2017年02月01日

「普通の小市民的生活」への願いが保護貿易主義に繋がっている;自由と公正を両立させたビジョンを提示する他ない

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170128-00010003-agora-bus_all
>> ノーベル経済学賞受賞者はトランプ反対を提唱せよ --- 中村 仁

アゴラ 1/28(土) 7:00配信

経済原則に逆行する「米国第一」

トランプ氏が新大統領に就任し、米国の政治、外交、経済の大転換を図ろうとしています。特に保護貿易主義への傾斜は劇薬で、これまでの世界経済の原理、原則に逆行します。米国人でほとんどを占められるノーベル経済学賞の受賞者は今こそ結束して、経済原理の基本を守るようトランプ氏に訴えるべきでしょう。


(中略)

ノーベル経済学賞は1969年に、自由主義的民主主義を前提にした学問的な業績を表彰するために、設けられました。授賞者のほとんどが米欧人、その圧倒的多数が米国人です。「貿易のパターンと経済活動の立地」(クルーグマン教授)や労働経済、資産価格形成など、トランプ氏の貿易、産業政策を批判するうえで、参考にできる研究業績はいくらであります。

世界経済の最大の軸は、「比較優位の理論」でしょうか。英国の経済学者、リカルドが1817年に「すべての国にはそれぞれ相対的に優位な産業がある。貿易によって、それぞれが最も得意な分野を生かせば、利益、収益を最大化できる」と、提唱しました。今年はそれから200年という節目の年に、自由貿易に障壁を設け、歴史の歯車を逆回転させようとしているトランプ氏に、警鐘を鳴らすべきです。


(中略)

トランプ氏は就任演説で主張しました。「工場が一つまた一つと閉鎖され、海外に移転され、取り残された何百万という米国労働者が顧みられることはなかった」、「われわれは米国の産業を犠牲して、外国の産業を富ませてきた」、「われわれの製品をつくり、職を奪うという外国の破壊行為から国境を守らなければならない」。ここには、比較優位理論に基づく自由貿易論の姿はありません。

ホワイトハウスで自動車業界首脳と会談した時は、こう発言しました。「製造業を国内に取り戻したい」、「もう一度、製品を国内で作りたい」、「日本に車を売る場合、彼らは販売を不可能にするような措置を取っている」。誤解と誤った認識に満ちています。これに対し、「米国内では既存工場はすでにフル稼働に近い」、「米側に競争力がなかったから、その製品が輸入されていたのだ」、「外国企業との競争がなくなると、価格が上昇する」などの反論が聞かれます。


(以下略) <<
比較優位論に基づく反トランプ政権論――目下の状況を捉えていない、悪い意味で経済「学者」・経済「評論家」的な主張です。

誤解がないようにまず最初に私の立場を述べておきましょう。以前から繰り返し述べているように、私は自由経済の支持者であります。現時点において、自由経済以外に現実的な経済システムは存在しないと確信しています。それは、「自主権の問題としての労働問題」を論じる――労働運動は往々にして「階級闘争」的な方法論が提示されます――に当たっても、ブレることのない基本方針としているところからもご理解いただけるものと思います(もちろん、比較優位論が前提とする仮定の現代的意義・現実性に議論があることも承知していますが、今回は捨象します)。

そんな私が、経済学の主流理論に沿った主張を「悪い意味で経済『学者』・経済『評論家』的」と言うのはどうした訳であるかというと、比較優位論に基づく自由貿易論が指摘する「貿易によって、それぞれが最も得意な分野を生かせば、利益、収益を最大化できる」という結論自体に、いまや疑問が投げかれられており、その価値が揺らいでいるにもかかわらず、そうした「挑戦」に対して答えず、「古い価値観」に基づく主張を繰り返している点にあります。経済「学者」・「評論家」が自明としてきた前提的価値観が揺らいでいるのです。

トランプ氏支持者の声が、ようやく日本国内にも届き始めています。それによると、トランプ氏を支持する「普通のアメリカ人」たちは、普通に働き、ごくごく慎ましい普通の小市民的生活を送ることを望んでいることが分かります。そうした「小市民的生活者」にしてみれば、利益、収益を最大化できる」ことよりも、「普通の小市民的生活」を求めていると言えるでしょう。

