>> <生活保護>「受給は恥」思いつめた高齢困窮者の悲劇■統計データをつけておいた方がよい
毎日新聞 1/14(土) 9:30配信
少ない年金収入なのに、生活保護受給を「恥ずかしいこと」ととらえる高齢者が少なくありません。申請すれば受給できるはずなのに、なぜ頼ろうとしないのでしょうか。そこには制度を「施し」と捉える、悲しいほど真面目な国民性がありました。【NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典】
◇「生活保護をもらうなら死んだ方がマシ」
以前ほどひどくないにせよ、申請窓口で生活状況を根掘り葉掘り聞かれる状況は変わりません。
大学を卒業したばかりのケースワーカーや自治体職員に「家族を頼れないの?」「もうちょっと働けないの?」「なぜこんなに貯金が少ないの?」と聞かれます。理屈は通っていますが、若者の遠慮ない質問は、長く生きた人間の最後のプライドにグサグサと突き刺さります。
(中略)
また、困窮当事者には、保護されることを「恥ずかしい」と感じる意識が強くあります。私たちが、「生活保護で当面の危機を回避しましょう」「恥ずかしい制度ではありませんから」と提案しても、「いや、恥ずかしい制度ですよ。生活保護受けるぐらいなら、死んだ方がマシです」とか、「生活保護受けるようになったら人間終わりです」と言う人が多いのです。
(中略)
◇働けなくなったらすべて自己責任?
生活保護制度は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定する憲法25条の理念に基づいて運営されています。条件さえ満たせば、無差別平等に保護を受けることができます。困窮の原因は問われません。
にもかかわらず、制度利用に対するバッシングや批判は止まることがありません。私たちの意識のなかに、生活保護とは自立していない人が受けるもの、あるいは怠けていた人が受けるもの、計画性がない人たちが受けるものという感情があるのでしょう。
勤勉で真面目な国民性ゆえに、一生懸命計画的に生活してきた人ほど、保護を必要とする人たちを枠からの逸脱と見なす傾向が強いように思えます。私たちのような支援団体やソーシャルワーカーには、日本は過度に自立を求める社会、と映ります。その意識は保護を必要とする側も同じです。
私たちが一緒に生活保護を申請した70代の男性は、無年金状態でした。困窮していた彼はそれでも「ほんとに嫌だ。生活保護だけは嫌だ」と言い続けました。
「生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」と何度も尋ねるので、「こんな所得で貸してくれる銀行なんてないですよ」と言うと、今度は「じゃあサラ金から借りたい」と言います。「貸してくれるはずがないでしょう」と説得し、ようやく申請に行きました。
市役所のケースワーカーですら「こんなに困るまでがまんしなくていいですよ」と言うほどの困窮ぶり。男性は「ありがとう」と涙を流しながら申請書類を書きました。でも結局、自殺を図ってしまいました。
アパートに残された遺書には、「この年になってお国の世話になるのは本当に申し訳ない。だから命を断ちます」と書いてありました。ケースワーカーに聞いたところ、保護費を受け取りにくるたびに「ほんとに申し訳ない、申し訳ない」と頭を下げ、謝っていたそうです。
「早く仕事を見つけますから」と謝る男性に、「大丈夫ですから、もう見つけなくていいんです。年金だと思って暮らしてくださいよ」とケースワーカーが言葉をかけても、彼は「いやあ、私は年金を掛けてなくて、本当に自分の落ち度です」と、最後まで自罰的態度を崩しませんでした。
(以下略) <<
思い込み・脳内補完で構図を描き、物事を論じる藤田孝典氏が、ご自身の活動上の経験をもとに主張しています。もっとも、後述するように、藤田氏はどうしても「啓蒙」というスタイルからは脱することが出来ない(思い込み・脳内補完と啓蒙は高い親和性があります)ようですが。私を含めた公的扶助論に関心のある者からすれば、目新しい情報は特にありませんが、社会一般への広報という意味では幾らかの価値がある記事であると言えるでしょう。
ただし、こういったルポ的な記事には、「この事例は全体のうちで、どの程度の頻度で発生しているのか」という統計データを付けておいたほうがよいでしょう。広報目的であれば尚更です。統計が欠落したルポは不正な印象操作の典型的手口ですし、逆に、統計の欠如ゆえに「そういう例もあるのかもしれないけど、ごく一部でしょ? ギャンブル狂いの生活保護受給者は全国的にも事例が多い」といったふうに、「逆印象操作」になってしまう可能性もあります。
■要保護対象者の生き方の哲学に「指導」「啓蒙」しようとしなかったか?
