではなく利潤獲得を経済活動の目的としている以上は、すべてはどうしてもその目的に従属する形を取らざるを得ません。人民大衆の自主的意識と創造的能力は、利潤獲得に有用ないしはそれを妨害しない程度で許されるに留まるものであり、それ自体が目的にはなり難いのです。
特に資本主義経済は営利経済であると同時に競争経済でもあり「停滞とはすなわち後退」となるので、不断に利潤を上げ続けざるを得ません。それゆえ、特に衣食住が基本的に充足されている現代資本主義社会では、コマーシャル・メッセージ(CM)などを駆使して流行を人為的に創出し、存在しなくても生きていく上では問題はないような需要を半ば強引に作り出してまで商品を売り込もうとするケースも頻繁に目にすることができます。この点についてキム・ジョンイル総書記は先に「前進しよう」論文において「資本家は、商品の販路がしだいにとざされていくにつれ、非人間的な需要を人為的につくりだし、人びとの物質生活を奇形化する方向に進んでいます。資本家によって奢侈と腐敗堕落した生活が助長され、人間の肉体と精神を麻痺させる各種の手段がつくりだされた結果、麻薬常習者やアルコール中毒者、変態的欲望を追い求める堕落分子が日を追って急増しており、人びとは精神的・肉体的障害者に変わりつつあります(中略)資本家は、勤労者大衆の自主的な思想・意識を麻痺させ、人びとを資本主義的な搾取制度に従順にしたがわせるため、反動的で反人民的な思想と文化、腐りきったブルジョア的生活様式をヒステリックにまき散らしています」(『金正日選集』第9巻、p31)と指摘されています。
これに対して国家権力と生産手段が人民大衆のものとなっている社会主義社会は、切磋琢磨という意味での社会主義的競争は存在しますが、生産活動・経済活動の目的は自分たちの需要を満たして生活を豊かにすること自体です。党と国家の指導の下、無秩序な競争は廃除されます。もちろん、資本主義社会から社会主義社会に体制移行したとしても、一定期間は人々の頭の中には資本主義的な思想の残滓があるので、資本主義時代のCMが持て囃していたブルジョア的生活様式すなわち物質偏重志向の発想や、価値増殖志向の発想が現れることもあるでしょう。キム・ジョンイル総書記が第2節において「人間は革命的な組織・思想生活と健全で豊かな文化生活を通して自主的な思想・意識で武装し、全面的に発達した創造的能力をそなえてこそ、社会と集団のため積極的に寄与し、社会と集団のりっぱな構成員として誉れ高く生きていくことができる」(p17-18)と指摘なさったことの重要性、特に健全で豊かな文化生活の重要性は、この点においても重要性を持つと考えます。
■「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆は、社会のあらゆるものの主人として誉れ高い幸せな生活を享受しなければならない」と言明なさいます(p26)。そして、「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において、物質生活は重要な位置を占める」とした上で「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことである」と指摘なさいます(p27)。社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かすことこそが人間が人間たる証なのです。
これは、第2節p17で肉体的生命と社会的・政治的生命との関係に関連して「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」と確言されていたことの繰り返しでしょう。決して長くはない論文の中で同趣旨のお言葉が繰り返される点を鑑みるに、この点こそがチュチェ思想にもとづく社会主義運動が最も重視していることであり、最終的目標であると見做せるでしょう。
そして、後述されるように、すべての人々が自己の社会的・政治的生命を輝かせる社会は、その社会そのものが一つの社会的・政治的生命体と化します。つまり、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
キム・ジョンイル総書記は「人民は元来、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かして生きていくことを求めるが、搾取社会ではそれが実現されない」と指摘なさいます。その理由は、「人間による人間の搾取と抑圧は、人民への愛情と信頼とは決して両立しえず、搾取者と被搾取者のあいだには真の愛情と信頼はありえない」からです。「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される資本主義社会では、人民大衆への愛情と信頼について論ずることはできない」のです(p27)。
このご指摘は当ブログがチュチェ思想・主体的社会主義を支持する根本的なところを指摘なさっているくだりです。世界観・社会歴史観だけでなく人生観の問題にも解答を与えているからです。当ブログは、このような見解に共感・理解するからこそ、その実現方途としての主体的社会主義の運動を支持しています。
ブルジョア社会・資本主義社会における人間関係は、端的に言ってしまえば「カネの切れ目が縁の切れ目」であります。本来、人間社会における経済活動は社会的存在としての人間にとって手段に過ぎず、経済生活は社会生活全体の一部分に過ぎない・経済の論理は社会の論理に隷属するはずです。しかし、近代社会・資本主義社会においては部分に過ぎなかったはずの経済分野が社会全体を呑み込んでしまい、社会が経済に隷属する逆転現象が起こってしまっています。その結果として、人間同士の関係までもが経済生活の編成様式、つまり市場的な人間関係、相手を生身の人間としてではなく「自分の役に立つサービスを提供する存在」として取り扱う関係に成り下がっています。人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然化しています。
当ブログか特に危機感を感じるきっかけになったのが、今般の新型コロナウイルス禍でした。当ブログでもかなり力を入れて世相について取り上げました(たとえば、2021年9月9日づけ「「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ!」はどのように誤っているのか・・・朝鮮民主主義人民共和国の先進性との比較」)が、新型コロナウイルス禍における日本世論の政府に対する諸々の要求内容が悉く、消費者意識の奇形的肥大化による無い物ねだりの駄々っ子的クレーマーのそれであったと言わざるを得ませんでした。自分たちの共同体であるという意識がまったく欠落しており、未知の病原体に対して本来であれば全国民が知恵を出し合って突破口を見出すべきところ、「とにかく政府はコロナ禍を今すぐ何とかしろ! 方法は分からん! それを考えるのが政治家や役人の仕事だろう! 「国民は税金を払っているんだぞ!」と言わんばかりでした。政治空間に商品取引の感覚を持ち込むことに何の問題意識も働かなくなったわけです。いよいよ人間が全面的に「商品化」しつつあります。
資本主義社会が搾取社会であることは間違いのないことであり、搾取の問題は重大な問題であることは論を俟ちません。しかし、より重大なのは「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価され」る点にあると当ブログは考えます。酷使や搾取の問題も重大ですが、人間が人間として見做されない・扱われないということは、それよりも遥かに重大な問題・異常な状況であると考えます。資本主義社会の行きつく先は、社会的存在としての人間の本質に反する異常な社会にならざるを得ないのではないかと危惧するものです。
■「社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ…全社会が一つの社会的・政治的生命体となり、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく…もっとも強固で生命力のある社会となる」――主体的人生観に基づく社会的・政治的生命体論
