2017年03月17日

軽薄な人間観に基づく経済還元論、彼我断絶的な人間関係論による無理筋の不倫批判への「批判」

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170316-00162569-toyo-soci&p=1
>> 売れっ子芸能人が相次ぎ引退している理由

東洋経済オンライン 3/16(木) 5:00配信


(中略)

■漠然とした不安が広がっている社会で

 スキャンダルに対する人々の目もだんだん厳しくなっています。高度経済成長がとっくの昔に終わり、未来に希望を持ちづらい時代になってきました。将来への漠然とした不安が広がっている社会では、人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張ることにとらわれがちになります。

 芸能人にまつわるスキャンダラスな報道は、富と名声を得ている(と思われる)スターを地の底に引きずり下ろすためのゲームと化しています。だからこそ、芸能人同士の不倫など、本来ならば当事者以外には何の関係もないようなことでも世の人々は大げさに騒ぎ立て、バッシングの嵐を引き起こします。その結果、ターゲットになった芸能人は必要以上に精神的に追い詰められていくのです。


(中略)

ラリー遠田

最終更新:3/16(木) 12:09
<<
■程度の低い経済還元論まで持ち出してきた
ゲス不倫問題について、当ブログでは昨年12月29日づけ記事で基本的な見解を述べており、今回改めて付け加えることは特にありません。便宜のため、上掲過去ログの主旨を以下に抽出・再掲します。
・不倫は信頼に対する裏切りであり、信頼は社会的人間の本質である。
・家族からの信頼も気分次第で守ったり裏切ったりするような人物は信頼するに値しない。
・そうした反社会的性格の人物が我々の市民社会で生活していることは、脅威以外の何者でもない。
・社会的人間の本質である信頼の裏切りを許容する社会規範は存在しない。弁護の余地はない。
・サザーランドの犯罪行動の分化的接触理論に基づけば、仮に自分自身とは無関係な場所での出来事であったとしても、「対岸の火事」として傍観してはならず、旗幟鮮明に反対すべき。
・我々の市民社会の基本原理を揺るがしかねない「文化」については反対し、その侵入に警戒すべき。
・我々の市民社会が人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている以上は、その根本を揺るがすような性格の人物の所業は、たとえ「ヨソの家庭内問題」であったとしても、「対岸の火事」として看過してはならない。

筆者であるラリー遠田氏の言説は、程度の低い「擁護」論の域を脱していないと言わざるを得ませんが、上記引用記事を見るに、彼の主張は、いまどき化石のような教条主義的マルクス主義の経済還元論者でも言わないようなコジツケを展開している点、輪をかけて程度が低いと言わざるを得ません。

高度経済成長が終わったのはもう40年以上も前の話です(ラリー遠田氏が生まれる前)。バブル崩壊以降の「失われた時代」も、まもなく30年になろうとしています。日本経済は長く停滞を続けています。もし、日本経済事情が昨今のゲス不倫問題への批判の主たる要因であるのならば、この40年間おなじ社会構造が続いていたのだから、同じようなことがずっと繰り返されてきたはずです。しかし事実に即して述べれば、芸能界の不倫ニュースは昔から定番中の定番ですが、今のような取り上げ方をされるようになったのは、つい去年・今年の話です(ついでに言えば、芸能界の薬物汚染も昔から変わりませんし、はっきり言って芸能人がヤク中でも一般人の生活にはあまり関係ありませんが、最近のほうが世論が厳しいという点では、よく似ています)。

ここ最近俄かに注目を浴びるようになったゲス不倫問題への批判の主たる動機を、日本社会の長年の構造的状況である「高度経済成長がとっくの昔に終わった」ことに対して人々が「未来に希望を持ちづらく、将来への漠然とした不安が広がっている」からだとする理屈は、時間的に因果関係の論証に無理があり、あまりにも説得力がありません(まさか、高度経済成長が何年に終わったのか知らない?)。特に「高度経済成長」を持ち出すのは、無茶苦茶過ぎるのです。教条主義的マルクス主義の経済還元論者だって、もう少しマシな理屈をつけるでしょう。

■総体としての生活を経済活動・生産活動に還元する軽薄な人間観
ある社会現象を時代の風潮に結び付けて説明すること自体は間違ってはいません。それを否定することは「観念論」という他ないと思います。しかし、なぜそこで経済状況に還元してしまうのでしょうか?スターリン主義者の生産力主義、教条主義的マルクス主義者の訓詁学、ナンチャッテ左翼のインチキ理論の負の遺産が未だに根強く残る日本の悪しき状況です。

