2017年08月02日

他人様の「想像力の無さ」を指摘する貴女は、批判者の何を知っているというのか

https://news.yahoo.co.jp/byline/osakabesayaka/20170731-00073891/
>> JAL現役社員はなぜ顔出しで会社を訴えたのか?マタハラ裁判で勝利的和解を収めた彼女に聞いた
小酒部さやか | 株式会社 natural rights 代表取締役

7/31(月) 6:08


(本文引用省略) <<
裁判自体は「よく闘い、見事に勝利した」と率直に祝辞を述べたいところですが、次のくだりについては、懸念を表明せざるを得ません。
>> ●バッシングは想像力の無さから

小酒部:誹謗する人たちだって明日は我が身なのに…。神野さんが声を上げてマタハラ問題が解決していけば、女性が仕事しようと思った時にその人も助かるはず。なぜそれが足を引っ張り合おうとするのか…。

神野:この問題について声を上げる意味を想像できないからかもしれない。想像力のある方は独身でも、男性でも分かってくれるけど、ない方は、たとえ女性であっても「私も大変だったんだからあなたも我慢しなさい」となる。

小酒部:バッシングしてくる人を単純に男女で分けられるものでもない。SNSが浸透しショートワードを投稿することによってコミュニケーションが希薄になっている。反射神経的に何も考えず安易にバッシングするようになった。行間を読むとか、一拍置くとか、そういうことをしなくなってきている。だから余計に想像力がないように見える。

神野:人と人のコミュニケーションも会ってその場の雰囲気を読んで…ということがだんだん少なくなってきている。
<<
■想像力が足りていないのはどっち?
この問題について声を上げる意味を想像できないからかもしれない」――「私の考えを理解できない人は無知蒙昧」と言っているのに等しい言いっぷりです。

妊娠・出産・子育ての経験がない人物からの発言を指しているのであれば、まだ理解できます(※)。しかし、私も大変だったんだからあなたも我慢しなさい」というのは、果たして「想像力の無さ」なのでしょうか? むしろ、今以上に孤立無援の修羅場を乗り越えてきたからこそ言える重い言葉ではないのでしょうか? 「想像力の無さ」を云々するのであれば、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という点について、神野氏こそが想像力を働かせるべきだったのはないのでしょうか?

※仮に妊娠・出産・子育ての直接的経験がなかったとしても直ちに「想像力の無さ」と断ずることはできません。神野氏の個人的経験をはるかに凌駕する、広い視野に渡る知識にもとづく客観的論評のケースや、神野氏の境遇を遥かに下回る劣悪極まる環境でのサバイバーが「その程度で何を言っているの・・・」と呆れているケースだってあるでしょう。いくら妊娠・出産期は無給と言っても、いつかはJALに復帰できるのならば、本当の底辺生活者にしてみれば、はるかに恵まれた地位であることは間違いありませんよね。

■自己中心的視点に終始
神野氏は「私も大変だったんだからあなたも我慢しなさい」という言葉を掛けてきた先輩女性社員のリアルについて言及していません。神野氏は、「自分の視点」からしか物事を語っていないのです

神野氏は「同時期に妊娠する人がいれば、一緒に頑張ろうとなったかもしれない」と述べている点、表面上は同僚を「連帯の仲間」として見なしています。しかし、「私も大変だったんだからあなたも我慢しなさい」という言葉を掛けてきた先輩女性社員について、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という点での考察を深めず、「想像力の無さ」などという言葉を以って相手を無知蒙昧と決めつけ、切って捨てている点を勘案するに、無意識のうちに自分自身を「正義の伝道者」として一段上に位置付けているのでしょう。無意識では仲間だと思っていないのでしょう。

■偏狭な活動家マインドに転落しかねない「他人を扱き下ろす思考回路」
こうした心構えは、大変にまずい。持論を受け入れない人物を無知蒙昧だと決めつけて扱き下ろす考え方の人物は、異論や批判にとどまらず、慎重意見や懸念意見をもシャットアウトしがちです(世論を敵に回すような言説を当ブログで展開している私自身も常々気を付けなければならないと思っています・・・)。致命的な思い上がりに陥った左翼活動家なんてまさに好例。知らず知らずのうちに偏狭な活動家マインドに転落しかねない思考回路です。

偏狭な活動家は人民大衆から遊離してゆきます。働き方の問題を自己決定権の問題と位置付けるのであれば、そこにおける正義は、突き詰めれば、ひとり一人の生身の人間の「思い」の問題、どういう人生を歩んでゆきたいのかという「理想」の問題です。神野氏の見解が先輩女性社員の見解と一致しないのであれば、「ああ、この人とは考え方や理想の方向性が違うんだな」と思っておけばよろしい。理解しあえない者同士は棲み分ければよろしい。人民大衆が神野氏と同じ考え方であれば、まさにベクトルの合成の如き要領で理想が実現されるし、神野氏がいくら周囲の人間を扱き下ろしたところで、その言い分が社会的に理解されないのであれば、バカ扱いされるのは神野氏の方です。

「連帯の仲間」というのならば、他人様について「この問題について声を上げる意味を想像できないからかもしれない」などと決めつける前に、どうして相手はそういう発言をしてきたのか、相手はどういう経験をしてきたのかを厳密に研究すべきです。

■潜在的支持層を取りこぼしている「自己の無能さ」こそ猛省せよ
同僚は、構造的にその立場を分析すれば、依然として仲間に属する人物です。未開拓の潜在的支持層です。そうした人々を「無知蒙昧のバカ」呼ばわりするのはいかがなものか。本質的には支持層となりうる人物が持論に靡かない事実に対しては、相手をバカにして扱き下ろすのではなく、自分自身の教宣能力の欠如にこそ目を向けるべきです(「バカ」なんて耳障りの良いことを並べておけばフラフラと吸い寄せられてくるんだから、「正義の伝道者」ならば適当に言いくるめてオルグできるだろ!)。神野氏は、「想像力の無さ」などと偉そうに論評して他人様を扱き下ろすのではなく、潜在的支持層を取りこぼした自分自身の組織教宣能力の欠如こそ猛省すべきなのです

