>> 九州商船 全便ストライキに突入 長崎ー五島列島年末年始へ混乱必至 旅客船巡るストは全国でも異例https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171225-00000081-mai-bus_all
12/25(月) 7:56配信
長崎新聞
九州商船(長崎市、美根晴幸社長)の船員112人が加盟する全日本海員組合長崎支部(松本順一支部長)は25日、長崎、佐世保と五島列島を結ぶ全便・無期限のストライキに突入した。旅客船を巡るストは全国的に珍しい。年末年始の繁忙期に及べば、帰省客や物流に影響し混乱は必至だ。
長崎県によると、五島列島発着便の輸送人員で九商のシェアは約6割に上る。このうち長崎―福江は独占状態だ。全便止まれば一日約2千人の足に影響し、物流も滞る。五島産業汽船(新上五島町)はストの間、長崎―福江3往復6便などを臨時運航するが、どこまでカバーできるか見通せない。
組合は、九商がジェットフォイル整備員の採用形態を船員から陸上従業員に変えた「陸上化」に反発。撤回しない限りストに入る方針を示していた。一方、九商の美根社長は、陸上化は経費削減や船員不足への対応に必要として「撤回する考えはない」としていた。
(以下略) <<
>> <九州商船>スト解除 26日は一部除き通常運航https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171226-00000003-nagasaki-l42
12/25(月) 20:19配信
毎日新聞
長崎県の本土から五島列島への離島便を運航する九州商船(長崎市)の船員112人が加盟する全日本海員組合は25日、会社側の合理化策に反発し、始発便から無期限ストライキに突入した。全32便が欠航となったが、会社側が同日、合理化策を白紙撤回したことから、組合側はストを解除し、26日は一部を除いて通常運航される。
(以下略) <<
>> 九州商船スト2000人に影響 26日から平常運航長崎新聞記事に対するNPO法人POSSE代表の今野晴貴氏のコメントも引用します。
12/26(火) 9:45配信
長崎新聞
九州商船(長崎市、美根晴幸社長)の船員112人が加盟する全日本海員組合長崎支部(松本順一支部長)は25日、長崎、佐世保と五島列島を結ぶ全32便でストライキを実施し、約2千人に影響した。組合は同日午後、九商が要求事項を受け入れたためスト解除を決定。26日から定期運航が再開する。年末年始に及べば帰省客や物流の混乱は必至だったが、最悪の事態は免れた。
組合は、九商が経費削減などを理由にジェットフォイル整備員の採用形態を船員から陸上従業員に変え、加入組合も企業内組合に決めたため「海員組合の弱体化を進めている」と反発。組合は陸上従業員の海員組合加入を認めることや誠実な団体交渉を求めて対立してきたが、最後は九商が組合の要求をのんだという。
(中略)
代替手段が限られる離島航路がストで止まるのは九州運輸局が「聞いたことがない」という異例の事態だった。
九商と組合はそれぞれ長崎市で記者会見。九商の大内田義一専務は「これ以上、ストを長引かせて利用者に迷惑は掛けられない。組合に譲歩せざるを得なかった」、組合の松本支部長も「利用者に迷惑を掛けた。ストは最終手段だったが、早く回避できてよかった」と語った。
最終更新:12/26(火) 9:45
長崎新聞 <<
>> ストライキはなぜ許されるのだろうか? 法律では、労働組合の正当な行為(ストを含む)に関しては、刑事的、民事的に「免責」されることになっている。つまり、本来業務妨害などの刑事罰が与えられるところ、それは免責される。また、ストによって生じた損害が何億、何百億だろうと、すべて免責されるということだ。それだけ、労働組合は強い権利を持っている。■市場経済における商行為の一環としてのストライキの効用(1)――市場メカニズムは企業側の横暴への歯止めになる
労働組合にそれだけ特別な力が与えられている理由は、そもそも労働側が市場で不利だからである。原則として、市民社会において私人間(会社と労働者を含む)は、対等・平等が原則だ。だが、その原則を労働市場にそのまま適用すると、組織規模が大きい会社側が、圧倒的に有利になる。そこで、対等・平等の「実質」を保障するために、労働法は労働側が有利になる権利を付与している。
したがって、法的には、これは「特権」ではなく、対等・平等を最低限保障するものに過ぎないのだ。 <<
このご時勢のストライキですから、組合側も相当な苦悩の末に下した決断だったものと推察します。後述のとおり私は、自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは大いに展開すべきであると考えています。
さて、「ストライキ」だの「労働者の権利」だのと言われると、なんだか「アカい」感じがし、それゆえに反感・反発を覚える人も決して少なくないものと思われます。しかし、「色」の問題はさて置き、economics(非マルクス主義的な経済学、特にミクロ経済学)の観点から考察すれば、今野氏が正しく指摘している「実質的な労使間の対等・平等を保障するための免責」に裏打ちされたストライキの経済的作用は、市場メカニズムの働きを実現させるものと言えます。その点においてストライキという行為は、当事者や自称「支援」者の狙い・魂胆はさておき、自由な市場経済システムに親和的な行動であるとさえ言えます。
