>> 橋下市長最後の議会 共産除く全会派から拍手さすが、共産党は安定の「ムラ社会的反応」。こういう場合、普段の政治的対立は脇において拍手で送り出すのが常識的な対応です。そういう対応ができないあたり、「是々非々の人物評価ができず人物評価を過度に一面化してしまうの思考回路」が見て取れます。
18日の任期満了で退任する橋下徹大阪市長が17日、最後の市議会本会議に出席し、市議86人に別れのあいさつをした。「4年間ありがとうございました」と締めくくると、共産党を除く全会派と傍聴席に集まった市民らが拍手を送った。
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是々非々の人物評価ができず人物評価を過度に一面化してしまうの思考回路――旧ブログ時代から継続して分析を重ねてきた、いわゆる「感情屋」と重なる部分があります。こういう人たちは、他者との距離の取り方・接し方において、まるで家族のように濃密に接するか、あるいは、悪魔祓いのように全面排斥する、換言すれば、「強制的同一化か排斥か」という極端な関係性しか取れません。身内共同体としてのムラ社会ではそうした極端な人間関係の取り方は共同体維持のために必須的ですが、現代社会においては不適切です。
現代社会は、一人ひとりの自主性の追求が是認されています。そのため、現代的人間関係は、一人ひとりの自由意志と必要性に基づく離合自在な人間関係を前提としています(ムラ社会的人間関係・身内共同体原理との決定的違いです)。相手の人格の一部を切り出して同一化を強要したり、あるいはそれを理由に排斥することは決して容認されず、お互いを尊重し合い是々非々の姿勢で接しなければならないのです(はっきり言って私も橋下氏の前衛的発想・文革的方法論は大嫌いですが、今回、共産党が強行したような礼を失する行動は絶対にしません)。ときには「棲み分け」という形で袂を分かつこともありますが、それはあくまでお互いの考え・立場を尊重し合うからこその紳士的な対応です。
私が共産党の政策をどうしても受け入れることが出来ないのは、結局、彼らの思想の底流において、ムラ社会につながる人間関係が見え隠れしているからです。実際に一時期、末端の共産党組織・党関係者と交流を持っていた経験からその危険性を肌で知っていますし、理屈の上でも危ない人間関係を前提として政策を積み上げていると言わざるを得ないからです。表面的に見ると他党と大差の無い常識的な政策に見えても、底流には人間関係がムラ社会・身内共同体を志向する部分があり、「自主性の追求」を侵害しかねない危険な作用すら見られるのです。
たとえば、「国際貿易における保護主義」を初めとする各種の産業保護政策は、決して共産党の専売特許ではありませんが、他党の保護主義は「産業が競争力を持つまで、産業として自立できるまで」という開放的なものです(自民党の族議員共は別ですよ)が、共産党の保護主義は「ムラの和を守るため、産業を全国民の手で養い続けるため」という閉鎖的なものです。ここでは「選択の自主」は蚊帳の外です。これだけ「自己決定権」がクローズアップされる時代にあって、「選択の自主」を省みないのは、もはや「時代のゴミ」と言っても過言ではありません。
この点は、福祉政策ではさらに顕著です。共産党の福祉政策論はいまだに公共部門が独占的にサービスを供給することを「国家の責任」などと言っています。その結果、福祉受給者の生活・自己決定権は「国家の責任」なるもののために制限されてしまいます。他方で北欧、特にスウェーデンでは、福祉受給者自身が公共部門のサービス供給独占に対して異を唱えました。スウェーデンにおいては「福祉とは国が福祉受給者を養うことである」という前提がなく、むしろ「自立志向のノーマライゼーション」が国是だったこともあり、「福祉サービスの選択の自己決定権」が確立されてきました。
「共産党は身内共同体原理に基づく人間関係を前提として理想社会を構想している」――読者諸氏におかれては、ぜひともそういう視点で共産党の政策をレビューしてみていただきたいと思います。そしてその際には、弁証法の体得を自称しているはずなのに彼らの脳内には「個人の自由か全体の平等か」という直線的対立軸しか頭の中に無く、「個人の自由と全体の平等を接合する集団主義的新機軸」がないことも思い起こしていただきたい。表面的な政策の背後に潜む、我々の現代社会の人間関係論とは相当に異なる身内共同体的な性質が見て取れることと思います。
共産党については、今後とも以上の視点で、具体的な政策や事例をネタに、個人的体験も含めて、考えてまいります(今回は予告編・総論的な記事です)。