経済活動・生産活動が人間と自然の物質代謝であることは私も認めます。また、経済活動・生産活動が自己疎外を引き起こし得ることも認めます。しかし、あくまで経済活動・生産活動は生活の一局面に過ぎず、生活総体は決して経済活動・生産活動だけに規定されるものではありません。自己疎外はあくまで人類史における一時的事象であり、人民大衆の意識的運動がそれを打破してゆくわけです。経済還元論者が理論の前提とする、いわゆる「下部構造−上部構造の関係」は、相互作用的と見るべきです。

経済活動・生産活動に限定することなく社会一般の標準的な生活をトータルに見渡せば、たとえば「東日本大震災以降の絆重視の風潮においては、不倫=裏切りは最も唾棄すべきものだから、強く批判されるようになった」という理屈付けのほうが、まだ幾許かの説得力があるといえるでしょう(もっとも、東日本大震災は発生から3・4年目で既に「風化」が指摘されていたのですから、この理屈付けでさえ少しコジツケ気味ですが・・・)。

■「経済成長の終焉」は「閉塞感蔓延の始まり」ではない
ラリー遠田氏の土俵に敢えて上って、仮に「高度経済成長がとっくの昔に終わった」という社会的状況が、昨今のゲス不倫問題への批判の要因だとしましょう(万に一つもないと思いますがね)。それでもなお、「未来に希望を持ちづらい時代」という分析は飛躍している(皆が皆そのように捉えるとは限りません)し、まして「将来への漠然とした不安が広がっている社会では、人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張ることにとらわれがち」という結論には直結しません。ラリー遠田氏は時代の流れを読み違えているだけでなく、論理を飛躍させてもいるのです。

高度経済成長がとっくの昔に終わった時代」イコール「閉塞感が蔓延する時代の始まり」とは言えません。低成長時代は見方を変えれば、「右肩上がりの時代が終わり、経済的自己利益の追求に限界が見えてきたからこそ、いままで見落としていた経済以外の分野にも視野が広まるようになった時代」とも言い得るからです。

たとえば、朝鮮大学校政治経済学部教授であり、いまや朝鮮総連幹部に出世なさったハン・ドンソン氏の著作『哲学への主体的アプローチ―Q&Aチュチェ思想の世界観・社会歴史観・人生観』では、次のような、ラリー遠田氏のようなナンチャッテ左翼的な分析ではなく、ガチ左翼の資本主義分析が展開されています(同書113〜114ページ)。
>> (中略)歴史発展過程においては、経済生活、政治生活、思想文化生活が、つねに均衡的に発展してきたわけではありません。階級社会の搾取と抑圧のもとでは、社会生活の三大分野においてアンバランスが生じてきました。それは主に、経済生活の発展にくらべ政治生活と思想文化生活の発展が立ち後れることで表現されました。
 今日、資本主義社会では社会生活の三大分野で大きなアンバランスが生まれています。
 資本主義社会では、発展した経済が、人々のために正しく奉仕していません。非人間的な需要が人為的に操作され、人々を堕落させる各種の手段がつくられることによって、腐敗した生活が助長されています。物質的富の増大につれて、かえって人々の健全な精神が麻痺し、不道徳と社会悪が広まる一方、政治は保守化し、人々が自主的な政治活動を行ううえでの障害が大きくなっています。一言でいって、経済が成長するほど、物質生活が腐敗し、思想文化生活が貧困化し、政治生活が反動化しています。
(以下略) <<
資本主義的な経済は、生活の経済的側面を奇形的に刺激することによって、人々の健全な精神を麻痺させるといいます。

飽くなき経済成長が止まったからこそ、物欲・金銭欲の過剰な刺激が弱まり、それによって視野が広まり、隣人の不幸に共感を寄せられるようになり、自分とは直接関係のない不義不正に対して義憤を感じられるようになり、共に悲しみ共に怒ることができるようになったとすれば・・・これは決して悪いことではありません。もともと人間がもっていた社会的人間の本質的属性が資本主義経済によって奇形化されていたものの経済成長の鈍化に伴って元の姿を取り戻した、経済成長の鈍化を契機に経済的利益・利己的利益の追求に偏った異常状態が是正されて生活総体のバランスが取れるようになった、というのであれば、それは「社会における人間性の回復」という点において、むしろ進歩であると言ってもよいものです。

