不況でも倒産しない会社は好況時に何をしているか■「自分さえよければ」か「止むを得ない自衛措置」か
8/11(土) 6:00配信
ダイヤモンド・オンライン
● 松下幸之助さんが唱えた 「ダム経営」の大切さ
2012年12月に始まった景気回復局面は今も続き、業績が好調な中小企業が増えています。しかし油断はできません。景気は必ず循環します。好況の後には必ず不況が訪れます。いついかなる時でも企業を維持発展させるために、経営者は好景気のときこそ、「治に居て乱を忘れず」の心構えでいなくてはなりません。
松下幸之助さんは「ダム経営」を唱えました。「ダム経営」とは、ダムに水をため、必要に応じて徐々に流していくように、ヒト・モノ・カネの経営資源、特に資金に余裕を持ち、好況時にはそれをダムのようにため、不況のときでも安定的な経営をしなさいということです。
(中略)
● まずは手元流動性を十分にし、 自己資本比率を高めること
自己資本比率(返済の必要のない純資産÷資産)が低い会社は、景気変動への抵抗力が弱いといえます。景気が良いときは負債が多い、つまり、借金まみれでも会社は回るものです。運転資金が不足しても銀行が貸してくれます。しかし景気が悪くなれば、銀行は手のひらを返して貸してくれなくなり、立ち往生してしまいます。私はそういう会社を何社も見てきました。
そこで、景気や業績が良くて、手元流動性(現預金など自社でコントロールできる資金)に余裕が生まれたときは、自己資本比率の低い会社は、まず財務改善を行う。借金を返すということです。それでも余裕がある場合は、自己資本比率を一定以下(たとえば20%など)に落とさない範囲で設備投資をすることを検討してください。自己資本比率が高い会社は、このことを気にすることはありません。
ただし、手元流動性が十分にない会社は、借金返済と現預金のバランスが重要です。中小企業の手元流動性の目安は、月商の1.7ヵ月分、資金がボトム(一般的には給料日から月末までの間)になるときでも1ヵ月分を用意しておくのが適切と私は考えています。
(中略)
ですから、手元流動性が極端に低い場合には、借金をしてでも、つまり、自己資本比率を落としてでも、手元流動性を確保することが大切なのです。あくまでも優先順位は、手元流動性が上で、それが十分に確保できてから自己資本比率のことを考えてください。
(中略)
● 景気が良いときほど、 会社が「小さくなる能力」を身につける
設備投資をする場合でも、同時に会社が「小さくなる能力」を持っておくことがとても大切です。好況時には仕事が増えるため、社員を増やし、設備投資をしたくなりますが、すべてを拡大・拡張で賄わずに、仕事を一定比率外注するのが有効な場合も少なくありません。
外注すれば利益率は落ちますが、景気が悪くなって仕事が減ったときに外注分を削減することで、会社と社員を守ることができます。これが「小さくなる能力」です。それをせずに、中途半端に会社を大きくすると、景気が悪化したときに対応できません。固定費は売上高が落ちても減らないのです。
(以下略)
好況時における手元流動性の積み増しと一定比率の業務外注化、不況時における手元流動性の切り崩しと外注削減――中途半端な日本左翼がしばしば批判の対象にする経営判断です。労働者階級・中小商工人の立場に立てば、そのような主張を展開する動機も分からなくはありません(とはいっても、本件引用記事のように「月商の1.7ヵ月分、資金がボトム(一般的には給料日から月末までの間)になるときでも1ヵ月分を用意しておくのが適切」といった具合に、経営の観点から根拠があると言い得る具体的数値を挙げるべき)が、本件引用記事が正しく指摘しているように、こうした経営判断は、資本主義経済という所与の環境におかれた企業経営の観点に立てば、止むを得ない自衛措置であると位置付けることも可能です。
このことについて、どのように評価すべきでしょうか。「自分さえよければ」と批判すべきでしょうか。「止むを得ない自衛措置」と擁護すべきでしょうか。
■「社会がいかに組み立てられるべきか」という観点に立つチュチェ哲学の答え
조청(チョチョン、在日本朝鮮青年同盟)機関誌≪새세대≫(セセデ、新世代)チュチェ101(2012)年12月号は、当時流行していたサンデルの正義論で触れられた諸テーマをチュチェ哲学の観点から取り上げる意欲的な特集を組んでいました。「災害後の便乗値上げをどう考えるか」というテーマでは、次のように論じています。
Q.弱みにつけ込んだ「便乗」値上げはアリ?ナシ?もしかすると、「おや、悪徳資本家の糾弾があると思いきや、意外な結論だ」という感想の方もいるかもしれません。しかし、チュチェ哲学は、現実の物質世界を「主体としての人間と客観的環境との相互作用」と捉えるので、その観点から述べれば、「資本主義社会では、需要に比例して値段が上がるのは、一つの法則」なので、「値上げをした人を悪いとは一概には言えない」という指摘は正しいものです。人間の行動は当人の善意・悪意にのみ規定されるわけではなく、物質世界の環境・客観的な法則にも影響されるものです。そうした環境条件を最終的に改造・征服するのは人間であるとはいえ、それは一朝一夕に完遂できるものではありません。現実生活の場面においては、物質世界の環境・客観的な法則の影響を捨象することはできないのです。
価格は需要と供給によって決まる?
