2017年04月10日

功利主義に対するレッテル貼り・エゴイズムへの堕落の危険を孕んだ主張――法学者の旧態依然な「教育指導」では人権教育にならない

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170409-00000024-asahi-soci
>> 自白強要は仕方ない? 高校生7割が肯定的 1千人調査

朝日新聞デジタル 4/9(日) 15:14配信

 憲法で権力を制限するという「立憲主義」への理解が8割の高校生に浸透する一方、差し迫った重大犯罪を防ぐためには自白を強要してもよいと考える高校生が7割近くに上ることが、高校生1千人を対象にした研究者の調査でわかった。

 法教育に取り組む研究者のグループ(代表・橋本康弘・福井大教育学部教授)が昨年9〜12月、関東と関西の8高校、1370人に法に関する知識や考え方を聞いた。橋本教授は「自分の頭で考え、判断する知識が身についているかを見るのが調査の目的」と話す。

 法教育に取り組む研究者のグループ(代表・橋本康弘・福井大教育学部教授)が昨年9〜12月、関東と関西の8高校、1370人に法に関する知識や考え方を聞いた。橋本教授は「自分の頭で考え、判断する知識が身についているかを見るのが調査の目的」と話す。

 「日本国憲法は、国民の権利や自由を守るために、権力を制限する仕組みを定めている」との説明が正しいか尋ねたところ、正解の「○」が81・1%に上った。

 その一方で「法の支配とは、法によって人間のわがままな行為を規律し、それに反すれば厳しい罰を与えるべきであるという考え方をいう」の正誤を尋ねると、正解の「×」と答えたのは35・0%。国家権力が法に縛られるという「法の支配」の考えが浸透していないことがわかった。質問を作った土井真一・京大院教授(憲法)は「法の支配の理解が浸透していないのは、法は人々の行為を規制し、違反すれば罰せられるという、古来中国の法治主義のイメージが日本社会に強く残っているためだろう」とみる。


(中略)

 土井教授は「自白強要が悪だと知りつつも、多くの人命を奪う、より大きな悪を避けるためには仕方ないとする最大多数の最大幸福の考えがうかがえる。悪いやつには厳しくという素朴な勧善懲悪の意見の表れでもある。問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか。自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか。その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」と話している。(編集委員・豊秀一)

朝日新聞社

最終更新:4/9(日) 17:16
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■惜しいなあ・・・
旧ブログ時代から司法、とりわけ刑事事件に関する「世論」「庶民感覚」といったものを継続的に分析してきた身からすると、直感的に感じていたことが実証された思いです。引用部分にある土井教授の「悪いやつには厳しくという素朴な勧善懲悪の意見の表れ」や「問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか」といった指摘は、私もまったく同感であります。

他方、極めて残念な総括も見られます。「多くの人命を奪う、より大きな悪を避けるためには仕方ないとする最大多数の最大幸福の考えがうかがえる」や「自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか」といった切り口です。

■功利主義に対するレッテル貼り的な誤った認識
最大多数の最大幸福」は、功利主義を代表するキーワードですが、憲法学者のわりに土井教授は、功利主義について正しい認識をもっていないようです。功利主義は、決して「全体主義的な多数派主義」ではありません。私もアカデミックな世界には少しばかりの実体験がありますが、(土井教授にレッテルを貼るつもりはありませんが)特に左翼学者を中心に、「最大多数の最大幸福」という功利主義の思想を、キーワードからのフィーリングで語るきらいがあります。我々の民主主義は功利主義を理論的基盤としているのに・・・

功利主義は決して多数派主義ではなく、全体主義に通ずるものではありません。それは、ウイキペディアでさえ言明されています。引用しましょう。
>> ベンサムの理論には、ミルの理論とは異なり、公正さの原理が欠落している、としばしば言われる。例えば、拷問される個人の不幸よりも、その拷問によって産出される他の人々の幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということになる、という批判がある。しかしながら、P. J. ケリーが著作『功利主義と配分的正義―ジェレミ・ベンサムと市民法』(Utilitarianism and Distributive Justice: Jeremy Bentham and the Civil Law)の中で論じているように、ベンサムはそのような望ましくない帰結を防ぐような正義論をもっていた。ケリーによれば、ベンサムにとって法とは、「個々人が幸福と考えるものを形成し追求できるような私的不可侵領域を定めることによって、社会的な相互作用の基本的枠組みを提供する」(op. cit.、p. 81)ものなのである。私的不可侵領域は安全を提供するが、この安全は期待を形成するための前提条件である。幸福計算によれば、「期待効用」(expectation utilities)は「自然効用」よりもはるかに高くなるので、ベンサムは多数者の利益のために少数者を犠牲にすることを支持しないのである。

功利主義が肯定的に語られる例として、当時のイギリスでは禁止されていた同性愛の擁護が挙げられる。ベンサムは、同性愛は誰に対しても実害を与えず、むしろ当事者の間には快楽さえもたらすとして、合法化を提唱した。この他、功利主義によれば被害者なき犯罪はいずれも犯罪とならない。
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大学教授といえば、一般的には博識の人物であり、法学者であれば古今東西のあらゆる法理論に通暁していると思い勝ちです。しかし、実態としては、意外とウィキペディアにも載っているようなレベルの知識であっても、直接的な専門でなければ素人ほどの知識もなかったりすることが多々あります。大学教授は、意外と「専門バカ」であることが少なくないのです。この、さりげない一言は、そのことを典型的に示しているのかもしれません。

■エゴイズムへの堕落の危険
自分が悪いやつだと決めつけられたらどうするか」という主張についても述べておきましょう。なんとなく正しい言説に見えますが、国家・社会を集団主義的に語るにあたっては、下手するとエゴイズムに堕落しかねない結論に至りうる言説であります。

自分が」という判断基準を突き詰めるならば、究極的には「税金を払いたくないでござる」に至ります。しかし、国家・社会を集団主義的に語ろうとすれば、皆がみんな税金を払わないわけにはいかないでしょう。個人の人権に配慮しつつも、どこかで「自分が」という判断基準とは一線を画する必要があります。

土井教授個人が直ちにそうだというわけではないのですが、「自分が」という判断基準を取り上げる人たちのなかには、結局単なるエゴイズムでしかない結論を平気で述べる人がいるものです。「その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」と教育指導的な指摘を展開するのであれば、同時に、単なるエゴイズムに終わらないようなコメントを展開すべきでした。

■ある意味で典型的
功利主義に対するレッテル貼り的な誤った認識にもとづく主張と、エゴイズムへの堕落の危険を孕んだ主張――典型的な法学者の言説です。「その気づきをどう深めるかが授業のポイントになる」などと教育指導的な指摘を展開する土井教授ですが、ある意味で「使い古されている上に間違った認識に基づく言い分」です。正しい認識に基づく新しい切り口を提示できない限り、若い世代を対象とした人権教育にはなり得ないでしょう。

推定無罪の大原則に立つならば、「問題は、悪いやつだとだれが、どのように決めるのか」で十分です。よく知りもしないのに功利主義批判を展開したり、「自分が」などという必要は、そもそもないのです。
posted by s19171107 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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