見えない貧困をそっと解決する「こども宅食」が革新的な理由■長く行政独占の下で硬直的・画一的だった日本の福祉サービス
8/26(日) 8:10配信
BUSINESS INSIDER JAPAN
2012年に厚生労働省が発表した6人に1人(16.3%)から改善したものの、いまだ7人の1人(13.9%)の子どもが経済的に苦しい貧困状態にある日本。
低価格もしくは無料でご飯が食べられる「こども食堂」が全国的な広がりを見せるなど、さまざまな取り組みが行われているが、2017年10月に始まった「こども宅食」が“複合的”な成果を出しつつある。
なぜこども宅食は上手くいっているのか。そこには、これからの社会問題解決に欠かせない新しい仕組みがあった。
(中略)
民間と自治体が対等だからこそ出たアイデア
LINEの活用や民間の配送、企業による食品の提供――。
こども宅食のもう一つの特徴が、同じ目標に向けて、民間と自治体が対等にパートナーシップを組み、事業を進めている点だ。
(中略)
こうした行政、企業、NPOらがパートナーシップを組み、社会問題の解決を目指す形は「コレクティブ・インパクト」とも呼ばれる。
2011年にアメリカで論文が発表されて以降、欧米で注目を集め、2017年頃からは日本にも“輸入”された、今注目を集める新しい協働の形だ。
こども宅食がコレクティブ・インパクトの形を目指したのは、「業務委託だと行政の代わりにやっているだけで、NPOの良さが生きない」(RCF代表の藤沢烈さん)からだ。
実際、行政からの委託ではなく、対等にアイデアを出し合うからこそ、行政だけでは思いつかなかったような取り組みが生まれている。
(中略)
コレクティブ・インパクトの可能性
文京区の成澤廣修区長も、今後は企業との連携など、もっと違う分野でも取り組むことができるのではないかと話す。
「今回はNPOが主な相手ですが、株式会社ともできる。企業もSDGs(持続可能な開発目標)などの社会的インパクトを重視するようになっており、そのパートナーは地方自治体である可能性が高いと思っています。こども宅食によって、その思いを強くしました」
ただし、課題もある。
それは事業の継続だ。現状はふるさと納税を活用し、2017年度は8000万円以上、2018年4月から新規に募集しているふるさと納税でもすでに、900万円以上集めることに成功している。
しかし、寄付だけでは持続的とは言えない。今後どう「マネタイズ」していくかが、問われることになる。
(文、写真・室橋祐貴)
最終更新:8/26(日) 13:02
BUSINESS INSIDER JAPAN
一昔前は、福祉政策・社会政策は行政の独壇場であったし、そうあるべきだと当然視されていました。NPOやNGOの活動が脚光を浴びるような時代になっても、依然として福祉サービスは実質的には行政が独占しており、NPO・NGOは、その「下請け」くらいの立ち位置でしかありませんでした。
「福祉は公の責任において行うものだ」という大義名分があるとはいえ、その内実を見れば、硬直化した発想によって生まれたサービスは画一的で柔軟性を欠いたものでした。保守から革新まで揃って公営主義。保守陣営は、できれば福祉サービスを削って行財政改革に取り組みたいと狙っていたのでサービスの改善に積極的だったとは言えず、他方、革新陣営は、(今もってそうですが)イデオロギー的理由から公営主義を墨守せんとしてきました。その結果、日本の福祉サービスは、「措置」として、長く行政独占の下で硬直的・画一的でありました。
そもそも、福祉というものは生活そのものですが、生活の本質は多様性であります。生活における多様性を守り・実現させるにあたっては、消費の多様性が必須であり、そうであればこそ供給されるサービス内容も多様であらねばなりません。一人の人間が思いつくアイディアの幅は限られているので、より多様なサービスを供給するにあたっては、より多くの人に参加を呼びかけ、巻き込まなければなりません。その点、いくら「福祉は公の責任において行うものだ」という大義名分があるとはいえ、福祉サービスを行政が独占することは、「生活のための福祉」という観点に立てば本末転倒なのです。
ちなみに、私はチュチェ102(2013)年12月22日づけ「市場競争の効用は「効率性」よりも「多様性」」を筆頭に繰り返してきたように、自由な市場経済の優位性は、「効率性」などではなく、多様な供給主体が切磋琢磨することによって、サービスが多様化し、かつ、質が上がり得るところにあると考えています。福祉は営利目的とはそぐわない点あるので、全面的に自由化すべきではないものの、多様性にこそ自由経済の優位性がある点、「供給主体の多様化」という点に注目して、より積極的に取り込むべきであると考えているところです。
「多様性」が盛んに取り沙汰されていますが、いつまで待っても「サービスの多様性、供給の多様性」へ波及せず、むしろ、それを圧殺するような公営主義・計画主義・設計主義的な言説さえ出てくる昨今は、実に不可思議です。「多様性」を云々している人たちは、本心から多様性を追求しているのでしょうかね? だったら、生活の多様性のためにこそ消費の多様性が必要であり、それは供給の多様性の必然的につながるので、自由交換しか道はないはずですが・・・
■ついに時代はここまで来た
そんななか、地方自治体の施策の中で実践されつつある「コレクティブ・インパクト」。「実際、行政からの委託ではなく、対等にアイデアを出し合うからこそ、行政だけでは思いつかなかったような取り組みが生まれている。」とのことで、供給主体の多様化による効果が出ているようです。理論の世界で捏ね繰り回されているだけではなく、理論の世界を先取って地方自治体の施策の中で実践されつつあるのが画期的です。
ちなみに、「民間と自治体が対等にパートナーシップを組み、事業を進めている」というのは、記事では「2011年にアメリカで論文が発表されて以降、欧米で注目を集め、2017年頃からは日本にも“輸入”された、今注目を集める新しい協働の形だ。」と書きますが、ノーマライゼーション運動発祥地である北欧諸国では、1970年代から徐々に形成されてきた福祉事業体系なので、この言葉自体は新しいので「誤報」ではないものの正確ではないと思います。また、「アメリカの学者の思い付き」などではなく、その歴史は古く実践例豊富です。
更に革新的なのが、文京区長の次の言葉。「今回はNPOが主な相手ですが、株式会社ともできる。企業もSDGs(持続可能な開発目標)などの社会的インパクトを重視するようになっており、そのパートナーは地方自治体である可能性が高いと思っています。」。一昔前であれば、肯定的文脈で報じられることは珍しいプランです。理論の世界では依然として否定的な意見が根強いプラン。「多様性を本質とする生活のためにこそ、福祉政策・社会政策と自由市場の融合が必要だ」と長く思案してきた身からすると、「ついに時代はここまで来た。」と思うところです。「時代が私に追いついた。」などと前衛気取りで誇るつもりはなく、ただ、「問題解決の糸口が見えてきた(と少なくとも私は思う)。よかった。」という思いです。
■公営主義者たちにどう対応すべきか
ここで障害となり得るのが、昔ながらの公営主義者たちです。「福祉政策はあくまでも行政が実施主体であるべきで、NPO・NGOは、行政の指導下で『下請け』としてだったら居てもいい。福祉は営利には馴染まないので、営利企業はもっての外」と言う手合いです。
「福祉は営利には馴染まないので、営利企業はもっての外」というのは、理解可能な言い分ではあります。営利企業は支払い能力のある人だけを対象とするが、福祉を必要としている人は往々にして支払い能力に乏しい人なので、そもそも福祉産業は市場として成立しにくいこと。福祉を必要としている人には契約を締結できる法的能力を欠いている(制限行為能力者)ケースがあること。クリームスキミングが発生して収益性の低い分野に取り組む事業者が壊滅することなど。課題があることは認めざるを得ません。もちろん、「企業の社会的責任」が注目される昨今、福祉サービスを民間営利企業に丸投げするのは論外とはいえ、いわゆる「準市場」的な制度設計の下に一部参加させることくらいは認めてもよいことでしょう。しかし、NPO・NGOでさえ事業の中核には触れさせず、あくまでも「下請け」に留めさせるのは、たいへん理解に苦しむことです。Non Profit OrganizationやNon Governmental Organizationなのだから、語句の意味として営利目的ではありません。
いくつか理由はあると思われます。第一に、「福祉は公の責任において行うものだ」という大義名分に囚われているケース。NPO・NGOを実施主体の核心に引き入れることはすなわち、行政部門の地位が相対的に低下することを意味します。大義名分に囚われている人は、これが許せないのでしょう。
