>> 残業時間の上限規制<80時間>が検討されていることについての注意点個人に粘着しているつもりはないのですが、またしても佐々木弁護士です。典型的な主張を積極的に発信なさっているので、どうしても取り上げる機会が多くなってしまいます。
佐々木亮 | 弁護士・ブラック企業被害対策弁護団代表
1/25(水) 9:36
(中略)
とはいえ、じゃあこんな規制は要らないのか?といえば、そうではないでしょう。
現在の野放し状態を少しでも規制する方向であれば、少なくとも労基署などの行政が動ける「幅」が広がるので意味がありますし、こうした規制をすることで、各企業が法に違反しないよう努力が進むことも期待できます。
もっとも、注意すべき点として、2点あります。
これをゴールとしてはならない
1つ目は、政府はこの規制を入れて満足してしまうおそれがあります。
しかし、長時間労働対策は上限規制だけでは不足です。
この規制は内容からしてもゴールであってはなりません。
より短い上限となるように、少なくとも「何年以内に○○時間とする」という目標を掲げてもらいたいものです。
80時間の規制を入れたのでおしまい、では困ります。
また、上限規制のほかに、終業時刻と次の始業時刻との間に一定の時間を空けるインターバル規制も必要です。
こうした規制は、企業の自主努力に任せてしまうのではなく、法制度として導入していくことが必要です。
そして、規制を設けることで働く現場にしわ寄せがくることも防がなくてはなりません。
これが一番の難題なのですが、使用者側の努力と覚悟が問われます。
ここで、この新たな法規制が機能するよう、行政がしっかり動けるように、労働基準監督官の純増が必要です。
純増ですので、名目だけ増やしてもダメです。
残業代ゼロ法案とセットにしてはならない
2つ目の注意点は、政府がこの上限規制を、現在出している労働基準法改正案と抱き合わせにしてくる可能性があることです。
しかし、現在出されている法案は労働者側から「残業代ゼロ法案」と呼ばれる内容であり、長時間労働を誘発するものです。
新たな規制とは全く方向性が異なります。
これを抱き合わせにして、その成立を迫ることなど絶対に許されません。
(以下略) <<
昨今の政府・自民党主導の「働き方改革」「残業規制」について「注意点」を指摘しています。相変わらず社会・経済構造の本質を見誤り、権力的・制度的規制の効果予測を誤り、ブルジョア「博愛」主義的な甘さと思い込みで論じていらっしゃいます。
■労働時間が権力的に短縮を強制されたときの二通りの方法
労働時間が権力的に短縮を強制されたとき、従前の売り上げ・利潤を維持するためには、資本・企業側には二通りの方法があります。一つが「労働力の追加投入による投下労働量の増加」であり、もう一つが「労働密度の強化による投下労働量の増加」であります。そして今回、政府・自民党が推進するような「残業規制」においては、どちらの方法を選ぶかは、資本・企業側の判断に一任されます。
一般的に考えて、資本・企業側は、「労働密度の強化」を選択することでしょう。労働力を追加投入するということ、平たく言えば「人を増やす」ということは、「固定費の増加」に繋がります。資本・企業側としてはなるべく避けたいものです。仮に人員を増やさなければならないケースであったとしても、派遣労働者を筆頭とする非正規労働者であれば、固定費の増加にはならないので、そうした選択肢を選ぶと考えられます。
■労働時間が生産方法・生産技術的に規定されているケース
また、生産に必要な労働量・労働時間(産業への要素投入)は、経営判断だけではなく生産方法・生産技術的に規定されているケースもあります。労働集約型産業に資本を大量に投下しても上手くは行かないだろうし、知識集約型産業に労働力を大量に投入しても、「分かっていない人」を増やすだけでしょう。
ソフトウェア開発のプロジェクト・マネジメントにおける、いわゆる「ブルックスの法則」は、生産方法・生産技術が必要労働量・労働時間を規定している事実を考える際には重要です。これは、長時間労働だからといって単純に人員を増やせば良いというわけではなく、それどころか"Adding manpower to a late software project makes it later."(遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加は、プロジェクトをさらに遅らせるだけだ)という格言のとおり、人員の追加投入が労働時間短縮にとって逆効果になるという法則的な指摘です。「1人の妊婦が9か月で赤ちゃんを出産できても、9人の妊婦が1ヶ月で赤ちゃんを出産することはできない」という端的な喩えでも言い表すことができます。担当業務を分割して皆で手分けして取り掛かることが困難だという意味です。
長時間労働の代名詞のようなIT産業において、なかなかそうした実情が改善されない、それどころか、デスマーチを行った(行わせた)にも関わらず、結局、納期・品質水準を守れず、半ば投げ出すような形でプロジェクトを中止させ、企業の評判をガタ落ちにさせ、経営を傾けさせるに至る事態は未だに横行しています(従業員の使い潰しを是とする企業はあっても、自社の評判を落とし、経営を傾けさせるのを是とする企業はありません)。更に言えば、プロジェクトによって労働時間に極端なまでに差(同じ開発会社でも、毎日定時あがりの部署と毎日午前様の大炎上部署が並存しているのはザラです)があるものです。
