>> <トランプ現象>移民と多様性の米国どこへ?取材報告記事かと思ったら、ただの感想作文で呆れました。。。これでカネが貰えるんですかぁ。。。
毎日新聞 12/12(月) 9:30配信
米大統領選で共和党のドナルド・トランプ氏が勝利した後、金融市場は株高・ドル高と好意的に反応しています。トランプ氏は政策面で環太平洋パートナーシップ協定(TPP)からの離脱を除けば、今のところ現実路線へと修正する兆しを見せています。ただ、反移民的な姿勢の大統領誕生で、封印されていた差別の感情が噴き出す恐れもあります。毎日新聞米州総局(ワシントン)の清水憲司特派員が、現地で身近で感じる、社会が負った深い傷について報告します。
(中略)
移民を喜んで受け入れられる「強い米国」をこそ取り戻してほしいと思う。 <<
■TPPは「共生」?――日本「リベラル」の不思議
ツッコミどころが多い「記事」ですが、ここでは敢えて論点を一つに絞り、「トランプ氏は政策面で環太平洋パートナーシップ協定(TPP)からの離脱を除けば、今のところ現実路線へと修正する兆しを見せています」という部分に注目したいと思います。毎日新聞が「TPP推進=現実路線」という見解に立っているようです。似たような論調の朝日新聞も先日、リカードの比較生産費説を引っ張り出して(!!)「TPPの正しさ」を力説していました。
アメリカのリベラルを代表していたヒラリー・クリントン氏がTPP反対派であったのと対照的に、日本では、毎日新聞や朝日新聞といったリベラル系こそがTPP推進の論調を張っています。日本リベラルの理想的未来社会論がTPPのうちにあるのでしょうか?
朝日新聞11月15日づけ「(トランプショック どう考える:4)自由貿易、制限する前に」や、あるいはBrexitのときの「国同士が協力しあわなきゃいけない時代なのに!!!」といった悲鳴から、「国境を開けっ広げにすることこそが世界の人々と共生することだ」といった、たいへん短絡的な発想を持っていることを推察できます。
一切の交流を絶つ鎖国は論外であることは勿論ですが、「国境を開けっ広げにすること」と「世界の人々と共生すること」は直接的には関係ありません。私も、対外開放や自由経済を尊重する立場ですが、それは、あくまで選択の自主(「選択の自由」ではありません)という大前提の下でのものです。そもそも、対外開放・自由経済は、究極的には一人ひとりの生身の人間が、自らの意志の下で自主的に選択するための手段でしかありません。
■共生のためにこそ、自力が必要
「いや、国際的に『ちゃんと』ルールを作れば自主は確保される。TPPは『自由のためルール』だ。」という主張もあることでしょう(前掲の朝日新聞記事は、まさにそういう論調です)。しかし、仮に「共生の原則」を侵犯する輩がいたとして、自主的力量・自らの力なくして如何やって対抗するというのでしょうか? まさか、「輩」以外のTPP加盟国の集団安全保障的な制裁に期待を寄せるとでも言うのでしょうか?
自主的な力があって初めて共生を語ることができます。自らが力を持っているからこそ、他者と対等に交渉ができるのです。他者に約束の履行を要求することができるのです。共生とは、互いに尊重し合い助け合って共にコミュニティの中で生きてゆくことですが、その大前提は「地位の対等」と「約束を守ること」であり、それらを遵守させることです。自主的でなくして他者に約束を遵守させることなどできません。
こんな調子だから、最近の自称「リベラル」は、たとえば移民が重大犯罪を犯し、それに対してレイシスト連中が「犯罪者を追放するのは当然だが、同時に移民は無条件にたたき出せ!」と沸騰しているのに対して正しく反応できていないように見受けられます。共生を掲げるのであれば、むしろ「リベラル」こそが「犯罪者を追放するのは当然」の先頭に立つべきです(もちろん、「同時に移民は無条件にたたき出せ!」には反対すべきでしょう)。にもかかわらず、歯切れの悪い反応に終始しています。これでは、傍から見る限りは「共生論者は、故郷の破壊を見てみぬふりをするんだな」とか「やっぱりアカは、移民を使って社会を文化大革命的な動乱状態にするつもりなんだな」などと認識されても当然でしょう。
■共生するためにこそ、時に棲み分けることが必要
新参者に自分たちが長く住んできた故郷を大きく変えられても「共生」と言い張るのは、ある意味立派ですが、普通の感性であれば、場合によってはお引取りいただくことも選択肢の一つです。ある人にとって何てことないようなことでも、他の人にとっては譲れないことだってあります。なぜ、訪問される側が譲歩しなければならないのでしょうか? 訪問側が譲歩しても良いはずです。理想を言えば、両方が譲歩すべきですが、それには時間が掛かります。逆説的ながら、共生するためにこそ、時に棲み分けることが必要なのです。何でもアリと開放とは異なります。