キム・ジョンイル総書記は「従前の労働者階級の理論はブルジョア反動派の偽善的な超階級的愛情の反動性を暴露し、階級社会では愛情も階級的性格をおびることを明らかにした」と指摘なさいます。ブルジョア連中がが愛用する「国民」談義は虚偽のものであります。しかしながら同時に、「愛情が階級的性格をおびるというのは、愛情と信頼は社会的・階級的立場が同じ人たちのあいだでのみ交わせることを意味するのではない」とし、「社会的・階級的立場は異なっても、人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえる」とします(p28)。
その上でキム・ジョンイル総書記は、「社会主義制度が樹立すれば階級的対立は一掃され、人びとの関係は対立と不信の関係から愛情と信頼の関係にかわる」とされます(p28)。社会主義制度においては人々は、互いに愛し合い信頼し合いながら自主的に生きることができます。つまり、第1節でも触れられていたように、世界の主人、自己の運命の主人としての地位を守り、権利を行使して生きられるのです。
社会主義社会では、「愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、それは領袖と戦士のあいだでもっとも崇高な発現をみ」ます。「領袖と戦士、党と人民が愛情と信頼によって結びつき、全社会が一つの社会的・政治的生命体とな」るのです。「社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生がもっとも貴く美しい生」の送り方であると言えますが、人々が愛と信頼で結びつき全社会が一つの社会的・政治的生命体となった社会は、「もっとも強固で生命力のある社会とな」ります。社会そのものが一つの生命体になるという意味において、社会的・政治的生命体論(社会政治的生命体論)は社会有機体論の一種であると言えます。
このように、資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。そしてそうした社会であるからこそ、社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かす最も貴く美しい生が実現した強固で生命力のある社会が実現するのです。この点はまさに、社会的・政治的生命体論の核心部分であります。先にも触れましたが、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とは要するに、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
第2節p17で、ここと同じ趣旨で「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」とキム・ジョンイル総書記が指摘なさっているとおり、社会的集団に献身的に奉仕するから社会的集団に愛され信頼され、それゆえに自主的で創造的な生活を営むことができます。カネの関係や権力の関係では、愛と信頼を得ることはできません。
社会的集団のために献身する生活について、ハン・ドンソン氏の前掲書では次のように詳しく解説しています。すなわち、「自らの運命を集団の運命と一つに結び付けて、集団の要求と利益を、そのまま自分自身の要求の利益と見なし」、「社会と集団の共同の主人になって自主的に生き活動」することです(ハン・ドンソン、2007、p179)。「人間が個人的存在であるとともに集団的存在であ」ることから「人びとの生活にも、個人的な側面と集団的な側面があ」るので、「人びとの生活において、個人的な側面を重視し、個人主義的に生きるのか、あるいは集団的な側面を重視し、集団主義的に生きるのかという問題が提起され」るといいます(同)。
集団主義か個人主義かの対立は、社会主義と資本主義との社会体制上の対立であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との対立に行きつくと先に述べましたが、この対立はまた、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との対立であるとも設定できるでしょう。
また、社会的集団のために献身する生活の創造的な側面についてハン・ドンソン氏の前掲書では、「集団のために寄与することを人生の目的とする人々は、創造的活動も積極的に行うことができ」るとされます。「自己発展の動機を、人民大衆の運命開拓という崇高な事業に寄与することに見いだすとき、創造的情熱は尽き」ないからです。個人的な動機に基づく創造活動は、個人的な能力の限界に達したり個人的に満足したりしてしまえばそれで終わりですが、集団的創造的活動は「個人的なものに自己発展の動機を見いだすときには想像もできない創造力を発揮して、人民大衆の限りない発展のために意義ある貢献をすることができ」るのです(いずれも同書p180)。
結局、社会的集団のために献身する人々の生活は「自主的で創造的に生き発展しようとする自らの要求が実現される喜びと、集団の運命を担って開拓していく誇りに満ちた、充実した生活」となります。これに対して「自分自身の安楽だけを追求する人間は、結局、無為徒食し腐敗堕落した生活をおくることにな」るので、「このような生活に、真の生きがいと幸せはありません」(いずれも同書p180)。
なお、「個人が自らの肉体的生命と社会政治的生命を維持し発展させようとすること自体が、個人主義や利己主義ではありません」。「個人主義と利己主義の誤りは、個人では、世界と自己の運命の主人として自主的で創造的に生き発展することができないにもかかわらず」、「個人の欲望と名誉だけを追求するところにあ」るといいます。特に個人主義については、他人の利益を損ねてでも自己利益を追求する利己主義とは違い個人の自由と平等を主張してはいるものの、「それは、集団を尊重するからではなくて、そうすることが個人の利益を実現するのに有利だから」に過ぎません。
「集団の利益を優先するというのは、個人の要求を放棄するとか、他人のために一方的に犠牲になるという意味では」ないとも言います。「人間はあくまでも自主的存在であって、他人のための手段では」ないので、「人間は、他人のための手段となってはなりません」。ではなぜ、個人が集団のために自らの利益を犠牲にするケースがあるのかというと、「集団の利益のなかに個人の利益があ」るので「より大きい利益のために、小さい利益を犠牲にする」からです(いずれも同書p181)。これがチュチェ思想の集団主義における集団と個人の関係であると言えるでしょう。
なぜ、社会的・政治的生命体において愛情と信頼が社会の紐帯になるのか依然としてピンと来ない方もいらっしゃるかも知れません。本労作で「愛情と信頼」とされているものは、同志愛と革命的信義(革命的義理)という表現になりますが、『チュチェ思想教育における若干の問題について』(1986年7月15日、以下「7・15談話」といいます)においてかなり詳細に言及されています。鐸木昌之氏は前掲書で社会的・政治的生命体論の源流について、7・15談話の内容を分析した上で「社会政治的生命体は、金日成が朝鮮解放前に満洲で展開した抗日パルチザングループを模範にした。この戦闘集団は、指導者と戦士の間の個人的感情で結びつけられ、抗日という目的のために自己の生命までも犠牲にして戦うものであった。また、この遊撃隊は人民の海のなかを泳ぐ魚であり、人民と遊撃隊との関係は切っても切れないものであった。すなわち、抗日遊撃隊の指導者、戦士達、そしてそれを支持する大衆の間で成立した運命共同体を北朝鮮社会全体に敷衍しようとしたのである」(p155-156)と述べていますが、これは非常に分かりやすい上に、各種政治宣伝との整合性を考えるに論理的に説得力があると考えます。光復という理想を目指した抗日パルチザンがそうしたように、共産主義社会という理想を目指す朝鮮民主主義人民共和国もこのように結束すべきだというわけです。
この人間関係は、「自由と平等」を前提としつつもそれよりも一段高みにある関係性であると言えます。7・15談話でキム・ジョンイル総書記は「品物を売る人と買う人は平等な関係にあるとはいえても、彼らが必ずしも同志的に愛しあう関係にあるとはいえません。自由と平等の関係を革命的信義と同志愛の関係と対立させるのも正しくありませんが、どちらかの一方を他のものに溶解させようとするのも誤りです」(同名日本語版小冊子、外国文出版社、2022年、p20)と指摘なさっています。