そうした一因は、IT産業が生産方法において知識集約型産業であるがゆえに、「ブルックスの法則」が当てはまってしまうからだと言われています(事前に必要工数を正確に予測できればよいのですが、知識集約型産業であるがゆえにプログラマー・エンジニアの個人的な属人的スキルに左右される部分が大きいので、なかなか予測が立てにくいものです)。
【「ブルックスの法則」の詳細については、2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果」で詳しく論じましたので、あわせてご覧ください。】
長時間労働問題の解消を試みるのであれば、必ず、(1)「生産に必要な労働量・労働時間は、経営判断だけではなく生産方法・生産技術によっても規定され得る」、そしてそれゆえに、(2)「人員を増やせば解決するわけではないケースもある。それどころか、人員の追加投入が労働時間短縮にとって逆効果になるというケースがあり得る」という論点をも踏まえて考えなければなりません。上掲ウィキペディアページの「そのほか分野への適用」の一節――人員を増やせば良い産業と、そうでない産業があるということ――は、特に重要な指摘です。
避けては通れない論点であるにも関わらず、「労働者側」を自称する労働運動界隈の人々から、こうした指摘を見たことがありません。
■「残業規制」は、労働生産性向上を目指すことによって「相対的剰余価値の搾取」の時代を切り開く
「残業規制」の効果は、マルクス経済学で言うところの、労働時間の際限の無い延長による「絶対的剰余価値の搾取」の時代から、労働密度の強化による単位時間当たりの労働生産性の向上を目指す「相対的剰余価値の搾取」の時代を切り開くという予測に至ります。また同時に、固定費の増加を極力回避するために、派遣労働者を筆頭とする非正規労働者への需要が増えるという予測にも至ります。
マルクスが指摘しているように、絶対的剰余価値の搾取も相対的剰余価値の搾取も、搾取という点においては相違ありません。むしろ相対的剰余価値の搾取のほうが、より人間性を破壊されるものです。
なお、「相対的剰余価値の搾取」と「賃金未払い」は、まったく異なります。相対的剰余価値の搾取は、賃金をキチンと支払った上で行われる行為です。時給1500円の労働者が1時間当たり3000円分の価値を産出している(材料費他を便宜上無視すれば、企業利潤は1500円)ところ、労働密度強化によって1時間当たり4000円分を産出するように指示しつつも、時給を据え置くような場合(同様に企業利潤は2500円)、増分の1000円こそ「相対的剰余価値」になります。
■労基が相対的剰余価値の搾取を取り締まることは困難
佐々木弁護士は労働基準監督署・労働基準監督官について「行政が動ける「幅」が広がるので意味があります」とします。しかし、労基は絶対的剰余価値の搾取については取り締まれるものの、相対的剰余価値の搾取を取り締まることは困難です。「絶対的剰余価値の搾取」すなわち「労働時間の際限の無い延長」は、「時間」という動かしがたい客観的指標が焦点であるがゆえに、権力的取締りが容易です。しかし、「相対的剰余価値の搾取」すなわち「労働密度の強化」というものは、マルクスが『資本論』で言及しているように、知覚しにくく、それゆえ、権力的にも取り締まりにくいものと考えられるのです。相対的剰余価値の搾取が主体となる時代においては、労基的取り締まり方法は一層、困難になることでしょう。
政府・自民党が繰り出す昨今の「残業規制」に対する理論的備えが、佐々木弁護士の言説には決定的に欠如しています。
■労働密度の強化に関する問題は、結局のところ、取引中止という意味での「辞める」に行き着く
労働密度の強化に関する問題は、結局のところ、賃金・労働環境に関する労使交渉に行き着き、そして取引中止という意味での「辞める」ということを必然的に論題にします。当ブログでは以前から、「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げて論じてきましたが、何よりも「転職環境の整備」が核心であり、そしてそれを補う形での「労使交渉」こそが、相対的剰余価値の搾取がメインとなってゆくであろう時代において、労働者一人ひとりの自主化にとって重要になってゆくことでしょう。
■総括
私自身は以前から述べている通り、現代社会・現代経済はシステムであると見ており、その意味において、二分法的な階級分析の立場には立っていません。しかし、それにしても、政府・自民党が推進し、大企業やその代弁者たちからも不気味なまでに持て囃される昨今の「働き方改革」「残業規制」に対して、「労働者側」が余りにも無邪気に飛びつき過ぎているように見えます。かつて「小泉構造改革」を支持していた連中が、最近は「いまの労働者の仕事には無駄が多い」だの「さらに生産性を向上させ、効率化を推進しなければならない!」だのという文脈で「働き方改革」「残業規制」を主張していることが分かります。ちょっとくらいは警戒しましょうよ。「高い生産性」という言葉に釣られてはなりません。それは「ブルジョワの利益にとっての生産性」です。
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2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果」
8月15日づけ「「人に仕事をつける」日本の働き方は「ブルックスの法則」が作用し易い」