(1)Seesaaからデフォルトで提供されたCSS(カスケード・スタイル・シート)だと文字が小さかったので、少しいじりました。旧ブログで使っていたCSSが残っていたので、復活させました。文字が少しだけ大きく、濃く表示されるようになりました。
(2)日本共産党の内部留保活用論について疑問を呈した2月18日づけ「いやいや全然違うから共産党さんw」を数日間かけて加筆しました。おもに北欧の話の部分を増やしました。
なぜ今回、2月の記事に新たなエピソードを加筆しようと思ったのかと申しますと、先の選挙期間中、共産党の内部留保活用論をキーワードにご訪問いただいた方が少なからずいらっしゃったからです(ちなみに、ちょっとした加筆――語句の補足や強調、表現の改善――程度なら実は、報告なしで日常的にやっていますw)。そうしたキーワードで訪問される方は今まで少なかったので、ちょっと記憶に残り、ここ最近、久しぶりに内部留保問題について考えたり、ネット上を巡回したりしていました。
ネット上を巡回しているときに強く思ったのですが、あいかわらず不毛な議論が展開されているなと思いました。「キャッシュとしての内部留保なんて存在しない。260兆円全部キャッシュである訳ないだろ」「誰も260兆円全額がキャッシュだとは言っていないが、労働者階級の生活を維持する必要な分のキャッシュは十分にある」「いやそんなことはないし、たとえ有ったとしても、私有財産なんだから収奪できる根拠がない」「とにかく企業は社会的責任を果たすべきだ」「共産党を名乗るなら『資本主義の枠内での改革』なんて言ってないで、革命を起こして収奪者を収奪しろ日和見分子!」といった、しょうもないやり取りが続いているんです。何年やっているんだろうね。
そもそも、共産党に対して「キャッシュとしての内部留保なんて存在しない」などと反論することは無意味です。相手は共産主義者なんですから、無かったら搾り出しても収奪しますって。他方、「革命」だなんて悠長なことを言っているヒマもありません。こうしている間にも事態は深刻化しているんですから。
当該記事中の追加部分でも書きましたが、「企業の社会的責任を問う」というのは大切な視点だと思います。「たとえ異なる『階級』に属していても、それ以前に『同胞』であり、運命共同体である」というキムジョンイル総書記の民族主義観を信奉している私としては、とても納得できる方向性です。しかし、実際の方法論的なレベルにおいては諸手段あるはず。内部留保を原始ケインズ主義的な方法論で活用する日本共産党の方法論に対しては疑問符をつけざるを得ず、「おなじ『収奪者を収奪する』でも、殖産興業に励みつつ、同時に所得政策にも手をつけるべきである」「どうしてもストックを原資に賃上げをし、以って個人消費の拡大を図りたいのならば、中間処理としてストックを恒常的なフローに転化させるべきであり、そのためには企業の投資・生産活動の実行とそれを支える成長戦略が必要である」というのが当該記事の論旨でした。その具体的根拠として、当該記事では北欧諸国における「経済と福祉の好循環」を投稿当初から触れていましたが、今回あらためて加筆することにしました。
主たる加筆点は、(A)「福祉のための負担を受け入れてもらう為に企業インセンティブに配慮した綿密な環境整備・制度設計(政策的誘導)に注力すべき」と、(B)「殖産興業が相当に重要な意味合いを持っており、生活水準・福祉水準のためにこそ殖産興業・成長戦略が必要である」ということを示す本当に短いエピソードです。
(B)は既に述べていることを更に実例で補足しただけです。生活水準を持続的に高いものにするためには、殖産興業が相当に重要な意味合いを持っているわけです。(A)は、「私有財産なんだから収奪できる根拠がない」と「とにかく企業は社会的責任を果たすべきだ」との不毛な闘争を見ての補足です。前者も後者もどちらも危険な発想です。なんとかして両者を取り持つ方法論が必要です。そこで行き着いた(思い出した)のが「企業インセンティブに配慮した綿密な環境整備・制度設計(政策的誘導)」です。
活用論者も反対論者も、結局は階級闘争を繰り広げているわけです。しかし、何度も述べているように、「「鶏が先か卵が先か」が経済である」、諸要素が相互作用的に絡み合っているわけです。「搾取」や「階級闘争」というキーワードを使おうとすると、どうしても「我々と奴ら」という「溝」を作ってしまいますが、諸要素が相互作用的に絡み合っている我々の社会に対して、かかる視点や態度は好ましいとはいえません。「綿密な環境整備・制度設計(政策的誘導)」の必要性は本当に重要なものだといえます。単に経済政策をどうすれば良いのかという問題に留まらず、社会観・世界観にも及ぶテーマです。
もちろん、加筆部分にも書きましたが、完璧な環境・制度を「設計」することなど出来ません。理性への過信です。しかし、修正を加えながら「それらしいもの」を形成していく努力は怠るべきではないと思います。
当該記事を更に加筆するか如何かはさておき、今後も折を見て、この話題について触れて参りたいと思います。また、チュチェの社会観・世界観についての記事も、機会があれば書いてゆきたいと思っています。
2013年07月24日
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