2018年04月15日

チュチェ思想の実践的生命力、実践的正当性と「のびしろ」

今日は태양절,위대한 수령 김일성동지の生誕記念日であります。

■首領様が創始されたチュチェ思想の実践的生命力――マルクス主義との違い
キムイルソン同志の革命偉業は、まずは祖国の解放であり社会主義の建設を挙げられるところですが、それらの偉業の根底に横たわるチュチェ思想は、これらの実績の根本として極めて重要なものです。チュチェ思想を指針としたからこそ祖国解放を成し遂げることができ、そしてまた祖国に社会主義を建設でき、そして1980年代末の急激な世界的な情勢の変動の中でも体制を維持できたわけです。

チュチェ思想を掲げる共和国がマルクス・レーニン主義を掲げてきた国々が軒並み崩壊する中で生き延びた理由は、共和国は、あくまでも社会主義革命の客観的条件の解明と未来社会の大ざっぱな方向性の暗示に留まるマルクスの著作を社会主義建設の現実的方法論としてそのまま利用しようとした、ある種の「時代錯誤」的なマルクス・レーニン主義党の国々とは一線を画したところにあります。

マルクスは『資本論』において、機械制大工業(生産様式)の進展は協業を必然化させ、それまで職人肌的だった労働者たちに「協力し合う」ことを求めるようになり、その結果として、未来社会としての社会主義・共産主義社会を人格的に準備すると説きます。「存在が意識を規定する」という教義に従えば、こういう結論に至らざるを得ないとはいえ、こんな見通しはあまりにも楽観的すぎ、我々の日常生活から考えても非現実的です。これが本当なら、ブラック企業の労働者なんて今頃、階級闘争の先陣を切っているはずですが、彼・彼女らが考えていることといえば、「いかにして自分の負担を他人に押し付けて、今日こそ帰宅する」の一点です(目撃談)。無理ないことですが。

チュチェ思想の教育カリキュラムには、マルクス主義とチュチェ思想との差異を説く一章が必ず用意されていますが、チュチェ思想においては、生産様式の変化が人々の人格を自動的に変革していくというマルクスの楽観的見通しを否定的に評価し、社会主義建設においては、社会主義・共産主義的教育の意識的実施が死活的に重要だとしています。そしてまた、共和国が社会主義・共産主義的教育を意識的に実施してきたからこそ、ソ連・東欧諸国よりも厳しい環境下にあっても社会主義の旗を掲げ続けることができたとしています。

「存在が意識を規定する」という教義から導き出されがちな楽観的な経済還元論的な生産力主義を、実践的経験をもとに否定するチュチェ思想の立場は、いったんは失敗と言う結果に終わった社会主義・共産主義運動を再生する上で一つの重要な論点を提起するものです

■進化しつづけるチュチェ思想が提起するマルクス主義哲学への疑問点――「対立物の闘争と統一の法則」を批判的に考えるチュチェ思想の実践的正当性
チュチェ思想は今も尚、自然と社会、そして人間自身の変化の中で進化し続けている思想です。

マルクス・レーニン主義は、その哲学的原則において、「対立物の闘争と統一の法則」「否定の否定の法則」「量質転換の法則」を弁証法の三大原則とし、その中でも特に「対立物の闘争と統一の法則」を最重要と見なします。特に暴力革命論は、こうした哲学的前提に立つものと言えます。

このことについてチュチェ思想は、大胆にも懐疑的意見を提出します

チュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長は、チュチェ95(2006)年6月24日の講演で、「これまでの社会主義理論」を総括するなかで次のように述べています。
>>  これまでの社会運動は対立物の闘争と統一の法則や矛盾論にもとづいていたため、対立や矛盾をさがしだすことが重要視されてきました。
 新しい社会を担う人間を育てることに力を入れるよりも、敵を見つけていつも誰かを敵にしてたたかうことに関心がむけられたのです。
 労働者が政権を取った新しい社会になってからも、労働者同士で対立する事態が生じました。なかまを信じられずたがいに協力しない社会が人間の理想社会といえるのでしょうか。
 日本ではいまでも社会運動をする人々の一部には、たたかう主体よりも対象を先にみる傾向があります。

(中略)
支配層がつぎつぎにうちだす反動的な政策に反対だけしていて新しいものを創造しなければ、新しい社会をきずくことはむずかしいでしょう。
 支配層にたいしてだけではなく、なかまや大衆に対しても闘争対象とみる傾向があります。
 対立物の闘争と統一の法則は、自然にたいしては部分的に適用されても、人間と社会に適用することはできません。
 資本主義社会こえてもっとよい社会をつくろうとするときに、対立物の闘争と統一の法則を適用することはむしろ弊害になります。

