2015年06月15日

「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性

チュチェ104(2015)年6月17日23時42分に一部加筆・修正しました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150614-00870935-sspa-soci
「ブラックバイト」で学生生活が破綻。それでも抵抗しない学生たち
引用はしません。要は、関西学生アルバイトユニオンやブラックバイト対策ユニオンでご活動中の弁護士センセイと労組関係者の「法廷闘争のススメ」です。

あの「すき家」が深夜営業を大規模に中止するに至った決定打は、決して労組・法曹系が推す「闘争」ではなく、彼らが否定的に評価を下していたひとりひとりの「イヤだからやめる」だったのは最早明白であることは、チュチェ103年10月6日づけ「最後の決定的な部分は下から積み上げてゆくこと」でも取り上げた通りですが、まだ観念論を展開しているのでしょうか?

また、「泣き寝入りするな!」と檄を飛ばしますが、そもそも何故、学生は声を上げないのでしょうか? 「権利教育が足りないからだ」といった、これもまた勝手な想像が展開されていますが、チュチェ103年8月3日づけ「「ブラックバイトユニオン」は逆効果――やればやるほど資本家への依存を高める」でも触れたように、「いちいち時間を掛けて闘争するほどでもない」という要素はあるでしょう。皆が皆、闘争でシロクロつけようだなんて思わないんですよ。「理を通せば必ず勝てます」とはいうものの、そこまでする必要性がなかったり、あるいは単純に面倒くさいという事情が捨象されています。

そして何よりも、「法的解決」にばかり頼っている点は、極めて問題のある姿勢です。チュチェ104年6月5日づけ「派遣労働問題の本質は自己決定権行使・自主権行使の問題」でも述べましたが、労働問題はすなわち自主権の問題です。個人個人の抱える事情は千差万別ですから、「ある種の社会的基準」にもとづく法的解決には限界があります。たとえば、その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がありません。世間一般の基準では「ブラック企業」に当たらないとしても、個人的な如何ともし難い事情で困難を抱えてしまうことは十分にあり得る話ですが、法的保護は期待できません。

「ぼくの かんがえた りそうの ろうどうかんきょう」に満足するに留まる(=自分の脳内麻薬分泌、救済者としての自己陶酔が真の目的)ことなく、真にひとりひとりの自主権の尊重を目指す立場に立つとすれば、当人が自分自身の都合にあわせて離合自在に活動できることが一つの目的地となります。根本的な解決はより大きなマクロレベルでの対応になったとしても、まずは「その場から完全に離れる」「退路を確保する」というミクロレベルでの対応が不可欠の第一歩です。それどころか、前掲過去ログでも取り上げた「すき屋」の例が正に如実に語っているように、そうしたミクロ的な動きが、あたかもベクトルの合成のようにマクロ的に増幅され、根本的な解決に資することだってあるのです。

こうした視点は、はたして「法律」を持ち出す人たちにはあるでしょうか? 観念論全開な所をみるに、あまり期待できそうにありません。これでは解決するものも解決しません。
posted by 管理者 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック