■「貧困女子高生うららちゃん」騒動を振り返る――論点のスリカエとコジツケ、開き直りに終始したNHK「擁護」論者たち
「福祉国家論」のタグを付与している記事を読み返すと、夏季に大きな話題になった「貧困女子高生うららちゃん」騒動について継続的に取り上げてきたことが分かります。NHK取材班が、貧困問題の告発としては不適当な人物を強引に・コジツケ的に取り上げたがゆえに始まった炎上案件に対して、甚だしい論点のスリカエやガン無視、果ては開き直りまで横行する始末でした。
・8月22日づけ「「貧困女子高生」騒動を巡って、怪しい面々が悪質な論点ずらしを含むNHK「擁護」論を繰り出してきた!」
・8月29日づけ「「価値観抜きの相対的貧困」などあり得ない――概念の悪用よって復活する悪平等としての「共産主義という名の亡霊」」
・9月4日づけ「「嫉妬」されないために、支出の優先順位をつけましょう」
また、思い込み・コジツケ・レッテル貼り、要するに「脳内補完」に溢れた「啓蒙指導」を展開した結果、まるで擁護になっていない「援護射撃」も見られました。自称擁護論者が口を開くたびに墓穴を掘りまくっていたのは壮観でした。
・8月30日づけ「自分を客観視できないジャーナリスト」
・9月3日づけ「相対的に見るからこそ「貧困」とは言えず「普通」レベル――ムラ社会的な集団主義メンタリティーだからこそ生活水準の比較に敏感な日本人」
騒動がすっかり鎮静化した12月に入ってからも、池上彰氏がフジテレビ番組中で悪質な印象操作の一環として本件を取り上げ、再度炎上したのは、読者諸氏に於かれてはご記憶に新しいことかと存じます。
・12月17日づけ池上彰氏、フジテレビ特番で「日本の格差の深刻さ」を珍妙なるグラフと理論で指摘
■NHK「擁護」論者たちの観念論者っぷりが明々白々に証明された
脳内補完を基礎とする啓蒙――いまに始まった話ではない社会政策界隈の基本的習性ですが、労働問題を含む社会政策全体に注目が集まった本年では、いつにない炎上案件となってしまったのでしょう。
9月3日づけ「相対的に見るからこそ「貧困」とは言えず「普通」レベル――ムラ社会的な集団主義メンタリティーだからこそ生活水準の比較に敏感な日本人」で特に強調したとおり、日本人はムラ社会的な集団主義メンタリティーを持っているので、他人との生活水準の比較には敏感です。「一般庶民はワンコインランチで我慢してるのに、うららちゃんは普通でも中々出来ない贅沢を躊躇なく行っている」というフェイスブック上で採取したコメントは、本件炎上の核心部分を的確に抉っていました。このことは、そうした世論を踏まえずに手前勝手な理屈を延々と展開し、それゆえに墓穴を掘りまくっていた社会政策界隈が、いかに世論から遊離していたのか、「日本人のムラ社会的集団主義メンタリティーという現実」から出発していない観念論者っぷりが明々白々に証明されたことを意味します。
また、数年前まではあまり注目を浴びることの無かった社会政策関連の話題が、かくも炎上したのは、逆に言えば、それだけ社会政策に対する関心が高まっているということになるのかも知れません。
■NHK「擁護」論者たちの非誠実なる人格が際立った
うららちゃん騒動の総括において湯浅誠氏は、「彼女の消費実態は「進学できない」という番組の中心的要素に比べて枝葉の問題なので、とりあげなかったことも問題ない。だから「ねつ造」という批判は当たらない」などと述べて、開き直りました(9月4日づけ記事収録)。それに対して私は、上掲12月17日づけ記事において、「格差・貧困問題に警鐘を鳴らすのはまったく正しいことですが、「目的のためなら、すべてが正当化される」という姿勢は困るんですよ。それを許す政治過程は独裁に転落しかねないし、それ以前に、こういうことを続けると「あーまた格差、貧困ネタ? どこまで本当なんだか」という空気になりかねません」としました。うららちゃん騒動は、社会政策界隈の世論からの遊離という事実、「日本人のムラ社会的集団主義メンタリティー」という現実から出発していない観念論者化という事実を証明したのみならず、「目的のためなら、すべてが正当化されるか否か」という誠実さの試金石でもあったといえます。
その意味では、うららちゃん騒動で無理筋な擁護論を展開していた連中は、観念論者かつ非誠実なる人格であったと言わざるを得ません。
■観念固執とレッテル貼り――ー北欧諸国の成功例を伝えることは「経団連・自民党の新自由主義的宣伝」?
「レッテル貼り」に関しては、ちょうど今日もあったばかりなので、触れておきましょう。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161230-00048838-jbpressz-bus_all&p=1
>> 電通を血祭りに上げても労働者は救われない池田信夫氏が北欧福祉国家を、まったく正しく評価している・・・明日はドカ雪大晦日かと思うような展開ですが、意外と池田氏はこういう「柔軟」(風見鶏?)なところがあって、見ていて面白いお方です。
JBpress 12/30(金) 6:15配信
(中略)
■ 失業で「人生をすべて失う」社会
過労自殺でいつも議論になるのは「自殺する勇気があるなら会社を辞めればいいのに」という疑問だ。それはどう考えても不合理だが、日本では会社を辞めることが人生の終わりだと思う人が多い。
日本の自殺者は年間約2万5000人だが、その1割は「勤務問題」が原因だ。自殺率が急上昇したのは1998年で、35%も増えた。この年は北海道拓殖銀行、山一証券の破綻に続いて、日本長期信用銀行や日本債券信用銀行などの破綻があり、企業倒産件数も負債総額も90年代で最悪になった。
失業で自殺が増えるのは当たり前だと思いがちだが、スウェーデンでは1992年の金融危機で失業率は2%から10%に激増したが自殺者は減り、その後も減り続けている。北欧では失業給付が手厚く、職業訓練で転職を促進するなど、失業を前提にした制度設計ができているからだ。
自殺率の世界ランキング上位には、リトアニア、カザフスタン、スロベニアなど東ヨーロッパの国が多く、社会主義が崩壊した90年代には上位を独占した。社会主義国では、職を失うことが人生を失うに等しいからだ。
(中略)
このシステムの行き詰まりを、雇用規制の強化で是正することはできない。労働問題は組織の歪みの結果であって原因ではないので、長時間労働を禁止したら、闇のサービス残業や「持ち帰り残業」が増えるだけだ。民主党政権が「正社員化を促進する」と称して派遣社員を規制強化したら、パート・アルバイトが増えた。
根本的な原因は、日本の資本市場や労働市場が機能しないために新陳代謝がきかず、広告代理店やマスコミのような未来のない会社がいつまでも残ることだ。労働者を救うためには、中途退社や中途採用を自由にし、会社を辞めても人生の終わらない社会にする必要がある。 特に戦時体制から変わらない労働行政を、失業や転職を前提とした制度設計に改めることが重要だ。労働者が「一家」のために働いて「お国」のために死んで行く時代の制度設計を21世紀に続けることはできないし、続けるべきではない。
池田 信夫 <<
当ブログでは以前から指摘しているように、北欧諸国では、産業の新陳代謝を促進させるため、傾斜産業への補助金延命措置やマクロ的規制を行わず、むしろ積極的なミクロ的競争政策を推進している反面、一人ひとりの勤労者・生活者の暮らしを守るため、池田氏が触れているように、ソーシャル・ブリッジの構築に注力しています。チュチェ102(2013)年8月18日づけ「「小泉改革」を克服した新しい改革を」でもご紹介した、スウェーデン元財務相のヌーデル氏の発言を以下に再引用します。
http://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/other/pdf/5292.pdf
>> ソーシャルブリッジという概念の3つめの側面は、就業人生への復帰です。旧来型の規制と保護の時代は既に過去のものになっており、好むと好まざるとに関わらず、市場活用型の社会政策が現実的必要性を持つ時代になりつつあります。
仕事に長い間就いていない人たちは、もう一度就職をするにしても、それに必要なスキルを失っています。この人たちに、就業に必要な求められるスキルを身に付けさせるには、積極的労働市場政策によって、労働市場への再参入を支援することが必要でしょう。従って、失業者には、新しい職を探すための手助けと再訓練の機会が与えられなければなりません。わたしたちは、OJT から学校教育までさまざまな機会を提供しています。重要なのは、高失業率がそのまま受け入れられるような風土を作らないことです。
