2016年04月21日

抱き合わせ募金を擁護する日本共産党関係者の「基準」;世間常識に合わせないことの意味

19日の記事で取り上げた、日本共産党の地方組織幹部による災害救援金と党活動資金との抱き合わせ商法的な募金に関する、党関係者・支持者の「擁護論」についてです。

末端の日本共産党関係者・支持者は何故、世間常識とは大きく外れた行為を大真面目に擁護するのでしょうか? (ちなみに党中央は明確にダメと言っています) それは、何を以って問題と判断するかという「基準」に違いがあるからです。その基準の違いについて今回は考えてみたいと思います。

私も経験がありますが、一般人は「世間常識」を以って判断を下すのに対して、日本共産党関係者は「理屈」を以って判断を下します。日本共産党に限らず、「革命」を志向する人々は、あらゆる権威・伝統・常識を疑い、それを「理性的に」洗い直した上で(なんという思い上がり!)新しい理性的な理想社会を作り上げることを目指しているので、理屈偏重は彼らの立場を支える「基盤」であり、彼らにとっては「誇り」ですらあるでしょう。

「理屈」の立場に立てば、たしかに「きちんと説明した上の募金だから問題ない」となるでしょう。抱き合わせ商法的募金を禁じる法律はありません。自称「前衛」にご指導賜るまでもなく一般人だってそんなことは百も承知です。しかし、一般人は、そうした世間常識に反することは尚もしません。何故でしょうか? それは、相手を不愉快にさせ、かつ、自分の真意を誤解される恐れがあるからです。

人間の意識的言動の背後には何らかの動機・真意が存在しますが、それは必ずしも相手側に明示的に示されるものではありません。そこで人々は、相手の言動に対して「一定の枠組み」を当てはめて、その動機・真意を推測しようとします。その「一定の枠組み」が「世間常識」なのです。

そのため、たとえば「葬式にホワイトタイでは参列しない」という法律があるわけでもないのに、誰一人としてそうした服装で参列する人がいないのです。もし、そんな服装で葬式に参列しようものなら、「他人の死を喜んでいる」と表明していると受け止められ、遺族や他の参列者に対して「不愉快」というレベルではないマイナス感情を抱かせることになります。

「世間常識に反した理屈」が嫌がられるのは、その「理屈」自体がどうこうではなく、その背後にある「動機・真意」に「悪意」がこめられていると思われるからなのです。通常であれば、やらないような行動パターンをわざわざ、その文脈で敢えて実行するところに、メッセージがあると受け止められるからなのです。親切な人だったら「なんでわざわざ、このタイミングでやるの? それ、今じゃなくても良かったよね? どういうつもり?」と苦言を呈してくれることもあります(日本共産党関係者なら、一度は言われたことがあるでしょうね)が、まさにそうした理由なのです。

ここで重要なのは、現代における「世間常識」の活用は、決して特定個人の自由を侵害し、画一的な価値観に強制的に同一化させる「ムラ社会・ファシズム的な目的」ではなく、多様な考え方をお互いに尊重し合うための「自由で民主的な目的」によるという点です。「常識的に考えて○○すべきではない」というのは、確かに個人に対して特定の言動を控えるよう要請する点において、「自由に対する規制」であることには違いありません。しかし、その禁止の目的は、画一的な価値観をゴリ押しするためではなく、多様な価値観の存在を大前提としたうえで、そうした価値観同士の衝突をなるべくさけるために行う相互配慮なのです。そして、それが「明文化された理屈」ではなく「不文的な常識」の形をとっているのは、学者や権威者の「体系的整理」よりも、何世代にもわたって人類が形成して来、いまも不断に変化しつづけている「自然発生的な習慣・秩序」の方が、人々の自然な生活感情を広く取り込んでいるからなのです。

マルクス主義者らしく「汝の道を進め、人々をして語るにまかせよ」を貫き通すのも一つの道です。しかし、自分は歩み寄る姿勢を見せないのに他人には自分のやり方を受け入れるように要求するのは、幼児的な都合のよさであることは十分に認識すべきです。世の中は「相互配慮」で成り立っています(世間は「お母さん」ではありません)。人間には「友人を選ぶ権利」がある(※1)ので、その正当な裁量の範囲内(まさに人間関係の距離感における成熟度の試金石)で友人を失うことになるでしょう。

※1 もちろん、行きすぎると「不当な疎外」「村八分」になるので匙加減の注意が必要です。我々、現代市民社会に住む人間は、「村八分」のような前近代的な言動を行ってなりません。スマートに距離感を保つべきです。ちなみに、以前にも取り上げましたが、日本共産党関係者は「ムラ社会的人間関係」を理想としている(と言わざるを得ない言動)ので、「友人を選ぶ権利」を否定するきらいがあります。。。

この程度のことは、現代社会における一般人どうしであれば、今更確認するまでもない「自由で民主的な社会における人間関係の基本原則」です。しかし、日本共産党関係者については、そこから確認しなおさなければならないわけです。世間常識に合致しない行為が何故、人々から白い目で見られるのかを理解できない人々が「国民連合」などと口走っている今日この頃です。

このことは、一般人の立場から言えば、「どういう行動原則で動いているのか予測できない特殊な連中が、急に擦り寄って来ている」ということです。何を言い出すか、しでかすか分かったもんじゃない連中、それも悪意・わざとでなく素でやっている連中と、あなたは付き合えますか? 私は無理です、無理でした(実体験)。

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posted by 管理者 at 04:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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