2017年12月11日

「無限の単線的進歩」ゆえに予想を外したマルクスの焼き直し;AIと未来社会

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171129-00199055-toyo-bus_all
>> AIの発達をこのまま市場に任せてよいのか
11/29(水) 6:00配信
東洋経済オンライン


(中略)

 しかしもっと先を考えると、AI(人工知能)の進歩で機械が人間の行ってきた仕事を担うようになるという動きが加速し、人間の仕事はなくなっていき、世界的に労働力過剰という事態が出現する可能性がある。

 『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか〜労働力余剰と人類の富』(東洋経済新報社、2017)で、著者のライアン・エイヴェントは、コンピュータは蒸気機関や電気と同様の汎用技術でとてつもない力を持ったものであることや、デジタル革命は人類に多大な恩恵をもたらすので後戻りできない流れであることを指摘し、社会が直面する課題を論じている。


(中略)

まだ何十年かの間は、生活を支えるすべてのものは、価格が低下していくものの有料である。必要なものを手に入れるためには、人々は何とかして所得を得る必要があるという状態が続くとの前提で将来を考えるのが無難だ。ところが、AIが発達していくことで機械に仕事を奪われ、所得が得られなくなる人が多数生まれてしまうおそれがある。

(中略)

 AIが進化して行けば、現在はAIで代替することは難しいとされている仕事に就いている人たちも安泰ではなくなる。少し昔にはコンピューターが囲碁で人間に勝つようになるのはまだ先のことだと考えられていたが、今や世界最強といわれる棋士でもコンピュータにはまったく歯が立たない。人間が必要な分野はどんどん縮小していくだろう。

 AIによる自動化が図られるのは、それが容易な分野だけでなく経済的な利益が大きい分野も、である。企業にとっては、高賃金の仕事ほど機械で置き換えるメリットが大きい。低賃金で機械化の利益が小さいところや、雑多な作業で対応が難しいものが人間が行う仕事として残され、生活を支えるために多くの人がこうした仕事を得ようとして争うことになる恐れが大きい。


(中略)

 ノースウエスタン大のゴードン教授など技術進歩の速度低下を指摘する声は多いが、むしろ社会変化の速度は速くなっているように見える。親の経験は子供たちが将来を考えるにはまったく役に立たず、制度や人々の生活スタイルや考え方、行動が社会変化について行けないほどだ。

 テグマークの言うように、AIの発展を未来の社会にとって良いものにするためには、これをどう受け止めるのかという議論が必要だ。デジタルエコノミーの発展は人類に想像できないような豊かさをもたらすことができるはずだが、それは神の見えざる手に任せておけば自然に実現するというものではないだろう。

櫨 浩一 :ニッセイ基礎研究所 専務理事
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■マルクスの焼き直し
150年前にマルクスが提唱した「機械制大工業の進展によって労働者の働き口がなくなり、労働者階級は窮乏化してゆき、最終的にプロレタリア革命が必然的に起こる」――もちろん外れました――の焼き直しに留まる内容であると言わざるを得ません。

マルクスが機械制大工業の進展をエポック・メイキングな出来事かつプロレタリア革命を必然化させる物質的条件と位置付けた理由は、原始時代以来の「道具」が、あくまでも人間の身体的能力を補佐する程度にとどまる、換言すれば、「人間=主、道具=従」の関係性にあるのに対して、工作機械は、人間の身体的能力を超越するので、「機械=主、人間=従」になってしまうという見解によるものです。資本家が利潤追求を続ける限り、生産は無制限に拡大してゆくので、機械制大工業はますます不可逆的に進展するというのがマルクスの歴史の見通しであり、それゆえに、もともと人間に奉仕するために開発された工作機械が、人間の身体的能力を超越する生産能力を以って逆に人間を「機械の付属物」と化してゆくだろうとマルクスは述べました

そのうえでマルクスは、「機械の付属物」と化した生身の労働者たちは、雇い主である資本家に対して立場が弱くなり窮乏化してゆくが、それが労働者階級の反抗心を強化するだろうとし、また、機械制大工業の発展に伴って労働現場での協業が拡大することで、それまで職人肌的だった労働者たちが「協力し合うこと、団結すること」を学ぶようになるだろうとしました。それゆえに、プロレタリア革命が必然的に起こるだろうとマルクスは予測したのです。

