>> 外食産業やスーパー、営業時間なぜ短縮? 「意地でも24時間続ける」業界は?「本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」――漠然と正しいように聞こえるものの、具体的な落とし所を考えれば直ちにその困難性に直面する「言うは易し」の典型であるに留まらず、下手するとライフスタイルの押し付けにも転落しかねない言説です。
NIKKEI STYLE 3/26(日) 16:10配信
(中略)
なぜ営業時間を短縮したり休業日を増やしたりするのですか。
「一つは、消費者の行動の変化があります。これまで小売業や外食産業、サービス業は20世紀型のビジネスモデルの延長で、営業時間を長くすることによって売り上げを増やそうとしてきましたが、そうしたビジネスモデルが通用しなくなっているのです」
「少子高齢化の進展やインターネットの普及に伴って、夜中に店舗で買い物をしたり、ファミレスやファストフード店でたむろしたりする若者が減り、朝型の生活を送る高齢者が増えました。一方で24時間営業のコンビニエンスストアがコーヒーの販売に力を入れ、店内で飲食できるスペースを設ける店を増やしているほか、総菜の品ぞろえも充実させています。そのため、外食産業や食品スーパーが担ってきた需要の一部を取り込んでいる面もあります」
「もう一つ見逃せないのが、働く人たちの労働環境を改善しようという働き方改革です。人手不足で従業員を十分に確保するのが難しくなっている一方で、長時間労働に対する風当たりは強くなっています。人材を確保するためにも労働環境の改善が欠かせません。そこで営業時間を短くしたり休業日を増やしたりして、従業員満足度を高めようとしています」
こうした動きは今後も広がりますか。
「検討する企業が増えることは間違いありません。ただし、コンビニ業界だけは石にかじりついてでも24時間営業を続けようとするでしょう」
「十数年前、一部の大手コンビニチェーンが実験的に一部店舗で24時間営業をやめたところ、売り上げが激減してすぐに24時間営業に戻したことがあります。四十数年前のコンビニ創業の頃は24時間営業は多くなかったのですが、地方で24時間営業をしたところ、昼間の売上高も大幅に伸びました。いつでもあいている安心感が顧客をひき付けているのです。また来店客が少ない深夜の時間帯に品ぞろえの補充や清掃などをすることで効率経営しています。コンビニが社会的なインフラになったことも大きいでしょう」
「企業側の動きとともに、私たち生活者も、本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すときに来ているかもしれません」
(以下略) <<
■具体的な線引きを考えるとき「それを必要とする人」の存在に直面する――「あるべき」論では判断できない
このような問題提起をうけたとき、人々はどのように思考を展開するのでしょうか? 「自分自身のライフスタイル」を基にその要否を判断するか、あるいは、「人間は夜寝て昼間に活動すべきものだ」といった「あるべき」論を持ち出すのが大抵のケースだと思われます。
しかし、自分自身のライフスタイルや、自分自身の「あるべき」論を根拠に「不要」だと思われるからと言って、社会全体で不要と言い切れるとは限りません。少数かもしれませんが、それを必要とする人・せざるを得ない人も社会には存在するのです。システム等の運用監視、時差のある国との貿易、医療、警備のように、どうしても深夜時間帯を正規の勤務時間として働かなければならず、午前2時くらいに休憩時間が設けられている人、突発的な事態で急に必要性が生じた人、社会にはいろいろな人がいるのです(経験談含む)。
「便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という言説は、漠然と正しそうな気にさせられますが、何を以って「必要」と見なすべきなのか、そして具体的に「何時開店・何時閉店」にすべきか、という具体的な線引きを考えようとすれば、その難しさに直ちに直面する課題です。
「多数派の横暴に反対!」などとして「少数派の守護者」を自認する市民運動界隈が、「便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という甘言の下に、少数派のライフスタイルが圧殺されてもおかしくない状況であるにもかかわらず、問題提起の声や抗議の声をあげないのはどうしたことでしょうか? ああいう手合いの中には、都市型ライフスタイルに敵対意識を持ち、「早さよりも心の豊かさ」などと言って、田舎暮らしを無邪気にプッシュしているケースが少なくありませんが、そのせいでしょうか? もうそうなら、結局ただの「あるべき論」でしかないのだから、運動のスローガンに「多様性」という単語を使わないようにしてほしいものです。
