>>> なぜ共産党は嫌われているのか?ー設立から振り返るいずれも正しい指摘ではあります。しかし、いささか古い情報を基に「なぜ共産党は嫌われているのか」を論じているように思われます。おそらく日本共産党側もこうした切り口に対する反論――かなり巧妙なレベルにまで作りこんでいるはずです――は用意しているでしょう。ソ連崩壊以降の日本共産党は、ソ連体制全面否定は勿論、市場経済の肯定を以前にも増して積極的に行っていますし、また、部分的ではあるもののレーニン批判にも踏み込んでいます。そうしたここ最近の動向を踏まえた上で、「それでも日本共産党は信用ならない」という切り口で掛からなければなりません。
投稿日: 2016年02月03日 17時04分 JST 更新: 2016年02月03日 17時04分 JST
民主党が大敗し、自民党・公明党が政権に返り咲いた2012年総選挙。
政権交代は「一強多弱」の始まりとなったが、同時に90年以上続く「長寿政党」共産党の新たな興隆の始まりでもあった。2013年参院選では改選3に対し8議席獲得。2014年総選挙では8議席から21議席と、まさに躍進続きだった。
そんな「波に乗る」共産党が、2015年9月に国会を通過した「安全保障法制」を廃止にするべく、「国民連合政府」構想を打ち上げた。民主党をはじめとする全野党に協力を呼びかけ、「安保法制廃止」一点に絞って本年7月の参院選で選挙協力をしようというのである。
しかし民主党保守派を中心に抵抗感が強く、「あり得ない」(民主党 岡田克也代表)、「シロアリみたいなもの」(民主党 前原誠司元外相)、とまで言われてしまい、構想は進んでいない。
一体、なぜ共産党はそこまで嫌われるのだろうか?(特に若い世代は知らない人が多いだろう)
そもそも共産主義とは何か
(中略)
日本共産党の発足
(中略)
ぬぐえない暴力に対する不信感
(中略)
共産圏の世界的な退潮
(中略)
独自路線の貫徹が独善的との批判を招いた
(中略)
変革への本気度が問われる共産党
以上、共産党につきまとうネガティブなイメージは、主に党が実現しようとする「共産主義」そのものに対する嫌悪感と、これまでの歴史で積み上げてきた様々な不信感が基盤となっているようである。
上記で紹介したように、近年は暴力事件も起こしていなければ、綱領も現実路線に切り替わってきている。しかしそれがどこまで「共産党の本心」なのか、共産党は本当に変わる気があるのか、多くの人がいまだ疑心暗鬼であることの表れが、冒頭の「国民連合政府」構想の否定につながっているのだろう。
結党94年を迎える老舗政党の本気度が、今問われている。 <<<
「独自路線の貫徹が独善的との批判を招いた」というくだり。日本共産党の唯我独尊っぷりは、原水協や同和問題といった古い例を出す必要はありません。たとえば、2001年〜2012年の国政選挙において日本共産党は連戦連敗であったにも関わらず、党最高幹部は引責辞任しようとせず、懲りもせずに同じような主張を繰り返すだけでした。その1点を取るだけでも党の体質が独善的・教条的であることの説明には十分ですし、責任観念の欠如という論証にもなります。もはや宗教の域にも達しつつあります。
そして、この「己の間違いをなかなか認めない無謬の党」という振る舞いは、まさにソ連共産党や中国共産党などの振る舞いと一致するものであり、こうした独善性は、独裁を心理的に許容する致命的な脇の甘さに繋がります。「絶対に正しいのだから、反対意見など最終的には踏み潰しても問題ない」という理屈です。事実、「科学的社会主義」が、すでにレーニン時代から妥協なき独裁政治であった理由は、そこにありました。スターリン以降はそこに「腐敗」が混じって事の本質が霞んでいますが、20世紀の経験から見えてくる共産党独裁の根底は独善です。
2月10日追記
京都市長選挙におけるダブルスコア惨敗にたいする党中央の強弁は、久々の敗戦の弁でありながら、党の体質がまったく変わっていないことを自ら証明してくれました。
http://www.sankei.com/politics/news/160208/plt1602080038-n1.html
>>> 2016.2.8 21:03
ダブルスコアで惨敗なのに「国民的共同が大きく発展」と強弁 京都市長選で共産・山下書記局長 <<<
