毎週水曜日のYahoo!JAPANトップページでは、恋愛に関する過去のYahoo!知恵袋での質問が幾つかピックアップされ、掲載されます。この手の話題は、私も人並みには興味があるし、話の種にもなるので、ブログ執筆とは別にチェックしているのですが、「日本人の主体性の欠如は、ここまで来ているのか・・・」という意味で今回は注目しました。
今日は、滅多に使わない「日記じゃない雑記」カテゴリで、思うところを書き留めておきます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10160574025
「価値観を押し付けてくる彼氏に疲れました。」
要するに、交際に関して彼氏(3か月目)との意見が合わないことについての相談事(相談者は女性とのこと)のようです。彼氏側が「常識」という単語をつかって来るそうで、相談者・回答者ともに、「常識」という土俵にたって論じています。
恋愛にまで「常識」を持ち込むとはたまげました。恋愛沙汰は、好みの問題の最たるものであり、「常識」なるものに合わせなければならないものではありません。世間が何と言おうとも「嫌だから嫌」で構わないし、「そんなことを気にする方が嫌」でも構いません。好みが合わないなら袂を分かち、合う人同士で寄り合えばよい類いのものの典型であります。
その意味で、「常識」を振りかざす質問者の彼氏は根本的にズレていますが、それに対して、同じ「常識」の土俵に乗って質疑応答しているYahoo!知恵袋の連中も、本質的に言って、皆揃って同じ穴の狢であると言わざるを得ません。
そんなに「常識」だの「普通」だのが気になるのでしょうか? 合わせないと、自分自身の考えに自信が持てないのでしょうか? 好みの問題にまで「常識」や「普通」に合わせようと、他人の顔色をキョロキョロと伺い、他人の言動にビクビクするとは、深刻なる主体性の欠如と言わざるを得ません。
更に指摘しなければならないのが、皆、「常識」を論じているようで、よくよく読むと個人の感想を述べているに過ぎない点です。個人の私的意見を「常識」などとする論法は、「虎の威を借る・・・」の一種であり、これもまた主体性の欠如であります。
元の質問のケースについて言えば、彼氏側は「常識」という単語を持ち出さず、「俺は・・・と思う」と言うべきでした。それに対して彼女側は「私は・・・と思う」と返すべきでした。そして、他人の意見を求めるのであれば、常識云々ではなく、「皆さんはどうおもいますか?」と問うべきであり、回答者たちも「私もあなたと同意見」とすべきでした。本質的に「常識」の問題ではないのだから、そうした単語は一切使うべきではないのです。
好みの問題にまで「常識」や「普通」を持ち込む思考、実態においては単なる私的意見を「常識」などと言ってのける思考――日本人の主体性の欠如は相当に深刻と言わざるを得ません。
なお、この質問のケースそのものについて述べれば、質問内容を読む限りは、彼氏・彼女双方の考え方の溝は相当あり、歩みよりは難しいのではないかなと私は思います。互いに袂を分かつことになりそうですが、他方、互いに感性を同じくする次のパートナーは見つかるのではないかとも思います。それでよいのです。恋愛も「棲み分け」なのです。
仮に次のパートナーができなくても、そもそも好みの問題なのだから、無理する必要はありません。「どうしても・・・!」という場合であっても、依然として「常識」の問題ではなく、「どうしても手に入れたいあの人」との、一対一の人間同士の問題です。
本当に「どうしても手に入れたいあの人」ならば、自分自身が考えを改めることに苦はないでしょう。また、それ主体性の欠如には当たりません。定見なく風見鶏のように考えを変えているのではなく、「どうしても!」と思うもののために、守るべき価値観に優先順位をつけ現実の状況に自ら調整を試みること、変化する客体に対して、自らの意思であの手この手を尽くし、一部は諦めをつけ、重要なのものを獲得・維持してゆくことは、むしろ主体的であると言えます。いままでの考え・方法に固執することは決して主体的であるとは言えないのです。
思想における主体性の確立は、自らの人生の主人として自主的に生きる上で必要な健全なる思想意識の基盤です。正しく主体を立てる必要があると、思いがけないタイミングで改めて感じさせられた話題でした。
2017年01月11日
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