■心配になる思考回路
たまたま、許容できる内容での和解に至ったからと言って、すこし天狗になっているきらいがあります。繰り返しになりますが、神野氏はよく闘い、見事に勝利したと私は思います。しかし、その勝利の美酒に酔い過ぎており、人民大衆が主体として推進してゆく労働者階級の自主化運動の展開としては正しくない思考・発想に転落しているのです。

■はっきり言ってヌルい神野氏
まあ、こういうのも「労働屋」にとってはバッシング扱いになるんでしょうね。自分で言うのもなんですが、私くらいの自主管理社会主義者にもなると、神野氏はもちろん、昨今はやりの「ユニオン」とやらの、「ブルジョア博愛主義」っぷりは、本当に笑えてくるレベルなんですけどね。あんな「地主様への陳情・お代官様への直訴」の域を脱していない変革ゴッコ・革命ゴッコが「労働運動」とは、笑止千万。

「神野氏はよく闘い、見事に勝利した」とはいうのは偽りなき私の感想ですが、「こんなのまだスタートラインにも立っていないんだから、あまり調子に乗って講釈垂れるなよ」とも言いたいところです。こんな水準で満足している程度の人物が、他人を「無知蒙昧」と決めつけるとは、何かのジョークでしょうか? 「真の自主化を目指すにあたっては、あんたみたいな天狗思考は、むしろ障害」と付け加えて、本件を総括したいと思います。

お疲れさまでした。あとは我々が引き継ぐので大丈夫です。
posted by s19171107 at 23:03| Comment(8) | 時事 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
やれやれですね。単に駄文かくしか能のないあなた(まあ、その点は俺もリアルな闘争などしてないのでお互い様ですけど)が、「実際に戦った人間相手に悪口雑言」ですか。偉そうなこと抜かすのならあなたの「闘争経験」でも「勉強材料」としてお書きになったらいかがですか?。どうせ「プライバシー保護だの理由に」書かないで逃げるんでしょうけど。
Posted by bogus-simotukare at 2017年08月04日 07:03
bogus-simotukareさん

 コメントありがとうございます。ブログ執筆者でございます。
 短いながらも、かなり戦闘的なご意見を頂戴しましたが、その背後には強固なお考えがあり、それに照らして強烈なご不満を感じたがゆえの文面かと推察いたします。
 自分でも「危険な切り口で書いている」と自覚しながら執筆していました。bogus-simotukareさん以外の閲覧者の皆様への補足も兼ねて、真摯にご対応させていただきたいと思います。

※なお、以下で「記事」という語句が指すものは、元のYahooニュース記事の記述、「本文」が指すものは、私のブログ記事の記述です。

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 さて、bogus-simotukareさんは「実際に戦った人間相手に悪口雑言」と仰いますが、本文中で私は以下のように述べています。この点は、私のポジションにも関わる部分ですので、まず確認として説明させてください。
・「裁判自体は「よく闘い、見事に勝利した」と率直に祝辞を述べたい」
・「「神野氏はよく闘い、見事に勝利した」とはいうのは偽りなき私の感想」

 組織人が、所属先を顔出しで告訴するという行為は本当に勇気と覚悟がいることです。この点は、率直に尊敬に値するものと考えています(通算3回目)。

 何を以って「悪口雑言」というのかの定義に相違があるかと思いますが、私は神野氏の闘争に対して尊敬の念を持っております。
 私は労働問題を「自主権の問題」として捉えているので、その点から神野氏の闘争は支持しますし、北欧諸国における労働事情ついても関心がある(私事で恐縮ですが、「性分業観念からの『女性の解放』は『男性の解放』でもある」という話を最初に聞いたときは、本当に感動しました)ので、その点からも神野氏の闘争は支持しています。
 だからこそ、本文冒頭で、まず「裁判自体は「よく闘い、見事に勝利した」と率直に祝辞を述べたい」としたわけです(本文を否定で書き始めると闘争を全否定しているかのように誤解されかねないと思って、冒頭に書いたのですが、結局、誤解されてしまったようです・・・)。

********************

 ただですね、ここからが本文の趣旨なのですが、批判の声に対して「バッシングは想像力の無さから」と断定するのは、乱暴すぎるのではないかと思うのです。

 もちろん、記事中、「「私は医者ですけど、この人顔は全部整形です」っていうデタラメな書き込みもあった。」というくだりがありましたが、「想像力のなさ」というほかないような低レベルな揶揄は溢れかえっています。本件に限らず、そういった書き込みはヤフコメや2ちゃんを見れば極めて容易に見つかるものです。
 「揶揄」という言葉は、「からかい」に換言できますが、これは論点を「取るに足らないもの」と見なすからこその行為であり、それは当人の苦しみを想像できないからこその行為です。

 しかし他方で、本文中でも取り上げましたが、「私も大変だったんだからあなたも我慢しなさい」といった類の女性として社会人としての「先輩」たちからのコメントは、「想像力のなさ」と言い切れるのでしょうか?
 本文中でも述べたとおり、今以上に孤立無援の修羅場を乗り越えてきたからこそ言える重い言葉ではないのでしょうか?
 「私は医者ですけど、この人顔は全部整形です」とは質的に異なるコメントであり、「想像力のなさ」で一括りにするのは乱暴だと思うのです。

