「生活保護なめんな」ジャンパー問題から1年半、小田原市が進めた生保改革神奈川県小田原市での生活保護ジャンパー問題。ついこの間のことかと思っていたら、思いがけず時間がたっていました。当ブログでは、チュチェ106(2017)年1月24日づけ記事にて取り上げているところです。
石戸諭 | 記者 / ノンフィクションライター
7/17(火) 7:00
「保護なめんな」「生活保護悪撲滅チーム」――。ローマ字と英語で書かれたジャンパーを羽織って、生活保護受給者宅を訪問する。2007年から約10年にわたって神奈川県小田原市の職員が着用していたものだ。
2017年1月に問題が発覚し、職員の対応は「受給者を威圧する」と批判された。市は改善を宣言する。あれから1年半、小田原市の生活保護行政は大きな変化を遂げていた。
7月14日、東京。生活保護問題に取り組んできた弁護士らが開いたシンポジウムで、小田原市の職員2人がやや緊張した面持ちで報告を始めた。
(中略)
最初に進めたのは言葉の改革だった。生活保護「受給者」から生活保護「利用者」へ。生活保護は市民の権利と位置づけ、利用することは卑下することでも批判されることでも、バッシングされるものでもないという趣旨だ。
改革は4点に集約できる。第一に職員数の増加。第二に申請から決定までの時間短縮、第三に生活保護のしおりの見直し、第四に自立支援への動きだ。
(中略)
重要だったのは自立支援だ。組織目標としてこれを掲げ、地域と協力して、利用者の状況に応じて農作業などに参加できる仕組みを整えた。自宅以外に社会との接点を作ることも、社会参加に向けた重要な「支援」だ。
シンポジウムで印象に残る発言があった。元世田谷区職員で生活保護ケースワーカーを務めていた田川英信さんの発言だ。彼は言う。
「この社会では福祉行政にあたっている人も含めて、『見えないジャンパー』を着ている人がいる」
事実、小田原市のジャンパーには今でもネット上で「何が問題なのか」「むしろ当たり前のことを言っている」という声があふれている。生活保護バッシングも強まっている。
小田原市が賢明だったのは、こうした擁護論に乗らなかったことにある。
参加者からの声にもあったが、生活保護には「誤解・デマ・偏見」がついてまわる。「不正受給」という言葉には特に過剰な反応がある。
読売新聞で社会保障を中心に取材を続ける原昌平記者も指摘するように不正受給は金額ベースで0・5%に過ぎない。
さらに「不正受給とされた中には細々した案件が多数あり、必ずしも悪意のない『申告漏れ』レベルのものも、行政運用の厳格化によって不正と扱われている」のが現状だ。
生活保護の重要な課題は不正受給ではなく、本当に必要な人に生活保護という制度が行き届いていないことにあるのは多くの専門家が指摘するところだ。
行政が「保護なめんな」などと圧力をかけて利用のハードルを上げるのではなく、「権利」と位置付け、自立支援に取り組むことは、課題解決に向けた一歩になるだろう。
もちろん課題も残っている。和久井さんは「利用者のアンケートを実現してほしい」と要望していた。行政の改革が表向きのきれいごとに終わっていないか。本当に利用者の便益になっているか。必要なものに届いているかという視点を持ってほしいということだ。
(以下略)
「重要だったのは自立支援だ。組織目標としてこれを掲げ、地域と協力して、利用者の状況に応じて農作業などに参加できる仕組みを整えた。自宅以外に社会との接点を作ることも、社会参加に向けた重要な「支援」だ。」というくだりにもあるように、ジャンパー問題を巡って全国的な批判を受けた小田原市が仕切り直しの改革プランに「自立支援」を漏らすことなく盛り込んだことは重要です。小田原市は、活動家にありがちな「人権論講座」に留まることなく、生活保護制度に対する不満の声に対して一定の応答を試みているわけです。
チュチェ102(2013)年6月30日づけ「「自己責任論」は「助け方の拙さ」に由来する」で私は、生活保護制度について「「助け合い」ではないですよね。助ける側はいつも助ける側ですし、助けられる側はいつも助けられる側です。助け合いの名の下に真面目に頑張る人間が搾取されている、という現実を誰一人理解していない…」と非難するコメントを取り上げて検討しました。「人権思想に対する理解不足」と斬って捨てるのはたやすい言説ではあるものの、生活保護バッシングの核心的言い分である点において、慎重に検討を要する言説です。
この厳しい指摘を受けて私は、当該記事にて問題の所在を「助け方の拙さ」に設定し、次のように述べました。
旧ブログの頃から述べてきたことですが、結局「助け方」の問題なのではないかと思います。つまり、日本の「支援」「救済」は、「対象者を助ける」ということばかりに注目しているために、被支援者が社会に恩返しする機会を積極的に設定することも無いし、恩返ししたのか否かのチェックすらしていないのではないでしょうか。たとえば、生活保護は支給したらそれっきり。積極的に雇用を創出するわけでもなければ、パチンコに注ぎ込んでいるのか如何かすらもチェックしない。それが、「「助け合い」ではない」とか「助ける側はいつも助ける側ですし、助けられる側はいつも助けられる側」「そういう善人の思いを踏み躙るのが、弱者面してぶら下がり続けているクズどもです。そういう連中に努力とか頑張るとかいった概念は存在せず、如何に楽して生きるかしか頭にないのですから。」という不満を抱かせる原因になっているのではないでしょうか。今回、小田原市が組織目標として「自立支援」を掲げたことは、こうした類の不満を緩和する点においてプラスです。生活保護制度に対する不満の声に対して「人権論講座」に終始することなく、彼らの不満を汲み、一定の応答を試みていると言えます。また、それ以前になによりも社会参加の機会を増やし・サポートするという点においては、生活保護利用者にとってこそ最大の恩恵があるものです。誰も損することのない方向性に走り出したわけです。