しかし、先に「ノーマライゼーション運動発祥地である北欧諸国では、この発想はすでに実践されている」旨を述べましたが、北欧諸国では公民協働しつつも、最終的な実施責任は公共部門・行政部門が取るということになっているので、NPO・NGOを引き入れたとしても「公的責任の放棄」には当たらないでしょう。
第二に、主に金銭的な理由でNPO・NGOは、事業継続が確実ではないという論拠によるものです。これは記事中でも触れられている重要課題です。当面は、「最終的な実施責任としての公共部門・行政部門」からの財政的バックアップが必要でしょう。しかし、あくまでも過渡期的であるべきです。
ノーマライゼーション先進国であるスウェーデンでは障害者の就労参加が国家的命題となっていますが、かの国にはSamhall(サムハル)という国営の障害者就労企業があります(当ブログでも何度も取り上げているとおりです)が、この企業は厳しい数値目標を掲げるからこそ、補助金の類は当然受け取っているものの、「国営企業」にあちがちな放漫経営とは一線を画した自立的経営を達成してきました。Samhallの例を参考として、我々式のモデルを構築すべきです。
あるいは、この課題への取り組みを機に、協同金融・社会的金融の質的転換・成長を一層進めることも一策でしょう。社会的起業が話題になっていますが、製造やサービスといったモノの流れには、カネの流れが伴い、それゆえ金融部門が対応的に存在しているという経済の実際の姿を踏まえれば、協同金融・社会的金融の重要性は言うまでもないことです。
ちなみに、公益志向の製造・サービス業の自立と協同金融・社会的金融の発展は、人民政権下での労働者による自主的生産管理を目指す主体的社会主義者として、歴史の進歩であると考えるところです。
第三には、「民間営利企業は勿論のこと、NPO・NGOも本心では信用していない」というケースです。「科学の党が国家を指導し、国家が民を指導する」という特殊な世界観を信奉する人たち、いわゆる「前衛」においては、民にあたるNPO・NGOは信用に値しないものでしょう。まして、企業家・資本家などは、「公益など眼中にない金の亡者・悪意の塊」といったところでしょう。
前衛意識の本質は「少数エリート主義」であり、他人を馬鹿にする意識があってこそのものです。企業家・資本家を「公益など眼中にない金の亡者・悪意の塊」などというのは、誹謗中傷の極致ですが、まことしやかに口にされています。傍から見れば滑稽なものです。
このケースへの反論は比較的容易です。科学的見地に立ち、事実から出発すればよいのです。公営主義で人々の多様な生活上の欲求を充足できているならまだしも、予算不足の問題を除外しても画一的で使い勝手が悪いのが事実。スウェーデンに至っては、行政中心の日本で言うところの「措置制度」に受給者自身が反発し、サービス供給主体の多様化が進められたわけです。
焼け野原から出発した戦後日本のように、ありとあらゆるものが不足している「質より量」の段階においては、画一的であったとしても無いよりはマシなのだから、多様性の問題は受給者にあっても意識されないものです。しかし、ある程度、量的に充足してくると次は質的部分に関心が至るものです。多様性に意識が向かうものです。少数のエリートは、いくらエリートであるとはいえ、常人よりは豊かかも知れないが発想に限界があるものです。「質より量」の時代においては、少数のエリートでも何とかなるかも知れませんが、質の時代・多様性の時代は、エリートの限界なのです。少数エリート主義は量的拡大の時代の発想であり、質的多様化の時代には合わないのです。
世界的視野で見ても、「少数エリート主義」は目標を達成できていないのですから、「事実から出発すればこそ行政独占の公営主義の時代は終わった」と言い得るでしょう。そして今、いわゆる「準市場」といった形態が模索されているところです。
大義名分に囚われている人については、「最終的な実施責任は公共部門・行政部門が取るのだから、『公的責任の放棄』にはならないよ」と。事業継続に懸念をもつ人には、「当面は財政支援、ゆくゆくは新しくモデルを作って行こうよ」と。いわゆる前衛連中については、「事実から出発すればこそ行政独占の公営主義の時代は終わったのだから、あなたの考え方は時代遅れだよ」と。「コレクティブ・インパクト」を含む協働・協同の推進にあたっての目下の課題・異論を乗り越えてゆくべきであります。協働・協同の方向性は進歩であり、正しいと考えます。