 JALの企業的・業界的に特殊な慣行が論点ではないというのがポイントだと思います。
 マタハラという残念ながら日本の企業に広く蔓延っている問題に関しての「私も大変だったんだからあなたも我慢しなさい」という声は、企業や業界の垣根を越え得るものだと思います(このことは、本来は神野氏支援の連帯になるべきだと思いますよ)。
 また、本文中でも述べましたが、仮に部外者が直接的に経験し得ないような特殊な慣行が論点だったとしても、直ちに「想像力の無さ」と断ずることはできないとも思います。
 さらに、これは旧ブログ時代に「劣悪な方、『下』に合わせようとするくだらない発想」と徹底的に批判を展開したものではあります(本文で言及するのはちょっと躊躇ったのですが、ケースとして挙げておくことにしました)が、神野氏の境遇を遥かに下回る劣悪極まる環境でのサバイバーが「その程度で何を言っているの・・・」と冷めているケースもあり、それはもう「想像力の無さ」とは言えないと思います。

続く
Posted by 管理者(その1) at 2017年08月04日 20:40
続き

 なぜ、批判の声についてこそ想像力を展開しなければならないのかについて述べさせていただきたいと思います。
 本文中、「同僚は、構造的にその立場を分析すれば、依然として仲間に属する人物です。未開拓の潜在的支持層です。」だと述べました。ここで指す「構造」は、いわゆる階級的な見方としての意味ですが、そうであるからこそ、同じ労働者階級であるにも関わらず見解が異なっているという事実に対して「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という分析が必要だと述べているわけなのです。

 特に、神野氏の境遇を遥かに下回る劣悪極まる環境でのサバイバーが「私も大変だったんだから」と言っているケースがあるとすれば、サバイバーは神野氏叩きという誤った方向にエネルギーを費やすのではなく、ある種のカウンセリング的なアプローチで、社会的に包摂すべきです。そうするにあたっては「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という分析は特に必要でしょう。

 他方、そうした分析を欠くと、本文中でも述べたとおり、「偏狭な活動家マインドに転落しかねない」と危惧するのです。

 なお、一点反省を述べるならば、「同僚は、構造的にその立場を分析すれば、依然として仲間に属する人物です。」ではなく「批判の声を寄せる人々は、構造的にその立場を分析すれば、依然として仲間に属する人物も少なくありません。」としておいた方がよかったですね。いわゆる「ネトサポ」が大挙して書き込み工作活動を展開するような裁判ではなかったので、統計的な考え方をすれば、各階層に所属する人たちがランダムに書き込んでいたと考えられ、「仲間に属する人物」からも相当数の書き込みがあったのだろうと推察しての本文記述でしたが、厳密さをより重視したいと思います。今から書き換えると改竄になるので、ここに補足的に訂正します。

 ちなみに、本文の文脈上、蛇足的になるので省略した(ただでさえ長文だった)のですが、「私も大変だったんだからあなたも我慢しなさい」というコメントは、甚だしい時代錯誤だと私個人は思っています。
 また、以前から繰り返しているように、「あなたと私は違う人間」なのだから、「私も大変だった」で「我慢」を強要されるのは、自主という観点からみて筋違い甚だしい要求だと大変不満に感じています。神野氏は「身重な身体に無理を強いたせいか、予定日1ヶ月前に切迫早産で入院となってしま」ったと記事にありましたが、そこまで追い詰めるというのは正義に悖る仕打ちです(bogus-simotukareさんの戦闘的文面は、そうした怒りを原動力しているものかと推察しております)。

 しかし、繰り返しになりますが、時代錯誤であろうと筋違いであろうと、「我慢しなさい」コメントが寄せられたという事実については、よく分析しなればならないと思うのです。

********************

 長々と本文の解説を展開してしまいました。bogus-simotukareさんのコメントに戻ります。「偉そうなこと抜かすのならあなたの「闘争経験」でも「勉強材料」としてお書きになったらいかがですか?」というくだりについて。

 本文の趣旨は、神野氏の裁判闘争自体については一言も述べていませんし、一言たりとも口を挟むべき部分はないと思っています。裁判闘争自体とは別空間における「バッシングは想像力の無さ」という一点のみを問題にしているのです。
 その点から述べれば、このブログは基本的に「批判を通して持論を展開する」という記事執筆スタイルを取っている(自分で言うのもアレですが、結構イヤな人ですよね)わけですが、異論を「突っぱねる」ようなことはしないようにしています。私にも感情の起伏があるので、筆が滑ることもあります(「はっきり言ってヌルい神野氏」の部分は、まさに書かなくてもよかったですね・・・)。また、分析力だって完全ではありません。しかし、取り組む姿勢として「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」について迫ろうと努力しています。

 ついては、「勉強材料を示せ」という点では、僭越ながら、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という取り組みの姿勢をご提示させていただきたいと思います。このお返事でも、bogus-simotukareさんのお怒りの核心に迫ろうと努力しております。

続く
Posted by 管理者(2) at 2017年08月04日 20:40
続き

 bogus-simotukareさんのコメントへのご回答としては、少し論点がズレますが、「はっきり言ってヌルい神野氏」の部分について述べさせてください。

 多大な労苦を背負って法廷闘争しなければ労働環境が改善されないというのは、私個人の意見として、おかしいと思います。労働問題は自主権の問題として捉えなければならないと思っています。

 本文でも述べたとおり、私は「自主管理社会主義」にシンパシーを感じています。
 もちろんこの概念は、偉大なる自称「前衛」党がご指導くださる指令型社会主義に対しては優位性を示したものの、歴史的事実として既にユーゴスラビアで一旦失敗しているのだから、再構築をしていかなければなりませんが、やはり魅力的な部分はあると思っています。

 再構築の一つの取っ掛かりとして、人民大衆が寄り集まって社会を自主的に管理してゆくにあたっては、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」について考えを深める思考的習慣をつけなければならないと思っています。

