2018年02月13日

「価値観の相対化」は危険な劇薬、取り扱い注意

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180210-00000046-asahi-soci
>> 選択的夫婦別姓「容認」4割超 「必要ない」は3割切る
2/10(土) 17:20配信
朝日新聞デジタル

 内閣府の家族と法制度をめぐる世論調査で、夫婦別姓を選べる「選択的夫婦別姓制度」を導入してもよいと考える人の割合が過去最高の42・5%だった。導入する必要はない、と答えた人は過去最低の29・3%。ただ、政府は「国民の意見が大きく分かれている」として制度の導入に慎重な姿勢だ。

 制度をめぐっては法制審議会(法相の諮問機関)が1996年に導入を答申したが、法改正のめどはたっていない。調査は全国の18歳以上から無作為抽出した5千人を対象に面接で実施した。回収率は59%。

 調査結果によると、質問は三択で、制度を導入してもよいと答えた人は過去最高の42・5%。
(中略)制度容認派のうち19・8%は自分も結婚前の姓を名乗りたいと回答した。(以下略) <<
制度として存在するのは構わないと考えているが、自分自身が夫婦別姓を選択する予定である人は、ごくごく少数にとどまる――制度利用予定者が思ったよりも少ない結果で少し驚きました。まあ私自身も、別姓を名乗りたい夫婦は名乗ればいい(どうでもいい)と思うが、自分たちの問題として考えたときは、この問題について特別なコダワリはないので、ウチは世間標準通りに夫婦同姓でいいんじゃないかと思っているクチですが。

それはさておき、この問題に関しては、右派界隈からしばしば「選択的夫婦別姓論は、家族の結束を弱める左翼勢力の陰謀的な制度改悪であり、その狙いは『家族の解体』にある」といった非難が浴びせられます。この世論調査と選択的夫婦別姓論者の論法を見る限り、それは「杞憂」「被害妄想」といってよいのではないかと考えているところです。

選択的夫婦別姓論者の論法が、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」である限り、選択的夫婦別姓論を「容認」することこそ可能ではあるものの、それをデフォルトに「仕向ける」ことは不可能です。そして、今回の世論調査結果を見る限り、ごく一部の夫婦は夫婦別姓を選択するものの、大多数の夫婦と「夫婦予備軍」は今のまま夫婦同姓を選択するであろうことが見込まれます

選択的夫婦別姓論者が言うように、「夫婦同姓という伝統」の根拠を問い詰め、あらゆる考え方を相対化した上で考え抜いたとき、夫婦が同姓を名乗らなければならない根拠など存在しないという結論に至らざるを得ません。その点において、夫婦別姓を妨げる根拠はありません。同様の論法に従えば、当たり前のことながら夫婦同姓を妨げる根拠も存在しないので、夫婦別姓でなければならない根拠もまた存在しません

それゆえ、仮に夫婦別姓が実現したとして、その社会において旧来的な夫婦同姓論――家族が一体感を持つためには、同姓であるべきだから、ウチは同姓にする――という夫婦がいたとしても、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」を制度成立の論拠にしている限りは、そうした考え方を批判できる根拠は存在しません

もし、ここで、「『家族が一体感を持つためには、同姓であるべきだから、ウチは同姓にする』なんて考え方に合理的な根拠はない」などと説教しようものなら、まさに「選択的」であるがゆえに、「余計なお世話」として門前払いされることでしょう。また、この制度が「価値観の相対化」を経て成立したのであれば、「合理的な根拠」という判断基準もまた相対化された上で棄却され得るものです。この世には「絶対的基準」が存在しない以上は、価値観を相対化する立場を突き詰めれば、「伝統」に縛られる謂れがないのと同様に、「合理性」に縛られる謂れもまた存在しなくなるのです。合理的に行動しなければならない理由など存在せず、ただ気の向くままに好きにしても非難される謂れはありません。

現在の選択的夫婦別姓論者の論法は、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」に留まっています。こうして考えると、「価値観の相対化」と「多様な選択肢の自己決定を可能にする」を主軸とする現在の選択的夫婦別姓論は、「夫婦同姓制度を打破」することは可能であるものの、新しい価値観としての「夫婦別姓を推進」し得るものではないのです(そもそも、選択的夫婦別姓論は「夫婦別姓を推進」するものではありませんが)。

