2016年11月21日

心の奥底レベルにおいて共産党員的な逃避的観念論に堕落しつつある日本人――まだ間に合う

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161121-00010005-houdoukvq-soci
>> 紀子さまと悠仁さま乗せた車が追突事故 職員「霧がすごく」
ホウドウキョク 11/21(月) 13:17配信

秋篠宮妃紀子さまと長男の悠仁さまを乗せた車が、高速道路で追突した事故で、運転していた宮内庁の職員が、事故当時「霧がすごかった」と話していたことがわかった。
事故が起きたのは、神奈川・相模原市緑区の中央道・下り線で、20日午前7時半すぎ、紀子さまと悠仁さまを乗せた車が、渋滞で停車していた乗用車に追突した。
この事故によるけが人はなく、紀子さまらは、別の車で目的地に向かわれたという。
その後の取材で、車を運転していた30歳の宮内庁の職員が、事故当時「霧がすごかった」と話していたことが、新たにわかった。
関東地方では、20日午前、広い範囲で霧のため交通に影響が出ていて、警視庁は、霧による視界不良が、原因の可能性もあるとみている。
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最終更新:11/21(月) 13:17
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誰も怪我をせず、死にもしなかったことは良かったと思います。

さて、コメ欄に目を移すと、次のようなコメントに支持が集まっています。
>> デンスケ | 2016/11/21 13:29

「霧がすごく」は解るけど、走行している車の多くが事故を起こしてる訳じゃないからな。

この運転手の注意不足。
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>> mr3***** | 2016/11/21 13:35

私の注意力が足りなかった。  って言えないの
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>> tut***** | 2016/11/21 14:08

でもダメ。大多数の運転手がもっともっと気を付けてる。
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ほぼ同じ内容の別記事でも、同様のコメントに支持か集まっているので、これを世論と見てよいと思われます。

この世論からは、2つの特徴的な社会心理が見て取れます。

■日本人はまだ逃避的観念論にまでは堕落していない
第一に、「客観的条件がそうだからこそ、主体側が、相応の対応すべきだ」という、一種の「主体思想」です(もちろん、朝鮮のチュチェ思想とは異なります)。「なにを当然のことを」と思う方も少なくないでしょうが、ある種の人々は、「唯物論」の名の下に、客観的条件の影響を過度に評価し、主体側の役割・責任を矮小化します。以前から述べているように私には共産党・左翼対策部署の経験がありますが、左翼の連中は何かと「客観的条件」を取り出し、自分たちの対応の不足を棚に上げます。「マクロ経済の不景気」だの「インフレ」だのと色々な理由をつけては、逃げようとするものです。

たしかに、物質世界に生きる我々生身の人間は、客観的条件の影響を大いに受けます。そのことを否定するのは、観念論であると言う他ないと私も思います。他方、人間には、自主性・創造性・意識性があり、そうであるからこそ、客観世界に対して意識的・理性的に対応しようとします。我々が生きるこの物質世界は、主体(人間)と客体との相互作用なのです。

※もちろん、どんなに頑張っても、たとえば「死」からは逃れらません。その意味では、究極的には「客体優位」といいうるでしょう。しかし、「死」のような究極的なケースは、一般的な社会変革事業においては、特に問題視すべきではありません。

そうした相互作用的世界観に立てば、一方的に「人間は客観的法則の一方的な被害者だ」ということは、それはそれで観念論的です。客観的条件を無視することを伝統に則って「主観的観念論」と言うのであれば、このような観念論は、「逃避的観念論」というべきでしょう。

「モンスターxx」が取り沙汰される昨今、何かと「自分以外・他人のせい」にする風潮が強まりつつある時代ですが、逃避的観念論に堕落し、自分自身の現状を「客観的条件」のせいにして現実逃避に走る日本左翼と比較するに、まだまだ日本の世論は、左翼・共産党系レベルにまでは堕落していないようです。

■「あいつは責任逃れしているに違いない」という推測は、裏を返せば「自分がその立場だったら、真っ先に責任回避する」ということ――逃避的観念論の一歩手前?
しかしながら、同時に、次のことも指摘しなければなりません。第二の社会心理に移ります。すなわち、「件の宮内庁職員氏は『霧が凄かったせいだ! 私は悪くない!』などと言っていたのか?」という問題です。

私がチェックしていない別記事において、もしかすると、より詳細な情報が載っているのかもしれません。しかし、少なくとも、上掲記事ではそのような情報は一切伝えられていません。いったいどこから「わーたーしーはわるくないー」(エンマの数え歌風に)という「本人の言い訳」が沸いて出てきたのでしょうか? 事情聴取は「霧が凄くて・・・もちろん、みんなそれでも慎重に運転し、事故を起こしていないんだから、私の不注意でした」だったかも知れません。マスコミ(マスゴミ)の「報道しない自由」の行使は、それこそ「ネット評論家」ご自身がよくよくご存知でしょう。こんな数百字程度の「軽めの記事」に、事実のすべてが載っているとは限らないことは、容易に想定できるはずです。

これらのコメントは、脳内補完を基に構成されている疑いがあります。もしそうであれば、それはすなわち、そのコメントを投稿した人物・そのコメントに賛同のクリックをした人物ご自身の投影であるというべきでしょう。以前にも述べたように、他人の言外の意図を予測するにあたって、人々は「自らのうちにある常識的枠組み」を用いるものです。「過去に付き合いのあった変なヤツ」の例を思い出すこともあるでしょうが、意外と「自分が相手の立場だったら、自分はどう対応するか」という想像も多く作用します。このことはすなわち、「他人の言外の意図」を探っているようで、実は、「自分が相手の立場だったらどう対応するか」という自問に過ぎないのです。

たとえば、「殺人被害者遺族のために、被告人に死刑を!」というセリフはよく聞きますが、被害者遺族の皆がみんな死刑判決を望んでいるわけではないということは、10月7日づけ「相変わらず「死刑を求めない遺族」の存在を無視する「あすの会」――団体が「あるべき遺族」の規定に繋がる発言をすべきではない」を筆頭に、以前から述べてきた通りです。このような「自称;代弁発言」は、実態においては、代弁でもなんでもありません。「相手の立場に自分が立ったとき、自分はどう思うか」つまり、「推測」「代弁」しているつもりになっている当人の考えに過ぎないのです。

「当事者の事情説明」も中途半端に「他人の責任追及」に精を出す彼らの姿は、裏を返せば「二言目には責任回避の逃げ口上」に走る彼ら自身の姿を映し出しています。その意味において、先に私は「まだまだ日本の世論は、左翼・共産党系レベルにまでは堕落していないようです」と述べましたが、心の奥底レベルにおいては、「近づきつつある」とはいえるかも知れません

逃避的観念論に堕落した共産党員のようにはなってはいけません。まだ間に合います。共産党員のレベル――被害妄想の域に達しています――に至るには、まだまだ「道のり」があります。繰り返しますが、まだ間に合います。
posted by 管理者 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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