このことは、好意的な意味で一つの転換点として位置付けても大袈裟ではないと私は考えているところです。
他方、旧態依然な部分もあると言わざるを得ません。
記事中には、「生活保護「受給者」から生活保護「利用者」へ」という表現があります。字面だけみれば私も強く賛同できるものですが、「生活保護は市民の権利と位置づけ」「「権利」と位置付け、自立支援に取り組むことは、課題解決に向けた一歩になるだろう」というくだりが引っ掛かります。というのも、誰かにとっての権利は、他の誰かにとっては義務であり、その点において構造的に言えば、依然として「施す・支給する側」と「施される・支給される側」という分断が横たわっているからです。
チュチェ106年1月23日づけ「生活保護は「施し」でも「権利」でもなく「お互い様精神を基礎とする制度」――二元論から脱しよう」でも述べたとおり、生活保護を筆頭とする社会保障・社会福祉制度は、「権利」としてではなく「困ったときはお互い様」のものと位置付けるべきであります。そうして初めて、構造的な意味で「施す・支給する側」と「施される・支給される側」との分断がなくなるのです。
※なお、以前から立場を鮮明にしているように私は、同志愛・人類愛を基本とした一心団結・渾然一体が実現しているチュチェ型の社会主義の世界を目指している立場ですので、特に「困ったときはお互い様」の精神を重要視しているところです。チュチェ型の社会主義は、権利をもちろん重視しますが、それだけに基づくものではなく、同志愛・人類愛にも基づくものです。
「生活保護「受給者」から生活保護「利用者」へ」という位置づけの変化は、大きな進歩であるとは思いますが、まだまだ旧態依然で不十分と言わざるを得ません。
「読売新聞で社会保障を中心に取材を続ける原昌平記者も指摘するように不正受給は金額ベースで0・5%に過ぎない。」というくだりは残念という他ありません。またしても不正受給という論点から逃げたわけです。前掲チュチェ106年1月24日づけ記事で取り上げた引用記事の筆者氏は「確かに「不正受給」は悪い。詐欺罪に該当する場合もある。」と認めていましたが、今回の記事は「不正受給は金額ベースで0・5%に過ぎない」として、「取るに足らないこと」と片付けてしまっています。これが生活保護制度に対する今最もホットな批判であり、ここを乗り越えることが最重要課題であるにも関わらず、それを正面から受け止めずに無視し、論点から逃亡したわけです。
金額ベースで0.5%といっても、総額が巨額である以上は、「たった0.5%」であってもそれなりの金額になります。その0.5%分が本当に困窮している人々への支給額増額の原資になるのであれば・・・不正受給さえなければ、基準に合致する正当な制度利用者へより多く回せるわけです。経済的に自立している人による不正受給批判について、「0.5%くらいでガタガタ言うなよ」と反論するのは、分からないでもない理屈です(もちろん、経済的に自立している人だって裕福であるとは限らず、家計の予算制約下において支出の優先順位をつけて、ある種の消費については諦めているのだから、「0.5%」を看過できないという気持ちも分かります)が、「0.5%問題」は、決して経済的に自立している人に負担を強いているから問題なのではなく、「本当だったら得られるはずの便益が横取りされている」という点において、基準に合致する正当な制度利用者にこそ重大な影響があるのです。「本当に必要な人に生活保護という制度が行き届いていない」背景には、不正受給も一定程度関与していることでしょう。本当に困っている人は、1円でもありがたいものです。
前掲過去ログの繰り返しになりますが、生活保護制度を擁護する立場であればこそ、制度の趣旨を踏まえて困窮者が萎縮しないようにしつつ不正受給には厳格にあるべきです。「たった0.5%」などと述べて不正受給問題から逃げる姿勢は、正しくありません。
そもそも、生活保護制度の拡充と不正受給問題への対応は根本的に異質なものです。生活保護制度の存在そのものを好ましく思っていない、人権思想への理解が決定的に不足している連中が盛んに不正受給問題を取り上げているからといって、そうした連中に対抗するためだからといって、不正受給問題に対して無理筋な擁護を展開する必要はありません。
不正受給問題に対して「たった0.5%」などと苦しい擁護論を展開したり、あるいは、そうした批判を無視するような無理筋を展開している手合いを見るたびに、子ども染みた二元論的発想を感じざるを得ないところです(子どもって、気に入らない人の言い分に対しては荒唐無稽な屁理屈を以って滅多矢鱈に反抗しますよねw「相手の主張の是非・善悪」ではなく、「相手」に反対しているのが反抗的な子どもの典型的態度です)。敵方と部分的に主張が合致しているからといって、敵方に対して敗北を認めたことにはなりません。敵方だって100%デタラメを主張しているわけではなく、多少は正しいことを口にしているはずです。少しくらい彼らと同意見だからといって、持論が論破されたことになりませんって。大丈夫、余裕のある大人になりましょう。
ラベル:福祉国家論