(中略)
 人々が団結して生きる姿は理想社会の原型であり、団結をきずくこと自体を運動の目標とすることが大切です。
(中略)
 マルクス・レーニン主義の唯物論と弁証法はまちがいではありませんが、新しい人間の育成や新しい社会の建設にそのまま適用することについては疑問視されます。 <<
(尾上健一『自主・平和の思想』白峰社、2015年、p9−10)
日本共産党の独善的体質や、極左集団の内ゲバ的な暴力的体質を振り返るに、マルクス・レーニン主義的思考回路の問題点の指摘する尾上先生のチュチェ思想を下敷きとする言説には、たいへんな説得力があるというべきでしょう。

当ブログでは以前より、現代日本の労働問題を「自主権の問題」と位置付けたうえで、その最終的解決を「労働者自主管理」に求めているところですが、その立場に立つ人間として私は、「マルクス・レーニン主義の唯物論と弁証法はまちがいではありませんが、新しい人間の育成や新しい社会の建設にそのまま適用することについては疑問視されます」という尾上先生のチュチェ思想的見解を支持するものです。伝統的なマルクス・レーニン主義の主張や、その教義を墨守せんとする政党・党派を支持しないものです。

■チュチェ思想とキリスト教の類似点――チュチェ思想の「のびしろ」
尾上先生が上述の言説を主張する下敷きにチュチェ思想が存在していることからも明白であるとおり、チュチェ思想は、マルクス・レーニン主義的な「対立物の闘争と統一の法則」に対して留保的な立場をとっています。このことの根底には私は、チュチェ思想の創始者であるキムイルソン同志の人格形成に、キリスト教的発想が寄与していることがあると考えています。

チュチェ思想や朝鮮労働党体制を、儒教の要素から分析する言説はかなり広範に流布しています。その最高峰的位置には、鐸木昌之氏の『北朝鮮首領制の形成と変容――金日成、金正日から金正恩へ』(明石書店、2014年)が存在します。かなり説得力のある分析であるとはいえ、あくまでも朝鮮労働党体制と伝統的思考回路としての儒教倫理の連関を論じるにとどまるものです。かつてピョンヤンが「東洋のエルサレム」とまで呼ばれた歴史的経緯と、キムイルソン同志がキリスト教的家系に生まれ、幼少期には母に連られて教会に通い詰め、教理問答で優秀な成績をおさめていた事実は、鐸木氏の分析にはほとんど取り込まれていません

その点、チュチェ思想の立場を一貫させている鎌倉孝夫先生とキリスト教徒である佐藤優氏の共著である『はじめてのマルクス』では、チュチェ思想、もっといえばキムイルソン同志の幼少期にキリスト教的要素があることを指摘しています。キリスト教とチュチェ思想の連関は、重要なテーマです。

キリスト教は、世界最大の宗教であることから社会の実践的規範の根底をなすものです。チュチェ思想にキリスト教思想と通底する部分があることは、チュチェ思想の「のびしろ」の大きさを示すものであると言えます。人類の歴史を切り開いてきた新思想は、多数派が承認する既存の思想と共通(連続)しつつも既存思想の枠内では突破し得ない部分についてのソリューションを提示する点において歴史に名をのこしてきたからです。既存の思想体系とあまりにもかけ離れた独創的な思想体系は、そもそも人々に理解されないものです(このことは、「大衆の意識の立ち遅れ」といってしまえば、それまでですが、社会的な実践と変革を第一に考えるのであれば、大衆を馬鹿にしてエリート主義的自己満足に浸っている場合ではないでしょう)。

もちろん、「チュチェ思想が首領独裁の道具に成り下がっている元凶」と目されている「革命的首領論」の問題を筆頭に、チュチェ思想を流布・実践するにあたって解決すべき問題は幾つか存在していることは私も認めざるを得ないところです。しかし、日本共産党的独善体質や極左集団の内ゲバ的暴力体質を乗り越える立場をチュチェ思想は既に確立しています。このことは、20世紀末にいったん挫折した社会主義・共産主義運動の再生にあたっては、チュチェ思想をメインとして取り掛かることが正当であると言えると考えています。

社会主義・共産主義運動再生の正路としてのチュチェ思想を創始なさったキムイルソン同志の生誕を祝賀いたします。
posted by 管理者 at 22:42| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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