メキシコ湾で発生した竜巻が大きな被害をもたらした直後、1袋2ドルの氷が10ドルで、250ドルの自家用発電機が2000ドルで売られた。人の弱みにつけ込んだともいえる「便乗」値上げ。これってアリ?
A.社会がいかに組み立てられるべきかを考えるべき。
この場合、値上げをした人を悪いとは一概には言えない。なぜなら、資本の発展に伴って社会が発展していく資本主義社会では、需要に比例して値段が上がるのは、一つの法則であるからだ。そのため、これに沿って値段を上げた彼らにすべての非があるとは言えない。
チュチェ哲学を実践している共和国でもし同じことがあった場合、どうなるだろうか。ズバリ、無償ですべてを国と人民が賄うだろう。(中略)これは、「可哀想だから手伝う」というものではなく、人間を社会的存在として見ているため、社会が手伝うのは当たり前という観点によるものだ。
チュチェ哲学の観点から見ると、この問題は、値段を上げざるを得ない資本主義社会そのものに問題があると言える。つまり、社会がどのように組み立てられるべきかに、問題の論点を置くべきなのだ。(以下略)
手元流動性の積み増しと一定比率の業務外注化という経営判断についても同様の観点から分析可能でしょう。たしかに不況時の「外注切り」は、切られる側からすれば堪ったものではないでしょう。手元流動性の積み増しによって手取りが減らされる従業員も不満があることでしょう。しかし、企業は、外注先よりも自社組織の存続を優先せざるを得ません。手取りが抑制されて恨みを買おうとも雇用そのものを守ることを優先せざるを得ません。場合によっては一部従業員の雇用を犠牲にしても、より多くの従業員の雇用を維持せざるを得ないというケースもあることでしょう。資本主義経済における企業は、このような方法で景気変動に対して自衛するほかないのです。「そうせざるを得ない」のです。
■「中途半端な社民主義」批判
前回記事で私は、本来国家が取り組むべき課題・社会政策的施策の一部を民間営利企業に「肩代わり」させようとするプランを「中途半端な社民主義」として批判しました。もちろん、企業の社会的責任という概念を否定するつもりはありません。しかし、誰も助けてくれないので自立せざるを得ず、競争に生き残るためには利潤を追求し蓄積せざるを得ない資本主義社会体制下の一企業に対して、景気変動への自衛措置を差し置いて社会政策的施策の一部を「肩代わり」させることは、本来的に困難なのです。
その点、「チュチェ哲学を実践している共和国でもし同じことがあった場合、どうなるだろうか。ズバリ、無償ですべてを国と人民が賄うだろう」というチュチェ哲学の実践的見解は重要な方向性を示しています。国家の役割と企業の役割をしっかりと分担する(社民主義における役割分担の徹底)か、あるいは、企業の行動原理を根本的に変えるべく社会の組み立てられ方を根本から見直す(人民政権下での労働者による主体的な社会主義的生産管理への移行)べきでしょう。
■「中途半端な道徳主義」批判
なお、日本には「三方よし」という言葉がありますが、「よし」というのは多くの場合、「程度の問題」に関する言葉です。「三方よし」と「企業の社会的責任」の親和性は、私が改めて指摘するまでもないことですが、「三方よし」の観点からこの問題について考えるとすれば、「手元流動性のため込みすぎ」という論点、「程度の問題」が浮上してくることでしょう。「経営の自衛のために一定の手元流動性が必要だとは言っても、これは多すぎではないのか。やはり企業はその一部を切り崩して社会に還元し、責任を果たすべきではないのか。企業も社会政策の一翼を担うべきではないのか。」という論点です。
しかし、この場合も依然として「国家の役割と企業の役割をしっかりと分担するか、あるいは、企業の行動原理を根本的に変えるべく社会の組み立てられ方を根本から見直す」という大きな方向性に揺るぎはないでしょう。現代の民間営利企業は規模も大きく、その潜在的能力は大であるといっても、自社の経営が不安定な状態・自分のことで精いっぱいな状況下で「三方よし」を求めるのは、やはり酷だからです。余裕が出てきて初めて商業倫理に意識が向かい得るのです。とりわけ現代では、輝かしい実績とネームバリュー、莫大な資産と内部留保を持つ世界的大企業、まず安泰だと思われてきた大企業であっても、時代の変化についていけずに資産を急速に食いつぶし、ついに身売りするケースが続出しています。市場環境は不安定性を増しています。
一企業ができることを過小評価するつもりはなく、「企業の社会的責任」を軽視するつもりはありません。その潜在的能力が大きい現代民間営利企が社会のために為し得ることは多いでしょう。また、狂信的・教条的左翼が言う「企業家・資本家にとって公益など眼中になく、奴らは金の亡者・悪意の塊」などというのは、事実に反する中傷です。さらに述べれば、「企業の社会的責任」の定着によって徐々に経済社会全体に公益志向の風潮が強まってゆくことは、「企業の行動原理を根本的に変えるべく社会の組み立てられ方を根本から見直す」にあたっての第一歩であると考えています。