 私は社会主義を支持していますが、実現可能な社会主義は自主管理のみであり、自主管理の道にあたっては上述の思考的習慣が一つの要所だと思っています。

 文末の「あとは我々が引き継ぐので大丈夫です」というのは、自主管理社会主義者としての宣言ですが、かなり大風呂敷を広げたなと自分でも思っています。bogus-simotukareさんは「いまどき自主管理社会主義かよ」と呆れられるかも知れませんが・・・

 もちろん、私が考え得ることなんて大したことない水準だし、できることなんて小さいことばかりです。人民大衆の自主権を蹂躙して個人的利殖に励む資本に対する、労働者階級・自主派としての自分自身の無力さを認めます(本当に本当に悔しい!)。
 「気持ちだけじゃないか」と言われれば、それまでですが、「思想がエンジン」だというのは、自主管理社会主義と並んで注目している朝鮮民主主義人民共和国のチュチェ思想が指摘するところです。
 「革命家気取り」と言われればそれまでですが、いくつになっても、そういう気概は大切だと思うんですよね。私が尊敬してやまないキムイルソン同志は、チュチェ14(1925)年のある日に祖国解放の志を胸に独立運動への挺身を決意されました。それから20年の刻苦奮闘を経て、夢にまで見た祖国解放の日を迎え、その3年後に祖国に社会主義政権を樹立なさいました。私ごときが、自分自身をキムイルソン同志に重ねるなど、おこがましい極みですが、キムイルソン同志の「志遠」の精神の継承者になりたいと思っています。
(偉大な闘争を勝ち抜いた神野氏には重ねて重ねて祝辞と尊敬を表明しますが、僭越ながら、「バッシングは想像力の無さ」という見方だけはどうしても黙っていられなかった・・・)

 自主管理社会主義とチュチェ思想については、あまりにも脱線してしまう(すでに相当脱線していますね・・・)ので、ここではこれくらいにさせてください。申し訳ありません。

********************

 相異なる考えの人間どうしは、会話形式で認識を深めてゆくのがよいと常々考えています。
 当ブログにてコメント欄をご用意しているのはそのためです(諸般の事情の関係で、一定の周期でまったく管理できない期間が生じるので、いまどき珍しい「コメント許可制」ですが、旧ブログ時代から運用基準に沿って全件承認しています)。
 ちなみに、トラックバック機能はSeesaaでは廃止されたようです。

 bogus-simotukareさんにとって私が再度コメントを寄せるほどの人物である自信はありませんが、忌憚のない追加のご指摘を頂戴できれば幸いです。

 取り急ぎのお返事コメントです。
 重要なご意見でした。ありがとうございました。珍しく私自身の個人的な「感情」を開陳する機会になりました(ふだんは感情を顕わにしないよう抑えているつもりです)。今後、新規記事に再編する可能性があること、あらかじめご了承いただければ幸いです。

終わり
Posted by 管理者(3) at 2017年08月04日 20:40
 ま、小生のコメントを掲載しないですっとぼけるのかなと思っていたら掲載したのは少し驚きましたですね。
 あるいは偉そうに罵倒カマしてくれるのかと思ってたら「寛大な俺ちゃん」演出しようと必死なのにも驚きましたですね。
 それにしてもああでもない、こうでもない言ってますがバカはどうしようもないとしか言いようがないですね。本気でこんな事言ってるのなら呆れて二の句が継げないですね。

>女性として社会人としての「先輩」たちからのコメントは、「想像力のなさ」と言い切れるのでしょうか。


 見ず知らずの人間が、「同じく見ず知らずの人間である神野氏相手」に「個人的な狭い体験をふりかざす」など想像力がない以外の何物でもないでしょう。
 つうか神野氏に対して「相手への理解」を要求する人間が「神野氏を自分の狭い体験から悪口する馬鹿者」に対して「神野氏への理解」を要求しないのは全く意味不明ですね。

>同じ労働者階級であるにも関わらず見解が異なっているという事実に対して「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という分析が必要だと述べているわけなのです。

 見ず知らずの人間に対してどうすればそんな分析ができるんですかね?

>同僚は、構造的にその立場を分析すれば、依然として仲間に属する人物です。未開拓の潜在的支持層です。そうした人々を「無知蒙昧のバカ」呼ばわりするのはいかがなものか。

 神野氏コメントの何処に「同僚」なんて書いてあるんですか?。繰り返しますが
>『職場のみんなが応援してくれた(神野さん)』『SNSが浸透しショートワードを投稿することによってコミュニケーションが希薄になっている。(小酒部さん)』
と言うコメントが「頭orないし性格が歪んでる貴方」には読めないんですか?。
 まあ正直な話、神野氏や小酒部氏の認識をきちんと理解するには「彼女らに会って話をすべき」であって、「マスコミの記事から理解する」というのはかなり無理があるとは思いますが、あの記事を読んで「同僚は」云々という貴方ははっきり言ってバカです。どう見ても神野氏に悪口した人間は同僚ではありません。
 それとも貴方の脳内では「全く別の企業に勤務していて、取引先などでもないので何のつながりもない人間」でも「同じ労働者なら」を同僚と呼ぶんですか?
 とりあえずそう言う用語法は「貴方とは違う」まともな日本人はやらないと言う事ぐらいは理解して下さい。

>「勉強材料を示せ」という点では、僭越ながら、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という取り組みの姿勢をご提示させていただきたいと思います。

 貴方の行為は単に口先三寸で適当なことをほざいてるだけにしか見えませんが。そんなんで社会が変われば誰も苦労しません。正直、小生も「口舌の徒」にすぎないのであまり偉そうな事は言えないと思っています。
 だからこそ「口舌の徒にすぎない貴方」が糞の役にも立たない揚げ足取りをしてることに腹が立ったと言う話ですね。
 しかし偉そうな事をほざきながら何の実績も語るべき活動経験もないのが貴方ですか。哀れというか何というか。