最も初歩的なミクロ経済学の理論である、競争的市場経済に関する部分均衡分析――消費者にとっての支払い上限価格を示す「需要曲線」と生産者にとっての販売下限価格を示す「供給曲線」で構成されている、中学生でも知っているアレ――においては、対等な関係性にある消費者と生産者との間での交渉妥結点(均衡点)において商品の取引価格と取引数量が決まるとされますが、生産者にとっての供給曲線は、本質において限界費用(Marginal cost)曲線です(単純化のために短期−長期の問題は捨象します)。これはすなわち、資本主義的・市場経済的な商売人(民間営利企業)は、入ってくる収入と持ち出しになる費用を比較して生産計画を立案しているわけです。商売は慈善活動・ボランティア活動ではないのだから、至極当然のことでしょう。
労働者は、自身の労働力を切り売りしている点において、「労働市場における商売人」であると言えます。労働者もまた商売人である以上は、慈善活動・ボランティア活動で働いているわけではないのだから、いくら労働契約を結んでいるからといって、いつでもどんな場合でも自身の労働力を販売するわけには行かないものです。
今野氏が正しく指摘しているように、事実として労働者は企業に対して不利な立場にあるわけです。現実の労働市場を「生産手段の所有の有無」という観点から考察すれば、労働供給(労働者)側のプレイヤー数に対して労働需要(企業・資本家)側は相当に少数派である点、労働市場は需要寡占状態であると言うべきだからです。また、市民法的秩序の枠内においては、労働者は「契約上取り決められた一定時間内は『使い放題』の労働力」である以上は、労働者は、牛馬のように使役されても「違法」ではありません。もちろん、それを看過するわけには行きません。それゆえ、ストライキを筆頭とする労働争議行為は、通常の市場取引であれば「債務不履行」として訴えられても文句は言えない「契約違反」であるものの、例外的に免責が認められているのです。労働市場における商売人たる労働者には、市民法的秩序では認められ得ないような例外が認められているわけです。そのおかげで、事実として企業に対して不利な立場に立っている労働者は、辛くも企業に対して対等な関係性を実現させ、交渉力を持つのです。
なお、今野氏は、労働者が企業に対して不利な立場に立っている理由を「組織規模」としていますが、正しくは「生産手段の有無」と言うべきでしょう。企業は生産手段;稼ぐための設備を持っているが、労働者はそれを所有していないので、企業で「働かさせもらわなければならない」わけです。稼ぐための設備を所有している側がより強い立場に立つのは必然的なことです。
このことは、後述する自主管理を目指す立場にとっては極めて重要な事実だと考えているところです。「組織規模」の問題に焦点を合わせる今野氏の言説は、単に組織規模を大きくするだけの「労働運動・組合運動」に留まったり、労組運動の単一組織化を志向するものになりかねない点、危惧するものです。チュチェ106(2017)年7月19日づけ「労組が個別労働者から取捨選択されるようになった時代、あるいは単なる労働界の内ゲバ」等の記事で以前から述べているように、労働組合同士も競争的関係性にあるべきだと考えているところです。
労働争議行為に対する免責規定の存在こそが、労働市場において市場メカニズムを正常かつ円滑に作用させるのです(これは歴史的な試行錯誤の上に積み重ねられてきた「労働市場における伝統」であり、漸進主義としての保守主義の立場としては、何か「合理」的な思考でリセットすべきものではないと考えているところです)。その点において、ストライキは、労働者の人間としての権利(人権)である以前に市場取引における商売人としての合理的行為なのです。
労働屋が妙な「色」を付けてくれているお陰でストライキという行為は、左翼運動の一環であるかのように見えるところですが、経済学的に解析すれば、その本質はあくまでも「売り手と買い手の取引交渉失敗による取引停止・操業停止」なのです。左翼はストライキを自らの専売特許であるかのように位置づけたり、革命運動に「利用」しようと試みたりしているものの、経済的効果の面においては本質的には民間営利企業のそれと同様、商行為の一環なのです。そして、免責規定がそれを支えているのです。
労働者のストライキについてアレコレ御託を並べて非難する手合いは、民間営利企業の経営選択についても非難してくれるのでしょうか? 労働運動に対する非難度合と民間営利企業の経営選択に対する非難度合には大きな差があるように思えてなりません。今野氏が正しく指摘しているように、労働者が労働市場において不利な立場に置かれているにも関わらず、その不利な立場に立っている方が取引の一時停止を宣言すれば叩かれる一方で、労働者と比べれば強い立場にある企業が営利的理由で取引の停止を宣言したときには、それほど反発を受けていないのが現実です。しかし、両者とも慈善活動・ボランティア活動ではなく、商売でやっている点では共通なのです。
