>> 労基署勧告にエイベックス社長が疑問「今の働き方を無視する様」■意図せずに強力な労働自主化運動への道を提示する松浦社長
スポニチアネックス 12/23(金) 5:40配信
エイベックスの松浦勝人社長が22日、自身のブログを更新し、社員に違法な長時間労働をさせていたとして、三田労働基準監督署(東京都港区)から今月9日付で是正勧告を受けたことについて、「今の働き方を無視する様な取り締まりを行っていると言わざるを得ない」と批判し、「法律が現状と全く合っていないのではないか」と疑問を投げかけた。
勧告を受けたこと自体は「現時点の決まりだからもちろん真摯(しんし)に受け止め対応はしている」とコメント。その上で、「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない」とし「僕らの業界はそういう人の“夢中”から世の中を感動させるものが生まれる」と理解を求めた。
最終更新:12/23(金) 9:25 <<
一見して、企業の社員酷使を正当化する言説以外の何者でもないように見えますが、この論点は、「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げ、勤労大衆・労働者階級の立場から主張してきた私の主張とも通底する部分があります。一人ひとりの生身の人間の事情を、事前に法律が網羅的に規定することなどできず、それゆえ、法の規制よりも、一人ひとりの労働者が自分自身の労働環境を自主的に決定できるように労使交渉を推進し、労働自主化運動を展開してゆくこそが主軸とされるべき時代になりつつあるのです。もちろん、松浦社長は、そこまで深く考えてはおらず、単に利潤目当てに労働法制を緩和するベクトルでモノを言っているのでしょうが、意図せずに強力な労働自主化運動への道を提示していると言えます。以下で述べます。
■一律の法的解決・マクロ的対応には本質的限界とは何か
法的規制の限界を勤労大衆の立場から述べましょう。チュチェ104(2015)年6月15日づけ「「自主権の問題としての労働問題」と「法的解決」の相性」をはじめとして以前から指摘しているように、労働者個人個人が抱えている事情は千差万別ですから、ある種の「社会的基準」にもとづく、一律の法的解決・マクロ的対応には本質的に限界があります。一人ひとりの生身の人間の事情を、事前に法律が網羅的に想定・規定することは不可能です。
たとえば昨今は勤務間インターバル制度が取り沙汰されています。仮に法が12時間のインターバルを義務化したとしましょう。しかし、ある人物にとっては、体質的問題からそれでは不足であるというケースも十分にありえます。そうした場合、その人物を守るためには「12時間のインターバル」という法的規制は役に立ちません。個別の労使交渉が必要になります。しかし、おそらく企業側は「法の基準は十分に守っているし、普通12時間もあれば十分じゃないか」などと、まずは応じることでしょう。このように、「社会的基準」によっては保護され得ない厳しい個別事情を持った個人は、一律の法的規制に頼りきりの制度においては、依って立つ所はありません。これは、一律の法的解決の「力不足」という意味での限界として位置づけることができます。労使交渉の推進をサポートする仕組みこそが真に必要なものであると言えます。
他方、一人ひとりの生身の人間の事情を、事前に法律が網羅的に想定・規定することなどできないという基本原理に照らせば、松浦社長が言う「好きで仕事をやっている人」というケースは、一律の法的解決の「不必要な過保護」という意味での限界として理解することができるでしょう。やはり、労使交渉による決定が望ましいと言えるでしょう。
■労働市場を活用するタイプの労使交渉
一人ひとりの生身の人間の事情を、事前に法律が網羅的に想定・規定することなどできない――その点において、私は以前より、従来の左翼的な要求実現型労組運動ではなく、労働市場を活用するタイプの労使交渉――「勤務環境が改善されないなら辞めます」――を主軸に据えた労働運動の重要性を指摘してきました。
12月5日づけ「小うるさい「職人」と棲み分けできる市場経済で本当に良かった!」など、繰り返し述べてきたように、自由な市場経済の真の効用は、自由契約であるがゆえに、「棲み分け」ができる点にあります。「棲み分け」ゆえに似たような価値観をもつ人たち同士での経済活動に特化が可能です。同時に、「棲み分け」ゆえに、極端な「俺様正義」を押し通そうとすれば、自分自身が競争淘汰される恐れがあるので、ある程度の「社会的枠内」に留めるインセンティブが発生します。
事実、「ワタミ」や「すき家」などは、極端な「俺様正義」(とくに渡邉美樹氏の珍妙なる哲学・・・)のために労働市場から淘汰されそうになり、あわてて労務改革に取り組んだ実例であったことは、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」で述べたとおりです(あれだけワタミ労組が頑張って要求運動を展開してきたのに、実際に会社側を動かしたのは、労働市場を活用する「勤務環境が改善されないなら辞めます」路線だったのです)。
また、本年10月10日づけ「秋山木工の徒弟制度――言いたいことは分かるが洗練されていない」においても述べたように、珍妙なる「働き方哲学」に洗脳を受けてしまい、それを当然だと思い込んでしまっている労働者のケースについても、いや、そうしたケースだからこそ、「辞める」ことを主軸に据えた作戦が必要です。
なお、従来の左翼的な要求実現型労組運動の立場を取らない理由については、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」や本年12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」などで述べました。簡単に言うと、要求運動は、自主化にとって逆効果になるのです。
■社員たちの労働自主化運動の展開を容認する寛容さを求めたい
「好きで仕事をやっている人に対しての労働時間だけの抑制は絶対に望まない」などと社員の声を「代弁」している松浦社長には、ご自身の主張の筋を通すという意味で、一人ひとりの社員が自分自身の労働環境を自主的に決定できるような環境整備、具体的には、社内の風通しをよくし、上下関係を威圧を排し、勤務環境に関する労使間の率直な意見交換を可能とする土壌を創り上げ、社員たちの労働自主化運動の展開を容認する寛容さを求めたいものです。
もし、松浦社長がそうした寛容政策を取ろうとしなかったり、あるいは、寛容政策をとった結果、社員から労務管理に対する反発の声が表明されるようになったとしたら、チュチェ102(2013)年6月3日づけ「ワタミは「ブラック」というより「急進左翼」」や本年10月11日づけ「長谷川秀夫教授はワタミと同じレベルの「急進左翼」――「時代」ではなく「その人自身」」で述べたのと同じ視点から、松浦社長がワタミの渡邉氏と同じレベルの「急進左翼」であり、エイベックスは「ブラック企業」ではなく「左翼結社」に他ならないということになるでしょう。所業は資本家でも思考回路が空想的左翼なのです。
ラベル:自主権の問題としての労働問題 社会