2013年02月24日

「感情屋」に対する保守主義的アプローチ

昨日の記事に関連して。

ここ最近、法律・司法関係の話題を、世論と結びつけながら考えなおしています。およそ3年ぶりの営みなので、「リハビリ」も兼ねて。その過程で、昔よく読んでいたウェブページを再巡回しているんですが、良くも悪くも「昔のまま」ですね。「〜法xx条では…と定義されているので、この事件に死刑は適用できませんよ」みたいな。

私も昔よくやりました。やったからこその自己批判という視点から一言申し上げれば、「たしかにそのとおりだけれども、「じゃあ法律を変えるべきだ!」という展開になったらどうするんだろう?」と思うのであります。

昨今のいわゆる「世論」、甚だしくは「感情屋」の主張は、現行法の基本的枠組みを飛び越えたモノであることが少なくありません。それゆえ、裁判の運営ルール上の問題として、そういった内容に沿った判決を出すことは不可能です。罪刑法定主義である限りは。しかし、その主張が司法府ではなく立法府に提起された場合、話は変わってきます。新しい法律を作るかどうかという段階において、いつものように「〜法xx条では…と定義されているので、この事件に死刑は適用できませんよ」といったところで、じゃあ「〜法xx条も変えようじゃないか」と言われてしまったら、もう返す言葉がないからです。

天賦人権という概念を持ち出す人もいるかもしれません。現に、そういう場面における「最後の砦」として天賦人権は多用されています。しかし、「世論」や「感情屋」はこうした従来の法律の前提そのものに対しても批判的な「急進過激派」の立場に立っており、もはや半ば「宗教戦争」みたいな状態になりつつあるのではないかとすら思います。

往々にして急進過激派は少数派です。刑事裁判における急進過激派も、かつては人数においても少数派であり、無視できる勢力でした。また、権威も、圧倒的に人権派(というと色々語弊があるけど)の側にありました。それゆえ、「〜法xx条では…と定義されているので、この事件に死刑は適用できませんよ」という程度で済んでいたのであります。

しかし、当ブログでも以前から継続してヲチしつづけてきたように、その急進過激派が「被害者感情」としてある種の権威を持ち始め、さらに、人数においても無視できない勢力にそだちつつあります。いまや一方的に人権派が指導的地位を占めていられる時代ではなくなってきており、急進過激派の挑戦をうけるようになってきています。にもかかわらず、いままでどおりのやり方を続けていていいのでしょうか。「宗教戦争の戦場」で「聖書」を朗読していて何の役に立つというのでしょうか。

ではどうすれば良いのか。「宗教戦争」すなわち価値観どうしのぶつかり合いですから、なかなか決着をつけるのは難しいと思います。ここで私は、「急進過激派」の「急進」というところに注目したいと思います。要するに彼らは、自分たちの理想像を一気に実現しようとしているのです。

思うに、どんなにすばらしい理想であっても、急進的に実現させるべきではないのではないでしょうか。社会システムのスケール・複雑さに比べて、人間のスケール・知性なんてタカが知れているからです。人間が社会システムの全てを知り尽くし、合理的に設計できるだなんて思い上がりも大概にしておいたほうが良いでしょう。その点において私は最近、保守的な立場に魅力を感じており、急進的な立場には否定的です。この問題においても、その立場を貫きたいと思います。百歩譲って「過激」な理想を掲げるのはヨシとしても、それを実現させるためには、思いつきレベルの正義感そのままでは実用に耐えうるものにはなりませんし、各方面に根ざした既存の諸システムとの調整(たとえば、判例との整合性)と慎重なシミュレーションが必要であり、一気に社会を切り替えることは難しいでしょう。それに対して現行体制は、問題はもちろんあるものの、数世代にわたってシステムとして作用してきたという「稼動実績」があり、その点において、何の稼動実績もない新しいシステムに対して決定的な優位性を持っています。であれば、理想まっしぐらな急進的な立場なんてとてもではありませんが取れるものではなく、稼動実績のある既存のシステムを前提としつつ、慎重に冷静に改善(問題が起こったらすぐに後戻りできる程度の小規模改善の積み重ね)してゆく必要が生まれてきます。

幸いといっていいのか、現代に住む我々は、歴史上のさまざまな場面において、急進主義の末路を見い出すことができます。いずれも、本末転倒の悲惨な結果に終わりました。そこから汲み取れる教訓は余りあると思います。

ここで大切なのは、戦いのフィールドを「価値観のぶつけ合い」から「社会システムの安定性」に移すことにあります。幸いにして彼らも、社会の秩序を破壊し、混乱に陥れることはヨシとはしていないはずです。その点において、「社会システムの安定性」という観点にたつ保守主義的アプローチは、従来のような「価値観のぶつけ合い」よりはまだ有用なんじゃないかと思います。

もっとも、保守主義的な立場に基づく「宗教戦争」への対応は、現実的な匙加減において、なかなか難しいものがあります。先に「小規模改善の積み重ね」と述べましたが、伝統的に形成されてきた現行体制から踏み出しすぎると「急進的」になりますし、踏み出さなすぎるとただの「守旧」でしかなくなってしまうからです。実際にどの程度まで認めるのかというのについては、私も構想を描ききれていません。しかし、先に述べた理由から、ある程度は有用なのではないかと思います。もちろん、「カルト信者」レベルの狂信家は、もうどうしようもなく、そういう人たちが増殖していったら、「文化大革命」は避けられなくなるとは思いますけどね。。。そのときはもう終わりか。
posted by 管理者 at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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