>多大な労苦を背負って法廷闘争しなければ労働環境が改善されないというのは、私個人の意見として、おかしいと思います。

 そりゃおかしいでしょうね。ただそうしなければ状況が変わらなければそうせざるを得ないわけです(何もこれは労働問題に限った話ではなく社会問題全てに該当しますが。法廷闘争しなければ「障害者など弱者の人権が守られない」つうのはまともな状況ではありません)
 神野氏にせよ他の誰かにせよ好きで裁判してるわけではありません。裁判しないで問題が楽に解決するのであればそうします。

>「気持ちだけじゃないか」と言われれば、それまで

 その通りですね。貴方は「それまで」の「その程度の無能で愚劣な人間だ」と自覚したらいかがですか?(まあ、その点は小生も大して変わりませんが、だからこそ小生は活動家に向かって偉そうな事言う自信はかけらもありません)。どう見ても貴方にそう言う自覚があるとは思えませんが。
 何度も言いますがたかが口舌で世の中が変わるなら誰も苦労しません。
 想像力がないのは「たかが口舌の徒にすぎない」のに偉そうに「現実に活動してる人間に説教できると思い上がってるらしい貴方」の方でしょう。
Posted by bogus-simotukare at 2017年08月04日 20:46
bogus-simotukareさん

 再度のコメントありがとうございます。お答えさせていただきたいと思います。論旨の読み違いがあれば、「そういう意味じゃないよ!」とご指摘ください。

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>「寛大な俺ちゃん」演出しようと必死なのにも驚きましたですね
■当ブログの編集方針
 これまた早速の戦闘的コメントで、私もまた驚きました。なぜそこまで喧嘩腰なのでしょうか・・・?

 「寛大な俺ちゃん」を演出したところで、何の得にもなりません。わざわざこんな「辺境の地」をご訪問いただいたのだから、応対しないのも失礼な話かなとは思いますが、面倒くさければ「ネットの匿名性」を隠れ蓑として、いつだって「失踪」することは可能ですし、bogus-simotukareさんとは実社会でまったく面識がないのだから、罵倒し尽くしたところで商売をやっていく上では何の影響もありません。

 この機会に、是非とも私のブログ編集方針について述べさせてください(この点を積極的に公表してこないで、トゲドケしい主張ばかり展開してきたツケが、いま回ってきたと反省しています)。

 旧ブログ時代から一貫していることですが、私が一銭の得にもならないのにセッセとブログ更新を続けている最大の理由は、自分の見解をブラッシュアップするためには、他人様からの忌憚なきご指摘をいただくのが最良だという考えによります。人間は批判を受けて成長するものだというのは、社会主義者としての立場からも、私の個人的経験からも確信しています。

 その点において、bogus-simotukareさんに「寛大」と映った私の姿勢は、真意においては「学習したいからこそ」であるとご理解ください。ご指摘を自分の勉強のために利用・活用させていただいているわけです。

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>見ず知らずの人間が、「同じく見ず知らずの人間である神野氏相手」に「個人的な狭い体験をふりかざす」など想像力がない以外の何物でもないでしょう。
■そういう趣旨ではない
 そもそも私は、想像力がないが故の批判は一つも存在しないとは言っていません。先の返信にて私は以下のように書きました。
>「「私は医者ですけど、この人顔は全部整形です」っていうデタラメな書き込みもあった。」というくだりがありましたが、「想像力のなさ」というほかないような低レベルな揶揄は溢れかえっています。
 普通に考えれば「想像力のなさ」と分類するほかない揶揄も多々あることは私も認めているところです。しかし、「それだけではないんじゃないの? 突っぱねないで分析しましょうよ!」というのが本文の趣旨なのです(コストの関係で実行可能性は低いとは思いますが、低レベルな揶揄の動機についても解明できるのが理想だと思っています)。

■特定の個人が持てる知識は元来、限定的
 以前からF.A.ハイエクの知識論を踏まえつつ述べていることですが、知識というものは個々人に分散しており、特定の誰かの脳味噌・知性に集約されるものではありません。特定の個人が持てる知識は元来、限定的です。およそ知性と言い得るものは集合した形態としてのみ存在すると考えています。物理学・数学におけるカオス理論の探求も趣味(このブログで展開できるテーマではありません)なので、人間の知能など、集合的な形態でさえ限界があると確信しています。人間は、個人としても類としても、その合理的思考は大したことありません。

 また、個人的な狭い体験を絶対視というのは、「過少なサンプルでの不適切な母集団推計」の発想です。この発想は、7月8日づけ「やっぱりカルト、ますますカルト」(http://rsmp.seesaa.net/article/451630850.html)でも述べているとおり、不適切です。

 その点、個人的な狭い体験を「絶対視」するような人物は、例外なく「致命的な思いあがり(「合理」主義を批判するハイエクの著作名でもあります)に陥っている」「誤った統計処理をしている」と言わざるを得ません(ここでいう「絶対視」は、個人的経験に基づく意見を開陳する程度ではなく、他人の主張に対して批判の域を逸脱した罵倒を展開して初めて指定され得るものです)。特定の個人が持てる知識は元来、限定的だし、少ないサンプル数で推計することはできません。

 しかし、極めて重要な点として、社会の全体現象は、個人的な狭い体験の積み重ねであり、母集団推計は一つ一つのサンプルの積み重ねなのです。「個人的な狭い体験」「たかが一件のサンプル」と軽視してはならず、それらも包摂する必要があります。だからこそ、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という点について、分析が必要だと言っているのです。

 ちなみに、社会主義を支持しつつハイエク知識論とは、「これまた凄い組み合わせだな」と思われるでしょう。しかし、たとえばマルクス経済学者の松尾匡氏が『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』という新書を上梓しているように、決して変ではないと思っています。やせ我慢的に「筋」を通すよりも、虫食い的であっても柔軟に取り入れる姿勢が大切だと思っています。