■誰にとっての「自由」なのか
また、私的資本によって公的政治が支配されているこの時代において、「自由のためルール」というのは、誰にとっての「自由」なのでしょうか? そうした考察が日本の「リベラル」には決定的に不足しています。「自由」という言葉の甘美な響きに惑わされています(私も自由の価値は極めて重要だと考えており、このブログでもたびたびその論調で主張を展開してきましたが、私の目は「リベラル」ほど節穴ではないと自負しています)。
一国の国内(国民国家は、経済的には一つの「自由貿易圏」です)での地域格差問題でさえ解決できず、一握りの都市部への自然発生的な集中でさえマトモに是正できていないのに、超国家的レベルでの集中は是正でき、幅広い層への富の分配が実現されるというストーリーを信じる方がどうかしています。
前掲の朝日記事では、必要なのは反自由貿易ではなく社会政策などと述べていますが、ならばまずは、自由貿易思考という大前提を掲げて社会政策を充実させ、準備を万端に備えてから開放すべきでしょう。北欧の福祉国家と評される国々は、まさにそうした政策体系であり、生活者の利益と経済の活性化を両立させています。
■平等な競争社会であればこそ、ますます自力が重要
こうした不平等が蔓延る経済社会でなくとも、需要と供給がクロスする図(マーシャリアン・クロス)が成り立っているような経済学の初歩的な教科書にも必ず載っている理想的な競争的市場であったとしても、議論の大枠は変わりませんです。価格弾力性の議論を思い起こしていただきたい。価格弾力性が乏しい市場参加者にとっては、その商品取引はより必須・不可欠なので、相手方から足許を見られやすいものです(ちょっとくらいコトでは相手は取引から逃げない)。よって、原材料費高騰といった誰かが負担しなければならない「ババ」は、価格弾力性が乏しい方に押し付けられてしまいます。
マルクスは、「不正」など何一つない純粋な資本主義的な自由交換経済においても、搾取と不平等・窮乏化が発生していることを指摘しました。そして、労働者の団体的な争議行為=労働市場における労働供給曲線の弾力性調整や、革命的な階級闘争を、窮乏化への反応として位置づけました。革命的な階級闘争はさておき、反共的労働組合でも選択肢として留保している各種の団体的争議行為は、本質において労働供給曲線の弾力性調整です。各種団体的争議行為の原点にある団結は、まさに自らの力そのものです。
■真の意味での共生の道
自らの立場・自らの力を守りつつ、自主的に選択的に開放することこそが真の意味での共生の道です。その意味で、TPPを有難がっている昨今の「リベラル」が言うところの「開けっ広げ」というのは、選択の自主を行使を放棄するに等しい暴挙です。
自主の道に関する朝鮮労働党の見解をご紹介します。
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj1998/sinboj98-9/sinboj980925/sinboj98092570.htm
>> (前略)まったく正しい指摘です。もちろん、朝鮮は少し自主にこだわりすぎて鎖国的になっている部分は否めませんが、いままさに慎重に開放の道を模索していることは、当ブログでも数少ない情報ソースを頼りにご紹介してきたとおりです。
自立の道は、国と民族の自主権を強固に守っていく道である。
金正日総書記は次のように指摘した。
「経済的に自立してこそ、国の独立を強固にして自主的に生きることができるし、思想におけるチュチェ、政治における自主、国防における自衛を確固として保障し、人民に豊かな物質文化生活をもたらすことができます」
経済的自立は、政治的独立の物質的基礎である。自立経済というしっかりとした柱で支えられていない政治的自主権は、空論に過ぎない。
民族的復興を志向しない国と民族は世界にない。しかし、民族の復興のために奴隷的な屈従を甘受しなければならないのなら、それは真の繁栄とはなりえない。民族の生命は自主性にある。国を愛する人ならば、民族的尊厳を売ってまでもよい暮らしをしようとする傾向を絶対に許すべきではない。いかなる場合においても、侵害されてはならないのが民族の自主権であり、そのために必要なのが経済的自立である。
こんにち、わが国が政治分野で自主権を徹底的に堅持しているということは、世界が認める事実である。経済的に外国に縛られていないので、われわれは誰にでも言いたいことをはっきりと言えるのだ。
(以下略) <<
対外開放・自由経済は重要な価値観です。しかし、それと「開けっ広げ」は決定的に異なります。選択の自主という防衛ラインを譲ってはなりません。「自主は共生の前提」であります。
やっぱり「リベラル」って観念論なんだよね・・・