当ブログでは以前から「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げた上で、ミクロ経済学に立脚しつつ市場活用型の労働運動の展開を提唱してきました。後述のとおり、自主管理社会主義を信奉している関係上、ストライキを主たる武器とする従来型の要求実現型の労組運動は「お代官様への陳情」に留まっているという点において批判的だし、チュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」で述べたとおり、要求実現型労組運動は、むしろ労働者階級の立場を弱める効果さえあると考えています。
しかし上述のとおり、ストライキの経済的効果の本質は「売り手と買い手の取引交渉失敗による操業停止」であり、これは市場メカニズムを利用している点において市場的な行動であると言えるので、一概には否定してこなかったところです。1月29日づけ「「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」――フリーランス協会の行く手について」においても、既に次のように述べています。
>> ■システムとしての市場経済で自主化を達成するためには
以前から繰り返し述べているように、市場経済はシステムです。売り手と買い手は、時に利益が相反するケースもありますが、そうした場合であっても「呉越同舟」の関係。大きく捉えて「全体として渾然一体」な関係にある「システムの構成要素同士」であることには変わりはありません。
システムとして市場経済を見たとき、自らの自主化を目指すのであれば、需給双方は協調すべきであると同時に、利益が相反するケースにおいてはシステム的としての大局観を意識しつつ、主体的立場に立って条件交渉を行うべきであります。お互いに相手の事情を汲みながら主体的立場にも立ち、相互牽制的に交渉を展開し、時に袂を分かつ――そもそも「市場における契約交渉」自体が原則的にそうしたものです。
■「協調」と「主体的立場に立った条件交渉」
そうした原則の下、当ブログでは「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げて論考してきました。一連のシリーズ記事において私は、従来型の要求運動型の労働組合活動については、活動家たちの階級二分法的発想・行動について批判を展開してまいりました。「主体的立場」を鮮明にする点においてはよいのですが、「需給双方の協調」に欠けた言動・プランが目立つのです。それどころか、システム的な大局観に立っていないために、逆に労働者としての利益をも損ねかねない「素人考え」が見え隠れしています。とても全面的な支持をすることはできません。 <<
また、上掲のチュチェ104(2015)年10月8日づけ記事でも述べたように、現実問題としてそう簡単に勤め先を辞められるものではありません。その点において、短期スパンの補助的役割として団体交渉の意義は十分にあると私も認めているところです。
ストライキ路線の弊害については論考を重ねてきていたので、私のことをストライキ否定論者だと思っている読者様がいるとするならば、上述のとおり、そうではないと述べておきたいと思います。「退職」という選択肢を取り得、市場メカニズム(需給法則)が円滑に実現する長期においても、それができない短期においても、「労働市場の商売人」としての労働者が打って出るストライキには経済学的に意味があるのです。
■市場経済における商行為の一環としてのストライキの効用(2)――市場メカニズムは過剰なスト・権利運動に対する歯止めにもなる
ストライキに伴う「社会的影響」、平たく言えば「世間様への迷惑」という論点は、労働運動・労組運動において、しばしば取り沙汰されるものです。
「世間様へのご迷惑」――このことは、とりわけ運輸業を筆頭とするインフラ産業においては十分に検討しなければならないことです。私は以前から、福祉国家の祖国;スウェーデンにおける労働政策・労働運動の研究をライフワークの一つとしてきましたが、スウェーデンにおいては「労組の社会的責任」という観点が定着しています。「労働運動は権利運動ではあるものの、それを展開するにあたっては社会的な影響を考慮して実行しなければならない」「労働組合・労働運動にも社会的な責任を果たすことが期待されている」という考え方が定着しているのが福祉国家の祖国;スウェーデンです。
これに対して日本では、「企業の社会的責任」は声高に提唱される一方で、労組に対して社会的責任を要求する声は、まだまだ低調であると言わざるを得ません。国労の前例を振り返れば、社会的悪影響など顧みていないが如き運動が大々的に展開されて来、なおかつその総括が中途半端に留まっている経緯もあって「ストライキ=他人の迷惑を顧みない自分勝手な行動」というイメージが根強く残っているところです。
「労働組合の社会的責任」という文化が根付いていない日本において、国労の記憶がまだ消え去っていない日本において、労働運動の盛り上がりに懸念はないのでしょうか?
