http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130224/stt13022423560006-n1.htm
>>> 民主党大会 綱領決定も理念あいまい、空虚な総括…党としてバラバラだというのも問題だとは思いますが、それ以上に問題なのが、政権政党のくせに闘争路線を採っていることだと思います。
2013.2.24 23:55
民主党は24日、野党転落後初の党大会を都内のホテルで開き、「平成25年を改革・創生元年とする」とした25年度活動方針を決定、綱領や党改革創生本部報告も採択し、党再建への一歩を踏み出した。しかし、約3年3カ月の政権運営失敗の教訓は生かされず、綱領の理念はあいまいなまま。参院選へ向けた戦略も描ききれず、「政権奪還」のかけ声は空虚に響く。
「7月の参院選は党の存亡を賭けた戦いになる。ひとつでも多くの議席を獲得し、自民、公明両党の過半数獲得を許さない」
海江田万里代表は党大会でこう強調し、参院選に向けて野党共闘を進めるとともに(1)綱領の理念と基本政策の実現のため結束する(2)対話と行脚を徹底する「靴底減らし運動」を行う−ことを呼びかけた。
ただ、綱領には、結党時の「私たちの基本理念」に明記され、自民党などの保守政党と一線を画すための「民主中道」の文字はなかった。憲法へのスタンスも護憲をにじませつつ「未来志向の憲法を構想する」と改憲にも含みを残す。依然として「寄り合い所帯」で理念が明確化できない印象はぬぐい切れない。
しかも、党大会前に参院議員2人が離党届を提出、野党共闘をめぐる執行部の路線対立も表面化した。
細野豪志幹事長が22日のBS朝日番組の収録で、生活の党との連携は困難との姿勢を示した翌日、輿石東(こしいし・あずま)参院議員会長は民放番組で「(生活代表の)小沢一郎氏は昨日まで同志だった。共闘していかなければいけない」とひっくり返した。
党改革創生本部の「重要な局面での幹部のバラバラな行動や発言も大きなダメージとなった」との総括は輿石氏らには何の教訓にもならなかったようだ。
もはや他の野党も冷ややかな視線を送る。民主党の日教組など特定労組への依存体質を牽制(けんせい)してきた日本維新の会やみんなの党が、さらに「分断」を仕掛けるのは必至だ。
党大会に出席したある前議員は「このままだと自滅する雰囲気だ。きょうが最後の党大会になるかも…」とつぶやいた。 <<<
正直言って民主党がここ数年に掲げたプランは、「稚拙」か「拙速」かのどちらかであったことが多かったと思います。すなわち、みずからの力量を知らずして理想に向かって闘争を繰り広げたのが民主党政権だったのです。国民は、民主党の政党としての「結束」のみならず、民主党の「センス」を見抜いた、その結果があの選挙結果だったのではないのでしょうか。にもかかわらず、「バラバラな行動や発言」の方にばかり注目が行くというのは、「鉄の結束で今度こそ敵を打倒するぞ! 変革するぞ!」ということなんでしょうか?
