http://jp.ibtimes.com/articles/45104/20130606/562404.htm
>>> ブラック企業の考えをそのまま掲載した物流専門紙の記事に批判集中原文読みましたが、まあたしかに「ブラック企業の言い分だな」とは思いました。その点、批判的な意見が寄せられるのも仕方ないと思います。他方で、昨今の「ブラック企業批判」あるいは「労働問題」に共通することですが、「競争の強制法則」という視点が乏しいとも思います。
物流業界の専門紙に掲載された記事に、ネットで批判が集まっている。
記事は物流や輸送の業界紙「物流ウィークリー」の6月3日、「残業代未払い求めるドライバー『人間不信に陥る』」で、都内で運送会社を経営している社長の体験を織り交ぜながら掲載されたものには、信頼していたドライバーから有給休暇を求められたり、ドライバーが未払い残業代を要求するために荷主に駆け込んだりしたことが書かれている。
結局、有給休暇は買い取り対応となり、労働調停となった残業代は500万円を250万円にする妥協案で解決したとある。さらに荷主からは台数制限の措置を受けたことなどに社長は、「平気で会社を裏切るドライバーや、臭いものにフタをする荷主の姿勢に、人間不信に陥った」としている。
この記事にネットの掲示板では、「結局この社長、自分の事しか考えとらんがな」「残業代払えないじゃ済まないだろ。ここの社長はいったい何を考えてるんだか」「恐ろしいな日本の経営者っつーのは 無自覚で搾取してるんだな」などのように、社長への批判が相次いだ。
ネットユーザーは記事を掲載した同紙に対しても、「こんな記事書いて公開しちゃう新聞社もそーとーやばい」「ここまで被害者と加害者が入れ替わってる話も珍しい ずい分異様な記事だな」と批判が多い。さらに記事中の表現「確信犯」「諭す」の使い方が間違っているとした指摘もあった。
業界事情を察したネットユーザーからは、「物流ウィークリーって業界紙だから雇用側の視点でしか書かないのか」「読者は運送経営者だから読者寄りの記事にしないと干上がる」と推測したものもあり、推測に合わせたように「個人事業主の道を選ぶ 運送現場の本音と建て前」の記事では、法人化の抜け道を実現する法律すれすれの裏ワザが、運輸OBの口を借りる形で掲載されている。
そうした記事がある一方で「逆転の発想で生き残る 『高い運賃支払い』『週休2日制』」の記事では、埼玉県の企業が他所より高い運賃提示でリスクを低くしている事例や、千葉県の企業が仕事を取捨選択したことで労働時間の削減を実現した事例を紹介している。
そこでは経営者の言葉として「安い運賃だから協力会社へも安い運賃でやってもらうということでは、いい関係は築けない」「ドライバーの質は、うちの自慢だと思えるまでになった」のように、取引先やドライバーとの信頼関係を示したものがみられた。
【一部修正】
指摘を受けまして、記事の内容や表現を一部修正いたしました。 <<<
「競争の強制法則」は、資本主義批判の急先鋒たるマルクス主義の得意分野ですが、この視点を欠いている限り、どんなに「労働者側」を自称したとしても、大した政策的提言はできないでしょう。「競争の強制法則」が貫徹している以上、この問題は、個別の「ブラック企業」を叩くといった「ミクロ的な対応」でどうにかなる問題ではないのです。いやまあ、フラストレーションを発散するための「左翼ゴッコ」「革命ゴッコ」をやる分にはいいのかもしれませんが。
かといって、ではマルクスに回帰して、マクロ的に社会を設計すればいいのかといえば、それもまた否です。以前から繰り返しているように、我々が暮らしているこの社会はマクロレベルの設計主義を実行するには余りに大きすぎるのです。ただし、最初から遠大な外部設計をたてて、合理的に内部設計を詰め、それに向けて計画的に社会を構築すること(住宅を設計・建設するような感じ)こそ無理であっても、多様で漸進的な試行錯誤を積み重ねた末に「なんとなくそれっぽいもの」を作ることはできるかもしれません。急進的で包括的な社会変革は不可能でも、漸進的な社会変革の積み重ね・寄せ集めによる結果としての変革は可能だと思います。
矛盾を感じた方もいらっしゃるかもしれません。ミクロ的にブラック企業を叩くことでは解決しないとしつつも、結局は「多様で漸進的な試行錯誤」というミクロ風の結論に至る。しかし、これもまた何度も繰り返していることですが、社会というのは円環的な因果関係が張り巡らされた一つのシステムです。マクロの環境はミクロの行動を制約してますが、他方でマクロの環境はミクロの行動の結果として形成されるものなのです。それゆえ、本件を本気で何とかしたいと思っているのならば、場当たり的に「ブラック企業」吊るし上げて文革ゴッコするのでもなく、マルクスの口車に乗せられてマクロ的な急進革命運動に加担するのでもない、「『漸進的』な『社会変革の積み重ね・寄せ集め』による結果としての変革」という方法論が必要になるでしょう。
それにしても、「競争の強制法則」という視点と「搾取」や「階級闘争」という考え方ってなかなか共存が難しいですよね。「搾取」や「階級闘争」というキーワードを使おうとすると、どうしても「我々と奴ら」という「溝」を作ってしまいます。しかし、「競争の強制法則」に代表される「社会とはシステムである」という視点(そして事実)は、そういう「溝」をよしとしません。ちなみに私は、「社会有機体説」を掲げるチュチェ思想(주체사상)の影響を大いに受けているので、あまりそういった先鋭的な発想にはならなかったりします。旧ブログの時代から、基本的に私は、どちらか片方を悪人認定したり、原因を単一の誰か・何かに断定したり、はたまた特定の解決策に走ることはせず、むしろ、物事の多面性に目を向けるべきだと述べてきたつもりです。キムイルソン主席のご指導のお陰ですw