また、「個人がその生命の母体である領袖、党、大衆に忠誠を尽くすのは、誰かの指図によってではなく、自分自身がもっている社会的・政治的生命の根本要求から生まれ出るものです。それは他人のためではなく、自分自身のためです」(同p23)とも仰っています。
同志愛と革命的信義を現代において如何なる方法で実践すべきかについて、7・15談話でキム・ジョンイル総書記は次のように指摘されています。
もともと革命的信義と同志愛は、環境や条件によってあれこれ変わるものではありません。子どもが父母を愛し尊敬するのは、自分の父母が必ずしも他人の父母よりまさっているとか、父母から恩恵をうけられるからではなく、まさに自分を生み育ててくれた生命の恩人であるからです。革命的信義を守る人であれば、有利なときも不利なときも変わることなく、ひとえに自分の生命の母体である領袖、党、大衆と生死運命をともにするものです。もし、自国が立ち後れているといって失望し、祖国をいとわしく思ったり、祖国が危機に瀕したとき、自分を育ててくれた母なる祖国を裏切ってわが身のみを救おうとする人がいるなら、どの国の人民をとわず、そうした人間を良心のある人間とはみなさないでしょう。革命的信義を守る人であれば、いかなる風が吹き荒れようとも、事大主義に走ったり、自分の領袖、自分の党、自分の祖国を裏切るようなことはないでしょう。(同p25-26)
われわれは何よりも、他の国の偉人ではなく、まさしく金日成同志が、日本帝国主義支配の暗たんたる時期に、あらゆる艱難辛苦に耐えて奪われた祖国を取り戻し、この大地に繁栄する社会主義祖国を建設してくれたということを知るべきです。日本帝国主義とアメリカ帝国主義を打ち破り、チョンリマ(千里馬)朝鮮の栄誉を轟かせるよう人民を導いてくれたのも金日成同志であり、今日世界反動の元凶であるアメリカ帝国主義と直接対峙している困難な状況のもとでも、社会主義建設と祖国の自主的統一をめざす朝鮮人民の革命偉業を勝利の道に導いているのも、ほかならぬ金日成同志です。朝鮮の全ての共産主義的革命家は、父なる金日成同志から不滅の政治的生命を授かり、その愛と配慮のもとで育ってきたのです。実に、金日成同志はわれわれ全ての偉大な教師であり、政治的生命の父であります。それゆえ、金日成同志に対するわが党員と勤労者の忠実性は一点のくもりもない純潔なものであり、絶対的かつ無条件的なものなのです。
当ブログは、先に述べたこととも重なりますが、社会的・政治的生命体論は、本質的に社会的存在としての人間が幸福に生きる人生観を基礎付けるものであると確信するものです。人間中心の社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要になると考えます。ここにおいて、人類史が資本主義で終わるのではなく社会主義、それも人間にとって生命である自主性を回復する主体的な社会主義に進んで行くものと考えます。
■チュチェ思想は人生観を持っているがゆえに死生観も持っている
この労作では深く言及されてはいませんが、全社会が一つの社会的・政治的生命体になり人民大衆がその中で有機的に結びつくということは、生物としての人間が死亡して肉体的生命を終えたとしてもその社会的・政治的生命は、一つの社会的・政治的生命体の中で永生することを意味します。
ハン・ドンソン氏の前掲書によると「崇高な精神をもって人民大衆のために生涯をささげた人々は、社会的集団と、愛と信頼の絆で結ばれてい」るので、「このような人々は、たとえ肉体的生命が途絶えたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、かれらにたいする愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残ります」。それゆえ「人民大衆の運命を開拓する偉業にすべてを尽くして献身するとき、肉体的には死んでも、社会政治的には永遠に生き続ける」のです(ハン・ドンソン、2007、p169)。
また、ハン・ドンソン氏はより遠大な見解から、社会的・政治的生命の永生は「歴史の流れとともに限りなく引き継がれ、歴史的価値をもち続け」るとも言います。「個人の一生には限りがありますが、社会と集団は限りなく存在し発展」するので、「人々は、社会と集団の未来の創造に寄与することによって、人間の生の大きな歴史的流れに合流することにな」るからです。「人民大衆と生死苦楽をともにしながら自主的で創造的に生きた人生は、代を継いで人々の尊敬と愛を受け、その名は歴史に残ることにな」るのです。これに対して「自分のためだけに生きる生活は、個人の一生で終わる生活で」であり「そのような生活は歴史に残りません」(ハン・ドンソン、2007、p185)。ここには儒教文化の死生観の影響が非常に色濃く現れていると言えるでしょう。
意味が分からないという感想をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。そこでまたしても鐸木昌之氏の前掲書から引用したいと思います。
社会政治的生命体あるいは革命的首領論を検討してもわかるように、革命的義理、忠誠、孝誠、忠臣、孝子、奸臣、不孝子などそこで用いられている用語は、伝統的思惟体系のそれである。(p175-177 ブログ記事として読み易いように改行は編集しました)
(中略)
儒教学者加地伸行は儒教における孝について次のように語っている。「自己の生命とは、実は父の生命であり、祖父の生命であり、さらに、実は遠くの祖先の生命ということになり、家系をずっと辿ることができるようになる。すると、いまここに自己があるということは、実は、百年前、確かに自分は生きていたことでもある。百年はおろか、千年前、一万年前、十万年前にも、ひいては生命のもとであったところまで遡って自己は確かに存在していたことになるのだ。それは<血脈>あるいは<血の鎖>と言っていい。それと対照的に、一方では子孫・一族があり、百年先、千年先、一万年先と、もし子孫・一族が続けば、自己は個体として死ぬとしても、肉体の死後も子孫の生命との連続において生き続けることができることになる。つまり、孝の行いを通じて、自己の生命が永遠であることの可能性に触れ得るのである」
これが北朝鮮の「社会政治的生命体」論と構造的に極めて類似しているのはいうまでもない。儒教は血縁共同体内において孝を中心に置いて個人に永遠の生命を保障するものであった。他方、「社会政治的生命体」論は、その中心に首領に対する忠誠を置いて個人の生命の永生を考えているのである。しかしそれは、祖先につながる血縁共同体ではなく、首領に連なる北朝鮮社会、すなわち朝鮮民族にまで拡大していた。
またその連続性を保障する血の鎖は、社会政治的生命体では首領の創始した革命伝統の継承として、すなわち主体の血統として代を継いでいくものであった。個人は社会政治的生命体に一体化してその存在を確認し、革命伝統のなかに自己の永生を見いだす。個人は革命の血統のなかに溶解し、永遠に生きるのである。
革命伝統、すなわち主体の血統は、首領金日成そして金正日に象徴化されていた。またその家系は「代々多くの愛国者を輩出した稀有の革命的家系」であった。それゆえ主体の血統の創始者である金日成と金正日親子の実際の血縁関係もそのなかに含意されているのはいうまでもない。
加地伸行氏の儒教における死生観を引用しつつ社会的・政治的生命体論の死生観の論理構造の類似性を指摘する上掲引用部分からは、ほとんどの人が儒教的死生観を持っていない日本人には理解困難かも知れません。「自己の生命とは、実は父の生命」というのは日本文化の文脈では馴染みの薄い考え方でしょう。しかし、朝鮮文化の文脈に照らしたとき、社会的・政治的生命体論の死生観が決して突拍子のないことを言い出しているわけではないということだけはお分かりいただけるのではないでしょうか。
なお、鐸木氏は引用範囲の最終段落で「それゆえ主体の血統の創始者である金日成と金正日親子の実際の血縁関係もそのなかに含意されているのはいうまでもない」として、朝日新聞の牧野愛博氏が一時期、ナントカのひとつ覚えのように連呼していた所謂「白頭の血統」論に通ずる主張を展開していますが、王の息子が君主制主義者であるとは限らないように革命家の息子が革命家になるとは限りません。鐸木氏が取り上げている「代々多くの愛国者を輩出した稀有の革命的家系」というくだりを当ブログは、そのような家系に育ったからこそ、つまり、最も立派な革命家一族であるキム・イルソン一家に生まれ育ったというその思想的生育環境が、キム・ジョンイル総書記をして生まれながらの革命家としての英才教育を受ける機会を獲得でき、立派な革命家せしめたと解釈すべきではないかと考えます。
