2018年12月15日

「嫌だから辞める」「無理だから辞める」路線の浸透;重要な進歩

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181211-00253369-toyo-bus_all
「死ぬほど働く人」が辞められない深刻事情
12/11(火) 16:00配信
東洋経済オンライン

 パワハラをはじめとしたブラックな経営者により、自死に至るような、つらいケースを報道で多く見るようになってきました。


(中略)

 もちろんいちばん悪いのは、ブラックな経営者、ハラスメントを行う人で、悪質なものは法的な処分を下すべきです。しかし、法的処分までに自分の心身が壊れては意味がありません。まず自分の安全を第一に考えてほしいです。

 ニュースなどであまりにひどいパワハラの実態などが流れますと、多くの人は「なぜその会社を辞めなかったのか」と不思議に思うでしょう。

■「自分では辞められない」状態になる前に
私の体験や過労やうつ状態から抜け出して幸せになった人を取材した拙著『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)』に描いたとおり、理由は人それぞれにあるでしょうが、「判断力・思考力を奪われている」というのも大きいのではないでしょうか。

 長時間労働による過労や、ハラスメントによる心的ダメージは、人間から「まともに考えて対処する力と余裕」を奪うのです。洗脳といってもよいかもしれません。

 すっぽりと、真っ暗なトンネルに入ったような状態になってしまうと「進む」という選択肢以外見えなくなってしまいます。

 そうなったあとで、自ら「退職」という大きな決断をするのは難しいことです。まず、そのような選択肢が「見えない」状態になっていますし、もし「見えた」としても、「手の届かないはるか遠く」であり、そこにたどり着くだけの力が残っていません。

 結果的に「力尽きるまで前に進む」しかなくなってしまいます。

 そうなった後での対処はとても難しいことから、「そういう状態になりそうだと感じたら、まずは休んで判断力を取り戻す」というのが、重要です。「限界まで頑張った」後では遅く、「まだ大丈夫」のうちに「意識的に休む」ということですね。

(中略)

■「おかしい」ことに「おかしい」と気がつく
 「判断力を失う前に判断」するには、どういったことに気をつけたらいいのでしょうか。

 「ブラック会社に入社しない」のがいちばんいいのですが、ブラックかどうか入社前に判断するのは難しいことです。

(中略)

 入社後、重要なのは、「おかしい」と思えることなのですが、たいていの人はそれほど多くの会社を経験していないので、なかなか気づけないこともあります。

(中略)

 もし、ひどくしてしまうと、どのみち会社を辞めなければならないのはもちろん、次に新しく働きだすことも難しくなってしまいます。

 だったら、元気なうちに退職・転職した方がよいに決まっています。我慢しても何もいいことはないのです。

 大切なのは、少しでも「おかしい」、あるいは、そこまでいかなくても「えっ、そういうものなの?」と感じたら、調べることです。

(中略)

 「辞めてもいいよ」と言われたところで、「辞めた後どうなるの……?」という不安が払拭されなければ、決心がつかないことがあるでしょう。

 そうこうするうちに、疲れ果てて判断力を失い……という人が多いのではないでしょうか。これがいちばん難しい問題だと思います。

 そういう場合、普段から「辞めてもなんとかなる」という気持ちになれる情報を持つのが大切だと思います。

 まずは、心にまだ余裕があるうちに、「転職準備」を開始するのも1つの方法です。ネットを通じて転職先の情報を探すだけでも良いでしょう。

 必ずしも良い転職先が見つからなかったとしても、情報を持つことで、「選択肢はたくさんある」ことを知ることができます。

 もちろん、良い転職先があれば、具体的な転職活動に進むのもいいと思います。これも、元気なうちでないと難しいことなので、早いうちから始めておくのがよいでしょう。

■日本は失業してすぐに「のたれ死ぬ」国ではない
 あと、「転職がうまくいかなかったときに、生活はどうなるのか」も重要な問題です。ここがネックになり、退職を考えられない人も多いかと思います。