比較優位論は、あくまで国際収支的な意味での「利益」であり、GDPの問題であり、国際経済学・国際マクロ経済学の視点です。他方、トランプ氏支持者の視点は、あくまで小市民的生活者の視点であり、ミクロ的な視点です。国際収支上、国際貿易によってGDPがより大きくなると言っても、一人ひとりの生活者の懐が暖まらないのであれば、彼らにとっては関係のないことです。他方、保護貿易・移民規制がGDPを萎ませるとしても、一人ひとりの生活者の懐が「普通の小市民的生活」を送る上でより有用であるのならば、生活者としてはより望ましいものと言えます。

「それは一国の国内における分配の問題であって、国際貿易易の是非のせいではない」という指摘があるでしょうが、現在の自由貿易体制が、そうした「都合の良い話」を実現できていない事実は動かし難いと言わざるを得ません。もちろん、模索する動きがあることは承知しています。自由貿易への支持を明確にしつつも社会的公正への視点も怠らないクルーグマンの立場と研究は、そうした動きの中に位置づけることができます(私もこの立場です)が、やはりまだ成功を収めているとは言えません。他方、いつまでたっても果たされない「自由と公正の両立」ではなく、移民を規制し、身内共同体の枠内でやってゆくというビジョンに現実的な魅力を感じるのは、無理のないことです。日々の生活を送る生活者は、中長期的なビジョンを「悠長」に語っているほど暇ではないのです。

これはアメリカに限ったものでありません。ネトウヨや排外主義者のことではありません。チュチェ105(2016)年2月7日づけ「「なぜ共産党は嫌われているのか?ー設立から振り返る」に、ここ15年の新事情を付け加える」においても述べたように、昨今は日本においても、左翼勢力を中心に、こうした主張への共感が広がってしまっています
>> 伝統的に日本左翼は、たとえば教育現場での「順位づけ」を否定してきたように、競争を否定的に捉える傾向にありました。そうした傾向を保ったままの状況において、近頃、「コモンズ」をはじめとした新しいミクロ的な共同体思想や、「定常社会」といった成長路線とは距離を置いた立場が注目されることが増えて来、そうした波に乗っかる形で日本共産党が自党の政策を位置づけ宣伝する場面がここ数年、とくに東日本大震災以降に見られるようになって来ました(まだ全党レベルの動向というよりは、下級組織レベルの動向ですが)。「地域の中小商工業者・農家が連合し、全国企業を排斥し、高い参入障壁と互助的産業保護によって経済成長は目指さずボチボチやってゆく」といった青写真、ムラ社会的・人民公社的な地域共同体の青写真といえば、私の言いたいことが伝わるでしょうか。 <<

また、少し脱線すれば、そもそも「一国の国内における分配の問題なのか」という問題もあります。「グローバリズムに対抗するためのインターナショナリズム」という立場から述べれば、一国の問題ではありません。「自由貿易推進」と、それに関する付属的諸論点は、いずれもグローバリズムの論点であり、インターナショナリズムではありません(ここを混同し、TPPを筆頭とする自由貿易的主張が、あたかも公正を実現させるものであるかのような主張が、朝日新聞などで展開されていましたが、本当に馬鹿なんじゃないかと思わざるを得ません)。

トランプ氏支持者がどういった生活を求めているのかという現実から出発せず、従来型の「理論」から出発する主張は、まさに悪い意味で経済「学者」・「評論家」的です。そもそも経済は生活の手段に過ぎず、生活というものは「どう生きたいか」という人生観の実践です。トランプ氏支持者が「国富の最大化よりも、一人ひとりの普通の生活」を望むのであれば、それは選択のひとつです。生活が主、経済は従――その逆は本末転倒であり、「自己疎外」です。

「普通の小市民的生活」への願いが保護貿易主義に繋がっている――自由と公正を両立させたビジョンを提示するしかありません。結局、「トランプ文化大革命」は、既存の制度や理論に対する「造反」なのです。そうであれば、古い理論の「啓蒙」ではなく、新しいビジョンを提示するしかないのです。
posted by 管理者 at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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