それはさておき、このような死生観を持っているからこそチュチェ思想において最も恐れるべきことは、社会集団から見放されること、そして、人々から忘れられることになるでしょう。チュチェ思想は独自の人生観を持っているがゆえに死生観も持っているわけです。
キム・ジョンイル総書記が逝去なさったときの公告≪전체 당원들과 인민군장병들과 인민들에게 고함≫(すべての党員と人民軍将兵、人民に告ぐ)では、最後に≪위대한 령도자 김정일동지의 심장은 비록 고동을 멈추었으나 경애하는 장군님의 거룩한 존함과 자애로운 영상은 우리 군대와 인민의 마음속에 영원히 간직되여있을것이며 장군님의 성스러운 혁명실록과 불멸의 혁명업적은 조국청사에 길이 빛날것이다.≫(偉大な領導者である金正日同志の心臓は、たとえ鼓動を止めたとしても、敬愛する将軍様の神聖なる尊名と慈愛に満ちた御姿は我が軍隊と人民の心の中に永遠に残り続けるであろうし、将軍様の聖なる革命実録と不滅の革命業績は祖国の青史に永遠に輝き続けるだろう)という一文がありましたが、これはチュチェの死生観が非常によく表現されているものであると言えます。キム・ジョンイル総書記は今もなお生き続けておられるのです。
ディズニー映画に『リメンバー・ミー』という映画があります。大きくヒットし、テレビでも何度か放送されているので見たことがある方もいらっしゃるでしょう。死後の世界が存在するという世界観の下、メキシコ人の少年が死者の国に渡るというアニメ映画ですが、その中で「生者の国において皆から忘れられると死者の国からも消滅してしまう」という「二度目の死」なる設定があります。(筋書はウィキペディアにあるので読んでみてください)。
ディズニー映画なので社会的・政治的生命体論に則っていないのは勿論で、儒教の死生観を踏まえているとも考えにくいものですが「生きている人たち皆から忘れられると完全に消滅する」という「二度目の死」なる設定には、当該映画は家族愛(生物学的な血縁関係の間柄での愛)の物語に留まってい点には注意が必要ですが、チュチェ思想の死生観にも繋がるものがあるように思えます。そして、そのような映画が西側世界で大きくヒットしたことは、西側世界においてもチュチェ思想の死生観にまったく可能性がないとは言えないことを示しているのではないかと考えます。
このような死生観は、個人主義に基づく社会・資本主義社会では勿論、実現不可能なものです。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保証にとどまります。資本主義社会では「自由と平等」の関係は実現され得ても、愛と信頼の関係性が紐帯として実現されることはありません。いま資本主義社会では盛んに「社会的包摂」というキャンペーンが展開されていますが、極めて難航しています。社会的包摂もできないのだから、社会的・政治的生命の永生など到底不可能です。
集団主義か個人主義かの対立は社会体制の対立であり、それはつまり人間観の対立であり、人生観の対立でもあると先に述べましたが、これはそのまま死生観の対立になるわけです。個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との対立です。
■仁徳政治論が社会主義・共産主義党の性質を理論的に転換した
キム・ジョンイル総書記は、「人民大衆中心の社会主義は社会生活のすべての分野に同志的団結と協力、愛情と信頼の関係をもっともりっぱに具現し、政治も愛情と信頼の政治にかえる」として社会主義政治の本質的特徴を端的に指摘なさいつつ「愛情と信頼、これは人民大衆が政治の対象から政治の主人となった社会主義社会において政治の本質をなしている」として「われわれは愛情と信頼の政治を仁徳政治と称している」と宣言なさいます。そして「社会主義社会で真の仁徳政治を実現するためには、人民にたいする限りない愛情を体現した政治指導者をおしたてなければならない」となさいます。「仁徳に欠けていれば人民に背いて社会主義を滅ぼす結果をもまねきかねない」からです(p28-29)。
「社会主義社会で愛情と信頼の政治をほどこすためには、社会主義政権党を母なる党に建設しなければならない」とキム・ジョンイル総書記は仰います(p29)。「労働者階級の党は社会の指導的政治組織であ」るので、「社会主義社会で国家機関とすべての組織が人民にいかに奉仕するかということは結局、党をいかに建設するかということと関連している」からです。
「党を母なる党に建設するというのは、母が子をこのうえなく愛し、あたたかく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもってこまかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味」します。キム・ジョンイル総書記は、「以前は党を主に階級闘争の武器とみなした」としつつ「労働者階級の党は階級闘争も展開すべきであるが、党のすべての活動はあくまでも人民への限りない愛情と信頼から出発しなければならない」(p29)として社会主義・共産主義党の性質の理論的転換を図られました。「党は人民大衆の利益を擁護することを第一とし、人民大衆の利益を侵害する者とたたかわなければならない」のです。党は確かに階級闘争の武器ではあるが、それは結局のところ人民への限りない愛情と信頼から出発しているわけです。当ブログはこの政治観に全面的に賛同するものです。
本稿では先に「革命と建設において主観主義を避け、紆余曲折をまぬかれる唯一の道は、人民大衆のなかに入り、かれらの意思と要求を聞き取ることである」という一文に関連して、このことを革命的大衆路線として位置づけました。大衆路線というと毛沢東・中国主席の政治姿勢として非常に有名なものです。キム・ジョンイル総書記の政治姿勢も毛沢東主席の政治姿勢と通ずるところは確かにありますが、「母なる党を建設すべきだ」とする仁徳政治論はキム・ジョンイル総書記の専売特許であると言うべきでしょう。
愛情と信頼が全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会の紐帯であるわけです。朝鮮労働党の革命的大衆路線は、単に党員が人民の輪の中に自ら入って行き意思と要求を聞き取ることではなく、人民への限りない愛情と信頼から出発し、母が子をこのうえなく愛してあたたかく見守るように接することなのです。
■人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成するために
キム・ジョンイル総書記は、「社会主義政権党を母なる党に建設するためには、すべての幹部と党員を人民を限りなく愛し、人民に忠実に奉仕する精神で教育しなければならない」と強調なさいます。「革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためであ」り「苦労は人に先がけ、楽は後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は譲る人が真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員である」と仰います。そして「党員をこのように育てるためには、かれらのあいだで人民に献身的に奉仕する思想教育活動を強化しなければならない」とも仰います(p29-30)。
欲まみれの俗物には、なかなか達しえない高い党性・思想性を必要とする水準です。だからこそ社会主義・共産主義党の党員はエリート中のエリート、選良の中の選良であるわけです。党は常に人民大衆と渾然一体の関係にあらねばならぬが、かといって誰彼構わず党員にするわけにも行かないと考えます。単なる出世機会主義者などは慎重に排除しなければなりません。キム・ジョンイル総書記は「少なからぬ党が人民大衆の支持と信頼を失い、結局、その存在を終えるようになったのは、党を、人民の運命を責任をもってあたたかく見守る母なる党に建設するのでなく、権勢を振るい、権力を乱用する官僚的党に転落させた結果である」と警鐘を鳴らされています(p29)。