それはさておき、藤田氏の経験に基づく本記事、特に引用部分の70代無年金状態男性のケースを読むと、藤田氏らNPO活動家やケースワーカー等の「支援」者たちが要保護対象者たちに、一種の「啓蒙」を試みていると言わざるを得ないようです。それも、人々が、それまでの人生でを通して積み重ねてきた生き方の哲学に対して、「あなたの生き方は間違っている」「福祉国家の生き方こそが正しいから受け入れなさい」と言わんばかりの「啓蒙的指導」の姿勢。よりによって精神的にも追い詰められている要保護対象者の生き方の哲学を否定し、「啓蒙」を試みるとは・・・一番やってはいけないことをやってくれました。
「生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」とまで言う自立自活志向が強い70代無年金状態男性に対して、あくまで「権利としての生活保護制度」を説く「支援」者たち――この御方はきっと、「『貰う』のは嫌だけど『借りる』ならいい」という考えの御方だったのでしょう。これは、男性が70年かけて培ってきた生き方の哲学でした。男性は、この生き方の哲学を支えに、人生の苦楽を乗り越えてきたのでしょう。生き方の哲学というのは、ヨソ者にとっては理解できなくとも、当人にとっては至宝であり、ヨソ者があれこれ指導できるような軽い・浅いものではないのです。生き方の哲学とは、当人の人格・人生そのものであり、自分史そのものであり、「こういう生き方をしたい」という自主的な願いそのものなのです。
であれば、「早く仕事を見つけますから」という、男性の生き方の哲学に基づく痛切な言葉に対して、ケースワーカーは「大丈夫ですから、もう見つけなくていいんです。」などと言うべきではありませんでした。幸いにして「『借りる』ならいい」という、ある意味で「柔軟」な哲学の御方だったのだから、たとえば、「仕事が見つかるといいですね。でも無理しないでくださいね・・・生活を立て直し、働いて社会に恩返ししようとする、そのお考えは本当に尊敬します」といった具合に返すべきでした。基本的に相手の生き方を否定しない言葉をかけるべきなのです。何か助言するにしても、生き方の哲学のコアはそのままに、「技術的」な助言の体裁とすべきなのです。
■「支援」者の「説得」が男性の心を折った
自殺した男性について「最後まで自罰的態度を崩しませんでした」などと振り返る藤田氏は、いまだに男性の生き方の哲学に対して「啓蒙」的な認識を持っているのでしょう。
おそらく藤田氏たちは、「説得」の末に男性が生活保護申請に同意したときは、「うまく考えを改めさせた」と鼻高らかだったことでしょう。しかし、そのとき、当の男性は、自らが人生をかけて形成してきた価値観が崩れたこと、たかだか30歳そこらの若造(藤田氏は結構お若い方です)の「権利としての生活保護」論にも反論できないほどの状況にあることに、内心では失望の渦の中にいたのではないでしょうか? 男性は、打ちのめされたような気持ちだったのだと推察します。
藤田氏らNPO活動家やケースワーカーたちが、本当に男性に寄り添った相談・説得をしていたのか、単なる「生き方の啓蒙」に過ぎなかったのではないか、甚だ疑問であります。
■生き方の哲学の問題に「意見交換」はあっても「指導」はない
藤田氏が「福祉国家の生き方」の立場に立つのは自由ですし、受け入れるかどうかを当人が選択できる決定権があるのならば、「他人に勧める」程度は問題ありません。しかし、「生きることの主人公」はあくまで要保護対象者自身であり、彼ら・彼女らひとりひとりの生身の人間には、人生を掛けて形成してきた、ヨソ者があれこれ指導できるほど軽い・浅いものではない、独自の生き方の哲学があるのです。これは、当人の人格・人生そのものなのだから、徹底的に尊重しなければなりません。
生き方の哲学について意見交換をもちかけ、あわよくば考えを変えてもらうにしても、長い時間をかけ、当人の生き方の哲学を十分に理解した上で、歩み寄るような形での妥協点を見つける方法論――上座から「指導」「啓蒙」とは決して相容れない方法論――を取るべきです。というよりも、当人が長い人生を掛けて形成してきた独自の生き方の哲学を変えるとなると、現実的な落とし所は「歩み寄るような形での妥協点」にならざるを得ません。相手にも考え方があり、特に生き方の哲学は、その人の「こういう生き方をしたい」という願いなのだから、それをヨソ者が一方的に「指導」「啓蒙」などできないのです。これは、生き方の哲学に限らず、世の中の多くの交渉ごとでよく見られる通常の「均衡点」です(普通に生きていれば分かりそうなものですが・・・よほど「指導」「啓蒙」ばかりの日々ってこと?)。