もちろん、理想を掲げてそのために変革すること自体は結構なことだと思います。むしろ、必要であるとすら言えるでしょう。問題はその内容とその方法です。特に民主党において問題となるのは、その方法です。1億数千万人のメンバーが四方八方にネットワークを張り巡らせている集団における力学は複雑怪奇であり、カオスじゃありませんけど「初期値鋭敏性」があるのではないでしょうか。そのようなシステムを急激に変えようとしたらどうなるのか。そして、急進的大改革を実行できるほどのオツムがあるのか。我々は社会システムの巨大さ、複雑さに比してあまりに小さく無力な存在です。となれば、慎重な調整こそが唯一の活路であり、間違っても「闘争」ではないでしょう。「たとえ『革命の動機』が正しくとも、『革命自体』はすべきではない」、強くそう思うのです。
続いて社民党についても。
http://www.asahi.com/politics/update/0228/TKY201302280364.html
>>> 「首相は弱者切り捨ての新自由主義」 福島・社民党党首「がんばる人は救おうとするけれども、そうでない人の切り捨て」なんだそうです。社民党に限らず、陰に陽に現れる昨今の左翼的社会政策を裏打ちする考え方であると同時に、左翼が一般国民からなかなか受け入れられない大きなポイントであると言えるでしょう。案の定、はてブでもdisられていますし。
■福島瑞穂・社民党党首
安倍首相の施政方針演説は、弱肉強食、弱者切り捨ての新自由主義と、軍事大国化の二つをオブラートに包み、時にオブラートに包まず言った空疎な自己満足の作文だ。
新自由主義がものすごく出ているなと思ったのは、「共助や公助の精神は単にかわいそうな人を救うことではありません」と「懸命に生きる人たちに復興を加速する」というところ。非常に上から目線で、共助・公助がものすごく後退した。政治の役割を放棄して、がんばる人は救おうとするけれども、そうでない人の切り捨てだ。(国会で記者団に) <<<
なぜ左翼はこういう考え方をし、なぜ世の中に受け入れられないのか。端的に言ってしまうと、「考え方が根底から違う」ことに他なりません。すなわち、左翼にとっての政治・政策とは、福島氏が端的に述べているように、「どんな人であれ家父長的に守ってやる」であるのに対して、一般国民にとっての政治・政策とは、「自助を大前提として、それで足りない部分は、共助や公助によって補完される」なのです。言い換えれば、左翼は前近代的な、「モラル・エコノミー」とも言い得るような価値観に基づいて政治・政策を考えているのに対して、一般国民は近代以降の価値観に基づいて考えているのです。だから一般国民と価値観を共有できず、結果として勢力が伸び悩んでいるのです。
それだけでも十分、致命的で悩ましい話ですが、さらに悩ましいのは、そうした一般国民との価値観の乖離に「気がついていない」のではなく、「我々こそが正しい」と思い込んでいるところです。これは、社民党のようなフニャフニャな集団よりも、共産党のような主張が強い集団のほうが強烈です。私の知り合いにも「原理主義者」と言い得るような強烈なマルクス・レーニン主義者(天然記念物レベル!)がいるのですが、一般国民との価値観の乖離を十分に認識したうえで、「一般国民は支配階層のイデオロギーに毒されている」とマジメな顔をして主張しているのです。もはやカルト宗教レベルですよね。
もっとも、「一般国民は支配階層のイデオロギーに毒されている」というのも、ある意味においては正しいのかもしれません。もちろん、その発言を聞いたとき私は「いや、むしろアンタが変な『宗教』に引っかかっているだけでしょう」と思いましたし、今でもそう思います。私は左翼と価値観を共有できません。しかし、そういう価値観があってもいいでしょうし、そういう価値観にもとづく政治を執っている国が、どこか遠くに1カ国くらいあってもいいと思います[注1]。どの価値観が正しいのかという問いに答えを出すのは極めて困難であり、いまでこそバカの代表格である社民党の思想も、遠い将来ないしはどこか遠くの地においては、主流派になるかもしれません。
しかし、少なくともそういう「理想郷」を作る条件は現在の日本には存在しません。現在の日本において社民党は「バカバカしい」を超えて「バカそのもの」です。たしかに、我々一般国民は「支配階層のイデオロギーに毒されている」のかもしれません。でも、「だったら何なんだ」。良くも悪くもそれが我々の現状、出発点なのです。
もし、左翼がどうしても自分たちの理想にマッチする社会を作ろうとするのならば、一般国民の現状(つまり客観的条件)を直視した上で、漸進的な「思想改造」のロードマップを立てる必要があるでしょう。そして、自らの力量(主体的条件)の限界を認識した上で、実行に移すべきです。もっとも、主体・客体双方に対する正しい認識が確立されれば、左翼であり続けることはできないでしょうけどねwwそういう意味では、左翼が出発点よりも到達点ばかり見ている限り、一般国民をリードできる日は決して来ないし、左翼が出発点を直視すれば、もはや本来的な意味での「左翼」では居られないでしょうね。
[注1]とは言えども、左翼のこうした価値観は、同時に、自発的交換よりも権力的配分を重視する政策論:反市場主義的で集産主義的な政策論をも根拠づけていると思われます。集産主義は既に多くの失敗例を見せている以上、やったとしても上手くいかないと思いますけどね。