2016年12月29日

チュチェ105(2016)年を振り返る(1)――「ゲス不倫」はパートナー間の問題に留まらない

チュチェ105(2016)年も残すところわずかとなりました。近年は特に振り返り記事は書いてきませんでしたが、今年は一年の出来事を振り返り、補足的に論じる機会を設けることにしました。正月3が日くらいまで足が出る気もしますが、ボチボチ書いてゆきます。

当ブログは特殊な話題を取り上げるブログですが、振り返り第1号は「世間寄り」の話題として「ゲス不倫」について取り上げます。とはいっても、この話題を正面から取り上げた記事は、わずかに4月3日づけ「不倫擁護の精神的貧困――不倫は「信頼に対する裏切り」に過ぎぬ。不倫に反対する若者は、「反体制」を気取るエスタブリッシュメントの放縦に反対している。」だけでした(すこし触れる程度なら、もう少しある)。

■社会的人間の本質である信頼を裏切る反社会的性格の人物の存在は社会的脅威
上掲記事では、筆者の田中俊英氏の「ロマンティクラブ・イデオロギー(男女の二項対立に基づく伝統的恋愛観や恋愛行為を支える思想)に裏打ちされた異性愛とその制度化(結婚)を疑わないという姿勢を受け入れていれば、不倫が不倫として悪いものになる」という主張、つまり不倫を「社会規範・価値観の相対的な問題」とするピントのズレた主張に対して、私は、「不倫は信頼に対する裏切りであり、信頼は社会的人間の本質である」「社会的人間の本質である信頼の裏切りを許容する社会規範は存在しない」としました。また、現代結婚制度に反対し、事実婚形態を固守する「狂信的左翼」ですら、「人間同士の愛と信頼」は譲らないという実態についても補足的に述べました。肉欲・動物的本能に走り、社会的信頼を損なうような人物は信用に値せず、そうした反社会的性格の人物が、我々の市民社会で生活していることは、脅威以外の何者でもありません

■社会的信頼の本質は予想可能性
「人間も動物じゃないか!」という「反論」もあるかもしれませんが、尚も本質を見誤っている底の浅い「反論」です。人間も動物であるという指摘自体は正しい指摘です。たとえば、ふだん「家族愛」や「友情」を誓い合っている関係であったとしても、著しい飢餓の状況下では、動物的本能剥き出しの食料争奪戦が起こることでしょう。しかし、飢餓状態は一瞥しただけで客観的に状況が分かる事態であり、そうした状況下での食料争奪戦は十中八九起こるであろう事態です。「予想がつく」事態です。

他方、パートナーがいるにも関わらず別の魅力的人物が現れた場合に、パートナーの信頼を取るか、不倫に走るかというケースは、飢餓状態のように一瞥しただけで客観的に状況が分かるようなものではなく、不倫に走るかどうか一概には言えません。食料争奪戦とは異なり、「予想がつかない」事態です。

社会的信頼の本質は予想可能性です。客観的に明々白々の状況下での我利我利亡者的行為と異なり、気分次第で信頼を守ったり裏切ったりするような人物は、やはり信頼には値しないのです。家族との信頼関係を損なうような人物が、それ以外の赤の他人同士の関係である市民社会で信頼に足る人物であるとは到底思えません。行動に予想可能性がありません。その点において、不倫はパートナー間の問題に留まらないのです。

■隔離空間内部の特殊原理とは棲み分けつつも、旗幟鮮明に反対しなければならない
「それなら、ヒッピー・コミュニティのような特殊原理に基づき統合している集団が閉鎖・隔離空間の内側で勝手にやっている分には構わないのではないか?」というご意見もあるかもしれません。これについても述べておきたいと思います。

私は以前から繰り返し述べてきている通り、棲み分け論者なので、率直に言ってしまえば、隔離空間の内側だけで勝手にやっている分には積極的に干渉しようとは考えていません。しかしながら、市民社会として、そうした特殊原理に対する立場は、主として対内的に、旗幟鮮明に反対を表明しておかなければならないと考えています。

サザーランドの犯罪(反社会)行動の分化的接触理論によります。すなわち、犯罪的・反社会的行動は、社会的に一般的な生活から分化した「犯罪文化」に直接・高頻度に接触し、その価値観・手口を学習することによって、生み出されるというものです。犯罪文化空間で学んだ犯罪的価値観を、一般市民生活に持ち込むことが犯罪行動の始まりなのです。

不倫に走る人格は信頼に足らぬ人格であるとは言え、それ自体が第三者に対して直ちに被害をもたらすものではありません。その点を以って「直接被害を受けているわけでもない第三者が、他人の家庭の不倫問題に首を突っ込むべきでない」という主張もあるかもしれません。しかし、分化的接触理論に基づけば、直接的被害を受けていないからといって、反社会的行動に対して黙って傍観していることは不適切なのです。「対岸の火事」としてはならないのです。私自身は昔から小うるさいことは嫌いな性質で、学級委員の風紀指導は本当に嫌いだったのですが、人間同士の信頼関係を本質的な基礎とする我々の市民社会を守る上では、ある種の「風紀」の重要性は認めざるを得ないのです。

■改めて振り返り、まとめる
ここで改めて4月3日づけの記事を振り返れば、不倫を「社会規範・価値観の相対的な問題」とした田中氏は、ご自分たちの特殊原理空間でそれを実践している限りであれば何も問題はありませんでした。しかし、単なる価値観ではなく信頼関係を本質として成立している社会的人間同士の市民社会に、その特殊な統合原理を持ち込んだことが根本的な間違いだったのです。

なお、多忙な時期と重なったために記事として取り上げる機会はありませんでしたが、ゲス不倫問題をめぐっては、ある心理学者が「わざわざ他人の不倫に首を突っ込んで批判する人物は、無意識の内心では自分自身に不倫願望があることの裏返しである」と指摘していました。この機会にこの言説についても言及しておきたいと思います。

率直に言ってしまうと、そうなのかもしれません。何と言っても「無意識の内心」なのですから。しかし、これもまたピントのズレた言説です。多くの人は、それでも自省しているからであります。

「xx君だって〜〜しているのに!」という言い訳が「オマエは小学生か」と突っ込まれるのに、「xx君だって内心は〜〜したがっている!」では、「小学生」未満です。この「擁護」論では、当人の自制心のなさ、社会的信頼ほ軽視する人格が際立つだけではないでしょうか?


次回以降は、労働問題や社会政策に関する1年間の動きを総括します。
ラベル:社会
posted by s19171107 at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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