 家族や親戚などに、フォローしてもらえるならそれがいちばんですが、それが難しい場合は、各種社会制度で利用できそうなものを調べるのもよいと思います。
 
 失業保険をはじめ、さまざまな社会制度があります。たとえば奨学金にしても返済を一時止められる制度もありますし、家賃を補助してくれるような制度もあります。

 こういったことも「知っている」だけで、安心度が変わってくると思います。

 日本は今のところ「失業したとたん、のたれ死ぬ」ような国ではないので、「心身の危険が迫っている」場合には、迷わず、「心身の安全」を選びましょう。

 心身を壊してしまうほうが、よほど人生のリスクが高まります。

(中略)

■どうしようもないときにどうすればよいか
 もうそうなったら、個人的にはある程度は強引に休ませるのも仕方がないと思います。

 おそらく、もう自分の意志では休めない状態になっています。

 また、周囲に助けを求めることも必要です。

 家族・親戚・友人に広く相談するのもいいでしょう。

 親や配偶者が言って聞き入れられないことでも、他の立場の人から言ってもらえたら届くこともあるかもしません。

 過労死110番のような相談機関や、過労死防止センターのような組織もあります。

 そういったところに、どんどん相談することも必要だと思います。

汐街 コナ :イラストレーター
■生身の人間の利益を第一に考えればこそ「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことを優先すべき
重要な指摘の連続で、引用が長くなりました。『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』を執筆された汐街コナ氏が、休むこと・辞めることを前面に押し出していらっしゃることは大きな意味があります

世の中には、「『死ぬくらいなら会社辞めれば』などと簡単に言うな! 退職なんてそう簡単にできるものではない! 労働組合に入って闘おう!」などとアジる手合いがいます。こうした主張について私は以前から、「ブラック企業の経営者・資本家のように、他人を踏み台にすることしか考えていない骨の髄までの利己主義者に理を説いても、心を入れ替えるはずがない」という前提の下、「仮に労基署が動いたり、職場環境改善が動き始めたとしても、実際に改善されるには尚も時間が掛かるが、ギリギリの状態で働いている生身の人間は、一分一秒を争っている」とした上で、「辞めるということは、勤め先の支配から脱することであり、心身の無理をせず退職するのは、取り急ぎ安全地帯に脱出するという意味で最善の方法」と述べてきました。いのち・健康が最優先。まずは安全なところに脱出する必要があります。

そして、「取り急ぎ安全地帯に脱出する」という意味での「辞める」を実行するにあたっては、追い詰められた状態にある当の労働者は往々にして判断能力が低下している(たとえば、過労でうつ状態になっている労働者に自発的な「逃げ」を期待するのは非現実的です)ので、労働組合・ユニオンを含む周囲の人々が、転職支援を含む「脱出支援」することが極めて重要であると述べてきました(チュチェ104(2015)年10月15日づけ「周囲の助けを借りつつ「嫌だから辞める」「無理だから辞める」べき」やチュチェ105年10月15日づけ「だからブルジョア博愛主義者は甘い――「労働時間の上限規制」と「インターバル規制」再論」、同年12月16日づけ「自主的かつスマートなブラック企業訴訟の実績――辞めた上で法的責任を問う方法論」などで主張展開)。

私は以前から「自主権の問題としての労働問題」というテーマを掲げてきました。生身の人間・一分一秒を生きる生活者の利益を第一に考えればこそ、「正義の実現のために闘い、相手に非を認めさせる」ことよりも「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことを優先すべきです。チュチェ105年12月31日づけ「チュチェ105(2016)年を振り返る(3)――自主権の問題としての労働問題と1年」でも述べたとおり、正義の実現は、安全地帯に脱出し自主的な立場を確保してから取り掛かっても決して遅くはありません。