既に申し上げたように、ここでの考え方は、人を守るということです。雇用を守るのではありません。フランスやドイツにあるような法律は、私たちにはありません。そういった法律は、産業が消滅してしまいますと、かえってコストを高めてしまいます。一方、私たちは、その産業を生き残らせるためにお金を提供するのではなく、個人が自分の身を守るために使えるお金を提供するという考え方です。競争が激しくなることによって自分の働いている会社が例え倒産したとしても、自分の人生は揺るがないのだという自信を人々に持たせなければなりません。
つまり、ソーシャルブリッジは、古い、競争力をなくした仕事から、新しい競争力のある仕事に人々を移らせるためのインセンティブにならなければならないわけです。スウェーデン人が変化を好んでいるのかといえば、それは全くのうそになります。スウェーデン人は、変化を好んではいません。しかし、ほかの国よりも変化を受け入れる大きな土壌が多分あるでしょう。 <<
にもかかわらず、そうした時代の変化について行っていないばかりか、レッテル貼りに走る言説がなおも見られています。コメ欄。
>> no_***** | 2016/12/30 11:13北欧諸国の実績を単純にコピーすればよいものではなく、必ず、我々日本人が主体的な立場に立って政策を吟味しなければならないのは当然です。しかし、いったい何の根拠があって、既に北欧諸国で実績のある方法論に対して、こうしたレッテルを貼るのでしょうか?
JBpressは新自由主義で経団連と自民党のために、労働者解雇自由化社会をつくろうとしている。
そのために電通を守り、雇用規制を緩和させようとしている。
つまりは嘘記事です。 <<
旧型階級闘争系の人たちを中心に、いまも市場活用型方法論にアレルギーを見せる人たちは存在します。そうした時代遅れな手合いなのでしょうか? うららちゃん騒動での擁護者たちは観念論者でしたが、このケースでは「観念固執論者」の姿が見え隠れしています。
■観念に固執する「老害」たちのせいで社会政策の前進が妨げられた1年における数少ない吉兆
こうしてみると、今年の社会政策界隈は、社会的注目度があがっている好機であるにもかかわらず、観念に固執する「老害」たちのせいで、新しいステージに上がりきれなかった残念な年であったように思えていきます。しかし、11月18日づけ「「過渡期」に差し掛かった福祉政策・労働政策・社会政策界隈――脱啓蒙主義へ」は、数少ない吉兆でした。
上掲記事は、生活保護制度を巡って脳内補完・啓蒙主義的言説を展開してきた、みわよしこ氏の署名記事です。しかし、みわ氏は上掲記事で、なんと、「就労によるメリットに若干の手当をしたところで「働いたら損」となる状況は変わらない」という、生活保護バッシングに対する核心的批判の論点を正面から受け止める姿勢を示しました。典型的な脳内補完・啓蒙主義者であれば、こうした場合、ひたすら「人権」というキーワードを連呼するのに終始するのにも関わらず!
よい意味で衝撃をうけて興奮していた私は「ようやく、福祉政策・労働政策・社会政策界隈にも、世論の不満を汲み取り、制度的改善を模索し始めるという質的進歩の波が波及し始めているのでしょう。「過渡期」に差し掛かっているのでしょう。」とした上で、次のようにも述べました。
>> これを機に、ベーシックインカムや負の消費税といった具体的政策の問題や、あるいは、北欧福祉国家を支える「自立を尊ぶ政策・制度と、それを支える思想」への探究も進めていただきたいものです。以前から取り上げてきているように、北欧諸国はすべて小国であるために「福祉が充実している」とはいうものの、「国民を福祉で食わせつづける」などということは到底不可能であり、福祉を通じた自立・自活を強く求められる制度設計になっています。また、そもそも個人主義的な思想文化の国柄ですから、「お上が食わせる・お上に食わせてもらう」という観念でもありません。日本の社会政策界隈は、「北欧福祉国家はこんなに上手く行っている」などと言って、その制度的概観だけを安易にコピーして日本に輸入しようと試みますが、まちがいなく失敗するでしょう。自己満足の世界から少し足を踏み出しはじめた「過渡期」に、ぜひとも学んで学んでひたすら学んでいただきたいものです。 <<
みわ氏が見せた吉兆が、来年以降どのように開花してゆくのか。来年も社会政策界隈からは目を離せません。