2013年10月10日

チュチェ思想と自由主義

今日は朝鮮労働党(조선로동당/チョソン ロドンダン)創建記念日です!

ちなみに以前、「ピョンヤン語とソウル語の違いを時機を見計らって触れる」といいましたので少しだけ触れますと、労働党(로동당)という単語も北南で差異があります。ピョンヤン語では로동당(ロドンダン)、ソウル語では노동당(ノドンダン)です。いわゆる「頭音法則」で、これは比較的有名な知識だと思います(あまり偉そうに講釈たれるのが恥ずかしいくらいの知識)。もっとも、朝鮮中央テレビを見ていると「チョソン ノドンダン」って聞こえるんてすけどねwww

共和国の弾道ミサイルに「ノドン(蘆洞)ミサイル」と呼ばれるものがありますが、「蘆洞」と「労働」がソウル語では同音であるがゆえに、「蘆洞ミサイル」のことを「労働ミサイル」と書く韓国人が時々いますが、誤りです。ピョンヤン語では「労働」は「ロドン」であり、「ノドン」とはしません。だいたい、「ノドンミサイル」は西側がつけたコードネーム(ソ連攻撃機Yak38のことを"Forger"と呼ぶのと同じ。さすがに自国攻撃機に"Forger"は命名しないよなw)ですし。

それはさておき、本題に移りましょう。

http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2013/10/post-739.php
池田氏の主張内容については、「第10段落(最後から一つ前の段落)の主張は、実際には簡単には行かないだろうなあ」とだけ述べておこうと思います。ただし、派遣労働の規制緩和・雇用形態の多様化については、失業時生活保障や再雇用斡旋といった社会政策と完全にワンセットで実行されるのであれば、これはアリだと思います。いわゆるフレキシキュリティのことです。もちろん問題点がないとは言いませんが、日本よりはマシでしょう。

それよりも私が注目したのは、第8段落。「供給をいくらコントロールしても、需要はコントロールできない。これが社会主義の失敗した理由である」。まったくそのとおりだと思います。そして、さらに突っ込んで述べるとすれば、「消費者の需要(主体としての人民大衆の必要)が供給を生み出す」。チュチェ的な見解です。

チュチェ思想は人間中心の世界観ですが、なぜ人間を中心に据えているかといえば、人間が自主性・創造性・意識性をもつ社会的な存在であるがゆえに、換言すれば、人間は自主的な要求をもち、そしてその要求を単なる観念で終わらせるのではなく、現実のものにすることができる創造的能力をもっているがゆえに、物質世界の諸運動を解明する上で注目に値する存在になるからです。なお、自主的要求と創造的能力は、人間が意識をもつことに裏打ちされています。「意識」というと、頭の固いマルクス主義者はすぐに「観念論だ!」と騒ぎ出すでしょうが、チュチェ思想における意識は、「物質としての脳の作用」という定義であり、それは外部(自然と社会)からの刺激に対する反応であるという唯物論的な定義になっています。

もちろん人間も動物であり、自然の被造物なのですから、全てが思い通りに創造してゆけるわけではないでしょう。いくら「死にたくない」と思っても、死を克服すること、死者を復活させることは永遠にできないと思います。その点においては、主体としての人民大衆の必要は、客観的条件の影響から完全に脱することはできません。しかし、人間の創造的能力が向上するにしたがって、可能な範囲も広がり、主体の側から客体の側に作用し返す場面も増えてゆくでしょう。また、人間の創造的能力が向上した結果として、自主的要求が刺激され、そうした要求が増大・多様化してゆくことでしょう。つまり、次第に「客観的条件をどのように凌いでゆくか」という動物的・受動的な発想から、「客観的条件をスタートラインとして、どのようにやりたいことを実現してゆくか」という人間的・主動的発想が動機となるケースも増えてくるのです。客観的条件の圧倒的な影響下で形成されていった主体的要求が、次第に主体的要求の実現のために客観的条件を改造してゆくという相互作用の段階に移行してゆくのです。

人間は自主的要求と創造的能力、そして物質としての脳の作用である意識をもつがゆえに、自らの要求にしたがって創造的能力を発揮し、外部世界を改造し、必要なものを生み出してゆく、そしてその結果として人間は自主的要求が更に進化・発展し、自主的要求を実現させるために創造的能力を更に発揮させてゆく――そうしたチュチェの人間観・世界観は、経済の分野においては、つまるところ「消費者の需要(人民大衆の必要)が供給を生み出す」という結論に向かってゆくと思われます。生産力の発展、すなわち人間の創造的能力の結晶の発展は、消費者の選択肢を豊かにし、選択の自由の幅を広げています。そうした状況に刺激を受ける形で、消費者の需要は増大し多様化しています。それがますます進化・発展してゆき、消費者の選択肢を客観的に規制する側面が強かった生産力が、選択肢を増やすために主体的に利用されるという側面を強くしてゆくと考えられるのです。

ここからは私の考えであり、本家の正統派チュチェ思想の見解とは異なる(と思う)のですが、それはまさに「社会主義の失敗した理由」に行き着くのではないか。おそらく池田氏がこの文脈でいう社会主義とは、統制経済・計画経済のことを指していると思います。池田氏の『ハイエク 知識社会の自由主義 』(PHP新書)を以前読んだことがありますが、だいたいそんなようなことが書いてありました。私もそう思います。人間の情報集計能力が、計画経済を実現できる程度にまで現実として発展すればいいのですが、それはさすがに困難なレベルだと思います。すくなくとも、近い将来にそうなる展望は見えておらず、計画経済は空想の段階を脱していないのが現状でしょう。

もちろん、人間は単なる自主性・創造性・意識性をもつ存在ではなく、自主性・創造性・意識性をもつ社会的な存在です。チュチェ思想における「社会的存在」は、マルクス主義的な意味ではなく、「社会的関係性をもって生存・発展してゆく」といった意味あいです。チュチェ研の尾上健一氏はかつて、そうした面を強調し、人間の特徴として自主性・創造性・意識性に加えて集団性を加えて説明していました。私もそう思います。その点、ハイエク主義(って言うのかな?)的な自由主義を100パーセント支持するつもりもありません。しかし、少なくとも「社会主義の失敗した理由」に対するハイエクの説明、これには一理あるのでは無いかと思うのです。

当ブログでは以前から、チュチェ思想と自由主義がごっちゃになりつつ、ときどきユーゴスラビアまで出てきた挙句に結論として社会主義的市場主義支持(ただし中共政権のは羊頭狗肉)といった、傍から見れば支離滅裂な主張を繰り返してきました。このブログは元々、すでに確立した考えを主張するものではなく、考えながら書いていくものですので、ある程度の「支離滅裂」さは許容していただきたいのですが、それにしても書いている自分でも「支離滅裂だなあ」と思うことがあるくらいのシロモノですwwしかし、既に述べたように、いろいろと摘み食いしているとこういう結論になると思うのです。

チュチェ思想と自由主義の接合――いままでも、これからも「変人の暇つぶし」程度の認識でお読みいただければと思います。朝鮮半島情勢については純粋に関心があるので、今後も折に触れてご紹介してゆきますが、本家の正統派チュチェ思想の見解と、私の「反革命的修正」は区別できるように留意して書き進めてゆく所存です。ちなみに「供給をいくらコントロールしても、需要はコントロールできない」という池田氏の言葉はまったくそのとおりだと思うのですが、この話題に関しては、需要を無視して供給してゆきますwwwwブログ執筆は商売ではないので良いのです! 過剰生産しても恐慌にはならないのです!!

ちなみに私はチュチェ研や総連には補足されていないし、される予定も無いし、たぶんチュチェ研や総連も包摂してくれない(笑)、全く自生的かつ勝手に色々と解釈をしているケシカラン輩ですw通報はしないでくださいw

とまあ、朝鮮労働党創建記念日に何を書いているんでしょうね、私は。
posted by 管理者 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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