キム・ジョンイル総書記は「社会主義社会で仁徳政治の実現を阻む主な要素は、幹部のあいだにあらわれる権柄と官僚主義、不正腐敗である」と仰います。社会主義はあらゆる特権に反対しているのにも関わらず汚職が発生するというのは、反社会主義現象以外の何物でもありません。
キム・ジョンイル総書記は「国家主権と生産手段が人民の手に掌握されているかぎり、社会主義社会で新たに特権階級が生まれることはない」が、「党と国家のすべての政策は幹部を通じて実行されるので、党と国家がいくらりっぱな政治をほどこしても幹部が権柄と官僚主義に走ると、それは正しく具現されない」と指摘なさいます(p30)。そして、そのためにキム・ジョンイル総書記は「幹部を徹底的に革命化」しつつ「かれらのあいだで権柄と官僚主義、不正腐敗に反対する闘争を積極的にくりひろげる」こと、「幹部のあいだで権柄と官僚主義、不正腐敗の傾向を根絶するための教育活動と思想闘争をひきつづきねばり強くくりひろげなければならない」と強調なさいます。
これは非常に重要な指摘です。「大衆から支持されない党はその存在を維持することができない。歴史的教訓が示しているように、社会主義政権党が幹部の権柄と官僚主義、不正腐敗を許容するのは、みずから墓穴を掘るようなものである」と指摘なさっているのは全面的に正しいと考えます。しかし、このことについて、当ブログの関心に沿って日本の状況に引き付けると、「革命家が労働者階級の党に加わるのは、私利と功名、権勢のためではなく、人民によりよく奉仕するためであ」り「苦労は人に先がけ、楽は後にまわし、困難な仕事はすすんで引き受け、成果は譲る人が真の共産主義者であり、労働者階級の党の党員であ」るところ、そのような人材は日本には非常に稀有であると言わざるを得ません。
キム・ジョンイル総書記は「鍛練の足りない一部の幹部は思想的に変質し、人民から遊離して特殊階層化しかねない」と仰いますが、日本ではむしろ「鍛練の足りない幹部」が多数派になるでしょう。それゆえ、キム・ジョンイル総書記の指摘を日本において実践するとなると、当ブログは、教育活動と思想闘争はもちろん積極的に展開させなければならないが、仮借なき汚職排撃闘争及び、いわゆる「不正のトライアングル」理論に基づく仕組み作りも前面に押し出す必要があると考えます。
全体の文脈から考えて、ここでの教育活動及び思想闘争重視のくだりは、「社会主義社会は高い思想・意識で武装し、一つに統一団結した人民大衆の創造力によって発展する社会であ」り「人間改造を優先させてこそ革命の主体を強化し、その役割を高めて社会主義を成功裏に建設することができる」という命題に対応しているものと思われます。損得勘定で人を動かす方法論がブルジョア的であることは論を俟ちませんが、日本はまさにブルジョア社会であるからこそ、教育活動及び思想闘争にプラスして幹部当人の損得勘定に訴えるべく汚職排撃闘争も展開せざるを得ないものと考えます。
また、キム・ジョンイル総書記が権柄と官僚主義、不正腐敗の問題を「われわれの内部に古い思想を扶植しようとする帝国主義の思想的・文化的浸透策動がつづいている状況」と結び付けて反汚職闘争を論じている点に注目すべきであると考えます。
ほんのわずかな体制の綻びを突いて全体を瓦解させようとするのが帝国主義者の手口です。特に不正腐敗は、「あいつばかり地位を利用して美味しい思いをしやがって、オレだって・・・」「みんなやっているから・・・」といった具合に他人に「伝染」してゆくものです。それは社会主義体制を内部から衰弱させるだけではなく、そうした思想的荒廃が外部勢力に付け入る隙を与えることになります。特に帝国主義者は本質的に個人主義、個人の私的利益の徹底的な追求を是とする思想的基盤に立っているので不正腐敗と思想的に親和的です。社会主義政権党幹部の権柄と官僚主義、不正腐敗は、帝国主義者の足掛かりになりかねないのです。キム・ジョンイル総書記の指摘を全面的に支持するものです。
■人民大衆の社会的・政治的生命を輝かす党と領袖の仁徳政治
キム・ジョンイル総書記は、党と領袖の仁徳政治によって朝鮮人民は社会的・政治的生命を輝かしており、誉れ高く尊厳ある生を営んでいると指摘なさいます。「社会の全構成員が互いに信頼し愛し、助け合いながらむつまじい大家庭をなし、ともに生きがいと幸せを享受しているのがわれわれの社会の真の姿であ」り、それゆえに「わが国では全人民が領袖を実の父と仰ぎ、党のふところを母のふところと信じて慕い、領袖、党、大衆が生死、運命をともにする一つの社会的・政治的生命体をなしている」と指摘なさいます(p31)。
既にふれてきたとおり、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営むことが社会のあらゆるものの主人としての誉れ高い幸せな生活であり、社会主義体制においてこそ全社会は一つの社会的・政治的生命体となるので社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていけるようになるわけですが、より具体的には、党と領袖の仁徳政治を執り行うことが必要であるというわけです。
また、精神的・道徳的風格だけでなく物質や文化面においても健全かつ平等な生活が現れていると指摘し、無料義務教育制や無料治療制について言及していらっしゃいます(p32)。翻って日本では、たとえば社会保険料については「給付水準と負担水準」のバランスの話ばかりが取り沙汰され、そもそもの制度理念などについては顧みられることさえありません。日本における仁徳政治など夢のまた夢であると言わざるを得ないでしょう。
■仁徳政治と後代愛
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治の恩恵は、育ちゆく新しい世代にいっそうこまやかにほどこされている」として後代愛について筆を進められます。「革命の前途と、国家と民族の興亡盛衰は新しい世代をいかに育てるかにかかっている」ため「新しい世代の育成問題は親だけに責任を負わせることではない」と言明されます(p32)。
「新しい世代の将来が親の財力によって左右される資本主義社会では、かれらが社会的不平等と社会悪の餌食になるのは避けられない」が、これに対して「仁徳政治が実施されているわれわれの社会主義社会では、すべての新しい世代を国家が引き受けて育てている」とします(p33)。日本では昨今「親ガチャ」という言葉が頻繁に取り沙汰されます。「親ガチャ」は必ずしも教育の話に限ったものではありませんが、親の経済力と子への教育水準の関係で語られることが多いものです。ここ10年ほどで「質のよい教育はカネを出して買うものだ」という観念がだいぶ薄れてきたものの、依然として日本国家の腰は重いと言わざるを得ません。ブルジョア社会の支配階級は有産階級であり、有産階級は子弟に対する良質な教育にかけるべき資金等に困っていないので、ブルジョア社会では新しい世代の育成問題の優先度は高くはないのです。やはり、日本における仁徳政治など夢のまた夢であると言わざるを得ないでしょう。
■仁徳政治は抗日武装闘争以来の伝統的政治方式であり、広幅政治でもある
キム・ジョンイル総書記は、「仁徳政治は、偉大な領袖金日成同志が早くも抗日革命の日びにその歴史的根源を築き、革命と建設の進展にともなってさらに深化発展させてきた伝統的な政治方式である」と指摘なさいます(p33)。「社会的・政治的生命体論の根源は抗日パルチザンにある」とよく外部からも指摘されることですが、それらの指摘はまったく見当違いというわけではないことが、このくだりから判定できるでしょう。
「人民を限りなく愛する気高い徳性をそなえた敬愛する金日成同志を領袖に仰いだがゆえに、わが国では真の人民の政治、仁徳政治の誇らしい歴史が開かれるようになった」(p33-34)と指摘なさるキム・ジョンイル総書記。たしかに、『キム・イルソン将軍の歌』に歌われているように、キム・イルソン主席は満州広野の吹雪をかき分け密林で夜を明かしてこられました。建国後も『忠誠の歌』で歌われているように、夜明けの早い時間から農場や工場を訪ねては精力的に現地指導なさいました。これらすべては人民に対する限りない愛情がなければ不可能なことです。
