私が掲げている「自主」とは、「一人ひとりの生身の人間の多様な事情にあわせて、その人自身が自らの運命の主人になる」という視点で物事を思考・判断する立場です。「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定する」というチュチェ思想の根本原理に基づくものです。
ところで、人々が自主化を志向して行動し始めれば、既存の制度や仕組み、システム等との調整が必然的に発生します。自主化とはすなわち変革のプロセスであります。
■各種ルールと自主性・多様性をどう調整するのか――自主性・多様性と無政府状態は根本的に異なる
自主化は一人ひとりの人間の運命開拓の営みであると同時に、社会集団の内部で展開される営みです。個人は社会集団から隔絶された存在ではなく、社会集団の構成要素です。チュチェ思想は、個人と集団の関係を調整するにあたって「集団主義」という概念を導入します。集団主義原則を具体化するにあたって私は、「各種ルールと自主性・多様性の問題」について取り組まなければならないと考えているところです。その観点から今年、私は、5月6日づけ「「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないために」を発表しました。
タイトルが問題意識を示しています。自主化を果たすことは止めることのできない正当なことでありながらも、それが「何でもあり」に転落することは避けるべきです。集団主義を具体化する必要があります。
記事中でも述べた通り、「こんなのは不当であり、合理性はない」と思えたからといって、皆がそれを行動計画の前提的枠組みとして活用しているルールを勝手に破ってはいけません。それは「多様性」という言葉では正当化されないのです。多様性は一定の枠組みがあって初めて成り立つものであり、枠組みのない「無政府状態」とは根本的に異なるものです。
■ルール破りを安易に認めることは悪人を利するだけ
もちろん、正当防衛や緊急避難が成立するようなケースでの自己判断は認められるべきものです。これは当然のことです。しかし、それはあくまでも例外的ケース。5月6日づけ記事では、正当防衛的なルール破りを根拠にそれ以外の一般的規制を議論を展開する言説を批判しました。このような言説が罷り通るならば、およそあらゆるルールは「自己判断」を理由に破ってもよいことになり、あっという間に「無政府状態」に陥ることでしょう。
すこし話のスケールが大きくなってしまいますが、7月29日づけ「ICBM発射実験は安保理決議違反だが正当防衛」において私は、朝鮮民主主義人民共和国の国連安保理決議に疑いの余地なく正面から違反する行為としてのICBM発射を擁護したいならば、「安保理決議は不当、ICBM発射は独立国家の自由だから従う必要はない」という論法を立ててはならないと述べました(ちなみに、共和国政府はこのような論法を採用してはいません)。というのも、資本とその代弁人たる帝国主義列強諸国が、「自由」の概念を最大限に悪用している現実に照らせば、各種のルールを「自己判断」で破る行為を前例として歴史に残したり、あるいは成文法的に認めることで一番喜ぶのは、ほかでもない帝国主義者たちだからです。
「こんなのは不当であり、合理性はない」というルール破りの理屈を正当防衛・緊急避難以外に認め始めることは、「本当の悪人」たちを利するだけであり、善良な市民のささやかなる自主化・多様化の実現とは全く異なる方向に話が進みかねないのです。
集団主義は文字通りの意味において、集団の秩序を重視すべき立場です。集団主義を基礎とする社会主義朝鮮ではよく「社会主義順法精神」が訴えられますが、ルールを尊重する立場を貫かなければなりません。
■社会的議論こそが正攻法
「不合理なルールを変えて多様性を実現する」を単なる「何でもあり」にしないためには、不合理であってもルールはルールであるとしたうえで、「だからこそルールを変えるんだ!」という正攻法で立ち向かうべきであります。多様性は一定のルールがあってこそのものであり、ルールなき「多様性」は無政府状態に過ぎません。そして、「このルールはおかしい」という合理的思考は尊重すべきですが、「だから破っても良い」には必ずしも直結しません。繰り返しになりますが、「既存の価値観の打破」が「なんでもあり」に転落しないためには、「あくまでもルールを守る、正当防衛的緊急事態を除いて、非合理的なルールだとしても自己判断で勝手に破らない」という大原則をあくまで守るべきなのです。