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>つうか神野氏に対して「相手への理解」を要求する人間が「神野氏を自分の狭い体験から悪口する馬鹿者」に対して「神野氏への理解」を要求しないのは全く意味不明ですね。
■的を絞らざるを得ないブログ編集上の現実的制約
 正しいご指摘ですが、「馬鹿者」について言及することは、本文の論旨ではないのです。ありとあらゆる立場・方面を意識し、各論併記的に執筆することは不可能であり、いつも大胆な取捨選択を迫られています。書きたいことが本当にいっぱいあります。すべてについて言及できない点、ご理解ください。

 なお、「馬鹿者」について言及するならば、私はヤフコメが創設されて以来(10年くらい?)、断続的ではありますが、その書き込みの動向の批判を徹底的に展開してきたところです。ネット世論のデタラメさに関して論じ得るだけの「症例」を経験していると自負しております(ぜひ、過去ログをご覧ください)。

 当たり前すぎる大前提をいちいち説明しません。本文は、今更、論点から脱線してまで「馬鹿者」について言及する必要はないと判断してのスルーなのです(厳密さを確保するうえで、可能な限り各論併記的に言及、全方位に噛み付いたほうが良かったのかなとも振り返っています。ヤフコメ的な書き込みを批判することは、まったく躊躇ありませんので笑)。

■ヤフコメ民のような言い分とは一線を画した分析をして欲しかった
 その点、勇気ある法廷闘争を戦い抜き、偉大な勝利を収めた神野氏には、もっと慎重に言葉を選んで発言していただきたかったのです! ちょっと筆が滑ったことは否定しませんが、残念な気持ちだったのです。偉大な法廷闘争を勝ち抜いた神野氏には、ヤフコメ民のような言い分とは一線を画した分析をして欲しかったのです。「やっぱり勝者は違うなあ」と天下に見せつけてやって欲しかったのです。

■「直接的経験の重視」か「せまい経験論を回避」か
 もっとも、このことは一般論的に言って、『毛主席語録』においてさえ収録されている(毛沢東主義は支持していませんが、社会主義潮流の先人・先輩であるのは客観的事実なので、研究しています)ように、重要かつ難題であります。すなわち、「直接的経験の重視」とすべきか、はたまた「せまい経験論を回避する」とすべきなのかということです。

 要するに中庸・バランスの問題に帰結すると思いますが、この記事に関して言えば、直接的経験に基づいて神野氏が闘争に決起した以上は、「せまい経験論に陥らない」方について注視すべきかと思います(「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」の視点での、行き過ぎへの警戒です)。だからこそ、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」への考察が必要であるとし、また「神野氏の個人的経験をはるかに凌駕する、広い視野に渡る知識にもとづく客観的論評のケース」についても考察が必要だと本文で述べた次第です。
 
 逆に、何か統計数値をもとにアレコレと分析を展開する記事については、私は具体的な実例を挙げて「直接的経験の重視」に注力すべきだと主張を展開することでしょう。たとえば、野口悠紀雄氏あたりがよく書いている、モデルから演繹しただけの薄っぺらい社会論評に対しては、「直接的経験の重視」の観点で再論評すべきだと考えています(野口氏を取り上げようと思う機会は、まだないのですが)。

■「言及なし」の多義性
 なお、私自身、常々慎重に見極めようと努力していることですが、「ノーコメント」「言及なし」というのは、真意において多義的な振る舞いです。論点に対する本筋ではないから敢えて積極的には言及していないのか、研究中につき態度保留的な意味で余計な事は言わないようにしているのか、グウの音も出ないほどに主張・反論材料がないので敗北的に沈黙しているのかは一見しては判断できないことです。「取り上げないこと」は、必ずしも論点ではなく「取り上げるにあたっての形式・内容」こそが論点だと思っています。

続く
Posted by 管理者(1) at 2017年08月06日 13:26
続き

 文脈が前後しますが、先に以下についてお答えします。
>神野氏コメントの何処に「同僚」なんて書いてあるんですか?
>とりあえずそう言う用語法は「貴方とは違う」まともな日本人はやらないと言う事ぐらいは理解して下さい。
■お詫びと訂正
 この点は、先のコメントにて補足的に訂正――「批判の声を寄せる人々は、構造的にその立場を分析すれば、依然として仲間に属する人物も少なくありません。」としておいた方がよかったですね――させていただいています。
 
 私の表現ミスです。私が言いたいことを表現するにあたって通常的ではない語句の用い方をし、意図通りにお伝えできなかったこと、改めてお詫びして訂正いたします。

 それを前提として、またしても文脈が前後しますが、以下2点について。
>見ず知らずの人間に対してどうすればそんな分析ができるんですかね?
>まあ正直な話、神野氏や小酒部氏の認識をきちんと理解するには「彼女らに会って話をすべき」であって、「マスコミの記事から理解する」というのはかなり無理がある
■人間は類的な存在
 直接の面識がなければ、他人の真意というものは理解し得ないもでしょうか? 人間は類的な存在だと思います。

 全く別の企業に勤務していて、取引先などでもないので何のつながりもない人間どうしでも、構造的にその立場を分析すれば、依然として労働者階級に属するものです。階級というものは、面識の有無といったもので規定されるものではなく、資本−労働の関係から客観的に規定されるものです。

 マタハラというものは、私は資本−労働の関係が根底に横たわる労働問題だと認識しています。その点、一見して「何のつながりもない人間」であっても、階級的境遇において大いに共通項があります。その共通項こそが社会変革・新社会運営のための突破口になると私は確信しています。学生時代に熟読した『資本論』を筆頭とするK.マルクス著作を最近また読み返していますが、この重要性を再認識しています。