労働運動のやり過ぎが自分自身の首を絞めることに繋がるのは、それこそ国鉄の例を見れば明々白々です。国鉄は利用者不在の労使対決に明け暮れた挙句、利用客の私鉄へのシフトの流れ等に対処しきれず、労使諸共に没落してゆきました。自由主義経済では買い手側の需要が存在する限り、誰かが市場に参入してサービスを供給するものです。「お前の代わりは居る」というわけです。短期間のストライキであれば顧客が逃げるということはないでしょうが、競合他社の体制が整うくらいにまで労使紛争が長引けば、会社ごとマーケットから競争淘汰されてしまいます。利用客にとっては労使関係なく「会社」。その意味において、一企業の労使は、消費者との関係においては「呉越同舟」の関係にあるのです。
※ちなみに、公務員のスト権が制限されているのは、公務労働においては「競合他社」が存在しないという点が一つの理由になっています。
前掲引用記事によると、五島産業汽船等、九州商船以外の船会社による増便が実施されていたそうですが、このストライキが長期化しようものなら九州商船の利用客は五島産業汽船にシフトすることでしょう。そうなれば、九州商船は労使諸共に没落してゆくことでしょう(幸い、ストは1日で原則解除される見通しですが)。
そう、ここでも市場原理が作用するのです。労働者がストライキという形で労働供給を拒否することによって企業側の身勝手な労務管理に牽制球を投げつけるのと同様に、顧客は消費者としての選択の自由の行使を行使することによって顧客不在の労使紛争に牽制球を投げるのです。「労組の社会的責任」が定着していなくとも、市場メカニズムが健全に作用しており、そして労使双方が市場メカニズムの原理と自分自身の言行の経済学的意味について正しく理解していれば、「世間様への迷惑」には一定の歯止めが自動的にかかるのです。利用客や競合他社の反応を無視するがごとき労使対決は、労使諸共に競争淘汰されることに繋がるので、なによりも当事者自身のためになりません。それゆえに、市場メカニズムの健全な作用は労使対決において一定の歯止めになり、結果的に「世間様へのご迷惑」が回避されるのです。
ちなみに、国鉄における労働運動の結末と比較したとき、私鉄における労働運動は注目に値すると私は考えています。すなわち、国鉄における労働運動は利用客を直撃するような運動を展開したのに対して、私鉄における労働運動は利用客にはそれほど影響が及ばない場面での運動が展開されていたのです。利用客を敵に回さない一方で、企業当局側には打撃を与える・・・一企業の労使は消費者との関係においては「呉越同舟」の関係にあるという事実を直視し、誰を敵に回してはならないかということを十分に承知した上で戦術を練らなければならないのです。労働運動にもスマートさが必要だと思うのです。
労働運動がスマートになれない要因として、私は以前から指摘しているとおり、労働運動の担い手たちは、社会をシステムとして捉えるのではなく、階級対決的な思考回路で考えている点があると考えています。階級対決的な思考回路は、消費者との関係における一企業の労使が「呉越同舟」の関係にあるという事実を見誤らせるものです。
■本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそストライキは大いに展開すべき
利用客や競合他社の反応を注視する限りにおいてのストライキ・労使対決については、私は、市場主義の立場に立つからこそ大いに展開すべきだと考えています。左翼的な階級闘争云々などとは全く無関係に、売り手と買い手が対等な関係性で経済的取引を展開する健全な市場経済、本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそ、ストライキ・労使対決は大いに展開すべきです。
■ストライキの逆効果
ストライキの逆効果についても語っておきたいと思います。ストライキは、市場取引における商売人としての労働者の合理的行為であるとは言っても、万能ではありません。
