2015年12月28日

自称「残業せずに効率的に働こうとする人」が引き起こす新しい別問題;結局は底の浅い利己主義的方法論

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151228-00000006-asahi-soci
>> 仕事のために生きる? 長時間労働はなくせないのか

朝日新聞デジタル 12月28日(月)5時22分配信
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総論としては賛成なのですが、懸念ある表現が見受けられます。以下。
>>  読者のみなさんにいただいた反響のなかには、長時間労働をやめる決断をして働き方を変えたところ、責任ある仕事を任せてもらえなくなり、戸惑っている方の声もありました。長時間労働がまだまだ当たり前の日本の職場では、残業せずに効率的に働こうとする人への風当たりも強いようです。(津阪直樹) <<
「風当たり」――私としても理解できる内容ですが、私の身近でこれを「実践」している人を思い出すと、「自分の仕事は終わりました。チーム全体の進捗状況なんて知りません。チーム目標にも関心はありません。」という利己主義・官僚主義的な姿勢があふれ出ている人を思い出します。長時間労働文化から脱して効率的に働こうとする意気込みはよいのですが、自分本位の主観的な「効率性」に過ぎず、結果的に利己主義的な行動をとっている人物、自分自身の長時間労働問題は解決しているのかもしれませんが、別の新しい問題を引き起こしている人物です。

「自称・効率的に働こうとする人」は基本的能力が高いので、所定時間内の働きはもちろん素晴らしいものです。しかし、チームメンバーやチーム目標に対する関心がとぼしく自分自身の事情しか考えていないような人物は、「全体の進捗を見据えて調整・采配する」というリーダーに必要とされる資質を満たしているとはいえませんし、リーダー職が論外であるのは勿論、たとえヒラでもチームメンバーとしても一緒に働きたくないものです。弊社社内では、こうした「自称・効率的社員」に対する考え方は概ね一致していたようで、チームの視点で行動できる後輩社員が順調に昇進していくなかで、彼はまったく昇進できませんでした。もちろん、「馬鹿と鋏は使いよう」という言葉があるように、チーム編成が不要だが専門的知識が必要な「一人親方的作業」では重宝されていますし、新人なのに官僚主義的に仕事をする「人事部の失敗」社員の更生教材としては有効に活用されていました。先日、「自分の仕事はちゃんとやっているのに! とんでもないブラックだ!」などと言って辞めていきましたけど。

「利己主義かチーム主義か」という軸でこの問題を見直すと、決して「長時間労働がまだまだ当たり前の日本の職場では、残業せずに効率的に働こうとする人への風当たりも強い」などという短絡的な「新旧文化間の闘争」で片付く話ではないことが見えてくるでしょう。こういう人物は、長時間労働とは別の新しい問題を引き起こしている張本人なのです。職場の現状を自分本位の主観的視点でしか見ず、チームレベルで客観視できていないにも関わらず、「新しい職場文化を持ち込むんだ! 定着させるんだ!」などといって「イノベーターとしてのオレ」「ワタシの先取の気性」に酔っていると、結局は単なる「利己主義者・官僚主義者」でしかなくなることでしょう。そういう利己主義者・官僚主義者に重要な仕事が回ってこないのは当然です。また、そのような人物とシフトや作業の調整などを積極的にしようとは人間感情的に思わないものです。「情けは人のためならず」。

もちろん、だからといって際限のない長時間労働が自動的に容認されるものではありません。「利己主義かチーム主義か」という新機軸に立ち、「効率的な働き方を、個人レベルではなくチーム全体レベルで如何に達成してゆくか」ということを模索すべきです。このテーマで職場環境を思いおこすと、チーム体制の問題に帰着する部分が大きいことにまず気がつくのではないでしょうか。たとえ責任の重い仕事であっても、引き継ぎが十分な体制をとっていれば、チーム全体としての効率性を損ねることなく、一人ひとりの長時間労働問題は解決します。また、特定の人物が責任の重い仕事の担当者として長時間労働している事実は、見方を変えれば、その人物が仕事のボトルネックになっていることを意味します。これはリスクです。共和国でチュチェ51(1962)年に発表された4大軍事路線には、人民軍の「全軍幹部化」という目標があります。これは、たとえ隊長が戦死しても副隊長以下が引き続き戦闘指揮できるように全軍の戦闘能力を高めるという方針ですが、これは引き継ぎ体制を万全にするということを意味します。人民軍の全軍幹部化に学び「職場の全員熟練化」することは、全体効率性の向上による労働時間短縮化にとって必要不可欠でしょう。

引き継ぎ体制を確立させるためには、一人ひとりがチームメンバーとして行動することが必要不可欠です。個人レベルでの効率性を追求している人物をチームに置いておくわけにはいきません。また、前述したとおり「個人レベルでの効率的な働き方」は、同僚から嫌われる危険性が高く、いざというときには仕返し的に長時間労働を押し付けられる可能性があります。その意味では、真の意味での長時間労働打破には到底つながらない底の浅い方法論といえるでしょう。

「利己主義かチーム主義か」――個人の利益を目指すのは当然のことですが、それは果たして周囲・全体にどんな影響をもたらすのでしょうか。あなたが追求している利益は、自分自身の利益と集団の利益を調整し、集団の一員としての責任を果たした「自主的」なものでしょうか。それとも、自己利益のみの追求に終始している「放蕩」でしょうか。私は「自由」という言葉はあまり使わず、「自主」という言葉を使うように努めていますが、自分自身の行動を「自由」ではなく「自主」という言葉で説明しようとすれば、自分自身の行動の性質が見えてくるでしょう。
posted by 管理者 at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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