 もちろん、神野氏と直接的に会話し、その思いを受け止めることも有力な方法の一つだと思います。しかし、高度に都市化・市場化された現代社会においては、当事者との対面はもちろん意見交換することさえ、ままならず、ほとんどのケースでは報道等を通してその主張に接し、判断するものです。見ず知らずの人をも支持基盤としなければ、現代社会においては、労働の自主化は達成できないでしょう。現代社会の変革を志向するにあたっては、面識的な意味で「見ず知らずの人間」が何を考えて何を求めているのかを、情報を組み合わせて考察する必要があるかと思います。

■第三者的視点
 そもそも、このご意見だと、およそ論評行為というものは成立しなくなると思います。自分が直接的に見聞きできることなんて、ごくごく限られており、ほとんどの知識は直接的ではない方法で獲得するものです。自分自身に直接の経験・関係がないからといって、まったく何も述べないのは問題ある姿勢だと思います。

 部外者の意見というものは当事者の見識を補足するにあたって無駄ではないものでしょう。たとえば私は、7月16日づけ「自衛隊幹部OBの発言から透けて見える中央集権的指令経済(社会主義計画経済)の発想」(http://rsmp.seesaa.net/article/451862851.html)で、防大卒で陸自化学学校の校長を歴任した鬼塚隆志氏が提唱する国防論を経済学の視点から批判しました。だって、理論的にも歴史的にも上手くいきそうにないことを言っているんだもの。私は「国家社会を論じるというのは総合問題を解くようなもの。誰しも自分の専門外には詳しくないものです。」として、鬼塚氏の見解の不足は指摘しましたが、罵倒はしていません。

 門外漢の言い分には、しょうもない意見も多々あるでしょうが、それこそ、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という考察を深め、世間一般から見た自分の現在地を位置づけるべきであり、その上で次の作戦を練るべきです。

■歴史に学ぶにあたって「直接経験」や「当事者との直接対話」は不可能
 また、このご意見だと、「歴史に学ぶ」という営みについても位置づけが困難になりませんか? 過去の歴史的事実については、物理学的な意味で「直接経験」や「当事者との直接対話」は不可能であり、「文献(≒記事)から理解する」しかないものです。歴史に学ぶことについては、後述します。

**********

>そんなんで社会が変われば誰も苦労しません
■レーニンの轍を踏んではならない
 そうでしょうか? В.И.レーニンが「革命」の名の下で展開した大量殺戮の歴史的事実を振り返れば、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」を分析し、理解し、包摂してゆく取り組みを社会変革のプランに是非とも取り入れなければならないと考えます。

 前回コメントにて表明したとおり、私は自主管理社会主義者です。自主管理社会主義の社会――人民大衆が国家を自主管理してゆく社会――は、闘争の社会ではなく統一団結の協同社会ですが、依然として意見相違は見られることでしょう。そうしたとき、「あいつはバカだ」と断定するのは、大変にまずい。階級的連帯に基づく同志的な意見交換で、考え方をすり合わせていく必要があります。

 だからこそ、統一団結の自主管理社会を志向する立場、自主管理社会を実現するために労働運動を展開すべきだと考える立場としては、異論を罵倒するような思考回路は、まずいと考えているのです。「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」の研究が必要なのです。

 また、本文中でも述べたとおり、持論を受け入れない人物を無知蒙昧だと決めつけて扱き下ろす考え方の人物は、異論や批判にとどまらず、慎重意見や懸念意見をもシャットアウトしがちでもあります。「反革命分子」を罵倒し沈黙させて「打倒」することが、革命後の社会だという考え方も過去に実存しました。そうした考え方では、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」など考察に値しないものでした。

 その末路がレーニン治世下の大量殺戮とНовая экономическая политика(ネップ)への転向です。恐ろしい数の「反革命分子」を殺しまくったにも関わらず、案の定、事態を打開できず、仕方なくネップに転向したことは歴史的事実です(勇気をもって転向できただけマシですけどね・・・「科学真理教」は狂信的ですから)。私は、21世紀に生きる社会主義者として、レーニンの轍を踏んではならないと考えています。

 他方、私はスウェーデン研究が一つのライフワークなので、何かと引き合いに出すのですが、かの国の「国民の家(Folkhemmet)」構想は、階級闘争を否定しています。とても示唆的です。

 およそ知性と言い得るものは集合的な形態としてのみ存在する以上は、同世代の意見を虚心坦懐に取り入れるだけでは不十分。文献等から歴史に学ぶこと、先人の英知に学ぶことは大切なことだと思います。

続く
Posted by 管理者(2) at 2017年08月06日 13:26
続き

またしても文脈、前後します。
>しかし偉そうな事をほざきながら何の実績も語るべき活動経験もないのが貴方ですか。哀れというか何というか。
>>「気持ちだけじゃないか」と言われれば、それまで
>その通りですね。貴方は「それまで」の「その程度の無能で愚劣な人間だ」と自覚したらいかがですか?
■不毛な議論への変質の典型的契機
 繰り返しになりますが、神野氏の裁判闘争自体については一言も述べていませんし、一言たりとも口を挟むべき部分はないと思っています。裁判闘争自体とは別空間における「バッシングは想像力の無さ」という一点のみを問題にしており、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」に迫る必要がある、というのが、本文の一貫した趣旨なのです。

 それゆえ、bogus-simotukareさんへの返信として「「勉強材料を示せ」という点では、僭越ながら、「相手がどうしてそういう言葉を掛けてくるのか」「その人はどういう人生を歩んできたのか」という取り組みの姿勢をご提示させていただきたいと思います。」とお答えしたのが経緯です。私の活動経験を披露しなければならない文脈的な意味が分かりかねます。