もっとも現実の経済史は、機械制大工業は進展しつつも、人間は、マルクスが想定したほどには「機械の付属物」にはなりませんでした。幾つか理由がありますが、マルクスが想定したほどには一方的な自動化が進まなかったことは大きな要因として挙げることができるでしょう(このほかにも、後掲するノーベル物理学賞受賞者である益川教授のご指摘に関連させれば、「機械制大工業の進展によって、まったく新しいフロンティアが開拓された」といった理由が考えられます)。

■「無限の単線的進歩」観が予想を外した原因だった
マルクスが予想し誤ったのは、彼が生きた時代の制約でした。彼が生きた時代は、科学技術の進歩が著しく、この進歩が永遠かつ不可逆的に続くものと多くの人々が信じて疑わなかった時代でした。工作機械は永遠に飛躍的に進歩し続け、人間の能力を超越するだろうと皆が見通しを持っていた時代でした。しかし、実際にはそんなバラ色かつ単線的な進歩は実現しなかったのです。

無限の単線的進歩を前提としたからこそ成り立ったのが、相対的過剰人口・産業予備軍の不可逆的増加による労働者階級窮乏化論。労働者階級の窮乏化が共産主義革命を必然とする一要素(このほかにも、資本の有機的構成が不可逆的に高度化することによって、利潤の源泉としての労働者が産出する剰余価値の搾取が不可能になるといった理屈もあります)になるとしたマルクスの「予言」が破綻したのは、当然のことです(もっとも、最近のマルクス経済学もようやく、「相対的過剰人口・産業予備軍は、必ずしも不可逆的増加し続けるとは言えない」という境地に立ち始めたようです)。

■「AIの発達による失業」論の前提にある「無限の単線的進歩」観
マルクスの予想が外れた原因を「無限の単線的進歩」に据えるとすれば、昨今の「AIの発達による失業」論が、まさにマルクスの外れ予想の焼き直しに過ぎないことが明々白々になるのではないでしょうか

本件記事の内容は「AIが進化して行けば、」だの「AIが人間の能力を超えていけば、」だのと、あくまで仮定の域を脱していない話を大前提・主張の骨格としています。もっと言ってしまえば、記事全体が曖昧な推測で成り立っています。

11月17日づけ「20世紀的社会主義の崩壊から一歩も進歩していない「デジタル・レーニン主義」」でも言及したとおり、AIの能力が人間の能力を不可逆的かつ圧倒的に凌駕し続けるかは、依然として不透明です。当該記事にて私は、次のように述べました。
>> 昨今のAI信仰には、「人工知能の技術が発展すれば」という「近未来小説」に成り下がっていることが往々にしてあります。全知全能に近いAIが実現すれば、何だって簡単にできるでしょうが、そんなものが「技術の進歩」によって本当に出来得るのかということを問わねばならないでしょう。この手のAI信仰は、「ドラえもんが居れば・・・」レベルの話であると言わざるを得ないものが少なくないものです。 <<
現時点、AIがどの程度まで進歩し得るのかは未知数です。マルクスが著作活動を展開していた19世紀後半の、工作機械のポテンシャルが未知数だった時代と類似しています。そうであるがゆえに、マルクスがそうだったように、AIについての「永遠の進歩」を基に未来社会を想定する言説が続出するのは、無理もないのかもしれません。しかし、「永遠の進歩」などあり得るのでしょうか? AIはそんなに全知全能的に、不可逆的に、永遠に進歩し続けるのでしょうか? 疑問を感じざるを得ないところです。

■語り得ぬことには沈黙せねばならぬ
まだ現実的な条件が明らかでないことについて論じることはできないものです。マルクスは、楽観的過ぎる「無限の単線的進歩」の展望を持っていたとはいえ、たとえば未来社会論としての共産主義社会の細部については多くを語っていません。これは、まだマルクスの時代にあっては、大雑把な進歩の展望としての、未来社会論としての共産主義社会は予言できても、その細部を語り得るほどの材料が足りなかったためです。

この心構えは、AIの発達に伴う人間社会の変容を展望する上でも欠かせない考え方でしょう。あくまで現在の技術水準と、確実に実現するであろう技術革新の範囲内でしか未来社会は語り得ないものです。漠然とした「AIが進化して行けば・・・」や、果たしてそんなことが実現するのか未だ不透明な「AIが人間の能力を超えていけば・・・」といった「予測」は、「近未来小説」の域を脱するものではなく、「ドラえもんが居れば・・・」レベルの話に過ぎないのです。

■人間とは何かを考える好機
とはいっても、AIの発達という論点はとても刺激的なものです。このことは、結局、「人間とは何か」という哲学的な探究テーマにもつながってゆくものです。次に引用する2つの記事は、その観点において興味深い内容です。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171208-00010000-eipub-life
>> ノーベル物理学賞受賞 益川教授が証言! AIが絶対に人間にかなわないもの
12/8(金) 19:02配信
エイ出版社


(中略)

しかしだ。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、「仮にAIがどんなに優秀になっても、人間の仕事は決して無くならない」と話す。

(中略)

AIが絶対に上回ることができない人間の強み
◎AIが人間に肩を並べる知能を身につけた場合、科学研究のあり方はどう変わるのでしょうか?

益川:仮にAIがどんなに優秀になっても、人間の仕事は決して無くならないと僕は考えています。AIのビッグデータが発展し、コンピューターの処理速度が上がったとしたら、むしろそれらの進化を味方につけて、人間はどんどん複雑な事象を取り扱えるようになると思うのです。

何より、AIが絶対に上回ることができない人間の強みは、圧倒的な知的好奇心です。AIが家事や仕事まであらゆる作業ができるようになったとしても、人間が何もしなくなるとは到底考えられない。そのぶん、生まれた時間を有益に使って、新しいことを考えようとするのではないでしょうか。
(以下略) <<

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171206-00199655-toyo-bus_all
>> 2030年コンピュータはどこまで人間に迫るか
12/6(水) 8:00配信
東洋経済オンライン


(中略)

■人間が負けない「CMH」の領域
 井上:私は人間が汎用人工知能やロボットに負けない「CMH」という3つの領域を挙げています。Cはクリエイティヴィティ(Creativity:創造性)、Mはマネジメント(Management:経営・管理)、Hはホスピタリティ(Hospitality:もてなし)で、この3分野の仕事はなくならないだろうと考えています。

 ただ、こうした分野にも当然、AIやロボットは入り込んできて、人間と協業することはもちろん、ともすれば人間の競争相手になってしまう可能性もあるわけです。


(以下略) <<
以前から述べている通り、私はチュチェ思想・チュチェ哲学を信奉しています。チュチェ哲学において人間は「あらゆるものの主人であり、すべてを決定する」存在であると位置づけられていますが、これは、人間のみが、「自主性・創造性・意識性をもった社会的存在である」ということによるものです。

そうしたチュチェ哲学の観点に立って人間に特徴・特長的な要素を考えるとき、世界の益川教授が挙げる「知的好奇心」や、井上准教授の"Creativity"という指摘に注目するところです。

私はかつて、いわゆる「コンピュータの5大機能」(演算装置、制御装置、記憶装置、入力装置、出力装置)を、それぞれ「自主性、創造性、意識性」のフィルターで(強引に)分類したとき、どうコジツケようとしても、「自主性・自主的要求」だけは該当する機能がコンピューターには存在しないのではないかという結論にいたったものですが、その観点で行くと、益川教授が挙げる「知的好奇心」については理解可能であるものの、井上准教授の"Creativity"は少し理解が追い付かないところです。

まだまだ私自身も研究を始めたばかりなので、井上准教授の指摘については「判断保留」として、噛みつきもしなければ持論の撤回もせずに措いておきたいと思います。チュチェ哲学への認識を深めるためにも、AIの発達については今後も折に触れて取り上げてゆきたいと考えてます。
posted by 管理者 at 00:37| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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