チュチェ105(2014)年8月3日づけ「「ブラックバイトユニオン」は逆効果――やればやるほど資本家への依存を高める」やチュチェ104(2015)年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」」でも述べたことですが、要求実現型労組運動は本質において利益分配要求運動です。企業側・資本家側に対する利益分配要求が認められるということはすなわち、彼らとの利益共同体に参画することを意味します。本来、労働者階級が自らの立場を強化するためには、企業側・資本家側への依存から脱却して自立的になるべきなのに、要求実現型労組運動を深化して行けば行くほどに、むしろ企業側・資本家側との結びつきが強化されてしまうのです。この点において、要求実現型労組運動は労働者階級の立場を弱める効果さえあると考えています。
チュチェ105(2016)年6月19日づけ「マクドナルドの「殿様商売」「ブラック労務」に改善を強いたのは労働組合ではなく市場メカニズムのチカラ」でも述べたとおり、ミクロ経済学における価格弾力性の議論を思い出せば、仮に免責規定に裏打ちされたストライキによって「労使対等」を実現したところで、労働供給側の価格弾力性が労働需要側以上に硬直的であれば、依然として実質的な意味において「労使対等」は実現されていないと言わざるを得ないところです(経済学的分析については、Mankiw(2002)Principle of economicsあたりを参照)。価格弾力性の大小は「代わり」の存在に規定されるものですが、このことはすなわち、ストライキを主たる武器とする要求突きつけ型の労働運動は、労働供給側の価格弾力性を下げ得ないどころか、逆に上げかねない点において逆効果であるとさえ言えるものです。ストライキは商行為の一環ではあるものの、依然として「途中の過程」なのです。ストライキは、手段の一つではあるものの、手段の一つでしかないのです。
■労働者階級の自立・自主管理の推進のためには、ストライキに留まっていてはならない!
私は、市場経済を活用する形での自主管理社会主義を目指す立場なので、市場主義者であると同時に自主管理社会主義者でもあります。その点において前述のとおり、健全な市場経済・本来的な自由経済を維持・拡大するためにこそストライキ・労使対決は大いに展開すべきであると考える一方で、そこに留まってはならず、資本家からの自立と生産を自主管理を目指すべきであるとも考えています。
ストライキや要求実現型労働運動は左翼運動の推進にはなり得ません。左翼運動とは、労働者階級が社会の主人になるための運動です。資本家からの自立と生産を自主管理を目指すのが左翼運動です。その点において、以前から繰り返しているように、ストライキを主たる武器とする従来型の要求実現型の労組運動は「お代官様・地主様への陳情」に留まっているといわざるを得ません。資本家から自立していないし、生産を自らの管理下に置いているわけでもないのです。
ストライキは運動の第一弾であるとはいえ、これで「要求が達成された」などと言って満足してはならないと考えているところです。
■やっぱり労働弁護士は・・・
ちなみに、当ブログでも何度か批判的に取り上げてきた「ブラック企業被害対策弁護団」代表である佐々木亮弁護士が、本件について経緯を説明しています。佐々木弁護士は本件代理人として参画しているそうで、その立場から主張を展開しています。
クライアントの立場に「一方的に偏った」主張を展開することは、弁護人として当然のことだと私は考えている(旧ブログ時代に光市事件裁判を筆頭とする凶悪刑事事件の裁判について考察を展開してきたころから一貫した立場です)ので、そのことについて私はどうこう言うつもりはないのですが、それにしても佐々木弁護士の主張からは、「なんで会社側は、ここまで強硬だったんだろう?」ということが丸で見えてきません。
私がストライキを肯定的に評価するのは、上述のとおり「商行為の一環」故ですが、ストライキが商行為の一環であるということはすなわち、相手側の思いを汲みつつ落としどころを用意しながらストライキを決行しなければならないということです。
「労組批判はお門違い」のパラグラフにおける権利講釈、「ストライキを止める方法」のパラグラフにおける「会社が組合の要求を飲めばいいだけ」――間違いではないんですけどね。。。まあ、佐々木弁護士はあくまで労組側代理人であって調整役ではなく、本人も調整役であるとは一言も言ってませんからね。。。しかし、労働問題がかつてないほどに社会的注目を浴びている今日においては、法律のプロである佐々木弁護士におかれては、代理人としての視点とともに、調整役としての視点からも論じて欲しかったなぁと思うところです。
ラベル:自主権の問題としての労働問題 ☆