2013年09月23日

再び「官民二分法」批判

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130922-00000063-mai-soci
>> <JR北海道>社長「管理上の責任」…現場ルール形骸化
毎日新聞 9月22日(日)23時39分配信

 安全輸送の根幹ともいえる保線作業を巡り、JR北海道は22日、新たに判明した88件を加え97件もの線路の異常放置を明らかにした。ルールは現場で形骸化し、それをチェックできない本社。野島誠社長は2時間半に及ぶ記者会見で「現場固有の問題ではなく、経営管理上の監督責任の問題と考えている」と陳謝したが、識者からは「命を守ることを無視している」と批判が出ている。【遠藤修平、円谷美晶、坂本太郎】

 JR北海道によると、保線作業は「線路技術心得(実施基準)」と呼ばれる内規に基づき行われる。本線は「軌道検測車」と呼ばれる検査車両が年4回通り、自動的にレール幅や高低を検査。主に待避線に使われる「副本線」は現場の保線担当者が計測機械を年2回、手動で使い計測する。ただし、検査を実施する時期は現場の判断に任されている。

 レール幅は規格(1067ミリ)から整備基準値(19ミリ)以上の広がりがあった場合、この内規だと15日以内に補修を行わなければいけないが、今回、多数の放置が見つかった。21日には脱線現場の函館線大沼駅(北海道七飯町)を含めて副本線9カ所でレール幅の異常を放置していたことが明らかになったが、このうち大沼駅を含む4カ所で約1年にわたり異常が放置されていた。

 内規では、軌道に異常があった場合は現場の保線管理室の所長代理まで報告が上がる決まりとなっている。だが同社によると、検査をした担当者が補修担当者に異常を連絡したままで、上司に報告しないケースがあった。検査担当者は聞き取りに「補修担当者が上司に報告していると思った」などと説明。ルールが骨抜きになっている実態が垣間見えた。

 さらに、笠島雅之・取締役工務部長は21日の会見で「本線は本社と保線現場でダブルチェックしている」と説明したが、22日の会見では本社側でチェックしていなかったことも判明。本線での49カ所もの異常放置が、国土交通省の指示を受けた深夜の検査記録点検で判明するというデタラメぶりを露呈した。

 笠島部長は「本線は軌道検測車できちんとやれているという思い込みがあり、詳細な調査までしていなかった。反省しないといけない」とうなだれた。

 ◇国交省が特別監査

 大沼駅脱線事故を受け、国土交通省の監査員4人は22日、鉄道事業法に基づきJR北海道函館支社(函館市)と大沼保線管理室の特別保安監査に入り、管理体制などを調べた。

最終更新:9月23日(月)13時9分
<<
さて、「手抜き」です。旧国鉄末期ほどではありませんが、かなり深刻な状態です。

鉄道に限らずインフラ産業の民営化・自由化が進む昨今は、この手の事件・事故が起きるたびに、その原因を民営化・自由化と絡めようとし、「やはりインフラは公営でなければならない」という結論を導き出すものが少なくありません。そうした風潮に対しては、私はたとえば2月9日づけ『発送電分離問題と「官か民か」の不毛な二分法』を始めとして異論を唱えてまいりました。つまり、「インフラ保守産業は構造的に「手抜き」しやすい産業であり、そして「手抜き」は、官民を問わない」という論点です。

今までの主張内容については前掲過去ログをご参照いただければと思いますが、今回もまたその思いを強くしました。すなわち、JR北海道は、あの破局的な状況でその最期を迎えた旧国鉄を民営化して誕生した組織ですが、それでも手抜きは起こる。ではJRを昔のように国鉄に戻せばいいかといえば、今回の記事を見る限り、どうも組織の官僚主義的体質に問題があり、民営か公営かというのは、主たる問題ではなさそうであるという理由によります(もっとも、公営の方が官僚主義はより深刻化するのではないかと思います。また、後述するように予算削減の問題も無視できない要素としてあるかもしれません)

公営だろうと民営だろうと、組織体が硬直化し、ルールが形骸化していてはどちらも同じです。そして、そもそも、民営化・自由化は、そうした硬直化した組織編成や形骸化したルールに渇を入れるために導入されるものです。その点、「公営か民営か」という二分法的問題設定はやはり誤っていると思いますし、また、「公営組織が硬直した官僚主義組織になりやすい」としても(私もそのリスクは大きいと思います)、「民営化すれば自動的に柔軟な組織になるとは限らない」というのは、改めて肝に銘じなくてはならないと思うのであります。民営化してからの硬直的官僚主義との闘争が何よりも大切です。


もちろん、予算削減の問題も無視できない要素としてあるかもしれません。しかし、これも官民共通ですが、ひとたび不祥事を起こせば、一切の言い訳は通用しません(特に日本では)。とくに「予算不足」ということがバレでもしたら、火に油を注ぐようなものです(何のために決して安くはない運賃を払っているのでしょうか? 私だってブチ切れですよ)。にもかかわらず、何故、よりにもよって一番マズいタイプの不祥事を起こしてしまうのか。それは、表現は悪いかもしれませんが「削るところを間違えた」ということになると思います。

以前から繰り返し述べていますが、我々の日常生活のほとんどの部分を直接的に支えているのは民営企業です。「民営企業は『予算削減』を要因とする『不祥事』を起こす」というのであれば、「我々の日常生活のほとんどの部分を直接的に支えているのは民営企業であるにもかかわらず、その割には言うほど不祥事は起きていない」という厳然たる事実を説明できません。鉄道に限らず『予算削減』を要因とする不祥事を起こした企業の事情を思い起こすと、確信犯的な悪質なケースを除けば、積極的な故意は無く、「見通しの甘さ」を共通項として括りだすことができます。経済関係法が確立している社会においては、不祥事の責任を個人に追及できるので、「安全運転」へのインセンティブが生じるのです(逆に、中共政権のように中途半端な市場社会・賄賂社会ですと、個人への責任追及が上手くできないので、いいかげんな取引が横行しやすくなってしまいます)。そうしたインセンティブがあっても尚、不祥事を起こしてしまうということは、「失敗」の要素が大きいのではないかと思います。つまり、「見通しの甘さ」ゆえに「削るところを間違えた」のではないでしょうか(なにやら軽い感じの言葉になってしまいましたが、決して許されるものではないことは当然です)

「見通し」とは何処から産出されるものでしょうか? 毛沢東主席は以下のように述べています。
>>  人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人間の正しい思想は、社会的実践のなかからのみくるのであり、社会の生産闘争、階級闘争、科学実験というこの3つの実践のなかからのみくるのである。

「人間の正しい思想はどこからくるのか」(1963年5月)
<<
つまり、「見通し」は実践の中、現場から生まれてくるものです。毛沢東主席は正しくもこの真理を獲得したものの、中共政権は今も昔も極端な中央集権・官僚主義体制であり、今のところ、「人間の正しい思想」に基づく国家運営が行われては居ないようです。そう、ここでも結局、官僚主義との闘争が重要なのです

ちなみに余談ですが、「公営企業は『予算削減』を要因とする『不祥事』を起こさないのだ!」というのであれば、その真の要因は「財政的な基盤がしっかりしている」とか「公共交通機関としての使命感がゴニョゴニョ」というよりは、「予算を積極的に削減するインセンティブがないので、『不祥事』も起きないけれども無駄も減らない」というべき場合が多いのではないかと思います。
ラベル:経済学 経済 社会
posted by 管理者 at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック