>> 「殺したがるばかどもと戦って」 瀬戸内寂聴さん発言に犯罪被害者ら反発■なぜ、このタイミングで寂聴さんの発言だけを狙い撃ちに?
産経新聞 10月7日(金)9時27分配信
日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムに、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(94)がビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判したうえで「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言した。会場には全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや支援する弁護士らもおり、「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と反発した。
(中略)
この中で瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた。
瀬戸内さんの発言について、あすの会顧問の岡村勲弁護士は「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている。そのどこが悪いのか。ばか呼ばわりされるいわれはない」と話した。
最終更新:10月7日(金)18時51分 <<
寂聴さん発言。宗教関係者なんて、表現の差こそあれ、昔から多くの面々が似たようなことを言ってきたものです(当否の議論はここではしません)。なぜ、このタイミングで寂聴さんの発言だけを狙い撃ちにしたのでしょうか?
「宗教関係者なら何を言ってもよい」と言いたいのではありません。「宗教関係者の発言に噛み付いたところで意味などない」のです。また、「ばかども」という寂聴さんの表現は、作家にしては低レベルすぎて相手にすることこそ「ばか」でしょう。会としてやることがないのでしょうか? あるいは、寂聴さん批判の衣をした日弁連批判でしょうか?
最近は「あすの会」としての活動はあまり聞かなくなり、わずかに高橋シズヱさんのアクションが報道されましたが、会としてのものではないようでしたし、率直に言って、いままでの「あすの会」の論調とは少し異なるものでした(本年9月20日づけ「犯罪被害者遺族と確定死刑囚との出会いの場――高橋シズヱさんと原田正治氏・河野義行氏が「一点で一致」した日」)。どちらかというと、後述する"Ocean"(「あすの会」にとっては「目の上のたんこぶ」でしょう)の言説にも近いものがあります。
■相変わらず「死刑を求めない遺族」の存在を無視する「あすの会」
また、岡村弁護士は「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」とします。相変わらずの構図の主張です。
8年前、朝日新聞夕刊コラムに「あすの会」が噛み付いたのと同じ時期、「Ocean 被害者と加害者の出会いを考える会」という死刑制度に反対の立場を取る犯罪被害者団体が、「確定死刑囚の一日も早い死刑執行を待ち望んできた犯罪被害者遺族」という「あすの会」が描く構図への明確な反対を表明する文書を発表しました。
・旧ブログにて保管している文書現物をスキャンしたものはこちら。「あすの会」が描く構図に反対し、"Ocean"の原点を明確にしています。
・上掲文書にて紹介されている講演会の記録はチュチェ97(2008)年8月6日づけ「「Ocean」設立1周年集会報告(1)」
世界的に見ても、「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」わけではないのです。もちろん、「死刑を求める遺族」と「死刑を求めない遺族」のどちらが正しくてどちらが正しくないという問題でもありません。岡村弁護士は、長く「あすの会」で活動されている(きっかけは大変不幸だったと思います)のですから、"Ocean"や原田正治氏、河野義行氏の主張をご存じないはずはないでしょう。にもかかわらず、こうした構図を相変わらず描き続けておられます。
■一人ひとりの遺族の思いが団体を作っているのではないのか。団体が「あるべき遺族」を規定するべきなのか。
「あすの会」の立場としては、"Ocean"のような団体、原田正治氏や河野義行氏は「目の上のたんこぶ」のような存在でしょう。事実、彼らに対して「あんなこと言う奴らは、本当に家族を愛していたのか?」などと失礼千万なコメントを寄せる輩も居ます。しかし、チュチェ97(2008)年8月2日づけ「朝日は尚も「被害者」「被害者遺族」のことを考えてはいない」においても、事なかれ主義的な朝日新聞編集部に対する批判という形で書いたように、死刑を求めない被害者遺族がたとえ一人でもいる限り、「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」という構図を描いて主張しまわるべきではないのです。
換言すれば、仮に「わたしたちと行動を共にする被害者は加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」であったのならば、あくまで「自分と同志」のことを言っているのでよい表現ですが、「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている」では、「そうは考えない被害者」の思いを踏みにじることになるのです。
一人ひとりの遺族の思いが団体を作っているのに、その団体が「あるべき遺族」を規定するが如き構図を描くことは、結局、真に一人ひとりの遺族のための活動ではなくなってしまうことでしょう。概念の一人歩き、概念による人間自身の疎外です。
■最後に
こういう記事を書くと脊髄反射的な反応を見せる人がいるので、念のため。以前から立場を鮮明にしているように、私は「死刑を求める遺族」になる自信があります。原田正治氏や河野義行氏のお考えの境地に至ることは、私には難しいものの、その立場・主張を否定するつもりは毛頭もありません。そして、原田正治氏や河野義行氏のような方々がいらっしゃるにもかかわらず、団体が「あるべき遺族」を規定するが如き構図を描くことには反対です。
関連記事
・チュチェ106(2017)年8月7日づけ「「犯罪の加害者と被害者との対話」を目指す運動の再興期」
・チュチェ105(2016)年9月20日づけ「犯罪被害者遺族と確定死刑囚との出会いの場――高橋シズヱさんと原田正治氏・河野義行氏が「一点で一致」した日」