 そもそも、ここで私が活動経験を披露したところで、今度は「そんな証拠はどこにもないだろう」という話になりませんか? ネットの匿名空間なんて、「誰にでもなれる」わけですが、私が仮に「全労連傘下xx組合で活動している」といったところでそれを検証する方法はないと思います。このことは、2ちゃんを筆頭とするネットでの議論が脱線する典型的契機です。夥しいケース見てきました。私は一切足を踏み入れないようにしています。意見交換の論点に収拾がつかなくなると困ります。

■あくまでロゴスで勝負したい
 割と有名な組合で本当に斬り込み隊長をしていたとなると、今までの話の様相がだいぶ変わってくると思いますが、語り手によって様相が変わる会話って意味あるんでしょうか? 「A氏が言うから正しいが、B氏が言うのは正しくない」なんていう会話に価値があるとは思えないのです。

 当ブログの一つのテーマとして、「語り手の所属は問題にしない」ことを目指しています。あくまでロゴスで勝負したい。その人が別にどこの誰であろうと理屈が正しければ「正しい」と言うし、立派な立場であっても間違った理屈は「間違っている」と言いたいのです。私が、性別や年齢層といった情報でさえ非公開にしているのは、その一環です。たとえば「30代男性」とか「中年女性」といった程度の情報を公開したところで私の匿名性は維持されますが、「若造が・・・」とか「更年期ババアは・・・」といった具合に、属性を取り上げて言ってもいないのに「言った」ことにされたくないのです。

■社会運動の核心は、現実に対する憤りではないのか
 ちなみに、仮に私が「学生運動家」だったとしましょう。年齢的な意味で闘争経験が最も浅い層です(そもそも学生の場合、労働者でさえないケースも多々あるでしょう)。しかし、そのことを以って何か言うべきではありません。社会運動の核心は、現実に対する憤りだと思うからです。キムジョンイル同志が「青春時代は新しいものに敏感で、正義感に燃え、美しいものを志向する情感に富んでいる時代であり、旺盛な知識欲と探求心が沸き起こり、新しいものを発案し創造する情熱的な時代である。」「車はエンジンをかけなければ走らないように、人間も思想にエンジンがかからなければ目的を遂げることはできない。」と指摘されているように、自分なりの感性に基づいて思索を展開し、アクションを起こすこと自体は重要なことだからです。それは変革の重要な要素です。

■そもそも、政権掌握未達成の状況下では、活動経験などすべて小さすぎる話
 なお、選挙のたびに私は「野党勢力・在野勢力は政権を目指さなければならない」「数議席程度、増えた減ったで一喜一憂している場合ではない」と繰り返し述べていますが、自主管理社会主義を志向する労働者階級が依然として権力を掌握できていない事実に照らせば、何も述べることはできないと思っています。政権掌握に比べれば、活動経験などすべて小さすぎる話。政権獲得に比べれば取るに足らない「前進」など、自己弁護・言い訳に過ぎないと思っています。ますます奮闘して天下を取らなければならないと思いを新たにしています。

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>正直、小生も「口舌の徒」にすぎないのであまり偉そうな事は言えないと思っています。
■誰もが発信する道理と権利があると思う
 遠慮することはないと思います。

 bogus-simotukareさんがどのような人生を歩まれてきたのか、まったく存じ上げない状態で申し上げますが、少なくとも同じ日本社会の空気を吸ってきていると推察いたします。昨今の社会について、いままでの人生経験から、いろいろ思うところあるのではないでしょうか? 発信して問題ないと思います。

 海外経験が長いのであれば、ますます結構なことです。内外比較の視点から論評いただきたい。ネトウヨ系は「ヨソモノがアレコレ言うな!」と突っぱねるでしょうが、それは連中の見識を狭めるだけです(見識が狭いからこそネトウヨ?笑)。もちろん、たとえばラテン系のヨーロッパ諸国での労働慣行に照らして日本の労働慣行について述べる論評は、参考にならないことが多いものですが、彼我の別を認識し、自らを相対的に位置づけるにあたっては全くの無価値ではないと思います。

 私は、違うと思ったことは「違う」と述べる方がよいと思っています。もちろん、相手だって意図があってその結論に至り、その意図を形成するにあたっては、さまざまな経験が控えているものです。そうした経験は一概に否定できるものではないので、表現には細心の注意を払う必要があるでしょう。

 だからこそ私は、繰り返し、「偉大な闘争を勝ち抜いた神野氏には重ねて重ねて祝辞と尊敬を表明しますが、僭越ながら、「バッシングは想像力の無さ」という見方だけはどうしても黙っていられなかった・・・」という論法を用いているわけです。また、前掲過去ログでの陸自OB鬼塚氏の国防論についても、「国家社会を論じるというのは総合問題を解くようなもの。誰しも自分の専門外には詳しくないものです。」という論法を用いたわけです。私の一貫した姿勢です。

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>そりゃおかしいでしょうね。
この点においては、当然のことではありますが、意見が一致したことはよかったです。

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>想像力がないのは「たかが口舌の徒にすぎない」のに偉そうに「現実に活動してる人間に説教できると思い上がってるらしい貴方」の方でしょう。
■みんな限定合理的だからこその本文論旨
 繰り返しになりますが、知識というものは個々人に分散しており、特定の誰かの脳味噌・知性に集約されるものではなく、およそ知性と言い得るものは集合知としてのみ存在するという事実を私は承服しています。また、同世代の意見を虚心坦懐に取り入れるだけでは不十分で、歴史に学ぶこと、先人の英知に学ぶことは大切なことだと理解しています。設計主義的合理主義は断じて承服しておりません。私は社会主義者であると同時に漸進主義者です。

 みんな限定合理的。それを理屈としても感覚としても知っているからこそ、「バッシングは想像力の無さ」という断定に異を唱えたのです。
Posted by 管理者(3) at 2017年08月06日 13:26
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