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治は、各階層の人民に差別なく愛情と信頼を与える大いなる愛情と信頼の政治である。そういう意味で、われわれはわが党の仁徳政治を幅広い政治といっている」と宣言なさいます(p34)。文献によっては「広幅政治」と表記されることもあります。「わが党は過ちを犯した人であっても見放さず、教育改造して正しい道に導き、社会的・政治的生命を最後まで輝かしていけるよう見守っている」がゆえに幅が広い政治だというわけです。
このことは「北朝鮮」文学の研究分野ではかねてより指摘されてきたことです。古典的な社会主義リアリズムでは決して表象化されないような人物を敢えて取り上げ、そうした人物がどのような葛藤を経て改心してゆくのかや、あるいは、周囲の人々が初めのうちは「あんな勝手なことをしてきておいて、何を今更・・・」と思いつつ、次第に変化する当人を見て過去を許して受け入れるべきかどうか葛藤するのかを題材にしたテーマが少なくありません。広幅政治については、このくだりだけをみるとキレイゴトのプロパガンダだと言いたくなる気持ちも分からなくはありません。しかし、文学論壇での動向を鑑みるに大真面目な課題として取り組まれているものです。
■民族の優れた品性が社会主義において全面的に開花した
キム・ジョンイル総書記は「朝鮮人民にたいする党と領袖の気高い愛情と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こして」おり、「朝鮮人民のすぐれた品性は、現代にいたって新たな精神的・道徳的基礎のうえに全面的に開花発展している」と指摘なさいます(p34)。「朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩徳に忠誠をもって報いるために身も心もささげてたたかっている」のです。
個人的な思いですが、ロシア語版『インターナショナル』の≪Мы наш, мы новый мир построим,Кто был никем − тот станет всем!≫`という歌詞にうたわれるようなソ連流の社会主義・共産主義のビジョンも好きですが、≪우리 자랑 이만저만 아니라오≫の≪민족문화 혁명전통 체계있게 가르치며 조국앞날 지고나갈 학생들이 자랍니다.≫にうたわれるように、민족문화(民族文化)と혁명전통(革命伝統)とを等しく取り扱う共和国流のの社会主義・共産主義のビジョンのほうが魅力的に感じるところです。なお、この点は、本稿最終節の温故知新論に繋がります。
■朝鮮式社会主義は必勝不敗である
キム・ジョンイル総書記は「わが党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっている。愛情と忠誠にもとづく領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であり、このような一心団結に根ざしている朝鮮式の社会主義は必勝不敗である」と確言なさいます(p35)。国家主権と生産手段が人民のものとなることで個人主義が克服されて集団主義化されており、また、党と領袖の仁徳政治が執行されている朝鮮民主主義人民共和国においては、社会は一つの社会的・政治的生命体となり社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていけるようになっているが、このような領袖、党、大衆の一心団結はもっとも強固な団結であるので、朝鮮式社会主義は必勝不敗なのです。
これに対して先にも述べたとおり、人間関係がいよいよ全面的に「商品化」しつつある日本では、仮に党と首領が人民に対して限りない愛に基づく政治を施したとしても「税金を払っているのだから当然」としか考えないでしょう。
キム・ジョンイル総書記は労作の最後に「人民大衆が国家と社会の主人としての地位を守って権利を行使し、主人としての責任と役割を果たし、主人としての誉れ高い幸せな生活を享受しているところに、人民大衆中心の朝鮮式社会主義が人民大衆の絶対的な支持と信頼を受ける不抜の社会主義となる根拠がある」としつつ「わが党はつねに、社会のあらゆるものの主人である人民大衆を絶対的な存在とし、人民に限りない愛情と信頼をほどこす真の人民の政治、仁徳政治をあくまで実施していくであろう」、そして「人間本位の社会主義、人民大衆中心の社会主義は、もっとも科学的ですぐれた有力な社会主義である。社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利する」と確言なさって労作を締めくくられます。
■おさらい
労作の内容を、本文の順序とは若干入れ替えつつ内容を振り返りたいと思います。
チュチェ思想においては人間は社会的存在であるとされます。ここでいう社会的存在とは、人間が人間たりえるのは社会関係を結んで活動するからこそであるという意味です。人間を特徴づける自主性・創造性・意識性は生物としての進化の結果として自然に獲得したものではなく人間が社会的関係を取り結ぶ中で形成されるものです。
社会は、人間を単なる生物体ではない特殊な存在とする決定的な要素です。自然環境が人間に肉体的生命を付与し、社会環境が人間に社会的・政治的生命を付与します。人間は、肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っています。
肉体的生命は人間以外の動物も持っていますが、社会的・政治的生命は人間だけが持つものです。それゆえ、社会的・政治的生命の所有こそが人間が人間たる特徴・根拠になります。人間にとって自主性は生命です。人間は自主的な社会的存在として、なにものにも従属したり束縛されることなく自主的に生きることを求めます。そしてそのために目的意識性を持って創造的能力を発揮します。人間以外の動物にはそれができないので本能に基づいて行動するほかなく、また、客観的条件に生殺与奪を握られます。
社会的・政治的生命をもってこそ、人々は、社会的集団とともに、世界と自らの運命の共同の主人となり、自主的で創造的に生き発展することができます。社会に背を向け放蕩する人は、社会的・政治的生命を得ることができず、社会的集団とともに世界と自らの運命の共同の主人になることができないので、まさに資本主義国の人間のように個人的努力の範囲やカネと権力で解決できる範囲で多少のことはできたとしても、自主的で創造的に生き発展することができません。
人間にとっての自主性は生命であるからこそ肉体的生命よりも社会的・政治的生命が重要になります。このような人間の生命の本質ゆえに、チュチェ思想は生の価値、すなわち人生観として「人間のもっとも誉れ高く甲斐ある生き方は、自己の運命を社会的集団の運命と結びつけ、社会的集団に献身的に奉仕し、社会的集団に愛され信頼されながら、自主的で創造的な生活を営むこと」と定義します。社会的・政治的生命は社会環境から付与されるものであるからこそ人間の生の価値は、人間が社会的集団とどう結合するかにかかっています。社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営むことこそが人間の自主的要求を満たすことであり、それはすなわち人間の自主的本性に適うことになるのです。
こうした生は、人民大衆が国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ実現可能です。国家主権と生産手段とを人民大衆が自ら所有する社会主義社会は集団主義に基づいているからです。人間が社会的集団をなして生きていくためには、集団の自主的要求と個人の自主的要求を実現していかなければなりませんが、それは集団主義においてのみ立派に実現されます。個人主義に基づく敵対的階級社会では決して実現され得ません。階級的対立と社会的不平等を生みだし人民大衆にたいする少数支配階級の搾取と抑圧を随伴するようになるからです。
このことをキム・ジョンイル総書記は端的に「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」と表現なさいました。
