2017年03月25日

タリウム毒殺事件被告人を取り巻く人々の軽薄な人間観・人格形成論

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170324-00000022-khks-soci
>> <タリウム事件>元名大生に無期懲役判決
河北新報 3/24(金) 15:46配信

 名古屋市で知人の高齢女性を殺害し、仙台市で同級生2人に劇物の硫酸タリウムを飲ませたとして、殺人や殺人未遂などの罪に問われた元名古屋大女子学生(21)=仙台市出身、事件当時未成年=の裁判員裁判で、名古屋地裁(山田耕司裁判長)は24日午後、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。


(以下略) <<
判決自体にはさして驚く部分はありません。法廷で認定された事実に基づけば、至極当然の結論に至ったものと思われます。事件自体は特異・異常な案件でしたが、裁判は「普通」に展開されたものと思います。

ただ、裁判中、一点だけ注目に値する場面がありました。下記の一幕です。
http://mainichi.jp/articles/20170217/k00/00m/040/127000c
>>
元名大生公判
母、涙で謝罪…異変に対処できず
毎日新聞2017年2月16日 23時54分(最終更新 2月17日 02時07分)

 名古屋市で高齢女性を殺害し、仙台市で高校の同級生ら2人に硫酸タリウムを飲ませたなどとされる元名古屋大学生の女(21)=事件当時16〜19歳=の裁判員裁判で、元学生の母親が16日、名古屋地裁(山田耕司裁判長)の公判に証人として出廷して謝罪した。元学生の言動を振り返り、異変がありながらも「事件を起こす少年とは違うと勝手に決めつけていた」と語った。【金寿英、山本佳孝】


(中略)

 2014年12月、女性殺害後に仙台市の実家に帰省した元学生から「人を殺したかもしれないけれど、夢か現実か分からない」と打ち明けられたと証言した。以前から同様の発言をしていたため「またかと思った」という。

 事件を起こす少年少女は学力低下が著しかったり、過酷な家庭環境で育ったりしている印象があり「経済的にバックアップしているし、現役で大学にも合格するぐらいだから、うちは違うと思っていた」と話した。

 母親は元学生が高校生だった時、劇薬物を所持していたとして警察に厳重注意されたことを把握した学校から呼び出された。「犯罪にも興味があり、通常の規範から外れている」「急に視力の悪くなった生徒がいるが、何か心当たりはあるか」と言われた。硫酸タリウムの所持は知らず「当時は娘のせいにされるのは心外だと思った」と振り返った。

 元学生が大学1年の夏に帰省した際、犯罪者や犯罪を称賛する発言をしたため、たしなめたところ「あんたはもっと早く自分を精神科に連れて行くべきだった」と言われたと述べた。その後、元学生を仙台市の発達障害の専門機関に伴い、面談を受けさせていた。

 母親は専門機関の職員から、元学生が「人を殺したいという願望は誰にでもある」と話していたと聞かされ、「(殺人を犯せば)処罰されるなどと理論で教えるしかない」と指摘されたという。


(以下略) <<
ご家庭全体にある程度の、中途半端な教養水準があったのでしょう。「事件を起こす少年少女は学力低下が著しかったり、過酷な家庭環境で育ったりしている印象があり「経済的にバックアップしているし、現役で大学にも合格するぐらいだから、うちは違うと思っていた」」――ふた昔くらい前の「教育」書にありそうな、経済還元論的な人格形成論です(俗流マルクス主義くずれの死に損ない「評論」家は、今でも同じようなことを言っていますかね?)。

人間が周囲の環境から影響を受けつつ人格を形成してゆくこと自体に私は異論を唱えるつもりはありません(それは観念論です)。しかし、人間は周囲の環境に一方的に規定されるわけではなく、その刺激の影響を受けつつも、他方で、ある程度は自生的に人格――脳細胞の回路――形成を進めるものです。まして、「経済的にバックアップ」だの「現役で大学にも合格する」だのというのは、あくまで「一要素」に過ぎません。このことは、たとえば、オウム真理教幹部たちが、おしなべて「優秀だが倫理観が決定的に欠如した学者」であった厳然たる事実からも容易に推察できることです。人間は、周囲環境(特に経済的環境)を説明変数とする単変数関数ではないのです。

仮に「経済的にバックアップ」や「現役で大学にも合格する」が重大な決定的要素だったとしても、それはあくまで統計的な事実であり、すべてのケースで当てはまるものではありません。本件被告人は「ハズレ値」の可能性もありました。

また、「専門機関の職員」の「(殺人を犯せば)処罰されるなどと理論で教えるしかない」。理論――「正常」であれば「理論」も通用するかも知れませんが、「異常」を疑われている相手に「理論」を説いたところで効果があるのでしょうか。いったいどういう「専門家」なのでしょうか? 

前述したように、被告人の母の証言は、ふた昔くらい前の「教育」書の受け売りのような言い分です。また、「理論で教えるしかない」などと凡そホンモノの専門家とは思えないようなイイカゲンな「助言」を与えられました。その意味では、あくまで素人であろう被告人の母は、イイカゲンな経済還元論者連中が「専門家」を僭称したがために生まれてしまった被害者とも位置づけることができるかもしれません。

本件事件は、被告人の周辺の人々がおしなべて、軽薄な人間観をもち、かつ、「統計」的事実を機械的に当てはめるがために、生身の人間そのものを直視しようとしない「観念」論者だったことが大きな一因だったのでしょう。

娘がサイコパスな犯罪を犯したからには、ご家族は生きた心地はしないでしょうから、私のようなお気楽な立場の人間が、こういうブログ記事を書いて追い討ちを掛けるのも本来は避けるべきなのかもしれません。しかし、教訓としてこのことは記憶しなければならないとも考えます。人間はそんなに単純な理屈で類型化できるものではなく、やはり個別に検討すべきものなのです。
タグ:社会
posted by s19171107 at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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