2018年07月29日

「言葉の力」でどこまで真相解明できるか

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201807270000222.html
続く麻原崇拝、悲劇繰り返す心配…/江川紹子氏の目
[2018年7月27日8時52分 ]

 地下鉄、松本両サリン事件などオウム真理教による事件に関わったとして、殺人などの罪に問われ、死刑が確定した教団元幹部ら6人の刑が26日、執行された。今月6日、松本智津夫元死刑囚(教祖名麻原彰晃)を含む7人の刑が執行されたばかり。


(中略)

 執行された6人は、事件の被害者や社会にとっては、許されざる罪人だが、同時に、麻原彰晃こと松本智津夫によって心を支配され、手足のように使われた者たちだった。その麻原が執行されて20日後の執行という素早さに驚く。

 法務省としては、一連の事件で死刑判決を受けた者を短期間に執行することが公平な対応だと考え、最初から今月中に全員を執行するつもりだったのだろう。しかし、首謀者であり、自分を信じて付き従った弟子たちを人殺しにした麻原と、事件の実行犯として使われた者では、その責任の大きさは天と地ほども違う。

 また弟子たちは、未曽有のテロ事件を引き起こしたカルトの内情や、そこに人が引き込まれていくプロセスについて語れる生き証人でもあった。オウムと出会う前は、人生の意味について考え込むようなまじめな青年だった人たちである。オウムのマインドコントロールから解放された後、自らがなしたことを深く悔い、経験を裁判で詳しく語ったり、若い人たちがカルトから身を守るための手記を書くなどした者もいる。

 そんな彼らから、心理学や宗教学の専門家が十分にヒアリングを行うなど、刑事裁判とは異なるアプローチの研究を行っていれば、今後のカルト対策やテロ対策のために重要な資料になっただろう。実際、カルト問題の研究者が、面会調査の申し入れをしていたのに、法務省はそれを無視した。

 結局、この国は、社会に衝撃を与え、多くの被害を出したオウムの問題を、刑事事件として処理するだけで終わらせてしまったのだ。落胆を禁じ得ない。


(以下略)
■主体としての人間の動機を解明することこそ真相解明の核心
ある社会現象は、時代の客観的状況とそれを起こす主体としての人間行動の相互作用です。それを解明するにあたっては、両者について分析する必要がありますが、「自主性・創造性・意識性をもつ社会的主体としての人間」の側が所与の客観的状況をいかに認識・把握し、判断を下し、行動に移ったのかについて、平たく言えば動機について特に注意深く分析すべきであります。人間は客観的状況を改造し、自らの目的を達成する力があるからです。(主体的社会歴史観)。

その点、オウム事件について解明するというのであれば、1990年代前半の日本という時代環境においてオウム真理教信者たちが時代をどう認識し、何故あまたある選択肢の中からよりにもよってオウムへの入信を決意し、いかにして一線を越えてしまったのか関する動機に迫ることが肝心かなめであります。「再発防止」という観点に立てば、信者たちの時代論(時代認識)とオウム入信決意・オウムへの帰属動機が重要になります。はじめはただの「ヨガ」の「サークル」だったオウムが、「反社会」的かつ「教祖を頂点とした絶対的ヒエラルキー型組織」に変質していった経緯を振り返れば、いまは怪しいけど無害な集団も、何かの契機でオウム的になりかねないわけです。オウムが人々を誘惑し、人々の帰属意識を土壌として組織化してゆく「成長の過程」を解明することは、再発防止に資することでしょう。

■刑を執行しないことによって、いま分かっている以上のことが語られるだろうか・語り得るだろうか
その点、江川紹子氏の指摘は私もおおむね同感で、理解できるものである一方、オウム事件死刑囚への執行は世論一般からはあまり惜しむ声は聞こえて来ず、むしろ、「20年以上も語る時間があったんだから、いま分かっている以上のことは語られないだろう」といった類の冷めた意見が目につきます。こうした意見もまた、一理ある見方だと思います。

さらに突っ込んで述べれば、心理学や宗教学などの専門家がオウム事件死刑囚たちに対して十分なヒアリングを行ったとしても、それでいったいどれだけのことが追加的に解明し得るのか、正直言って何とも言えないところではないでしょうか。自分が何を考えて、どうしてそういう決断を下したのかについて整理・言語化・理解するために専門家の助けを借りるといっても、そもそも、思考というものは整理・言語化・理解し切れるものなのか。「心の闇」としか表現できない、あまりにも歪み過ぎた認識・著しい論理の飛躍等(とは言っても精神病とは言えない)の非合理的な結論しか出てこないこともあるでしょう。