社会主義制度が樹立すれば階級的対立は一掃され、人びとの関係は対立と不信の関係から愛情と信頼の関係にかわります。人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえるからです。資本主義がカネと権力を社会の紐帯としているとすれば、全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会では愛情と信頼が社会の紐帯となるわけです。
社会主義社会の紐帯である愛情と信頼は、領袖と戦士のあいだでもっとも崇高な発現をみます。領袖と戦士、党と人民が愛情と信頼によって結びつき、全社会が一つの社会的・政治的生命体となります。社会の全構成員が社会的・政治的生命を限りなく輝かしていく生が最も貴く美しい生であり、それを実現した社会がもっとも強固で生命力のある社会です。社会的集団に献身的に奉仕するから社会的集団に愛され信頼され、それゆえに自主的で創造的な生活を営むことができます。
なお、個人が自らの肉体的生命と社会的・政治的生命を維持し発展させることに関心を寄せることは、ただちに個人主義や利己主義になるわけではありません。また、集団の利益を優先するというのは、個人の要求を放棄するとか他人のために一方的に犠牲になるという意味ではありません。個人が集団のために自らの利益を犠牲にするケースについては、集団の利益のなかに個人の利益があるので、より大きい利益のために小さな利益を犠牲にするものです。
このように、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。チュチェ思想によって、正しい人間観に基づく豊かな人生観と社会主義理論とが結びついたわけです。
このような生を送る人は、社会的集団と愛と信頼の絆で結ばれているので、たとえ肉体的生命が尽きたとしても、その思想と業績は、社会的集団が続く限りそのなかで引き継がれ、そうした生を送った人に対する愛と信頼は、世代を越えて人々の心のなかに残ります。それゆえ、そうした人は、社会政治的には永遠に生き続けることになります。資本主義社会がいかに高度な生産力を誇っていたとしても実現できるのは個人の肉体的生命の保証にとどまるので、このような死生観は、個人主義に基づく社会・資本主義社会では勿論、実現不可能なものです。
集団主義か個人主義かの対立軸は社会主義と資本主義との社会体制上の対立軸であり、それはつまり、人間を社会的存在であるとする人間観と人間をたんなる自然的・生物学的存在とみなす人間観との対立軸であり、愛と信頼を紐帯とする社会的・政治的生命を基本とする人生観とカネと権力を紐帯として肉体的生命を基本とする人生観との対立軸でもあり、そして個人として生き肉体の死滅とともに終わる生命の見方と、集団とともに生き社会的・政治的に永生する生命の見方との死生観上の対立軸として設定できます。
人生観そして死生観にも踏み込んでいる点において、当ブログは、人間中心の社会主義運動、つまり「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて社会的・政治的生命体を構築することを目指す主体的な社会主義運動は、単に労働者階級の生活水準を向上させ経済的利益を実現するといった水準にとどまる問題ではなく、人間が本来的に持つ人間性を取り戻すことであると言ってよいと考えます。
人間性の本質は、その自主性にあります。愛とはお互いの自主性の尊重です。人間が自主的な生を送るためには、自然・社会・自分自身の主人、政治・経済・思想文化の各生活分野の主人となり、人々が愛と信頼に基づいた道徳義理的な一心団結をなす必要があります。そしてそのためには、修正資本主義的対応では足りず社会的・政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動が必要だと考えます。
社会主義の従前理論は正しい人間観に立脚してこなかったため人民大衆の自主化の道筋を正しく解明することができませんでした。「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという」哲学的原理に基づく、正しい人間観に立脚しているチュチェ思想によって社会主義は新たな科学的土台のうえに引き上げられ、人民大衆中心の社会主義となりました。
社会的・政治的生命体を構築することを目指す人民大衆中心の社会主義は、正しい人間観に立脚するが故に人間改造・思想改造をすべての活動に優先させつつ自立的民族経済と自衛的軍事力を強固にすることを要求します。そして人民大衆中心の社会主義は、正しい人間観に立脚しているからこそ豊かな人生観を展開でき、それゆえに人間の自主的本性に適う社会主義像を提唱し仁徳政治論を展開することができました。
社会的・政治的生命体を構築することを目指す人民大衆中心の社会主義は社会生活のすべての分野に同志的団結と協力、愛情と信頼の関係を具現するので、その政治も当然、愛情と信頼の政治になります。そうした政治を仁徳政治というわけですが、仁徳政治論は、社会主義政権党を母なる党に建設することを求めます。
党を母なる党に建設するというのは、母が子をこのうえなく愛し、あたたかく見守るように、党を、人民大衆の運命を責任をもってこまかに見守る真の人民の導き手に、保護者にすることを意味します。全社会が一つの社会的・政治的生命体となった主体的社会主義社会の紐帯が愛情と信頼である以上、党がこのように建設されるべきなのは当然でしょう。
仁徳政治論は、人民に忠実に奉仕する幹部と党員を育成することを求めます。また、育ちゆく新しい世代にいっそうこまやかにほどこされています。そして、各階層の人民に差別なく愛情と信頼を与えており、その意味で広幅政治でもあります。広幅政治は決して宣伝上の文句ではなく、文学論壇での動向を鑑みるに大真面目な課題として取り組まれているものであると言えます。
朝鮮人民は党と領袖の仁徳政治のありがたさを深く感じており、その恩徳に忠誠をもって報いるために身も心もささげてたたかっています。党と領袖の朝鮮人民にたいする愛情と信頼は、人民のあいだに党と領袖への限りない忠誠を呼び起こしているのです。朝鮮人民のすぐれた品性は、現代にいたって新たな精神的・道徳的基礎のうえに全面的に開花発展しています。
朝鮮労働党の仁徳政治は領袖、党、大衆の一心団結の源となっています。社会を組織化し統一的に始動する政治が愛情と信頼に基づいたリーダーシップを発揮しており、これに対して忠誠に基づくフォロワーシップが展開されています。リーダーシップとしての愛情、そしてフォロワーシップとしての忠誠にもとづく領袖、党、大衆の一心団結は、すべての人々の社会的・政治的生命を輝かせる最も強固な団結です。このようなリーダーシップとフォロワーシップによる一心団結に根ざしている朝鮮式社会主義は、人間本位の社会主義・人民大衆中心の社会主義であり、最も科学的で優れた有力な社会主義です。それゆえ、社会主義はその科学性と真理性により必ず勝利するのであります。
本稿冒頭でも述べたとおり、本労作は世界と人間の関係そして集団と個人の関係を追究したことにより得られた、正しい人間観と豊かな人生観に基づいた社会主義理論を展開されていると考えます。
■「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観を日本の自主化においてどのように参考にするか
上に見てきたとおり、本労作は、人間観の再定立に始まり、人間は肉体的生命と社会的・政治的生命の二つを持っていることを指摘したうえで、より重要な社会的・政治的生命すなわち自主性:自主的本性を輝かしうる生活の在り方、すなわち主体的な人生観と、それを実現し得るのは集団主義に基づく社会主義社会であることを論証していると言えます。
このような社会主義社会では、愛情と信頼が社会的集団とその構成員間、社会の個々の構成員間に生まれ、全社会が一つの社会的・政治的生命体となります。愛情と信頼が社会の紐帯となります。そしてそうであるがゆえに、社会的・政治的生命を持つ個人は、その生命の母体である社会的集団に献身することによって永生することになります。
繰り返しになりますが、この意味において、チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、社会的・政治的生命体を形成するための運動であると言えるでしょう。
さて、ブルジョア社会としての日本社会を人間の自主的本性に適うような社会に改造するためには、どのようにキム・ジョンイル総書記の労作を指針化すればよいでしょうか?