その点、つい先日入ってきた次のニュースを、私は全面的に支持するものです。5月6日づけ記事でも「「漸進主義としての保守主義」の観点は、ルールの改変に当たって持つべき心構えです。社会的議論は漸進主義的なプロセスの踏み方です。」と述べたとおりです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171215-00000000-resemom-life
>> そのルールは必要ですか?「ブラック校則をなくそう!」プロジェクト発足■社会的議論は決して万能ではない――漸進主義としての保守主義の導入
2017/12/15(金) 12:15配信
リセマム
そのルールは必要ですか?「ブラック校則をなくそう!」プロジェクト発足
地毛を強制的に黒髪に染髪させるなどの学校現場のルールを、一般社会から見れば明らかにおかしい「ブラック校則」と定義し、その改善を目指すプロジェクトが立ち上がった。公式Webサイトでは賛同者の署名活動を行っている。(以下略) <<
社会的議論は、漸進主義の立場に立てばこそ慎重に運用しなければならないものです。そうした観点から発表したのが、7月11日づけ「「新しい」ものの魔力」でした。「ポリアモリー」なる「新しい家族の形態」を取り上げた記事です。
この中で私は、「時代は変わる、常識も変わる」ということを認めたうえで、だからこそ、その変化の荒波のなかにあっても「変わってこなかった常識・観念・思考・言説」は、何世代にもわたる「長期的な実践的社会実験」に耐えてきたという点において、超時代的な強固な基盤があると言えるのではないかと述べました。そして、一世代の範囲での実証も中途半端な「短期的な社会実験」の中には、単なる「素人の思いつき」の枠を超えていないケースも含まれているのではないか、素人考えの結果、「予想していなかった分野・局面での不都合な事態」を招かないだろうかと問題提起しました。
その上で私は、「1対1のパートナー関係がデフォルトでありつづけている意味」について、珍しくマジメな内容のヤフコメを取り上げて考察しました。子どもたちに与える影響、本人たち以外の家族・親類の受け止め方――そうした諸問題に対してポリアモリー支持者・実践者たちは、キチンとカウンターを用意しているのかという疑問が上がりました。
個人的には、多角的な検討の上でポリアモリーを実践しているわけではなく、狭い視野と想定の範囲での実践に見えます。たしかに、パートナー間での合意が取れているので「信頼に対する裏切り行為としての不倫」には当てはまらず、その点に限っては問題は生じ得ないものの、「子どもたちに与える影響」という点においては、まさしく「予想していなかった分野・局面での不都合な事態」のリスクに直面しているように思えるところです。
「新しいモノ」の正しさを実証するという営みは元来、即断できない性質のものです。今後の展開を注視しなければならないと結んでいるとおりです。
彼・彼女らがそのリスクを最後まで背負うというのであれば、第三者がとやかく言うことではないのかもしれません。しかし、こういった中途半端なシロモノを「新しいスタイル」として報じることは、また別の問題です。内実や展開がはっきりしないものを肯定的に位置づけて他人に知らせるというのは、「無責任な煽り」になるからです。
内実がはっきりしないのに、「新しい」や、あるいは「多様性」といった語句をつけれてさえいれば何だか正しそうな「空気」を作ってはなりません。もともと、現代人は「新しいモノ」に惹かれる傾向がありますが、「新しいモノ」は即断的には評価できない性質があります。予想していなかった分野・局面での不都合な事態がいつ表面化するか誰にも分からないのです。「『新しいモノ』の魔力」には十分に注意しなければなりません。
だからこそ私は以前から繰り返しているように、遠大な理想像を描きながら、実践においては一つ一つロールバックできる程度の小改善を繰り返す「漸進主義」を提唱しているのです。バカの浅慮が急進主義的に実践されることによって不可逆的・破滅的結果になることを防ぎつつも、「石橋を叩き壊して橋を架けなおす」ような臆病に陥ることをも防ぐわけです。
社会的議論についても、「ロールバックできる程度の小改善を繰り返す」という意味での漸進主義の立場から推進すべきなのです。
■一見して「自己判断のルール破り」でも「ルールに従っている」というケース――ルールをnomosとthesisに分ける
ところで、私は以前からF.A.ハイエクの著作研究に注力してきました。ハイエクの言説は、当ブログ執筆にあたってのベースの一つです。