■「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことは、社会変革の一歩にも繋がる
「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことは、個人的で一時的な効果には留まりません。チュチェ105年6月19日づけ「マクドナルドの「殿様商売」「ブラック労務」に改善を強いたのは労働組合ではなく市場メカニズムのチカラ」や同年12月25日づけ「労働者の関心事に答えず、ブラック企業の利益を無意識に実現させる労組活動家」を中心に指摘してきたように、評判が決定的な作用をもたらす現代市場経済において商売人が最も恐れるのは自社にたいする悪評なので、退職者が続出しているという事実は、企業側には効果的です。あのワタミやすき家でさえ、「ブラック企業」という悪評が立ってしまい人材が集まらなくなったので、労働環境の改善に取り組むようになりました。初めのうちは「どーぞ、明日から来なくて結構!」とタカを括っていたのでしょうが、悪評が社会全体に広がって行った結果、あるときから「やばっ」と危機感を持つに至り、ついに労働環境の改善に取り組んだのでした。

個別労働者のミクロ的な行動が、あたかもベクトルの合成のように積み重なり、マクロレベルでの社会的うねりになったのです。「取り急ぎ安全地帯に脱出する」ことは、生身の人間・一分一秒を生きる生活者の利益の実現であると同時に、社会変革の一歩なのです。

■「嫌だから辞める」「無理だから辞める」路線の浸透――重要な進歩を示す事象
チュチェ105年12月31日づけ「チュチェ105(2016)年を振り返る(3)――自主権の問題としての労働問題と1年」で私は、次のように述べました。
いのちを守るためには、まずはなによりも逃げるしかありません。そのためには、退路の確保こそが大切です。ブラック企業の改心に期待したブルジョア博愛主義者たちの途方のない「甘さ」ゆえに、「退路の確保」という方法論はあまり追究されていませんが、深刻なブラック労働が社会的注目を浴びた今年こそ、「退路の確保」について広範に論じられるべきでした。甘っちょろいブルジョア博愛主義者たちの害悪は筆舌に尽くしがたいと思います。
あれから2年。この話題で著名な人物によって取り急ぎ安全地帯に脱出すること、つまり、「退路の確保」という方法論がピックアップされました。「自主権の問題としての労働問題」に重要な進歩が見られました。素晴らしいことだと思います。

■労働基準監督官による職場臨検等の補助的だが不可欠な役割について(補論)
なお、労働基準監督官による職場臨検等の行政的措置や法的規制や労働組合による要求運動については、あくまでも補助的役割ではあるものの不可欠なものだと私は考えています。

チュチェ105年5月5日づけ「自主の立場から見た「勤務間インターバル制度」――内容は労使交渉で、形式は絶対的記載事項として!」でも述べたとおり、自主権の問題としての労働問題の解決にあたっては、真に当事者(労働者個人個人)の都合に寄り添ったきめ細かい対応をするためには、当事者自身が主導権を握って個別のケースに合わせたミクロ的対応が必要です。当事者の生活フィールドを主戦場としなければなりません。その点、ある種の「社会的基準」にもとづく法的規制は、あくまで最低限の担保にしかなりません。その「社会的基準」によっては保護され得ない個別事情を持った個人は依って立つ所がないのです。そうした労働者が守られるためには、結局は労使交渉にならざるを得ません。マクロ的対応には本質的に限界があります。

法的規制の手法は、労使対等の交渉が行われ、その合意事項が遵守されることを保障することに注力すべきでしょう。労働法制が前面に出て中心的な立場で指導するのではなく、労使交渉に臨む当事者へのアドバイスとサポートの立場に徹するべきです。

また先に、「評判が決定的な作用をもたらす現代市場経済において商売人が最も恐れるのは自社にたいする悪評なので、退職者が続出しているという事実は、企業側には効果的です。あのワタミやすき家でさえ、ブラック企業という悪評が立ってしまい人材が集まらなくなったので、企業側が労働環境の改善に取り組むようになりました。」と述べましたが、「ブラック企業」という悪評を広める上で、労働基準監督官による職場臨検は重要であると言えます。