終局的には集団主義社会としての社会主義社会を目指す必要がありますが、このことは世代を継いで継続的に取り組まざるを得ない歴史的課業にならざるを得ません。商品生産・交換経済が社会全体を侵食し支配している現状を転換することは非常に困難な課業になるでしょう。
キム・ジョンイル総書記はこの労作において、個人主義に基づく資本主義社会は「人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会」であると指摘なさいました。当ブログはこの指摘に全面的に賛同するものです。個人主義に基づく資本主義社会があまりにも奇形化しており、社会のすべて、本来は人権の問題として考えるべきテーマについても金儲けの文脈で語ることに憚ることがなくなっています。つまり、人々は他人を「商品」つまりモノ扱いするに至っているとさえ考えます。事態は非常に深刻であると考えます。
たとえば先般、選択的夫婦別姓問題に関して日本経済団体連合会(経団連)が「ビジネス上のリスク」になるという趣旨で導入推進を要望しました。「選択肢のある社会の実現を目指して〜 女性活躍に対する制度の壁を乗り越える〜」において、「一人ひとりの姓名は、性別にかかわらず、その人格を示すもの」としつつ「職業人にとっては、これまで築いてきた社内外の実績や信用、人脈などが紐づく、キャリアそのもの」としている点、本心・魂胆は人格云々の問題ではなく「キャリア」の問題であると告白していると言わざるを得ません。別紙として添付されている「旧姓の通称使用によるトラブルの事例」も、すべてカネ儲け上の話です。もちろん、経済団体である経団連なのだからカネ儲けの話を持ち出すのは「自然」なことです。しかしそもそも、本来、選択的夫婦別姓の是非を巡る問題は、個人の生き方・アイデンティティの問題であり、経済団体である経団連が口を出す問題ではありません。
かつてフランス革命のときブルジョアジーは、「自由・平等・博愛」という「普遍」的な理念を持ち出し、アンシャン・レジームを打倒して自分たちの経済的覇権を確固たるものにしたいという本心を巧妙に隠蔽し、小農民をはじめとする非ブルジョア階級の利益をも代表する素振りを演じたことで革命を成就させました。これと比較するに、今般の現代ブルジョアジーの露骨さは、連中がビジネスを引き合いに出せば強い説得力を持つと考えている、つまりそれだけ現代日本人が経済活動のことしか考えておらず、それについて疑問にも思っていないことを示していると考えます。「選択的」夫婦別姓と言いつつ「社員のキャリア形成のために」といった大義名分を掲げて別姓とすることを「自発的」に「選択」するよう会社・上司から要求されることが非常に懸念されます。
経団連がこんな調子なのだから、知識労働社会化によって労働者階級もプチ・ブルジョアジー化している現代社会、人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会、つまり、人間を「自分にとって使えるか否か」という商品選びの水準で評価し交際する関係が当然化している社会において、人間性を復興させてその自主的本性に適うような社会にすることは困難を極めることでしょう。
経団連が本来、カネ儲けの文脈で語るべきではない問題に口を出していることに誰も何の疑問も感じていないことは重大ながらもあくまでも一例ですが、このような事態を踏まえるに、まず、現状が異常であることを理解することから始める必要があると考えます。現代日本が人間の人格的価値が交換価値にかえられ、それが金銭と財物によって評価される社会であることに対して「異常だ」という自覚がないのです。
より広い視野で言えば、そもそも社会のサブシステムに過ぎないはずの経済生活が、逆に社会全体を呑み込んでいるという現代社会が異常であるという自覚が必要です。人類史の大部分は経済は社会のサブシステムでした。つまり、人類が代を継いで積み重ねてきた人智は、社会の論理に経済の論理を従属させることを前提としてきたものです。
朝鮮民族の伝統的な優れた品性が朝鮮労働党指導下の主体的社会主義社会において全面的に開花したように、過去の人智の中から社会主義の立場に立って有用な見解を復興させることはできないでしょうか? 温故知新という言葉があるように、自主性を生命とする人民大衆が代を継いで創造してきた人類史、とりわけ愛情と信頼に関する蓄積を振り返り、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことが必要だと考えます。
そして、人間の生の本質とその価値を見つめ直し、如何なる生活が真の意味で誉れ高い幸せな生活であるのかを今一度考え直すことによって、論理的必然として「人民大衆の誉れ高い幸せな生活において本質的内容をなすのは、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし、尊厳ある生を営むことであ」り、「社会的集団をなして活動するのが人間の生存方式であり、人間の自主的要求が集団主義によってのみりっぱに実現するのであるから、集団主義にもとづく社会、社会主義・共産主義社会は、人間の自主的本性にかなったもっとも先進的な社会である」、そして「人民大衆はもっぱら国家主権と生産手段が人民のものとなっている社会主義社会でのみ、社会のあらゆるものの真の主人となる」という本労作の要点に議論が移って行くものと考えます。
もちろん、資本家は、自らに従順で剰余価値を生みだす奴僕を必要としており自主意識に目覚め多方面にわたって発達した自主的で創造的な人間は必要としていません。健全な文化生活を阻害・妨害する要素は現代日本社会にはあまりにも溢れかえっています。しかし、資本家はそこまで厳格に統制を展開して愚民化政策を展開すべく下らないエンターテイメントばかりを量産させているわけではありません。より正確に申せば、資本家たちは人民大衆の文化生活の状況にそれほど関心を寄せてはおらず、「放し飼い」にしているように見受けられます。糸口はあると考えます。
古今東西の古典的文学作品をよく読み、それを自分自身の自主性を照らし合わせ、現状が極めて異常であることを自覚することから始める必要があると考えます。そして、そうした営みを通じて体得した自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換することが肝要であると考えます。
2022年11月20日づけ「ロシア革命によって切り拓かれた社会主義・共産主義運動を、社会政治的生命体の形成を目指す社会主義・共産主義運動に転換しつつ前進させる道について」で論じましたが、日本の現状に即した集団主義的な社会原理を具体的に模索する必要があると考えます。当該記事では、「集団主義を、「公平性」と「お互い様精神」に基づいて社会を協同的・自主管理的に運営することで、自主・対等・協同の社会関係――個人の意思決定と選択の自由が実現しつつ、人間同士の協同的な関係が実現したもの――を実現するものと定義すれば、ここに社会政治的生命体形成の初期段階を構想することができ」るとし、「自主・対等・協同の社会関係を革命的な同志愛と義理心に発展させることで社会政治的生命体を形成させる」という持論を展開しました。さらに、「労働運動を核心・突破口として、さらに社会政治的生命体の形成に繋げてゆくべき」として「第一段階としての自由化、第二段階としての自主化・協同化、そして最終段階として革命的な同志愛と義理心に基づく社会政治的生命体を形成という段階を踏むべき」としました。
具体的に如何なる形で主体的な社会主義運動を構築してゆくのかは、それぞれの国の現状に依存するものです。自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換するにあたっては、キム・ジョンイル総書記が「前進しよう」論文などで展開なさった資本主義諸国での社会的・階級的構成の変化に応じた対応が必要になるでしょう。人間を中心に据えることの重要性がここにあらわれます。
キム・ジョンイル総書記は「人民大衆の自主性を擁護してともにたたかい、創造的活動を共同で進める人たちのあいだには、愛情と信頼を交わす関係が生まれえる」と明るい展望を示しておられますが、この愛情と信頼の関係が人民大衆の組織力を強化し、自然と社会そして自分自身を改造する自主的・創造的・意識的な諸活動によって客観世界が人民大衆の自主的要求が実現する新しい世界、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営める世界になって行くのです。つまり、自主的思想意識と創造的能力、目的意識性を組織的力量に具体的に転換すること自体が社会主義・共産主義社会の部分的成立になるのです。
ものすごく時間がかかることではありますが、社会的集団の愛情と信頼のもとで社会的・政治的生命を輝かし尊厳ある生を営む道は地道なものだと考えます。人間が本来的に持つ人間性を取り戻すためには、人類が代を継いで積み重ねてきたものを再発見し再評価することから始めるべき地道なものであり、そこで培った「人間は、互いに社会的関係を結んで自主性、創造性、意識性をもって生き活動する社会的存在である」という人間観、そしてそれに基づく世界観、社会歴史観、さらに人生観そして死生観に基づいて具体的な組織的力量を形成してゆく運動を展開する必要があると考えます。チュチェ思想に基づく社会主義・共産主義運動とはすなわち、【社会的・政治的生命体を形成する運動】であると考えます。