ちょうど弁護士云々の話がてできたので、ついでに書くと、法律系の人たちの対応は極めてミクロ的です。何年か前からYahooニュースなりで法律相談の啓蒙が増えてきたように思いますが、そのわりに「階級闘争」があまり盛り上がらないのは、法律系の人たちの余りにもミクロ的な対応策には、一般の庶民感覚ですら受けられらないということでしょう。そりゃそうですよ。私も労働者階級の一人ですが、まさに「会社は、それ自体が一つの有機体」なんですから。規模が小さくなればなるほど、渾然一体(혼연일체)の度合いは高まります。そんなところで「階級闘争」なんてできますかって話ですよ。
「社畜乙」? 法律系の記事で何度も書いていますが、社畜だ何だと言っていて何か解決するんですか? 私は、この問題を真に忌々しき問題だと思うからこそ事実から出発しているのです。
「意識を変える必要があるだろう!」? もちろん、意識を変えることは必要です。「人間があらゆるものの主人でありすべてを決定する」というチュチェ思想の哲学的テーゼは、「人間は自主性・創造性・意識性をもった社会的存在である」という人間の本質的特性に裏打ちされています。その点、意識革命・思想革命は死活的に重要です。しかし、意識革命・思想革命だけでは単なる観念論になってしまいます。それは必ず、客観世界との相互関係(←ここは極めて重要。どちらかがどちらかを一方的に規定すると考えるべきではない)のなかで考察せねばならないのです。いま、客観世界は上に述べたような理由で急進的で包括的な社会変革は困難な情勢にあります。現実に立つべきです。
参考:キムジョンイル『チュチェ思想教育における若干の問題について 朝鮮労働党中央委員会の責任幹部との談話』
http://kcyosaku.web.fc2.com/kj1986071500.html
>>> (前略)最後に。6月3日づけ『ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」』にも書きましたが、「理想を掲げること」と「急進主義」は全く異なります。遠大な理想を掲げつつも、「チュチェ(主体)の能力の限界」を見据え、足元を漸進的に固めてゆくべきなのです。キムイルソン主席は、父から「志遠」の思想を受け継ぎ、祖国解放の高い志をもち抗日闘争を戦いましたが、アンジュングンのようには早まることは決してありませんでした。
チュチェ思想が人間解放の道を最も科学的に解明する革命学説となるのは、なによりもそれが人間中心の世界観にもとづいているからです。金日成同志は、歴史上はじめて、人間を世界の主人の地位にすえて、世界の本質とその変化発展の合法則性を明らかにする、人間中心の哲学的世界観を確立しました。
チュチェ思想は人間中心の世界観であるというと、一部の人は、それがあたかも客観的世界を無視し、人間の主観的欲求や念願を一方的におしたてているかのように考えていますが、それは大きな誤りです。我々は人間を中心にして世界を考察すべきだといっているのであって、人間のみを考察せよといったことは一度もありません。
ではなぜ、人間を中心にして世界を考察しなければならないのでしょうか。それは、人間が最も発達した物質的存在として、世界において主人の地位をしめ、世界の発展と人間の運命開拓で決定的な役割を果たすからです。
人間も、自然の長い進化発展の過程で発生した、生命をもつ物質的存在であるという点では、ほかの生命物質と共通の基礎をもっていますが、その発展水準においては質的な差があります。したがって、世界における人間の地位と役割も、ほかの物質的存在とは根本的に異なっています。
物質世界において主人の地位をしめるのは自然ではなく、人間です。物質世界において、人間は唯一の自主的な存在です。動物は自然に順応する方法でのみ生存できるので、自己の運命の主人とはいえません。動物は自然の変化発展の法則によってその運命が決定される自然の一部分ですが、人間は自然の変化発展の法則を科学的に認識し、それにもとづいて自然を自己の要求に即して改造し、それを自分に奉仕するようにしていく、世界の有力な主人です。人間は自然の変化発展の法則に服従して、自然と運命をともにする存在なのではなく、人間社会に固有の社会的運動法則に従って、自己の運命を自主的に、創造的に開拓していく社会的存在なのです。自然を改造する人間の創造的役割が大きくなるほど、世界の主人としての人間の地位はさらに高まり、人間の外にある物質世界はいっそう人間に奉仕する世界に変えられていくのです。
人間は世界を自己の要求に即して目的意識的に改造していく唯一の創造的存在であるため、世界において主人の地位をしめるばかりでなく、世界を改造し発展させるうえでも決定的な役割を果たします。
人間が世界において主人の地位をしめ、世界の発展において決定的役割を果たすというのは、人間が生きているこんにちの世界にたいする主体的な見解です。世界がどの程度に発展しており、今後どの方向にどう発展していくかということは、世界における人間の主人としての地位と、世界を改造する人間の創造的役割をぬきにしては理解できません。
(後略)<<<