現代評判経済一般について論じたチュチェ105年1月15日づけ「「生産過程における厳格な規制」と「流通過程における最小限の規制」――自由交換経済の真の優越性を踏まえた規制」で私は、「消費者の眼に晒されにくい生産過程を行政が審査し、消費者行動に資する情報を提供すべき」と述べました。市場淘汰の力は絶大であるものの、日々の生産過程・職場環境は、たいていはブラックボックス化されています。健全な市場経済体制の維持のためには、生産過程・職場環境に関する行政の審査と規制を行い、その結果の積極的な情報公開;消費者行動に資する情報提供が必要であると言えます。悪質な売り手の市場淘汰を補助するわけです。

労働市場における労働供給者としての労働者は「消費者」ではありませんが、この考え方はまったく変わることなく通用します。労働基準監督官が職場臨検を行い、最低限の条件さえも守られていない状況を公表して当該企業の評判を落とすことは労働市場における市場原理の正常な動作;市場淘汰を補助していると言えます。また、労使交渉の妥結結果が履行されていないことについて指導することは、労働者を助けることに繋がります。いずれも極めて重要な補助的役割を果たします。

■労働組合の補助的だが不可欠な役割について(補論)
さて、労使交渉の主体は勿論、労働組合です。労働組合の役割を決して否定するものではありません。しかし、要求実現型の組合活動には重大な落とし穴があることは、いくら強調してもし過ぎることはないと考えます。

チュチェ104年10月8日づけ「「日本の労働組合活動の復権は始まっている」のか?――労組活動は労働者階級の立場を逆に弱め得る」を筆頭に繰り返しているように、要求実現型組合運動は、要求を実現すればするほど企業側との結びつきを強め、体制内化し、結果として自主の実現には逆効果(御用組合化)する避けがたいリスクが存在することを忘れてはなりません。企業側は、それこそ「投資」する意気込みで一時的に労働者側の要求を呑み、労働者たちが獲得した利益を自己の生活の不可欠な一部とし、労働者たちが企業への経済的依存を高めて辞めるに辞められなくなった段階、ミクロ経済学的には「需要者に対して供給者の価格弾力性が硬直的」な段階において、「回収」を試みることでしょう。不利な条件を押し付けられても対抗するすべがありません。労働者本人の年齢やスキルによっては、企業は「労働需要独占者」になるかもしれません。

労働者が真の意味で自主的になるためには、交渉力を持つためには、企業側に足許を見られないために特定の勤め先に対する依存度を下げることが必要です。先に述べた「価格弾力性」を柔軟にするためは「代わり」(代替財)の確保が必要です。また、労働需要独占の打破には、労働力の販路多様化=代わりが必要です。つまり、労働者が交渉力を持つためには、「なら辞めるよ?」という脅しが必要です。「なら辞めるよ?」と言える立場は、「代わり」を確保している立場です。「なら辞めるよ?」と言えない立場で、団体交渉等によって企業側から「譲歩」を勝ち取りその利権を自らの生活に組み込むことは、特定の勤め先に対する依存度を上げることに繋がります。自分から供給の価格弾力性を硬直化させたり、労働市場を独占化させていては仕方ありません。

労使交渉の要求内容としてありがちな「増員要求」の落とし穴についても言及しておきたいと思います。チュチェ106年2月14日づけ「増員は一人当たりの労働負荷を逆に増やす――「働き方改革」の逆効果」や同年8月15日づけ「「人に仕事をつける」日本の働き方は「ブルックスの法則」が作用し易い」でも言及したとおり、生産方法や生産技術、仕事の割り振り方・進め方によっては、増員のような一般的には負担軽減・待遇改善になると考えられがちなプランが逆効果になるケースもあります。

労使交渉を実践するにあたっては、こうした落とし穴に対する十分な警戒が必要です。

以前から私は、早急に産別労組を組織し、労働者の階級的連帯に基づく再就職支援・転職支援が必要だと述べてきましたが、特定の勤め先に対する依存度下げた状態で労使交渉を力強く行うためには、労働組合は新しいフロンティアを開拓しなければならないと言えるでしょう。究極的には、チュチェの社会主義者として、ここを突破口として労働者自主管理企業や協同経営組合の一層の発展を目指したいところです。
posted by 管理者 at 20:47| Comment(0) | 時事 | 更新情報をチェックする
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