ハイエクは、ルールをnomos(ノモス)とthesis(テシス)に分類します。nomosは、社会の中で自生的に生成、発展してきたルール(自生的秩序)であり、thesisは権力的に制定された命令の形をとる組織規則としてのルールです。ルールは、自生的に生成、発展してきたものと、権力的に制定されたものに分けられるというわけです。
thesisは「成文法」といってしまってよいと思いますが、nomosについては実例を含めて解説を加えた方がよいでしょう。nomosの実例としてハイエクは、伝統や習慣などを挙げます。これらは誰かが意識的に創作・制定したものではなく、何世代にも渡って沢山の人々が形成してきたルールです。
たとえば、言語は、伝統や習慣などと同様の経緯で生成・発展してきたルールである点、nomosの性質を持っていると言えるでしょう。誰かが言語を発明したわけではないし、文法や語法、語句の意味は、人々の間で自然と形作られてきたルールです。たしかに、国民国家においては言語の整備を管轄する行政機関が存在しますが、まったく新しい文法や語法、語句の意味を創作・創造しているわけではなく、巷で出回っている文法や語法、語句の意味の「交通整理」をするに留まっています。
いま「交通整理」という言葉を使いましたが、交通ルールにもこうしたnomos的な側面が大いにあると考えられます。道路交通法はthesisですが、交通ルールには法律としては制定されていない慣習的なルールが多数存在しています。たとえば、パッシングやハザードランプでメッセージを伝えることは、法定の正式なルールではありませんが定着しています。また、法律に従えば、規制速度は表示通りに遵守すべきものですが、実際の交通の流れ次第では逆に規制を越えた速度を出すことが求められる場面もあるものです。さらに、地域によっては、交差点では「右折優先」というコンセンサスが成立しているケースがあります。どうやら、法律通りに左折・直進車を優先させていると右折車はいつまでたっても右折できないので、自然発生的に「右折優先」になったようです(「なったようです」ってところが、いかにも自然発生的ですね)。
「規制速度超過」や「右折優先」などというのは、法律の規定に照らせば、「自己判断のルール破り」以外の何物でもありません。しかし、ルールをnomosとthesisに分類する観点から考察すれば、「規制速度超過」や「右折優先」というコンセンサスが自生的秩序として成立し、皆がそれに従っている点において、既にこれ自体がnomos的な意味でルール化されているのです。「自己判断のルール破り」どころか、「ルールに従っている」ということになるのです。
■thesisはnomosから大きな影響を受けている
thesisがnomosから大きな影響を受けているという点を見逃してはなりません。
具体的な紛争に成文法を当てはめるにあたっては解釈が必要になりますが、解釈には常識や慣習、伝統からの影響が入り込むものです。前述の交通ルールについて述べれば、「右折優先」は警察の取り締まり対象になっているそうですが、「規制速度超過」は、敢えて超過した方が交通ルールの目的;「円滑で安全な交通の実現」に沿うケースがあります。そうしたケースにおいては、thesisを操る権力側からも黙認・容認されるのです。権力的な取り締まりを受けず、有効な社会秩序として作用するのです。
また、まったく何もないところから急に成文法が出てくるわけがなく、立法過程では常識や慣習、伝統からの影響があるものです。
■総括
このことは、ルールを考える上で極めて重要なことです。@thesisの観点からはルール違反だが、nomosの観点からはルールには違反していない行為の存在。Aまったくの自己判断と、成文法的ルールとの間に自生的秩序があること。そしてまた、Bどこまでが「まったくの自己判断」になり、どこからがnomos的な意味でのルールに従っていると言えるのか――私はハイエクの法哲学を学んでいる真っ最中ですが、伝統や慣習などの役割にスポットを当てる彼の法思想は、本当に興味深いフロンティアであると日々実感しているところです。
来年は、以下の観点から更に考察を掘り下げてゆく予定です。
@ルールを守ることを重視する立場、そして漸進主義の立場から、私は、不合理なルールを改めるためにこそ社会的議論を大いに展開すべきであるという立場に立ちます。
Aまた、ルールをnomosとthesisに分けた上で、thesisには反しているがnomosには合致している自生的秩序の存在を認める立場に立ちます。
Bどんな行為が「まったくの自己判断」に留まるものであり、どんな行為がnomos的な意味でのルールに従っていると言えるのか見極めつつ考察します。
Cそして、nomosが如何にしてthesisに影響を及ぼしているのかを考察します。