今回、オウム事件死刑囚たちは刑の執行により永遠に沈黙することになり、それであるがゆえに「真相究明の道が絶たれた」といった類の描写がなされているところですが、これが仮にこのまま執行されずに20〜30年経過し、死刑囚たちが加齢からくる一般的な死に方をしたとしても、同じように「真相究明の道が絶たれた」と騒がれていることでしょう。オウム事件解明のゴールをどこに置くかという問題でもありますが、ただ漠然とした「真相解明」であるならば、「オウム事件の解明は、どんなに時間を掛けても、どだい無理」と言わざるを得ないでしょう。

ちなみに、江川氏は6月13日の時点で、「「真相究明」「再発防止」を掲げる「オウム事件真相究明の会」への大いなる違和感」という記事を発表していますが、かなり多くのことを語っている弟子たちについては「生き証人」としてまだまだ聞き出すべきことはたくさんあるとする一方で、沈黙のまま死んでいった麻原教祖については、「既にかなりのことが判明している」とする違いが気になるところです。「オウムのようなカルト事件の「再発防止」のために必要なのは、教祖の心の内を探るより、信者たちがいかにして教団に引き寄せられ、どのようにして心を支配され、犯罪の指示にも唯々諾々と従ってしまったのかを知ることだ」というのは乱暴な議論でしょう。

また、その時は理解不能であっても、後になって振り返ってみると理解できることは、日常生活レベルでもよくあることです。何世代か後の時代になってまたオウムと類似した現象が起きてそれを分析したとき、「あれっ、これって20世紀末のオウム真理教も実はそうだったんじゃない?」と初めて判明することもあるでしょう。オウム事件は、この時代だけで解明し切れるものではないでしょう。

■「言葉の力」はどこまで信じられるか
もちろん、江川氏の言いたいことは、「法務省は、究明しようともしなかった」という点であることは文脈的に明白です。「専門家がヒアリング調査したけど、やっぱり分からなかった」ことと「調査しようともしなかった」ことは全く異質のものです。しかし、「専門家がヒアリング調査すれば、もっと多くのことが分かったかもしれない」ではなく「専門家がヒアリング調査すれば、もっと多くのことが分かったに違いない」という前提に立っているものと読み取れます(江川氏は厳しく批判していますが、森達也氏を筆頭とする「オウム事件真相究明の会」の面々は更にそうでしょう)。私もそう信じたいところですが、「本当かなあ?」と疑う気持ちもあります。

江川氏はジャーナリストですから、言葉が真実を表現し伝達する力を職業的に確信しているのでしょうが、正直私は、当ブログを執筆することによって自分自身の意見を言語化して表明を行っている一方で、その限界は「わりとすぐそこ」にあるのではとも感じているところです。「言葉の力」をそこまで信じ切れていないというか。。。(その昔、マルクス主義哲学研究会で議論したなー)

「心の闇」などと称して安易に検討対象から外すことに私は反対の立場ですが、しかし、検討し切れるものでもないとも考えています。どこまでだったら解明し切れるのかという「限界」を意識することなく、ただ漠然と「真相解明」という言葉だけが独り歩きしていないかと思えてならないわけです。

■「これが分かれば真相解明と言える」というゴールラインを設定すべき
「限界」というのは、やってみないことには分からないという側面はあるでしょう。「限界はあるだろうけど、どこが限界なのかは分からないから、とりあえず行けるところまで行ってみる」というのが現実なのでしょう。そんなもんだと思います。そうだとすれば、漠然と「真相解明」というのではなく、具体的に解明したい未解決課題をできるだけ詳しく列挙して、「これの理由が判明すれば真相は解明されたと言える」というゴールラインを設定すべきでしょう。それでこそ科学的立場だし、また、小目標の積み重ねによる漸進的な真相解明プランである点において、哲学的な観点における漸進主義であるとも言えます。

具体的目標を掲げることによって科学的立場を取るべきです。漠然とした目標の提唱は科学的ではありません。そして、科学的たらんとすればこそ、科学全能・理性過信は厳に戒め、ひとつひとつの目標は小規模のものとし、一気に真相解明を期すると言った「欲張り」に走らず、小目標の積み重ねによる漸進的な全体真相解明プラン(漸進主義)に立つべきです。「これが分かれば真相解明と言える」という小目標を設定し、当面はその解明に注力すべきです。その小目標が達成されても依然として判然としてない論点があれば、改めて課題化すべきです。それこそが漸進主義的な科学的立場と言い得るものです。

■総括
前述のとおり、江川紹子氏の指摘は私もおおむね同感で理解できるものです。しかし、その真相解明論は、何を以て「解明」になるのかが漠然としているし、さらに根源的部分について指摘すれば、「言葉の力」を過信している傾向も見えるというのが私の問題意識です。
ラベル:「科学」
posted by 管理者 at 16:44| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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