しかし同時に、「資本主義的な社会の組み立て方」においては、あくまでも市場における「一プレイヤー」に過ぎない個別企業については、「企業の社会的責任」は重要な概念ではあるが限界があることも認めざるを得ません。この事実を無視して「企業の社会的責任」を経済社会の諸問題解決の主要な、中心的なソリューションに据えようとすることは、中途半端な道徳主義に転落するものです。
「ため込みすぎ」を指摘するのであれば、このことを大前提としつつも、「経営的には月商の1.7ヵ月分程度あれば十分なのに、こんなにも積み立てる必要はあるのか?」といった具合に、具体的数値を根拠にすべきでしょう。決して、自分のことで精いっぱいな状況下に置かれた人に「社会的責任」を強要してはなりません。また、抽象的なお題目で言いがかりをつけるのではなく、具体的数値を根拠にすべきであります。
■「中途半端な物理主義(唯物論)」批判
「資本主義経済における企業は、そうせざるを得ない」とはいっても、それを万能の免罪符とすることは当然、許されません。前掲≪새세대≫記事でも、「値上げをした人を悪いとは一概には言えない」と書いてあるものの、「悪くない」とは書いていません。いくら主体としての人間が物質世界の環境・客観的な法則からの影響を受けるからと言って、何から何まで許されるわけではありません。人間はまったく無力というわけではないからです。
中途半端な物理主義(唯物論)者は、環境からの作用を過大評価するあまり主体側の対応を過小評価しがちです。何らかの目標の達成に失敗したとき、その失敗の原因を外部環境に求めて言い逃れするわけです。「自然環境・社会情勢が悪いから仕方ない」(←それを打破するのが革命でしょう)「敵の妨害が原因」(←そりゃ敵は妨害するでしょうよ)・・・突き詰めれば、「あれが邪魔した」「こいつのせい」といった具合です。
チュチェ哲学は、社会と人間自身の発展に伴って人間の自主的要求・創造的能力・目的意識が高まり、人間側の自然・社会改造の作用範囲が大きくなってゆくと説きます。それゆえ、主体の主動的な作用と役割によって社会的運動が生成発展するようになるといいます。
現代人は「資本主義的な社会の組み立て方」に行動の幅を規定されているとはいえ、高度に発展した現代社会に生きているからこそ為し得ることの幅もまた広くなっているはずです。中途半端に道徳主義に走り、客観的条件を無視するのは正しくない意見ですが、中途半端に物理主義(唯物論)に走り、目の前の現実を無理矢理弁護することもまた正しくない意見です。
※なお、マルクス主義で重視される「生産力」は、チュチェ哲学においては本質的には「人間の自然改造能力」であると定義されています。生産力も人間自身に還元して理解するのがチュチェ哲学の見方です。
■「原理主義」批判(補足)
一企業も経済・社会システム全体から見れば、あくまでも「一プレイヤー」に過ぎないがゆえに、彼らが為し得ることには限界があると上述しましたが、これは国家についても当てはまります。国家は一企業よりも強力な政策的・権力的手段を持っている「巨人」であるとはいえ、依然として経済・社会システム全体から見れば、あくまでも「一プレイヤー」の域を脱してはいません。正しい経済・社会システム観を持ち、計画経済的誘惑に抗しなければなりません。
■結論
中途半端な社民主義、中途半端な道徳主義、中途半端な物理主義(唯物論)。いずれも害悪です。何事においても、主体と客体の相互作用の関係に着目し、「物理世界・人間社会がいかに組み立てられているか、べきか」を常に頭の片隅において適宜に立ち返り参照しつつ、「自然の運動とは異なり社会の運動には主体としての人間の主動的な作用と役割によって生成発展」するというチュチェ哲学の観点から評価・判断すべきであります。
ここで大切なのは、人間自身に還元して評価することです。社会的運動が生成発展に際して主動的な作用と役割を果たす主体としての人間、いま現実に生きている生身の人間に可能なのかということです。推進主体が実施できないことが実現されるはずがありません。
人間自身に還元して評価する――こうすれば、中途半端な主張や希望的観測に立脚することなく、バランスの取れた物の見方を得られることでしょう。
ちなみに、最初に引用した記事の話題に立ち返れば、手元流動性の積み上げについては、目安として挙げられている金額範囲内であれば自衛措置として是認できることでしょう。経営科学の具体的数値に基づく根拠があれば是認せざるを得ないところです(適切な物理主義)。しかし、それを超える謎の積み上げがあれば、それは非難されても仕方ないかもしれません。配当や給与に回すべきかもしれません(適切な道徳主義)。具体的根拠に基づく積み上げのせいで取引先・下請け企業が経営危機に陥ると言うのであれば、その救済は当該企業ではなく政府が政策的に救済すべきです(適切な社民主義)。しかし、政府だって万能ではないので、救えないことだってあるでしょう(反原理主義)。外注化についても同様です。