そして、今回の世論調査。制度として存在するのは構わないと考えているが、自分自身が夫婦別姓を選択する予定である人は、少数にとどまるわけです。人々は、都度都度に合理的に行動を選択することよりも、伝統や習慣に合わせて定型的な行動をとる方を好むと言われています。また、Hayekは、伝統や習慣の特徴について「権力によって強制されなくとも、内面化されているがゆえに、自発的に遵守するもの」と述べています。つまり、人間心理の観点から考察すれば、実際に制度化されたところで自発的に夫婦別姓を選択するケースは多くないと見込まれるし、また、価値観が相対化された状況下での自由選択制であるがゆえに個別の夫婦に対して別姓を推奨できないわけです。

こんな現状で「選択的夫婦別姓論は、家族の結束を弱める左翼勢力の陰謀的な制度改悪であり、その狙いは『家族の解体』にある」などと言うのは、杞憂というべきか被害妄想というべきか。右派界隈の頭の悪さは今に始まったことではありませんが、老婆心ながら、お止めになった方がよいのではないかとお勧めするところです。

ところで、私が特に昨年あたりから、「『不合理なルールを変えて多様性を実現する』を単なる『何でもあり』にしてはならない」という強調するようになったのは、昨今の「変革」論が「価値観の相対化」という劇薬をあまりにも安易に利用している嫌いがあるためです。

上述のとおり、この世には「絶対的基準」が存在しない以上は、価値観を相対化する立場を突き詰めれば、個人を縛る理屈は存在しなくなりますキムジョンイル総書記が指摘されているように、「自由」と「放蕩」は根本的に異なります。自由はあくまで集団的枠組みを破壊しない範囲内――集団主義の枠内での個人的自由と集団的生活の調整と接合・両立――でなければならないという点において、一定の程度において「個人を縛る」理屈は存在しなければなりません。安易なる「価値観の相対化」の濫用は、古臭い制度の破壊には絶大な威力をもたらすものの、その副作用として新しい制度の樹立を困難にしかねません。社会革命の立場に立つからこそ私は、「価値観の相対化」の利用には慎重でなければならないと考えています

夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという程度であれば、どっちに転んでもどうでもいい話ですが、この程度の「どうでもいい話」でさえ「価値観を相対化」という劇薬の効果は抜群に発揮され得るものです。そして私は、この程度の「どうでもいい話」とは言えども、それにしても「価値観を相対化」の劇的な効果に対する慎重さが足りないのではないかと思うのです。

もっと社会集団の根底を規定するような分野において、この調子で安易に「価値観を相対化」が導入されれば、いったいどんなことになるでしょうか? 不合理で人々の自主性を縛り付けるような旧来型の制度は粉砕されるでしょうが、それにとって代わる新しい制度を樹立し得るでしょうか? どういう理屈で人々を新制度に従わせるというのでしょうか? 破壊するだけ破壊してそのままにならないのでしょうか?

夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという問題については、上述のとおり、現行制度を壊したところで大多数の夫婦は自発的に同姓を選ぶ見込みである点、大きな影響はないでしょうし、繰り返しになりますが、この程度の問題であれば、どっちに転んでもどうでもいい話です。しかし、もっと社会集団の根底を規定するような分野における「破壊」の影響は不透明です。

まあ、あらゆる価値観を相対化し破壊したものの「プロレタリア文化」の創造には失敗したと言わざるを得ない、かの文化大革命でさえ、最終的には収まるところには収まりました。その点において「長期的(歴史的)視点」で見れば、「価値観を相対化」路線は、社会の成熟度に応じた時間を掛けて「それなりの地点」に落ち着くのかもしれません。しかし、「生活的視点」からみれば、「それなりの地点」の落ち着くまでの「数か月」「数年」の間にも日常生活は連綿と続くわけです。私は生活的視点を徹底させたいと考えています。

「価値観の相対化」――危険な劇薬です。取り扱い注意。夫婦が同姓であるべきか別姓であるべきかという程度の「どうでもいい話」であるからこそ、これを機に「価値観の相対化」の劇的効果について、じっくりと考えを巡らせるべきでしょう。
ラベル:社会
posted by 管理者 at 22:05| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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