消費生活社会論的な見地に拠れば、昨今は、仲間内での時間・空間・感情の共有を志向する消費が好調であるそうです。「過剰な優しさ」も指摘される時代です。飽くなき経済成長が止まったからこそ、いままでになかった視野が広まりつつあることは、諸々の調査から推察できます。「経済成長の終焉=閉塞感蔓延の始まり」と図式化して断じるラリー遠田氏の言説は、あまりに一面的に過ぎると言わざるを得ません。

■社会との関連性が曖昧で彼我が断絶している軽薄なる人間観
こうした視野の広まりを「人々は自分の未来を追いかけるよりも、先を行っている人の足を引っ張る」というのは、あまりに決め付けすぎています。

仮に世論が奇怪極まる理屈を展開しているのであればまだしも、不倫問題はそうではありません。以前からの繰り返しになりますが、不倫というのは信頼への裏切り行為であり、家族からの信頼も気分次第で守ったり裏切ったりするような人物は信頼するに値しません。我々の市民社会が人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている以上は、その根本を揺るがすような性格の人物の所業は、たとえ「ヨソの家庭内問題」であったとしても、「対岸の火事」として看過することはできません。不倫は表面的には「ヨソの家庭内問題」ですが、本質においてはもっと重大な事象なのです。決して「先を行っている人の足を引っ張る」行為(そもそも根本的疑問として、芸能人は「先を行っている人」なのでしょうか?笑)ではありません。

こうした決め付け的言説の前提には、「満ち足りた人は隣人愛と正義感に基づいて連帯して抗議を行い、貧乏人は不満と嫉妬ゆえに寄って集ってイチャモンを口にする」といった想定が横たわっているものです。しかし、人間同士が連帯して主張する状況は、満ち足りた世界だけで生まれるものではありません。貧乏人にだって人間としての正義感はあります重要なのは、発言者の属性ではなく、その主張の正当性です。

過酷な時代であるからこそ連帯意識が生まれるケースもあるものです(ユダヤ民族のケースなど)。貧乏ゆえに不正に直面する頻度が高く、だからこそ覚醒しやすいとさえ言えます(公害運動・社会運動の同志的連帯のケースなど)。満ち足りた安穏な生活は、むしろ、多少の不義不正にも鈍感になってしまいかねないと私は考えています。「人間は自分の生活に余裕がなくなるにつれて、他人のことが気になって仕方なくなり、ささいな不正に目くじらを立てるようになる」という図式をよく目に・耳にしますが、私は逆に、「生活に余裕が出来ると鈍感になるってこと? それって自分のことにしか興味のないタイプの人間、自分の利益が守られていれば他人への不当な仕打ち、他人同士のトラブルなど眼中に無いタイプの自己中心的人間を、自己弁護的に言っているだけじゃないの?」と受け止めています。自分だけで生きているつもりになっている、他人に対して共感できない哀れで軽薄な人物像が滲み出ているなと思っています(まあ私もエラそうなこと言えるほど立派な人間ではありませんけどね笑)。

こういう理屈を展開する方々は、「社会的集団の一員」という位置づけとしてではなく、人間を「社会との関連性が曖昧な『個人』」として位置づけていることが推察できます。たとえ他人同士のトラブルであっても、人間がみな社会に参加している以上は、どこかで必ず繋がっています。特に、信頼関係の問題は社会の基本的紐帯であり、それを脅かすような性格をもった人物の行動は、最初は他人同士のトラブルであったとしても、その問題人物が社会生活を送ってゆくことによって、ゆくゆくは各地で問題を引き起こし、全体のシステムにも悪影響を及ぼしかねません。

その意味で、人間同士の信頼関係を基本的紐帯としている我々の市民社会のうちにおいて、不倫という裏切り行為の最たるものが敢行された事実は、決して「ヨソの家庭内問題」「対岸の火事」では済まされません。この重大な事態を「本来ならば当事者以外には何の関係もないようなこと」などとするのは、結局、人間を「社会的集団の一員」ではなく「社会との関連性が曖昧な『個人』」として見る軽薄な人間観の発露、すなわち、他人同士のトラブルが永遠に他人同士のトラブルであり続ける、自分は他人と関連していない関係してない、要するに彼我の断絶という思い込みの発露と言わざるを得ないのです。

■社会的人間の本質を捉え損ねた軽薄な人間観の憂慮すべき拡散状況
化石のような教条主義的マルクス主義の経済還元論に加えて、社会との関連性が曖昧で彼我が断絶している、軽薄な人間観に裏打ちされた無茶苦茶な不倫「擁護」論。社会的人間の本質を捉え損ねた軽薄な人間観が、意外と広範に拡散していることに憂慮します。
posted by 管理者 at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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