■自主権の問題としての労働環境vs自主権の問題としての多様な消費行動――一方的な「あるべき」論では判断できない
続いて「働く人たちの労働環境を改善しようという働き方改革」→「そのための営業時間短縮」という文脈に即して考えみたいと思います。問題の核心は「自主権の問題」なのです。
いわゆる働き方改革は、従業員(労働者)の自主化に必要不可欠な取り組みです。私は以前から立場を鮮明にしているように、労働環境・労働問題は、労働者階級の自主権の問題であると考えています。そして、自主権の追求は最大限に支持・擁護しなければならないと考えています。他方、消費者の多様な消費行動もまた自主権の問題であり、これも最大限に擁護する必要があります。
そもそも、従業員にとっての「働き方改革」も、消費者の「多様な消費行動」も、突き詰めれば「多様なライフスタイルの追求」の一環という点において、従業員という立場と消費者という立場の違いはあれども、根底にあるものは同一です。また、消費者は同時に従業員であり、従業員は同時に消費者です。
立場の違いによって対立関係に立ってしまっているとはいえ、根底における「自主権の追求」が双方がともにもつ正当な権利追求である以上は、慎重に、具体的数値として調整するほかありません(いわゆる「集団主義原則」)。この線引きを誤れば、それは「一方が他方にライフスタイルを押し付けている」という結果に成り下がるでしょう。
私個人の考えとしては、「欲しいときにいつでも欲しいものが手に入る」というのは、消費者の立場としては、まことに豊かで自主的な社会の証左であると考えています。私自身もかつて深夜営業には助けられたものです。人間はモノを消費・活用することで、大小あらゆる自己の目的を達成します。流通は自己目的の物質的スタートラインである以上は、待ち時間が短ければそれに越したことはありません。
「私は深夜にコンビニには行かないから」といった個人的事情や「人間は夜寝て昼間に活動すべきものだ」といった「あるべき論」など持ち出してこないでいただきたいと強く思います。「あなたが使わないのは分かったし、べつに使わなくていいから、黙っていて」「あなたの『あるべき』論なんてどうでもいい」「『あるべき』論の展開を認めるとすれば、『サザエさんのように、午前は掃除洗濯をすべきで、買い物なんて昼過ぎから夕方4時までにやるもんだ』といった、より厳格(説教臭い)な言説が出てくる可能性もあるが、あんたどう反論するつもりなのよ」といったところです。
他方で、「消費者の消費文化生活」が「従業員の無理」の上に立っているのであれば、その部分に限って是正すべきです。私自身もかつて夜勤労働を行ってきた経験からも強く申し上げたいものです。たとえば、いわゆる「深夜割り増し」を、深夜増員の目的を特定した原資に当てるといった方法で、一人の労働者が一ヶ月間に行う夜勤回数を減らすなどといったプランで、消費者の利便性の核心を守りつつ、生身の労働者の負担を軽減させるという展開ができればベストでしょう(←いまニワカに思いついたプランなので、熟慮はしておらず、穴があるかもしれません)。
24時間営業問題に限りません。日本は物資の多くを輸入に頼っていますが、一部生産国においては、奴隷労働のような働かせ方で安価な製品(運動靴は以前、世界的に問題になりましたね)を輸出に回しているケースもあります。これは絶対に是正が必要なことですが、だからといって、「我々日本人は、そうした商品を我々の生活文化から一掃すべきだ」「運動靴なんていらない」という話にはならないでしょう。「奴隷労働をさせている工場の製品は買わない」「フェア・トレード運動に参加する」という方法論をとるのが常識的発想でしょう。同じことです。
■危惧すべき昨今の議論動向
「本当に年中無休で24時間営業が必要なのか、便利になりすぎた今の日本の暮らしを考え直すとき」という言説は、ターゲットも具体的水準も曖昧に過ぎます。そして、問題の所在はどこで、どこをどういう観点で是正すべきで、その具体的数値は何とすべきかという方向に議論が展開することなく、それぞれが自分自身の都合や「あるべき」論だけでアレコレと主張を展開しているのが昨今の状況です。
ライフスタイルの見直しを掲げる昨今の風潮は、私は決して悪いものではないとは思っています。しかし、ライフスタイルの多様性を殺し、説教臭い世の中に突き進みかねない「落とし穴」が随所に掘られているとも見ています。