「最後まで自罰的態度を崩しませんでした」などとする藤田氏――あくまで自分の考え方が正しいと言わんばかり、「男性は最後まで誤った考え方に固執し、指導を受け入れなかった」と言わんばかりの言い回しを敢えて使う藤田氏が、どういう「相談」「説得」をしていたのか、なんとなく見えてくるような気がします。根底には「指導」「啓蒙」という意識があったと疑わざるを得ません。
■「言い方」の問題
藤田氏は記事冒頭で「若者の遠慮ない質問は、長く生きた人間の最後のプライドにグサグサと突き刺さります」などと、自治体担当者の「言い方」を取り上げています。これはこれで正しい指摘ですが、それを言うのであれば、ご自分たちが男性に対して相談・「説得」を行っていた時の「言い方」もまた、当人の生活感情・価値観を踏まえた言い方だったのかという自省が求められます。
「でも結局、自殺を図ってしまいました」などと、「現代福祉国家残酷物語」風に総括している場合ではないのです。
本当に根がマジメな方が、それゆえに自殺を選択してしまうのは本当に心が痛みます。同時に、「説得」を装った「啓蒙」に終始する自称「支援」者たちへの怒りを禁じえません。人間は単に衣食住の充足だけではなく、「自分の生き方の哲学に対して自主的に生きているのか」という要素もまた衣食住と同等に重要です。生活保護問題は、生き方の問題であり、自主の問題なのです。
藤田氏のように、「人権」や「権利」以外のボキャブラリーが乏しく、「論敵」に対しても「我々側」に対しても「啓蒙」というスタイルしか取れない人物は、結局、「ぼくが かんがえた りそうの せかい」を人々に教育・指導することにしか関心がない「前衛党」型メンタルなのでしょう。私にも実体験があります――批判や懸念を一顧だにせず、「学習不足」だのと指導してきたり、ときに根拠のない中傷まがいのストーリーを脳内でデッチあげる・・・もっとも、データを挙げて反論したり、福祉問題であれば「北欧福祉国家の実績」に言及すると、支離滅裂なことを口にしたり、沈黙するものです。
こういう連中こそが、自主の問題としての福祉にとっての最大の障害物です。「我々側」に対しては、当人の気持ちに寄り添っているわけではないので、どうしてもピンボケになるし、「論敵」に対しても、その疑問に正面から応答しているわけではないので、主張は平行線を辿り、まったく説得にならないのです。
私の個人的経験について述べます。かつて、福利厚生制度を企画・議論していたとき、制度の根底をひっくり返すような指摘を受けました。誤解の典型のような言い分だったものの、ありがちな指摘だったので、「これはキチンとお答えして、ご理解いただかなければならないね」とチームを挙げて準備していたところ、いわゆる「上から目線」で他人を教育・啓蒙するのが大好きな、有名な「困ったさん」が「権利に対する理解が足りていない! こんな言い分は相手にする必要はありません!」と吠え出しました・・・
幸いにして我がチームは総じて、意見のすり合わせを重視する人たちだったので、最終的にはキチンとしたお答えを準備できたのですが、「困ったさん」は別チームに移った後に「前衛党メンタル」丸出しで大暴走し、とんでもないトラブルを起こしていました・・・もし、あのとき「困ったさん」が我がチームの主導権を握っていたら、議論は平行線を延々と辿り、大混乱のうちに企画は頓挫していたことでしょう・・・
■制度設計の問題として
観点を変えて、制度の問題について考えましょう。藤田氏は「日本は過度に自立を求める社会、と映ります。その意識は保護を必要とする側も同じです」などとしますが、これは制度設計の問題です。
「生活保護以外の制度は? お金を貸してくれる銀行はないの?」という言葉に代表される、マジメな日本人の自立自活に対する強い思いは、一方においては「悲劇の元凶」ですが、他方においては「優れた国民性」です。本当に支援が必要な人に対して扶助することは当然ですが、皆がみんな他力本願になってしまっては社会が成り立ちません。
以前から繰り返し言及しているように、「北欧福祉国家」と呼ばれる国々は、社会福祉サービスの提供と自立プログラムがセットになっています。「福祉にぶら下がる輩」を制度として防止しなければ、際限がなくなってしまうのでしょう。「上手な制度設計」とは、正にこのことを言います。
日本でも、「福祉にぶら下がる輩」はたびたび問題として取り上げられますが、総じてモラルは高く、国民の自立自活志向は強いと言ってよいでしょう。であれば、「貰う権利がある」ではなく、「生活を立て直し、後日、納税等、何らかの方法で社会に恩返しすればよい」という位置づけを前面に出し、優れた国民性に訴え、さらにそれを基本にした制度設計を行えば、一方において悲劇を防ぎながら、他方において「福祉にぶら下がる輩」をも防ぐことができるでしょう。
制度設計の問題は、また改めて論じます。