以下、いつものように引用部分における太字化処理は当方によります。
http://www.asahi.com/national/update/0315/TKY201303150456.html
>>>中学校給食、突然中止に 東京・狛江市、契約更新できず関連して、狛江市関係者は以下のように述べています。
【平山亜理】東京都狛江市のすべての市立中学校の給食が4月から中止されることが15日、分かった。市教育委員会と契約していた民間業者が2013年度の契約を更新しないためだ。市教委によると、4月までに代わりの業者が見つからず、中止せざるを得ないと判断した。文部科学省によると、きわめて珍しいケースだという。
給食が中止されるのは、市立の四つの中学校。生徒と教職員計約1500人の7割が食べている。同市の小学校は自校で調理しているが、中学校は、市教委の栄養士が献立を考え、民間会社の「三鷹給食センター」(三鷹市)が調理し、各校に届けている。
同センターの松山賢司社長が、市に契約を更新しないと伝えたのは、2月27日。市の担当者は「あまりに急なことで、対応できない。せめて、半年前には言って欲しかった」などと頭を抱える。学校給食は調理から2時間以内に配食するよう、学校給食法による基準で決まっている。市内や周辺では条件に合う業者がなく、新たに別業者を探すことが難しいという。<<<
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/11,43152,83,1573,html
>>>○パネリストの発表「コスト重視の民間企業による民設民営の調理委託では安全安心な給食に限界がある」そうです。一理あると思います。はてブでも指摘されていますが、給食のように、その目的と性質からいって、質の高いもの――本来ならそれ相応の価格設定が必要となります――を、どうしても安価に提供しなければならないとなると、その結末は「価格統制」としてあらわれます。となれば、慈善事業でないのですから、どうしてもどこかで帳尻をあわせる必要が生じます。普通であれば支払うべき水準の対価を払わないで買おうとすれば、どこかで手を抜いている売り手しか居ないのは当然であり、別に「民設民営の調理」がケシカランというわけではなく、当たり前すぎることです。我々が普段食べている様々な食料品のほとんどは「民設民営の調理」のものです――というか公設公営の調理品ってパッと思い浮かばない。日本にコルホーズ・ソフホーズなんてあったっけ?――が、安いものは安いなりのクオリティと安全性しかないのは、生活感覚からも良く分かるかと思います。
(小泉委員長)
始めに中学校給食の課題についてだが、衛生管理が課題としてある。先ほど事務局報告でもあったとおり、中学校給食では異物混入等の課題があった。現在においては、市栄養士の毎日の派遣や衛生管理指導の徹底等の改善に努めた結果、件数は減少したものの、コスト重視の民間企業による民設民営の調理委託では安全安心な給食に限界があることがわかった。<<<
そういう「教訓」をうけて狛江市は以上のような見識に至ったようで、それを元に以下のような展望を描いています。この展望が今回のテーマです。前掲ページの続き。
>>>質疑:今回の将来的な計画によると、給食センターを市で建てることによって新規の栄養職員2名の採用枠ができると考えられるが、そういった増員は考えているのか。「民設民営」は前掲の理由から難しいので、「公設民営」にするとのことです。ここで注目したいのは、「民設民営がダメ⇒公設『公営』にする!」という発想ではなく、「公設『民営』にする」という正しい選択に至った点です。
回答:現在は民設民営で行っているが、給食センターが建てば、公設民営を予定している。運営に関しては財政事情もあり、業者委託の予定だが、給食の実施主体者として教育委員会が積極的に関わっていく。また、職員配置の増員等については、東京都や市長部局と調整する。<<<
当ブログでも以前から触れているように、どうも現在の日本は、「官か民か」という単純な二分法がまかり通っているように思います。それに対して私は以前――たとえば2月9日づけ『発送電分離問題と「官か民か」の不毛な二分法』――より、そうした単純な二分法ではなく、公共部門の要素と民営部門の要素を混合したような官民合作形態もあるのではないかと述べてきました。それゆえ、今回の「公設民営」という展望はとても評価できるものです。
たしかに、前掲の理由から給食事業はコスト重視の体質にはそぐわず、冒頭でご紹介した朝日新聞記事のように、民間の事業者のほうから撤退を申し出てしまうような不採算事業でしょう。民間事業者による供給がない以上、公共部門の関与は不可欠だと思います。しかし、それがそのまま「公設公営」の事業形態になるかといえば、そんなことはないと思います。役所・公務員に限らないことですが、いままで全く経験のない人たちが必要に迫られたからといって急に新事業に手を出して上手く良くかといえば、そんなことはないでしょう。「餅は餅屋」といいますが、まさにそのとおり。無理に「公設公営」にこだわらなくても、設置主体は「公」であったとしても、実際の実行主体は、熟練した「民」という方法はあってよいと思います。
そもそも、アダム・スミスの昔から公共事業を是認する論拠は、「社会資本として必要な財・サービスだが、民間部門による供給がなされない場合は、公共部門が税金を使って供給すべし」ですが、この主張は徹頭徹尾、公共部門が財・サービスを供給するように要求しているわけではありません。補助金の支出などで不足分を補填し、供給を実現させるというのは、別に目新しくも何ともないことです。
今述べたように、こんな大演説を打つほどの話でもないのですが、どうも昨今の二分法を見ていると一言のべておきたくなってしまいました。「餅は餅屋」、何も目新しい話ではありません。妙な二分法にとらわれるのではなく、手段や実行主体に固執するのでもなく、手持ちの資源を柔軟に活用して目的に沿う最善のプランを選択すべきでしょう。その上で大切なのは、前掲2月9日づけ記事の末尾にも書いたように、「新しいものは、二者択一の片方ではなく二者択一の融合体から生まれることの方が多い」という認識だと思います。