>>> 「高収入よりやりがい」に「そんな奴いねぇよ」 「ガイアの夜明け」公式アカ炎上のワケ■チュチェ思想の社会歴史観からみる「やりがい搾取」の本質
J-CASTニュース 3月23日(水)18時14分配信
良い給与に、安定した生活...そんなものは「後回し」という人が増えている――敏腕経営者や斬新なビジネスアイデアを様々な視点で紹介してきた経済番組「ガイアの夜明け」(テレビ東京系)の公式ツイッターアカウントがこんな内容の番組紹介ツイートを投稿した。
いつもと少し毛色が異なる、穏やかな特集。しかし、ネットユーザーらから「そんな奴いねぇよ」「良い給料に安定した生活欲しい人の方が多いに決まってる」と批判のツイッターが発信されると、このアカウントの炎上に発展してしまった。
■外資系金融機関、大手商社を退職してでもやりたいこと
番組公式アカウントは2016年3月22日、
「良い給与に、安定した生活...。そんなものは『後回し』という人が、増えてきているんだそうです。『社会の役に立ちたい』という思いで仕事を探す人たち。働くことを通じて、一体なにを掴もうとしているのでしょうか。今夜のガイアは、人生『やりがい』探しの旅。あなたも改めて、考えてみませんか?」
とツイートした。同日夜に放送される番組の単なる内容紹介だが、とりわけ冒頭部分が反発を招いたようで、
「そんな奴いねぇよ」
「良い給料に安定した生活欲しい人の方が多いに決まってる」
「やりがい探しなんて後回しにしろ」
といったリプライが集中。ちょっとした「炎上」状態となった。
肝心の番組内容はどうだったのか。
タイトル名は「『安定』を棄ててでも...」。社会問題の解決とビジネスの展開を同時に行う手法「ソーシャルビジネス」の特集だ。社会貢献の1つの形として、今注目されている。カメラが追ったのは、外資系大手金融機関や大手商社など高収入の安定した職業を退職し、新たに起業する若者たちだった。
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「やりがい搾取」と勘違い?
(中略)
いずれの事例もビジネスの興味深い新潮流に見えるが、なぜ批判が集中したのか。
それはツイートを見て「やりがい搾取」を思い出す人が多かったからかも知れない。企業が「自己実現」や「やりがい」という言葉だけをぶら下げ、労働者に長時間労働させる仕組みを作り、労働内容に見合った正当な代価を支払わない状況、それが「やりがい搾取」だ。労働社会学ではすでに重要な議論のテーマで、ブラック企業や賃金適正化の文脈から批判されることが多い。
今回番組が特集したのは「高収入の安定した職を捨てて社会のために起業した若者」であり、「やりがい搾取」の事例に当てはまらない。だが、いつもは新興企業も含めた成功した経営者の出演が多いためか、最初のツイートを含め、多くのネットユーザーには、「やりがい搾取」の推奨と誤解されてしまったようなのだ。
実際、
「そうやって『やりがい搾取』するのが貧困の一因になってんじゃないの」
「この後に及んでまだやり甲斐搾取かよ」
といった指摘もツイッターで散見された。
23日17時現在、公式アカウントはこれらの声に反応していない。
所得格差やブラック企業的な雇用への疲弊感から、「やりがい」という言葉は、もはやサラリーマンの働くモチベーションにつながらない――。そんな時代を象徴する一断面だった。 <<<
チュチェ思想の社会歴史観においては、社会生活は、「政治生活」「経済生活」「思想文化生活」の3つに分類されます。政治生活は、社会制度の樹立と政治権力の行使を通して社会の主人として管理・運営してゆく生活の側面、経済生活は、自然の主人として物質的富の創造と享受を通して社会的人間の生存を維持する生活の側面、思想文化生活は、人間自身の主人として精神的富の創造と享受を通して社会的人間の資質と能力を高める生活の側面であると定義されます。
これらの3つの生活の側面は、独自の意義を持つと同時に、相互作用・相互依存の関係にあるとされます。経済生活は政治生活・思想文化生活の物質的基礎をつくり、思想文化生活は経済生活と政治生活のための人的基礎をつくり、政治生活は経済生活と思想文化生活の制度的基礎を作ります。
3つの生活の側面は、すべてが均衡して発展すべきですが、私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、これらのバランスに不均衡が生じているというのがチュチェ思想の見解です。すなわち、経済生活の突出した発展により、物質的には豊富ではあるものの、政治的・思想文化的要素に立ち遅れが生じています。また、私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、資本家に分配権が専制的に握られているために、経済生活における生産・分配問題が、資本家の「良心」に一任されてしまっています。資本家も「競争の強制法則」に縛られた、資本――無限に自己増殖しつづける価値――の被造物である以上は、なくても良いような需要を無限に作りだし、無理に人間の物欲を刺激することによって、果て無き収益増大に邁進しつつ、他方で、果て無きコストカット=労賃・原材料費の買い叩きを続けます。その結果、本来は、人間生活の一側面に過ぎないはずの経済生活が無限に、奇形的に肥大化しつづけ、政治生活・思想文化生活を圧迫するようになります。すなわち、経済生活における欲望剥き出しの腐敗化・環境負荷の激増、政治生活における資本従属化・階級化、思想文化生活における物質至上主義化・精神の貧困化です。
