>> 子どもに理不尽強いる「ブラック部活」の実情 丸刈りや白飯2杯ノルマも当たり前〈AERA〉■「理不尽を他人に強いることに慣れてしまった傲慢な高校生」にこそ、より深い注目を寄せるべき
dot. 10月26日(月)13時8分配信
根性論で健康を害するほどの練習を強いられ、絶対権力者の顧問に意見もできない。そんなブラック部活慣れした子どもたちが、将来ブラック企業に狙われる?(ライター・島沢優子)
(中略)
スポーツ法学に詳しい国士舘大学法学部教授の入澤充さんはこう言う。
「自分より能力の高い下級生への嫉妬があるのかもしれない。加えて、顧問から責められる、試合に出られないといった“圧”がかかると、非行に走るか、いじめに走るかのどちらかになる」
本来はスポーツをすることで人間的な成長が望めるはず。それなのに、理不尽なことを押しつけられて思考停止に陥るような部活では子どもにマイナスだ。前出の内田さんは指摘する。
「理不尽を強いられても我慢するのが、いまだに部活の美徳になっている。そんなブラックな部活に染まってしまった従順な高校生たちが、ブラックバイト、ブラック企業に狙われるのではないか」
(以下略)<<
重要な指摘です。最近話題の「ブラック企業」の印象に引き摺られると、「ブラック部活」というネーミングには違和感を覚えるかもしれません。しかし、ブラック企業を含めた「ブラック○○」の本質を「自主権の問題」と捉えれば、「ブラック部活」は、まさに「ブラック」の王道であると言えるでしょう。ブラック部活は、自主の対極に位置する現象ですです。正しい指摘です。
他方、「そんなブラック部活慣れした子どもたちが、将来ブラック企業に狙われる」は、これも極めて重要な指摘ですが、「理不尽を強いられても我慢するのが、いまだに部活の美徳になっている。そんなブラックな部活に染まってしまった従順な高校生たちが、ブラックバイト、ブラック企業に狙われるのではないか」という指摘の方法には重大な問題を感じます。
もちろん、「理不尽を強いられても我慢する・・・ブラックな部活に染まってしまった従順な高校生」というブラック部活の作用も無視すべきではありません。しかしそれ以上に、「理不尽を他人に強いることに慣れてしまった、ブラックな部活に染まってしまった傲慢な高校生」にこそ、より深い注目を寄せるべきです。「ブラック○○」は、加害者と被害者が居る問題ですから、片方だけを考えればよいものではありません。そして、同じ「ブラック部活」という客観的環境から、奴隷的労働者(被害者)とブラック経営者・ブラック資本家(加害者)という2つのグループが生じていることについても、「本当に彼らは人格的に異なる存在なのか? 機会次第で入れ替わり得るのではないか?」という問題意識を持ちつつ、注目すべきです。
今日は、「ブラック部活」の作用について、「教育カリキュラムとしての側面」そして、「軍隊社会としての側面」から検討したいと思います。まず前者。
■教育カリキュラムがブラック企業問題を生む――人格の根底においては加害者も被害者も同じ
現代日本においては、人格形成に多大な影響を与えるとされる前期中等教育段階までは義務教育によって行われています。前期中等教育においては、教育社会学でいうところの「統合」を軸としたカリキュラムを基本としており、基本的に全国一律の内容です。すくなくとも、いま企業の経営をしている世代は、そうしたカリキュラムの教育を受けていた世代です。そうした同質の教育を受けて人格形成してきた人たちが、ある人々はブラック経営者・ブラック資本家になり、ある人々は奴隷的労働者になる。それを個人的な性格の問題に全面的に帰するべきてばありません(少なくとも左翼の世界観では、それを個人的性格の問題に帰することは出来ません)。となれば、現代日本の教育課程・学校社会段階にこそ、企業社会段階におけるブラック経営者・ブラック資本家を人格的に準備する要素があると言わざるを得ず、それはすなわち、いまブラック企業において奴隷的労働に就かされている人物も、いざ事情が変われば、ブラック経営者・ブラック資本家のような搾取階級になり得るといわざるを得ないでしょう。
事実として、たとえばいわゆる「ブラック社員」という存在がありますが、これは、「社会集団の責任ある主人としての自主」に反するという意味で、本質においてブラック経営者・ブラック資本家と同類であり、やはり現代日本の教育課程にこそ「ブラック○○」を人格的に準備する要素があると言える実証であります。
「ブラック○○」の本質は「自主権の問題」です。「自主」の対極は「自己中心・自己絶対」であり、「支配」であり「隷属」です。ブラック部活で培った自己中心・自己絶対の意識は、学校社会においては「下級生いじめ」という形で支配・隷属を当然視するようになり、そしてゆくゆくは企業社会において「搾取」という形で支配・隷属を正当化するようになるのです。学校教育がブラック経営者・ブラック資本家を準備しているのです。
■ブラック部活のルーツには「軍隊社会」がある
少し見方を変えましょう。ブラック部活は、「スポ根」「体育会系」とも言い換えることが出来ます。体育会系の源流は「軍隊社会」にあります。軍隊社会の本質は「絶対的な上意下達」であり、「兵は駒」です。たしかに、ブラック○○の問題を自主権の問題として捉えれば、その対極の行き着く先が「軍隊社会」であると言うのは容易に理解していただけることでしょう。こう考えると、「ブラック○○」の本質が極めて明瞭に見えてくるものと思われます。
もちろん、組織である以上は一定の統制は必要であり、特に軍隊社会においては超強度の統制が必要なのは当然です。兵が本質的に駒であるのも当然ですし、志願兵であれば自身が祖国の駒となることを承知の上で銃を取っているはずです。軍隊社会で「自主権」などと言っていては戦争になりません。しかし、そうした軍隊社会の論理を、自主権の追求を目的とする一般社会にまで持ち込むことは根本的に間違いです。であれば、軍隊社会のコピーである体育会系社会も、一般社会の論理に照らせば間違いであるという謗りは免れ得ないでしょう。つまり、「一般社会」を形成・維持する主体を育てるべき学校教育が、「体育会系式の部活動指導」を通して、一般社会の論理に相反する「軍隊社会」の人格形成をしているのです。学校教育の本分を果たしているとは到底いえません。
■ブラック企業問題の根底には、企業の主体である「人間」の人格形成=教育の問題がある
以上、2つの角度から「ブラック部活」の作用を、「ブラック企業」と結び付けて考えると、重要なポイントが見えてきます。「ブラック企業根絶」という意味では、労働法によるマクロ的規制や労組の要求実現闘争は勿論、「嫌だから辞める」路線も、根本的な解決策にはならないのです。「自主権の問題としてのブラック○○」の問題を解決するためには、主体的には自主的な人格教育、制度的には自主的な行為を支える仕組みが、一個人の幼少期から必要になると言えるでしょう。