>> 世界一安全な日本の鉄道になぜ最近事故が多いのか?「いくらシステムを追及しても人が正しくそれを運用しなければ事故は防げません」というくだりを読むと、手動制御・監視を推進しているように読める一方で、「ですが、それでも鉄道は人が動かしているもの。いくら努力をしても100%事故ゼロを実現するのは難しい」というくだりは、自動制御・監視を推進する言説に親和的です。どちらともとれる言説を取り上げた末に「『これくらい大丈夫』という根拠のない油断が現場に蔓延していたからではないでしょうか」・・・うーん。
2015年5月2日 16時10分
ハーバービジネスオンライン
(前略)
◆なぜ最近事故が頻発しているのか?
だが、同時に最近の鉄道業界の動きを見ると、一概に“安全は守られている”とは言えないのも事実。山手線の支柱倒壊で犠牲者が出なかったのはまさに偶然以外何物でもないし、昨年冬の大雪時に東急線で起きた衝突事故もラッシュ時ならば大惨事になっていただろう。原因究明は運輸安全委員会の調査・報告を待つ必要があるが、いずれの事故も技術面・システム面の問題よりもそれを運用する側に問題があったとする見方が濃厚だ。
「ハッキリ言えば、いくらシステムを追及しても人が正しくそれを運用しなければ事故は防げません。JR北海道の事故と不祥事の続発などを見ても、そのあたりの意識が希薄になっているのは間違いないでしょう」(前出のコンサルタント)
こうした状況を鉄道事業者はどのように捉えているのだろうか。ある大手私鉄の関係者は「“安全神話”が油断を生んでいる」と話す。
「新幹線が事故を起こしていないことや東日本大震災で鉄道利用者に犠牲が出なかったことを受けて、“鉄道は絶対に安全な乗り物だ”という安全神話が生まれてしまった。確かに、安全性を高める技術開発は飛躍的に進歩していますし、海外の鉄道と比べれば事故の数も遥かに少ない。ですが、それでも鉄道は人が動かしているもの。いくら努力をしても100%事故ゼロを実現するのは難しいことです。ただ、“安全神話”のおかげで利用者も事業者も『事故は起こらないだろう』と無条件に思い込むようになっていると感じます。過去の事故事例などを踏まえた社員教育はしていますが、どこかで自分とは関係ないと思っているような印象もある。山手線の支柱倒壊で構造計算をしていなかったというのも、『これくらい大丈夫』という根拠のない油断が現場に蔓延していたからではないでしょうか」<<
「根拠のない油断」も問題ですが、「それでも鉄道は人が動かしているもの。いくら努力をしても100%事故ゼロを実現するのは難しい」のであれば、「油断」がなく「根拠」があっても事故は起こるわけで、「油断」の有無を別とする包括的な対応が求められるでしょう。結局「現場の人間がケシカラン、ちゃんとやれ」と言っているにすぎません。しかし、「ちゃんとやれ」こそが問題の本質なのです。本質的に人間が「ちゃんと」なんて出来ないのです。
人間が直接制御にするにしても、機械が自動制御するにしても、根本的には人間に行き着きます。機械は人間が設計して製造するものです。ここで大切なのは、「いくら努力をしても100%事故ゼロを実現するのは難しい」を捉えなおすところにあるでしょう。「自動制御による安全担保」は、その自動制御装置を設計・製造するのがそもそも人間なのだから本質的な解決策とは言えず、また、人間ごときの知能・能力で認識できる「根拠」など、それほどのものではないという事実に基づく立場です。人間が無知・無力であるという認識、そしてその人間が創造する機械類に対する本質的限界性にたいする正しい認識。排すべきは「安全神話」ではなく「人間神話」「科学技術神話」に対する疑いの目です。
その上で、人間とその人間の創造物が、あまりに大きな仕事を一括して担わないようにすべきです。一つの集団ないしは一つのシステムが担う仕事の範囲を分割・限定し、その影響範囲を限定すべきです。一個体が何らかの障害を発生させたとしても、その担当範囲が限定的であれば、影響範囲も限定的になりますし、そもそも限定担当範囲であれば人間自身が想定・制御である可能性も高まるので、障害が発生するリスクも少なくなるはずです。人間の知能・能力では、漸進的・試行錯誤的な開発・対応しか出来ないのですから、それにあった階層的な構造にすべきです。
人間とその人間の創造物の限界に対する正しい認識に基づく、適切な仕事規模の選択。いわゆる計画経済の破綻は、結局は人間の知能と経済計画手法に対して一国経済の規模が大きすぎたことにあります。経済を優先させようとすれば計画経済原則を放棄せざるを得ませんし、計画経済原則を固守しようとすれば経済規模は限定されざるを得ません。この方法論は、歴史的事実にも裏打ちされていると思います。