本件記事で取り上げられている「高収入よりやりがい」に対する「そんな奴いねぇよ」や「良い給料に安定した生活欲しい人の方が多いに決まってる」「やりがい探しなんて後回しにしろ」といった、これらの「反論」は、こうした「経済生活の奇形的肥大化」ゆえの現象です。「やりがい」という思想文化的な要素に対して「高収入」という経済的要素を優先させる、資本主義の論理が人民大衆に浸透してしまっていることを示す現象です。また、「この後に及んでまだやり甲斐搾取かよ」というのは、搾取という概念を認識している点においては、「良い給料に安定した生活欲しい人の方が多いに決まってる」といった経済主義・物質主義丸出しの認識よりは一歩進んではいるものの、短絡的過剰反応の謗りは免れ得ません。本来は「やりがい」という言葉は、人民大衆の側が経済偏重に抗する文脈で用いるべき思想文化的な言葉であるにも関わらず、搾取階級側が経済偏重を強化するための方便になってしまっている点に、現代日本の闇の深さが端的に現れています。
■「やりがい」の搾取を取り戻すために
「やりがい搾取」を如何に排し、真のやりがいを取り戻し、政治・経済・思想文化の生活の各側面のバランスを取ってゆくべきでしょうか? それは、なぜ私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会においては、経済生活のみが突出して発展している・させられているのかを知るところから始まります。
資本主義社会の目的は、人間生活の福利厚生ではなく資本蓄積=価値の増殖です。単に生活上の需要、生活者レベルの慎ましい欲望を満たすためだけであれば不必要なまでの産出が、資本主義社会においては日々、生み出されています。そしてそうした生産の手段として、「他人労働」が活用されています。資本主義社会を読み解く鍵は、労働実施の主体と労働成果の帰属主体が違っているところにあります。
零細企業のように、資本家自身も労働するような個人労働の稼業においては、労働の効用(利益)も不効用(疲労)も自分自身に降りかかってきます。それゆえ、資本家が限界分析のできる合理的思考の持ち主であれば、限界効用と限界不効用の比較衡量が厳密に行われ、その結果、トータルで人間生活の福利厚生が図られます。AVC(平均可変費用)>MR(限界収益)であれば産出停止、MC(限界費用)=MR(限界収益)の点で産出最大化を判断するでしょう。
■他人労働を搾取することによる資本主義的稼業に「際限」がない
しかし、他人労働を搾取することによる資本主義的稼業においては、労働の効用(利益)は資本家に帰属するものの、不効用(疲労)は直接的には資本家には降りかかりません。労働者が過労状態でも、資本家自身が傷ついたり、死ぬわけではありません。賃金支払いは、コスト=持ち出しという意味で資本家にとって不効用になりますが、資本主義的稼業は私有財産に基づく社会でもあるため、資本家が分配権を掌握しています。何を誰に幾ら与えるのかは、ただ資本家の判断に一任されています。そのため、平均的な人間であれば既に割に合わない状態になっていたとしても、資本家としては更に産出拡大を推し進めようとするインセンティブに駆られます。
資本家が分配権を掌握している以上、被使用者としての労働者の立場は弱く、また、労働者は自らの労働力を資本家に売って生計を立てるほかない、言い換えれば、労働者の労働供給は非弾力的である・資本家は労働需要独占的であるために、労働者は、資本家から押し付けられた労働環境を甘んじて受けざるを得ないケースが一般的です。個人労働中心生産であれば越えることのない限界を、他人労働中心生産では容易に突破してしまう(事業主自身が苦しむわけではないから)のです。ここに、私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会において、政治・経済・思想文化の各生活のアンバランス、経済生活の突出が発生するのです。
■労働市場の活用と自主管理によって労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させる
こうしたアンバランスを是正するためには、「労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させること」が必要です。自主管理経営は、「経営への直接的参加」という意味で有力かつ典型的な方法論ですが、「この会社の労働環境は嫌だから、労働力を売らない」という労働市場活用型の方法論も、すでに、「ワタミ」や「すき家」において絶大な効力を証明しているように、有力な方法論であるといえるでしょう。労働市場活用型は、経営への直接的参加はありませんが、市場メカニズムの働きが資本家に対してインセンティブを付与することによって、間接的に労働者の意志が経営に反映され得ます。
自主管理経営と労働市場活用は、一見しただけでは共通点が見当たりにくい方法論ですが、労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させることを通して労働者の自主化=行為と結果の帰属主体となること、自らの主となること、を目指すという文脈においては、共通するものがあります。
自主管理経営と労働市場活用。当ブログでは、この2つの方法論を軸に、自主権の問題としての労働問題について考察を進めてきました。結局、人間が人間らしく生活するためには、生活の諸分野において、偏りのないバランスが取れた生活を送ることが必要なのです。社会と自然と自分自身の主人となることが必要なのです。私有財産社会・搾取社会としての資本主義社会である現代日本においては、経済生活が暴走しているので、経済生活の暴走を抑える必要があります。そのためには、労働実施の主体と労働成果の帰属主体を一致させる自主化が必要とされているのです。
■前進しつづけることは大前提
ところで、「経済生活が暴走している」などというと、最近は「反成長至上主義」などと称して、「経済成長は目指さずボチボチやってゆく」ことを標榜する人たちが出てきます。しかし、私は以前にも述べたように、こうした主張には反対です。たしかに生活のバランスを取ることは大切ですが、豊かさというものは、前進し続けてようやく現状維持できる類のものです。こうした「反成長至上主義」は、往々にして、「立ち止まるだけなら現状は維持できるだろう」という素人的発想に直結します。停滞はジリ貧です。生活のバランスを考えながら速度を調整することは必要ですが、前進しつづけることが大前提です。