視点を変えます。この記事では一切触れられていませんが、経済政策のレベルの低さも人々の判断材料として大きなウェイトを占めているものと思われます。前述のとおり日本共産党は、市場経済の活用を肯定し「市場経済を通じた社会主義の実現」を説いています。これは、「たとえ自由市場を認めていたとしても、経済全体に影響をあたえるような『瞰制高地(管制高地)』を社会主義勢力が掌握していれば、その経済は社会主義的であるといえる」という理屈であり、もともとはレーニンが戦時共産主義からネップへの転向を正当化するために繰り出した「瞰制高地(管制高地)」論に基づく主張です。日本共産党的には、レーニン由来である以上は「正統」であり、これを以って彼らは「もはや計画経済は信奉していない」ことの論拠だとしています。
しかし、この瞰制高地論は、依然として計画経済的な発想であり、彼らの自由市場観がいかに本質から外れた貧相なものであるかを如実にあらわしています。自由市場というものは決して、単なる資源の効率的配分機構ではありません(その意味では新古典派的市場観も日本共産党の主張と同じくらい間違っています)。市場において個々人が自由に商取引を行うことにより、需要と供給に多様性が担保され、それによって全く新しいアイディアが生まれ、ニーズが掘り起こされるという点が自由市場の本当のメリットです。換言すれば、自由市場というものは、与えられた条件を最適化するメカニズムではなく、未知の解を探査しながらそれ自身が進化しつづけているメカニズムなのです。
そうした進化論的市場観に立てば、瞰制高地などという考え方のインチキさはご理解いただけるでしょう。未知の解を探査しながら常にダイナミックに進化しているシステムにおいて、いったい何処のポイントが「高地」だと言えるのでしょうか? ましてや、どうして社会主義的に掌握していられるのでしょうか? もし、正確に瞰制高地を認識でき、かつ、長く掌握できる秘策があるのならば、いますぐ立派な党本部ビルを売り払ってその代金で瞰制高地の企業株を買ったほうがいいですよ! それ以前に、そんなものがあったら投資家が既に買占めているでしょうに・・・
日本共産党が、競争を否定的に捉え、場合によっては切磋琢磨も嫌がるという点も、彼らへの支持を減らす要因として作用していると思われます。伝統的に日本左翼は、たとえば教育現場での「順位づけ」を否定してきたように、競争を否定的に捉える傾向にありました。そうした傾向を保ったままの状況において、近頃、「コモンズ」をはじめとした新しいミクロ的な共同体思想や、「定常社会」といった成長路線とは距離を置いた立場が注目されることが増えて来、そうした波に乗っかる形で日本共産党が自党の政策を位置づけ宣伝する場面がここ数年、とくに東日本大震災以降に見られるようになって来ました(まだ全党レベルの動向というよりは、下級組織レベルの動向ですが)。「地域の中小商工業者・農家が連合し、全国企業を排斥し、高い参入障壁と互助的産業保護によって経済成長は目指さずボチボチやってゆく」といった青写真、ムラ社会的・人民公社的な地域共同体の青写真といえば、私の言いたいことが伝わるでしょうか。
日本共産党は前衛政党なので、こうした人民公社的共同体の瞰制高地を共産党員が占めることは当然の前提ではあるものの、それぞれのミクロ共同体はそれなりに独立して活動する想定のようで、その意味では旧来的な中央集権制とは若干様相が異なるようです。その点は一歩前進かもしれません。しかし、競争を否定的に捉える人々が「高い参入障壁と互助的産業保護」を掲げることは、結果的に切磋琢磨も排斥してしまいます。これでは、幾ら中央集権制から脱しても、停滞社会をもたらすだけです。
世界が前進している中で日本だけが立ち止まれば、相対的に立ち遅れることは明白です。また、豊かさというものは、前進し続けてようやく現状維持できる類のものです。完全自給自足社会ならまだしも、「立ち止まるだけなら現状は維持できるだろう」などというのはド素人の発想。立ち止まる=ジリ貧なのです。
結局、ソ連崩壊以降、特にここ15年の日本共産党は、
(1)負けた選挙結果を受けての党幹部の言動を見るに独善的かつ無責任。もはや宗教の域にも達しつつある。
(2)経済の瞰制高地論を見るに依然として計画経済的発想に立っている。
(3)最近の、人民公社的なミクロ共同体論・非成長主義論を見るに停滞社会の萌芽が見える。
以上の点において、やはり以前から変化はなく、(3)に至っては悪い方向に歩み始めている傾向さえも見られるのです。
記事中、「どこまで「共産党の本心」なのか、共産党は本当に変わる気があるのか、多くの人がいまだ疑心暗鬼である」としていますが、いくら「躍進」しているとはいえ、いまだ多くの人は「疑心暗鬼」どころか、明確に「ダメ」だと見ているのではないでしょうか。